宿坊光澤寺日記・・ひとりばなしのつづき。

光澤寺&宿坊光澤寺&やずブータン村。 山里のお寺で繰り広げる「こころのふる里」作りとお寺復興プロジェクトや、宿坊に来られた方々との出会いも語ります。

2012年08月

『阿弥陀経』講義(上)・・・その意味するもの。

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昨日から今日まで二日間、出雲での僧侶研修会に行って来ました。

内容は、『阿弥陀経』講義でした。
やはり、なかなか珠玉の講義でした。

浄土真宗の僧侶にとって、『阿弥陀経』と『正信偈』は、一番唱えることが
多いものです。
ただ、『正信偈』は親鸞聖人のみ教えなので、それなりに皆が勉強される
と思いますが、『阿弥陀経』については、以外と勉強していない方が多いの
では?

短い経典ですし、中心経典である『無量寿経』や、物語的で実話に基づいて
いる『観無量寿経』に比べると、軽くみられる傾向があるのかも知れません。

でも本当は、この経典の持つ意味の深さや、その背景はとても重要なので
す。
そのことを、今回の講義でより感じることが出来ました。

『阿弥陀経』は、大乗仏教の成立過程で大きな位置を占めています。
また、在家者仏教においては、そのキーストーンの役割を果たしているの
です。
お勤めをするとき、僕は経典の光景をヴィジュアルで頭に浮かべながら、
お唱えてしているのですが、今回の講義でそれがより鮮明に浮かび上が
って来ることになります。

それは二千年の歴史を超えて、僕に届けられる。
まさにそこに千二百五十人の比丘と一緒にいるかのようです。

それが、今僕が唱えていても、そのままの迫力で迫ってくるイメージです。
そこに込められた思い、釈尊と阿弥陀如来が僕に問いかけてきます。

やはり、語り継がれ、唱え継がれてきた経典のすごさがあります。
僕たちは、それを受けとめて行かなくてはならない。

そう改めて思わされた講義でありました。
経典を読誦する上で、この醍醐味は欠かせないと思う。

ここですべては書ききれないので、今回はそのさわりのみを書きました。
これを、上・中・下の三回に分けて、思いを伝えたいと思います。
今回はそのイメージだけを・・・。


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人の力がおよばぬとき、そこに他力はある。

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人の力が及ばぬところ、そこに他力はある。

自力で人は悟りを開こうとする、ただそこに限界はある。

そして、どうにもならぬもの、それは私のいのち。

生老病死すなわち四苦です。

その無常を説く仏教において、他力という存在があることに気づく。

私の力でどうにもならぬもの、力尽きて折れそうになるとき。

他力に気づく。

それは阿弥陀如来の本願です。

僧侶研修会に行く!・・・山陰教区と鳥取因幡組。

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       (300年前の作法で、「往生礼賛・日没」をお勤めしています)

僧侶研修会が、今月と来月の二回あります。

1回目は、浄土真宗本願寺派の山陰教区が主催の研修会。
これは、明後日8月29日~30日の二日間、出雲市で開催されます。
山陰教区の場合、いつも会場が島根県ですし、それも中西部で開催される
ので、今まで参加したことはありませんでした。
鳥取県の東部からは遠いのです。
でも、今回はご講師が、安藤光慈先生なので参加することにしました。
西本願寺で夏に開講される、安居という会でお世話になった先生です。
本願寺派の中で、若手(と言っても僧侶の世界ですが)の最有力かなとも
思ったりしています(あくまでも私見です)。
やはり僧侶は自分だけの世界にいると、自分が偉く思えてしまったりするので、
謙虚に学びの場に出かけなくては・・・。
今回は、浄土真宗のみ教えをしっかりと聞いてみよう。

2回目は、9月27日に、私の所属する鳥取因幡組の僧侶研修会です。
こちらは、私が担当ですので、ご講師は中央仏教学院時代の恩師にお願い
致しました。
鳥取因幡組では、最近は僧侶研修会を開催してなかったのですが、今年は
私が担当でもあり、鳥取伯耆組にも広げて、鳥取ブロック開催となります。
ご講師は、本願寺派の声明ではトップクラスの大八木正雄先生です。
特に、天台声明の流れを汲む大原魚山聲明の伝統を引き継がれている、数
少ない僧侶でもあります。
私が昨年、住職の継職法要をした際に、ご指導をお願いしました。
そのときは、300年前の作法で「往生礼賛・日没」をお勤めしました。
法要にもご参列いただき、現在では見ることのできない法要をお勤めする
ことができました。
このことは、私の僧侶人生の中でも、忘れられない記憶となっています。

やはり僧侶は、儀礼の作法、そして声明が基本となります。
その原点が教義となります。
つまり、み教えと勤式作法が一体で初めて成り立ちます。
どちらが抜けてもダメですね。

今回の二回の研修会は、どちらも私が本願寺派で尊敬する先生となりました。

自分の至らなさを痛感することになると思いますが、このお二方のお話しを
聞けるのであれば、浄土真宗本願寺派の僧侶としては、誠に有り難いこと
です。

合掌

届ける思い、届く思い。

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僕は、葬儀や法要のとき、思いを伝えることを考える。

もちろん、僧侶だからその力があるなんて思わない。
ただ、この葬儀の意味、そして法要の意味を皆に感じて欲しいと思うから。

始めに、声を聞いて下さいね。
終わりに、声は聞こえましたか。

そんなことを投げかけることがある。

私たちが、葬儀や法要をするのは、その方を供養したいから。
大切な方だから、供養の思いでお勤めするのだ。

そこに、こちらの思いを届けたい。
そんなお気持ちがあるでしょう。

だからこそ、声は聞こえましたか、と問いかける。
思いは伝わるのだ・・・。

その思いは誰から誰に伝わるのか。
その大切な方から、残された私たちにです。
それが故人の思い。

供養する、とは私と仏の関係です。
表現としては、私が仏様を供養する。
でも本当は、仏から私が受け取る・・・何を。
それは、思いを。

私たちの思いは、確実に届いています、そこに迷いはない。
だって、今あなたは、法要をとう。
その思いは、仏様から差し向けられたもの以外、何もありません。
あなたの行為の元は、仏様からの思いです。

その思いが届けられる。
そして私が供養する思いになる。

やはりそれは一体でしょう。

その方の声は聞こえましたか・・・。
本当に聞こえていようがいまいが、それは関係ない。

ちゃんと、あなたの思いは届いていますよ。
でも、仏様の方が先にあなたのことを思い、その心を届けられているのです。
そのことを伝えるために、僕は問いかけるのです。

そのことに気づかされたとき、ひとこと、「ありがとう」。
そこに私のはからいと言う気持ちがなくなる。

それが、「南無阿弥陀仏」です。
私のいのちを見守っていてくれてることへの感謝。

わだかまりのない世界です。
そして、私は仏の道へと導かれる。

そっと、他力に抱かれる。


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秋の夜長は宿坊で過ごしてみる・・・宿坊からのご提案。

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秋の夜長は宿坊で過ごす。

そんな休日があってもいい。

静かな夜がゆっくりと過ぎて行きます。

宿坊では、車の音も、騒音もない空間です。

これから宿坊は秋を迎えます。

周りでは、梨や柿が実り、田んぼは稲が黄金色に輝く季節。

少しづつ山が色づき、境内の紅葉も鮮やかに染まって行く。

心と身体を解き放つ。

仏教を少し学んでみる。

写経や瞑想で、心をしずめる。

絵手紙を書いて、大切な方に送る。

そして、この宿坊の良いところは、一人きりではないと言うことかな。

住職と坊守がいますから、一人きりにはなりません。

ご希望なら、一緒に食事をしたり、話しをしたり。

そんな宿坊で、ゆっくりと秋の休日を過ごしてみてはいかがでしょう。

お一人でもグループでも、お寺でゆっくりと・・・。

そう言えば、最近は宿坊がブームなのだそうです。

でも、この宿坊は、他の宿坊とはちょっとちがいます。

何が違うかは、滞在中のスケジュールをすべて自分でレイアウトできる。

それと、観光客向けの宿坊ではないことかな。

お一人おひとりとの出会いを大切にして行くことが、宿坊を始めた理由。

まだまだ未完成ですが、そのご一緒に作り上げる喜びもある。


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「一生ごきげん」で行こう・・・鳥取クラフトキャンプin八頭にて。

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これが、「一生ごきげん」の正体です。

今日は時間があったので、鳥取クラフトキャンプin八頭に出かけてみました。
そこには、たくさんのクラフトショップがありました。
まさに芝生の公園でキャンプ状態、暑かったけど、いろんなお店をのぞいて
みた。

そこで出会ったのが、この「一生ごきげん」のキャラクター。
大阪の「つのりえ」さんという方が作られています。
なんか、このフレーズいいな、それと可愛いキャラクター。
思わず宿坊用に買ってみました。
僕も一生ごきげんに過ごしたいな。

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歩いてると、どこかでお見かけした顔が・・・。
おっ、宿坊の陶芸体験でお世話になった、「扇山窯」の山根さんでは
ないか。
暑さの中、死なない様に頑張ってます、とのお言葉。

いい品を見つけました。
どちらもいい味出してます。
こちらも宿坊用にと、買い求めました。

僕はどちらかと言うと、必要な物以外買わない方だけど、今日はお店を
のぞくたびに欲しい物があります、ちょっと困ったなと思いつつも、次の
お店に・・・。

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で、次の店では、この瓢箪のランプ。

そういえば、宿坊の客間にちょっと間接照明が欲しいと思っていたのだ。
思わず、ここでも立ち止まる。
手作り感があって、和の雰囲気を醸し出しそうです。

早速、買って帰って宿坊の客間に設置してみた。
こちらも、お客様の癒しとインテリアにいい感じ・・・。
これも、ごきげんです。

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また、よせばいいのに、お店をのぞいてみました。
でも、ここは以前より興味のあった、窯元「牛ノ戸焼」です。

この翠と黒の取り合わせのデザインが有名です。
民藝復興の旗手、吉田璋也と柳宗悦で有名な窯元ですね。

僕はこのデザインが好きなので、値段的に手頃な箸置きのセットを購入。
これもいい感じ、宿坊のお客様用にぴったりです。
ちょっとオシャレな箸置きが欲しかったところなので、丁度よかった。

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もうきりがないと帰ろうとしてたら、帰り際にお店があった。
ガラス工芸のお店で、風鈴を見つけた。
季節はもう終わりだけど、やっぱり風鈴はいいよね。

あと二か月くらいは楽しめるかなと・・・。
早速、談話室の窓に取り付けた。

こんな感じで、のぞく店のぞく店で買い物をしました。
手当たり次第の様で、実は宿坊用に欲しいと思ってたものだったので、
結構満足しました。
少しでも、くつろいでいただける様にと・・・。

こんなふうに、インテリアや食器など、一品一品、宿坊に合うものを探し
ては、楽しんでいます。

だから宿坊って、やると面白いです。

やっぱり、「一生ごきげん」かもね!

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最後にもう一つ。
「扇山窯」にいると、東京から来た男の子が、これで遊んでた。
素焼きの玉に紐を通しただけのもの。
これをけん玉の様にして遊と、玉がいろんな動きをして楽しいのです。
絡まりそうで、紐はまったく絡まない。
やってると癖になるくらいです、僕はずっと帰るまでこれで遊んでました。

宿坊に来られたら、是非体験してみて下さいね。



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本願の海に生きる・・・究極の悟りへ。

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最近のニュースにこの様な記事が。

瀬戸内海が綺麗になり過ぎて、魚や貝が激減した。
地元の漁師にとっては死活問題だと言うこと。

僕たちが子どもの頃は、海や川の汚染が問題になっていた。
公害問題が叫ばれて、海や川の浄化が第一の問題だった。
それが綺麗になり過ぎて、魚も棲まない、貝も激減、海苔も育たない。
要は、海水の栄養が無くなったと言うことだそうだ。

仏教は、欲望を滅することが、その教えの中にある。
日本で言えば、無の境地、すなわち空を説く。

そりゃあ、皆が欲望を滅し、聖人の様になればいいかも知れない。
でもそれでは、人間の生活はどうなるのだろうか。

親鸞聖人は、日々の営みや生業のなかに、その信仰を見出して行く。
そして、そこに救いを求めて行かれる。
好む、好まざるにかかわらず、日々の営みはあるのだ。
その中に、救いの道を求めて行かれた。
人の営みを除いての救いの道はない、悟りの道はないと・・・。

そこに、浄土真宗の教えが、仏教の中の究極の到達点となる。
ただ、営みだけをしておれば良いと言う訳ではない。
そこに救いを見出すことで、日々の心の依り所をつくり、自らを見つめる
流れの中で、仏への感謝の心を育む。
そうすることで、信仰の道を歩める人生となる。

遠くアジアの片隅に、浄土の光が灯されるのである。

悟りの教えの究極であるだろう。
ここに浄土の教えが開花する、遠く二千年のときを経て・・・。

浄土真宗の教えは、清濁のいのちの流れを、すべて取り込んで行く。
それが功徳の法海、本願の海だ!

そんなことを感じたのです。


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今日は友引・・・お葬儀をする。

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今日は友引でしたが、葬儀があった。

浄土真宗的には、友引など仏教に全く関係ないもの。
そして迷信には一切左右されないのが原則。
原則と言うと、逆にそのことに囚われることがあるので、注意が必要ですが。

ただ、ご遺族の意向を無視するわけにもいきません。
そして、決して強制するものではありませんので。

聞かれたときは、「一切関係ありません」と答えますが・・・。

人は必ず、そのいのちの終わりがやって来る。
友引であろうがなかろうが、亡くなるときは来る。
仏教の教えは、その無常である縁起に基づくものです。
だから関係ない。

今回は、元々ご遺族の方々の意向でしたので、問題なく葬儀を執り行い
ました。
葬儀会館も霊場(火葬場)も、どちらも空いていました。
もしかしたら、どちらもこの1件だけだったかも知れません。
土曜日ですし、今日は良かったかな、そう思った。

お葬儀やお墓など、仏教の教えではないことに、皆さんは気を取られる。
そして迷うことも多い、何故かな。
それを迷わなくて良い様にと、仏教は本来あるはずなのに。
いつもそう思う。

迷うことを、お寺が利用してお布施などに替えている面があるんだろうな。
加持・祈祷などはその典型だ、そして戒名。
こんなもの全く必要ないのが仏教本来の姿だな。
もちろん友引に葬儀をしないことも。

還骨勤行はお寺でされて、お食事もお寺でした。
葬儀社がお膳を手配されていました。

葬儀社の担当の方がいらっしゃったので、お葬儀のこれからについて、いろ
いろ話しをしました。
その葬儀社は、これからの葬儀のありかたを考えておられる。
そんな中でのお話し。

これからの展開がどうなるか、こちらとしても提案をしてみました。
さて、どんなお話しになるかな?
とりあえず、問題提起はしてみた。


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思いが一つになる・・・それが念仏。

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昨日、お寺の電話が鳴った。

突然の知らせのときは、深夜が多い。
お昼過ぎだったので、普通に電話に出て、普通に挨拶をした。
そのお電話は、訃報であった。

故人は、お名前とお顔は存じ上げていた。
最近も、ご法事でよくお見かけしていた。
直接お話しをする機会は、ほとんどなかった方でした。

その知らせに、すこし驚いた。
お元気そうに見えたのに・・・。
でも、最近ご法事でお見かけするときは、穏やかな表情をされていたな。
この日のこと、すこしだけ思っていたのかな。

ときどき感じることがある。
あっ、おじいちゃん、いつもと少し違うな。
いのちの覚悟をしたのかなと・・・。
それは、穏やかな表情だったり、しっかりと何かを見つめる表情。

そのとき、阿弥陀様の本願に出遇われたのかなって感じる。
僕は、阿弥陀様のお話しを一所懸命します、そして仏となる意味を。
この世のいのちがつきても、そのいのちには終わりがないんだ。

いろいろご苦労をされた人生だったのでしょう。

臨終勤行に向かう。
お一人暮らしだったのでしょう、うちのお寺では珍しく会館葬。
お部屋は家族葬のお部屋でした。
浄土真宗では、枕経ではなく臨終勤行と言う。

その字の通り、臨終勤行とは、その方のこの世の際に臨んで、ご家族と、
その方が一緒に唱える最後のお勤めです。
いのちを見守っていただいた、阿弥陀様とご先祖に、ご家族と一緒にお礼
のお勤めをするのだ。
亡くなられているけれど、ご家族にはいつもご説明をして、私もその方と一
緒にお経を唱えるのだ。

そして今日、お通夜だった。
その方の家から会館は遠かったけど、近所の方がたくさんお参りされていた。
会館も便宜を図って、広い部屋を提供していただいていた。

その方のお人柄だ。
みな、その方をお見送りしたいのだ。

阿弥陀様の願いがある。でも、残された私たちにできることは、せめてお見
送りをさせていただくこと。
僕も精一杯、読経をする。
『正信偈』をみなで唱える。

お念仏で、みなが一つになる。
それが縁起なのだ。

この世のいのちには、いつか必ず終わりが来る。
でも、そのいのちはつながっているんだ。
それが縁起。

その縁起を包み込むものが、阿弥陀如来の願い、そのはたらき、他力だ。
けっして寂しいいのちにはさせない、それが本願。
浄土に往生させ、仏となり、今度は見送ってくれた有縁の方々を見守る。

思いが一つになる。

それが念仏なのだ。

お通夜では、やはりいつもそう感じるのだ。

合掌


葬式仏教を考える・・その1(葬式仏教とは)

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葬式仏教と言われることがある。

この言葉を使うときは、どちらかというと、日本仏教や寺、そして僧侶に対し
て、批判的な時が多い様に思います。

でも、日本で寺が残ってきたのは、仏教が葬式を執り行ってきたと言うこと
に尽きると思います。
死者や先祖を大切にしてきた、そしてお骨やお墓を大切に守ると言う、日本
人のこころが、そこにあると思う。

今、僧侶や寺が問われているのは、葬式仏教としての日本仏教ではなく、
本当の葬式を執り行える僧侶や寺があるのか、と言うことでしょう。
葬式と言うことに胡坐をかいてきた僧侶に対しての、批判の言葉と考える。

故人をしっかりと見送る、そしてご遺族をしっかり支えて行く。
教えに基づき、儀礼を執り行い、そして、その教えを伝える。
数百年、数千年の時の中で、伝えられてきたものを。

最近は、葬式仏教だけではお寺の将来がない、という面が強調されていて、
社会福祉や介護、ターミナルケア、ボランティアなどに力を入れようと努力
している。
もちろん、この様な試みは、大切であると思います。
ただ一点、気になることは、それが僧侶の本分であるかのように語られる
ことです。

たとえば介護、これは10年前くらいにターミナルケアやいのちの看取り、
ということが僧侶にとって大切だと語られるようになってきたこと。
先進的な寺院は、その活動を積極的に行ってきた。
私も、これからの寺院として、その方向性を見出して行こうと思っていた。
でも、社会が一気に変化したのです、今はその関わり方も以前とは違う
ことが求められている様に思います。

カウンセリングや傾聴活動、これも本来僧侶としては当たり前のことだった。
ただ、そうでない僧侶や寺院が多かったということ。
教えも語らず、意味も伝えず、ただ押しつけ的な葬儀や法要が多いのでは
ないか、そんな思いがあります。

寺院も僧侶も、儀礼における作法や声明の本当の意味を理解し、その意味
を伝える。
そして仏教や浄土真宗のみ教えを伝えて行く。
そこに本当の葬儀や法要の思いが込められて行くのでしょう。

ご遺族へ、その思いが伝わることができたなら、葬儀の意味も深まる。
悲しみの中にも、心の置き場所ができるのです。

寺院や僧侶は、もう一度しっかりと受け止め、考えて行かないと、葬儀におけ
る存在が薄れてしまうでしょう。

その結果としてお布施がある。
最初にお布施ありきではない。

もちろん、お布施は僧侶に対しての対価ではないということも、肝に命じておか
なくてはならない。

そんなことを考えながら、これから葬式仏教を考えて行きたい。


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猫の本分、僧侶の本分。

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お寺で猫を飼っている。

名前はピー子、もうすぐ16歳になる。

相変わらず、僕には馴染まない。
余程のことがない限り、僕の近くにはやって来ない。
それも猫らしくていいかと、思ったり。

猫は猫のままに生きている。

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僕のカバンの中に入ったり。
適当に、気のおもむくままに。

普段は、自分の部屋で、ゆっくり過ごしている。
たまに、坊守には、かまってもらいたくて、部屋から出せとせがんでいる。
だけど、僕が迎えに行くと、知らん顔してる。

僕にとっては、その距離感が楽だったりする。

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まあ、こんな感じです。
猫の本分だな。
猫は猫のままに・・・。


では、僧侶の本分とは。
僧侶がすべきことは、教えを学び伝えること。
そして、葬儀や法要の儀礼を執り行うこと。
少なくとも、その二点については、プロフェッショナルである。

葬儀に関わる以上、その方や親族の方を支えて行くことになる。
それは精神的な面となります。
読経であったり、法話であったり、日々の会話であったり。

僧侶が必要とされるとき、僧侶として必要なことができる。
それが大切なのでしょう。

世間に迎合する必要もなく、適度な距離感も必要かなとも思う。
必要な時、道を指し示し、寄り添う。
それは、教えに基づくことが大切、そうでなければ僧侶の意味がない。
僧侶の本分がなければ、僧侶の意味がないのです。

基本がなければ展開はないのでしょう。

あとは、それぞれの僧侶の生き方がある。

日本仏教の宗派は多いのか・・・比較宗教的に。

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仏教には宗派が多すぎるという話しを聞くことがあります。
特に日本仏教には、何故こんなに宗派があるのだろうと。

でも、これは仏教に限ったことではありません。
キリスト教は、カトリックとプロテスタント、そして正教に大きく分かれますが、
キリスト教の宗派も数限りなく存在します。

詳しい方に聞くと、キリスト教はこの様な教えです、ということは言えない。
何故なら、宗派によって教えが違っている為、とてもこうだと言うことはでき
ないのだそうです。
その宗派によって、教えがかなり違ってくるので、限定することなどできない。

ですから、日本仏教の宗派としたら、それほどではないのでしょう。
但し、各宗派から細かく分かれたものを、宗派としないと言う前提ですが。
本来の宗派であれば、その教えが仏教に基づいて説明できなくてはなりま
せん。
今の日本は勝手に宗派を名乗ることができるので、乱立しているように見え
ますが、それは表面的なものが多いですね。
たとえば、一般の各寺院が本山から独立して、勝手に宗派を名乗ればそう
なってしまうということです。
仏教的教義が確立されていなくても、勝手に名乗れると言うことですね。

教義的な面では、日本仏教はその流れが意外と整理されているのかも知れ
ないのです。

ただ、日本仏教でも、真言宗と他宗派では大きく違います。
また、浄土真宗も他宗派とは違うところはたくさんあります。
それは仏教と一括りにすることが難しいほどの差になります。
ある意味、それは180度違うと言っても過言ではないと言うほど。

でも実は、キリスト教も大きく違うのです。
神の存在のとらえ方でも、それぞれによって異なってくるのです。

逆に言えば、神の存在と、仏教的縁起の立場という観念を除いたならば、
浄土真宗は、プロテスタントの教えと非常に似ている面が多いということに
気付きます。
もちろん、プロテスタントでも、その宗派によって考え方は違ってきますが。
日本仏教の他宗派より、考え方が近かったりするのです。

なので、仏教はこう、キリスト教はこう、と区切りがなかなかつけられない
のが現実だと思ったりしています。

やはり他の宗教のことについて語ることは難しいですね。
もちろん、自分の宗派の教えでさえ、究めるなど到底できないのですから。

そんなことを考えながら、宗教を比較してみるのも、面白かったりします。

本願寺派の重点プロジェクトって?

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浄土真宗の本願派(西本願寺)では、今年度から新しい取り組みを始める。

その重点プロジェクトが、宗派から各地域組織へ、私の場合、鳥取因幡組
に下りてきている。
それでなくても、本願寺派には様々な活動がある。
その上に、この重点プロジェクトなのだ。
もう組織が肥大化したうえで疲弊化しているのでしょう、旧態然のものと、
何かしなくてはという新しい流れが、なかなかマッチしていない様に感じます。
従来の活動も整理していないのに、どうするのかなあ。

宗派としては、今春の組織改革によって、新たな方針を打ち出さなくては
ならない。
何となくそんな感じですが、そろそろ寺院側にも、不満がたまっているかも。
本願寺の言うことを聞いておけば良いという時代ではもうない。
それぞれの寺院が、それぞれの努力をしなくてはいけない時代です。
その最後の分岐点が750回大遠忌法要であったのかも知れませんね。
ここを境に、門徒の世代交代が一気に進んでいる様に感じます。

最初から、このプロジェクトは成功するのかしないのか。
というよりも、最初から成功も失敗もない施策なのだなと思いました。
何故なら、最終目的がよく分からない。
方針を見る限り、どう見てもそのプロジェクトの行く先があいまいなのです。
もしくは、まとめようという気がないとしか思えません。
シンクタンクが企画したプロジェクトだと説明があったそうですが、この様な
説明では、逆におかしいな。
シンクタンクが絡んだプロジェクトは、さんざん民間企業がやってきて、失敗
してきているのです。
この場合、コネや利権で絡んでることが多いし。
私も企業に勤めてたとき、そんなことがあった。
何故なら、シンクタンクには現場が分からない、そして管理側に発想や能力
がないときに発生する仕事だからです。
で、適当に言葉を並べて、さもすごい様にしてるから、それなりに見える。
シンクタンクにしたら、いいカモになってしまう可能性さえある。
今回は、そうでないことを祈らずにはおれません。

そして大した成果もあげず、ただプロジェクトだけが残る。
でも、こんなことをやりました、こんな成果がありましたと、声高に発表する。
まだそれでも、本願寺派は他宗派に比べると活動的な教団だと感じるが。

葬儀などは、新しい動きが出てきている。
さて、それに対応できるのだろうか。
時代は待っていてはくれない、まして、末端の寺院はこれから激動の時代を
迎えるのだ。

それに対して、どんな答えを出すのかな。

ただ私の寺院は、ハッキリ言って、それどころではない。
それでも自らの道を進んで行かなくてはならない。

『犀の角の如く…体力と知力を最大限フル活用しながら』

まさに、「法を島とし、自らを島として・・・」進むべし。

そう言いながらも、鳥取因幡組のプロジェクト推進をして行く覚悟ではおります。




花火

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姪が夏休みに遊びにやって来た。

もうすぐ小学校の夏休みも終わり、楽しんでもらおう!

バーベキューのあと、花火をした。

やっぱり、花火っていいな。

夏の思い出。

習字をして絵手紙をして、花火をして。

そして宿坊に泊まって、お寺で夏休みを満喫。

今度来るときは、また少し大人になってるな。

女の子の成長は早いのだ。

花火もあっという間に燃えつきる。

人のいのちも、過ぎ去ると早く感じる。

あっと言う間だ。

小学校二年の姪と、花火を見てると、そんなこと感じた。



秋のしらせ・・・宿坊も少しづつ。

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お寺の中庭に池がある。
池で秋を感じるのは、やはりトンボかな。

お盆を過ぎると、そろそろ稲刈りの準備になる。
学校が始まり、運動会。
こうして、また季節が巡って行く。

庫裡では、昨日から鈴虫が鳴きはじめている。
やはりどこか涼しさを感じる、この時期は夏と秋が一体なんだな。
相変わらず猛暑は続いているのだから。

宿坊も、そろそろ夏休みは終わり。
秋の準備に入ります。

今年から来年にかけて、小さな露天風呂を作ろうかな。
2~3人くらいが入れる小さなもの。
景色を見ると言うより、空を見上げながら入れる露天風呂になりそう。

宿坊に来られた方に、少しだけ喜んでいただけるように。
季節を感じられる露天風呂がいい。

作業風景を、またご報告します。


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風鈴から鈴虫へ、季節が移り変わる・・・宿坊の秋

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今年もお寺に、鈴虫がやってきました。
本格的な、秋到来かな。
風鈴から鈴虫の声に切り替わります。

朝晩、涼しくなってくると鳴きはじめる。
夜風に、その鳴き声が清涼感をそえます。

鈴虫のエサは、ナスが中心で、あとは鈴虫用のエサを買ってきます。
そして季節の終わりには、雌が雄を食べてしまいます。

卵を産むメスの方がやはり強いのかな。
種を保存するという、大切な役割のため。
羽が大きいのが雄、雄しか鳴きません、求愛なのかな。

そして卵を産んで、来年の孵化を待ちます。

昨年は、保管する場所に失敗して孵化しなかったのですが、今年も
ご門徒さんが鈴虫を持ってこられました。

これから当面は、宿坊で鈴虫の鳴き声が聞けます。


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ある日の空・・・いのちを見つめる。

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ある日の夕方、遠くの空を見上げると、雲が陽に輝いていた。

いのちは重なり合い、つながり、そして続いて行く。
そんな思いが、その夕方の空に・・・。

そのいのちの流れを忘れると、人は孤独になる。
そして、迷います。

法話でよくお話しすること、それは「命日」のこと。
この世のいのちの終わりが「命日」なのではありません。
浄土へ生まれ、仏となる誕生日、あらたな永遠のいのちの日。
だからこそ「命日」、あらたないのちの日なのです。

大切な方と、分れなくてはならないときがある。
でも、最後の別れではない。
浄土真宗には、お別れはない。

いつか浄土でお会いするときまでは、先に浄土に往かれた方が、残された
者を見守り、導くのです。
どうか、その声をお聞きください。

合掌する姿、それはまさしく、仏の心を受けとめておられる姿でしょう。
そして「南無阿弥陀仏」のお念仏。

南無阿弥陀仏は言葉ではない、弥陀のはたらきなのです。
それは遠い過去から、現在、そして遠い未来までつづく願い、そしてはたらき。
まさに称えられるお念仏は、その方から差し向けられたお心です。

ほら、ちゃんとあなたに届いているでしょ。

そして、いつか浄土でお会いしましょう。
そこには、仏としてまた出会う。
だから、何もわだかまりがない、言葉がなくてもすべてが通じ合う世界です。

やはり僕たちは、先祖から供養されているな・・・。
それが、この世で私たちの供養という心になる。

それが円満ですね。


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納骨についての思い・・・大切な方へ。

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今日、お納骨をしました。
と言っても、ご門徒さん宅ですが。

今回のお納骨は、ご家族やご親族の間で、時期について何度かやり取りが
されていました。
それは、お子さんのお骨なので、思いがつきないからです。

昨日、四十九日の法要を行った。
そして、今日がお納骨。
最終的にご主人が、今日にされると決心されました。

初七日から六七日までの毎週の逮夜参り、そして昨日の四十九日の法要。
ご主人もそうですが、奥さんも読経が始まると、涙が止まりません。
もちろん、お骨をもう少し置いておきたいとの思いは、お二人ともに深く。

ご主人が、今日の納骨を決められたとき、ご親族は本当にいいのかと、何度も
念を押された、百か日まで待ってはどうかと。
おそらく奥さんへの配慮から。
そのときには、僕はどうしたら良いかと言うことは、一切お話ししません。
でも、どちらに決められても、「それで良いと思います」と答えます。

実は、仏教や浄土真宗は、元々はお骨にはあまりこだわりません。
これは、お釈迦様や親鸞聖人のお言葉からですが。
でも、そこに残された方々は、お骨を大切にしています。
仏塔(ストゥーパ・卒塔婆)の起原は、お釈迦様のお骨を安置したことからです。
本願寺の起原は、元々親鸞聖人のご廟所(お墓)です。
亡くなった人は、のちのちの人を煩わせない様にと、配慮します。
結局、お葬儀やお墓は、残された者の大切な思いなのですね。

今回は、悲しみが深いので、四十九日でのお納骨で良かったと思います。
お葬儀から、七日七日のお勤め、そして四十九日法要。
毎回、涙でのお勤めでしたが、しっかりとお勤めされた。
だから、心にけじめをつけて行くことも大切だと感じていました。

お墓にお骨を入れるからと言って、離れるわけではない。
お骨はちゃんとお墓にお入れするのが良いのです。
仏は、お骨としてではなく、思いとして私たちを見守り、そして導く。
これからは、息子さんに導かれるという、大切な思いがあるのですね。

忘れなくて良い、思い切り悲しんだ方が良い。
涙をたくさん流された方がいい、それは気がすむまで。
がんばらなくていいのです、我慢しなくていいのです。
そうしなければ、あとあとで、もっと大きな悲しみがやって来ます。
やりきれない思いがやって来ます。
そのとき耐えられなかったり、虚脱感が心を覆う。

だから無理をして、がんばれなんて言わない。
だから、少しづつ、少しづつ、息子さんの思いを受けながら、進んで行く
のがいい。
僧侶として、そのときに大切なのは、儀式をしっかりと執り行うことが大切です。
そして、法話も毎回しっかりとお伝えしなくてはいけません。
ご両親とも、精一杯、お経をご一緒に唱えられておられました。
特に奥様は、ご実家が他宗派ですから、浄土真宗の経典はあまり知られま
せんでした。
でも毎回、精一杯。

今日は、お納骨。
先ずは、ご自宅で、お納骨の法要をご親族の方々と、『阿弥陀経』です。
そして、お墓でお納骨前の読経を行う。
お納骨のあとに、最後の読経をします。
合計三回、経典を読誦し、納骨の儀式は完了します。

そうして、区切りをしっかりとつけておくことが大切です。
心残りを残さない、それがやはり大切。


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仏は見守り、そして導く・・・私たちには感謝がある。

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お盆のお参りでは、やはり初盆のお宅が中心になります。
田舎なので、都会から家族や親族が帰って来られる。
初盆の法要に合わせて、もしくは帰省に合わせてお勤めされる。

昔は、お盆に帰って来られたら、皆が泊まられたが、最近は泊まられる
ことは少なくなった様です。
ただ、ご親族の同窓会は、やはり法要がなければ集まられることもなく
なった、やはり仏様が縁をつないでいらっしゃるなあ。

先日お参りしたお宅、いつもはご夫婦お二人です。
でもお参りしたら、お孫さんが10人くらいいらっしゃった。
みんなで一緒にお勤めしました。

お子さんがいらっしゃると、法話の内容を、そのとき考える。
仏様のこと、阿弥陀様のこと、ご先祖様のことを分かりやすく、そして興味
深く。
小さなお子さんでも、話しは一所懸命聞いている。
というか、子どもの方が真剣です。
それを見て、おばあちゃんも、嬉しそうにうなずいておられた。
そんな姿を見るとき、仏様が見守っておられるということを実感するのです。

そのご縁を仏様がつないでくださっている。
そうとしか思えない、やっぱり僕たちは、先祖から見守られる側なんだなと
実感するとき。
その思いを受けて、合掌する。
合掌とは、その思いを受けとめているということ、そして南無阿弥陀仏。
それは、ご先祖様を通じて、阿弥陀様から私たちに差し向けられた願い。

ここに、思いが一つになる、まさに自利利他円満の世界ですね。

「悩める時にも道はある」・・・朝日新聞の記事に寄せて。

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朝日新聞の鳥取地方欄に、週一回、人物の紹介の特集があります。
「とっとり100人100通り」というテーマで、鳥取で100人の方を紹介する
ということです。

8月15日は、私の紹介記事が掲載されました。
新聞1ページの、1/4のスペースなので、記事も写真も大きいですね。
もちろん内容は、取材時間が意外と長かったので、どの話しが採用になる
かは分からないのですが、宿坊のこと、私が僧侶になった経緯、そしてこれ
から取り組もうとしていること。
そんなことを書いていただいた。

普段は、自分のことを語ることは少ないので、この様な記事があれば助か
ります、お配りすれば見てもらうことができますから。
まして、自分で話すより、新聞記事なので、何か信用がありますね。

写真も、穏やかな表情なので、自分でも気に入っています。
話しのテーマは、「悩める時にも道はある」となっています。
そして、「希望がないとき、よりどころになれる存在でありたい」がサブテーマ
でした。

すべてを書いていただくことはできないですが、私の人となりと、思いの一端
でも紹介していただけると、私としては有り難い。
僧侶になると決めてから、この様な紹介の記事は初めてでしたので、よかっ
たなと思っています。

記者さんの言葉に、「大人の夏休み」という言葉がしっくりきたとありました。
やはり、大人にも田舎の夏休みが必要ですね。

都会の忙しい方々に、お寺での安らぎの場となれるように、これからも充実
させて行きたいと思った。


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浄土真宗的先祖供養とは・・・。

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今年、お盆のお参りをしていて考えた。
浄土真宗では、先祖供養という言い方をしないといわれる。では、そもそも
先祖供養とは一体どういうことなのかな。
お墓にお参りし、お仏壇で僧侶にお経を唱えてもらう。
それが先祖供養であろうか。
それが先祖供養であれば、仏教的に言って必要ないでしょう。
まして、そこに位牌があり、霊位と書いてあれば、それは仏教ではないのです。
それを先祖供養と言うのであれば、やはり浄土真宗には先祖供養はない。
これは顕かですね。ここには自己満足しかないのです。
それは仏教でも何でもない、しいて言えば先祖教ですね。
中国で言う、道教や儒教の派生でしかないでしょう。
まして、仏教では霊ということを一切言いません。そ
れがどうして、霊位となるのでしょうか。そのような考えからの解放をお釈迦様
は説いたはずですが・・・。
ただ、浄土真宗だって、先祖は大切にします。逆に言えば、他宗より大切にす
る宗派でしょう、お仏壇だって立派ですしね。

ただ考え方が180度、他宗と違います。
こちらから供養するのではなく、先祖を訪ね、その声を聞くことでしょうか。
それは仏の呼び声を聞くと言うことです。ですから、あえて言えば、先祖から
供養される立場と言うことでしょうか。
迷うのは、世間つまり、現世に生きる私たちであって、仏となられた先祖は迷
うことがないのです。
迷っている側が、仏を供養することなどありえません。私たちが、仏となられた
先祖の声を聞くのがあたりまえですね。
ですから、自分が供養しているつもりであったけど、実は見守られている側で
あったと気づかされるのが、浄土真宗であると思います。

つまり、浄土真宗でも先祖供養はありますよ。
「先に浄土に生まれし者を、私たちは訪ねて行くのです、そして先に浄土に生
まれられた方は、後に続く方々を、仏の道に導くと言う大切な役目があるので
すよ」と言うこと。

供養していたと思っていた私たちが、供養される側であったという転換がある。
そのことの方が、縁起にも基づくし、より先祖を大切にする心が強くなる。自己
中心の自力の世界から、他力の世界への転換です。

供養してあげてる、という自己中心の世界から、縁起の世界へと転換されます。


お寺、そして僧侶の存在意義が問われている。

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地方都市というか、山間部の田舎町でも葬儀会館が増えている。

特にこの10年の増加ぶりはかなりすごい。
田舎で新築の目立つ建造物は、老人介護施設と葬儀会館かな。
不景気でも新築できるのは、この二つの業種でしょうか。
これは日本の人口構成と社会環境、もちろん福祉産業の隆盛によって。

僧侶の立場で考えると、約10年前は、仏教やお寺、そして僧侶としてでき
ることは何か。
求められているものは何か、そんなことを会社員をしながら考えていた。
その頃から考えても、一気に社会環境が変化しました。

お寺として取り組むものに、介護やターミナルケア、福祉分野などが考え
られたが、今ではそんなところにお寺が入り込む余地などない。
と言うより、お寺が入り込む意味が見いだせなくなったのです。
あれだけボランティアグループの草分の人たちが頑張って、介護の発展に
力を注いでいた時代とは違う。
利権によってビジネスになり、予算の投入によって一気に進んだのです。

葬儀会館ができることで、葬儀も自宅から会館へと変わった。
僧侶としては会館の方が楽です、汗もかかず職員が丁重な対応をする。
でも、葬儀での僧侶の役割も少なくなっているのではないでしょうか。
結婚式が一気に華やかになって、ショー的になって衰退した。
それが今は葬儀がショー化してきている。
そうなると、本来の意味が失われて行くのでしょう。

最近聞くところによると、葬祭会館も過剰になってきたことと、不景気も
相まって、厳しい経営になってきていると。
そうなると、葬儀の簡略化が始まり、僧侶の存在意義も薄れてくる。
ただお経を唱えるだけ、あとは何も必要ない。
都会だけだと思っていたら、田舎でも直葬が増えてきていると言う。

そこで僧侶の意味が改めて問われて行く時代になるでしょう。
何のための葬儀か、誰のための葬儀か、葬儀の持つ意味は。
そして僧侶が葬儀を執り行うことの本当の意味。
この延長線には、もちろん年忌法要や納骨にも関わってきます。

今はネット社会です。
情報もあっという間に広がって行くきます。
今まで閉鎖的だったお寺や葬儀が、オープンになってくる。
ネットでは、家族葬などの安価なプランが目白押しです。
お布施は別にして、20万円前後のプランが増えてきました。
地域社会の葬儀から家族だけの葬儀へ。
もちろんそうなれば、葬儀のお布施も多くすると言うことはないでしょう。

さて、葬儀に僧侶が必要かと言う議論になったとき、それに応えられること
ができるのでしょうか。
おそらく、多くのお寺が、うちの寺は大丈夫と思っているのかな。

僕のお寺も、いろんな問題を抱えています。
僕がお寺に入る前は、人もあまり来ず、庫裡も本堂も境内も荒れていま
した。
もちろん檀家さんも減少の一途。

今は、そんなお寺の再生を目指している途中。
時代の流れに巻き込まれながら、暗闇に光を目指してもがいている。
たどりつく島を求めて。

でも、お寺って捨てたもんじゃないと感じています。
こんな時代だからこそ、求められ必要とされるものがあると・・・。
いつか、その答えが見つかると信じて。

それは、通り過ぎたときに気づくのかも知れませんね。


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お盆の意味・・・浄土真宗的お盆法要を。

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お盆は、盂蘭盆を略したものです。

盂蘭盆とは、インドの言葉の音写語で、ウラバンナを漢字に直したとされて
いる。
では、ウラバンナはどういう意味かと言うと、逆さ吊りの状態のことである。
人間は逆さ吊りだと、血液が頭に下がって、とても苦しい。
1分もすれば苦しくて耐えられなくなる、そんな人間の苦しみを表しているの
でしょう。

そんな苦しい状態とは何か、それは亡くなった自分の母親が、地獄に堕ち
ていると分かったときの、心の状態です。
その地獄で母親は、餓鬼となっていた、つまり飢え苦しんでいるのです。
子の母親は、釈迦の十大弟子のひとり、目連尊者の母親です。

神通力第一と言われた目連、その神通力で母親の状態を知ることになる。
結局、神通力で母親の状態が分かっても、それを救うことはできないのだ。
お釈迦様に相談した目連は、各地で伝道布教していた僧侶が、雨季の間
だけ集合して、仏の教えを確認する安居(あんご)の修行に入る。
その安居を終えた僧侶に食事の供養をする様に説かれ、その供養を行う。
そうすると、母親は餓鬼道から救われるのです。

これは、「仏説盂蘭盆経」に依ると言われています。
この経典は、実はお釈迦様が直接説かれた教えではなく、中国で創作され
た偽経です。
でも、それが日本に入ってきて大切な仏教行事となっています。
先祖を大切にする国民性からも、日本の風土に合っていたのでしょう。

今は、先祖様が還って来られるとされていて、提灯や灯篭で目印を点ける。
また地方によっては、ナスやキュウリで動物を作って、お迎えする。

浄土真宗では、お盆だけ還るのではなく、仏となりいつも見守って下さって
いる。
そして、仏様は迷うことがないので、この様な風習は必要ないとされます。
ただ、お盆は地方や家やお寺によって違いますから、一概には言えません。

では浄土真宗がお盆のお参りをするのは、どうしてでしょう。
これも本願寺とからはガイドブックが出ていますから、それを読めば分かり
ます。

僕がお参りするのは、やはり先祖を大切にされる方々への思いですね。
仏教の縁起に基づいて、私たちがいのちのつながりを、しっかりと受け止め
る大切な機会とさせていただいています。
普段は中々できないが、お盆は田舎に親族が還って来られる。
その機会に、先祖やいのちのことを考える、そして感謝する。

お子さんやお孫さんも一緒に、これが大切ですね。
先祖を大切にされているご家庭は、やはり家族が仲が良いことが多いです。
先祖を大切にされる思いは、ご家族を大切にされる思いにつながっている
のだと感じます。

やはり家族の中心には、仏様がいらっしゃる、有り難いことですね。
ちなみに私のお寺では、棚経はしておりません、ご希望のあるご家庭だけに
お参りしています。


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お仏壇とご本尊が、綺麗になって・・・。

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        (修繕後のお仏壇)

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         (修繕前のお仏壇)

今回、ご門徒さんがお仏壇を修理された。

たまたまお参りのとき、亡くなられたご両親が、お仏壇を修理したいと言わ
れていた、という話しになりました。
どこか修理できる所はありませんか、と聞かれたのです。

火事で運び出されたり、移転したり、ご苦労のあったお仏壇。
でも元々はりっぱなお仏壇です。

最近知り合いが、仏壇のクリーニングを始めたので、お話しをしてみました。
お盆までに修理できるのならと、今回、長年の希望であった、仏壇の修理を
されることになりました。

僕も、ご門徒さん宅のお仏壇の修理は初めてでしたので、いろいろ勉強に
なりました。
と言っても、私は見ているだけでしたが。
今回は、ご本尊の掛け軸も修理に出されて、ほぼ全面改修となりました。

今日、お盆を前に、約束通りお仏壇が、ご門徒さん宅に戻ってきました。
まったく見違えるようで、新品に見えます。
元々は、こんなお仏壇だったんだなと、感慨もひとしおでした。

やはり年代を経た仏壇は、立派なお仏壇でありました。
細工も材質も、値打ちものです。
今このようなお仏壇を買うと、相当なお値段がするでしょう。

ご門徒さんも長年の思いが適い、とてもお喜びでした。
お仕事も丁寧にされていたので、そちらの対応も良かったですね。

お仏壇を納めた後、改修のなった仏様とお仏壇をお迎えする、法要をお勤
めした。
ご先祖の思いを受けて、ご門徒さんもお寺も、これからも続いて行くのです。


夏はやっぱり、夏休み・・・田舎でエネルギーを充電する。

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人って、やっぱり自然の中にある。

都会で暮らしていても、ときには田舎の自然に包まれることも必要だ。
そして、旬の自然の食材を食べる。
それが人間のエネルギーを補給すること。
そして、おいしい空気ときれいな水。

バーベキューをしたとき、子どもたちが美味しいと言ったのは、肉でも焼き鳥
でもなく、ナスだった。
こんなに、みずみずしくておいしいナスは食べたことないって。
ナスは、都会でも田舎でも一緒かなって思ってた。
でも、採れたてで無農薬だと、やっぱり違うんだな。

子どもたちは、本当に自然が大好きだな。
野球少年団の子どもたちも、お寺に着くとすぐに、川や田んぼや林に入って
遊んでいた。
都会の子どもたちも、そうなんだと、ちょっとビックリ。
最近は、田舎の子どもたちでさえ、あまりそんな姿は見かけなかったから。

昨日、宿坊の近くのキャンプ場に行って見た。
そこの川で、子どもたちが遊んでいた。
そんな姿を見ると、なぜかホッとする。

そんな、子どもたちの姿をみて、ふと自分も夏休みの記憶がよみがえる。

やっぱり大人にも、夏休みが必要だと思う。
夏はやっぱり夏休みを楽しみたい。

それも田舎の自然のままに・・・。

宿坊光澤寺には、昔の田舎の夏休みを、ゆっくり味わえるかも。

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六七日・・・思いはつきることなく。

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息子さんを若くして亡くされたご夫婦。

昨晩は、その六七日でした。
日を追うごとに悲しさが増してくる。
受けとめられなかった現実が、否応なしにつきつけられる。

受けとめようとする心と、信じることができない心。
お盆休みには、ふらっと「ただいま!」と帰ってくるような気がする。
そうつぶやかれた・・・。

そのお盆に、四十九日の法要が執り行われる。
お骨をお墓に入れなくてはいけない、でも早く入れたくない。
浄土真宗はお骨にこだわらないという、でもその息子の身体は、お骨しか
ないのです。
そこに思いを寄せざるを得ない。

僕は、読経する。
もちろん常に、どんなときでも全身全霊を込めて。
それしか僕にできることはない。

読経で少しだけ心を癒される。
そんなときがある。
息子さんのことを思い、こころをつないで行く。

夜吹く風が涼しくなってきた、朝方は寒いくらいです。
あっと言う間に四十九日を迎える。

でも、せめてもの思いを届けたい。
今はそれでいいのかな、まだまだ息子さんの心を受けとめるまでには時間
が必要です。

そんなときを共有する、そして読経の後は、いつも食事をご一緒する。
さりげない日常のお話しと、その息子さんの話しをずっと。
忘れることができないなら、その息子さんの思いに皆で浸る。

そんな六七日でした。




癒しの旅・・・心を解き放つ。

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今週、宿坊光澤寺を一人の方が訪れました。

仕事がとてもハードで、心身ともにお疲れの様です。
大人の夏休み、心と身体を休めに、宿坊にやって来られました。
かなり遠くから・・・。

こちらに滞在された三日間、ゆっくりとお話しをし、散歩をされ、自然を満喫
されました。
空気のきれいさと、自然の豊富さ、そしてお寺と言う環境を気に入られていた
ようです。

お話しをお伺いしていると、芯が通っていて、とてもしっかりとされた方。
お仕事でも、絶対手を抜かない、そしてできる限りのことは手を尽くす。
そんな感じの方でした、すべてご自分に負担がかかっているけれど、それを
も厭わない。
僕もとっても影響を受けました、そんな生き方をしていかないといけないな。

今回は、宗教のこと、仏教のこと、いのちのこと、自然のこと。
いろんなところにテーマが飛んで行きました。

こちらも、キリスト教のことなど、詳しくお聞きすることができた。
そのことで、仏教や浄土真宗のことを再確認できたこともあります。

十分なおもてなしができたか分かりませんが、とにかくゆっくりしていただいた、
三日間でした。

やはり、出会いと縁によって、僕のいのちは存在するな。


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法を見る者は縁起を見る・・・。

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たとえば、宗教を考えるとき、その宗教の立地点を知ることが大切です。

キリスト教と仏教を比較するとき、それは、それぞれの根本的な立地点を
見ることになります。

キリスト教であれば、神の存在になるでしょう。
それは、唯一絶対的、そして万物の創造主である。
それがキリスト教の存在となる。
つまり、常に神が中心のせかいとなります。

では仏教はどうか。
仏教における、宗教的存在は、やはり縁起である。
縁起とは、すべての存在は無常、つまり永遠的絶対性を持った存在などない。
そして、その存在はすべてのものが、つながり関係性を持っている。
関係性のないものなどない、ということ。
つながりなので、中心はそれぞれと言うことになる、つまり遍在なのです。

そこが基本となり、そこを中心に、それぞれの教えが説かれて行きます。

そんなふうに、それぞれの宗教を見て行くと、宗教って分かりやすくなると
思います。

仏教で言う法とは、真実のこと、つまり真理。
仏教における法を知るとは、縁起を知ると言うことになるのです。
つまり、縁起を基本としない仏教は無い、ということにもなりますね。

宗教、この根本原理から、それぞれ比較してゆくと、意外と面白いですよ。


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夏の雲、秋の雲・・・季節が同居する。

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鳥取は最近全国で一番暑いかな。

最高気温が、全国一が2~3日続いていた。
でも、確実に秋が来てる。

鳥取では、その秋を感じることができるのです。
毎日、放送で熱中症注意報と食中毒警報が流れています。

今日、空を見てると、夏の雲と秋の雲が出てた。
すごくキレイで、空が高くなったなって。

昨日までは、少年たちが夏休みを満喫してた。
でも、もうすぐ秋がやって来る。
高校野球は、甲子園が始まるけど、灼熱の中で実は秋が来る。
終盤には、甲子園にも赤とんぼが飛び始める。

そう言えば、カブトムシとか子どもたちが獲りたいと言ってたな。
近くにカブトムシが獲れる場所があると聞きました。
もし来年、少年野球のチームが宿坊に来たら、カブトムシ獲りと肝だめし。
それから怖いお話しもしてみたいなと思います。

秋が来るけど、心は来年の夏に向かってる。

こうして、また季節が巡る、やはりすべての存在は移り変わる存在なのだ。
お釈迦様の説かれたことは、あたりまえだけど、深いな。

子どもたちは成長する、僕はまたひとつ歳をとって、ゴールへと向かう。
それは人生の・・・。
いつか分からなくても、そこまで走り続けて行こう。

こころなしか、扇風機も今年の役割も、もうすぐ終わりって言ってるような表情を
浮かべてる。
すこしだけ寂しい。

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少年たちのこころ。

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少年たちのこころ。

遊んでる時と、ユニフォームを着たときの表情は、全然違います。
真剣な顔でコーチの指示を聞いている。

今回は、たくさんの子どもたちの、いろんな表情が見えたので、楽しかったな。
いま学校では、いじめの話題が多いけど、ここには無縁だなって感じた。
やはり、何かに一生懸命だといいんだな。
今回は、保護者の方々も一緒だったので、みんな幸せなんだな。
このままの心で育って行って欲しい。

もちろん、スポーツをしない子どもたちもいる、そんな子どもたちにも、こんな
幸せな時間を過ごさせてあげたい、こころを豊かに。

今日、試合が終わった後、お寺に戻って来られました。
そして、帰る前にもういちど、お勤めをして欲しいと要望がありました。
お寺としてはもちろん、仏様も喜んでおられることでしょう。

最後に、参加した子どもたちが一人一人から、お礼の言葉が。
その中には、こんな言葉も・・・。
「これから来る後輩たちも、よろしくお願いします。」
「和尚さんに叱られたことが、良かった。」
そんな子どもたちも、何人かいました。
それぞれの言葉が、とても純粋で、思わず涙が出そうになる。

やはり、周りがしっかりと支えていることができたら、子どもたちの眼は輝い
ている。

そんな思いがあった。
やはりお寺は、一人一人の子どもたちを、しっかり見守れる場所でありたい。

光澤寺は、いつまでもそんなお寺になりたい。
これからも、ご縁があれば、子どもたちの合宿を受け入れて行こう。


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がんばれ仁徳ヤンガース・・・by宿坊光澤寺。

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今回は、八頭町の少年野球大会に参加された、大阪府堺市のチーム、
仁徳ヤンガースが来られています。

少年野球チームは、夏休みも練習が続いて、今回の遠征が唯一の遊び
も兼ねているそうです。
朝は一緒にお勤めしてから、試合会場に向かわれます。
5年生だけのチーム編成ですが、1回戦と2回戦は勝ちあがり、今日は
準決勝です。
やはり大阪のチームは強いですね、昨晩はべーべキューで盛り上がり
ましたが、オリンピックのサッカーには全く興味がない様でした。
さすが野球小僧だなって思いました、プライドが高い。

いつか、この中から、有名選手が出て来るかも知れませんね。

朝のお勤めのとき、仏様、そして先祖様や両親やおじいちゃん、おばあ
ちゃんがいるから、ここにみんなと一緒にいられることを感謝しよう。
そう伝えました、ナムアミダブツってそんな意味なんだよと・・・。
オリンピックも強い選手は、必ず感謝することを大切にしていますね。
皆も、感謝の気持ちを大切にして欲しい、そんなお話しをしました。

今回は、怪談ばなしが出来なかったけど、また機会があれば、怪談を
しますね。

今日の試合結果はどうだったかな?

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お寺で夏休み親子合宿かな・・・。

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今日から2泊3日で、大阪より野球少年団が宿坊にやって来ました。

全員5年生だそうです、これほどの人数の方が宿坊に来られるのは、多分
最初で最後かなあ?
宿坊側のスタッフが住職と坊守だけなので、かなり準備に追われました。

夕方から、ご門徒さんが応援に駆け付けてくれて、何とか夕食を準備する
ことができました。
初めてのことだと、思いがけないトラブルが相次ぎ、かなりパニックになる
こともあります。
ご門徒さんがお手伝いに来てくれなかったらと、考えるだけでも・・・。
お手伝い下さった方、本当にありがとうございました。
何とか今日は乗り越えられそう。

子どもたちも、保護者の方も、夏休みって感じで楽しまれている様です。
親子で、お寺合宿をどうぞお楽しみください。
不便さや設備が十分でないことも、良い思い出になりますように。
その分、地域おこしでもあるので、料金は特別対応であります。

宿坊も、何事も経験が大切ですよね、来年度から始めようと思っている、
合宿の誘致の参考になりました。
学生さんたちを中心に合宿に来てくれる様に、企画をいろいろ検討して
行かなくては・・・。


宿坊光澤寺のHPはこちらです。


ご縁がつながる・・・ニコニコ町会議で。

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今日、朝日新聞から取材を受けました。

内容は、人物紹介の記事になるのだそうです。
このご縁は、八頭町主催の「きらめき祭」のニコニコ町会議で宿坊のPRを
させていただいたことがきっかけです。

これは、ニコニコ町会議ツアーの一環として、八頭町が全国の先陣を切って、
最初に八頭町が取り上げられたのだそうです。
僕も町おこしの一助となればと思い、参加致しました。
時間が押していて、短い時間でしたが、参加することに意義があると。

そこで、約1分弱の時間で、宿坊光澤寺を紹介させていただきました。
たまたまそこに、朝日新聞の記者の方がいらっしゃっていて、今日の取材と
なりました。

やはり、いろんなところにご縁があるものだと感じました。
自分で作ろうと思っても、難しいことがありますが、今回の様なご縁がある
ことも。
そんなことを感じた、やはりいろんなものがつながっているんだな。

また朝日新聞に掲載されたら、ご報告を致します。
多分、笑顔の写真になってると思いますが・・・。


宿坊のご縁は一期一会・・・スポーツ少年団をお迎えする。

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8月3日から二日間、宿坊に関西の野球少年団が来られます。

総勢40名の大所帯ですから、普段は1~2名の方々を受け入れているくら
いですから、慣れない準備をあれやこれやと。
でも夏休みにせっかく来ていただくのですから、良い思い出を作ってもらい
たいなと、汗をかきかき準備している。

今回は、たまたま他の宿泊施設の関係で、宿坊に来られることになった。
6月の韓国のテニス交流グループの方々15名の方々を受け入れたのです
が、そのことも役立っています。
今春から始めたばかりの宿坊ですが、いろんな方々との出会いがやはり
一番うれしいことです。

わざわざ、この鳥取の山里にある宿坊を訪ねて来られる。
そのご縁を最大の喜びと考えています。
宿坊を始めてなければ、決してなかったことです。

観光地でもない宿坊ですが、安らぎと癒しと、そして仏教に親しむことが
できる、それがポイントでしょうか。
講座を自由に受けられることも、もっと魅力になる様に、日々精進していま
す。
いつかは、この講座を体験するために、多くの人が訪れる様になればいい。
そして、そこにいろんな出会いがスパイスとなってふりかけられる。
そんなとき、人っていいなと思ったりする。

一期一会、それがこの宿坊のできることですね。


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秋が少しだけ・・・。

DSC_0006 (5)

猛暑である、全国的に。

身体はこの暑さに耐えきれず、熱中症になってしまう。
分かっていてもだ。

でも、今日は青空が少し高くなった。
夏空の中、に少しだけ秋の空気が混ざったのだろう。

うん、秋が来てるな。

夜も9時を過ぎると、気温が下がる様になってきた。

まだまだ暑い夏は続くけど、季節は周っている。
また寒い冬が来る。

そして、僕もまた一つ歳をとる。

やはり、いのちは縁起の中にある。


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