宿坊光澤寺日記・・ひとりばなしのつづき。

光澤寺&宿坊光澤寺&やずブータン村。 山里のお寺で繰り広げる「こころのふる里」作りとお寺復興プロジェクトや、宿坊に来られた方々との出会いも語ります。

2012年07月

浄土真宗のお寺で座禅を組む・・・夏休み子ども会だよ。

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今日は、お寺で夏休みの子ども会をしました。

靴を脱いでるところを見ると、子どもそれぞれに個性がありますね。
一人一人に、それぞれの環境と、それぞれのいのちがある。

みんな一緒にはできないなって思う。
学校は、あくまでも平等を重視しなくてはならないのでしょう。
でも、それでは納まらないところもある。

個性を伸ばすのは、家庭であったり、地域社会であったりするのかな。
お寺にもその役割はあるな、そう感じます。
それと、一人一人をちゃんと受け止めること。

お寺って言うと、やはり夏休みは、座禅をしたいと言う要望があります。
僕のお寺は、浄土真宗ですが、座禅も要望にお応えしています。
と言う訳で、今日は座禅も一緒にしました。
瞑想って、心の解放なんですよね、そして悟りにも近づきます。
自分を客観的に見つめて行くことも。

僕は、浄土真宗的、そして座禅と瞑想のミックスで、お釈迦様のように。
これって、小池龍之介氏もこんな感じかなって思うことがありますが・・・。
子どもにも大人にも優しいのです。

日本的な座禅ではなくて、お釈迦様的な瞑想を取り入れた座禅。
そんな座禅、でも基本はちゃんと教えます。
そして、その後に瞑想的要素を取り入れます。
今日は、お子さんたちに5分間、座禅をしてもらいました。
でも、お母さん方も熱心にやっておられましたよ。

そのあとは、絵手紙を書いてもらいました。
最近は、絵手紙をすることが多いなあ、でも決して手抜きではないよ。


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大人の夏休み・・・今日は婦人会編です。

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今日はお寺で、婦人会の研修をしました。

檀家さんでも、普段なかなかお寺に来られる機会がなかったりします。
そんな訳で、今日は婦人会の方々がお寺に研修に来られました。

午前中は、本堂でお寺のことや、これからのお寺の役割を皆さんと一緒に
お話ししました。
光澤寺の歴史的背景なども。
そして、NPOで町おこしのこと、お寺で婚活など、地域密着型のお寺を目指
すことなど・・・。
ぜひこれからも、ご協力よろしくお願いします。

そしてお昼は、僕が昼食を作って食べていただきました。
お口にあったでしょうか、ちょっと心配だったり。
でも、ほとんど残されていなかったので、良かったかな。
今日は、夏バテ防止メニューでした。

午後は、絵手紙体験もしていただき、皆で楽しく過ごされました。
何か、雰囲気は子どもの頃に戻って、夏休みの課題を皆でやってる雰囲気。
見ていたら、何か子どもの様な感じがしてきました。

やっぱり大人になっても、たまには夏休みが必要ですね。
皆さん、イキイキしておられて、若々しかったですよ。

歳はいくつでも、阿弥陀様にとっては、僕たちはいつでも、その子どもの様な
存在です。
手はかかるけど、いつまでも仏の子として僕たは、見守られているんだ。
そんなことを感じた、今日の婦人会の研修でした。

また来てくださいね。

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真実の世界に平等を見る。

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                            (大谷本廟の大賀蓮)
人にはそれぞれの人生がある。

でも、やはりすべてが平等ではない。
唯一平等なのは、生を受けたものは、必ず死に帰すということのみ。

仏教は平等を説きます。
なぜ平等を説くのか、それは私たち人間の世界は平等ではないからでは。

平等とは、やはり仏を前にしたときの、人間の姿でしょう。

人間は迷い、悩み、苦しみ、一瞬の快楽に己の歓びを見出す。
でも、それが錯覚だと気づくのには時間がかかる。
真の平等は、やはり、悟りの世界でしか実現できないのだとも感じる。

でも、そんな心を生きているうちに持つことが大切なのかも知れません。
すべてのいのちとつながって行く瞬間があるのでしょう。
そのとき、人は真の平等に目覚める。

念仏の世界は、そんな世界じゃないかと、つらつら考える。
そんな世界に目覚めたのなら、もうそこからは、考えが揺らぐことがない。
そんな世界がある。

日常生活の上での平等や不平等と言うレベルではないと。
日常には、差別もあり、いじめもあり、不合理が存在するのだ。
でも、それは真実の世界ではない、ただの日常の現実だと思ってること。

そこを突きぬけた先に、その世界はある、そこは正定聚と呼ばれるので
しょうか。
でもそれは、受け止めることしかないのです。

必ず死に帰すいのちであるのだから、しっかり受け止めて行かなくては。
真実の世界があるということを、念仏に生かされて行く道があるというこ
とを・・・。

そして、そのとき、私に見える世界が変わって行くのでしょう。



四七日・・・悲しみは絶えることなく。

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今日は、四七日のお勤めがあった。

まだ若い息子さんを亡くされて、その思いを受けとめることができない。
私も、法事でよくお会いしていたので、そのお気持ちを察すると、苦しくなる。

自分たちが歳を重ねて行き、その息子さんを頼りにしたいと思っていた矢先
のことです。
先日には、何故私たちにはこの様な試練があるのかと・・・。
そして今日は、これから先もずっとこの悲しみは続いて行くのか・・・。

そんなとき、私は何も適切な言葉をお伝えすることはできない。
お勤めの後、いろんなお話しをしならが、親御さんの言葉を聞くことの繰り返し。
ずっと思いを聞く。

その家の方々は、仏様や先祖を大切にされている。
なのに、なぜこんなことがあるのか、思っても思っても。

死は必ず訪れる、それは分かっていてもやりきれない。

今日は、『阿弥陀経』と『正信偈』をテープに録音したいと言われる。
ゆっくりと唱える、はっきりと分かる様に。

私にできることは、ただ寄り添い、お話しをお伺いすること。
そして悲しみをともにすること。

そして、法要をしっかりと丁寧にお勤めすること。
お経を一緒に唱えることも、大切なことなのです。

お経によっても、心は支えられている。
それは間違いない。

いまはとても心の整理はつかないでしょう。
もしかすると、一生つかないかも知れない。
でも、無理をする必要はない、ただそこに新たに生まれる思いがある。
それを受けとめて行けばいいのではないかと。

ゆっくりゆっくりと、そこにも仏の存在がちゃんとある。
自然に包まれて行くのだ。

そしてまた、生きるということを考える。
苦しさも悲しさも、そして喜びも。
包まれている私の存在があるのだ。

それがあるとき、その息子さんに包まれているということも気づかされる
ときが必ず・・・。

私も、ずっとご一緒させていただく、私のいのちがある限り。


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念仏者は無碍の一道なり・・・『歎異抄』第七条に聞く。

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『歎異抄』第七条にはこのようにあります。

「念仏者は無碍の一道なり。そのいわれいかんとならば、信心の行者には、
天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障碍することなし。
罪悪も業報を感じることもあたわず、諸善もおよぶことなくゆえに云々。」

ここでは、「念仏者は無碍の一道なり。」のひとことに尽きる。

この道を迷わず進めということであろうか。
その道は、何者によってもさえぎられることはない。

南无阿彌陀佛に出遇ったならば、迷わずにその道を進むが良い。
その道を歩むものには、天の神も地の神も、魔界のものも、違う道を歩む
ものも、すべてが敬い、ひれ伏すであろう。

今のあなたのままで、その道を歩むことができる。
何もおそれる必要などないのです。
いくら迷いの中にある存在で、とてもそこから抜け出すことがでいない様な
わが身であっても、仏に向かって一直線の道がある。

その道を歩むものは、何にも邪魔をされることはない、他の道に迷うことも
ない。

疑いなく、迷わず進んで行けばよい。

何とも大胆な、言葉であると思う。
そして念仏の道を歩むものに、これ以上の勇気を与える言葉は無い。

それは自分自身の決意でもなく、力でもない。
そう私が呼びかけられているのです、だからこそ心強い。

自分の宣言なら、何と傲慢な態度かと思うかもしれない。
でも、これは呼び声なのですね。

さあ、歩いて行こうではないか。
今のあなたのままで・・・。


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ZEN master ・・・ イチロー選手のこと。

05237899[1](ネットニュース写真より)

シアトルマリナーズのイチロー選手が、初めてメジャーリーグに移籍したとき。

その活躍を見た地元記者が、イチロー選手を表現するときに使った言葉。
それは、「ZEN master」つまり禅マスターと表現したことを覚えている。

そのときは、そんな表現もあるのかなと感じた。
なぜ、そんな表現をしたのか考えてみた。

常に自分のペースを頑なに守る、周りに流されない。
その姿が、禅の修行僧の様に映ったのかも知れませんね。

もう一つは、自己観察力であろう。
それはイチロー選手の言葉にも表れている。
自分の身体や精神状態を、常に客観的にとらえているのだ。
だから、周りはスランプとか不調と思っていても、イチロー選手はそれを不調
とは思っていなかったりする。
調子が良いことで、逆にその影響が出ていることなどを、冷静に分析できて
いたりするのです。
常に客観的に、筋肉の一部や身体の動きをとらえる。
もちろん精神状態も・・・。
これなどは、禅とか瞑想の観察に近い部分もあると感じる。

ただ、それをすべて自分のコントロール下におくのは難しい。
でも、それを意識しそこまで自分を徹底できるのが、イチロー選手のすごい
ところ。
日本からメジャーに行った選手で、成功できるかどうかは、感性だけでなく、
身体や心を自己管理でき、それを理論化できているかどうかがある。

日本で成功した感覚だけで海を渡った選手は、メジャーでは通用しないだろ
うと思う。
日本で一流と言うだけでは、メジャーではやはり通用しない。
通用している選手は、そこが決定的に違うと。

やはり、野茂やイチロー、ダルビッシュは、理論的な裏付けがあるのでしょう。

イチロー選手は、だからインタビューなのでも、そっけなかったり感情を出さな
かったり。
それと礼節を重んじる態度なども、ZEN masterと称せられる由縁か・・・。

イチロー選手が、ヤンキースに移籍した。
驚いたが、良い選択だと感じました。
やはり最後はヤンキースに移籍して欲しいと思っていました。

イチローはヤンキースのユニフォームも似合う。
さすが、礼節は重んじる人だな。
去り際も格好いいかな。
ヤンキースは常勝を求められる球団、あえてそこに自分を置く。

今回の件では、あらためてイチロー選手のすごさを感じた。

浄土は往くところ、還るところ? ・・・ 還浄を考える。

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少し前から、お葬儀のとき「還浄」と書かれることが多くなった。

昔は、「忌中」となっていることが多かった。

「還浄」は、とくに浄土真宗で使われるのでしょう、なぜなら、浄土に還るとい
うことから使われている様に感じます。

でも、本当は浄土に往生すると言います、つまり浄土は本来、往くところでは。
ではなぜ還ると言うのかな。

浄土真宗では、死を忌むべきものとは考えません。
冥土とか冥福とか、そんな言葉は使わない。
もちろんケガレとも考えないのです。
ただ、この世のいのちがたとえ尽きても、私たちには往くべき場所があり、
役割もちゃんとあると言うこと。
それが、阿弥陀如来の願いによって、約束されている。

そこで「忌中」という言葉に代わるものを探したら、「還浄」という言葉があった。
つまり浄土真宗の改革派的な一部の方々が中心となって、この「還浄」を使い
始めた、と言うのが真相の様です。
葬祭会館でも「還浄」と使うことが当たり前と思われているのでしょう、僧侶が
そう言っているからだけで、何も根拠はありません。

浄土真宗の一般の葬儀では、本来は「還浄」は使いませんよ。
そのせいか最近、浄土に還るということを言う人が多くなった。
浄土は還る場所ではなく、往くところ、これをはっきりしないといけません。

何処に還るかと言えば、私たちが住むこの世、つまり穢土です。
浄土に生まれ仏となった方が、この世に戻ってきて、有縁の方々を自由自在
に救い導く。
還ると言うことは、このことしかないのです。

では、「還浄」を使うときはどんなときか。
本来は、本願寺の御門主の葬儀のときにしか使わないものだそうです。
ですから、本願寺としては、一般の葬儀では使わない方が良いと・・・。
でも、浄土真宗のみ教えでは、阿弥陀如来の下では、皆同じ立場だとされる。
それが、葬儀で「還浄」を推進する人たちの主張の根拠であろうと思われる。

実は、このことは、僧侶もあまり知らない話しだと思います。
だから平気で「還浄」とするのでしょう。
私にはちょっと違和感があります。

ご門主のときに、「還浄」とする意味については、私も定かではありません。

でも少なくとも、「還浄」というのは、浄土真宗門徒にとって、あまりふさわしく
ない言葉であるのは事実でしょう。
何か、もっと違う言葉があると思いますが、皆さんはどうでしょうか。

浄土が故郷の様な場所になってしまう、阿弥陀如来の浄土は、本体はそん
な場所ではないのです。
なぜなら、仏の世界ですから・・・、それでは人は皆、仏だったということになる
のでしょうか。
そうではありませんね、特に浄土真宗では、そうはとらえないはずです。


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鳥取因幡組第6期連研を終えて

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今日は、鳥取因幡組の第6期連研の補講がありました。

連研において、受講時間が足りなかったり、必修科目を受けておられない
方に対しての補講となります。
補講の受講者は4名と少ないですが、逆にゆっくりと講義ができたかなと思い
ます。
今日は、受講生の方より、僧侶の方が多かったのですね。
でも、今日は人数が少なかったので、エアコンのある部屋での講義でした。

私も1時間の講義を受け持ち、お話しを致しました。
テーマによって、1時間でまとめると言うことは難しい面もありますが、基本的
な部分だけをお話しとなります。

これで、第6期の連研は、補講まで無事全過程終了致しました。
私が関わるのは、今回が初めてでしたが、30名の受講生全員が終了される
見込みです。
1か月に1回のペースで全12回のコースですから、皆さんの熱意は素晴らし
いと思います。
浄土真宗のみ教えは、やはりすごいなと、あらためて感じる所です。

鳥取ですから、冬の本堂は寒かったり、雪が降ったり。
また、夏は暑いですね、本堂で冷暖房完備の寺院は、まだ少ないですから。

そして、途中、80代の方が亡くなられた。
でも亡くなられる直前まで、この連研を受講されていた。
本当に頭の下がる思いが致します。

このご縁を、また次の第7期にぜひつなげて行きたい。
そんなことを思った今日の補講でした。

宿坊で合宿を企画する・・・少人数から。

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宿坊で合宿。

今回、たまたまのご縁で、関西のスポーツ少年団の宿泊をお受けすること
になった。
6月は韓国のテニス交流グループを14名受け入れたのが、最高の人数
でしたが、今回はそれ以上。
さすがに設備等が整っていませんので、宿泊費用をできるだけ安くして、
ご負担がかからない様にしました。
赤字覚悟の設定であります、やはり宿坊は、あくまでもお寺に親しんで頂く
場との信念で、累積赤字の中での運営です。

ただ、旅館業の申請では、今回の様なことも想定して、準備はしていました
ので、それは良かったかな。

気持ちとしては、田舎のお寺で夏合宿の様なイメージで来ていただくと助か
ります。
でも、僕が子どもの頃の様な感じじゃないんだろうなと思ったり。
良い思い出になればと、準備をせっせとしています。

でも、これを機会に、夏合宿とか、研修会とかを企画してみようかなと考えて
います。
自然に囲まれたお寺でゆっくりと過ごす、そして語らう、そして学ぶ。
時には仏教に触れる、そんな宿坊です。

来年に向けて企画と準備をして行きます。
合宿や研修会を検討されるときは、一度ご検討下さい。


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竪と横・・・蜘蛛の糸と親鸞聖人。

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仏教の教えには竪と横がある。

これは自力の教えと他力の教えに通じるものでしょう。
自力は竪、他力は横。

芥川龍之介は「蜘蛛の糸」を書いている。
カンダタが蜘蛛を助けた利益として、天から蜘蛛の糸が伸びてくる。
それをカンダタは一途に上るのだ、糸が切れやしまいか、誰がほかの人間
が上ってやきやしまいか。
何とか自分だけは助かりたい。

そして下を見ると、その蜘蛛の糸をたくさんの人間が上ってきている。
こんなに上ってきたら、糸が切れてしまう。
そう思ったカンダタは、「この糸は俺の糸だ、放せ。」と叫ぶ。
と同時に糸は切れ、カンダタもろとも地獄にまっさかさま。
こんなお話しではなかったでしょうか。

今は分りませんが、昔は教科書にも載っていて、道徳的教育の一環として
扱われていたと思う。
善い行いをすることの大切さ、そして自己中心的な心を諌めるお話しでしょう。
この芥川龍之介の話しは、自力の世界に通じているのだと感じる。
つまり竪。

善い行いをして、その功徳を自分の回向として行く。
そのようなイメージでしょうか、自力の世界のお話しである。
でも、結果は、多くの人はそこに救われない自分を見るのではないでしょうか。
もしくは、自分は絶対にそんなことはない、みんなを助けると。

でも、この本質は、たとえそうしたくなくても、そうせざるを得ない自分がいる。
そのことに気づくことが大切なのではないかと思います。
結局、自分はおろか誰も救えやしないのです。
そうであるのに、みんなそのことに気づかないふりをしている。
私だけは違うと・・・、結局カンダタと変わりはしない。

親鸞聖人は、もっと人間の本質を見つめられる。
そして横ざまに超える教え、つまり他力の道を選ばれるのです。

言っていることは、格好いい、もしくはもっともに聞こえる。
でも、実際はどうなのか、本質はどうなのか、それを追い求めて行かれる。

そして、そこが地獄であっても阿弥陀の救いはあると説かれる。
阿弥陀の浄土は、蜘蛛の糸を上ったところにあるのではない。
あなたが地獄と思っている、その場所にすくいは存在するのだと。

やはり、当時の日本の仏教界においては、あまりに進み過ぎた教えだった
のだろうと思います。

でも、竪の教えの限界をさとられていたのでしょう。
やはり、宗教は見せかけの道徳心ではないと言うこと。

これは、親鸞聖人の教えの根本でもある、「二双四重の教判」へとつながる。
横超断四流に・・・。

少し、このテーマを掘り下げてみたいと思います。


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九段下の駅を降りて坂道を・・・その先には。

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私は会社員をしているとき、飯田橋に会社があったので、地下鉄半蔵門線
に乗るときは九段下駅に行っていました。
仕事で渋谷や用賀方面に行くことがあったので、時々使っていた。

爆風スランプというグループの歌に、「大きな玉ねぎの下で」という曲がある。
かなりヒットしたと思います。
僕も昔はカラオケで歌ったことがあります。

「九段下の駅を降りて坂道を、人の流れ追い越して行けば、
 黄昏どき 雲は赤く焼け落ちて 屋根の上に光る玉ねぎ・・・」

の歌の通り、九段下駅から坂道を上がって行く方向は西方。
なので、夕陽に向かって歩くことになる。
すると、武道館に上にある擬宝珠が玉ねぎの様に見える、それが夕陽に
光っている光景です。

そして、その先には靖國神社があるのです。
右手に靖國神社の大鳥居、道に沿ってお堀沿いに進めば千鳥ヶ淵です。
どちらも桜の名所なので、春の時期は人でごった返します。

千鳥ヶ淵の桜並木に沿って歩けば、インド大使館などがあり、その先には、
千鳥ヶ淵戦没者墓苑に至るのです。
この辺りは、戦没者のご遺族にとっては、聖地でもあるかも知れない。
皇居のお堀沿いにある。

そこにどの様な思いを持つのでしょうか。
小泉首相の頃、靖国問題は大きなニュースであった。
首相の公式参拝の是々非々。
国論を二分するほどの話題でありましたが、その後民主党政権になって
からは、ほとんど話題にならなくなりました。

浄土真宗の本願寺派は、靖国神社自体にはコメントしませんが、首相の
公式参拝には反対を表明していました。
一宗派がこの様な声明を出すことは珍しいことだと思います。
それは、本願寺派が戦時中国と一緒になって、戦争を肯定したという事実
があるからです。
大谷派の有力者であった暁烏敏でさえ、僧侶でありながら、国に為に戦って、
靖國に英霊として祀られよと、当時の真宗青年をけし立ててていたのです。

そこには様々な問題が横たわっている。
その様な、戦争へ加担したことへの慚愧の念であるのでしょう。
それが本願寺派としての公式参拝への抗議となったのでしょう。

その様なわけで、靖国神社にはたくさんのご門徒さんがいらっしゃるのです。
そのことをどのようにご判断されるかは、それぞれの思いがあるでしょう。
しっかりと背景を学び、自分としての立場を持っておかれるということも、大切
なことではないかと思います。

何しろ、共通の正解というものは無いのですから。
だから、自分の立ち位置としての見解はあっても、他を批判するとか自分が
正しいとかということは言えない問題だと思います。

皆さんはどの様にお考えになられるでしょうか。




神とは・・・。

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明日は、鳥取因幡組の連研の補講があります。

連研12回で、事情があって休まれた方、必修の講義を受けられていない方
への補講です。
この補講を受講して、連研の修了証をお渡しできる方が数名いらっしゃる。

明日は僕も、補講の講義を1時間受け持ちます。
僕の担当のテーマは「神とは・・。」、サブテーマとして「靖國問題を考える」。

仏教において、神との違いを知っておくことが大切です。
「神も仏もあるものか~」とよく使いますが、本質的に神と仏は違うもの。
本来は、一緒にされても困るのです。
まあ、日本の仏教の宗派の中には、神とあまり変わらない様なケースもあり
ますが、本来はその存在自体が全く違うのです。

その神も、キリスト教やイスラームの様な一神教と、日本やインドの様な、
多神教の神では、また全く意味合いが違ってくる。
日本で、神様といったとき、どちらの神をイメージしているかで、捉え方が
まったく違ってきます。

そして、日本の神様も、神道でひとくくりにされますが、成立から背景まで、
これも様々ですね。
自然崇拝から、建国神話系、氏神から祟りを鎮める神様。
そこから、ケガレ思想や排他思想につながって行く面があります。
そして現存した人の祟りの鎮魂のための神社ができ、明治には現人神と
なった、そこに靖國神社問題が関わってくる。

これだけのテーマを約1時間でお話しします。

イメージは、池上彰の授業的なイメージでしょうか。
誰が聞いても分かりやすいもの。

そうだったのか、分かりやすい「神と靖國問題・・・」。

特に靖國問題は、その方の背景によって考え方が180度違う問題です。
どこにも正解はありません、その人の考え方が、その人にとっての正解。
ただ、その本質を知っておくことが大切ですね。

ただ、仏教はしっかりとそのことを明確にする教えでもあります。

田あれば田に憂い、宅あれば宅に憂ふ・・・。

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このあとには、

田なければ、また憂へて田あらんことを欲ふ。
宅なければまた憂へて宅あらんことを欲ふ。

これは、『仏説無量寿経』のなかの有名な一節です。

とても人間の本質をついた言葉だなと思う。
当たり前なことであるが、結局、人間の迷いは尽きることがない。

悩み事があると、他のことが頭に入らなくなる。
もうそれだけで苦しい、どうにもならない。

いつか、その悩みがなくなったとする、もしくは解決したとする。
それで、はたして人間はすくわれるであろうか。

いや、悩んでいたときには気付かなかった悩みが、今度は私を支配する。
ただそれだけのことなのだ。

本当のすくいとは、その様な私の心を、ありのままに見ること。
そして、やさしく受けとめるのだ。
そのとき、私は包まれていることに気づく。

それは光かも知れない、いのちのつながりかも知れない。
すべてがいとおしく、ときには私を苦しめる存在さえも。

そして私は欲望の正体に出合う。
それは単に私の心なのだと。
そしてそれは私の幻想なのだと。

でも、そんな自分を受けとめることも必要である。
そして本当の自分と出遇うのです。

結局、人間同士では解決できないことがある。
そのとき、仏がいらっしゃったならば、私は生きて行くという意味に出遇う。

今のいのちに出遇うのです。
そしてまた歩き始める、一歩踏み出せるのです。

そして私のいのちを歩む。
それが仏弟子としてなら、そこに喜びがある。
そんなふうに感じたりもするのです。

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猛暑の中の総代研修会、熱気はさらに・・・。

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今日は、鳥取因幡組の門徒総代研修会でした。

鳥取は連日の猛暑で、鳥取市内のお寺さんに約80名の方々が集まりました。
天候だけでなく、人の熱気も加わって、本堂内は相当暑かったと思います。

幸いにも、熱中症になられた方がいらっしゃらなかったので、良かった。
会所寺院も、朝からたくさんのご門徒さんが会場整備をされ、エアコンの入った
休憩室の準備や、お茶の準備など、受け入れ側の配慮もあったことも。

皆さん、ご多忙の中たくさん集まられて、鳥取因幡組の活動が盛り上がり
ますね。
有り難いことです。

ご住職の方々も、本日はたくさん集まられていました。

今日は、総代さんの作法のおさらい。
普段何気なくやっていることを、もう一度見直して行く。

浄土真宗の葬儀のとらえ方も、お話しがありました。
地域性や風土で葬儀は変わってくるので、基本を知っておくということで
しょうか。

鳥取は他宗派が多い地域なので、どうしてもそちらの影響を受けてしまう。
でも、昔に比べるとかなり変わって来たようですが、逆に葬儀の寺離れという
現実もあります。

基本をもう一度研修しました。
さて、みなさんはどうだったでしょうか。


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親鸞聖人、『教行信証』の最初と最後の言葉。

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弘誓強縁多生叵値、眞實浄信億劫叵獲。
遇獲行信遠慶宿縁。若也此廻覆蔽疑網更復経歴曠劫。
誠哉摂取不捨眞言、超世希有正法、聞思莫遅慮。

というこのご文。

「ああ、弘誓の強縁、多生にも値ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。
 たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。
 もしまたこのたび疑網に覆蔽せられば、かへつてまた曠劫を経歴せん。
 誠なるかな、摂取不捨の真言、超世希有の正法、聞思して遅慮するなかれ。」
                                     (註釈版聖典)
「ああ、この大いなる本願は、いくたび生を重ねても出遇えるものではなく、
 まことの信心はどれだけ時を経ても得ることはできないのだ。
 思いがけずこの真実の行と真実の信を得たならば、遠くかこからの因縁を
 よろこべ。
 もしまた、このたび疑いの網におおわれたなら、もとのようにはてしなく長い
 間迷い続けなければならないであろう。
 如来の本願の何とまことであることか。摂め取ってお捨てにはならないという
 真実の言葉である。世に超えてたぐいまれなる正しい法であるのだ。
 この本願の意味を聞いたならば、思いためらうことなかれ。」
                                    (現代語版)
これは親鸞聖人の著された『教行信証』の序文の一節です。
とても有名な言葉ですから、浄土真宗を学ばれた方であれば、聞いたことが
あるでしょう。
もしくは、好きな言葉なのかも知れません。

そして、この『教行信証』の最後に、『安楽集』より引文された言葉。

「いかんとなれば、前に生まれんものは後を導き、後に生まれんひとは前を
 訪へ、連続無窮にして、願はくは休止せざらしめんと欲す。無辺の生死海を
 尽くさんがためのゆゑなり」と。

この二つの文章、親鸞聖人の『教行信証』最初と最後の方にある。

その最後の最後には、

「もし菩薩、種々の行を修行するを見て、善・不善の心起こすことありとも、
 菩薩みな摂取せん」と。

で締めくくられている。
これは『華厳経』からの引用です。

この三つの言葉に、親鸞聖人の思いを聞くことができるのではないかと思う。

その思いに出遇ったならば、「聞思し遅慮することなかれ」なのです。
そして、「菩薩みな摂取せん」なのです。

いじめの根絶・・・いかにももっともそうな大人の論評。

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人が人でいる限り、いじめはなくならないだろう。
だから、その本質的な解決策はない。

そのことを理解しない限り、いじめの対策はできないのだ。

その典型が、文部科学省の対策。
いじめ半減を掲げて、件数を報告させる。
そんな子供的な発想しか、文部科学省にはないのか。
現場ではなく報告主義、成果主義に見せかけた、責任逃れとしか言えない。
たとえ半減したって、そこにいじめがなくなった訳ではないのだ。
数値目標を掲げることの無意味さにも気づかない、無関係の大人たち。

これでは、いじめを見えなくし、見ないようにし、いじめをいじめと扱わない。
今回の大津市教育委員会の対応そのものであろう。
もし、この事件が世に出なかったら、文部科学省と大津市教育委員会と
その中学校は、いじめに対して優秀な学校にや組織として評価されるので
ある。

マスコミでは、最近特に騒いでいる、いじめの問題で、一番大切なのは、
いじめの根絶だという論評が多い。
やはり、報道しているマスコミ自体が本質を理解していないのだろう。
いい加減な人たちが、適当な論評をしている、さももっとものような。

やはり宗教の世界と一緒で、学者や評論家は無責任だな。
自分たちが当事者でなければ、さももっともなことを言っていれば良い。
宗教だって、いじめだって、救われなければならない人たちが、そこには
いるのだ。

でも、いじめはなくならない。
それはなぜか、いじめの問題をこれだけ報道してきたにも関わらず、いじめ
は無くなっていないのだ。
ただ学校からの報告件数が減っただけだと気づかないのだろうか。
そして内容は、逆に、陰湿かつ凶暴になってきているのが現状。

子どもたちは、大人のような年数を生きてきていない。
だれもが、初めてのいのちを生きている。
そして、その社会環境は、大人たちが育った環境とは違うのだ。
だから、経験則や大人の言ってる意味が、よくは分からない。
だから、身を持って体験するしかない。
今回の件でも、いじめた側は、もしかすると今でも罪の意識がないかも
知れないのだ。

そこで、大人がいじめを止めようといったところで、それは自己満足でしか
ないということに、そろそろ気づいたらどうか。
標語をいくら作っても、無くならないのと同じことです。

先ずやらなくてはいけないのは、いじめを受けた子どもたちが、とにかく
逃げ場となるところを作ることでしょう。
それは、役所や行政では絶対にいけない。
今回の警察や教育委員会、学校の姿勢を見れば、そのことは明らかです。
まして、保護者やPTAと密接であれば、対応を間違える。
どちらにも距離があり、利害関係がないことが必要なのです。
早く、いじめ対策を、教育現場から切り離すことが急務なのです。

今回の一連の報道を見て、マスコミのいじめの根絶報道や、文科省の
いじめ対策は、空しく感じる。

慈悲に三縁あり。

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慈悲には三縁ありという。

一つは、衆生縁。
これは小悲なり。

二つには、法縁。
これは中悲という。

三つには無縁。
これは大悲である。

如来の大悲は無縁なのです。
ゆえに絶対。

大悲とはすなわち、出世の善である。
安楽浄土は、この大悲より生ぜるがゆえなればなり。
ゆえに、この大悲を言いて浄土の根とする。

ゆえに「出世善根生」というなり。

これは、天親菩薩の浄土論の解説書である『往生論註』を、親鸞聖人が
引用されて、『教行信証』に述べられているものです。

親鸞聖人の、往生浄土に関わることは、この『浄土論』と『往生論註』に
依るところが大きい。
天親と曇鸞、いわずもがな、親鸞聖人が最後に、自ら名を選ばれた方々
である。

親鸞聖人の詠まれた和讃にはこのように・・・。

「小悲小慈もなき身にて  有情利益は思うまじ
如来の願船いまさずば  苦海をいかでかわたるべき」

       (正像末和讃 悲歎述懐讃)

わたしには小悲も小慈もなき身である
そんな私に、衆生を救おうなんて思いなどない
たとえ思っても、適えることなどできない
如来の願いがなければ この苦海をどう渡って行くことができようか


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縁を紡ぐのつづき・・・昨日から今日、八上姫を追って。

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昨日、このあたりの古代の勢力図の話しを書きました。

今日は夕方から、友人宅で飲むことになった。
それも突然だったのですが、そこに親戚の人が友人を連れて大阪から
来られた。
山陰を出雲から鳥取まで旅行をされていたとのこと。

名前を聞くと、八上さんと言う。
うん、昨日、八上姫と大国主命の話しをしたばかりだなと思ったのですが。

旅行の理由は、八上という名前のルーツを訪ねて、八上姫を追って山陰を
周られてているとのことでした。
ちょっと、昨日の今日だけに、そのテーマにビックリしたのです。
そして、昨日、陶芸家の方と話した内容を、その方にすることになりました。

その方を見ていると、八上姫のようなイメージがありました。
本当に祖先かも知れないなと・・・。

そんなことを想いながら、お酒を飲んでいました。

昨日の陶芸家の方とのかかわりから、今日の八上姫まで、縁がつながって
来ています。
今日の方は、鳥取は初めてなのです。

そこに、いろいろつながってきてる。
何かありそうだな、これから・・・。





「幸せあるところ」・・・やずブータン村と浄土三部経。

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やずブータン村。

それは国民の95%が幸せと答える国、ブータンからその名をいただく。
ブータンは、私の知っている方が15年くらいまえに、海外青年協力隊で派遣
されて、国のITをお手伝いされています。
その方は、大手企業の情報部門にいらっしゃったが、退職されて行かれた。
当時は、何故そんなことするのかなと感じたものです。
お勤めの企業は、誰も知らない人はいない企業でした。

帰国されてからは、教員免許を取られて、先生をされておられる。
今考えると、そんな生き方もいいなと思う。
人生、いろいろだな。

そして、その「やずブータン村」の理想は、「幸せあるところ」。
もちろんブータンもそうですが、浄土三部経の経典からもいただいている。

「仏説無量寿経」そして「仏説阿弥陀経」。
これは浄土三部経のうちの、中心となる二巻ですが、この経典の原題は、
まったく同じです。
ひとつは阿弥陀如来を説き、ひとつは浄土を説く。
そして、その原題を日本語に訳すと、それは「幸せあるところ」となります。

そんな二つの思いをつなげたのが、やずブータン村の基本理念となる。
そこが誰にとっても、幸せあるところでありますように。

ひとつひとつ、その実現に向けてスタートします。


扇山窯を訪ねて・・・縁を紡ぐ、そして古代へと。

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先日宿坊においでいただいた方、陶芸に興味をお持ちでした。

近くにある窯元にご相談すると、陶芸を教えていただけることに。
窯の名前は、扇山窯(せんざんがま)。

近くにある、秀峰扇山(おおぎのせん)から名をとられています。

この方は晴耕雨読をモットーとする、陶芸家です。
ですから、お伺いしたときは雨だったので、よかったようです。
それと、こねることのできる土があること。

そこで意外なご縁を知ることに。
女性は、遠く東京近郊から鳥取の山の中にある宿坊を訪ねて来られました。
もちろん、初めて来られた場所。

そして、この窯を訪ねると、その陶芸家の方が学生時代に住んでいた場所と、
その女性の方の家がすぐ近くと言うことが分りました。
こんな田舎で、よくその様な縁があるものだと、三人で驚いたのです。

やはり、いろいろな縁が偶然重なるものだなと、あらためて感じた次第です。

今日は、そのときのお礼に窯元を訪れていました。
そこで、いろんなお話しをお聞きすることができました。

その中には、このあたりの地名である丹比についてのお話しも。
丹比はたんぴと読みますが、その昔は、たじひと呼んだそうです。

山陰は、古代は出雲文化圏でした。
それに対していたのが大和文化圏、つまり大和と出雲の争いがあった。
そして、この辺りがその最前線だったそうです。

たじひは大和勢力側、そして近くには出雲勢力の八上姫の里がある。
八上姫(やがみひめ)とは、大国主命(オオクニヌシノミコト)の嫁取りの物語。
因幡の白兎のお話しです。
つまり、八上姫の里は出雲勢力がそこまで来ていたということ。

そのときの名残で、つい最近まで勢力争いをしていた村があったということです。

大和と出雲の争いという古事記の時代の話しをお伺いすることが出来ました。
私も興味があるので、また話しを聞きに行くことにします。

もちろん陶芸のお話しも聞きました。
そちらも興味深い話しがいろいろ・・・。

楽しい時間を過ごさせていただきました。


縁起でもない、縁起のお話し。

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その昔、一休禅師が「親死に、子死に、孫死に」と言われた。
それは、偉いお坊さんに、ありがたい話しを何かして欲しいと思って一休禅師
にお願いしたときのお話しとして伝えられている。

ありがたい話しをお願いしたのに、死ぬなんて縁起でもない・・・。

でも、本当はこのお話し、歳の順に死ぬのだから、めでたい話しなのですね。

縁起でもない、という言葉。
縁起であればこそ、生あるものは必ず死に帰すのが道理。
縁起でもない、ではなく、まさに縁起の中にあるのです。

縁起が人の手にかかると、真逆の話しになってしまう。

人のいのちは、縁起の中。
縁起ではない世界は、浄土か仏か。
そこにこそ絶対がある。
逆縁などという言葉があるが、子が親より先に死ぬというときに使われている。
でも、そのことを本来は、逆縁とは言わないでしょうね。
これは人間世界の感情的解釈だと思います。
逆縁と言っておけば、話しがしやすいと言ったレベルでしょう。
昔は、子どもが生きられなかった時代ですから。
現在、平均寿命が長くなった一番の要因は、子どもや乳幼児の生存率が、
格段に上がったことです。

縁起の世界には、絶対はないのですね。
絶対安全だ、と言っていて、安全だったためしがない。

絶対死なない。
絶対治る。
絶対安全。
絶対大丈夫。

まあ、宗教でも、現世利益を一所懸命に説く宗教は、こんなことでしょう。
所詮こんなところ。

もっとひどいのは、前世の業。
これなどは、業の意味さえもはき違えていますね。

この世のことで絶対と言っていたら、その人はウソツキかインチキだと思って
差し支えない。
世間に絶対はないのだから。
それが宗教だったら、なおさら。

先日も、あるお寺にお参りしたら、門があって「祈願所」とあった。
災害厄除け、家内安全、無病息災などなど、霊験あらたかなのでしょうか。
でも、そこのお寺は火事で全焼していたのです。

もちろん無意味と言っているのではありません。
そのとき、その方を一時的にでも自己満足させることがあるかも知れません
から。
でも、あくまでも一時的な自己満足でしかない。

そのことを受けとめることが、縁起に生きるということ。

だから、今を精一杯生き切るのです。


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ご門徒さん宅の、ご本尊の修繕をした。

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お寺の親鸞聖人お厨子。         修繕後です。

(本文は写真とは関係ありません)

ご両親がなくなられて、もうすぐ七回忌になられる。
そのご門徒さんから、お仏壇の中にあるご本尊の修繕の相談があった。

私は、あまり詳しくないので、同じ宗旨のお寺さんに相談させていただき、
ある仏壇屋さんにご本尊をお持ちしてみました。

ご本尊は掛け軸の絵像と、同じく掛け軸の九字名号と十字名号の三幅。
戦前のもので、かなり古く痛みも相当なものでした。
ただ、先祖が大切にしてこられたもの、大きさもかなり大きく、何とか修繕し
たいとの思いが強かった様です。
本当は、生前にご両親が修繕しておきたかったとの思いもあったもの。

お仏壇もご本尊も、先祖が大切にされてきたものを、引き継ぐことが大切な
様な気がします。
たとえ、掛け軸の絵像が黒くなっていても、掃除や修繕をして、できるだけ
そのままに・・・。
お寺のご本尊も、そのまま修繕をして使います。
いくら絵像が分からなくても、そのままがいいのです。

表装も西本願寺専用のものでしたので、同じ表装での修繕をお願いする
ことになりました。

こうして先代からの思いもつながって行きます。
大切な思い、そして大切な仏様、ご縁がつながりました。 
                                        合掌

やずブータン村を始動します・・・メンバーも募集中。

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やずブータン村をどうカタチ作って行くかを考えている。

先ずは、その活動理念。
そしてメンバー集め。
次にカタチ造り。

そして活動がある。

最終的な目標は、NPOとして収益を上げられるということになる。
もちろん、その前提として、村おこしと地域貢献。
そして、そこに関わる方々の幸せを追求するということ。
理想とするところは、はるか彼方ですが、そこを目指して。

もうそろそろ、具体的な立ち上げに入って行こうと考えています。
先ず、その第一弾として、宿坊光澤寺を舞台として、婚活の支援。

その名は、宿坊コン。
お寺好きの人々に集まってもらい、婚活をしていただく。
共通の趣味や価値観があるので、いろんな講座を受けながら・・・。
もちろん懇親会も盛り上げたいですね。

その前に、講演会をする予定にしています。
講演会には、お寺だけじゃなくて、県内・県外を問わず、たくさんの人に集ま
ってもらいたいと思っています。

そして、夕方より一泊で、宿坊コンに・・・。
これは、あくまでも第一弾です。
でも、「やずブータン村」活動イベントとして、最初の取り組みになります。

来春には、第二弾を「やずブータン村」が中心となって、村おこし婚活パーティー
を実施したいですね。
これも、県内に限らず、県外の方々にも集まってもらいたいと思います。

婚活支援が中心ではないですが、地域おこしの一環として始めたいと考えて
います。
今年度中には、NPOとして立ち上げる様に準備中。

立ち上げメンバーになっていただける方がいらっしゃいましたら、是非ご一報
下さい。
特にエリアは限定致しません。


連絡につきましては、光澤寺HPからどうぞ。


宿坊の料理・・・夏は岩牡蠣をどうぞ。


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鳥取の夏の味覚は、何と言っても岩牡蠣(イワガキ)です。

すべて天然物で、とても大きいのです。
市場で買うとき、殻を割ってもらう、そして洗ってレモンを絞って食べる。

牡蠣好きにとっては、たまらない逸品です。
最近は結構有名ですが、少し前までは県外の方々にはあまり知られてなかった。

でも、県外からわざわざ、この夏の味覚を食べにやって来られる方も多い。

牡蠣は冬と思っておられるでしょうが、鳥取は夏。
それも生のまま。

この大きな岩牡蠣を東京で食べたら、おそらくすごい値段になると思います。
まあ、ここまでの大きさのものは、あまりないかも知れません。
多分、一個が3千円くらいになるでしょう。
でもあまり県外には、天然の岩牡蠣は出回っていないと思います。

日本海側なら、どこでも獲れると言う訳ではありません。
岩牡蠣が有名なのは、鳥取と秋田くらいでしょうか。

季節ものですので、6月~8月にかけてくらいですね。
殻は自分で割るのは、とても固く大きいので至難の業です。

なので市場で割ってもらうのですが、新鮮さが命なので、やっぱり鳥取で食べる
のがいいですね。

鍋に入れたりとか、蒸したりとかは、もったいないので絶対に生で。

ご希望により、お出ししています。

今回は、ちょっと地元の名産品をご紹介しました。




7月10日の夕景・・・そこにあなたは何を見るのだろう。

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宿坊から見た、7月10日午後7時過ぎの夕景です。

結構雄大な風景ですが、こんな自然に囲まれた場所にお寺はあります。

周りは山ですが、広がった空間があるので、朝日や夕暮れはゆっくりと見えます。
特に西方は最後まで日の沈むのが見えるのです。

極楽浄土は、西方に十万億仏土を行ったところにあるという。
やはり、夕陽が沈む方向に、自分の人生やいのちを重ね合わせずにはおれない
のでしょう。

僕も、お寺から夕陽を眺めながら、極楽浄土を思い浮かべることが多い。
僕も人生の終わりを意識しているのだろう。

やはり、浄土には往生したいと想う。
そこは阿弥陀如来の願いを受けとめるしか、僕にはなさそうだなと、あらためて。

そこにあなたは、何をみるだろうか?


他力といふこと。

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浄土真宗、すなわち親鸞聖人の教えは他力である。

日本に伝わった大乗仏教は、最終的に自力聖道門と他力浄土門へと展開
されて行く。

その過程で、浄土の教えが一つの宗派となって、日本で結実して行くのだ。
日本で最終的に展開された仏教は、この浄土の流れであると言えるでしょう。

親鸞聖人が正信偈で説かれた、「真宗教証興片州」には、この様な意味が
込められているでしょう。

その他力の解釈は、いろいろな見方から説かれています。
基本的には、阿弥陀如来の本願のはたらきのみを他力という。
では、その他力とは一体どんなものなのか。

どの立ち位置で説くかによって、言葉の違いがあると思いますが、全体像を
とらえると、私はこの様に考えるのです。

仏教では、縁起を説きます。
龍樹の説いた縁起は、空と無自性に展開されて行きます。
龍樹であるから、大乗仏教における縁起観であるでしょう。

また、龍樹は、縁起を釈尊の説いた教えへと回帰させようともされている。
当時仏教の主流であった、説一切有部を中心とした、上座部仏教で説かれ
た縁起は、釈尊の説いた縁起ではないと考えたのです。
それが大乗仏教の理論構築となって行ったことは、ご存知の通りです。

その縁起における空は、日本の禅宗を中心にひろまった無に通じるもので
はありません。
この無の思想は中国と日本独自に展開されたものと考えた方が良いでしょう。
つまり、中国での翻訳作業における、誤訳とされています。
でも、それがひとつの、日本の禅と言う思想形成につながっています。
侘び寂びという、ひとつの文化にもなっているのでしょう。

この縁起という思想において、私たちのいのちを見つめて行くもの。
ただ、このいのちを無常な存在として終わらせないもの。

縁起を大きく包み込む存在、それが他力というものであると考えます。
浄土真宗では、あまり空ということを直接説いてはいませんが、空を含めた
縁起と言うものを、支える存在、包み込む存在として、他力はあるのだと、
私は考えます。

以前にも書きましたが、親鸞聖人の教えは、全編にわたって空で貫かれて
います。
その空を包み込む、無常のいのちを包み込むものこそが、他力なのだと
感じるのです。


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南無阿弥陀仏・・・私はあなたの生きる力となろう。

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南無阿弥陀仏、それは阿弥陀如来の誓い。

そして、その阿弥陀如来のはたらき、それはずっと、そして今も。

南無阿弥陀仏となって、あなたの生きる意味となる。
そして、あなたの生きる力となろう。

そう言っているようにも感じる。

その言葉に、私は仏弟子となって、道を歩くのだ。
今までそこに道があるなんて気付かなかった。

でも、今は歩む道がそこに見える。
勇気を持って踏み出すのだ。

そのとき、私はあなたの道標であり、あなたの力となって、いつも傍に
いるのだ。
そう仰られているように・・・。

日々の暮らしの中で、迷いの中で、私はあなたを見守っている。

南無阿弥陀仏                    合掌


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「パッチギ・・イムジン河、水清く」・・・思いが交錯する。

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今日、ネットで「パッチギ」のネット配信の記事を見て、ついネットで見てしま
いました。

昔見たのを懐かしく思ったのと、いろいろ感じることが多い映画です。

ひとつは、以前会社で一緒だった先輩が好きだったこと。
多分、面白いからと、一緒に見たと思う。
ふたりで上野の飲み屋で、イムジン河を歌ったことを思い出した。
僕が転職したあとも、ずっとお付き合いしていただいた。
会社を辞め、僧侶になることを話すと、タイに連れて行って下さったことも。

僕が京都で修業中、夜中に突然電話がかかってきて、お兄さんの三回忌の
後だった様。
「兄貴は浄土に往けたかな?」と電話口で。
その後、「俺でも浄土に往けるかな?」と仰られた。
その方は、浄土真宗ではなかった。
でも間違いなくとお応えした。
その電話の後、寮の暗い部屋の中で、一人で「阿弥陀経」を唱えた。

その先輩も5年前、上海に出張中に突然亡くなられた。
口が悪かったけど、やさしい方だったな。
私の生きる力を貰っていたな。

この映画の出演者もスゴイのです。
主演が、塩谷瞬と沢尻エリカ。
今別の意味で話題の二人ですね、そしてもうひとり、高岡蒼佑。
こちらも宮崎あおいとの問題で、話題だったですね。
そして、オダギリ・ジョーも出演している。
何というキャストだろうか。

今考えると、今のタイミングですごい人たちが出演しているのです。

おまけに、塩谷瞬の設定は、京都の浄土真宗のお寺の息子。
それも本願寺派だな、最後は僧侶姿でデートに向かうところ。
月参りからの帰りかな。

そんなこんなで、久しぶりに見ると、いろんな思いが重なって、最後まで
見た。

朝鮮総連、学生運動、差別問題、グループサウンズ、フォークブーム。
いろんな60年代の要素が詰まった映画でもあった。

あのころはみんな苦しくても輝いていた。
これから一気に高度経済成長へ突入して行く日本。

出演者も、この映画では皆輝いている。
塩谷瞬も沢尻エリカも純粋に見えた。

あれから日本も、時代も、出演者も何があったのだろうか。
それとも、すべてが幻なのか?

そんなことを、つらつらと・・・。

親鸞は弟子一人ももたず候ふ・・・。

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これは『歎異抄』第六条で説かれている言葉です。

この、「弟子一人ももたず候ふ」という言葉は、親鸞聖人の立ち位置を、よく
顕しているのかも知れません。

親鸞聖人には、関東を中心に多くの門弟がおられたのは事実。

ただ、ここではあくまでも、他力信心であるから、自らのはからいにあらずと

言うことでしょう。

念仏者は、あくまでも阿弥陀如来のはからいによってのみ、その道を歩む。
仏弟子であって、誰かの弟子ということはないのだ。

法然門下で論争となった、法然上人の信心も、我が信心も同じと説かれた
意味にもつながって行くのでしょう。

あくまでも、阿弥陀如来より賜ったものであるならば、その信心に差はない。
そう親鸞聖人は主張される。

他の兄弟子は、とんでもないということになる。

この辺りが、自力と他力の境目なのかも知れません。

つまり、念仏を我がものにしてはいけないのだ、そして自らの功徳に代えては
いけないと。
法然上人も、おそらく同じ考えだったでしょう。

ただ、そこは自力の仏教から抜け切れなかった、兄弟子たちには理解し難い
ところ。
それが、浄土宗と浄土真宗の違いにもなってくるところでしょう。

いくら教えを聞いても、その一線には壁がある。
その壁を取り払わないと、他力の道には進みにくいのかな。


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アジャセの心

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9月に出雲で「親鸞わが心のアジャセ」の公演が行われる。

親鸞聖人750回大遠忌の記念公演の一環で、各地で公演されていて、
今度は山陰地区での上演となります。

アジャセは、親殺しの罪を犯すインド・マガタ国の王子である。
この物語には、様々な人間の心が描かれている。
それは『仏説観無量寿経』にも説かれているのだ。

第十八願で願われた、十方衆生のすくい。
そこには但し書がある。
「唯除五逆誹謗正法」と・・・。
五逆は、その時代や背景によって変わってきますが、親殺しも五逆罪
である。

すべての人々を救うと書いた後に、何故但し書があるのか?
それでは、すべての人とならないではないか。
そのことの問いを自分自身で解決しておかないと、浄土真宗の僧侶とし
ては本願が語れないですね。
ただ、解説書を読んだだけでは、そこの思いには届かない。

本願文に接する機会があれば、そう感じられる方々も多いのではないか。
ただ、僧侶以外の方は、本願と言うことは知っているが、その内容までは
知らない方が多いのではないかと思う。
すると、本願文の最後に、この但し書があることも、ご存知ない方も多いの
かも知れない。

アジャセは親殺しである。
この公演はどの様な脚本なのか分かりません。
各地で上演されているのでしょうが、私には予備知識がないので、とりあえず
9月の公演に行って見ようと思っています。

僧侶と陶芸家のスタイルに感じたこと。

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陶芸家の方と話しをする機会があった。

傍目から見ているのと、直接話しを聞くのでは、やはりかなり差がある。
簡単に、陶芸体験といったことができないのだそうです。

陶芸教室や観光客向けであれば、準備もできるのでしょうが、実際の窯元
であれば、いろんな問題があって、対応は難しい。

そんななかで、話しをしていると、僧侶と共通しているところがあった。

ひとつは、その年齢でしかできない作品があるということ。
先ず作品をみるときは、何歳くらいの人が作ったかをイメージするそうです。
その方の経験と年齢は、必ず作品にでる、ごまかせないのだそうです。

僧侶もそうですね、法話をするとき、その方の経験と年齢がやはり出る。
もちろんうまい下手はあるでしょうが、その人を超えたものはない。
若い僧侶が、年齢を経た僧侶から聞いた話しをしようとすると、そこに違和感
がある。
浄土真宗の若手僧侶が気をつけないといけないところ。
そんな話しなら、何も若い僧侶から聞く必要がない。
若い僧侶の方なら、若い僧侶の感性で話した方が、相手によく伝わる。
やはり、その年齢でしか話せない内容があるのでしょう。

あとは、いくら技術があっても売れるかどうかは、運次第。
特に陶芸と言う世界はそうなのかも知れない。

下手でも販売ルートに乗ると、売れっ子作家になることがある。
上手くても、機会がなければ、作品が売れないということにもなる。
あとは、やはり運。
やはり難しい世界、好きでなければやって行けないでしょう。

絵画や美術、芸術の世界は、生きているとき不遇で、死んでから名声を得る
こともある。

僧侶もそうかな、勉強して、立派な僧侶になっても、生活できるかどうかの
保障はない。
逆に、真面目だと、その教えをしっかりいただこうとする。
すると金銭的には恵まれないかもしれない。
僧侶の意識は低くても、葬儀会社とうまく組んで、楽な生活をしている人も
いるかも知れない。
また、お寺の檀家数が多ければ、生活に困ることはない。

作品や教えに生きようとすると、難しい面があるのでしょうか。

陶芸家の話しを聞きながら、そんなことを考えていました。

僧侶も陶芸家も、なかなか自分のスタイルを変えられない仕事だなと・・。
私も器用な方ではないので、いつも正面から行くことを考える。
でも、それしか自分にはないなとも感じる。

会社員をしていたときもそうでした、いつも正面突破。
やっぱり器用には生きられないな。
でも、それが悪いことばかりでもなかったりする。

あとは運と時に任せるしか・・・。

「自分の道を歩む」こと。

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「自分の道を歩む」

これって、できそうでなかなかできない。

人は周りの価値観に左右される。
迷いの道である。
その迷いの道から、自分の道へと歩みを進める。

それが仏の道を歩むということなのかなって思う。

今は見えていなくても、いつか分かるときが来る。
歩んでさえいれば。

そう、だから一歩踏み出すのだ。

答えが見つからなくても、あなたの歩んだ道はある。
それが答えかも知れない。

それが自分さがしの旅。
ただその先は指し示されている、阿弥陀如来によって。
釈尊によって、親鸞聖人によって。

あなたが、その道を歩む決心をしたとき、その道が拓かれるだろう。

私はそう信じる。

道を歩む決心をしたなら、いつかあなたが辿り着いたところが、答えなのだ。

宿坊の講座風景・・・宿坊に泊まろう!

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東京から宿坊においでいただいています。
OLをされているとのこと。

今回は時間があるので、できるだけゆっくり体験をしていただきたいと思い、
準備をしています。

仏教と、浄土真宗の基礎講座。
絵手紙を書いてみる。
そして今回は、特別講義として、陶芸体験をしていただきました。

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陶芸は、陶芸家の方にお願いして、土を楽しむをテーマに。
普段はお受けされないそうですが、今回は特別にお願い致しました。
陶芸初体験でしたが、満足していただけたかな。
写真ではかなり本格的ですね。

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自然の中の何もない山里。
でもその静けさの中で、お寺に泊まって、お勤めや作法を学びます。
そして仏教に親しみ、普段できない体験をする。

写真の了解をいただき、講座風景を載せてみました。


宿坊光澤寺のHPはこちらから!


宿坊へ東京から仏教の勉強に・・・。

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本日より4日間、東京のOLの方が光澤寺に仏教の勉強に来られます。

夏季休暇を取られて、鳥取まで来られる、有り難いご縁です。

いのちについて、考えることがあったとのことです。
それで、浄土真宗のこと、集中して学びたいと思われた。
ご実家は他宗派だそうです。

4日間の講座のカリキュラムを組み、宿坊を準備しました。
これから、鳥取空港までお迎えに行きます。

鳥取の山里の宿坊でゆっくり、リフレッシュしていただきたいですね。

自分の死に方を考える・・・無量寿の会。

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仏教では無常を説きます。

分かっていても、自分はその中にいるとは考えない。
考えたくないのかも知れません。
自分とは一番遠い存在と感じるか、そう感じたいのです。

でも、覚悟という言葉がある様に、そのことを基準に考えると、後悔しない
人生が送れるのではないか。

当たり前のことを、当たり前に考える。
そして、個人個人の価値観や思いも違う。
でもみんながどんなこと考えているか、どんなことしてるのか。

少しずつ準備をしてみてはいかがでしょう。

お寺でNPOを立ち上げる予定ですが、名前は「やずブータン村」。
そのテーマは、人生を豊かに生きる場所を作ること。

でも人生の最後は、必ず訪れます。
それは突然かも知れない、病気で寝たきりになるかも知れない。
だから元気なうちに死をちゃんと考える。

そこで、『無量寿の会・・・自分の死に方を考える』を作ろうと思っています。
死に方を考えるってことは、残りの人生をどう生きるかを考えること。
エンディングノートが葬祭会館で流行っているそうですが、やはりいのちの
こと、真剣に、でも気楽に、そして真面目に楽しく。

現代は長寿の時代、時間はたくさんある。
どう死ぬかを考える、それは生きることと一体なのです。

光と陰、生と死、機と法、すべて一体、不離の存在です。
両方あって、初めてその存在があるのだ。

そろそろ、自分の死に方を考えてみる。

そんな場所があってもいいかなって思う。


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葬儀に想う・・・残されたものの役割。

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お葬儀が突然入った。

私のお寺では、枕経の連絡が入ります。
やはり、連絡は夜中が多い、たとえ何時であっても枕経のお参りに行きます。
ですから、夜中の電話がなると、一瞬ハッとします。

今回の電話が、突然と思ったのは、まだ若い方だったからだ。
お父さんから電話が入った、お盆参りのことかなって思ったのだが、電話口
から伝わったのは、30代前半の息子さんの枕経。
やはり、一瞬言葉を失う。

枕経と一般的に言われるが、浄土真宗では臨終勤行という。
元々は、その方のこの世のいのちの終わりに臨んで、一緒にお勤めする
最後の読経となる。
やはり、悲しみのなかでも、何かしてやりたいと思われる。
だから、一緒にお経を唱えるのです。

そして、通夜勤行、今日は自宅で出棺勤行をお勤めして、葬儀会場へ向かう。
葬儀式のあと、火葬場まで同行し、火屋勤行を勤める。

ずっと悲しみの中の葬儀であった。

ただ、残されたもののできることは、故人をしっかりとお見送りすることである。
まして、僧侶の役割はそこに尽きる。

読経も作法も、しっかりお勤めしなければならない。
葬儀式の終わりには、参列者の方々へ短い法話も致します。

故人の思い、仏の意味、法名のこと、しっかりお伝えせねば。

これから、還骨のお勤めがあります。

どうぞ、永遠のいのちとして往生され、私たちを導く仏様となってください。

合掌

今週末は、大人の週末でした。

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今週末は、まさに大人の週末。
男性お二人が宿坊に来られました。

絵手紙も体験され、篆刻もされて、ちょっとだけ本格的になりました。
宿泊された方の絵手紙は、一枚は宿坊に置いていただいて、飾ろうかな
と思っています。

仏教講座もご希望でしたので、仏教入門講座を二時間講義。
二日目は、プチ瞑想も体験されました。

瞑想は、精神のリフレッシュにはいいですね。
修行と言うより、これは一つの体操のようなものです。
なのでお気軽にどうぞ。

お二人は、週末の時間をゆっくり過ごして行かれました。
リフレッシュできたかな。

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 (瞑想中です)


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