
本願寺派(西本願寺)で江戸時代に教義論争があった。
その論争を「三業惑乱」という。
「三業惑乱」は宗門として厳しい結果となる。
なぜなら、あまりにも混乱をきたしたため、江戸幕府に裁定を仰ぐ
という結果になったのです。
宗派が二つに分かれて大論争を繰り広げた。
本山の学林と、安芸を中心とした学僧によって論争が続き、宗派内
では解決できないほどであった。
裁定の結果は何と、本山側が間違いとされた。
本山側は「三業帰命説」を唱えたが、それは間違いとされる。
人は自らが行う行為、たとえば「心から願い」・「口に出して称え」・
「合掌礼拝する」ということを持って仏に祈願請求すること。
三業に意味をもたせることを説いたのである。
結果、本山側は大打撃を受けるが、勝った方もそれ相応の覚悟が
求められるのです。
喧嘩両成敗的なこととなります、そしてご門主は蟄居閉門となるので
す。
浄土真宗の教義について幕府の介入を許し、そして教義について
裁定を委ね、結果はご門主の蟄居閉門、関係者は自害した僧も多々
いるのです。
今日、連研で訪れた寺院において、江戸時代に三業惑乱に関わった
住職がいらっしゃるのだという、立場としては本山側であった。
惑乱後に許されて本願寺派に戻ることが許されるのだが、その後に
自害をされた。
その思いは幾ばくであったであろうか、遺言書には辞世の句が・・・。
そこには「法を開き 身命を捨てん 云々・・・」とあるそうです。
本願寺派ではその当時惑乱に参加した寺院で、本願寺派から分か
れ独立した寺院が少なからずある、それは現在でもそのままの所が。
この事件以降、本願寺派の教義は非常に厳しく取り締まられる。
つまり安心と異安心を見極めることが、教義において重要なことと
なるのです。
本願寺派の教義は決してその枠を出ることは許されない。
明治期以降、大谷派(東本願寺)では学僧が輩出したが、本願寺派
では有名な学僧は出ていない。
これはこの三業惑乱を契機とした教義のとらえ方によるものでしょう。
こう書くと、本願寺派の教義はガンジガラメと言った感じになるかも
知れませんがそうではない。
実は基本さえ押さえるなら、そこからは親鸞聖人のみ教えをしっかり
聞くことができる、つまり果てしなく広がる世界がある。
逆に大谷派は有力な学僧を輩出したことで、明治期以降のその学説
に縛られることになっているように見受けられなくもない。
でもそれはある学僧の説であって、親鸞聖人のみ教えとは限らない。
本願寺派はあくまでも親鸞聖人のみ教えを聞くことだけに専念する。
つまり『教行信証』に常に聞いて行くのです、そして『浄土三部経』を。
なので途中の有力な学説にあまり左右されることはない。
もちろん本願寺派でも有力な教義の流れはあるが、決してそれだけ
に捉われることはないのです。
そんなふうに感じているのですが、本当はまだよく分かりません。
そんな三業惑乱のお話しをご住職からお伺いした。
でもそのお寺は、なんとあの女流作家として有名な「尾崎翠」さんの
生誕のお寺さんだそうです。
尾崎翠さんは「第七官界彷徨」の著作で知られています。
林芙美子さんとも交流があったと聞く。
やはりそれだけの情念が脈々とこのお寺に受け継がれてきたので
しょう。
「身命を捨てん・・・」
私には到底たどり着くことのできない竟地であるだろう。

なお、尾崎翠のお墓は、鳥取市内の養源寺というお寺さんにあります。
一度訪れてみてはいかがでしょう。
「第七官界彷徨」を読まれた後に、生誕の地とお墓を訪ねられたら、
また違った風景が見えるかも知れません。
どちらも浄土真宗本願寺派のお寺さんです。
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