宿坊光澤寺日記・・ひとりばなしのつづき。

光澤寺&宿坊光澤寺&やずブータン村。 山里のお寺で繰り広げる「こころのふる里」作りとお寺復興プロジェクトや、宿坊に来られた方々との出会いも語ります。

2013年02月

寺院と僧侶、保守的な世界も限界が近づいている。

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先日、あるお寺さんからメールをいただいた。

そこに連絡事項とは別に、雑誌の記事の紹介もありました。
お寺や葬儀のことが、いろいろ書いてあり、これから変わって行かざる
を得ない寺院事情、そして葬儀のことが書いてありました。

これらのことは、10年くらい前、私が僧侶の道に進むかどうかを考え
ていたときの内容が、いよいよ現実に迫って来たなと感じた。
でも実際に僧侶の道を歩み始めてからは、僧侶の中に、この問題意識
を持っている人は少なかったのです。
これは私としては意外でした、もっと危機感があっただろうと勝手に思っ
ていたからです。

お寺とか僧侶の世界に居ると、お寺や葬儀、そして法事などは変わら
らないと思っている。
もしくは、変わらないで欲しいとの願望かも知れないが。
最近でも、それほどではなかった。

確かに、僧侶の世界も超保守的な業界です。
お寺と言う存在と、檀家制度と言う努力しなくてもお寺は変わらないと
言った感覚であったと、そして自分一人が変わってもどうしようもない。

そんな感じでしょうか。

ただ、最近はそれが限界に近づいてきたなと感じる。

保守的な業界が変わるときは、劇的に一気に変わって行く可能性が
あります。
それは、僧侶が望む望まないにかかわらず。
変化があるときは、必ずしも良いことばかりではない。
ただ、時代がそれを求めているのでしょう。

たとえば、ソビエト・イラク・エジプトなどの国が変わって行くこともある。
日本でも江戸から明治に代わるとき。
皆はすぐには変わらないと思っている、そして変わった後も、皆が幸せ
とか限らない、今までの方が良かったと言う人も多い。

特に戒名と葬儀のお布施は変わって行かざるを得ないでしょう。
何故なら、そこに仏教的意義を見つけることはできないからです。
ただ、寺院側の都合にすぎないからです。

それが今までは、葬儀と言うことと、家の見栄によって支えられていた。
その家族制度が崩壊し始めている今日、意味や価値を見出せなくては、
崩壊して行かざるを得ない。

そしてお寺や僧侶は、葬儀や法事、戒名や法名、お寺そのものの意義
を本当に問うて行かなくてはならないのです。

すでに変わりつつある寺院や僧侶も多い。
これからは、本当の意義があるものが求められる。
もしくは、現在の日本仏教的な葬儀や檀家制度が崩れて行くか、どちら
かでしょう。

時代は待ってくれない。

寺院も僧侶もそれを感じて行かなくてはならない。

貴方に、お寺に、それだけのお布施を出す意味がどこにあるのかと。
私は、会社員をしていた十年前からずっと、それを問い続けている。

僧侶や寺院に関わらず、仏教と言う存在は、これからも存在し続ける。
何故なら、それは永遠の真理だからだ。
滅ぶなら、今の日本の寺院であるだろう。


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山里に春が来た!

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ヒマラヤユキノシタの花が咲きはじめました。

昨年はまだ本当に雪ノ下でした。
でも今年の山里の春は早い。

今日は本当に春日和。

昼間は本当に穏やかです。

これからも寒の戻りがあったり、小鳥殺しと呼ばれる雪が降ったり。
春が訪れても、そのままではないでしょう。

でも、一度春が来ると、やっぱり春になったなと感じる。

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宿坊から見える景色も、雪景色から春の季節になった。

これからは、境内の花も初夏までずっと続いて行きます。
花が一番きれいな時期になる。

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今日は中庭の池の金魚も、日向ぼっこしていた。
寒い冬の間、氷の下でじっとしてたけど、気持ちよさそうです。

宿坊も、これからお風呂の増築がいよいよ始まります。

四月には完成してるといいな。


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お寺に行こう。

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宿坊を始めて、分ったことがある。

お寺に人が来なくなったと言うけれど、信仰心が亡くなったと言うことだけ
ではない。
お寺に魅力を感じないと言うことなんじゃないかな。

なぜなら、若い人も含めて、お寺に興味を持っている人は意外と多いのだ。
だけど、行っていいのかどうか、行ってみたいと思うお寺があるかどうか。
そんなことを感じている人が多いのでは。

情報発信力がないと言うこともあるでしょう。
檀家さんの葬儀や法事だけしていればいい、そんなお寺も多いでしょう。
求められていないと言うことだけじゃなくて、お寺が受け入れる態勢になって
いないということもあるでしょう。

本願寺では、お寺離れをどうして食い止めるか、どうやったらお寺に人が来て
くれるのか、議論は多いけど結論はいつも出ない。

宿坊には全国から若い人から年配者まで、わざわざ足を運んでくださる方々
がいらっしゃいます。
やはり、お寺って魅力的な場所に違いない。

だとすれば、お寺を魅力的な場所にして、情報発信をして行かなくてはと感じ
ます。

もちろん人によって、その価値観はいろいろでしょう。
だからお寺にはいろんなお寺があっていい。
こうしたら人が来ますと言うことはない、それぞれのお寺が特色を出せばいい。

私は、先ずは宿坊をやってみようと思った。
そこに来られる人が安らげ落ち着ける場所にしたい。
そして希望があれば、仏教のいろんな体験ができること。
何でも気軽に相談や話しができること。

先日お寺に来られた方が仰っていました。
やはりお寺によって雰囲気が違う、それは入りやすいお寺とそうでないお寺が
あると言うことでした。

幸いにも、私のお寺は入りやすく、迎え入れてくれる雰囲気がありましたと。

まだまだですが、これからもその言葉をしっかりと受け止めて行かなくては、と
感じています。

どなたが来られても、できる限りゆっくりとお迎えしたいですね。

お寺って、本当はとっても魅力的な所なんですよ。

この春は、お寺に行こう!


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人は人であるがゆえに心がある。

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人は人であるがゆえに心があります。

心はときに優しく、そして喜びを感じる。
でもこの心が曲者であったりするのだ。

その優しさや、喜びを快楽と心が感じる。
そうするとその快楽を人は追い求めてしまう。

それが結局は執着となり、迷いとなる。
その心にならないと、それが苦と感じてしまう。

苦があれば、人はそれから逃れようとする。
そして快楽の方に向かってしまうのです。

苦を逃れるために、一瞬の快楽を追い求める。
でも快楽は永遠には続かない。
手に入れた瞬間に、それはすでに快楽ではなくなっているのです。

愛を手に入れると、手放したくないと感じたり、逆に別のものを求め
たり。
欲しい物を手に入れてもそう、それ以上のものを求めてしまう。

お金はあればあるだけあった方がいい。
そう思う心はすでに貧しい。
でも人は追い求めてしまう。

一旦その連鎖に巻き込まれると、そこから抜け出す術がなくなって
しまうのです。

ただ、快楽は生きる喜びの様に感じたり、モチベーションになったり。
生きて行くためには絶対必要だと思ってしまう。

だから人には心のバランスが必要なのです。
その心のバランスを取る教えが仏教であるのかな。

今のいのちを、よりよく生きて行く教えなのだとおもう。

たとえば、今の自分のいのちを、生かされているいのちと感じる。
すべての存在は、すべてつながっていると感じる。
あらゆるいのちの中に、私のいのちがある。

生かされていると感じられたなら、そこには感謝が生まれる。
感謝の心が生まれたなら、謙虚さが宿る。
今の自分のいのちを受けとめることができる。

その感じられたなら、それではそのいのちをどう生きて行けば良い
のか、問いが生まれる。

そこに仏の道があるのだ。
仏とは、迷いの世界から脱した、穏やかな心のこと。
この世の道理を受け入れる心であったりする。

そこに近づく心が生まれる。

そこに南無阿弥陀仏がある。
その南無阿弥陀仏の意味に気づかされる。

気付けば、言葉や行動が変わるのです。

変われば、世の中が安穏になる。

そう考えることもできるのかな。


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龍谷大学「みらいの環境を支えるプロジェクト」の皆さんが宿坊に。

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昨日より、龍谷大学の「みらいの環境を支える龍谷プロジェクト」のメン
バー10名が、宿坊に来られました。

八頭町のまちづくりの一環として、プロジェクトチームが企画した「かま
くら祭り」に参加されるためです。
夜は宿坊で夕食兼打合せ兼懇親会を開催しました。

龍谷大学は、浄土真宗本願寺派の宗門校ですが、総合大学なので、
普段はお寺にあまり縁のない方々です。

現在の大学生は、地域支援やボランティアなど、いろいろ活動されてい
ることに、あらためて驚かされました。
私たちが学生の頃は、バブル前だったこともあって、皆遊びのことしか
考えていなかった様に思います。

時代の変化なのか、学生の方々を頼もしく感じたのも事実です。

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私もお寺やNPOで、地域支援を考えていますが、若い方々もいろんな
活動をしておられます。

今回は、八頭のむらおこし協力隊や、役場の担当者も方々も加わって
話しが盛り上がっていました。

朝は雪の降る寒い中、本堂で7時からお勤めをしました。
学生さんは自由参加でしたが、時間前に皆さんお参りされていました。
これには私もちょっとビックリでした。
学生さんたちは、懇親会後も祭りの企画を打合せされていたからです。

今日は山間部は雪でしたから、無事に「かまくら祭り」も実施されたこと
でしょう。

宿坊にも、サークルやグループの方々が研修や合宿にこれから来てい
ただける様になればウレシイですね。

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春を感じるのは山里の宿坊がいい。

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明日は宿坊に大学生のグループが来られます。

今週は、春の模様替えも兼ねて、その準備をしていました。
法務もちょっと一段落した週でしたので、季節の変わり目の掃除にも
精を出しました。

おかげで、宿坊もすっかり春の気分。
今年の春には、グループの方にもご利用いただける様に、お風呂を
増設する予定です。
そうなると、山里の景色や星空を眺めながら、宿坊気分を満喫でき
るようになります。

客室には、エアコンやLEDの照明も付けています。
宿坊と言えども、明るくそして暖かくして、お寺での宿泊を心地よくと
考えてのこと。
部屋もすっかり明るくなりました、もちろんエコにも配慮です。
廊下も明るくして、歩きやすくしています。

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ただお寺に泊まるだけでなく、食事も宿泊も楽しんでほしい。
そして、写経や瞑想、絵手紙、作法やお勤め。
さらには、仏教や浄土真宗の講座なども、ご希望によって無料で受講
することができるのも、この宿坊の大きな魅力となっている。

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宿泊のお部屋も、和洋室タイプと和室タイプとがございます。
グループ宿泊の方々にも対応できるのようにしています。

清潔に、そして静かにゆっくりとお楽しみいただける様に、日々工夫を
重ねている。

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談話室もあって、おくつろぎできる場所を用意している。
トイレはウォシュレットですからご安心を、結構みなさん古くないかと
ご心配される方も多い様です。

雑誌や本、マンガも多数ありますから、日常から離れて、山里の宿坊
でゆっくり過ごすのが、今は面白いと思いますよ。

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ご希望があれば、昼間は寺務所に使ってる部屋をお使いいただけます。
ここは、夜は「BAR宿坊光澤寺」として。
お酒もご用意できますよ。

宿坊ですから、朝晩のお勤めも本堂でしていますので、よろしければ
ご一緒にどうぞ。

山里の宿坊から、春のご案内でした。


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大掃除から・・・人生をイメージ旅行する。

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歳の瀬に、新年を迎えるのに大掃除をする。

でも今年は、春を迎えるのに大掃除をした。
年末も掃除はしましたが、やはり季節の変わり目の方が、大掃除は
いいかなと思う。

お寺に入って以来、改修に改修、掃除の連続。
物はかなり減りましたが、購入したものもかなり増えました。

ただ、必要なもので、気に入った物だけを購入するので、庫裡の中
は2年前と比べたら様変わりしました。

それほどお金はかけられないので、要るかどうかわからないものは
思い切って捨てて、必要なものだけを思い切って購入します。

庫裡の中の照明も、LEDが中心になりました。
レイアウトも大幅に変更しています。

昔のお寺を知っている人は、多分別のお寺に来たように思うのでは。
本堂の中ももちろん断捨離の世界です。
不要な物で、物置と化していた本堂も、今はきれいさっぱり。
訪れた人たちは、その広々とした空間に、喜ばれます。

中々、必要なもので価格とデザインが折り合うものに出会うことは稀
です。
そんなとき、中古ショップやネットオークションって、やっぱり便利。

やはり、残された時間を考えると、必要なもので気に入った物を選ぶ
ことの大切さが分ります。
気に入った物の中で、ゆっくり過ごすことができるのは喜びになります。

お金がなくても、それはそれで楽しめます。
じっくり選び、価格が合うまでゆっくり待ちます。

そう言った面では、お寺・宿坊といった感覚と、それを良い意味で打ち
破る部分の両面があった方がいい。

そんなこんなで探す楽しみも大切。
そう、旅行って旅行に行くまでが楽しいのと一緒です。

それまではイメージ旅行です。

そしてこれからの人生も、もうイメージ旅行していますよ。

そういえば、うちの猫も、片付いた部屋で穏やかに寝ています。


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春雪と紅梅・・・それぞれの宗教観を想う。

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今朝は春雪でした。

紅梅にもうっすらと雪が積もっている。

山里の梅は少し遅めです、でも蕾が目立つようになってきました。
この時期、山里では雪と梅が同時に楽しめることがあります。

山里ならではの風情ですね。

どちらも季節感がたっぷり、日本人の心にあるものです。

アラブであったり、インドであったり。

やはり季節感のあまりない国と日本では、宗教観も大きく違ってくる。

イスラムが日本では根付かない様に、日本の仏教もアラブでは広ま
らないのでしょう。

宗教は、やはり環境にも大きく左右される。

同じ仏教でも、国や地域、民族によって大きく変わるでしょう。

日本の仏教は日本の国で醸成されたものです。

やはり風土と日本人の感覚に合っているのでしょう。

アラブの砂漠の中で、春雪と紅梅と言っても想像がつかない。

逆もまたしかりである。


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春に向けて、お寺と宿坊をバージョンアップする。

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春に向けて、お寺の庫裡と宿坊を片付け中です。
庫裡と宿坊と言っても、ほぼ同じところなのですが。

宿坊施設の方は、こまめに家具や小物を見つけては買い足しています。
最近は照明関係、書籍やマンガなどです。

元々、当初の予定では、寺務所に使っている部屋を開放し、図書室や
談話室に使おうと思っていました。
でも中々事務所が片付かず、談話室も夏用と冬用を用意したので、あま
りお客様に入っていただくことはありませんでした。

この春からは、やずブータン村を発足させると、この寺務所を事務所と
兼用することになります。

一冬のホコリや書類などを一気に片づけました。
雑巾がけも隅々まで。
郵送物や書類など、放っておけば山のように積み上がり、足の踏み場も
ないほどになります。

やはり機能的に、そして処理しやすくして行かないといけません。

通常の来客や、宿泊者の方々へは、夜は「BAR光澤寺図書室」にして行く
計画もあります。
宿坊にも、いろんな面白さを加えて行くのがいいですね。

お風呂の増設もあって、この春はさらなるバージョンアップに挑戦です。

いつ来ても、何かが変わってる。
いつ来ても、楽しみがある。

そんなお寺であり、宿坊でありたいと願っています。

日本で一番行ってみたいお寺になるように。


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檀家制度について。

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今日、七回忌をおつとめしました。

元々、他宗派の方ですが、縁あって私のお寺で法要をされた。
ご夫婦それぞれ宗派が違うそうですが、私のお寺はそのどちらでも
ない。

都会では、近くに自分の宗派の寺院が少なかったりすると、その様
なこともあるでしょう。
菩提寺がなくて、葬儀社に紹介してもらったりと。
特に浄土真宗の寺院は関東に少ないので、その様なこともあるの
でしょう。

現在の寺院の多くは、江戸時代から続く檀家制度によって存続する
ことができた。
今までの習慣や先祖によって守られてきていたのです。
それがときには意にそぐわない場合でも。

今日の法要では、浄土真宗の経典を唱える。
経典なので、お釈迦様の教えですから、基本的には問題ない。
たどり着く先は同じですから。

宗派の教えであれば、仏教的見地からは各論の様なものですから、
宗派独自のものは、今日は唱えません。

仏教は、家の宗教的な部分があります。
でもこれからは、自分に合った教え、自分に合った寺、自分に合っ
た僧侶を選択することが増えて行くかも知れません。

今までの家の宗派にこだわらないと言ったことも。
もちろん、お布施によっても変化があるかも知れません。

意味も良く分からないけど、お布施は高額であるとか、代々の家の
戒名だからと言った理由で高額な戒名を付けるとか。
そういったことには非常にシビアになって来るかも知れません。

お布施は、それぞれのお気持ちですが、決してそうばかりではない。
であれば、自分で選択する様になって来るかも知れない。
あとは、子どもに負担を掛けたくないと言った声が増えています。

これは、お布施や戒名だけでなく、お墓や納骨のついても同じです。

そのときは、檀家制度に守られた寺院が変化して行くときでしょう。

もちろん安ければいいと言うものでもありません。
要は、しっかりと教えを伝え、しっかりと儀礼もお勤めする。

そこにまた、+α の魅力があればと思います。
それで、お布施も決して高額ではないと言ったことも、これからは
重要な要因となるかも知れません。
それが第一義ではないでしょうが。

何故なら、昔と違って、情報が伝わりやすくなっている。
特に、お寺へのお布施は寺院によっても、宗派によっても大きく
違いますが、あまり語られない世界だった。

でも、これからは変わって行かざるを得なくなるのでは。
そして、本当に良いもの、本当に必要なものが見えて来る時代。

私のお寺は、お布施はまったく高くありません。
逆に言えば、その時代の準備はできているのかも知れないと、最近
は少し考えるようになってきました。

体制を整えることができたなら、やはりそれを知らしめることも必要
かも知れません。

ただ、心持ちは常に最高のものを心がけています。
なぜなら、それは釈尊の教えであり、親鸞聖人の教えだからです。
やはり、そこだけは外せないのです。


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今年は大きく前進すべき年・・・次世代を目指して。

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今日は、村の寺役員の方々と懇親を持った。
特に議題もなく、ざっくばらんに話をしようと集まった。

たまにはこんな会もありがたいものである。

お寺のこと、村のこと、そしてこれからのこと。

僕は、これからのお寺が進むべき方向を、お話ししてみた。

やはり、お寺は住職だけでは動かない。
特に村の方々の協力がなければ、イザと言うときに困ることが多い。

こんな話し合いを時々していたなら、お互いのことが分かりあえる。
気心が知れるのだ。
お寺って、みんなの意見が合うことはほとんどない。
特にこれからの時代、誰かが音頭を取って進めて行くことが難しく
なってくるだろう。

合議制で進めないと、何も進まなくなってしまう。

ただ、時代は待ってはくれない。
何か問題があってから動いていたのでは、もう間に合わないのだ。
だから、自分の進んで行く方向を話し、確認し、そしてコンセンサスを
得ておく必要があります。

今年は、昨年に引き続き、お寺を次の時代に向けて動かして行かな
くてはならない。

昨年からのテーマを今年一年頑張れば、三年先が見えて来る。
三年間乗り切れば、10年後が見えて来る。
10年先を乗り切れば、次世代が見えて来る。

今のお寺は、そんな環境に置かれている。
遅れたら、厳しい現実が待っているだろう。

今は過渡期である。
一歩も踏みとどまることはできないと、痛感している。

今年も、面白い一年になりそうである。


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「いのち」は流れている。

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私たちのいのちは、流れている。

この世界、そして宇宙からみたとき、そのいのちの流れは一瞬のよう。

光ったか光らないか誰にも分からないくらい。

ものすごいスピードで流れる中に、私たちのいのちがある。

私たちは、生きてるとき、そのいのちは長く感じるかも知れない。
でも、過ぎ去ったときは、一瞬の様である。

多くの、数限りないいのちの流れがあり、私のいのちも、その流れの
中にある。

すべてと一体なのだ。
一体となったいのちの流れがある。

そう、宇宙とは、全体であり、そして私自身が宇宙なのだ。

そこには、流れがあるのだ。
その流れを感じると、私と言う存在が、無限に溶け込む。

有限である、私のいのちが、無限となる瞬間である。

そのことを、親鸞聖人は、本願海ともいい、倶会一処とも表現する。

私は宇宙の一部であり、宇宙そのものでもある。

何も、空に輝く星や銀河系が宇宙ということではない。

人は、いつも自分を横に置いて考えている。
だからいつも間違うのだ。

自分自身が宇宙だということ、人は自然そのものであるということ。
だから人工とは、人間が偉くなったいい方でしょう。

人間は自然そのものなのだから。

ただ、宇宙という存在を自分自身に感じられたのなら、その心が
変わって行くのでしょう。

南無阿弥陀仏って、そんんこともあるのかな。


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「自以所見 問斯義耳」・・・と阿難と応える。

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「自以所見 問斯義耳」

「みづから所見をもってこの義を問いたてまつるのみ」

これは『仏説無量寿経』の最初の頃の一節。
阿難が釈尊に問われて、その問いに答えたところの場面です。

その日は、阿難にとって釈尊が素晴らしく輝いて見えた。
「五徳瑞現」である。

そのことを阿難は正直に釈尊に伝える。

そうすると、釈尊は「おっ!」と感じられる。
そして、その問いは誰かから伝えられて聞いたことか、それとも阿難
自らが感じたことなのか。

そう釈尊が阿難に聞くのである。

その釈尊の問いに阿難が答えたときの一節なのです。

「じいしょけん もんしぎに」と読む。

阿難は、自らの所見をもって、釈尊に問うたのです。

この自らの問いであるところが、素晴らしいところ。

このとき阿難はまだ悟りを開いていない。

この悟りを得ていない阿難が、釈尊の光り輝く姿に気づく。
そして、そのことを釈尊に尋ねるのだ。

阿難は、それまでもずっと釈尊の傍に従い、ずっと釈尊を見続けて
いるにも関わらず、今まではその姿に気づくことはなった。

ここに、悟りを開いていない衆生が、悟りを得る道が開かれることに
なるのです。

やあり、自らが問う、ということが大切なのでしょう。
講義や、誰かに言われてではない。

自らが問うのです。


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人は問いを持つことで、本当の問いに出遇える。

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人は問う。

なぜ、どうして・・・。

私とはいったいどんな存在なのか。

神は、仏は。

問いの無いところに本当の問いは生まれない。
たとえば、僧侶は問いを持っているか。

常に問い続けているか。
それはとても大切なことなのです。

何故なら、問いがなければ、本当の言葉に出遇わない。
真理に近づくことがないからです。
たとえ仏教の勉強を熱心に学んでも、問いがなければ、それはただ
の学問でしかない。
学問だけなら、宗教とはいえない。

そこにどの様な問いを持ち、どの様な言葉に出遇うのか。

問うとは、自ら考えること。
そしてその問いに、近づいて行く。
答えがすぐに見つかると言うことはない。
ただ、その問いによって、その答えが見えて来る。

いくら専門用語を使ったとしても、それは人々の心に届かない。
そのような僧侶になっていないだろうか。
おそらく専門用語を多用する僧侶は、本当の問いを持っていない。
なぜなら、それはただの学問でしかない。
それでは、人々に伝えることができないのです。

ただの学問を宗教と思っている僧侶は多いであろう。

人は問うて初めて、その真理に近づくのではないか。


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春の香りがした。

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昨日降った雪で、あたりは雪景色です。

晴れていたせいか、空気はまだ冷たい。

でも、今日出かけるとき、確実に春の香りがした。

木々には蕾がついていたりで、春を感じることができますが、空気に
春を感じたのは今日が初めてかな。

まだ寒い日が続くでしょうが、もう春はそこまでやって来てる。

そろそろ春の準備をして行かないと・・・。

そんな気持ちにさせてくれます。

もうそろそろ、寒さと雪のせいにはできないな。

今年は、お寺も宿坊も、いろいろ取り組んで行かなくては。


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瞑想はお寺で体験するのがいい。

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瞑想と坐禅はちょっとスタイルが違います。

やはり入りやすいのは瞑想の方が入りやすい。
初心者の方にも、ちょっとしたトレーニング感覚ですから、ただ座ると
いった感覚ではないので、段階を経て行くことができます。

瞑想とは、お釈迦様が悟りを開かれたときのスタイルをモデルにして
います。
その初期の仏教が東南アジアに伝わったもの。
坐禅よりもシンプルでしょう、坐禅は中国でアレンジされていますから。

ただ、世の中には瞑想と言っても、いろいろあります。
特に初心者の方には、どの瞑想が良いのか良く分からないと思います。
中には、高い受講料のところもあります、もしくは新興宗教系のところも
あったりします。
元々、宗教的な免疫がない方だと、自分の思いとは違う方向に行くこと
もあります。

別にどこが良い悪いということはないけど、取あえずは気楽に取り組め
る方が良いのではと思います。
瞑想とは、仏教の教えに基づくものですから、やはり目的は心を安らげ
穏やかにするものです。
もちろんその根本には仏教の真理があるのです。

ですから、欲求などをかなえるための瞑想だと、本来の瞑想から離れて
しまいます。

そう言った面では、お寺で瞑想するのが安心かなと思います。
それも費用があまり必要ないと言ったことも大切です。
そこで、試しに瞑想をしてみるのが一番良いでしょう。

瞑想は、非常にシンプルなものですから、あまり特別なものと考えない
ことです。
そして欲求や欲望から心を解き放つものです。

宿坊では、ご希望の方に瞑想を体験していただくことができます。
特別な料金が必要と言うこともありません。

いろいろな心の悩みや不安を取り除いて行くものです。
一度、瞑想を体験してみてはいかがでしょう。


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菩薩と仏と如来、法蔵菩薩と阿弥陀如来。

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宿坊に泊まられた方は、朝の本堂でのお勤めに参加される方が多い
ですね。

やはり、宿坊に泊まることの楽しみの一つでもあります。
なかなか普段はそんな体験ができない。
冬の朝の本堂寒い、でもキリッとした気持にもなります。

今朝も、宿泊の方と一緒に朝のお勤めをした。
朝から雪が降る寒い朝です。
今回は四国から来られた方でしたので、雪が楽しみの一つでもあり
ました。

お勤めのときは、焼香を始めとした作法をお教えしています。
皆さん、真剣に作法を練習されます。
そして、お勤めの後は、お話しをする。

今日は、菩薩と仏、そして如来についてお話ししました。
昨日の仏教講座のおさらいでもありました。

菩薩の考え方はいろいろありますが、ご本尊の阿弥陀如来をモデル
にお話ししました。
菩薩とは、仏になるために修行をしている姿でもあります。
菩薩は願いを立てます、その願いを成就するために修行をしている。
その修行を達成し願いを成就すると、仏となるのです。

阿弥陀如来の修行の姿を法蔵菩薩と言います。
法蔵菩薩は願を立てる、すべての仏の共通の願である四弘誓願と、
別願をそれぞれ立てるのだ。

法蔵菩薩は四十八の本願を立てる。
すべての人々の心を安んじ、極楽浄土へと導くこと。
これは釈尊の出世の理由とほぼ同じである。
つまり、阿弥陀如来は釈尊をモデルにしています。

法蔵菩薩は、本願を成就し、阿弥陀仏となります。

阿弥陀仏とも言いますし、阿弥陀如来とも表現します。
どちらも同じ存在です。
ですから、仏と言っても如来と言っても同じ存在をあらわす。

ただ存在としては同じでも、その見方によって仏であったり如来で
あったり。

菩薩は修行の結果、願いを成就し仏(ブッダ)となる。
ブッダは真理に目覚めた方と言う意味になる。
真理に出遇われたのです、ですから真理の世界から私たちの元に
やって来られる。
真理、すなわち真如の世界から私たちの世界に来られた方、これ
を如来と表現する。

仏となったなら、悟りを開いたなら、必ず衆生を教化するのです。
真理の教えをを私たちに届けるために。

それが仏の役割なのです。

それは、釈尊の伝道の姿にも通じる。

伝道がなければ仏教ではないのだ。


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南無阿弥陀仏は呼びかける。

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如来の呼びかけに応える。

親鸞聖人いわく、南無阿弥陀仏は、本願招喚の勅命である。

 如来のはたらきである、南無阿弥陀仏に応える。

招喚、すなわち如来が私を呼ぶ。

それも絶対です、なぜなら勅命、絶対応えなくてはならない。

真実の世界からの呼びかけです。

真理に目覚めよと呼びかけるのです。

それでも私たちは迷う。

それは、私には真理の世界が見えないからだ。

 いろんな縁を通して私にはたらきかける。

それは菩薩の行でもある。

迷い続ける私、そして呼びかけ続ける如来。

 いつかそれが一つにつながる。

それは、私の南無阿弥陀仏となって。

南無阿弥陀仏を受け取る。

それも如来のはたらきである。

 私の行ではない、法蔵菩薩の行なのです。

それは絶対、だから他力。

私の側には何もない、迷いだけの自分です。

だから迷ったままの姿で救い摂る。

いつか、その思いを感じるであろうか。


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如来、真如の世界からやって来る。

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真理というものが存在する。

私たちは真理を追い求める、どこまでも。

でも私たちは真理と言うものを想像できないのです。

想像できなければ、何が真理かは分からない。

真理は、真理の側から私たちへと顕れる。

それを如来と言う。

真如の世界から顕れる。

如来とは、本来はその相はない。

そして、それが救いのはたらきを持って、私たちへと届けられる。

それが、南無阿弥陀仏です。

言葉となって私たちに届けられる。

それが信心となる。

信心は、私たちが信じることではない。

信心となって私に届けられるのだ。

真理であるから、無疑、つまり疑いようのないもの、何も混ざらない
もの。

至心・信楽・欲生の三心。

それは本来、衆生には何も備わっていないものでしょう。

真理の側からやって来る。

真如の世界からやって来る、だから如来。

阿弥陀は如来である。



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住職の健康管理、そして花粉症の季節。

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花粉症の季節がやってきた。
僕は毎年、花粉症に悩まされるのだ。
それもかなり重症なので、本当は心が軽くなる季節は、憂鬱でもある。

一年のうちの三か月くらいは、苦しいときです。
暑い夏と、寒い冬を加えると、何か一年中良い季節が少ないようだ。
せいぜい10月くらいであろうか。
何と日本も暮らしにくい国になったものだと感じてしまうのです。

ところで、住職であれば、各寺院に一人しかいない。
まして、僕のお寺の様にそれほど大きくないお寺だと、代わりがいない。

寺の住職は、有休がない、そして法務は待ったなしです。
夜中でも電話がかかってきます、夜9時以降の電話は、どなたか亡くな
られたのかなと考えたりします。
違えば少しホッとしたり。

たとえば旅行に行っている間に、連絡が入りこともあります。
いつもそんな感じで準備をしておかなくてはなりません。

代わりがきかないと言うことでは、健康管理も注意しなくてはいけません。
風邪やインフルエンザもでも、お参りには行けなくなってしまいます。
まして病気で入院ともなれば、かなり困ってしまう。

ただ、健康管理に注意はしていても、やはり人間なので、どうなるかは
分りません。
それでも、注意をするしかない。

喉についても、声がでないとお経を唱えられないので、気になるところ。
声は喉の調子によって、日々変わります。
後は、葬儀や法事の途中で中座する訳にはいなかいので、お腹の調子
も注意します、それと水分の摂らないようにとか。
僕は、胃腸の調子があまり良くないので、こちらも大変だったりします。

こんな感じで、結構僧侶は身体に気を遣っているのです。
ただ花粉症だけは如何ともしがたい。

それで、今年は新商品を試してみることにしました。
どちらもネットやTVで紹介されているもの。
一つは、花粉対策用メガネ、これで花粉が目に入るのを防ぎます。
もう一つは、ウィルス対策用のシート。
これを首からぶら下げていると、ウィルスを除去してくれるのだそうです。
現在は試している最中、花粉も本番はこれからなので、まだ効果は分り
ませんが、重度の花粉症の私としては、できるなら藁にもすがりたいと
言ったところなので、ぜひ効果があって欲しいものですね。

花粉症のシーズン明けに、またそのご報告を致します。


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谷口ジロー氏への想い・・・マンガ王国鳥取。

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鳥取県は、「マンガ王国」と銘打って町おこしに力を入れているのです。

西部の境港市の「ゲゲゲの鬼太郎」ブームで町が活性化した。
水木しげるロードが観光客であふれている。
中部では、「名探偵コナン」の青山剛昌が生まれ育った。
コナン記念館も建っている。

そしてマンガ王国のもう一人の作家として、谷口ジロー氏が取り上げら
れている。
一般的な知名度は、前の二人には及ばない。
鳥取県でも知らない人も多いでしょう。

でも作家歴は長く、そして意外と海外での評価も高い。
「孤独のグルメ」や「遥かな町へ」など、渋めの作品が多い。

宿坊にも、谷口ジロー氏の漫画を置いておいた方がいいかな、お寺に
も合いそうな作品だし、そう思っていました。

つい先日、昔買っていて押入れの奥に投げてあった本を整理して、使え
る本を宿坊の本棚に入れた。
そんな中に、マンガが3冊、セットがありました。

タイトルは「LIVE! オデッセイ」です。
ふと今日、本棚を見ていたら、作家が谷口ジローとなっているのに気付
いた。
今の今まで、この漫画の作家が谷口ジローだとは知らなかったのです。
ちょっと驚いた。
この漫画は、もう30年以上前に平凡パンチに連載されていたのです。
この漫画が好きで、コミックが発売になった後、3巻揃えておいたもの。

実は僕の好きなマンガなので、取あえず整理のときも捨てずに取って
置いたのです。
今では多分、古本屋に行っても置いていない。
日本がバブル前、映画や音楽は洋物が全盛で、日本の物はコピーで
しかなかった時代、日本のロックに思いを馳せたハードボイルドな作品
です。

何か不思議な巡り合わせの様な気がした。
この方のマンガのタッチは昔から好きでした、でも最近まで名前も知ら
なかった。

あらためて不思議な縁を感じた。
学生時代の青春の思い出でもある。

ちょっと、谷口ジロー氏のことが気になります。

このマンガは、宿坊光澤寺で読むことができますよ。



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真実五願とは。

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親鸞聖人は本願である法蔵菩薩の四十八願、その願の中でも、真実を
説き明かす五願を開示されている。

親鸞聖人の著作である『顕浄土真実教行証文類』のことを、私たちは
『教行信証』と呼んでいます。

それは、浄土真宗の悟り、つまり証へ至る道を顕しています。

他宗派の悟りの道は、「教」⇒「行」⇒「証」であるとされる。
先ず教えがあり、修行を重ね、そして悟りへと至る道であらわされる。

でも、浄土真宗はちょっと違います。
それはどうかと言うと、「教」⇒「行」⇒「信」⇒「証」となるのでます。
教えと修行の後に、信心があります、その結果、悟りへと至ります。

ですから、浄土真宗では信心ということが語られますが、他宗派では
信心という言葉を使うことはあまりないと思います。
禅宗等では発心という表現をするかも知れませんが、意味合いは違い
ます。

教行信証を説き明かすための願を真実の五願と言います。

その願は、十一願・十二願・十三願・十七願・十八願です。

浄土真宗では、他に正因三願というものもありますが、これはまた別
のものであります。
因みに、正因三願は、十八願・十九願・二十願で、三願転入の教えで
語られるものです。

では、真実五願は何を明かすのかと言うと。

十一願は、「必至滅度の願」と呼ばれ、「証」となります。

十二願は「光明無量の願」、十三願は「寿命無量の願」となります。
これは「真仏・真土」になります。

十七願は、「諸仏称名の願」で、「教・行」となります。

十八願は、「至心信楽の願」となり、「信」を顕かにします。

これを読んでも、まったく意味が分からないかも知れません。
でも、親鸞聖人の教えを聞いて行く上では、基本となるものです。

私たち衆生が、悟りへと至る道、すなわち「教行信証」の願いがここ
に説き明かされるのですから。

もし、浄土真宗のことを学ぼうとされている方なら、この言葉は必ず
出遇うはずですよ。

ところで、浄土真宗は自力ではなく他力の教えです。
ですから、この真実とはすべて仏の側で語られます。

私の側には、「証」に至るための一粒の種さえもありません。

「行」というと、何となく自分が行うものと考えますが、これも仏の側と
なります。


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一瞬の生と永遠の生と。

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目に見えないものを信じるか信じられないか。

それでは、一体目に見えるもの、現実か現実でないのか。

では貴方の実体はどこにあるのだろうか。

実体のように見えるものと、実体と感じられないもの。

目に見えているものが実体で、見えないものには実体を感じないのか。

私たちのいのちはどうであろうか。

私たちの肉体はどうであろうか。

実体として、どこから来てどこに行くのか。

親鸞聖人は「生死いづべき道」を求められた。

これは釈尊が求められたものでもある。

生と死の関係性。

今と言うときと、永遠性との関係。

目に見えないもの、そこにこそ真実の世界が広がっているのかも。

宇宙と混沌。

浄土と穢土。

目の前にある現実の様に見えるものにだけとらわれていると、本当の
真実を見ることを忘れてしまう。

さて私のいのちとは一体何であろうか。
そこに問いが生れる。

一瞬の生と永遠の生、刹那と永劫。

その関係性を問う。

それは私の存在という問いでもある様な気がする。



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仏像を楽しむ。

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仏像は、それぞれに味わいがある。

円空上人の素朴なものから、運慶の様な力強いものまで。

写真は、お寺にある古い仏像です。
木をそのままに衣に見立て、そのまま仏様の姿に彫ってある。
その眼差しはやさしく微笑む。

何となく見ているだけで、心が和む。

やはり仏像は、心を落ち着かせたり癒したり。
ときには厳しく、そしてやさしく包み込む。

どちらであっても、私たち衆生を見守る存在である。

たとえば、仏教やキリスト教、イスラームも、仏や神の姿を像にする
ことはなかった。
共通する概念、その存在は不可称・不可思議・不可説である。

ただ人々は、神や仏の姿を見たいと願う。

仏は慈悲のすがたとなる。

そして、ギリシャの文化の伝播によって、その文化の影響を受けるこ
ととなる。
特に大乗仏教においては、その歴史や背景、伝播経路も相まって
仏像の製作が非常に影響を受けたのでしょう。

東南アジアに伝わった仏教とは、やはりかなり違った形を取る。

仏像によって、そして仏画によって、中国や日本の仏教は大きく展開
されたことは間違いないところ。

そして、今に伝わる。

お寺の近くに彫仏師の方がいらっしゃいます。
いつか自分でも彫ってみたいと思っている。

どちらかと言うと、僕は素朴な方でしょうか。
高度なものは無理そうだと思うから。

宿坊でも、いつか仏像を楽しむ会が出来たら良いと思う。


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今年は宿坊で蕎麦を打つ。

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今日は午後から所用があって、出かけていました。

その帰り、遅い昼食を。
手打ち蕎麦で有名な、鳥取市鹿野町にある「そば道場」へ。

この鹿野町の蕎麦粉は、結構品質が良いので、地元の間では有名。

その蕎麦粉を使っていて、蕎麦打ち体験もできるし、食することも。
写真の、ざるそば定食は美味しかったですよ。

今年の宿坊は、2年目に向けて、企画をいろいろ考えています。

一つは、小さいけれど露天風のお風呂を作ること。
二つ目は、講座メニューとして、ヨガ・リトリートを開催する。
三つ目は、蕎麦打ちを体験する。

もちろん、いままでの講座メニューに加えてです。

要は、自分で蕎麦を打って、そのまま食してみる。

やっぱり、打ちたての蕎麦、それも自分で打ったものを食べると、美味
しいのです。
美容と健康にも、そして精進料理でもあります。

もちろん、宿坊のメニューにも蕎麦懐石を考えています。
水は美味しいので、きっとおいしい蕎麦ができると思います。

今年は宿坊に泊まって、蕎麦打ち体験してみるのも、良いかも知れ
ませんよ。

自分で打たなくても、希望があればこちらで打って、お出しします。



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宿坊に友、遠方より来る。

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今日、大学時代同じ下宿で過ごした友が宿坊にやって来ました。
博多から、鳥取まで。
つきあいとしては35年近く、お互いいろんなことを経て、今日に至る。

地元のワインと土手鍋で、ゆっくりと過ごす。

彼は、ここ数年来苦労もあったが、彼の人柄だろうか、常に何らかの
救いの手があった。

昨年の11月にも、共通の友人が宿坊を訪ねてきてくれた。

古い友人は、久しぶりに会っても、すぐに昔に戻れる。
お互いに、それぞれの人生を歩んできた思いが重なるが、会えばそん
なこと関係ない。

明日からまた、それぞれの人生がある。

それぞれのいのちを生きる。

いつか彼とも別れのときが来るだろう。

でも、また会いたいよね。

いつかどこかで。

そこに縁がつながっているんだよ。


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雪国の春はもうすぐそこまで。

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まだ暦では大寒の最中。
これから、まだまだ寒い日が続くだろう。

でも今年は、寒の間に休みがった。
昨日今日と、春先の様な穏やかな日になった。

周辺の雪も今年はほとんどない、山の上の方に残っているくらいだ。

少しお寺の境内を歩いてみる。
すると、あちこちに春が来ていました。

梅に蕾が、そして蝋梅も黄色い蕾をつけていた。
去年は、ずっと寒かったから、梅と桜の開花が重なった。
でも今年は、梅は普段通りかな。

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境内を片づけていると、ヒマラヤユキノシタの葉の下でカエルが冬眠中。
じっと眠ったまま、ピクリとも動かない。

春はもうすぐそこに来ているけど、鳥取の冬はまだまだこれからも続く。
間違えて出てこない様に、と思いながら葉を上に戻した。

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沈丁花も蕾が出ていた。
この花は春にとても良い香りがします。

雪ノ下でずっとみんな春を待っています。

お寺の境内では、一年中なにかしら花が咲いています。
でも、やっぱり春が一番華やかです。


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人生って・・・。

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今日、四十九日のお参りと、納骨壇への納骨がありました。

ご自宅で四十九日の法要をお勤めし、お寺で納骨法要を行った。
どちらも親子お二人でした。

そのとき、いろんなお話しをしました。
普段の法事では、なかなかゆっくりとお話しをすることはできません。

その方は70歳を超えておられる。
お身体もちょっと不自由です。

今日は、奥様の法要でした。

私も50歳を超えて、いのちや人生について少し考えるようになった。

その方は戦時中に生れられ、戦後復興からバブル景気、そして現在
までいろんな経験をされている。

良いことも悪いことも、いろいろある。

途中こんなお話しも。
同級生で事業をしていた人がいて、すごく成功されたそうです。
でも、若くして50過ぎで亡くなられた。

そうですか、お金といのちは引き換えにはなりませんね。
でも長生きしたからと言って、決していいことばかりでもないですね。
どちらが良い人生かと考えても分かりません。

その方も、以前はとても良いときがあった、でも今は厳しいです。
そう仰られていた。

そのときこんなこと感じました。
やはり、仏様がいらっしゃるから、心を埋めることができるんだなと。
どんなときも、調子の良いときも悪い時も。
仏さまにとっては関係ありません。

いつでも、どこでも、誰でも、いつも変わらない。
それが心の支えとなる。
いつだって一人きりじゃない。

それがないと、人生は寂しく虚しいものになるかも知れません。

いつも、そこに南無阿弥陀仏がある。

今日の法要では、そんなことを感じていた。


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