
前回に、ある本のことを書きました。
そのことで、僧侶として感じたことを少し書いてみようかな。
ある方から、やはり「信」がないからでしょうか、とのコメントをいただいた。
実際に、そうだと思う。
その典型が、『教行信証』や『歎異抄』に関わる論評だと思う。
この書物を、教えとして受け止め、その思いを自らが聞いて行く作業をすれば、
受けとめ方が全く違うのです。
自分の教えとして、自分のこととして受け止めて行く。
ところが、学者は表面的な部分とか、世間一般的な背景や歴史から考え
ようとする。
それなら、その書物の意味していることは、まったく見えてこないのです。
学者脳や評論家脳の限界はそこにある。
特に宗教に関わるものはそうであろう。
吉本隆明氏がいた。
その思考性は別として、親鸞聖人の教えを自分で受け止めておられたと
思います。
血であり肉でもあったわけです。
それがないのは、代表的に梅原猛氏、島田裕巳氏、ひろさちや氏であろう。
マスコミによく登場するというレベルで考えたときですが。
何も、その心に迫るもののない論評。
結局、他人事でしかないのでしょうね。
こんな方々が、マスコミを賑わし、本を出版する。
一般の方々は、そうかなとも感じるでしょう。
宗教は、他人事であったならば、その教えはまったく見えてこない。
つまり、本質を抜いた論評に終始することになる。
本質を見ていないものは、ハッキリ言って価値がないのです。
少し勉強された方なら、それが本質的なものかどうか、すぐに分かる。
教団だって、そんなことにいちいちコメントしておれないと言う、事情もある。
その前に考えないといけないのは、僧侶の話しに情報発信力がないことも
あるのでしょうか。
今、仏教界の側の方で、情報発信力のある方がいないと、出版社の方が
言われていたことを思い出す。
責任は、僧侶側にもある。
それは自分自身の問題でもあった。
今回は、そんなことを痛感しています。
2012年06月

島田裕巳氏の「ほんとうの親鸞」という本を買ってみた。
浄土真宗の宗門とは関係ない方で、宗教学者という肩書がおありです。
大学の教授も歴任されていた。
オウム擁護派として、一時期は不遇なときも過ごされていたことも。
本もたくさん出版されておられる。
その様なことから、私は興味を持って買ってみたのです。
また違った目線から、親鸞聖人や浄土真宗を語っているのかなと。
そんな部外の方の、論評を聞いてみたいとの思いでした。
なにが、ほんとうの親鸞なのか。
読んだ結果は、あまりに内容のない本でした。
目新しさが何もない、いかにも今の浄土真宗や本願寺の考え方がまかり
通っている様な書き方、あまりにお粗末です。
ハッキリ申し上げて、この本の中に書いてあることは、浄土真宗の僧侶で
勉強している者なら、誰でも知っているレベルの内容です。
そんなことは何段階も前の前提で、逆に話題にさえならない内容でした。
島田裕巳さんの本だけに、期待をしていた分、その落差にガックリです。
もう少し鋭く切り込んで切れるものとばかり・・・。
浄土真宗のこと、学ばれた方なら、そんなこと先刻承知である。
明治時代の宗教学者じゃあるまいし、何の情報も知らない部外者がその
責任の無さの中で人物を語る、そんな典型的な本でした。
まるで矢追氏がUFOを語っているレベルです。
本当に、何も感じる部分がなく、それも自分で調べた内容は全くなく、他から
の情報を適当にまとめただけ。
なぜこの様な本を出す気になられたのか、不思議でなりませんでした。
私も、現在の浄土真宗のあり方が良いと思っているわけではありませんが、
その私ですら、これは何だと。
そう言えば、以前に島田氏の書かれた本を思い出しました。
「葬式は要らない」「戒名は自分で決める」などです。
結構、現代社会の問題に切り込んだネーミングです。
これらの本を読んだときは、ちょっとおかしい内容だけど、こんな意見も知っ
ておいた方がいいなといった感じでした。
「戒名は自分で決める」に至っては、現在、立川談志師匠がお墓でお揉めて
る戒名の内容レベルの物でした。
ただ話しの論点が、すべて仏教の本質的な部分から外れたポイントなのです。
要は素人評論家レベルでしかない。
仏教をちゃんと学ばれた方なら、こんなポイントの話しはしないということばか
りでしすね。
日本の宗教学者を名乗る人のレベルは、この程度なのか。
さすがに今回は、私でさえ、ちょっと寂しくなりました。
確かに宗教評論家や宗教学者がこれなら、僧侶も心配いりませんね。
もちろん、私も人のこと言えるレベルにはありませんが、その私が読んでも
そう思える内容でした。
『教行信証』のことも、いろいろ書いておられましたが、まったくの見当違い。
「歎異抄」に関する意見も、そうとう貧弱なものでした。
せめてもう少し、宗教学者仲間の方に聞いてみたら良かったのに。
それとも本当にそういう仲間がいらっしゃらないのかなあ・・・。
素人が考えるレベルの問いしか発していません、歴史的検証もそう。
ただ単にマスコミに媚びてるだけの人なのかな。
この本を出そうと考えた、講談社はどうしたのだろうか、それも残念。
今の時代、TVやマスコミの力が落ちていると言う。
そのあらわれなのかな、以前に感じた、宗教評論家のひろさちや氏と同じ
だな。
本質を分からないで、TVでさも当たり前の様に話しておられた。
「知ってるつもり」の親鸞聖人の回のときの、コメンテーターでもあった。
ひろさちや氏の親鸞聖人の教えは、本当にいい加減でした。
なので番組自体も特番でしたが、まったく内容がなかったな。
もちろん、そのときのTV局側にも、正しいかどうかを判断する人はいなか
ったのでしょうが。
でもその、ひろさちや氏を浄土真宗の僧侶が講演会に呼んだりしてたので、
まあ、浄土真宗の僧侶も、どっちもどっち。
とお嘆きの諸兄も多かったでしょう。
僧侶がその間違いに気づかず、講演を有り難く聞いているわけですからね。
人が何を書こうが勝手でしょうが、今回は、私は島田氏の本を、4冊本を購入
しているので、お許しいただきたい。
しっかりと術中にはまって、売り上げには貢献しています。
もちろんBOOKOFFではなく、定価販売のな町の本屋さんで買っています
ので。
その証拠に写真を撮っておきましたよ。
次回作は、場当たり的ではなく、問題の本質に切り込んだ本を期待しており
ます。
- カテゴリ:
- 浄土真宗ってどんな感じ。

今日、ご門徒さん宅で仏壇を修理に出された。
たまたま、法事にお参りしていたら、ご両親がお仏壇を修理したいと言って
いたという話題になった。
そのご両親の年忌法要が、この秋にある。
それまでに修理できるなら、という話しだった。
でも、できるならお盆には間に合わせたい、という希望も。
私が、仏壇のクリーニングや修理をしている方を知っていたので、紹介しま
した。
従来より安くできるそうですし、品質も良いと聞いていました。
今回のお仏壇は、戦前からあるもので、相当古く大きさもかなり大きい。
扉も三方開きで、細工も丁寧ですね。
お仏壇は、新しい物が値打ちがあると言うよりも、先祖から受け継いだもの
を大切にされることが大事ですね。
やはり、古いものほど値打ちがあります。
そして、このお仏壇は、火事のときも焼けずに大切にされていたもの。

お仏壇修理の値段は、その修理方法や業者によって、かなり違います。
ご門徒さんも、信用できる所が良いと仰られ、お寺さんの紹介ならという感じ
でした。
もちろん、私は紹介しただけで、後のことは業者さんとご門徒さんにお任せ
しました。
手数料とかも、もちろんいただくことはありません。
その代り、紹介するので、できるだけお安くするとことと、お盆までの納期を
お願い致しました。
8月には、綺麗になって戻って来くでしょう。
楽しみですね。
お仏壇の修理は、本当は3ヶ月くらいかかるのが当たり前ですが、今回は
納期を相当短縮していただきました。
お盆にも、ご両親の年忌法要にも間に合いますし、ご門徒のご親族の皆さん
も、これで安心してご先祖様に報告できます。
- カテゴリ:
- 浄土真宗ってどんな感じ。
- 日々の暮らし

今日は、ちょっと絵手紙を書いてみた。
宿坊の夏休み、のんびり過ごす。
そういえば、最近手紙を書いたことなかったな。
なつかしい友だち、田舎のおばあちゃん、そしてご両親、などなど。
お寺でお参りして、絵手紙を書く。
そしてすぐにポストに投函。
絵手紙の絵と言葉が、お相手の心をなごます。
距離が一気に縮まる。
宿坊光澤寺では、絵手紙を書くこともできます。
夏休みは、宿坊に行こう。
仏様にお参りして、作法を習う。
そして、絵手紙を書いて大切な方へ送る。
写経をして、仏様のこころを知る。
そして瞑想で、こころを落ち着ける。
こんな大人の休日はどうでしょう。
宿坊光澤寺のHPはこちらから!
- カテゴリ:
- 宿坊光澤寺はじめました。
- 日々の暮らし

「愚者となって往生する。」ということがあります。
自分は愚者であると認識することは、現代社会では、さも落ちこぼれ的な
扱いとなってしまうかも知れない。
もしくは、自分だけはと思っている人にとっては、受け入れられることでは
ない。
たとえば、「私は知らないと言うことを知っている。」ということもある。
これじゃ意味が分からん、何で知らないのに知ってるのか。
でも、これが人間存在の根本なのではないか。
宇宙は何のために存在するのか。
私の存在とは一体何なのか。
私とは、一体なんなんだろうか。
考えればきりがない。
そう、現実社会に生きる私たちには、量りかねることばかりである。
最初の言葉は、法然上人の言葉と言われている。
後の言葉は、ソクラテスの有名な言葉です。
そしてソクラテスはこんな言葉も、「神のみぞ知る。」
いくら理論的に説明しようとしともできないことがある。
そこが、科学と宗教の違いではないだろうか。
もちろん、宗教にも教学や理論がある。
浄土真宗などは、文系より理系の方が理解しやすいのではないかとさえ
感じることがある。
ただ、それは理論として考えた場合のことである。
だからこそ神が存在する、そして神のみぞ知る。
人間では分からない部分。
たとえば浄土真宗では、阿弥陀如来が存在する。
そして、そこに仏の願いがある。
たんなる理論や論理ではない部分。
ただそこに至るまでの道筋は、理論的に説明できるような感じ。
学者タイプの方々はそうでしょう。
そこに、愚者とか無知の知という言葉が投げかけられる。
私たちが受けとめないといけないのは、そこなのではと思う。
親鸞聖人の和讃にもこのようにあります。
浄土真宗に帰すれども 真実の心ありがたし
虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし
自分自身の存在的根源。
人間の本質である。
そこを感じることが、必要なのでしょう。
ありのままに・・・。
そんな私であるな、確かに。

6月26日の地方新聞に、過疎地域の寺院の相談員の話しが載っていた。
寺院を巡回して、いろんな相談や活性化の話しをしているとのこと。
過疎寺院は、高齢化や檀家減少で苦境にあります。
これは、日蓮宗が過疎地のお寺の活性化事業の一環として行っているら
しい。
先日は日蓮宗が主催で、寺院活性コンテストを行っていました。
効果があるかどうか別として、寺院側の活性化を支援をするという姿勢は
素晴らしいですね。
日蓮宗では、過疎地寺院の割合は16%だそうです。
ここから考えると、日蓮宗の場合、どちらかというと都市型の宗派ですね。
だからこそ、過疎対策に目が向くのかも知れません。
浄土真宗の最重点課題は、逆に都市開教ですから。
お寺って、宗派や地域で連携しているようで、実はお寺って孤立した状態
なのです。
IT化や、経理、活性化や行事など、やりたくてもできない、やり方が分から
ないお寺もあるでしょう。
本山がやらないといけないのは、そういったお寺の支援体制ではないかと
思ったりもします。
解決策はないのですが、相談にのったり一緒に話しをすることで、見えて
くる面もあるし、対策も立てられます。
でも教団は、あまりそんなことは考えていません。
不要な印刷物を作らないで、その予算を実践的な活動に回せばよいのに。
職員もみんな宮仕えですから、予算消化しか頭にないのでしょうね。
本山は、コンサルティングとノウハウを持って、寺院支援をやらないといけ
ないのにな。
ホテル再建人の星野リゾートの寺院版かな。
でも結局は、すべて、お寺の自助努力が必要なんでしょう。
いくら支援すると言っても、住職のやる気がなければ、それで終わってしまう。
行き着くところ、それは住職の、人となりなのです。
ホテルと違って、寺院は収益企業ではない。
だからこそ、住職と言う存在がポイントなのでしょうね。
私がいつも思うこと、それは宗派を超えた、寺院ネットワークの構築が必要
なんじゃないかな。
ノウハウは、教団の本部ではなく、各地にいる寺院の僧侶が持っていたりする
のでしょう。
そこをつなぎ合わせると、面白かったりするのかな。
光澤寺のHPはこちらから。

夏休みは、子どもの特権です。
でも、大人も夏休みが欲しい。
海や山で遊んだ記憶がよみがえる。
よしっ、今年の夏は、夏休み気分を味わおう。
ということで、「大人の夏休み・・・宿坊の夏」を企画しました。

お寺に泊まる、それだけで夏休みって感じ。
近くを散策する、濃い緑、まぶしい太陽、お寺の本堂。
カエルの鳴き声、静かな夜。
お一人でも、お二人でも、12名様までのグループでも。
お食事は夏バージョンで。
採れたて野菜、辛みの効いた特製そうめん、揚げたての鳥天など・・・。
ゆっくりとお酒も飲めます。
良く冷えた白ワインやビールをサービスしています。
お二人様なら、地元産北条ワインの白か赤1本と、ビール中瓶2本を。
お勤めも参加できます、瞑想や写経や法話もご希望でどうぞ。
こちらの受講料は必要ありませんよ。
ちょっと、知性的な夏休みになるかも知れません。
お一人から貸切にできるので、時間をゆっくりと過ごせます。
大人の夏休みは、のんびり過ごす、ゆっくり語り合う。
仏教に親しむ。
絵手紙を書いて、懐かしい友人に送ってみてはいかがでしょう。
メールと違った趣きが、夏休みに彩りを添えます。
今年の夏は、大人の夏休みをどうぞ。
あなただけの夏休みを、演出できますよ。
宿坊のご案内はこちらをクリック!

エアコンでも扇風機でも、山の風でも、ごゆっくりと。
- カテゴリ:
- 宿坊光澤寺はじめました。
- 日々の暮らし

神と言う存在と、仏の存在。
大きな違いは何だろうか。
神と言う概念も、絶対的存在の神と、日本的な神では違う。
唯一絶対的存在の神。
多神教的存在の神。
そして、現存した人間を神として祀ることもある。
唯一絶対的存在の神と、仏との違い。
それは、万物の創造主的な思考と、縁起的な思考で考えることができる。
そして、人間は神には成れないが、人は仏を目指すことができる。
神の存在があれば、あくまでも神が中心。
人は神に裁かれるのです。
仏は、自らが目指す道、そして仏となることができる。
仏の存在は、縁起、つながり、「空」と「無自性」である。
だから、仏は人を裁くことはしない。
仏は偏在、つまりあなたが中心であるのだ。
日本の神も何パターンかに分かれる。
自然的な存在の神。
古事記など、朝鮮半島から渡ってきた、建国神話的な神。
祟りを恐れて、それをを鎮める神。
菅原道真や平将門など。
ある集団や、地域を守る神。
そして、天皇を中心とした、国家神道。
つまり明治神宮・靖国神社を中心とした全国の護国神社や氏神。
基本的には、その神中心とした、限定的な対象でしかない。
神風は、日本にとって都合が良いときだけが、神風なのです。
外国人が、神風によって多くの人が犠牲になっても、神風。
そんな感覚が受け入れられるはずがない。
原爆でさえ正義になってしまう、戦争から解放する神の力。
宗教を見れば、やはり世界が見えて来るのだ。
基本的に日本の神は、他と区別する、差別を生み出すのだ。
日本の神は縛り付けるものが多い。
結界やしめ縄など、他と区別するのですね。
インドのヒンドゥー教も日本の神道と似ている。
そこにはカースト制度が存在するのだ。
仏は、解き放つ存在なのです。
あなたを束縛から解き放つ。
それが八正道の正見なのです。
無明の闇を照らす光、その光に気付かされ、真実に目覚めること。
それが正見。
人が神になろうとするとき、そこには大きな問題が発生する。
明治以降の国家神道がそうであろう。
その結果は歴史が語っている。
誰かの都合で作られた神である。
それが全体主義につながって行くのだ。
そこに、正見は存在しない。
現在の北朝鮮だって、たかが100年前の日本の姿でもある。
ユダヤ・キリスト・イスラムにも、その問題が横たわる。
預言者とみなされていた、イエス=キリストが神と認定されたのだ。
ニケアの宗教会議、三位一体説。
ユダヤやイスラムの人々はそんなことは認めはしない。
あくまでも預言者としてのイエス=キリストである。
神は、ヤハウェでありアラーであり、エホバである。
言葉は違うが、同じ存在。
ただ、イエス=キリストは、自らが神になろうとしたわけではない。
自分の都合ではないのです。
後の人が神としたかったのです。
そこに、救いを求め、贖罪をもとめた。
仏教でも、釈尊の入滅から時代を経て、釈尊への思いが高まってくる。
救いを求め、釈尊のイメージが膨らむ。
希望を込めて、数々の仏・如来が登場するのです。
大日如来・阿弥陀如来・薬師如来等々。
そして修行の姿であり、人々の救済を実践する菩薩。
そこには、たくさんの人々の思いが重なるのです。
それは、神であっても仏であっても。

導かれていく。
私たちのいのちは、導かれているのだと思うときがある。
すべてのいのちが、つながっているんだ。
そして、私のいのちは、過去の歴史の上にのみ存在する。
突然生まれてきたいのちなんてない。
何に導かれているのか、それは多くのいのちだろう。
それしかない。
だから、ひとは仏にならなきゃいけないんだ。
生きてるうちに、すべての人々を救うことなんかできない。
だからこそ、このいのちが終わったとき、仏とならなきゃいけないんだ。
いのちは、そこで終わりなんかしない。
残した人々を導くのだ、そして支えとなるのだ。
死んだらすべてがしまい、そう思うと、自己中心で、現世の利益ばかり追い
求める。
お祓いや祈祷をして、あなたに何の意味があるというのか。
一時の気休め、自己満足。
そんな心のからの解放を、釈尊は説いたのだ。
そうじゃないだろう。
私たちには、いのちのつながりがあるんだ。
ちゃんと見つめなきゃ。
真実の光を。
導かれている。
そして見守られている。
だから、感謝しかないのだ。
だから、南无阿彌陀佛なんだ。
すべての人々の、幸せを願う。
それが念仏。
私のいのちは、願われたいのちなんだから。
光澤寺HPはこちらから!
- カテゴリ:
- 浄土真宗ってどんな感じ。
- いのち

こころの休日。
顔は洗えるし、お化粧もできる。
センスの良い服を着れば、格好いい。
では心は・・・?
心にも休日を与えてあげましょう。
そして、綺麗にしてあげた方がいいですね。
それには、仏教がとっても為になる。
仏教は、すべて心の在り方を問うて行く教えだから。
それも、自己中心の自分の心を見つめ直して行く。
目の前の現実に思ってること、それを正しく見つめる目線。
人間って、自己中心じゃなきゃ生きていけない?
でも、それだけじゃ、やっぱり駄目だと思う。
自己中心の自分を、ちゃんと見つめることが必要なんだと。
そこに仏様の存在があるんだなって感じる。
仏教は、欧米のインテリジェンス層の必須アイテム。
日本だって、本家だし、仏教で心のセンスをアップする。
それって結構いけると思う。
それが、普段の行動や考え方に影響が出てくる。
もちろん良い方向に。
仏教を学ぶ意味は、そんなところにもあるよね。
ちゃんと、こころを磨いておきましょう。
そこには、また縁がつながって行く。
光澤寺・宿坊光澤寺のHPはこちらから!
- カテゴリ:
- 浄土真宗ってどんな感じ。
- 仏教

今日で、鳥取因幡組第6期連研が終了しました。
皆さんには、この連研を通じて感じたことを、お話ししてもらいました。
皆さん、それぞれの思いがあります。
いのちのこと考えたり、いろいろ。
最後には、前組長と前々組長で相談役をお勤めいただいた方の記念法話。
今回は、途中で止められる方は一人もなく、最後には皆で記念撮影。
途中欠席がある方には、来月補講をして、終了になります。
皆さんの表情は、光顔巍巍(こうげんぎぎ)です。
全12回の講義を受けていただきました。
私も担当として、できるかぎり参加をし、お手伝いをさせていただきました。
本願寺派には、この連研があるので、横のつながりができます。
鳥取因幡組19ヶ寺のご門徒さんの縁がつながって行きます。
今回は、途中で一人の方がお亡くなりになられました。
連研を受けられていて、今度は、その後の連研を見守って下さいました。
また、門徒総代会や仏教婦人会などの団体の役員さんは、この連研を受け
られている方が多いので、その連携にもなる。
そして修了者は、西本願寺で中央教修を3泊4日で受講することができる。
そこでは、北海道から沖縄まで、全国の熱心なご門徒さんとの出会いがあり
ます。
各寺院を会場とし、各住職が講師を勤め、班別で話し合い法座をする。
また、あらたな出会いが待っています。
第7期は、来年の1月~12月まで実施します。
また多くの方の、ご参加をお待ちしています。
人生を豊かに過ごすために、そして教えを学ぶ。
そんな浄土真宗本願寺派鳥取因幡組の連研に、どうぞご期待下さい。

今は宿坊に魅力がある。
ただ泊まるだけじゃなく、いろんな体験ができたり、話しが聞けたり。
いろんな講座があったり。
新しい宿坊スタイルを考えています。
そこで、宿坊で寺社コンをしようと。
お寺好きの方々に集まってもらい、交流を深める。
それも宿坊に泊まって、ゆっくり過ごしながら。
講演会や法話なんかも、あればいいかも。
お寺を堪能しながら、なんてとっても素敵です。
懇親会もご用意して、飲みながら、食べながら、みんなで話す。
もしかすると、出会いがあればいいな。
かの宿坊研究会の皆さんが、寺社コンを積極的に推進されています。
関東方面だけでなく、西日本でも是非。
そんな思いで、これから、この秋の寺社コン開催に向けて準備をして行き
ます。
ここは山陰の山間部ですが、京阪神や岡山方面からもアクセスはいい。
この機に、是非、寺社コンに参加してみては。
宿坊光澤寺のHPはこちらから!

浄土真宗という宗名はいつから使われていたか。
今では、親鸞聖人の教えは宗派関係なく、浄土真宗と言われることが多い。
でもこの宗名は、江戸時代までは勝手に名のることができなかったのです。
仏教の宗派を立てるには、理論や系統を明確にすることが必要であったの
です。
もちろん、釈尊からの教えに基づいて、それを経・論・釈に基づいて証明し、
認められなければなりませんでした。
現在のように、勝手に仏教の宗派を立てることはできません。
現在の伝統仏教と、その他の新興仏教教団の違いはそこになります。
「浄土真宗」という宗名は、親鸞聖人の著された『教行信証』のはじめに、
このようなご文があります。
「大無量寿経 真実之教 浄土真宗」と、これは標挙(ひょうこ)といいます。
そして、「謹按浄土真宗、有二種回向。」とあり、このご文から、『教行信証』
の本分が始まっています。
それまでは、ときとして一向宗とか本願寺宗とか、門徒宗などの俗称で呼ば
れていて、浄土真宗という宗名は、正式に認められていなかったのです。
蓮如上人は、御文章にて、「開山はこの宗をば浄土真宗とこそさだめたまへ
り、されば一向宗といふ名言はさらに本宗よりはまうさぬなりとしるべし」
と言われています。
蓮如上人は、宗名は浄土真宗であるとされており、一向宗は自らの名では
ないと明確にされている。
この議論はたびたびなされていて、紀州藩においては安永三年(1774年)
に、浄土真宗の宗名を公認したとされています。
この機に東西両本願寺は、江戸幕府に対して、改めてこの宗名を願い出た
のです。
幕府は、徳川家の菩提寺であった浄土宗の増上寺や上野の天台宗寛永寺
に諮った。
その結果、寛永寺側には異論はなかったが、増上寺側は反対し、増上寺と
両本願寺を挟んで論争になったのです。
幕府は吟味中として、決裁しなかったのですが、増上寺側の言い分に合わ
せる様な対応をしたと言われています。
そして急遽、増上寺などの浄土宗の大寺院は「浄土真宗」の額を掲げたの
です。
自らは浄土宗と名乗っていて、そこに浄土真宗と言う名が生まれるのが、
相当嫌だったのでしょう。
歴史的にも、親鸞聖人を法然上人の正統な弟子とはみなしたくなかったの
かも知れません。
結論を見ないままの状態でしたが、幕府はとにかく決裁をしたくなかった。
増上寺側は徳川家の後ろ盾があり、両本願寺からは莫大な寄進があり、
その力を無視するわけにはいかなかった。
そうこうしているうちに、西本願寺では内部紛争がおこり、東本願寺は火災
に見舞われたりしたので、結局解決しないまま、江戸幕府が終焉を迎え
ます。
そして、明治5年、西本願寺(本願寺派)が浄土真宗と宗名を名乗ることを、
明治政府によって認められます。
明治政府は、西本願寺の支援によって成り立っていた面もありましたから。
封建的であったり保守的であったりした、日本の仏教界において、親鸞聖人
の教えが、浄土真宗となるのに時間がかかったのですね。
法然門下、ここにしてやっと、浄土の教えの名が両立することとなるのです。
- カテゴリ:
- 浄土真宗ってどんな感じ。

今回、女性お二人が宿坊に。
ふたりで、休みを合わせて鳥取で合流。
宿坊までおいでいただきました。
講座は、写経と瞑想、そして作法を少し。
僕の講義も、まだまだだと思っています。
これからもっと楽しく分かりやすい講義を目指して行きます。
ゆっくりしていただけたかな。
食事もできるだけ種類豊富にお出ししましたが、最後はお腹いっぱいに
なり過ぎたのかも。
ちょっと苦しそうでした。
そして、お見送りをするときは、やはり少しさびしい気持ちがあります。
今回は、女性おふたりだったので、ゆっくりお話しをしてもらえるように、
できるだけ関わらない様にしました。
ご希望の講座だけを。
また、ゆっくりしたいとき、宿坊を訪れて欲しいものです。
たまには違った休日を過ごされたいとき、宿坊はのんびりできますよ。
周りには自然しかないので、逆にどこにも出かけず、お話しに専念でき
ますね。
宿坊光澤寺のHPはこちらから!
- カテゴリ:
- 宿坊光澤寺はじめました。

浄土真宗では悟りということを、どの様にとらえるのか。
それは、この世のいのちが終わり浄土に往生することでしょうか。
ただ親鸞聖人は、それだけで終わっているのでしょうか。
浄土に生まれ仏となること、それは阿弥陀の願いである。
ただその結果、今の私たちがどの様に生きるのかということ。
これが一番大切なことでしょう。
完全なる仏の悟りは、この世に生きている限りは、やはり望むべくもない。
私たちは、この世界に生きている限りは。
ただ、悟りを得ることと同じ心になることはできる。
それは現生正定聚(げんしょうしょうじょうじゅ)という位につくということ。
浄土真宗は、この現生正定聚ということが大切な意味を持つ。
それこそが、私たちの世界で成し遂げられることなのです。
そこは、すでに不退転の地である。
その心に至ったならば、もう元に戻ることはないのです。
悟りと同じ状態なのです。
ただ、まったく同じではない。
それは、仏と私たち人間の差なのでしょう。
どうしても、生きている私たちではたどり着くことのできない境界がある。
でも不退転の位に住することができる。
それは、すべてが一体となるところ。
御同朋・御同行の世界です。
そこに本当の歓びがある。
そこでしか味わえない喜びなのでしょう。
すべてがあるがままの世界。
そう悟りの世界と同じなのです。
その地にたどり着けば、もう後戻りはしない。
そんな竟地。
畢竟(ひっきょう)である。
そこが、私たち浄土真宗が歩む道となる。
それは絶対他力、この世での究極の悟りの世界へ導くもの。
絶対他力とは、究極の悟りの道であるのです。
本当は最高に難しいことなのでしょう。
でも、それを親鸞聖人は、皆が分かる様に伝えたかったのだと。
なので、いろんな誤解を生んでいるのかな。
そんなことを感じたりします。
南無阿弥陀仏 合掌

梅雨のなか、今日は雨が強い。
南から台風が来ている影響もあるのだろう。
庭先に紫陽花が咲いている。
花は真っ白、それも一輪だけ咲いている。
紫陽花の木はすぐに成長するので、いつも刈り込んでいる。
切り取ってもすぐに成長するのです。
この紫陽花もそうでした。
でも咲いた花を見ると愛おしい。
僕って本当にわがままだと感じてしまう。
自分が美しいと感じたならば、大切なものになってしまうのだ。
愛ってそんなこともあるのかな、美しい響きだけど、それは欲へとつながる。
キリスト教で説く愛と恋愛の愛は違うものですね。
アガペーという。
どちらかと言うと、仏教の慈悲に近い。
阿弥陀如来の慈悲かな。
そして、この時期は、蓮も成長して行く。
梅雨の頃の風物詩のような、紫陽花と蓮。
僕のわがままを分かってるんだろうな。
それでも美しく、そして可憐に。


写経は、何もそれ自体に功徳を持たせて、仏様に捧げるものではない。
それは前にも書いたと思います。
私たちは、私たちの行為に功徳を持たせるなど、到底できやしない。
私たちは、ただ仏様の思いを受け取るだけ。
それで、浄土真宗には納経ということはないのです。
でも、受け取ったなら、思いが変わる、心に安心がある、生活が変わる。
そして、いのちの見方が変わると言うことですね。
その仏様の思い。
それを写経によって、意味を知る。
写経によって受け取る。
その思いを自分自身で書いてみようと思う。
ただそれだけ、それでも仏様は喜んで下さるだろう。
仏様の思いを知ったなら、有り難く思う。
その心が大切なのでしょう。
浄土真宗の写経では、存分にその思いを受け取ることができます。
先ず、仏になることを決意した経典、阿弥陀如来への第一歩の教え。
『讃仏偈』ですね。
そして次に、仏になることを重ねて誓った経典。
『重誓偈』
その思いを親鸞聖人が著した教え。
『正信偈』
以上が、浄土真宗の写経の定番です。
一番短い経典は『重誓偈』ですので、これを最初に書かれる方が多い。
『正信偈』は長いです、七言一句で、百二十句あります。
一回ではなかなか難しいですね。
でもこれだけではありませんよ。
その次は、親鸞聖人の師である、法然上人の『選択集』。
これを書写したことで、親鸞聖人と法然上人の教えが生まれてきました。
浄土真宗で写経をされるなら、いつかはこの『選択集』を書写します。
親鸞聖人のお心を感じながら。
この後は、『阿弥陀経』も写経できるでしょう。
そして『観無量寿経』や『無量寿経』も書写できると思いますが、上級編
になります。
なので、目指すは『無量寿経』のなかにある「四十八願」。
この四十八願を写経することは、いつか必ずやっていただきたい。
阿弥陀如来の願いが込められた「四十八願」です。
その思いにふれ、自分自身の糧とする。
そんな経典です。
明日は、女性お二人が宿坊に来られます。
写経も希望されているので、本堂の景色が見える場所に準備をしました。
阿弥陀如来に見守られ、自然のままに写経をする。
そんな感じです。

方や寺離れや、若者がお寺に来ないと言う。
もう一方で仏教ブームと言う話しもあります。
これはどちらが本当かと言うと、たぶんどちらもそうなのかな。
現在の社会は、若者に厳しい社会かも知れない。
心の置き場所がないということもあるかも知れません。
でも法事なので法話をすると、若い方も興味を持っておられることに気づく。
ちゃんとお話しをすると、意外と聞いておられるのです。
最近は、瞑想もちょっとしたブームになっているし、ある新興宗教の団体は、
ヨガなどをきっかけに信者を勧誘しているそうです。
それがどこであっても、自分を受けとめてくれる場所があれば、興味を持つ
こともあると思います。
そんな方々は熱心であったり、何かを求めようと言う気持ちが強いのでしょう。
では、全国に7万以上あるお寺は、一体どうなっているのでしょうか。
もちろん、従来からあるお寺が何か活動したからと言って、あまり話題になり
ませんから、お寺は何もやっていない様に、社会から思われるかもしれない。
あとは、やはり檀家制度が根強いので、他者に対しては敷居が高く感じられ
るのかも知れません。
宗教教育に無関心なこの国では、以前から免疫のないままの社会を形成し
ているのが現状です。
そして何か問題があると、そのことばかり取り上げますが、本質的な解決に
は至っていない。
そして、評論家や学者はコメントしますが、仏教者や僧侶のコメントは一切で
ません。
やはり、いろんな思いや悩み、自分の心を受けとめてくれる場所が必要なの
だと思います。
そして、それはお寺の存在が欠かせない。
何故か、そこには僧侶がいるから、そしてそのお寺に行けば会えるから。
そんな安心感があるのではないかと思うのです。
私のお寺も浄土真宗の寺院ではあるけど、宗派に関係なくすべての方々に
扉を開いています。
そしていつでも来ていただける様に準備をしている。
情報発信はまだまだ十分ではないけど、仏教の入門レベルはお話をする。
ただ、何もしなくても落ち着ける場所、自分の居場所がある。
そこに行けば、話しができる、そんなお寺。
宿坊も用意しているので、泊まることもできます。
仏教に親しむとか、心の置き場所を探したい。
悩みを誰かに聞いて欲しい、ただゆっくりとしていたい。
もちろん浄土真宗のこともっと知りたいということも。
みんな、それぞれの思いがあると思います。
すべてのお寺がそうなる必要はないけど、そんな各宗派のお寺が各地にあれ
ば、いいのになと思う。
そこで仏教の基本的なこと、作法や写経、座禅や瞑想。
そんなことを気軽に学べたら、面白いのではと思います。
そして、自分のこころの居場所を見つけたら良いのではと。
これから、もっと情報発信をしていかないといけないなと感じた。
僕や僕のお寺でできることは少ないかも知れない、でもそんなお寺のネット
ワークがあれば、すごい力になるでしょう。
いつでも誰でも受け入れられるネットワークがあれば。
他者を批判するよりも、自分たちにできることを考えて行った方がいい。
形骸化した教団の組織に頼っていたって、若者はお寺にはやって来ない。
自分たちで新しいネットワークを作り出すのだ。
- カテゴリ:
- 仏教
- 宿坊光澤寺はじめました。

僧侶になるとき、日本ではどこかの宗派に属することが必要になる。
単立寺院と言って、どこの宗派にも属さない寺院もありますが、作法や教義
など、中心となるものが必要です。
それと原点である、釈尊の教えは絶対必須になります。
釈尊の教えは、実は日本の各宗派ではあまり勉強しないのではないでしょう
か。
なので、仏教の基本をまず知ることから始めるのが、仏教に親しむ第一歩
だと感じます。
そうすると、日本の各宗派の教えに対しての、自分の立ち位置が分りやすい。
そして、自分が選んだ宗派を勉強して行く。
好きな道、自分で選んだ道であれば、後悔しない。
その中で、よい師に巡り合うと言うこともあるでしょう。
もし、日本の宗派になかったなら、テーラワーダ(上座部)という東南アジアに
広がる宗派もあります。
これは日本では小乗仏教と呼ばれていたものですが、世界的にはこちらの
宗派の方が有名です。
あとはチベットやブータンに伝わる、密教ですね。
まあ密教は、日本にも真言宗がそうですが、伝わっているものは微妙に違い
ます。
どうすれば良いか、何を選んだらよいか分からなかったら、自分で歩いてみる
しかありません。
若くて時間があれば、日本の寺を歩いてみればよいでしょう。
ホームページからたどれば、いろんなお寺がある、そこで行って見たいお寺を
探してみればよい。
そして世界の仏教国を旅してみるのも面白い。
東京なら、いろんな仏教講座や仏教行事がたくさんあります。
私も会社員だったころ、毎週仏教講座や医療関係の講座を探しては、通って
いました。
とにかくいろんな話しを聞いてみる、そして自分の眼で確かめる。
そのうち、自分の進むべき道が見えて来るのではないでしょうか。
そして、そこにはいろんなネットワークができていることでしょう。
切磋琢磨し、そして支え合う仲間がそこにはいるでしょう。
宗派が違った方が面白かったりもします。
同じ仏教でも宗派によって全く違うことが分りますよ。
そのとき釈尊の教えを基本に置いておくことの意味が分かります。
そこからは自分の目指す道を歩いて行く。
僧侶には、自分次第でいろんな事が開けてくるという可能性がある。
今の時代は、僧侶って魅力的な存在かも知れません。
新しい流れを切り拓くという、壮大なフィールドが待ったいるのです。
もちろん道は険しい、だけど今はノマドと言う新しいスタイルがある。
その仏教版をいち早くネットワークすることができる。
もちろん浄土真宗でのことなら、知り得る限りはお教えいたします。
- カテゴリ:
- 浄土真宗本願寺派の僧侶になるには・・
- 仏教

梅雨の時期なので、晴れ間があると、そこを狙って作務を。
昨日の宿泊の整理と掃除と洗濯。
シーツやカバー、掛け布団などの寝具はすべて外して洗濯、敷き布団は
すべて天日干しします。
さすがに15人分なので、作業は結構大変です。
今日は坊守が、鳥取因幡組の婦人会の会合で鳥取市内へお出かけ。
私が当番で、朝から洗濯機を回しっぱなし、次から次へと干して行く。
洗濯は、フンワリ仕上げと指定されています。
それで間に合わないものや、大きな洗濯物は、コインランドリーへ。
布団も普段は使わないので、干さないとしまえない。
幸いにも、お寺なので、布団やシーツを干す所には困らない。
座布団も、一気に干して片づけます。
そして各部屋の掃除、ほうきで掃いて掃除機をかけて、拭く。
その繰り返し。
今日中には、すべて片付きそうです。
- カテゴリ:
- 宿坊光澤寺はじめました。
- 日々の暮らし

今春から始めた宿坊、鳥取の山間部にある宿坊ですが、交通アクセスは
意外といいです。
車だと大阪から2時間半あれば着きます。
特急列車も車で15分くらいの駅に着くし、高速バスも京阪神からは便利
です。
事前にお伝えいただければ、駅や停留所まで送迎しています。
でも、始める前は、名所でもなく文化財もない山間部のお寺に来られる方
がいるのかなと、浄土真宗の普通のお寺ですから。
それでもポツポツと予約が入る様になりました。
お一人でもグループでもゆっくりしていただけるのが特長でしょうか。
お一人でも、来られた時からすぐにくつろげる場所。
あとは、お一人お一人の希望に応じて、講座を選ぶことができます。
また、食事もお酒も希望によってアレンジできます。
ですから、お出しする食事もお酒も、泊まられた方々で、すべて違ってい
いますよ。
お寺だからと言っても、思い思いの場所がそこにはあるのです。
浄土真宗のお寺なので、規制もありません。
もちろん講座を受けないで、自然に囲まれてくつろいでいただくことも。
そんな自由な宿坊です、ご希望があればご一緒にお食事をしながら、
談笑することもあります。
講座については、ご希望に応じて組み立てます。
今、開講しているのは・・・
①仏教講座
釈尊の生涯、釈尊の教え、仏教の歴史とその伝播、日本の仏教各宗派、
など仏教全般。
②浄土真宗講座
浄土真宗の作法、親鸞聖人の生涯、浄土真宗のみ教え、歎異抄講座、
正信偈講座、浄土真宗の安心について、浄土三部経講座、など。
③その他の講座
写経、プチ瞑想、ヴィッパサナー瞑想など。
スタイルは自由です、講座形式もできますし、お茶を飲みながら談話形式
でも大丈夫です。
宿泊の方の希望に応じて講座を組み立てますので、何日間でもお受けし
ています。
もしかすると、こんな宿坊をしているのは、全国でも一か所だけかも知れま
せんね。
これからも、講座や宿坊を充実させて、皆さんをお迎えできるようにして
行きたいと試行錯誤の毎日です。
こんな手作り感のある宿坊を、ぜひ一度体験されてみては・・・。
- カテゴリ:
- 宿坊光澤寺はじめました。

昨日から一泊で、韓国の交流グループの方々を、宿坊でお迎えしました。
あいにくの雨模様でしたが、雨は降らず、目的であるテニスを十分に堪能
されて、夕方に宿坊に到着されました。
受入側の日本の方々を含めて、総勢15名でした。
当初の予定より多くなられたので、急遽寝具等の準備をして、お迎えです。
テニスをされていたのと、途中温泉に入って来られていたので、喉が渇いて
いたのでしょう、夕食の場はあっという間に宴会になりました。
さすがに韓国の方々は、お酒が強かったですね。
料理も頑張って作りましたが、お口にあったかどうか・・・。
でも、料理はほとんど残っていなかったので、とりあえず一安心。
言葉は上手く通じないのですが、話すまでは日本の方か韓国の方か顔では
やはり判断はできません。
やはりお互いが本当に近い存在ということが、良く分かりました。
朝は、皆さんにお勤めに参加してもらいました。
韓国の方々は、キリスト教徒の方も多いので、後から考えると申し訳なかった
のかも知れませんが、私も外国に行くときは、必ず教会にお参りするので、
それはそれで良いかと思った次第です。
仏教徒とキリスト教徒は、だいたい半々くらいだそうです。
私がお勤めして、焼香をしていただくと、仏教徒の方々は五体投地をされます。
韓国では、五体投地をするのが普通だそうです。
少し驚きましたが、私も皆さんと同じように五体投地の作法をします。
ちゃんと浄土真宗にも、五体投地の作法がありますので。
キリスト教の方々は焼香をされないので、ひとつの国でも、宗教の違いを感
じる機会でもありました。
最後は皆さんと一緒に記念撮影をして、旅の御無事を願いながらお見送りしま
した。
宿坊が交流の一助になればありがたいですね。
これからも、縁をつないで行く、お寺の宿坊の可能性を広げて行きたいと思う。

そう言えば、大好きな韓国海苔をたくさんお土産にいただきました。
それも貴重な高級品でした。
ありがたくいただきます。
そして、また次の機会にも、宿坊に泊まっていただけると良いですね。
出会いに感謝いたします。
- カテゴリ:
- 宿坊光澤寺はじめました。

今週末、宿坊で韓国の交流グループの方々をお迎えする。
総勢12~3名です。
今日はその準備をしていました。
夏休みには、少年野球の合宿の予約が入っていますが、通常の宿泊
で10名以上は初めてです。
テニスでの交流を鳥取県の方々と続けておられるそうですが、週末は
あいにくの雨模様、でも早目に宿坊に来られても良い様に準備します。
せっかくの交流会ですから、日本のお寺で、できるだけゆっくりしていた
だける様に。

女性が二名いらっしゃるそうなので、いつもの寝室を女性向けに。
疲れたお身体をゆっくり休めていただける様に。

男性陣7名の寝室は、八畳を二間用意しました。
こちらも、いつでも寝ていただける様にしています。

中庭も池に水を注いで準備します。
夜は灯篭に灯りを入れます。

談話室も、ここでなら夜遅くまで飲み明かしても大丈夫。
尽きない話しがあれば。

客室から、中庭を望む縁側。
くつろげるように、椅子を置いています。

10人以上の食事や宴会はこちらで。
田園風景を見ながら、日本の山里の風景を眺めながら。

韓国の方々は、よく食べ、よく飲まれるとお伺いしています。
今回は、日本の家庭料理を堪能していただきます。
あくまでも韓国料理ではなく、日本の家庭料理でもてなしです。
私も腕を振るいますよ、味は食べてからのお楽しみ。
シンプルだけど、旬の素材にこだわった料理です。
量も、大量に準備します。
今回は前日から、料理を仕込みますよ。
お酒はビール、そしてジンロにマッコリと定番を大量に用意しました。
テニスが中止なら、半日くらい飲み明かせますね。

夜風に吹かれながら、酔い覚ましもできる場所もありますよ。
鳥取県側の日本人スタッフルームと寝室は別に用意しました。
これで、修学旅行気分も十分に味わっていただけそうです。
10名前後での宿泊は、こんな感じでご用意できます。
どこかの家に泊まったような感覚。
ホテルや旅館では味わえない様な、雰囲気がありますよ。
なんたって、貸切なのですから。
朝晩のお勤めも参加できます。
お一人でも、十人でも、同じサービスをあじわっていただける。
そんな宿坊を目指しています。
それが、いろんな方との縁をつないで行くこと。
いずれは、この宿坊がコミュニティーの中心になりますように。
こして、これからも交流会が続いて行きますように。

宗教や宗派ができるときは、何かそれまでの価値観そのものの様な一大
勢力が存在し、そのカウンターとして新たな宗教、もしくは新たな宗派が
誕生していることが多いのです。
たとえば身近なところで、仏教を見るとそのことは分かりやすい。
釈尊の時代のインドは、バラモン教の価値観の下にあった。
そのバラモン教へのカウンター宗教として、仏教が成立して行くのである。
それは、縁起と平等に裏付けされた教えであった。
バラモン教のカーストへのカウンターである。
梵我一如へのカウンターは、縁起説である。
この点は、日本仏教において、重要なポイントでもある。
本来カウンターであったものが、日本の仏教ではバラモン教になっている
宗派が多いと言うことです。
仏教の顔をしているけれど、本当は真逆といったことを平気でやっている。
次に、インドで仏教の勢力が強くなると、そこに一大勢力が登場する。
それは、日本で言うところの小乗仏教、つまり上座部仏教。
この中の、説一切有部という宗派が、仏教の一大勢力となるのです。
ただ、勢力が強くなると、組織は保守的になって行く。
伝道布教や、釈尊の教えから遠ざかって行く、そして難解な教義中心の世界
へと入って行く。
この辺りは、日本の各宗派も同じではないでしょうか。
そこにカウンターとして登場するのが、大乗仏教なのです。
出家に対して在家仏教を説き、菩薩思想をもたらす。
そして、なにしろ自分たちを大乗として、相手を小乗と勝手に名付ける。
説一切有部に対抗した理論を打ち出したのが、龍樹である。
その教えである、「有」ということに反撃を加える、カウンターパンチ。
それが、中観派と呼ばれるのです。
そこで説かれたのは縁起、それは空と無自性に展開される。
ここで龍樹が説いた「空」は日本の禅宗が説く「空」とは、若干違いますよ。
一緒にされるので困るのですが、禅宗の説く「空」は日本だけのものです。
まあ中国もそうですが、今は殆ど存在しないので。
まあそれは置いといて、この様に、一大勢力が出来、それが保守化したとき、
カウンター宗教が起こって行くのです。
これは、ユダヤ教にも言えるかも知れません。
ユダヤ教のカウンター宗教として、キリスト教が興る。
そしてそのキリスト教が保守化したときに、イスラム教が興る。
日本に入ってきた仏教もそうです。
個人救済の仏教から、日本に入ってきたときは、国家鎮護の宗教となって
いたのです。
それは、高野山や比叡山へと引き継がれて行く。
個人救済が国家鎮護に、平等主義が一部特権階級のため、そして女人は
救われないと言う、差別主義に陥ってしまう。
もちろん庶民は救済の対象外。
バラモンの梵我一如を否定した釈尊の教えが、いつのまにか即身成仏に
なってしまった。
加持や祈祷など、迷信や迷いからの解放を説いた釈尊の教え。
今では、加持・祈祷にお祓い、これではバラモンに逆戻りである。
そこにカウンターとして登場したのが、鎌倉仏教です。
その中でも、縁起と平等主義の原点に帰ろうとしたのが、親鸞聖人なのです。
龍樹、そして親鸞聖人。
この方々は、保守化し釈尊の教えから遠のいて、カウンターの意味を失った
仏教を、もう一度釈尊の戻そうとする、原点回帰の教えなのだと感じます。
- カテゴリ:
- 浄土真宗ってどんな感じ。
- 仏教

今日、宿坊の談話スペースにマガジンラックを置いた。
僕は雑誌が好きなのですが、積んでおくだけなので、いつか邪魔になる。
また見たいなと思っていても、下に積まれるともう見る機会がなってしまう。
やはり雑誌は、表紙が見えないと、読むことがなくなってしまうな。
談話室の書棚に積んでいても、やはり見ない。
それで、今日はマガジンラックを手に入れた。
これで、多少は興味のある雑誌を並べられる。
談話室に何とかスペースを確保して、早速並べました。
こうしておくと、ちょっと手に取ってみようかなと思う。
書籍は背表紙でもいいけど、やっぱり雑誌は表紙で興味を持つ。
視覚効果だな。
雑誌には背表紙がないから仕方ないか。
これで、宿坊に来られた方に、雑誌を見てもらえます。
ゆっくりとソファーに座って、自分の時間をお過ごしください。
BGMとお酒かコーヒーでも飲みながら・・・。
これからも、興味のある雑誌を並べておきます。
今は好きなインテリアや宗教関係が多いな、キリスト教やイスラム関係も。
- カテゴリ:
- 宿坊光澤寺はじめました。

蛍がお寺の玄関にやってきました。
フラッシュを焚かないと撮れないので、ヒカリを放つところは見えないですね。
蛍の季節は短い。
最近は、ほんの数匹づつくらいですが、蛍をお寺の近くで見るようになってきた。
子どもの頃は、そこらじゅうで乱舞してましたが、ずっと見かけなくなっていた。
蛍は自分でヒカリを放てるけど、僕は自分ではヒカリを放てない。
だから、ヒカリを照らしてもらう。
そうすると、自分が輝くことができる。
でも、みせかけのヒカリだと、その輝きも長くは続かない。
ちゃんと自分のヒカリを見つけなきゃいけないよ。
阿弥陀様は、ヒカリの仏様だな。

空が悟りだという。
それはある意味違うような気がする。
空はあくまでも空、悟りではないのかな。
悟りに至るまでの道、まだ途中でしかありません。
ある本を読みながら、そう思った。
あくまでも、目覚めるときの第一歩なんだろうなと。
なぜなら、空を仮に理解したとしても、ではどうなるのかということ。
世間虚仮とは聖徳太子の言葉。
あくまでも、世間虚仮としての段階でしかないのです。
でもその先には、現実の中にいる人々がいる。
空とは、あくまでも自力の行者の段階でしかないでしょう。
自力の行者が悟りと感じるものだと思う。
親鸞聖人は、その先を見つめている。
その空であり縁起を包み込むものの存在を。
それが他力です。
自力の行者も、十方の衆生をも包み込むもの。
それが弥陀の誓願なのだと思います。
空であるなら、それは堂々巡りの世界に感じる方もいる。
それならば、結局迷いでしかない。
迷いの中で堂々巡りする。
悉有仏性、有ということにこだわりがある。
それは、生死、そして六道輪廻の中なのだ。
そこから他力へと進む道があった。
結局、堂々巡りの中で、もがくしかない衆生の存在。
そこに救いがなければ、仏の道は完結しないのです。
そして、衆生と言う生きる意味が問われているのではないでしょうか。
日本は、朝廷と言う大陸からの権力が持ち込まれる。
そこに貴族社会が生まれ、後に武家が登場する。
そこでの悟りの段階が、空であるのでしょう。
あくまでも学問的悟りの世界である。
でも、それでは衆生の本当の救いにはならない。
貴族や武家だけではなく、それをも含みこんだすべての衆生と言うことに、
親鸞聖人のおもいは至るのです。
そこに仏教で説く、平等の世界が広がって行く。
衆生に目覚めること、それが他力への道なのでしょう。
衆生、すなわち十方衆生。
それは私自身のことである、私という存在がなければ、十方衆生は成立
し得ない。
そこにこそ、阿弥陀如来の願いがある、それが本願他力なのです。
十方衆生と言ったとき、世の中すべての人々と思った段階では、他力では
ないのです。
十方衆生と言ったとき、それは私のことだと思う。
すべての人々のために、そして私のためにその願いがあると・・・。
それが衆生に目覚めることなのではないかと思います。
そこには日々の暮らしがあり、すべての人々の思いがある。
そこに御同朋の社会が広がり、御同行の生き方に目覚める。
衆生と問われたとき、衆生と願われる。
あわれの中に生きる存在です。
もののあわれとは、移りゆく存在、それが空。
そして、衆生としての思い。
そこに、阿弥陀如来の本願がある。
その衆生の中には、段階もなく、身分もなく、区別がない。
だから衆生なのです。
もちろん虚仮の世界での善悪も問わない。
それは他力へと進む道。
だから法然上人の元には、すべての人々が集まったのでしょう。

光澤寺の本堂から見た青空です。
一点の曇りもない空もいいけど、雲があった方が空って面白いですね。
流れて行くのが分かる。
近い雲だと、動きがすごく早く見えます。
そして形が変わって行くのがいい。
本堂の縁の椅子に座って眺めるのが好きです。
会社員してるときは、なかなか雲をゆっくり眺めてることはなかった。
高層ビルの下に見える、高速道路やビルを眺めてたり。
皇居や赤坂や汐留の高層ビル群、東京タワーも近くに見えてた。
冬場なんかは富士山もちゃんと見えた。
それも結構すごい景色なんだろうけど、やはり心が落ち着いていないと、そ
んな景色でさえ眺めるゆとりがなかったな。
心から、感動できることが少なかったかも知れない。
もちろんこんなにくっきりと青空や雲、そして星が見えることもなかった。
お寺から見える山は、雲の動きと相まって、眺めてると落ち着くのです。
冬は、その自然の厳しさも間近に見ることができる。
それほど高くないのに、自然を楽しませてくれる山なのです。
今日、この写真を撮ってたら、この青空と雲のこと、書きたくなったのです。
私の法名にも空がある。
- カテゴリ:
- 宿坊光澤寺はじめました。
- 日々の暮らし

親鸞聖人は、元久二年四月、三十三歳のときに法然上人より、『選択集』の
書写を許されています。
『選択集(選択本願念仏集)』は、法然上人の著作であるが、直接法然上人
が筆をとってはいないと言われています。
弟子が書いておりますが、あくまでも法然上人の教えであり、指示によるもの
です。
『選択集』は、当時の法然上人の政治的後ろ盾であった、九条兼実の願い
によって書かれています。
法然上人は、あまり乗り気ではなかったとも・・・。
ただ、当時法然上人の教えを聞くことはできても、その教えを読んで学ぶ
とか、書写するものはなかったのです。
どうしても、その教えを著してもらいたいという思いだったのでしょう。
でなければ、死んでも死にきれない、とても死ぬことはできぬと。
念仏弾圧の力が強まる中、その教えを著すことへの危惧、またその教えを
受けとめるだけの理解力が必要な書でした。
当時の法然上人の門弟の中でも、というか高弟でさえ、その教えを正しく
理解していたものは、ほんの少数、もしかすると誰一人理解できていなかっ
たかも知れないのですから。
それくらい先鋭的な書であったのでしょう。
もし、念仏弾圧側の勢力に渡れば、念仏停止は必定とも。
事はそれだけでは済まないかも知れない、それは既存の仏教を切り捨てて
行く教えであるからです。
もちろん、あくまでも教えの上でのことですが。
当時の権力側や旧仏教側にとっては、その存在を脅かす可能性まであった
のでしょう。
一般民衆を目覚めさせ、その心を解き放つ教えでもあったのですから。
ですから、この書を読めるとか、まして書写が許されるのは、ほんのごく
少数の門弟に限られていた。
入門以来、日が浅く、さらには兄弟子たちから、煙たがられていた親鸞聖人
への妬みは凄かったのでしょう。
たとえ、流罪を許されたあと京に戻ったとしても、法然門下の中に居場所は
なかったかも知れませんね。
法然上人の教えを正しく伝えることだけを考えていた親鸞聖人。
浄土真宗という宗派が後に成立するのも、仕方ないことであったのかと。
今でも、同じ法然門下の弟子であったのに、浄土宗と浄土真宗がまるで
別の教えのようになっているのは、この様な事情があるからでしょう。
高弟たちが引き継いだ浄土宗は権力へと迎合して行く。
京に戻らなかった親鸞聖人は、権力の外側にいて、その教えを引き継ぎ
展開して行く。
それは歴史の必定でもある。
ただ、あるときより浄土真宗も権力に迎合するときが来ますが。
宗教や教団は、権力と迎合したときに、その本来の教えから逸脱し、宗祖
の思いから離れて行くのでしょう。
教えを取るか、教団を守るか、といった選択では、ほぼ後者を選択している。
そして過去のインド仏教のように、輝きを失って行くのかも知れません。
話しは逸れましたが、念仏を選択した法然上人の書。
それは、親鸞聖人が初めて眼にした、師の教えである。
この書を書写しないで、流罪となり法然上人と分かれていたなら、その後の
親鸞聖人の教えや著作は、もしかしたら違うものだったかも知れません。
ある意味、親鸞聖人の生涯の中で、教えに関わる部分では、最大の出来事
だったのではないでしょうか。
もう一度、じっくりと親鸞聖人の足跡をたどってみようと思うとき、やはりこの
『選択集』の書写は避けては通れない道だと思うのです。
私は、ただその一端に触れてみたいと思ったのです。
時代は変わっても、その教えはまったく変わらない。
それが、仏教の持つ凄さですね。
何百年でも数千年でも・・・。
- カテゴリ:
- 浄土真宗ってどんな感じ。
- 仏教

今日、お寺の近くの田んぼのあぜ道を、キジがずっと歩いていた。
近くにある柿畑に巣を作っていたのかもしれない。
そこに猫がやってきていた。
猫は追い払ったけど、心配していたのでしょう。
警戒されると困るので、巣の近くには行けなかったけど、猫に巣を襲われて
いないかなと、心配です。
この近くでは、よくキジを見かけるので、保護したいのだけど、逆に人の手が
加わることが良くないことなのかな。
あぜ道を雄の一羽が心配そうに歩いている姿が、妙に印象的でした。
可哀そうとか、何とかしたいと思う気持ちはあるけど、自分ではどうしようも
ないことがある。
TVで見ていても、そんなことはしょっちゅうある。
でもそれは、私が見た、私の側の気持ちなのかもしれない。
もっと、違う側面があるのかな、なんて。
そんなとき、弥陀の本願と、親鸞聖人の言葉を良く考える。
心の思いを受けとめるところが必要なのです。
それは、日々の暮らしの中で、あらゆる場面にあるのです。
直接的に関係なくても、心を寄せて行く場所が。
そして、ふとした日常の中に、憂いや寂しさや悲しみ、そして喜びもある。
どうしようない思いも。
人は生きている限り。
キジはどんな思いだったのかな。
- カテゴリ:
- 日々の暮らし
- 浄土真宗ってどんな感じ。

葬儀のお布施の問題が、今回も新聞に出ていた。
都会では僧侶派遣会社というものがあるらしい。
葬儀会社から依頼された派遣会社が、葬儀会社に僧侶を派遣するという。
そこに裏金が発生する。
派遣会社の社長は、お布施には不透明な部分があると答えていた。
何をか言わん、不透明にしているのは、派遣会社自身であるだろう。
リベートは現金書留や別口座に入金されていたとのこと。
まだまだ古い手法が使われているのだ。
私も、全国的な僧侶派遣システムができないかと、考えたことがあります。
それは、不明瞭なシステムを排除し、そして本当の作法や教えを伝え大切
な方を見送ることで、葬儀を見直したいと思ったから。
それも、できれば超宗派的なものが良い。
各宗派の志を持った方々が集まって、明瞭かつ本当の葬儀を執り行う。
そんな仲間が集まれば良いと・・・。
もちろん各宗派の僧侶の質を担保すると言うことは難しいけれど、各宗派に
一人でも見極める人がいたなら、全国的なネットワークはすぐにできるはず
だと思います。
そこに連絡すれば、希望に応じた葬儀を執り行う。
もちろん仲介料もリベートもない、そのままのお布施で。
それもできれば明瞭にすればよい。
それぞれの希望は違うでしょうから。
事前の相談もしっかりと受け、そして寺院や僧侶を紹介する。
寺院や僧侶、宗派もそろそろ真剣に考えてはどうかと思う。
NPOとして立ち上げるのが良いかも知れない。
葬儀はビジネスではないのです。
こんな記事が出るたびに、その様なことを感じる。
その会社にというよりも、僧侶や宗派がもっと真剣に取り組まなければならない
時期に来ていると思う。
都会では、菩提寺の無い方の葬儀が多いのでしょう。
何か、新しい流れを生み出せたら良いな。
そして、本当の葬儀をお届けしたい。
葬儀は、とても重要なことなのだから。
できれば、僧侶もしっかりとお見送りしたいのです。
ご遺族の方々と一緒に。
全国の僧侶の皆さん、どう思われますか。

『顕浄土真実教行証文類』、化真土文類の後序には、このようなことばが。
「慶ばしいかな、心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す。」
よろこばしいかな、心をぐぜいのぶっちにたて、おもいをなんじのほうかいに
ながす。
浄土真宗の教えを説かれてきた中で、最後の竟地。
このご文は、「大唐西域記」に出てくるのだそうです。
難思とは、私が思いいたすことができないくらいの、阿弥陀如来の深い思い。
私のすべてのおもい、念をすべて受け止めてくる場所、それが難思の法海。
阿弥陀如来のおもいの海に、すべてを流して行こう。
この私のおもいを。
そして、こころは阿弥陀如来が誓った、悟りの国であり涅槃である、浄土に
いたる。
すべてを受け止めて下さると言うその思いに、すべてをおまかせし、浄土に
生まれ往くことを心に樹てる。
私のこころは、思いは、ときとして行き場所がない。
行き場所がないと、苦しくて悲しくて、どうしようもない。
でも、そこに阿弥陀如来の難思の法海があったのだ。
私のすべてを、すべての思いを受け止めてくれる場所が・・・。
そして、私も浄土に往くことができるのでした。
極楽浄土に往生するのです。
そして、そこでは悟りを得て仏となるのです。
ああなんとありがたいことか、よろこばしいことか。
「ただ、仏恩の深きことをおもうと、周りの人々の嘲りがあったとしても恥とは
しない。」
ただその道を信じて歩いて行くのだ。
やはり、この思いを私も信じて行きたい。
いや、信じて行くしかないのだ。

南無阿弥陀仏は六文字です。
この六文字の解釈は、たとえば善導大師と親鸞聖人は微妙に違う。
違うと言っても、親鸞聖人の場合は、さらに展開して行くといった感じですが。
ここでは、親鸞聖人の六字の解釈を、そのまま記してみることに。
親鸞聖人の著述である、『顕浄土真実教行証文類』の行文類の六字釈です。
そして現代語版の和訳。
まったく、自分の言葉を入れずに、そのままに・・・。
しかれば南無の言は帰命なり。帰の言は、至なり、また帰説なり、説の字
は、悦の音なり。また帰説なり、説の字は、税の音なり。悦税二つの音は
告なり、述なり、人の意を宣述するなり。
命の言は、業なり、招引なり、使なり、教なり、道なり、信なり、計なり、召すなり。
ここをもって帰命は本願招喚の勅命なり。
「発願回向」というは、如来すでに発願して衆生の行を回施したまうの心なり。
「即是其行」というは、すなわち選択本願これなり。
「必得往生」というは、不退の位に至ることを獲ることを彰すなり。
『大経』には、「即得」といえり、釈(易行品)には「必定」といえり。
「即」の言は願力を聞くことによりて報土の真因決定する時剋の極促を光闡する
なり。
「必」の言は、審なり、分極なり、金剛心成就の貌なり。」
(浄土真宗聖典註釈版)
「南無」という言葉は帰命ということである。
「帰」の字は至るという意味である。また、帰説という熟語の意味で、「よりたのむ」
ということである。
この場合、説の字は悦と読む。また、帰説という熟語の意味で「よりかかる」という
ことである。この場合、説の字は税と読む。
説の字は悦と税の二つの読み方があるが、説といえば、告げる、述べるという
意味であり、阿弥陀仏がその思召しを述べられるということである。
「命」の字は、阿弥陀仏のはたらきというという意味であり、阿弥陀仏がわたしを
招き引くという意味であり、阿弥陀仏がわたしを使うという意味であり、阿弥陀仏
がわたしに教え知らせるとという意味であり、本願のはたらきの大いなる道という
意味であり、阿弥陀仏の救いのまこと、または阿弥陀仏がわたしに知らせてくだ
さるとという信の意味であり、阿弥陀仏のお計らいという意味であり、阿弥陀仏が
わたしを召してくださるという意味である。
このようなわけで、「帰命」とは、わたしを招き、呼び続けておられる如来の本願
のおおせである。
「発願回向」とは、阿弥陀仏が因位のときに誓願をおこされて、わたしたちに往生
の行を与えてくださる大いなる慈悲のこころである。
「即是其行」とは、衆生を救うために選び取られた本願の行という意味である。
「必得往生」とは、この世で不退転の位に至ることをあらわしている。
『大経(無量寿経)』には「即得」と説かれ、『十住毘婆沙論』には「必定」といわれ
ている。
「即」の字は、本願のはたらきのいわれを聞くことによって、真実報土(浄土)に
往生できる因が定まるまさにその時ということを明らかに示されたものである。
「必」の字は、明らかに定まるということであり、本願の自然のはたらきという
ことであり、迷いの世界にありながら正定聚の位に定まるということであって、
金剛心を得ているすがたである。
(浄土真宗聖典・現代語版)
これだけ読んでも、なかなか良く分りません。
それでも親鸞聖人は、ご自分の解釈を、丁寧に丁寧に解説されている。
少し違うだけで、この六字の解釈が違う方向に解釈されるかも知れないから。
経典が翻訳によって、その解釈が違っていることを、多くの書籍や経典を読まれ
て理解されていたのでしょう。
この親鸞聖人のご努力と、多くの著作によって、浄土真宗の教義はその道を
大きく外れることなく、現代に伝えられている。
でも、その究極の解釈が、「浄土真宗ニテアレ」というものになっている様にも
思います。
基本は、人々のすくいの一点にあるということを、忘れてはいけない。
そのために、親鸞聖人の教えがあり、そしてこの解釈があるのですから。
私たちが気をつけることは、その立場が逆になってはいけないということ。
よく逆になっている僧侶の方々がいらっしゃいます。
もちろん、私も気をつけなければなりません、法話でもそんなときが・・・。
- カテゴリ:
- 親鸞聖人に聞く浄土真宗の教え

今度、韓国からの交流グループの方々を宿坊にお迎えすることになった。
国レベルでは、竹島問題等がありますが、民間レベルではずっと交流を
続けていたそうです。
世界中の国々には、いろんな問題が横たわっている。
でも、個人個人の付き合いでは、それは別の話しになります。
とても穏やかな付き合いが、そこにはある。
そんな交流が、これからもずっと続けば良いですね。
その様な交流に、この宿坊がお役に立てたらと思っています。
できるだけ、くつろいでもらえる様に。
そして日本の家庭料理と、日本のお寺を体験してもらえたら。
一人一人のできることは少ないかも知れないけど、そんな思いの積み
重ねが、つながりを生むのかな。
それが、たくさんつながって行けばいいな。
6月と7月には、仏教や浄土真宗の講座を受講される方々の予約も
入っている。
こちらとしても、お一人お一人、心を込めた応対ができる様に準備を
する。
それぞれの思いが違うので、それぞれの思いにあっ様に。
それが、この宿坊を始めた意味でもあるのです。
そんな、新しいタイプの宿坊を目指しています。
これからも、この宿坊光澤寺においで下さる皆さんに、仏様の思いを
お伝えしたい。
そして、出会いとつながりを大切にして行けますように。
- カテゴリ:
- 宿坊光澤寺はじめました。

浄土真宗は、カタチがないので分かりにくい。
とか、頼りなく感じるとか。
そんなふうに言われるときがあります。
たとえば、座禅とか祈祷とか、厳しい修行とか、巡礼とか。
でも、釈尊は日々の暮らしの中に、その教えを伝えて行かれた。
親鸞聖人も、まさに自ら身をもって、日々の暮らしの中に入って行かれた。
決してお二人とも、山に籠って修行に専念されていたわけではない。
人のいる所に行って、その教えを伝えて行かれている。
釈尊に至っては、死ぬまで人々の生活の中に教えを伝えられている。
カタチにこだわると、そのことにとらわれる。
でも、仏教の基本は、ありのままに受け止めること。
そしてありのままに見る、それが四諦八正道の、正見です。
浄土真宗の基本もそう。
ありのままに見ることなのです、それは自分自身をも。
ありのままの自分を見る、そして自分を知る。
そこからすべてが始まる。
そのときに、阿弥陀如来の願いに気づかされて行くのでしょう。
ありのままに見たとき、それは無常であることに気づく。
無常であるがゆえに尊く、そして美しい、でもはかない。
はかなさは美の裏返しでもある。
でもそのいのちを、決して無常だけに留まらせはしない。
それが阿弥陀様の願いなのです。
修行や形にこだわらないこと。
それは、日々の暮らしの中にその教えが必要だからです。
そして、日常の中にこそ、その救いが必要なのです。
何も特別なことじゃない、今のあなたを見つめ見守ること。
それが仏の願い。
そして、それは無限のいのちへとつながって行くのです。
そこに念仏がある、念仏の世界が広がって行く。
念仏は弥陀の呼び声と言う意味が、そこにある。

浄土和讃のなかに、讃阿弥陀仏偈があります。
これは、阿弥陀如来を讃える詩ですね。
親鸞聖人が詠まれた、阿弥陀如来を讃える詩。
昨日の法話でお話しした和讃にこんな和讃があります。
「一々の華のなかよりは 三十六百千億の
光明てらしてほがらかに いたらぬところはさらになし」
「一々の華のなかよりは 三十六百千億の
仏身もひかりもひとしくて 相好金山のごとくなり」
こんな詩があります。
とっても美しく、とってもオシャレな感覚です。
こんな詩を約800年前に詠まれていたなんて、親鸞聖人は第一級の詩人
でもあるのですよ。
親鸞聖人の和讃が世界に広まっていたら、ボードレールやランボーも霞ん
でしまうかも知れませんね。
でも、この和讃には原題があります。
それは、親鸞聖人のお名前にもなった、曇鸞大師。
この方が、約1500年前に、この詩を詠まれているのです。
一一のはなのなかよりは・・・
一つ一つの華の中より光が放たれる、その光は三十六百千億もの光。
その光は、皆の心を安心へと導く光、その光がとどかないところはない。
すべての仏の思いは、光となって私たちにとどいているのだ。
なんということか、わたしのこころも、ほがらかになる。
仏の光につつまれる。
その後にはこう記されている
願共諸衆生往生安楽国
南無至心帰命禮西方阿弥陀仏
ここに、親鸞聖人と曇鸞大師の重なる思いを聞くことができる。
親鸞聖人は、曇鸞大師が好きなんだなあ・・・。
親鸞聖人の思いは、善導大師ではとどまらず、曇鸞大師と天親菩薩に
行き着くのだ。
日本の浄土教の終着点もである、親鸞聖人。
浄土宗との本当の違いは、ここにある様な気がする。
法然上人と親鸞聖人の思いのいたるところが違うのでしょう。
曇鸞大師から、親鸞聖人は往相還相の二回向を聞く。
そして、他力の世界へと誘うのである。
それは、歓びの世界。
それは、こころにとどけられる。
- カテゴリ:
- 和讃のこころ
- 浄土真宗ってどんな感じ。

今日、行政の方々が宿坊に来られた。
今は、中山間地の町興し村興しが、全国中どこの地区でも懸案事項です。
僕のお寺のある地域も例にもれず、でもそれほど観光資源がない。
滞在型宿坊を目指しているので、いろいろと意見交換をする。
NPOの立ち上げも検討中。
そうなると、行政との連携も不可欠になる。
目指すは、お寺を中心としたコミュニティー作り。
誰でもが来て、誰でもが安らげる場所、そして心の依り所となる場所。
そんな場所になれたらいいなと。
そんな話の中で、近くを通っている第三セクターの鉄道の話題になった。
不採算路線と言うことで、廃線の話しもあったが、いまではその駅舎が、
すべて有形文化財に指定されている。
その駅舎に、古いアメリカ製のレールが使われているのだそうです。
早速、駅に出かけて写真を撮ってきました。
1911年カーネギー社製のレールが、駅舎の骨組みに使われていた。
カーネギー社とは、古くのアメリカの鉄鋼王と呼ばれた会社。
ニューヨークのカーネギーホールを寄贈したことでも有名。
その当時のレールが残っているのは珍しいのだそうです。
マニアにとっては、結構魅力的な素材。

ただ取り壊されずに残っていただけの駅舎。
そこにも、いろんな歴史と思いがあったのです。

ちなみに、カーネギー社のオーナーであった、アンドリュー・カーネギーの
言葉にこんな言葉がある。
「裕福な人はその富を浪費するのではなく、社会がより豊かになることに
使うべきだ」と。
今はそんな時代ではないかも知れないし、逆に生活保護の問題まである。
富めるものも、貧のものも、どちらもが考えなくてはいけないのです。
富める者は還元しない、これは年金にも言えることかも知れない。
もらえるものが、少しでも下がったら困る。
少し前のJALの企業年金がそう、会社が潰れそうになり、国家の税金を
投入しているのにである。
そして生活保護はもらい得、これでは社会は成り立たない。
カーネギー社のレールを見ながら、そんなことも感じていた。
お寺は、やはり還元して行かなくてはならない場所。




- カテゴリ:
- 宿坊光澤寺はじめました。

今日は僕のお寺で、鳥取因幡組の門徒推進員協議会総会が開催されま
した。
午前中は晴れ、でも総会が始まる頃には雷雨。
風雲急を告げる、でも皆さんのパワーのおかげか、会議の終了の前に
雨上がりの快晴に。
浄土真宗の門徒推進員の方々は、それぞれのお寺のリーダー的存在です。
教えや作法を学ばれ、本山で厳しい?研修を受けられた方々。
各寺院の総代さんや仏教婦人会の役員をされていらっしゃいます。
本日は、鳥取因幡組の仏教婦人会会長さんや壮年会会長さんのお姿も。
やはり、お見かけしていると、永遠の「お寺ガール」と「お寺ボーイ」って感じ。
今日は、総会の前に私が法話を致しました。
遠路はるばる、山間部のお寺にまでおいでいただいた方々。
退屈しない様に、でもちゃんと教えを伝えなくてはと・・・。
僕にとっては、あっという間の時間でしたが、皆さんはどうだったのかな。
法話のテーマは、「やっぱり浄土真宗っていいね!」でした。
その心は、“日々の暮らしの中に教えがある”。
そんなお話しを致しました。
最後には、皆さんと一緒に記念撮影。
やっぱり、永遠の寺ガールと寺ボーイ、笑顔が素敵ですね。
皆さん輝いています。
法話で話した、「一々のはなのなかよりは」、の和讃とおり。
みんな仏様の光にあふれてる。
きっと心は幸せなんだな、それが阿弥陀様の願いだな。
これから一緒に鳥取因幡組を盛り立てて行こう、と心に誓う。
- カテゴリ:
- 浄土真宗ってどんな感じ。

今日は、夕方から百か日のご縁をいただきました。
百か日は、とわないお寺もあるようですが、僕のお寺では必ずお勤めする
ようにしています。
それは、そのご家族のため、そして思いをしっかりとお伝えするために。
百か日とは、卒哭忌とよく言われます。
もうそろそろ泣くのをやめて、次の一歩をといった感じでしょうか。
他には、四十九日で往生できなかった方に対しての、念押しの様な意味。
今度こそ、これで成仏してくださいと言うこと。
まあ、法事にはいろいろいわれがあるものですね。
今晩の百か日は、子どもたちや若い方もたくさん。
「讃仏偈」、「らいはいのうた」や「正信偈」を唱える。
子どもたちは、一緒に唱えてくれる。
子どもたちが一緒に唱えるときは、いつも以上に気合が入る。
間違ってしまうと、子どもたちも間違って覚えてしまうから。
より正確に、よりうれしく、よりありがたくをモットーにしています。
もちろん、いつも心を込めて唱えていますが。
寺ガールと僧職男子の話しをすると、女の子たちは興味津々。
でも、年配の女性も意外と・・・。
このお宅の親戚の方も来られていた。
その方も、このお宅の故人の一か月後に、ご家族を見送られたとのこと。
今日の法話のときに、思わず涙があふれられた。
きっと、心に思い当たることがあったのでしょう。
法事では、いろんなご縁があるのです。
百か日は、その大切な方にみんなで出会えるとき。
仏様になったその方に、みんなでお会いする。
そんな喜びの日でもある、悲しみの中でも、そんなことがある。
人は、たとえこの世のいのちが終わっても、すべて無になる訳じゃない。
だって、今日もこうして出会えてるじゃないですか。
そんな思いを、今晩はお伝えさせていただいた。
帰り際、その方がお見送りに来られた。
この方は、僕のお寺の檀家さんじゃないけど、いつかお寺に行きます。
そう仰られた。
そんなご縁もつないで行く、そんなこともある。
- カテゴリ:
- 浄土真宗ってどんな感じ。

お寺の周りは、田んぼ。
今の季節は、田んぼに水を張って、田植えもほとんどすんでいます。
稲の種類にもよるけど、この辺りでは、山沿いに添って、奥の方から田植え
が始まって、最後は下流域となる。
これは、やはり稲は、日照時間によって成長するから。
ここ周辺でも、早いところと遅いところでは3週間くらいは違います。
この田んぼの苗を見ていて、思ったことがあります。
それは、野菜や果物で、収穫する前と、収穫した後で呼び方が変わるものが
あることに気づいたこと。
野菜でも果物でも、収穫前と収穫後に名前が変わるものって、あまりない。
キャベツはキャベツ、茄子は茄子、リンゴはリンゴ、ミカンはミカン。
って感じです。
でも稲は変わりますね。
稲は、収穫後はお米になります、稲の実とは言いません。
別に普通に使ってるけど、なんでだろう。
似たものに、麦や蕎麦があるが、こっちは変わらない、麦は麦、そばは蕎麦。
やはり、お米は日本人の主食であり、生活に大きく関わってきたから、思い入
れが強いのでしょうか。
大切なものってことかな。
夕暮れの田んぼを見てたら、そんなことを感じた。
人間だってそうだよ、ちゃんと育てば、人から仏様になるんだ。
仏様の良いところは、私たちにとって身近な存在。
そして、私も仏様になることができるのだという。
人のいのちは、死んだらお終いではない、だからサヨナラもないのですね。
そう思うと、ちょっとうれしかったりするのです。
- カテゴリ:
- 浄土真宗ってどんな感じ。
- いのち

今日から6月、本願寺派の僧侶は、今日から衣替えです。
5月も結構暑かったりするのですが、いくら汗をかいても今日から。
お寺では、6月3日に鳥取因幡組の行事があるので、衣替えに合わせて、
お寺の掃除や池の大掃除をしました。
夏に向けて、ちょっと涼しげなのがいいですよね。
そういえば、お久しぶりに旧知の方にメールをしました。
宿坊を始めたことをお伝えすると、宿坊が宿望となりますように。
とのご返事をいただいた。
あっ、それっていいなと感じた。
浄土真宗の寺院には宿坊はほとんどない。
自然の中でゆっくりできて、浄土真宗のことや作法など、気兼ねなく聞ける。
そして、その教えをちゃんと学べる場所があったらいいな。
そう思って宿坊を始めた。
それが、いつか宿望になればいいな、希望の宿。

浄土真宗って、あまり形がないのだけど、教えを聞くことができる。
そして写経や瞑想も。
本や雑誌を読みながら、のんびり過ごすこともできる。
今の時代、こんな場所が面白くなるかも知れないと感じる。

心をリフレッシュさせる。
心に栄養を与える。
心に依り所を作ってあげる。
身体だけじゃなく、たまには心に栄養をどうぞ。

そして、皆さんと縁をつないでゆく。
そして、それがいつか、宿望となる。
いつでも帰って来れる場所に。
- カテゴリ:
- 宿坊光澤寺はじめました。
- いのち
sakurasakukoutakuj...