宿坊光澤寺日記・・ひとりばなしのつづき。

光澤寺&宿坊光澤寺&やずブータン村。 山里のお寺で繰り広げる「こころのふる里」作りとお寺復興プロジェクトや、宿坊に来られた方々との出会いも語ります。

2013年04月

気付かなかったり、素通りしてたり。

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東京に転勤になり、都心のマンションに移り住んだとき、車を手離した。
そしてこの自転車を購入しました。

東京の山手線内は、この自転車でほとんど周ったな。

そうすると、いつもとは違う風景が目に入って来る。
東京がいかに坂道の街かということもよく分かる。

会社を辞め仏教の勉強で京都にいるときも、この自転車で市内を周った。

今は鳥取のお寺にある。

田舎に帰ると、本当に自転車に乗る機会が減ったな。
すぐに車に乗るから。

田舎の景色も自転車で周ると、また違った景色が見えるかもしれないな。

そう思って、今日は自転車を磨いた。

その方が、きっと見落としてるものに出会えるかもしれないから。

NPOのやずブータン村を立ち上げる。
やずブータン村を自転車で周ってみよう。

そうすると、気づかなかったこと、何も感じなかったこと、素通りしてたこと、
そんなものに新たな気づきがあるかも知れない。

そして宿坊の魅力も増えるかも知れない。

僕の人生もそんなことの連続だったのかな。



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親鸞聖人の六字釈

親鸞聖人の南無阿弥陀仏の六字の解釈をされたものを抜き出してみる。

『教行信証 行文類』にはこうあります。

しかれば南無の言は帰命なり。
帰の言は帰説(きえつ)なり、説の字は、悦の音なり。

また帰説(きさい)なり、説の字は、税の音なり。
悦税二つの音は告ぐるなり、述なり、人の意を宣述するなり。

命の言は、業なり、招引なり、使なり、教なり、道なり、信なり、計なり、召なり。

ここをもって帰命は本願招喚の勅命なり。

発願回向というは、如来すでに発願して衆生の行を回施したまふの心なり。

即是其行というは、選択本願これなり。

必得往生といふは、不退の位に至ることを獲ることを彰すなり。


以上が親鸞聖人の六字釈である。

ここに自らの解釈をするということはできない。
ただ、どう受け止めるかは、思いを巡らす。

そこから何を感じ取るのか、また原点に戻ってみることも必要だ。
そこからまた、旅が始まる。







心の叫び

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人の人生はいろいろだ。

そのいろんな人生に仏教は答えを持っているだろうか。
浄土真宗に応えはあるだろうか。

私はあると信じています。

今は分からないことも多いけれど、必ずあると信じている。

その道を探すこと、それはいのち尽きてもまだまだ足りないかも知れ
ない。

だから生きて行こう。

今のいのちを。

そして仏の道を歩むのだ。

執着してもいい、とにかく生きてその道を歩む。

「法灯明 自灯明」とはそんなことか。

暗闇でもがき苦しみ、絶望の淵に追い込まれ、生きる意味を見失う。

それでも生きる、そしてその先を見るのだ。

いのちがいくらあっても足りない。

目連尊者は神通力があった、にもかかわらず暴漢に遭って殺される。
それはなぜか、それは彼の生き方だったのでしょう。
仏の道を歩む、それはときに不合理だ。

釈尊は国も民衆も妻も子も棄てて修行に出る。
その国は、釈尊の教えを聞いた国王によって壊滅される。

そこに何の答えがあるのでしょう。

でも道を歩む、ただ犀の角の如く。

その先に見えるものはきっとあるのだ。

タイルで棚を作ってみた

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今日、タイルで棚を作ってみた。 改修中の脱衣所兼化粧室の洗面台に、
鏡と棚を取り付けた。

洗面台は、鏡の部分が無いので、棚を付けようと思い立つ。

浴槽に使った白いタイルが残っていたので、そのタイルを使うことにした。
 板とタイル用接着剤と白い目地を近くのホームセンターで購入。
タイルはスペースを考えて、一枚づつ貼って行きました。

 仕上がり具合はどうかな。

自分ではまあまあ。 鏡を取り付ける板も、色を塗って完成。 意外と面白い
日曜大工でした。

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ドレッシングルーム



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死にたい気持ちと生きる覚悟

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昨日夜に電話がかかってきた。

「苦しくて死にたい・・・。」
そんなお電話でした。

生きていても苦しいだけ、借金もある、隠れる様に生きている。
子どもにも迷惑をかけっぱなしで、こんなに苦しいなら死んだ方がいい。

面識のない方からのお電話なので、ゆっくりとご事情をお伺いする。
苦しい心の内をお話しされた。

もう行くところがありません。

お話しを聞きながらも、いろんな話しをしました。

僕にできる限りのことはしたいと思います。
ただ、死ぬ覚悟をされたのなら、もういちど今のいのちに向き合って
生きたほうが簡単ですよ、と。

いつでもできる限りのことはしますから。

ご家庭のこと、今までの人生、借金のこと、苦しみは果てしない。
もう行き止まり、戻ることもできない、八方ふさがり。
誰にも相談できないし、する人もいない。

こんなとき、もう限界だと思う。
いろんな宗教の話しも聞きに行かれたのだそう。
でも、そこではすくわれなかった。

因果応報なのでしょうか。
そう言われた。

因果応報って言葉、仏教の教えではあるけど、決して悪いことばか
りじゃないですよ。
ちゃんと生活を整えて行けば、良い方向に行くのも因果応報です。

とお話しすると、「そうなんですか」と仰られた。

ただ、そこにつながりがあれば、生きて行く望みができる。
そんなつながりを大事にしたい。

あらためてそう感じた。
「ともしびの会」とNPO「やずブータン村」はそんなところでありたい。
いつかそこに行ってみたい場所。

いのちと一緒にとは、そういうことなのかな。

今日、私の留守中にその方から電話があったそうです。

「心が楽になりました、またいつかお寺に行きます。」

そんな電話だったそうです。

決して苦しみが解決したわけじゃない、これからお付き合いが始まっ
たところです。


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ポジティブ・シンキングだけでいいのかな・・・。

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昨日TVニュースを見てると、オリンピック選手向けにポジティブ・シン
キングのセミナーが開催されたと言っていた。

ポジティブ・シンキングはアメリカ流で、トレーニングにいち早く取り入
れられているのでしょう。
日本ではかなり前からブームになっていますが、今でもこんなセミナ
ーが開催されているのだと、ちょっと驚きました。

それも日本のトップアスリートに対してですから。
トップアスリートは、そんなこと当たり前だと思っていた。
というのも、もっと先に進んでいるものだと。

スポーツ先進国のアメリカ。
でもポジティブ・シンキングのアメリカは、ご存じのとおりカウンセリング
の先進国でもあるのです。
主治医のごとく、カウンセリングを受けるのが当たり前って感じかも
知れません。
無理をしてると、心が病むことも多々あります。
何でもそのまま受け入れればいいってものじゃない。

ポジティブってことばかり強調されると、それ以外はダメってことにも
なりかねない。
ネガティブ思考だとか、根暗だとか、云々。
でもポジティブ・シンキングだけでは、たぶん何かたりないと思う。

仏教には、そんな世界を超越した思考回路があるのです。
ちょっとした実践には、瞑想や禅がある。
念仏の世界もそうなのです。

特にIT系企業の経営者クラスには、仏教的思考の心棒者も多い。
日本のポジティブ・シンキング推進論者はその様なこと、ご存じなの
だろうか。

ポジティブシンキングが悪いわけじゃないけど、そればっかり強調
するのもどうかと思います。
もっと先の思考を目指さなければ・・・。

ちょっとそんなことを考えていました。








自然の中の風呂は、心を真中から癒す。

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いつか、日本海を見ながら入れる風呂を造りたいと思っていました。

今回は海ではないけれど、夕陽と星空を見ながら入れる露天風呂に
なりました。

山里の普通の自然の中で入るお風呂は本当に癒されます。
温泉などの造られた自然や庭園ではない風景は、本当に心を癒す
ということが分かりました。

人間の心と身体は、普通の自然の風景の中で解放される。

今まで見た風景の中でも、決して遜色ないなと思った。

ただ、田舎の風景なのです。

夜は満点の星空になる。

曇っていても、真っ暗な空に混ざり気の無い空気を感じながら。
自然に還るって感じがします。

自分で言うのもなんですが、このお風呂は間違いなく病み付きに
なりますね。

今日でタイル貼りは終了しました。
後は目地を入れて、水道と照明を付け、洗面台を設置して終了です。

思い付きで始めた工事でしたが、GW前の完成が見えてきました。
材料とデザインはすべて自分たちで決めたので、思い入れも一段と。

当初予算30万円で始めたお風呂の改修工事。
さすがに30万円ではできませんでしたが、普通に業者さんにお任せ
するより半分以下のコストなのだそうです。
資材調達すれば、材料の価格がよく分かります。

葬儀と一緒で、業者任せだと見当もつきません。
デザインやタイルは、自分たちで決めないと、絶対にこうはならない
と思いました。

リフォームは、できれば自分で考えるのがいいですね。
今回のことは、とっても勉強になりました。

やっぱり、葬儀も自分たちで考えなくては。
僕は、これから思いのこもったもの、そしてご家族の心が落ち着く
葬儀を提案して行きます。

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三奉請とは・・・。

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浄土真宗本願寺派では、法要の際に三奉請を唱える。

他宗派でも奉請を唱えますが、浄土真宗では三奉請を唱えることが
多い。

仏様をたてまつる。
敬い、礼を尽くし、お迎えするのです。
それはどこにかと言えば、法要の場にですね。

三ですから、阿弥陀様とお釈迦様と十方無量の諸仏となります。

元々、三奉請は善導大師の『法事讃』よりとられたもの。
法要の際の大切な作法です。

この三奉請のとき、散華をします。
仏様が入道されるとき、華をまいてお迎えするのです。
現在の浄土真宗本願寺派の作法では、散華楽と唱えながら、花びら
を一枚たらします。

でも本来の作法は違います。
数枚の花びらを天に向かって撒きます。
そうすると花びらがひらひらと舞って美しいのです。
私が法要や葬儀で散華するときは、こちらの作法ですね。

いつでも・どこでも・だれでも、それが仏様のすくい。
いつもいらっしゃるのだから、わざわざ三奉請を唱えて迎えなくても
良いと言われた僧侶がいた。

えっ、と僕は思った。
いつでも、どこでもだけど、だからこそその仏様のお心を感じなくては
行けないのだと思っています。
そして敬いの心、感謝の心を忘れてはならない。

だからこそ最高の礼を尽して仏様をお迎えするのです。
その心が無ければ、法要をする意味がないではないか。

いつも見守り導いてくださっている仏様。
だからこそ私たちはその思いを忘れてはならないと思うのです。

論語読みの論語知らず。
南無阿弥陀仏を称えながらも、その南無阿弥陀仏の意味を感じなく
ては、ただの言葉として通り過ぎてしまう。

仏法に出遇えるばなのですから。


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無常ということ ・・・ それはいのち輝く。

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花が次々と咲いて行く。

順番を待ちきれないかのように、今年は思いがけず早く咲く花もある。

そして順々に季節が巡って行く。

その花もいつか散って行く、これも花のいのちである。

その花は、また次の花を咲かせるために。

まさに無常である。

無常という言葉を聞くと、何か刹那さとはかなさを感じる。

日本人の死生観の根底あるもの。

そして仏教の根底に流れるもの。

その無常に美を感じるのだ。

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散るからはかない、でもその瞬間を生きるから美しいのだと。

私たちのいのちも、その瞬間を生きる。

この世のいのちは永遠ではない、でもそのいのちを生きるのだ。

永遠でないもの、不変ではないもの。

それがいのち。

そのいのちを生きる、その瞬間を生きる、いのちが輝く。

無常とは、そんなこともある。

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職人気質とお寺。

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現在、宿坊のお風呂と脱衣所を改修している。

GWに間に合うように急ピッチで進めている。
費用に余裕がないので、全部自分で手配をしながら、手伝えること
はなるべく手伝いながら、何とか目途がついてきた。

今回は、手配はすべて自分でして、手伝えることはできるだけ手伝う。
コストを掛けられないのが最大のポイントですが、自分の思い通りの
デザインや設計にするには、やはり自分で手配しないといけない。

お風呂のタイルから脱衣所の洗面台、ドアや照明などすべて自分たち
で選ぶ。

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職人さんたちは、自分たちの思い、そしてやりやすい物を選びます。
そして、もちろん儲かるもの。
そこで妥協をすると、やはり思い通りの物はできない。

職人気質に対して、素人が口をはさむのは容易ではありません。

左官屋さんは知り合いにお願いしたので、かなり無理を言いました。
でも時代によって材料や道具が変わるので、今回のタイルには相当
苦労されたようです。
77歳とご高齢ですが、こちらの要望通りに仕上げてくれています。
イタリア製のタイルは重くて加工しづらい、モザイクタイルは滑って貼
りにくいし切りにくいのだそうです。

今の時代は、職人さんの仕事が少なくなっている。
でも、職人さんには自分のこだわりがあります。
ハウスメーカーやマンション、2×4などの家には、職人さんの入り込
む余地などない。
そこにも職人さんたちのジレンマがあるのだろう。
大工さんも仕事が中々ないと言っていた。

ただいろいろ話しをしていると、職人さんも融通が利かない面もある。
時代の流れに取り残されるかも知れないなとも・・・。
もちろん現代に要求されるサービス精神など皆無です。

今は、価格とスピード、そしてデザインと見た目が勝負と言う感じ。
素人には本当に良いものはなかなか分からないでしょう。

たとえば、本願寺などの仏具や荘厳。
これも入札になって、本当に良いものはなくなったと言う。
それを見極める職員も、もはやいなくなった。

そこに職人の技を発揮するのは厳しい。

そんな点では、お寺や僧侶と共通点があるかも知れない。
時代の求めているものと、自分たちがやっていることのズレに気づか
ない、そんなところ。

職人さんと言えども、今や施主とのコンサルティングは不可欠である。
そこに求められるものを、どう実現するかが勝負です。

本当に良いものは、いつの時代でも求められているでしょう。
左官屋さんや大工さんでも、その人でなくてはいけないとか、その人に
頼みたいとか、そんな要求される存在。
やっぱりオンリーワンの世界がある。

僧侶もきっとそうなるでしょう。

誰でも良いのであれば、代わりはいくらでもいると言うことになります。
その人でなくても良いと言うこと。
衣さえ来ていれば、それでよいのだ。
そうなれば、何事でも安かろう悪かろうとなって行く。

何故ならそこに、法要や儀式、み教えを説くことはできないし、やってる
意味をはき違えることになる。
それにさえ気づかない僧侶は多い、というかほとんどがそうなのです。

お寺や僧侶も、これからは求められる存在と言うことが、キーワードか
も知れません。

本当に良いもの、何より本物をリーズナブルに。


帰命

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帰命とは

いのちの流れに帰す

本来あるべきもののすがたに戻る

命に順ずる

命に帰す

帰命とは、本願に帰す

本願を信じる

本願を疑うことなく、すべてを受け入れる

ということは、帰命とは浄土真宗の信心のすがたである

私たちのいのちの行き先でもある

帰命となるので帰るところと思う人もいる

でもそうではない、私たちのいのちの行き先である

迷い 悩み 苦しみ その中にわたしのいのちはある

そして、その行き先もちゃんとある


分かっていながらも、どうすることもできないとき

そんなとき、ある呼び声があることに気づく

私を呼ぶ声だ

私の行き場所がある

そして、いまのいのちの居場所がみつかる

そんなとき声が私からもれる・・・

ナムアミダブツ




「生きてて良かった・・・。」

私たちは歳を取り、その将来に不安を感じる。

その不安とは何か。

老いること、病気になるかも知れない、寝たきりになること、障害を持つ。
足腰が衰え痛みが増える。

お金のこと、それに社会環境も加わって行く。

そして最後は死である。

すべての悩み苦しみも現世では死を持って終わる。

ただ、人は死んだ後のことも心配になる。

葬儀のこと、お墓のこと、供養のこと。

不安なことを上げればきりがないのです。

先日、母親のところへ行ったときのこと。
母は10年前に脳こうそくで倒れ、死の際をさまよった。
幸いいのちは助かったが、現在も左半身は動かない障害を負った。

今度の六月で、丁度10年になるのだという。
僕は、母が倒れたとき乗っていた軽自動車に今も乗っている。
できるなら、母のいのちが尽きるまで乗っていたい。

働き続けながらも私の兄の子たちの世話をしていた。
やっと手が離れ、これから人生をゆっくり楽しもうと思っていた矢先。
言葉もちゃんと話せなくなった。

時々会いにゆくと、話しが止まりません。
不自由な口元で、何かを話そうと一生懸命だ。
おそらくいろんな思いがあるのでしょう。
妹夫婦が一所に暮らしてくれているので、私としては助かっています。

母が倒れた後、妹がその負担を一身に背負っていた。
そのとき私は東京で会社員をしていた。
年齢的にも働き盛り、勤めていた企業も業績は良く、待遇も良かった。
出世ラインにも乗っていたと思う、だけど本社勤務のビルには五千人
の社員が働き、今思うと空虚感もなくはなかった。

その本社ビルで最後に退社することも多々ありました。
最後になると、30数階建てのビルの電源を切り、セキュリティーをセット
しなくてはなならかった。
もちろん夜の12時はとっくに過ぎている時間。
そこから歩いて自宅マンションへ帰る。

都心の真ん中、でも帰る途中、高速の高架下の隙間にホームレスの
人の住むブルーシートがポツポツとあった。

雨の日も、寒い冬の日も。

そこにもいのちがある、人生がある。

田舎に戻ると、妹に限界が来るかも知れない、そう感じたこともあった。
田舎のお寺に戻ろうと決心した理由の一つに、母のこと、そして妹の
ことがあったのは事実。
私だけが東京でゆっくり暮らしていて良いものか・・・。

そんな母にこの前会ったとき、こう聞いてみた。

「生きてて良かったか」と。

母はこう応えた。

「うん、生きてて良かった」

そうか、それなら良かった。

たとえ障害を負っても、苦しみや悩みが絶えなくても、生きてて良かった。

そう聞けて、安心した。

そう言いながら今でも、母の話しをゆっくりと聞いていることはあまりない
かな。

人のいのちって・・・。









お寺の新しいカタチ

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お寺の新しいカタチ。

それは形の無いお寺です。
日本仏教の中心は、江戸時代に強制的に作られた檀家制度の上に
今も成り立っている。

確かに檀家制度は、ある意味良いシステムです。
それは誰にとってかと言えば、お寺にとって良いシステムです。

戒名・位牌・お墓・納骨堂、すべてお寺にとって都合の良いシステムな
だけなのです。
そこに教えが無くても、お寺にはお金が入るシステムになっています。
本来、釈尊の仏教とは何ら関係ないシステムなのです。
お墓や納骨堂はともかくとして、戒名や位牌に至っては何ら関係ない、
ただの集金システムなだけです。
ある意味、お釈迦様の教えに反しているとさえ思えます。
おそらく意味を聞かれたとしても、仏教的な回答はありません。
あったとしたなら、それはその宗派もしくはお寺の独断でしかない。
それに縛られていると、お寺は時代の流れに取り残される。
何故なら、皆がおかしいと思っていることだから。
それを捨て去って、本来の仏教の教えに戻り、何ができるかを考えて
行くことが必要なのでは・・・。

だからそんな形に縛られない、そんなお寺があったらいいと思う。
本堂が無くても、そこに教えと仲間がいれば、それが仏教スタイル。

何故なら、お釈迦様が悟りを開き、教えを説いたとき、そんなものは
何もなかった。
お釈迦様の教えを聞く仲間が集まって、サンガとなった。

宗教法人と言う形をとらなくても、仲間が集い、自分に合った教えを
聞く。
檀家制度の中では、自分の好きなお寺や僧侶を選べない。

これからは自分に合った僧侶を選ぶ時代が来ているのかも知れな
い。
もちろんそのとき私が選ばれる保障などない。
でもそれで良いではないかと感じる。
それが仏教本来のスタイルではないか、嫌な僧侶に葬儀をしてもら
ってもどうしようもない。
ただ、今の日本のお寺では中々それができない。

だったら新しいカタチを創ればいい。
そこに本当の意味があれば、新しいカタチのお寺はできる。
存在意義が無ければ、ただ消えて行くでしょう。

私は住職である以上、私のお寺を守って行く義務があります。
お寺のご門徒さんを支えて行くという大きな目的があります。

でも、それだけではないお寺のカタチ、僧侶のカタチがあると思って
います。

従来の形にこだわらない、新しいもの。

だからそんな新しいお寺のカタチを模索しています。

それが「ともしびの会」です。














露天風呂を造る・・・癒しと安らぎ、宿坊の楽しみ。

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                           (露天風呂・・・工事中です)

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                            (内風呂です)

宿坊のお風呂は、内風呂です。

グループのお客様は、近くの温泉にお連れしています。
日帰り湯もまた楽しかったりします。

ただ、宿坊でゆっくりし、心と身体を癒してもらうためには、お風呂も
やっぱり欠かせません。
お風呂に入る楽しみも味わってもらいたいと思っています。

そこで、現在ある内風呂の横の倉庫と物置を使って、露天風呂と脱衣
所兼化粧室を造ろうと思い立つ。

大きなものはできないけど、自然を味わってもらいたい。
特に夕陽と星空がきれいなので、それを生かせるように。

なので、あえて露天風呂にしました。
浴槽は、いまどき珍しいタイルで仕上げます。
最近は、モザイクタイルの人気が高いのです。
今回は、かなりタイルにこだわりました。
やっぱりお風呂はタイルで雰囲気がかなり変わりますね。

シャワーも二ヶ所増設で、内風呂と合わせると3ヶ所になる。

洗面台も二つ増設、こちらも3ヶ所になるので、ゆっくりとできます。
古民家風の室内に、洗面台の周りは赤いモザイクタイルを。
脱衣所兼化粧室は、4畳半くらいの広さがあり、もうひとつの脱衣所
と合わせたら7畳くらいになります。
脱衣所には冷蔵庫も設置するので、ご自由に使っていただけます。

これで、10人前後ならゆっくりとお風呂も楽しめそうです。
サークルの合宿とか、婦人会や研修会にも使えますよ。

ただ、11月~3月は寒いので、露天風呂に入られる方は、ちょっと
覚悟が必要かも。
でも自然の中で入るお風呂もまた格別かも知れません。

癒しと安らぎの宿坊を目指して、これからももっと充実させて行き
ます。

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                         (露天風呂から見た景色)

露天風呂から見る夕陽が美しい。

これも宿坊の楽しみになりそうです。


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人生は地図のない旅

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僕は海外に行くときは、結構その街の地図を詳しく調べます。

地図や地下鉄や鉄道まで調べます。
なので、その街に行ってもほぼ迷うことなく、一人で歩き回る。
まるでその街に以前から住んでるような感じになる。
何故か、地下鉄や道を聞かれることも多い。
分かってそうに歩いているからかな。
もちろん、スリとかではなく普通に地元風の人たちだったりします。

ヨーロッパでもアメリカでも、アジア人って多いし、普通って感じです。
逆にアジア人だったりすると安心感があるのかな?
日本人は丁寧だしね。

基本的にナビも使わない。
やっぱり方向感覚って、便利な器具を使えば衰えて行くだろうな。

でも、人の人生は地図の無い旅の様なもの。
目標を立てたり、どこかに向かっているような気がしてる。
特に若いときはそうかな。

いつか歳を取る、病気にもなる、そしていつかは死を迎える。
果たしてそれは目標通りだっただろうか。
目的地にちゃんとたどり着けたのだろうか。

結局は、地図もなく目標もいろいろだったり。

人は死ぬときでさえ、まだ旅の途中なのでしょう。

そんなときに、ちゃんと心を支えてくれて、安心させてくれるものが
あればどうでしょう。

いつも迷い、いつも苦しみや悩みがある。

そんな地図の無い旅をサポートしてくれるもの。
それは心の安心しかないのでは。

そして、そんな迷いの心をちゃんと導いてくれる存在。

それが仏教かな。


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「やずブータン村」・・・やっとNPO申請を。

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昨年11月に、「やずブータン村」の発足イベントを開催しました。
その勢いに乗って、年度内のNPO申請を目指していたが、寒さにつれ
て、遅れておりました。

ここにきてやっとNPO申請するところまで漕ぎ着けました。
できれば4月中のNPO申請したいですね。

「やずブータン村」は全国にブータン村を設立して行くためのモデル
ケースとなりたいと思っている。
もちろん、ブータン王国といづれは交流も始めたいと思っていますが、
まだまだ遠い先の話しになりそうです。

なぜブータンかと言えば、「しあわせのある国」だと思っているから。
日本にも、物質的だけではなく心の幸せのある場所を作りたい。
そんな思いから、ブータン村と言う名前をつけた。

関連性と言えば、ブータン王国は熱心な仏教国であること。
親日の国であると言うこと。
そして多少は人的ルートがあると言うこと。

それと、『阿弥陀経』の原題は、「しあわせあるところ」という意味なの
です。

まあ、いづれもほとんど関連とは言えず、こちらからの一方的なネー
ミングですが、いつかは思いが通じることでしょう。

やっぱり、「念ずれば花ひらく」ってこともある。

とりあえずは、到着する港の無い船出の様なものですが、逆に言えば
どこにでも行けると言うことでもある。

いろんなことを考え、時代の変化に自由に対応することが大切。
今は5年や10年も経てば、社会が変わっているなんて当たり前。
固定観念や行き先を決めると、時代に取り残される可能性が高いと
思う。

これは会社を辞めた7年前と今を比べたときの僕の実感。

福祉や介護、景気など大きく変わった。
その当時は、先進的な寺院は介護関係などに進出していた。
でも今やそれはお寺の足かせとさえ、なりかねなくなっている。

先を見通す神通力はないけれど、時代を読む力は必要ですね。
これは、お寺にもNPOにも。

そんなこと、ツラツラと思いながら、絵を描いている。
もうすぐ頭の回路がつながって行くだろうなと・・・。

ピー子には、そんなこと関係なさそうですね。

もしかすると、達観しているのかな。




四月の空

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四月の空を撮ってみた。

寒気が日本列島に入り込み、夕方はかなり冷え込む。

雲が夕陽に反射している。
ちょっと龍が舞っているようにも見える。

春の訪れは早かったけど、四月は寒い。

露天風呂もあまり早く造らなくて良かったかも知れない。

来週は春の陽気が戻ってきそうだ。

この夕陽を見ながら、風呂につかって考え事でもしてみよう。

考え事って、ときには楽しかったりする。

何を考えようかな、ってことを考えたり。

やっぱり、いのちのこと、これからのお寺のこと・・・。

死ぬまでの自分の進むべき道とか。

答えの無いことを考えるのも、宿坊の楽しみだったり。




僕のいのちの果てにあるもの・・・

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僕のいのちの果てにあるもの。

そこはあるのだろうか。

ただ見えないものに導かれて僕は生きる。

僕は僕のいのちを生きる。

そう信じる。

僕のいのちの果てにあるものを目指して。

そして今を生きる。

無常の中に生きる。

その果てを信じて。

それしか僕の生きる道はない。

それは憧れか、希望か・・・。

どちらでもない。

それは確信。

そう死は終わりではない。

いつかそれが分かるだろう。







お寺と宿坊の楽しみ・・・現在お風呂を増設中。

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                         (庫裡の倉庫にお風呂を)
宿坊をやることの楽しみ。

それは先ず何をおいても、いろんな方々との出会いです。
もしかすると、一生会うことがない人たちと出会えること。

そして、そこでいろんなお話しができること。
お一人お一人と、いろんな語らいや出会いがあります。

もう一つは、宿坊を始めることで、お寺の掃除をこまめにする。
そうすると、お寺はいつもきれいになります。

本堂の掃除、境内の草取り、花や植木もそう。

それ以外に、実はもう一つ大きな楽しみがあります。

それは宿坊に利用している庫裡のリフォームやレイアウト変更です。
お寺に戻って2年半、宿坊を始めて1年経ちます。

その間、庫裡は大きく変わりました。
壁を塗り替え、障子やふすまを張り替え、境内を整備し、本堂を片づ
ける。
宿坊のこと考えながら、家具やなどを揃え、部屋の模様替えをする。

今年の春は、食堂を準備して、現在はお風呂を改修中。

こんなこと、日々の暮らしの中でやっています。
もちろん、経費をできるだけかけられないので、とにかく自分でできる
ことはする。
家具や調度品も、こまめに探さないと手に入りません。

手作りの楽しみもあるし、これからの自分の暮らしを豊かにするという
こともできます。

実は、これが宿坊のもうひとつの大きな楽しみなのです。

いつか来てくださるかも知れない方々のことを思いながら・・・。

現在取り組み中の、お風呂の改修。
もともと倉庫と物置だった場所を使って、半露天風呂の風呂場にし、
化粧室兼脱衣所も作っています。

洗面台が少なかったのですが、これで洗面台が3ヶ所できる。
浴槽も綺麗なタイル張りにすることに。

GW前には完成予定ですが、露天風呂から見る夕陽、そして星空は
また格別です。

自分が入るのも楽しみなのです。

完成しましたら、また写真をアップします。

みなさんも、山里の宿坊でに、心の癒しとリフレッシュにおいで下さい。

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                 (物置だったところを脱衣所兼化粧室に)


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浄土真宗ともしびの会 「・・・いのちをいっしょに・・・」 を設立する。

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人には、人それぞれの人生がある。

特に現代社会は、孤独との闘いでもあるかも知れない。
何故なら、核家族化から始まり、少子高齢化、過疎化、不景気。

これだけの条件が重なれば、人は一人で生きて行くことにならざるを
得ないだろう。

そこには生活苦もあるし、病気や介護の問題もある。
独居化に対してどのように対応して行くのか。
これは都会なら都会なりの、田舎なら田舎なりの苦しみがそこにある。

終活という言葉を最近よく聞くが、本当の苦しみがあればそれどころ
ではない。
また、自分で道を切り拓ければよいが、そうはいかないことも多々ある。

私はこれから、「浄土真宗ともしびの会」を立ち上げます。

理念は、「・・・いのちをいっしょに・・・」

浄土真宗とは、釈尊の仏教的理念を背景にして、親鸞聖人のみ教え
を実践する会です。
もちろん僧侶が中心となるが、広く一般にも呼びかけて行く。

宗派や本山組織、地域などの垣根を超えたものです。
エリアを限定せずに、賛同者を集めて行きます。

そして、今ある苦に寄り添う。
そして、生と死を考えて行きます。

もちろん、生に関わること、いのちに関わること、を一緒に考える。
そして死後のことも一緒に考える。

強制など何もなく、ただゆるやかな会としたいと思っています。

あなたの苦しみを我が苦しみとし、あなたの喜びを我が喜びとする。

生も死も、すべていっしょに。

だから、「いのちをいっしょに」なのです。

宿坊を昨年から始めた、今年は地域活性化のNPOを立ち上げる。
そして、寺院や組織、団体や地域を超えた「浄土真宗ともしびの会」を
立ち上げる。

この三つが一体となったとき、これからの僧侶に求められるものが
見えてくるだろう。
そして、従来の檀家制度に変わる、日本仏教の仕組みができる。
そう信じています。

それが志に燃える僧侶を支えて行くことにもつながって行く。

さあ、従来の枠を超えて社会に僧侶が出て行くときです。
自由にはばたき、そして社会に貢献する、真の僧侶を目ざそう。


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志のある僧侶を育てて行かなくてはいけない。

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寺院の力の尺度は何かというと、所属する僧侶の能力ではありません。

現在は、寺院の力は経済力、すなわち檀家数で決まっていると言っても
過言ではない。

たとえば、本願寺派の寺院は全国に1万ヶ寺以上あります。
そのうち檀家数が300軒以上ある寺院が何ヶ寺あるでしょうか。

過疎地の寺院は檀家数が漸減しています。
いくら優秀な僧侶がいても、檀家数だけはいかんともしがたい。
というか、優秀であれば逆に教えに忠実であろうとするので、経済的に
めぐまれなければ厳しい寺院経営がそこにあります。

もちろん、本山である西本願寺や各地にある教務所が手を差し伸べる
何て事はまったくありません。
そこに宗派として何とかしようということは考えていません。
有力寺院の顔色を伺いながら、適当にお茶を濁しているだけでしょう。

となると、当然の如く、住職がいない寺院や廃寺が一気に増えるのは
間違いありません。
臨済宗などは、定年退職した僧侶で、資金的に余裕のある人たちを
集めて無住化したお寺に入寺してもらおうと企画していると言う。

でもそんなことでは、本来の意欲ある若い僧侶を育てることはできません。
本山にいる職員は、そんな志のある人は少ないし、縦社会の中でサラリ
ーマン化せざるを得ない状況でしょう。

私は、若いやる気のある僧侶を育成してゆくシステムが必要であると
思っています。
それに経済的に苦しい寺院などもそうです。
そこに何らかの策を打たねば、宗派全体が衰退して行くでしょう。
何故なら、もう二十年もすれば檀家制度自体が疲弊し、消滅する運命
にあるからです。
現在、檀家数の多い寺は、逆に努力しなくても食べて行けるが、将来は
そういう時代ではない。

ちょっとそんな仕組みを考えています。

それは、寺院や本堂が無くても、志があり能力ある僧侶が報われる
仕組みを作る。

時代は待ってくれないので、何とか早く作り出さないといけません。

地域や寺院、本山の縦割り社会から解き放つ、新しいネットワークです。

志ある僧侶が集まって欲しいと思っています。


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真実の教えに出遇うのは、今をおいてない。

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親鸞聖人が九歳で比叡山に上るとき詠まれた句とされる。

「明日あると思う心のあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかわ」

今年は桜の花が早く咲きました。
でも、咲いてからは花冷えが続いて、今日は寒の戻りのような気候です。

風が強く、お寺の山門にある枝垂れ桜も花を散らせている。

日本人にとっての無常観。
それが桜の花にも詠まれます。

華やかに咲く桜の花、昼にも夜にも。

でも、もし夜中に嵐が吹き荒れたなら、昨日までの華やかさとは裏腹に
散った花びらがあわれに思われる。

人のいのちもそうだ。

勢いあるように見えて、まだ若いように見えて、でもそのいのちが明日ある
とは限らない。

特に昔はそう感じられたでしょう。
子どもが生きられない時代だった。

まさに「今でしょ!」
仏法に出遇うのは、仏法を聞くのは。

百千万劫にも出遇うことが難しいと言われる真実の教え。
その真実の教えに出遇う機会があったのなら、そのときを逃してはならない。

そのときあなたのいのちは輝くのだ。

その一瞬を逃さないように。

その一瞬を生きるのだ・・・刹那に生きるとはそう言うこと。

あなたのいのちは今生きている、そして輝く。


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寺と宿坊・・・無限の可能性を求めて。

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宿坊に十代の方が来られた。

十代の方が宿坊に来られたのは、少年野球のチームを除けば初めて。

宿坊に来られる方々は、世代はまちまち。
それぞれの思いを持って来られるのです。

二十代の方も多いですが、八十代の方も来られます。
会社員・OL・主婦・学生・ご家族・ご夫婦・僧侶やお寺に嫁ごうとされる方。

やはりキーワードは宿坊、お寺。

いろんな体験をしてみたい。
仏教や浄土真宗に親しみたい。
話しを聞いてみたい。
お寺に泊まってみたい。

など、思いは様々ですね。
あとは、少し悩みがある方も多いです。

仏教やお寺、そして僧侶と言う存在。
もちろん私という存在を知っておられる訳ではありません。

でも、そこに何かがある。
そう感じさせるのでしょう。

これからも、いろんな方に来てほしいと思います。
心と身体を癒す場所であり、悩みを融かす場所であり、心をリフレッシュ
する場所でありたい。

現在は、お風呂を改修中です。
従来のお風呂の横に、半露天風呂と化粧室兼脱衣所を作っています。
連休前には完成予定。

星空や夕陽を見ながらお風呂に入る。
それだけでも心が癒されますよ。

学生のサークルの研修や合宿、仏教関係の研修、ヨガや瞑想のなどの
リトリートに使える様に準備中です。

いづれは、仏教関係や癒しのセンター的な環境づくりを目指しています。
もちろん、一人旅の方もゆっくりできるような場所。

やっぱり、お寺には無限の可能性があります。
それをどう展開して行くかは、それぞれのお寺にかかっています。


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つねに大衆のなかにして、説法獅子吼せん。

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「つねに大衆のなかにして、説法獅子吼せん」

獅子が吼える様に、大衆のなかに入り、教えを説く。

決して、ひとり悟りの世界にいて、ひとり静寂の中ですごすのではない。

つねに人々のなかにいる、そして教えを説きひろめる。

それが世尊の姿である。

教えは常に大衆、十方の衆生に向けられている。

一握りの僧のためではない。

大衆のために宝蔵を開き、広く功徳の宝を施するのです。

仏の眼差しは、つねに大衆を向いている。

僧侶もしっかりと受け止めなくてはならない。

その眼差しは、人々とともにあるか。

自分自身の一人よがりになっていないか。

教えを聞き、そして教えを伝えて行かなくてはならないのだ。






やずブータン村の風景 ・・・ 春

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やずブータン村に春がやってきました。

今年の山里の春は早かった。
でも花の咲くころは、花冷えの日が続いた。

今日は、本当に春になった。

鳥のさえずりがたくさん聞こえます。
川の流れもおだやかに流れる。

花が咲き、川が流れ、野鳥が啼く。

空気も雨上がりで穏やかに。

やずブータン村の春です。

自然のままの風景がそこにある。

この風景がこれからも続きますように。


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散華・・・春の花が咲く頃。

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散華(さんげ)、仏様への敬いをもってお招きする。

誠心誠意、こころを持って。

仏教の行事における作法で、散華は取り入れられる。

仏さまは見返りを求められず、私たちを見守り導く。

いつもどこでも見守っておられるのだから、散華しなくても。
そんな声を、ある僧侶から聞いたことがある。

そうではない、私たちはその恩に礼をもって尽くす。
敬いをもってお招きする。

だからこそ、法要での作法があるのだ。

それが私たちの心なのではないか。

今、お寺の境内では春の花々が満開になっています。
これから当分花の季節になる。

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やはりお寺には花が良く似合う。

花を持って仏様に感謝する。

そういえば、もうすぐ花まつり。

お釈迦様の誕生会なのです。

やはり仏様には花がいいな。

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脱、檀家制度を往く。

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お寺には檀家があります。

もちろん最初から檀家さんがいないお寺もある。
ただ、檀家があるお寺は、檀家の数を言う、多いとか少ないとか。
最近は過疎化もあって、檀家さんが減ったとか。

最近、2040年の人口予測が発表されていました。
日本の人口は大幅に減る。
特に地方の人口減少率はすさまじいのだ。
言えば、現在の2/3の人口になるのです。

現在は、お寺離れとか葬儀離れとか言っています。
そんなこと関係なく人口が大幅に減ってしまう。

そんなこと考えたら、お寺の将来がどうなるかは一目瞭然です。
現在のまま、お寺だけが生き残ることなんて有りえない。

檀家制度などは、ある意味、風前のともしびの様なものである。
ましてや、価値観がこれだけ多様化している中です。
従来のように、病気や災い除けの加持や祈祷など、全く必要ない。
何故なら、これだけ医療や福祉が発達し、情報社会です。

檀家に頼れば、檀家離れや檀家の減少に憂う。
もちろん本山にそれをすくう手立てはない。

檀家のことを考えると、檀家制度の枠から逃れられない。
自らをその中に縛り付けることになる。

檀家制度なんて、本当は仏教に何も関係ないのです。
ただ江戸幕府の権力者の都合だけの制度。

檀家の数やお布施を憂うことなかれ。
そのそろ、自由な道を選ぶときです。
教えの道を進むべき時です。

脱、檀家制度がお寺の進むべき道になるでしょう。
そのときお寺は、僧侶はどうするか試される。

そうすると、檀家さんとも真剣な交流になる。
逆に、檀家さんも離れて行かないでしょう。

檀家を持たないと心に思えば、檀家に頼らない方法を考える。
まさに、なきがゆえの心の平穏です。

もちろん、お寺を支えて下さる方々は大切です。
それは、教えに基づいて、しっかりと支えて行く。
だけど、ギブアンドテイクではない。

テイクを考えると、それが執着になって行く。
執着になれば、それが悩みになり苦しみになる。

要は、僧侶と寺院が独自の道を歩み、自らの信じた道を歩むこと。
法灯明・自灯明である。

「ただ犀の角の如く道を歩むのだ。」

すべてを捨て去ったとき、手に入れるものがある。
それは本当のみ教えです。

今、お寺はそう言うときなのだ。


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「さあ、次へ行こう!」

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山門横の枝垂れ桜。

まだ満開ではないが、一気に花が開いてきた。

蕾も赤く、花の桜色と合わせてとても綺麗です。
満開よりも今が一番美しいときかも知れない。

お寺のこといろいろ考えながら、やってきた。
お寺の活性化、寺院のこれからの方向性。

そして宿坊として、より所となれるように。
寺院葬で、最高の見送りができる様に。

まだまだ準備中です。

これはどのお寺も試行錯誤の連続でしょう。
そして、西本願寺など、各宗派の本部も同じでしょう。
時代が変わり、社会が変わり、生活や人口構成も変化する。

その中にあって、寺院が徐々に衰退して行っているのは間違いない。
特に地方にあっては過疎化、都会にあっては葬儀離れ。

今は、いろんな僧侶が独自の道を探して情報発信している。
いろんな企画があり、ボランティアにも熱心です。

そろそろ、寺院や僧侶も、次の段階に行ってもいいのでは。
仏教本来の姿を目指す、浄土真宗のみ教えを伝える。

そしてその延長線上に、新しい寺院のスタイル。
新しい僧侶のスタイルになってもいいのでは。

檀家制度や旧態然の寺院や僧侶の流れにいては意味がない。

さあ、次へ行こう。

もう十分、社会や世間の期待を裏切り続けてきたではないか。

「次に行こう。」

今年度はそれをさらに加速させるのだ。


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他力をもうすこし・・・。

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他力と自力はよく比較されます。

ただ、私が最近感じるのは、他力と自力は同じ次元ではないと思うの
です。

人は自力で道を歩む、でも人には必ず限界があります。

自力は衆生側の世界、他力は仏の側の世界です。


健康・いのち・お金、一番大切なものは何かと言う問いに対しての皆
さんの感想です。

でも、この健康・いのち・お金の三つがまったくあてにならないものなの
です。
あてにならない、もしくは自分の力ではいかんともしがたいもの。
それを包み込んで行くものが他力なんだろうなと・・・。

そこに気づきがある、安心が生まれるのです。
気づけば、心の持ち方が変わってくる。

だから自力の宗派でも、行き着くところは他力になるのです。

それを他力と自力を相反するように語るとか、他力本願ではいけない
とかという理論にすり替わると、他力の本質が見えなくなってきます。

人々の、本当の苦るしみ、悲しみ、持って行き場のない怒り、喜び、そ
れが他力によって包み込まれる。

そして、自分の本当のいのちに出会って行く。

そこに、「南無阿弥陀仏」があるのです。

すべてを受けとめ、すべてを赦す、阿弥陀如来の願いなのです。

他力ってそんなこともあるのかな。


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