
現代で、浄土真宗そして、親鸞聖人のみ教えに一番親しむ機会が多いのは、
『歎異抄』という書物によってではないでしょうか。
その『歎異抄』の著者といえば、唯円であると言うことが、すでに定説となって
いる。
ただ、過去には違う作者であると、言われたこともあるのです。
そのくらい、唯円の研究は進んでいません。
まあ、明治時代には、親鸞聖人ご自身が、実在ではなかったと言う説が、
真剣に論議されたことさえあるのですから、それも致し方ないかも。
ですから、その唯円という人物の素性も、定かではありません。
関東の人、という意見が主流ですが、都人と言う説も根強くあるのです。
宗門においては、そのことには言及することは、あまりありません。
『歎異抄』の書物の研究はなされますが、唯円その人について、子細は語ら
れることはない様に思います。
教えには関係ないからと、言えばそれまでですが・・・。
親鸞聖人と恵信尼の子に、覚信尼という方がいらっしゃいます。
その覚信尼の夫である、小野宮禅念とに、唯善という子がいました。
その唯善の腹違いの兄が、唯円であると言う説もあります。
これは、江戸時代に書かれた『大谷遺蹟録』という書物に記載されている
ものです。
唯善の兄弟子とも言われますが、どちらにしても唯という名から、関係の深い
方であったでしょう。
でもこのラインは、後の本願寺の相続では出てきません。
唯と言う字も、あまり使われていない様にさえ思います。
覚信尼公には、最初の夫のお子さんがいらっしゃいましたし。
ただ、本願寺三代目の覚如上人は、この親鸞聖人面授の弟子である、唯円
に教えを受けたと言うことは、記録に残っていることです。
こうなれば、唯円は関東での門弟ではなく、親鸞聖人が京に戻られてからの
弟子と言うことになります。
『大谷遺蹟録』では、唯円十九歳のとき、六十八歳になられていた、親鸞聖人
の弟子になられたとされています。
そして、後に親鸞聖人の命を受けて、常陸の国の河和田に行くことになる。
それは、関東の門弟たちの動揺をおさめるため、高齢の親鸞聖人に代わって
関東に行かれたとされているのです。
そうなると、第二条は、唯円が関東の門弟の一人ではなく、親鸞聖人の面授
の弟子として、近くにおられたことになります。
皆さんは、第二条を読まれて、はたして唯円房は、関東の門弟側に立っておら
れたか、それとも親鸞聖人の近くにおられたか、どちらに感じられるでしょう。
そして、私が約8年前に訪れた、奈良吉野、下市の立興寺の唯円房のお墓は、
本当は、一体誰のお墓なのでしょうか。
教義ではありませんが、そんなことを考えながら『歎異抄』を読んでみれば、
また違った味わいもあるのでは・・・。
どちらであっても『歎異抄』の書物としての価値が変わるものではあり
ませんし、その説かれた教えが、変わるものでもありません。
ただ、歴史の中で、その名前だけが有名な、真宗の学僧である唯円の人と
なりに、少しだけでも思いを馳せてみたいなと思うのです。
宗門では、その著作と名前だけが有名な、唯円と言う人に会ってみたいのです。
そんな、どうでもいい様なことを、つらつらと感じたり。
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