宿坊光澤寺日記・・ひとりばなしのつづき。

光澤寺&宿坊光澤寺&やずブータン村。 山里のお寺で繰り広げる「こころのふる里」作りとお寺復興プロジェクトや、宿坊に来られた方々との出会いも語ります。

2014年03月

お寺には苔が似合う・・・手作業で進める庭作り。

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やはりお寺には苔が似合うと思う。

とても苔寺のようにはゆきませんが、それでも庭の一部に苔があると、なぜか
心が安らぎます。

ただこの苔も手入れがとても大変です、無造作にしていると見苦しくもなります。
今の時期は気温も高くなく、朝晩に湿気があるので苔も美しく映えます。
これから暑くなると苔も乾燥して来て色合いも薄くなってきます。

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お寺の庭作りは手作業でマメにしないといけない。
特に重労働なのは草取りです、ちょっと放っておくとあっという間に伸びてしまう。
また今の時期は花が咲くので種を蒔きちらします。

苔の手入れは草取りが重要な作業になります、草が成長すると抜き取るとき、苔
まで一緒に剥ぎ取ってしまうからです。
まだ草が小さいときにこまめに抜き取らなくてはなりません。
まあ言えば虫眼鏡で作業するようなイメージですね。

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お寺の作業の中でも庭掃除や草取りが一番の重労働です。
他のお寺では檀家さんが月一回とか作業に来てくれたりしています。
でも私のお寺は、坊守との二人での作業です、これが結構きついのです。
5月からは蚊が出てきてさらに大変な作業になります。

元々このお寺では檀家さんの手伝いが無いと言うこともありました。
でも現在は、庭つくりは自分たちでしないと思った通りにはならないということも
あります。
特に苔はメンテナンスにとても神経を使うのですが、慣れないと草と一緒に苔も
剥ぎ取ってしまいます。
庭作りは長い時間の中でじっくり取り組まないと難しいと言うことが最近分かる
様になってきた。

少なくとも私が住職をしている間は、お寺の庭を整備して行くことになるだろう。
実は重労働ではあるが、庭つくりも少しづつ変わって行く姿を見るのは楽しい。

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この苔は元々自然に生えてきたものがほとんどです。
ただ場所によってはまばらだったりしたので、土の部分には私が近くの道端に
自生していた苔を持って来て植え替えたりしています。
2~3年経つとかなり調和してきました。
庭つくりにはやはり同じ人が数十年の歳月をかけないとうまく行かないだろう。
日々のメンテナンスがとても大切です。

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宿坊に来る楽しみの一つに苔を見るのも良いかも知れません。
心落ち着かせて。


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仏画展に行って来ました・・・お寺の空間は見逃せない。

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鳥取市内にある同じ宗派のお寺さんで仏画展が開催されている。

有名な画家さんではなく、このお寺のご門徒さんが個人的に書きためられていた
ものだそうです。
あるときお参りに行ってたまたま見せていただいたとのこと。
それまではまったく知らなかったそうです。

以前からお寺に飾ってあったのを見させていただいていた、でも解説付きでゆっく
り観ることができました。

それぞれ仏様の包み込むような柔らかさと優しさが伝わってくる絵です。
その中にも精緻さと緊張感が伝わってきます。
一度筆を誤るともう修正がきかないのだそうだ、その一筆の緊張感からか、そこに
込められた思いが伝わってくるのだ。

本当の優しさは、その厳しさの中から生まれて来るような気がします。
仏さまの優しさは、その厳しい修行の中にあるのかも知れません。
そんな感覚を味あわせていただきました。

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坊守も一緒に行きましたが、それぞれ自分の気にいった絵がありました。
個人的にお持ちのものなので手に入れるのは難しそうですが、こうして展示会が
あると気軽に身に行けるのがいい。

個人的に書かれた絵も、こうして人の目に触れることができる。

絵の具の材料も金やプラチナや水銀が使ってあったりする。
その材料と向き合い仏と向き合う、そして自分自身とも向き合うのでしょう。
その向き合った中で筆を引くことの緊張感だったのかな。
でもそこに迷いはないと言った潔さか。

今日は同時に小物展も開催されていました。
宿坊に合いそうな二点を買って、早速宿坊に置かせていただいた。

お寺でいろんな催しものをする、今度私のお寺でもレコードコンサートを開催しま
す。
近所の方が会場を探されていてお寺に来られた。
今までは公民館とかカフェとかが会場だったりしたが、最近はお寺の本堂で開催
してみようと動きがでています。
幸いにも、私のお寺は葬儀や法事が無いお寺なので会場として使いやすいので
す。
宿坊でのガン患者の会もそうです、たまたまの出遇いによって始まった縁です。

いろんなつながりの中で、ごく自然に様々なことをやってみる。
法座もいいけど、日常と非日常の接点であるお寺の空間は見逃せない。

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お寺の空気感を大切にする。

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檀家さんで成り立っているお寺。

全国のお寺のほとんどはこの形態である。
つまり葬儀や法事などのお布施収入によって、お寺は成り立っているの
ですね。

檀家さんで成り立っているので、当然の如くお寺にお参りされるのは檀家
さんがほとんどでしょう。
私の住んでいる地方などでは観光寺院もないので、自分のお寺以外にお
参りすることはない。
ですから他のお寺のことは何も知らないことが多いのです。

それでも私のお寺は、私がお寺に入るまでは行事も入れてもお寺にお参り
される方は、年間通して30人くらいだったのではないか。
それほどお寺と檀家さんに距離があった。

それには様々な理由があってのことですが、そうなった関係を元に戻すこと
は難しい、と言うよりその元がないので戻しようがない。

檀家さんが誰も来られないのなら、誰かをこのお寺に人を呼ぶことを考えた。

お寺には空気がある、そのお寺毎に醸し出される空気感だ。
人が来れば空気が動く、そうすると空気感が変わってくる。
人が来れば空気が動き、そして掃除もする、お勤めをし扉をあけ放つ。
花もいつも新鮮に保つ、そしてお香が立ち込める感覚。
そこに周りの自然の空気が混ざり合うのだ。

昨年4月からこの3月まで、イベントも含めると600人以上の方がお寺に
来られました。
宿坊に来られた方、日帰り体験に来られた方、イベントに来られた方、研修
に来られた方、食事に来られた方、そして檀家さん。
もちろん葬儀や法事は含めていない、というかほとんどないのですが。
その中で檀家さんはおそらく100人くらいかな、もちろん延べ人数で。

というと、檀家さん100人に対して一般の方が500人となると約5倍の方。
そして以前に比べると20倍の人がこのお寺を訪れた。

人が多ければ良いと言う訳ではないが、やはりお寺と言う空間を知っていた
だき、仏教に触れていただく機会が増えると言うことになる。
一般の方が増えると逆に檀家さんも自分のお寺のことが気になるのです。
お寺においでいただくことが増えてきました。

「このお寺は女性にとってとてもいいお寺ですね!」と仰られた方がいた。

そうもっともっとお寺の空気を居心地良く、そして安らかに、穏やかになれる
空間としたいと思っている。

いつでも落ち着ける場所があると、人の心も落ち着けます。
何かあればそこに行けると思えば、その人の心は安らげる。

それがこのお寺であってくれたなら有り難いことだ。
そしてまたこのお寺もその方のご縁でまた一つの空気感を作りだして行け
ることができます。
居心地良さ、お寺はそうであって欲しいと思うのです。

そのためにお寺として何をして行こうかまた考えたりしています。

今年の日帰り体験は、季節の精進料理に加えて、光澤寺うどんも加わります。
どうぞご期待下さい。

春の花も本格的になってきました。

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枕経~臨終勤行の法話。

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山里にも春の空気が満ちてきました。

花もその表情が柔らかい。

お寺の境内も少しづつ掃除をしている。
冬の間は雪が積もっていたり濡れていたりで掃除はお預け。
春の日差しの頃に掃除を始めて行く。

枯葉をかき集め、そしてまだ根の浅い草を今のうちに抜いておく。
暖かくなると根を張って抜けにくくなる、また雑草も花を咲かせてたくさんの種が
飛び散るから。
綺麗な花は残して雑草の花は早めに抜きとる。
人って、いのちは大切と言うけれど、どこまで行っても自己中心だなと思う。
そんなことを雑草を抜きながらいつも考える。

そんな日の夜、枕経の電話が鳴った。
ご自宅に着かれたらご連絡をいただくようお伝えした。
私のお寺では何時でも関係ない、ご自宅に戻られたら枕経をお勤めする。

人が亡くなられるときはやはり夜が多い。
枕経も夜にお参りすることがなぜか多いのです。

枕経、通常は亡くなられてご自宅に戻られたときにお勤めする。
浄土真宗では臨終勤行と言う。
その方のいのちの尽きようとするとき、長年お世話になった仏様とご先祖様に
御礼の勤行となる。
ご家族と一緒にお勤めする最期のお経、そしてお勤めだ。

お経を唱える前に、そのことをご遺族の方々にお伝えすることから始まる。
そして阿弥陀経を唱えた。

そのあと御文章を唱え、法話を少し。

その方のいのちの意味について考える。
そしてこれから仏となられることの意味をお伝えする。

この世のいのちが尽きるまで、たとえ病に伏せていようと長生きをされていよう
とも、最後の最後まで精一杯生きて来られたいのち。
そして大きないのちの流れの中で、多くのいのちの縁をつないで来られたのだ。

そしてこれからまた新しいいのちを生きられる。
それは有縁の方々を導くために。

阿弥陀経の最後に親鸞聖人の和讃がある。

「南無阿弥陀仏を称うれば 十方無量の諸仏は 百重千十囲繞して よろこび
 まもりたまうなり。」

そうだあらゆる仏様が周りを取り囲み、そのいのちをともに慶び、そしてお守り
されていらっしゃる。
これほど安心できることはない、その死をただ終わりにはさせない。

そんな思いを感じさせていただく。

そして私たちは精一杯お見送りをさせていただくのだ。






今日は三役会・・・光澤寺うどんの試食会も。

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今日は自坊で鳥取因幡組の三役会を開催した。

三役とは組長と副組長の二人で、今年度の会計の報告と確認、そして年度末
から来年度にかけてのスケジュールや内容調整を行います。

特に大きな問題はありませんが、組の会計が年々厳しくなってきているので、
今後の活動に支障なきように対応策を練ります。
あとはお寺を取巻く環境の変化に対して研修会等の実施を盛り込みます。

途中昼食をお出ししますが、本日は現在作成中の「光澤寺うどん」をお出しし
ました。
今回は初めて手打ち麺に挑戦です。
出汁は何度か作りましたが、いよいよ手打ち麺を作ってみます。

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麺も出汁もアゲも前日の夜から仕込み開始です。
写真は、麺を一晩寝かしたものです、もちろん足踏みもやります。
なにしろ初めてのことなので、感覚を確かめながら作ります。

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まだまだ道具も揃ってはいません、切ってみると麺の太さもばらつきがある。
でもそれなりに手打ち麺っぽくなってきました。

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出汁とアゲも完成です。

今日の出来はまずまず、でも麺はもっと仕上げて行かなくては・・・。
これから何回も試作を繰り返して行きます。

GWの前には第一弾を完成させたいと思っています。
そこからさらに工夫を重ね、一度食べたら忘れられない味にまで。


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日常の気づき・・・たとえば階段を一歩づつ感じながら上がってみる。

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たとえば階段を一歩づつ丁寧に歩いてみる。

これは今と言う時間を意識してその瞬間をしっかり生きるということ
につながります。

そんな単純な事でと思うかもしれませんが、仏教って単純なことに
気づかない自分をしっかりと見つめることにあります。

そう真理は難しいところにあるのではない。
身近な所にあるのです、なぜなら仏教は日常の中の心の持ち方を
問うのであり、遠いところや難解な教義を問題にするのではない。

普段何気なくというか何も考えずに階段を上がる。
急いでいたりきつかったりと思う。
だけどその階段を上がるとき、もし余裕があるなら、ゆっくりと一段
一段上がることを意識してみる。

その一歩一歩をゆっくりと感じるのです。
その一歩がどれほど大切な一歩かを感じ取ることができます。

右足を上げる、そして一歩進む。
左足を上げる、そしてもう一段進む。

それをゆっくりと意識する。

そうするとその一歩を確実に受け止めることができるのだ。

そこには様々な作用がはたらいていることに気づきます。

その気づきがとても大切な事だったりします。

これを人に言われてもなかなか実感として受けとめられない。
また頭では理解することが難しい。

そんなことを日常の動きの中で感じてみるのです。
そうするとシンプルな自分が次第に見えてきます。

仕事で疲れたとき、対人関係で疲れたとき。

そんなときにこれは役に立ったりします。

シンプルな自分に気づく方法、瞑想も基本はこんな感じです。

生きてることの基本に気づきがあり、それが心を整えてくれる。


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「未来の住職塾」松本紹圭氏にお会いしてきた。

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京都で松本紹圭氏とお話しする機会がありました。

松本さんとお会いするのは実は今回が初めてです。

ご多忙の中時間をいただき、僧侶研修会のお願いやお寺や宿坊のことなどを、
昼間の京都のSUBWAYで、サンドイッチをほうばりながら・・・。

僕は10年くらい前から松本さんのことは知っていたし、その後の活躍もずっと
注目し続けてきました。
ネットの僧侶や寺院関係のサイトでは最大の情報発信力を持つ「ネット彼岸寺」
を立ち上げ、現在は一般社団法人「お寺の未来」を設立し、超宗派の僧侶塾で
ある「未来の住職塾」を主宰されている。
最近の著作は「お寺の教科書」。
雑誌BRUTUSの特別編集版では「真似のできない仕事術」で日本を代表する
27人の中のクリエーターの中に僧侶としてただ一人選ばれている。
と言うか僧侶でこの中に選ばれる様な事は従来では考えられなかっただろう。
世間も僧侶に少しは期待し始めたのかも知れない、ただやはり若手ということ
がキーワードでもある。

日本のお寺を変えたい、仏教本来の魅力を知ってもらいたい。
あくまでもクールであるが、その表情の中にはそんなエネルギーが満ちている
のだろう。

私が会社を辞め田舎のお寺に帰ろうと決めた頃、浜松町の駅の書店で買った
本が、松本氏のおそらく処女作である「おぼうさん、はじめました。」だった。
お寺で生まれたが僧侶業界に詳しくなかった僕には、その内側を知ることができ
たありがたい本だった。
そしてこんな坊さんが出てきたのなら、これからお寺も変わるなって感じ、注目し
続けていました。

約10年前、松本さんはその頃には東大を卒業され、東京の都心神谷町にある
光明寺というお寺で僧侶になられていた。
お寺の本堂前をオープンテラスとして活用されていたり、無線LANが使える様に
していたりで、いち早くお寺を人が集まる空間にされていました。
同じ頃築地本願寺では「他力本願で行こう!」などのイベントで数千人の人を集
めたりで、僧侶なのかプロデューサーなのかクリエイターなのか?
でも僧侶として取り組まれていることはいたって正統派という感じがします。
東大の哲学科出身だけあって仏教の本質を鋭く見抜くといった点や、お寺の本来
の意味を追求するなど、決して派手な面ではなく原点に戻るといった活動が原点
にある様な気がします。

でも確かに松本氏が僧侶となられた頃からお寺や僧侶に変化が起こってきたの
は事実。
その頃、上田紀行氏が「仏教ルネッサンス塾」や「ボーズ・ビー・アンビシャス」を
始めておられ、松本氏はネット「彼岸寺」やお寺でのオープンテラスを始めてい
た。

仏教ルネッサンス塾が開かれていた芝の青松寺には獅子吼林サンガがあって、
そこにはあの南直哉氏もいらっしゃった。
ここには泊りでの参禅会にも参加させてもらったりもした。
獅子吼林サンガに泊まることもできたのだ、そのイメージが将来の仏教センター
設立にもつながっている。
その頃の僕は、仏教講座やターミナルケアを探し出してはまるで巡礼者の様に
渡り歩いていたのです。
その頃の僕は田舎のお寺に戻るかどうするかの思案の最中、でもこの方々の活
動に刺激されたのは間違いない。
おっ、日本のお寺も変わるかも知れないな、僕もその中に居ようとたぶん思った
のでしょう。

そういえば松本氏は、あの小池龍之介氏と大学のクラスメートだったと言う。
うーーん、なるほど。

やっっぱりあの頃が、日本の伝統仏教改革元年であったのかも知れない。
それまでの動きはまだ動きと言えるようなものでなく批判程度のものだった。

その原点は、みんな本当に仏教が好きだってこと。
そして超宗派の感覚を持っていたということ。

そしてそれが今の仏教ブームにつながり、未来の住職塾までたどり着いたと思う。

たしかに10年前に私が東京で、仏教講座やターミナルケアやいのちをテーマにし
た講座を探し歩いていたが、情報量がなく辿りつくだけでも大変だったのを覚えて
いる、それくらいまだ仏教がマイナーだった。
誰も変えようなんて思っていたとしても行動していなかった。
活動していても、ただ自分たちの宗派内や教義のことについてくらいだった。

ただ数人のスーパー僧侶はいらっしゃった。
その方たちは今でも活躍中だが、でもそこに松本さんなど若手のニューリーダー
は別の捉え方で一気に進んで行ったという感があります。
このまま一気に突き進んで欲しいと思います、そうすればお寺が変わる、そして
僧侶も変わる、そうすれば日本も変わるだろう。

そんな期待をこれからも持ち続けていくでしょう。

僕が東京で会社員をしていた頃、それはKDDIと言う会社で営業マネージャーだ
った。
都心で営業に疲れた身体を、当寺松本氏が光明寺で始めていたオープンテラ
スで椅子に座って休めていたこともあったのです。
テラスの前に並んだ墓石をながめ、その上には灯明の如く東京タワーが見えた。
不思議な空間だったなあ!

その近くには上田紀行氏が主宰されていた「仏教ルネッサンス塾」の会場でもあ
った青松寺もあった。
そう仏教に熱い思いを抱いていた人たちが揃っていたのだ。
その周りには、神宮寺や法然院や應典院など時代を先駆けたお寺や住職がい
た。

あれから10年、僕は何をしていたのだろうか。

でも今はお寺や僧侶が面白い。

せっかくなのだから、これからどうなって行くのか見届けないと言う手はない。

未来の住職塾では今年四月から第三期生となるそうです。
卒業生も数百人になるという、その方々の熱気はスゴイだろう。

僕もウカウカしていると時代に置いて行かれてしまいそうだ。
さてそろそろまたギアを上げなくちゃ・・・、そう思わせられた時間でもありまし
たが、もちろん焦る必要はありませんね。
一緒に乗って行けばいい、大乗仏教なので。

ただ一つ言えることは、お寺も差別化と生き残りを賭けた時代に入っっと言う
ことは間違いないだろう。
仏が救うのは私の心、もしくはいのちであって、お寺を救う訳ではないのだ。

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写真を一緒にお撮りした。
二人で似てるのは髪が無いことくらい、でも二人とも浄土真宗本願寺派の僧侶
です、きっと珍しいですね。


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大切なものは目に見えない

あなたにとって大切なものって何でしょう。

目に見えるものだけではないと思う。

仏さまも本来は目に見えない存在です。

でも感じることはできます、そして信じることもできる。

そうそれはすべて心が決めているのだから。

心も目に見えない。

いのちも見えない。

愛も見ることはできない。

だけどどれも全部大事。

そして心の持ち方ですべてそのイメージは変わる。

仏教はその心の持ち方を伝えるメッセージなのかも知れません。

お釈迦様のメッセージ。

それを聞き、そして受け止められると心が変わって行くのでしょうね。

見えないものだからこそ、正しい教えが大切になって来るのです。

それも自分の心が決めること。

だから導く存在が必要なのですね。

いきなりお釈迦様だとその存在が遠く感じてしまうかもしれないから。

導かれるものに出遇ったなら、それは喜びでもあります。

一生かかっても出遇うことができないくらい尊い。

そんなこともあります。

目に見えないものを感じ受けとめ信じることって大切なんだと思う。

目に見えているものだけにとらわれない心かなあ。



「お寺に行こう!」・・・池口龍法氏の本を読んで。

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坊主が選んだお寺の処方箋 「お寺に行こう!」

と言う本が発行されたと話題になっていたので早速amazonで取り寄せてみた。

著者は池口龍法氏であり講談社から出版されている本で、全国の様々な活動
をしているお寺を紹介している。
帯には「ふっと心を軽くしたくなったとき、あなたを救う寺、ここにあります。」とある。

池口氏はフリーペーパー「フリースタイルな僧侶たち」で話題を呼んでいる。
気になる本であったのです。
「フリースタイルな僧侶たち」は2013年の「日本フリーペーパー大賞審査員特別
賞を受賞していると言う。

そんな背景もあったので、どんなお寺が載っているかなと楽しみにしていた。
この点ではまるっきりそう言ったことを知らない方々には多少興味を持つ本かも
知れない。
全国の先駆けとなる寺院や組織が紹介されている、その情報は満載だ。
いろんなお寺や活動に興味がある人にとっては面白うだろう。

ただ僕がこの本を読んで正直に思った感想は、池口氏は現在浄土宗知恩院で
編集主幹を務めている、そして出版社が講談社。
ある意味王道だが、その結果として枠から出られない内容になっているのかなあ
と思った。
つまり深みと自分の思いが出せていないのではないかとも感じてしまうのです。

元々は池口氏と講談社の担当者が、お寺ミシュランと言う発想から始まったと書い
てあった。
お寺ミシュランと言う発想が良いかどうかは別として、世の中に刺激を与えること
ができるだろうと言うことではなかったか。
現在のお寺の動きは早い、池口氏であるなら重々承知であるだろう。
そのなかで何かを引き出すと言った作業にはなっていない、その紹介だけになっ
ている。
本当はもっとこうしたかったとか、こんなこと言いたいとかあったのではないかなあ
とその行間を推測してしまう。

そしてここに紹介されているお寺はすでに有名ブランド化しているお寺が多い。
要はすでに敷居が高くなっているお寺であることにも気づくべきであろう。
若者がそんなことを本当に望んでいるであろうか。
たとえば今までバーに行ったことがない人が有名バーに行くようなイメージがなき
にしもあらず。
たとえば法然院などはすでに観光寺院とさして変わりがないであろう。
もっと違った角度で切り込んで欲しかったと思えるのだ。

とてつもない夢と若さとエネルギーを期待しすぎるのかも知れません。
やはりできるお坊さんってクールなのかな、エネルギッシュって感じは受けないの
かも知れません。

そう言う意味では期待していたがちょっと想像していた内容と違っていた。
これはあくまでも私自身が感じたことであり、お寺に詳しくない人にとっては興味深
い内容かもしれない。
ただ10年前、上田紀行氏が「がんばれ仏教!」を出版されたことの焼き直しの感
がしないでもない。

そうであれば、この方は宗派の内部にいてはいけない人だろうとも思うのです。
それでなければ「フリースタイルな僧侶たち!」の看板が虚しく響く。
ただの宗派寄りのフリーペーパーでしかないことになってしまう。
協賛金を集めるためには仕方がないのでしょう、でもやっぱり多少は先頭を切る
様な一面も欲しいと感じます。
以前にこのフリーペーパーを読んだことがあるが、どうしても必要だとは思えなかっ
た印象が残った。
賞を取ったことで余計に既存の枠からはみ出ることができなくなったなあ。
そうなればできることは限られてくる。

宗派という背景があれば様々な対応に制約が生まれるだろう。
まして教義的な束縛は強い、浄土宗であればなおさらでしょう。

以前に南直哉氏が言っていたことを思い出した、宗派や教団に入ってしまっては
本当のことが見えなくなってしまう。
だとすれば教団の枠の一番外側に立つべきだと。

まあそう言いながらも内なる改革も大切な役割ですね。

本業やフリーペーパーが忙しすぎてこの本の取材があまりできていなかったのか
とも思えます。
この手の本は、同業者側から出なく外部の人の方が良いのかなとも感じた。
結局同じ立場だと難しい。

もちろん池口氏がどんな方かは全く知らないでの思いですが・・・、私も無責任です。


子どもたちへのご法話・・・十七回忌の法要にて。

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今日法事にお参りしたときのこと。

故人のお孫さんたちが数人一緒にお参りされていた。

いつもはお一人暮らしなのだが今日は賑やかだった。

お経本を持っていた子もいた。

何所を読んでるのかなと経本をめくっているようなしぐさを感じた。

『無量寿経』や『阿弥陀経』は経本に載っていなかったり、子どもたちにはちょっと
難しいかなと思い、そのままお唱えしました。

『正信偈』に入る前、お子さんたちにこれからこれをお唱えするよとお経本を開い
てあげた。

するとどうでしょう、一斉に子どもたちが『正信偈』を唱え始めました。
そしてだんだん声が大きくなって行きます。

「おっ、これはすごいな、仏さんの思いが伝わってる」って感じた。

最後の念仏和讃の途中でどこか分からなくなった子もいましたが、最後まで大き
なこえで唱えていただきました。

お経が終わったとき、お参りされてた親戚のおばあちゃんが、「初めてなのに皆
ようあげとったなあ」と仰られた。

そうか今日が初めてのお経だったんだな、と嬉しくなった。
そのあとお菓子をいただきお茶を飲んだ。

そして少しだけ法話。
小学校低学年のお子さんたちにも届くような法話が良い。

今日は十七回忌。
仏さまの十七回目のお誕生日だよ、仏さまには0歳はないから十六年だけど十七
歳、命日は仏様となられたお誕生日だからね。

なぜ仏様になられるか知ってる?
それは仏様となって、ここにいる皆を見守りそして導くためだよ、幸せになる様に
って仏様はいつもみんなを見守ってる。
そのために仏様になるんだよ。

仏様はいつもみんなの近くにいて、みんなを見守っているんだよ。
だから僕たちは、いつもありがとうって言うんだ、それが南無阿弥陀仏ってこと。
南無阿弥陀仏は「ありがとう」という感謝の心なんだ。

そして、ときどきはこうして心を込めて仏様をお招きするんだ。
大切な仏様にみんなでありがとうって言うこと。
それが今日のご法事だよ、みんなが大きな声で唱えたから、仏様は喜んでいらっ
しゃる。
あ~思いが届いたなって。

御文章をお唱えしたあと、「しんらんさま」を歌う。
そのときも後ろから大きな声が。

今日は仏様もご機嫌だな。


宿坊研究会の堀内克彦氏がブログで『宿坊で語らうガン患者の集い』を紹介してくれました。

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                              (堀内氏撮影 光澤寺)
宿坊研究会の堀内克彦氏

この方は外側からお寺を見続けて来られた方。
趣味が高じて寺社旅行研究家が本業になった方です。

宿坊研究会や寺社コンを仕掛け、どんな僧侶よりも全国の寺社や宿坊を
渡り歩かれている。
その発信する情報力は圧倒的です。
今では日蓮宗や浄土宗などの本山からお寺活性化の講師依頼が来る。
そして僧侶やお寺の奥さんにこれからのお寺を提案されている。

この宿坊光澤寺でも、一昨年秋に中四国九州で初めてだった寺社コンを
開催させていただいた。
それからの一年半、堀内氏のご活躍はめざましいものがあります。

そんな堀内さんが、宿坊光澤寺で開催される「宿坊で語らうガン患者の集い」
をブログやメルマガでご紹介くださいました。

お寺と一体になった宿坊という空間を利用してガン患者の方々にやすらぎ
の場を提供する。
宿坊やお寺からの新しい試みでもあります。

お寺と言う場所が、いろんな方々にとってより所となること。
それが一番お寺として大切な事だろう。

堀内氏のブログはココから↓
http://syukubo-blog.com/2014/03/14/4803



ご年配の方とお寺で一日ゆっくり過ごす楽しみ。

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昨日ある年配の女性が彼岸とご主人の命日のお参りに来られた。

一昨年からのお付き合いですが、自然の雰囲気の残るこのお寺が
お好きなのです。
あるときお電話をいただき、このお寺に行ってみたいと言われた。

お一人暮らしで、足を痛めておられるのだがとてもお元気です。
一人で暮らすと言う事は大変ですが、気持ちがあれば逆に楽に生き
て行くことができる。

その方とのお話しで、「どんどん身の回りを整理し捨てて行くと楽だわ。」
そう仰られていた。
その実感はよく分かる、人はいろいろなものにとらわれている。
手に入れた物や欲しい物を手離したくない、もしくはもっと欲しいと思う。
それがいつまでたっても満足に行き着かない。

逆に捨てて行くと、心が軽くなる。
お金だって必要なものさえあれば、増やそうなどとは思わない。
だから投資や詐欺まがいのことにも耳を貸さなくてすむ。

イザと言うときにサポートしてくれる人がいればいいのだ。

その関係をしっかりとご自身で見極められている。
あとは日々の生活をどう楽しんで行こうかということだけ。

ときどきご一緒して食事に行ったり、コンサートに行ったり。
そしてお参りにでお寺に来られるときは鳥取市内までお迎えに行きます。

遺言も書いておられるので、焦ることもなく覚悟もできておられる。

そんな方をゆっくりと見守りサポートできたらいい。
これはお寺の特権でもあります。
僧侶として人生を語ることもあります。

僧侶として信頼してもらえたり、お寺を好きになってもらえたり。
そしてお寺はいつでもそこにあると言う安心感がある。

お昼ご飯は、お寺で今試作中の「光澤寺うどん」をお出しした。
麺はまだ手打ちをしていないので、その方が取り寄せた冷凍の麺。
でも出汁とアゲは前の晩から仕込んでいました。

お出しすると、とても美味しい出汁だとのご評価をいただいた。
「本当に美味しい!」と嬉しい言葉、ご結婚されて大阪に長くお住まいだっ
たので、味には結構こだわりを持っておられる。
でも遠慮なく感じたことを言われるので、それが私の基準にもなる。

お昼の後、お彼岸と命日経のお勤め。
ご主人の話しで盛り上がった、「きっと笑ってるわね・・・。」

カフェでお茶をし、夜は地元の料理屋さんで牡丹鍋をご賞味。
一日ご一緒してゆっくり過ごす。

檀家さんの様で、親戚のようで、友人のようで、最近その関係がいろいろ
発展するのだが、そんな関係も面白い。
そしてその方の年齢の感覚を教えていただくこともできるのだ。

以前送った絵葉書の紅梅、ちょうど満開になっていた。
ゆっくりと眺められていた。

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境内に花が咲き始めている。
それも楽しみの一つなのです。


宿坊光澤寺のHPはこちら!

宇宙と自然とecoと・・・。

①たとえば「宇宙人は存在するか?」

②そして「人と自然の共生」

③環境を守るため、ECOバッグを使うのは当然だ。

これってどう思われますか?

この発想は、自己中心つまり人間中心の見方をしているということに気づき
ますか。

それはなぜか?

では①について考えてみる。
あなたはどこの存在しているのか考えれば分かります。
東京都文京区です。
日本です。
アジアです。
地球です。

だいたいこの辺りまででしょうか。
でも考えれば、すべて宇宙の中に存在するもの。
宇宙を離れてそれらはすべて存在しない。
であるなら、あなたが存在するのであれば宇宙人は存在するということになる。
あなたは宇宙人であるからだ。

②人と自然の共生

この言葉自体も実は自己中心の塊でしょう。

なぜなら、人は自然の一部であると言う発想が始めからない。
ことば遣いは優しく聞こえるが、それだけにその傲慢さに気づかない。
あくまでも人も自然の一部なのです。

人工といってもそれは人間が作った物です、であるなら人工物も自然の一部で
あると言うことになります。
あくまで人は自然の中に生きる、そして自然の一部でもあると言うことなのです。
そのことに気づくなら、そこから生まれる発想があると言うこと。
人が自然に何をするかではなく、自然の一部として人は何をすべきかと。

③ECO・・・

ECOと聞いて最初に浮かぶものは・・・。
ECOバッグと言う人も多いのでは。

スーパーの買い物袋を無くそうキャンペーンが目に浮かぶ。
それをやっていないとECO意識がないと言われそうです。
この前、環境問題のキャンペーンの記事でレジ袋削減効果をうたっていた。
これだけ環境に貢献していると。

でもまやかしであることに誰も気づかない。
確かにレジ袋は減った、でもそれによって新たに作られたECOバックがどれほど
多いかと言うことを。
雑誌の付録、お店の店頭、莫大なECOバッグが並んでいる。
家の中には使っていないECOバックがたくさんある。
不必要なECOバッグが莫大に供給されているのです。
レジ袋は徹底的に省力化され、自然にも優しい素材になってきている。
それに引き替えECOバッグは自然のことを考えて作られてはいない事が多い。
ECOバックを作るエネルギーと廃棄にかかる費用、それらが削減効果に全く入れ
られていないのだから。
それよりかは食品の包装資材の方が圧倒的に多い、家庭のごみ袋を見れば一目
瞭然だけど、それにはあまり追及の声が上がらない。
何となく一方的に悪者にされたレジ袋がかわいそうだなと思っただけですが。

要は自分の都合なのです、そして力あるもの、CMに貢献しているものかどうか。
外国人が驚くのは、日本の過剰な食品包装の方だと言うことにお気づきでしょうか。

つまり視点を変えてみれば様々な見方ができると言うことです。

もちろん今回のお話しも自己中心的な話しだと思っていますが。
人は自分自身が自己中心的な考え方をしていると言うことを知っておくと言うことも
大切なのかも知れない。

仏教の原点は「ありのままにみる」・・・それを正見といいます。
それはどういうことなのでしょうか、と感じたときに心に何かが生れるのかな。





週刊ポスト「1銭もかけない死に方」を読んでみた。

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最新号の週刊ポストです。
その特集に「1銭もかけない死に方」が載っていました。

いつもはあまり気にかけないけど、今日はたまたまお昼に入ったうどん屋さんに
置いてあったので読んでみた。
すると中身は、要は葬儀と戒名は不要と言う記事のオンパレード。

この手の記事は以前より沢山あるが、より具体的になって来たなと感じた。
もちろん批判するつもりもなければ反論するつもりもない。
ただ素人相手に取材もろくにしないで、適当な記事を載せてるなといった内容
であるのは間違いない。
コメントを寄せている宗教学者と言う方は、はっきり言ってこの手の記事の様
内容もものに多く発言しており、学者ではなく評論家って感じです。
仏教的な内容には深みが全くないので。

ただこの様な記事が出てくるということは時代がお寺や僧侶が感じている以上に
進んできていると言うことだろう。

記事についても特にこれといったことはないが、要は現在の僧侶主体の葬儀の
不要と、戒名をめった切りにしていると言った感じ。
私は僧侶になる前は東京で会社員をしていたが、その時読んでいたら納得して
いたであろう内容です。

葬儀の要不要や有無はそれぞれの感情や環境があるが、戒名についてはここ
で述べられていることに反論はない。
ただその歴史については的を得ていないが、仏教的見地から言って現在の戒名
制度はやはり釈尊の意ではないと感じます。
この戒名によって僧侶批判が繰り返されることを見ると、もっと責任を持った対応
をして欲しいと思うのだが、これから家ではなく個の社会になって行くと、その必要
性は薄れて行くでしょう。

そう言った意味では、現在の戒名制度はいずれなくなって行くだろう、そのスピー
ドは早いかも知れない。
私は現在の戒名制度には僧侶としてもあまり納得していないので、まあこんな記
事が出てくるのも無理はないかなあと感じてもいるところです。
そこに依存度が高いと10年後20年後と難しい局面が出てくるでしょう。

お寺や僧侶として、今社会で起こっていることから目を逸らしてはならない。
何が大切か、何が求められているのか、それは仏教的にどうなのか。
しっかりと見つめて行かなくてはならないと思う。



連研修了者研修会にて思うこと・・・これからのお寺って?

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                             (ご講師 宮本直治氏)

今日は、浄土真宗本願寺派鳥取因幡組の連研修了者研修会でした。
会場は鳥取市の中心地にある養源寺様でした。

ご講師は、本願寺派ビハーラ僧研修生であり、大阪北野病院の薬剤師でもある
宮本直治さんです。

今回の研修会は、本願寺派で推進している連続研修会の修了者フォローアップ
ためのものです。
やはり身近なテーマであり、皆さんの思いに響く内容が良いなあと感じています。
今回はガンと言う病気を通して、いのちを見つめて行きます。
ご講師の宮本氏は自らがガン患者であり、ガンと宣告されたとき僧侶になろうと
決意された。
神戸では「ゆずりは」というガン患者支援の会を主宰されておられます。
そして、宿坊光澤寺で開催されている「宿坊で語らうガン患者の集い」の企画者
でありコーディネーターを務められているのです。

生老病死という仏教のテーマの中でも、病という私たちにとって避けられないもの
に寄り添って行くこと。
お寺の存在にとっても、とても重要なことであるでしょう。

宮本氏は、残りの人生をとにかく急いで生きておられる。
時間が限られた中で、自分のできることを精一杯やり抜くといった感覚でしょうか。
切に生きるということを実践しておられます。

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                                 (挨拶中です)

今回私は、開会にあたっての言葉を述べさせていただきました。
鳥取因幡組の副組長と言う役割でもあるのですが、宮本氏の紹介を兼ねての
ことでもあります。

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今日の会場は、鳥取市の中心にある養源寺様です。
こちらは外観はこじんまりとして見えるのですが、設備が整っており交通の便利
も良いので、会議や研修会や講座でよく利用させていただいております。
今日も会場には60名の方々が参加されていますが、整然と並んだ机と椅子。
これだけの研修会が実施できる寺院はそれほど多くない。
本堂とは別にこれだけの会議室があるとは、といった感じがします。
こちらは前住職が、鳥取因幡組での会議や研修会が開けるようにと作られたと
いうことです。
現住職は駐車場も近くを購入され、さらには宇宙空間に阿弥陀如来が安置され
ている納骨堂も整備された。
寺子屋コンサートを開催されたり、寺院葬でも使えるようにと会館も現在建築に
かかられます。
もちろん本堂や会議室、応接室などはすべて冷暖房完備である。
パソコンと経理にとても詳しく、寺院会計もすべてオープンにされるなど、ある意
味で現代の寺院の最先端を行っているとも言えます。

住職がよく仰られるのは、「必要とされるお寺」となること。
それには先ず、寺院の会計をすべてオープンにすることから始められた。
それから寺院内の整備をされ、墓所を再整備し、駐車場を作られ、納骨堂を建て、
現在は寺院葬のための会館を準備中である。

正直、見習いたくてもできないことが多いのだが、私のお寺の参考にさせて頂く
ことはとても多い。
できることからコツコツと続けて行くことが大切なのでしょう。
気づいてみたら、すべてが整っていたというのが理想だと思います。
無理をせず、でも確実に前に進んで行くこと。
お寺のことは、焦ってはいけないと感じることがある、でも待ってばかりいると時
代に取り残されて行きます。
それには、あるべき姿を自分でしっかりと認識し見つめ続ける。
ただ今置かれている現実から目をそむけてはいけない。

今を見つめ、先を見つめる。
できることは先延ばしにせず、今すぐに始めた方が良い。
ただし、ご門徒さんに関わることはとにかくじっくり取り組む。
そのうちにご門徒さんの方から声がかかるくらいになった方が良い。

そのとき自らのけじめとして、寺院会計をオープンにすることが必要となってくる。
そうすればご門徒さんも納得しやすい。
その上でできることをやって行くのだ。

「犀の角のごとく ただ独り歩め」

そこには法と言う真理を見つめ続けるという命題があるのだろう。

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  (養源寺さんの納骨堂、阿弥陀如来の背景には宇宙が広がっている)


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偶像崇拝・・・不可称・不可思議・不可説

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偶像崇拝については宗教によってその考え方が変わる。

宗教の違いだけでなく、同じ宗教でも宗派によっても変わるのです。

たとえば神教であるユダヤ・キリスト・イスラームはどうか。
大きく分けると、ユダヤとイスラームは偶像崇拝をしない。
その宗教的施設であるシナゴーグやモスクに神の像はない。
イスラームは偶像崇拝禁止であるので、その扱いは徹底しています。
キリスト教も元々は偶像崇拝をしていなかったが、ローマ・カトリック
ではイエスやマリア像を崇拝するようになる。
特にニケア宗教会議以降、イエスも神と一体となったので、その傾向
が強くなったのでしょう。
ただキリスト教では宗派によってその考え方が変わるので、一概には
言えない。

その神の考え方として、すべてに共通するものは、神をどう表現でき
るかということ。
本来神とは、「不可称・不可思議・不可説」の存在であると言うことです。
これは、神を表現することは、それを譬えることもできなければ、想像
することもできず、それを説明することもできない。
神とはそういう存在であると言うことです。

コーランに忠実なイスラームでは、それは絶対である。
そして一神教では、神という存在は他にはいない、よってキリスト教の
偶像や仏像は、その侵攻によって破壊されることが多いのです。
イエスはあくまでも預言者の一人であって、決して神ではないと言うこと、
そしてその神を表現することは許されない。
ユダヤ教も十戒で偶像崇拝は禁止されているし、プロテスタントの教会
にはイエス像やマリア像はない。
元々キリスト教は偶像崇拝は禁止であったのです。

では仏教ではどうだろうか。
仏教でも元々は偶像はなかったであろう。
ただ釈迦が入滅したのち、その釈迦を崇拝する目的で釈迦像が造られ
て行くこととなる。
初期に仏教が伝えられた東南アジアでは、仏像と言えば釈迦像しかない。

仏像はインドのマトゥラー、そしてギリシャのヘレニズムと融合したガンダ
ーラを中心に発展する。
仏教では教義的には、本来必要なものではないでしょう。
お釈迦様も現在の様なことは想像していなかったに違いない。
ただ想定外というだけで、絶対的に禁止と言う訳でもなく、インドのバラモ
ンやヒンドゥー文化の影響を受けて以降は、特に密教系ではヒンドゥーの
神が仏像として扱われており、様々な仏像が生み出されて行くこととなる。

その密教の前に、インドで展開した大乗仏教の系譜として、北西インド中
心に発生した大乗仏教運動はガンダーラそして中央アジアからシルクロ
ードを経由して中国に伝わって行く。
その中で、大乗仏教は仏像が造られ発展して行くので、ギリシャ彫刻の
影響を多大に受けることとなる。

その経過の中で菩薩像や如来像が発生して行く。
その存在を表現するためには、仏像の存在がどうしても必要不可欠であ
っただろうと想像できる。
お釈迦様を永遠且つ超越した存在として、仏像にその思いが込められる。
そしてその中に阿弥陀如来の存在があります。

現在のアフガニスタンやイランの周辺は、古代より宗教の発生地として
知られているところである。
たとえばゾロアスター教などが挙げられるが、元々神の存在として光が
ある。
その光の存在は、ユダヤからキリスト教にも影響を与えていると言われ、
インドの光の存在であり奈良の大仏の元となったヴィシュヌ神もその影響
もあると言われています。

阿弥陀如来は光を象徴している。
おそらく仏教伝播の経過の中で、北西インドであったアフガニスタンやイラ
ン周辺で発展したのではないかと言われることがあります。

それぞれの宗教の神や仏は、元々同じ存在だったのではないかというこ
とも考えられなくはない。

そしてもう一つ、阿弥陀如来の存在を言い表すとき、その存在は「不可称・
不可思議・不可説」であるのです。
本来、神や仏の存在とはその様なものかも知れません。
とても衆生の側で表現することなどできないものでしょう。

それほど尊く畏れ多いものとしての存在なのです。

日本には阿弥陀如来の信仰が深く根付いており、各宗派でも本尊として
扱われることが多い。
そこには、それぞれの阿弥陀如来の存在と本尊としての存在を、教義で
説き明かさなくてはならない。
それはここで話してきたこととは、また関係ないところである。
それぞれの宗教や宗派の立地点でもある。

それは浄土真宗においてもそうである。

蓮如上人は、ご本尊を「木像より絵像、絵像より名号」と言われた。
名号が一番尊いのだと。
ただ、そこには様々な背景があってのことだと思われます。
現在の西本願寺の御本尊は木像である、名号ではない。

浄土真宗を学ぶとき、このご本尊の存在をどの様に捉えるのかを、根底
に持っておくことが大切なのです。
でなければ、間違った解釈をご門徒の方々に伝える結果となる。

ときどき浄土真宗の僧侶の方で、間違ったご本尊の話しをされていること
を聞くことがあった。
ご門徒さんはそれをそのまま信じられるのですから。


「JAPANESE ONLY」ということ。

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                               (twitterの画像から)

言葉と言うものは、思っていることを正確に伝えるのは難しい。

たとえばFBとかTwitter、ブログなど、思いを伝えるものなど、自分の
伝えたい思いが逆に取られることがある。

またその意味をどちらにでも取ることができるという、曖昧な表現も多
いのもその理由の一つにある。

そのメッセージを送っている人が、どちらの意味でそれを書いているか
ということを判断するのも微妙なことがある。
批判とか非難するつもりではなくても、そう受け取られることもある。

あとは入力ミスとか間違いとか。

現代では簡単にメッセージを送ることができると言うこともある。
自分の表現をアピールしやすい反面、それだけリスクもあるということ。
私も、ブログやFBを利用していますが、そんな微妙なことが多いのも
事実です。

ただそれを承知の上で書いている、そしてそれを誰でもが目にすること
ができると言うことも、認識しておかなくてはならないと言うことだろう。

今回、J1の浦和レッズのサポーターが起こしたこと。
「Japanese Only」というメッセージ、これが大きな反響となった。
それは選手がTwitterで発言したことからも、この問題が一気に広まる
ことにもなったのです。

それに写真が載っていた。
それが動かぬ事実となって伝わって行く。
そのスピードは加速度がついて伝わった。
クラブ側、Jリーグ側の対応が後手に回ったことでも、その問題を大きく
した。

その問題を起こしたサポーターには、そこまでの意識が無かったのかも
知れない。
でもこの問題は、そんな意図はなかったと、いくら弁明しても取り返しが
つかない。
さらにその処遇に対して厳しい結果となるだろう。

クラブ側も、その問題を試合途中に別のサポーターから指摘されていた。
にもかかわらず試合中に撤去するという対応を怠っていた。
問題を問題と認識できていなかったのだ。

日本人は、人権と言うことに対して、認識が薄いと言った面もあるだろう。
一見すると、日本は多民族国家ではないということ。
戦後は平和な状態が続き、表現の自由などが保障されているように思っ
ていることが、その背景にあるのかも知れない。
またヨーロッパ諸国と違って、難民受け入れの問題も少ない。

それらが今回の問題を深くしたのだろう。
それを問題と思わないサポーターとクラブによって。
そう言った面では、とても残念な結果となってしまった。

ただ、この人権に関する問題が、とても大きな問題であるという認識が
生れることになったなら、それがせめてもの救いかも知れない。

人権の問題は、今回の件でも分かる様に、知らなかったとか、そんなつも
りはなかったということでは許されない問題だと言うこと。
もちろん意図的なものだったなら、到底許されるものではないが。

逆に知らなかったと言う、無知が一番問題でもある。
なぜならそれが問題だという認識をすることもなく、そしてそれが悪いこと
であり、人を傷つけていることに気づかないからだ。

知らないと言うことは、それだけ罪深いということも、人権に関しては知っ
ておくことも大切なことなのです。
今回の件もそれほど大きな問題ではないとの認識であったのだろう。
もしくはまったく問題にならない程度のことだと。

Jリーグもクラブも、この問題についてあまりにも無知すぎた。
その結果がこの問題を生み、そしてそれを大きくしてしまった。

人権に関する学習が全くされていなかったと言われても仕方がない。
運営する浦和レッズだけでなく、それを統括するJリーグも厳しく処罰され
てしかるべきであろう。
放置していた責任は両方にある。

これだけFIFAが差別に対して厳しい処置をしてきたにも関わらずにです。
他山の石といった感覚でしかなかったということだろう。

いろいろ考えさせられた問題でもあった。

浦和レッズと対戦した、サガン鳥栖の監督は韓国の元代表選手でもある。
そしてJリーグ選手にも外国人はたくさんいる、そしてサポーターも日本人
だけではない。
そうであれば、このメッセージがどういう問題をはらんでいるか想像に難く
ない。

スポーツでこの様な問題を起こして欲しくないと、切に願うのです。

Jリーグは自らにどの様な処罰を科すのだろうか。

すべての存在は関わり合っているということ。

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すべてのものは関わり合ってその存在がある。

仏教における縁起の一つのテーマでもある。

何か特別な存在がこの宇宙を作ったのではなく、すべての存在が
関わり合って初めて宇宙となる。

その根本には因果律がある。

つまりすべての存在には、原因があり結果がある。
そう結果には必ず因があるということ。

すべての存在、それは因果律によって起こり、すべては関わり合っ
ているのだ。

宗教的な立場から考えると、たとえば中心はどこかという命題。

たとえばキリスト教であったなら、その中心はやはり神になるのでは
ないか。
そこには必ず神の意志があるのだろう。
たとえばアメリカの資本主義経済、それも神の意志の元に成り立っ
ているのだと言う。
大統領の宣誓も聖書に誓うのだ。
そこでは、神に誓った以上嘘は許されないと言うことでもある。
そして人間がある一定以上驕り昂ぶれば、そこには必ず神の裁きが
あると言う前提なのだ。

では仏教はどうかというと、それは遍在である。
遍在とは特定の場所ではなく、ありとあらゆる場所ということになる。
その関係性の中では、どこが中心と言うことはなく、すべてが中心と
なり得る。

つまり、あなたがその中心でもあるということだ。

宇宙の中にあなたの存在があるが、その宇宙の中心はあなたである。
そんな感じでしょうか。

もうひとつ、その宇宙は常に流れの中にある。
ということは、常にとどまることなく流れ続けていると言うことだ。
そして私のいのちも流れの中にある。
それは大いなるいのちの流れの中にある、それは一瞬の出来事かも
知れない。
でも間違いなく、その一瞬のなかに私にいのちが確かに存在している。
ある意味、宇宙を宇宙足らしめているのは私でもあると言うことだ。

たとえば、『般若心経』という経典のなかの言葉。

「色即是空 空即是色」

それを意訳したなら、私的にはこの様な説明になるかも知れない。

すべては縁起の中にあるということ。
人は縁起を離れては存在しない。

「仏を見るものは縁起を見る 縁起を見るものは仏を見る」

仏教である限り、たとえば浄土真宗であっても、この縁起から離れては
その教えはない。

その大いなるいのちの流れの中に身を委ねてみる。

そんな感覚が悟りへと続くのかも知れません。

すべてを受け入れ、そしてすべての関係の中に身を置いてみる。

そのときに初めて受け入れる感覚があるかも知れない。

それがたとえば、浄土真宗であれば念仏であり、曹洞禅であれば只管
打坐の竟地であろうか。

今日は雨だ、その雨を雨として。

たとえば阿弥陀如来の存在は、その縁起を包み込むものなのだろう。
その一瞬のいのちであっても、間違いなく包み込む。

そこに漏れる人はいないのだ。


うどんの出汁に挑戦・・・彼岸参りに備えて。

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やはり本物に出会うと、それが基準となってしまいます。
もう従来のものでは我慢できなくなる。

最近そんなことを感じることがありました。
本当は僧侶として、それがみ教えであれば良かったのでしょうが・・・。
実はうどんのお話しです。

宿坊に日帰り体験や宿泊に来られた方に、うどんのセットを出してみました。
うどんの麺は、まだ手打ちはできないので、今は冷凍の麺を使っています。
ただし、出汁にはこだわって、自分で作ってみています。

先日、讃岐うどん巡りをしたとき感じたこと。
麺がそれぞれ特長があって美味しい、そして出汁もイリコが効いていて美味しい。
やはり本物に出会うと、もとの味では満足できなくなるな。

今日は、検査のため朝早くから起きて病院に行って来ました。
年齢も年齢なので、身体の体調が悪いと病院に行ってチェックしてもらっています。
今までならやり過ごしていましたが、これからは身体のことも大切にと思っている。

話は逸れたが、病院の後、久しぶりに地元のセルフのうどん屋さんに行ってみた。
大きな店舗だが、いっぱい人が入っている。
鳥取でこんなにお昼に人が入る店はなおだろう、それくらい流行っている。

そして並んで食べたが・・・、正直言って麺も出汁もまったく美味しいとは思わない。
というか讃岐で食べたうどんとはとても同じものだとは思えないくらい。
なのにこれだけはやっているとは、僕の感覚がおかしいのかな。

手打ちの麺は、これからまだまだ時間がかかるだろう。
めざすは4月からです、でも出汁は今から自家製で作ることにしています。

まだ3~4人分くらいの出汁しか作らないので、水は鍋に1リットル。
そこに昆布とイリコを前の晩から寝かせておきます。
そして当日は、カツオ節やその他の合せ節を加えて煮立たせ、白出汁を作る。
それに酒や砂糖などで作った返しを加えて行く。

やはり自家製でも、かなり美味しい出汁ができます。
かなり薄い色でも、ダシが良く出ていて、それらが合わさって深い味わいになります。

それに今回は、牛肉を甘辛く煮て、肉うどんを作ってみた。
麺は冷凍だが、出汁と肉が合わさってとても美味しい肉うどんになった。
もちろんまだまだであろうが、肉うどんとしては、実は今まで自分が食べた中で一番
美味しかったのです。
妻やお客さんも美味しいく、出汁も濃くておいしいと言ってくれた。

調子に乗ってはいけませんが、ちょっと一歩だけ前に進んだかな。
でもこれからの道のりは長い。

お彼岸には、お寺にお参りに来られた方に、うどんを振る舞う予定です。
まだ手打ちではないけど、出汁とトッピングにはこだわる。
きつね、わかめ、肉の中からお選びいただきます。

やっぱりお寺に参って、美味しいうどんを食べたら、元気になる。
そしてそれがいつか名物になるのだ!








鳥取早春賦・・・。

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東京で会社員をしていた頃、早春の安曇野を歩いたことがある。

もう十年以上前のことなので、あまり記憶は定かではないが、おそらく
青春18きっぷで白馬まで行き、そこで休憩してから安曇野まで戻った
のではないか。

駅を降りて穂高神社にお参りし、散策をした。
雪の中央アルプスを見ながら、水量の豊富な小川が街中をいくつも
流れている。
道には道祖神が祀ってあった。
春の訪れを待ちわびていたかのような自然の光が眩しかった。

鳥取でも八頭町の若桜鉄道沿線は、安曇野に似た雰囲気がある。
雪を頂いた山々に囲まれている、そして春を待ちわびたかのような景色
が広がっている。
そのなかを若桜鉄道が走る。

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昨晩までは真冬に逆戻りだったが、今朝は眩しい春の日差しになっていた。

山間はそれほど広くないので、ゆっくりと歩いて散策ができる。
ここは四季が存分に楽しめる場所だ。
日本の四季を季節通りに楽しめる場所はそう多くないということを知っている。
本州の東から西へ転勤で横断したが、ここにはちゃんとそのままの季節があ
るのです。

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この山里にも、もうすぐ春がやって来る。

鳥取の八頭の早春賦、春を待つ思い。

過ぎ去りし冬を見つめ、そして春の訪れを感じる。

その瞬間が今だ。

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中庭の紅梅も、昨日の雪景色から一気に開花した。

もうすぐ、ウグイスも啼き始めるだろう。

そおしてまた季節は巡って行く。

それもまた縁起です、変わらない季節はない、すなわち無常。

そこに儚さを思い、尊さを感じ、愛おしさが募る。

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中庭の池には、今朝の冷え込みで張った氷の下で金魚も春を待つ。

季節を感じ、季節を味わうこと、それは人の感性を存分に発揮させる。

そして新たな旅立ち。

お泊りのお客様を若桜鉄道の丹比駅までお送りした。

少しの寂しさと、社会人になってさらに羽ばたいて欲しいとの思いが重なる。

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学生から社会人へ ~ 節目に宿坊を体験する。

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大学四年生、もうすぐ卒業だそうです。

就職も決まっておられ、今月にはプレ研修もあるのだそうです。

それを前に宿坊に来られ体験をされています。

仏教を中心とした講座、写経、瞑想、そして明日は絵手紙。

できる限りの体験をしていただきます。

仏教の基礎知識をかなり幅広くお伝えしました、その上で写経と瞑想を。
やはり基礎知識の上に体験をしていただくと、その深みが違ってくると感じて
います。

人生には様々な節目があります、そんなとき宿坊に来られる方がいらっしゃ
いる。

そんなとき仏教は心を穏やかにしてくれるのです、そして背中を少し押して
くれるのでしょうか。

昨日と今日は真冬の冷え込みになった、でも体験はすべて本堂を希望され
ました。
「本当に寒いですけどいいですか?」とお聞きすると、「大丈夫です!」と応え
られる。
本堂で延べ10時間くらいは体験していただいています。

社会人になられる前に、学生の自分にけじめをつけに来られたのかも知れ
ません。
今晩は夕食を一緒に食べながら、これからのことをお伺いした。

明確な目標を持っておられ、「社会のためになりたいと思っています。」とハッ
キリと言われた。
最近の若い方にお話しを聞くと、社会のためにとか人のためにと応えられる
方がいらっしゃいます。
僕たちの学生時代と違って意識が高いなと感じます。

ボランティアとか社会貢献とか、高齢者の支援、村おこし、といったことに意
欲があるのです。
きっと社会に出られても頑張られるんだなと感じた。

またいつか宿坊に訪ねて来られたらいいですね。

そういえば2年前の今日、宿坊を始めて初めての宿泊者が来られた日だ。
お名前も同じだ、そしてそのときも雪が降っていた。
その方も大学院を卒業されて、その卒業旅行の途中に来られたのです。
そのときは男性でしたが、その方も明確な目標を持っておられたな。

そんな方々の思いを受けとめられる宿坊になれたらいいと思います。

そして卒業の思い出になればなお有り難いことです。

ガンバレ!


宿坊光澤寺のHPはこちら!

金魚の数を数えてみる。

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ときどき池の金魚を数えます。

大きいのと小さいの。

大きい方は僕がお寺に入ったときに飼ったもの、もう4年近くになる。
小さい方は昨年誕生したもの。

大きい方はすぐに数えられるが小さい方は中々数えられない。

やはり写真に撮ってみるのが早い。

全部で36匹、連休頃に卵から孵ったのでもうすぐ1年になるが、身体の
大きさにはかなり差がある。

先日、この池にアオサギがやって来た。
間違いなく金魚を捕えにだろう。

それから金魚はあまり鉢のまわりから出なくなった。

今日池を見ると、小さい方が浅瀬に集まっていた。

水温か酸素の関係で金魚は浅瀬にいることが多いのです。

今年の春もまたたくさん卵を産むのかなと思っている。

いったいどこまで増えるのだろう。

まあできるだけ増やして行こう、でも増えすぎると共食いが始まるかも知れ
ない。
金魚の自己防衛本能は結構強い、これは金魚と言ったわけでなく自然の
生き物は皆そうかも知れません。

さてこれからどうなって行くのでしょう。

春になったので、そろそろ池の掃除もしなくては・・・。

以前は掃除をして失敗したので、今年は慎重に。



こころを休める。

IMAGINE

今日は少し心を休めよう。

自分の至らなさを謙虚に受け止めることも必要か。

世の中の出来事も厳しいことが多い。

現実はどこまで現実なのだろうか。

自分の心が作りだしているもの、ニュースで見たもの。

それらをすべて受け止める、そして流す。

そして瞑想に入る。


ただ自分の呼吸に集中する、ただそれだけ。

ありのままの自分。

その瞬間は、私のこころには何もなくなる。

それは逃避ではなく受容であると感じる。


ただ自分を見つめる、今の自分だけに集中する。

それだけだ。

お経の持つパワーを感じとる。

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今日は朝から雪が舞っていた。
気温も低く寒さが厳しいな。

そんなとき日帰り体験で、女性の方がお一人で来られました。
今日は坊守が昼過ぎまで所用で出かけていたので、昼食は僕が作る事に
なっていた。

イタリアン精進料理ではなく、うどんのセットになりますが・・・。
「それで構いません」とのことでした。
まだ手打ちはできないが、出汁とアゲは昨晩から仕込みました。

今日来られた方は、少し前にも来ていただいた事がある方だ。
そのときお経のことや仏教のことたくさんお話しした。
仏教のことをよく知っておられるし、興味を持たれていたから。

今日もいろんな話しをしたが、その中でもお経に関することがかなりあった。
お経や本堂がお好きと言うこともあって、本堂でお経をお唱えしたのだが、
そのときに感じるものがあったという。

前回のときは、お経を聞かれて心がスッと軽くなられたそうです。
それが10日間くらい持続していたという話しを聞いて、おっと思ったのです。
誰に対してもそうなる訳ではないが、それを受けとめる心をお持ちであった
なら、そんなこともあるなと思う。

その方との話で、お経ってすごいパワーがあるのだと、あらためて感じるこ
ができました。

そしてお寺にもそれを感じることができると。
「このお寺は女性にとってすごいパワーをいただける場所ですね。」と言わ
れた。

「お寺の中で深呼吸を初めてしました。」

そう言えばお寺の本堂の中で深呼吸をされる方はあまり見かけない。
その方は神社の境内で深呼吸をすることはよくあるそうです。

その方は様々なものから波動を感じ取ることができる方だ。
花や野菜や自然、様々なものからメッセージを受けとめる。
お経やお寺から、とても心が安らぐメッセージを感じとれたのだそうです。

そう感じていただけるのは、とても有り難いことです。

そんなやりとりも宿坊をしていてできることなのです。
お葬儀や法事ではなかなかその反応を聞くことはできない、そして心に感
じられる方は、あまりそのことに口数が多くない。

僕は教義や法話もそうですが、読経にも独自の思いがある。
どちらかと言えば浄土真宗は、作法や読経よりも教義中心と言った感がな
きにしもあらず。
でも読経や作法は僧侶としての基本なので、ここにどれだけの思いを込め、
そしてその背景や意味をしっかりと受け止めて、それをお伝えできるか。
僕にはこのことに信念があって、読経ではあることをいつも心に持っている。
それがときとして、ある人に共鳴することがあります。

そうすると、その方は何かを感じ取ったりされるのです。

今日もそう、「何かがそっと私のそばを通って行かれました、それは阿弥陀様
だった様な気がしました、それともご先祖様だったのかな。」と仰られた。
『三奉請』を唱えていて散華をしているときのことだったそうです。

それは優しく穏やかな感覚。

目には見えないけれど、その存在を感じ取ることができる。

そんな瞬間がある、その方はそのとき自然に涙がこぼれてきたそうです。

ただ唱えていたり、法事だからお経を唱える、と言った感覚だけでは触れる事
の出来ない部分があるだと思う。
心から信じそれを受けとめる、そのとき何かを感じるのだ。

今日来られた女性にとって、このお寺と読経が一体となって語りかけたのでし
ょう。
読経が終わってお話ししていると、「法事をする意味が少し分った気がする」と。

私が読経をするとき、たとえ一人でもいいから心に届いて欲しいと願っていま
す。
仏さまと一つになれる瞬間と空間があるのだ。

そのとき心は穏やかになる。

冷え込みが厳しい本堂、「寒く無かったですか?」と問うと、「お経に集中してい
たので寒さはあまり感じませんでした。」との回答。

僕も読経のとき、集中すればもう寒さは感じなくなります。

文字が読めなくても、意味が分からなくても伝わるものはあるのだと信じます。

お帰りのときのこと、山門前に枝垂れ桜がある。

それを見つめながら、「この桜が咲く頃にまた来ます。」と言われた。

「お待ちしています、ゆっくりとお越しください。」そうお応えした。

今日は枝に雪が積もっていた。

でもあとひと月ちょっとだな。



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讃岐うどんとお寺興しと・・・谷川米穀店で感じたこと。

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この写真を始めてみた方はどう感じたでしょうか。

ただの田舎の山の中にあって、今はもう店をたたんだ米屋さん。
誰も訪れる人もいない、そう時代の波は厳しく過疎化は進む。

そんなイメージではないですか?

実はこのお店は、讃岐うどんのお店としては全国にその名が響く「谷川米穀店」
なのです。
おそらく店の知名度では全国NO.1かも知れない。
それくらいのお店。

立地条件は県庁のある高松市から30kmくらいで、徳島県の県境に近い。
山道を通って、山間の谷川沿いの集落に駐車場がある、でもその駐車場からで
さえ、お店にどう行けばよいか分からない、そんなところにある。

何しろ米の看板はあるが、店名やうどん屋の看板すらないのだ。

お店を構えるとき、立地条件が一番大切だと言われています。
この店に行けば、そんな思いはぶっ飛びます。
営業時間は11時~13時の2時間だけ、休みも一応日曜日だが不定休。
こんな所までわざわざ来て、お店が閉まっていると言うこともあるのです。
もし開いていても、すでに人が並んでいて、玉がなくなり次第終了です。
季節の良いときはおそらく並んでも食べられない人もいるでしょう。

そこの人気メニューはこれ。

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そう、ただのうどんの玉だけなのです。
小が120円、それでも十分一玉分はある。
そこにお店のオリジナルの青唐辛子の佃煮を載せる、後はネギと。
それに酢や醤油をかけて食べるのです。
この店で出汁を頼む人はほとんどいません、とにかく麺を味わっている。
釜玉にしたり、お替わりをしたり。

僕が行ったときは、2月の雨の平日でしたが、それでも開店前から人が並び、
次から次へと人が来る。
店員のお兄ちゃんの愛想は決して良くない、接客業であるが関係ないのだ。
店内は雰囲気は良いが決して立派だったりお世辞にもきれいとは言えない。

でもその味は確かにやみつきになる味だ。
また香川に行ったときは必ず寄りたいと思う。

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たとえばお寺。
現在はお寺離れが進んでいると言う。
そして檀家の世代交代によるお寺からの距離感、さらには過疎化による檀家
の減少と少子高齢化の波。

過疎地のお寺の将来は決して明るいとは言えない。

だけどどうだろうか、考え方によってはそこに活路が見出せるのでは。
そして過疎地であっても、そこに人を呼び込むことができる。

逆に言えば、過疎地だからの魅力を発揮することはできないか。

宿坊を始めたが、そこにあるのはただの田舎の普通のお寺。
看板も無ければ道案内さえない。
かろうじて町道に「光沢寺」と矢印がある程度、それも漢字が違っている。

宿坊に来られた方は、ここでいいのかなと言った表情もあったりします。

もちろんそれがいいと言う訳ではない、うちの場合そこまでお金がないと言
う理由だけです。
自分で作ればいいのだが、それも得意と言う訳ではないから。

ただ、立地条件、看板などの付帯設備、お寺の立派さなどではない魅力を
出せればいい。

それを徹底的に考えるしかないのです。

そしてそのお寺のこだわりを追求する。
町や都会のお寺と同じことをしても、誰も振り向かない。

そこで何をするか。
それは自分で考えるしかない、なぜならお寺のことを一番知っているのは、
そのお寺に住んでいる方だからだ。
そして環境も何もかもお寺によってすべてが違うのだから。

たとえば、そのヒントはこの谷川米穀店からも感じることができる。

そこから何を感じ取るかだ。

何も感じなければ他人事。

お寺のことを考えていると、そこにチャンスが見えて来る。

そんなことを感じる機会でもありました。


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名残り雪か寒の戻りか。

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今朝起きたら、お寺の周辺はうっすらと白くなっていた。

暖かくなったり寒くなったり。

3月のこの時期は、入試と卒業式が続いています。

卒業式だったら寒すぎるな。

3月の雪にはいろんな名前がついています。

寒の戻りの雪。

名残り雪。

彼岸の小鳥殺し。

などなど、二十四節季の呼び名があるが、雪にもたくさんの呼び名がある。

それだけ日本の季節は微妙に変化しているってことでしょう。

それが日本人の精神的な背景になっているのも間違いない。

今日の雪は、まだ名残り雪ではない。

でもそう感じ取れるかどうかは、その地にいる人でなければ難しいかも。

砂漠に住んでいる人たちと日本に住んでいる人では、季節や自然の感じ方
が違うでしょう。

宗教だってそう。

アラブ諸国にはイスラームが似合い、日本には仏教が馴染む。
そんなこともあるのでしょう。

教師がどうと言うことではない、その国に適した宗教があるのだろう。

仏教はインドで誕生している。
でも様々な国を経由することで、仏教も大きく変貌している。

そして日本には日本に合った仏教になっているのだと思う。

それが仏教であるかどうかということではないでしょう。

それもまたまさしく仏教なのだと思います。

お経を録音するときのこと・・・読経を見守る仏様。

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ご仏壇の前でお勤めをされるとき、テープに合わせて唱えられる方
がいらっしゃいます。

最近は少なくなったのかも知れませんが、それでもときどきお経を
録音して欲しいを頼まれることがあります。

ただそのときはほとんどがテープでの録音です。
私がラジカセを持っていなかったりするので、どうしようかなと思うこ
とがあります。

お参りに行ったとき、テープに録音される方もいらっしゃいます。
そんなときは、やはりより丁寧に、そして音程や経文を間違えない様
に注意します。
その録音でこれからお勤めをされるのでしょう。

先日、坊守があるご門徒さんからお経のテープが伸びてしまったの
で、できればお経を録音して欲しいと話しをしたことがあった。

こんなときラジカセがあれば、すぐに録音するのだが、あいにくラジ
カセを持っていない。
つい遅くなってしまったのだが、電気屋でラジカセを購入して、昨日
本堂でのお勤めの際にお経を録音しました。

録音したのは、『正信偈・和讃六首引』「御文章」、『讃仏偈』『重誓偈』
そして『阿弥陀経』でした。

録音してみると、思ったより上手く録れていないというか、自分の読経
のイメージと違うのだ。
それで『正信偈』は再度録音し直したりする。
そんなこんなで録音に1時間以上かかってしまいました。

ラジカセも安いものでしたのでノイズも大きかったりする。

ただその読経の録音のとき、本堂に誰か入ってきて私の後ろに座っ
たという感覚があった。
坊守が帰ってくるころだったので、坊守かなあとも思ったが、それにし
ては引戸を開ける様子はなかったが、などと思っていました。
ただ僕は読経のときは何があっても振り向くことはしない。
最後唱え終えるまで読経に集中する。

これは法事などでもそう、誰か騒いでも何かあってもペースを変えず
そのまま読経に集中する。

今回の録音のときもそうです。
背後にどなたかいらっしゃるなあ、ちょっと物音の様な感じもします。

もしかしたら門徒さんが来られて読経が終わるまで静かにしておられ
るのかなあとも・・・。

そして一通り読経が終わって、後ろを振り返る。
でもそこには、どなたもいらっしゃらない。

特に変な感覚もなく、あっ、もしかしてテープの録音を頼まれた方の
息子さんだったのかもしれないなと思った。
その方は二人の息子さんを亡くされています。

とても悲しみの中におありだったこともあります。

お母さんへのテープを録音していたとき、その息子さんたちも一緒に
お経を唱えられていたのかも知れない。
じっと、そしてそっと見守られていたのかな。

そんな思いが僕の心にあった。

テープをお渡しするとき、その話はしなかった。

テープの録音が遅れたので、やっとしてくれたかと安心されていたの
かも知れません。
ちゃんと録音できてるか、もしくは催促だったのかな。

どちらにしても、テープをお渡しできてよかった。

ちょっと心が安らいだ。

お経を唱えていると、ときどきこんなことがあります。

仏さまっていらっしゃるんだなと嬉しくなるときです。


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脳は同時に二つのことを処理するのは苦手。

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今日ネットであるニュースを見ていると、こんなことが書いてあった。

「脳は同時に二つのことを処理するのは苦手」

あたりまえのことだと認識していましたが、あらためてそう言われると、
「やっぱりそうだ!」と感じました。

前にもこのブログで「宗教脳とビジネス脳」について書いたことがあり
ます。
私は約8年前まで会社員をしていましたが、僧侶になって感じたことが
あります。
それは宗教脳とビジネス脳ではその回路が違うのではということです。
そう言った意味で、ビジネスをしながら僧侶をしていると、その思考回
路はビジネス中心になり、宗教的な感覚は発揮しづらいのではと感じ
ました。
だから僧侶は出家が必要だったんだなとも。

現在は僧侶もお寺の運営や家族の生活が最優先になっています。
なので本物の僧侶は少ないだろうなとも感じています。

ニュースの話題に戻ると、たとえば車の運転中に話しかけられたりする
と、運転が疎かになるということ。

また会社などでもそうでした。
トラブルが次から次へと発生します、それは終わりと言うことはありま
せん。
特に現代社会はハンドルで言う遊びが無くなっているので余計にそう
なっています。
トラブルが重なるとガンジガラメになり、からみ合った糸がほどけなくな
るように、全く処理できず頭がこんがらがった様になる。
もちろん精神的な負担は膨らんで行きます。

あるとき上司に言われたことがある。
「問題はからみ合っていないんだよ」と。
絡めているのは自分の頭の中であって、トラブルや問題の本質は別々
なのだと。
だからからみ合って解決できないよう思っているときは、その問題を
一つ一つ解きほぐしてみることが大切なのだ。
そして一つ一つの問題の本質と優先順位を見極めて、一つ一つ解決し
て行くことが大切なのだと。

そう言われたとき、なるほどと感じたものです。

言われてみれば当たり前のことなのですが、日々のことに追われている
とそれが見えなくなってきます。

仏教の真理にしても同じ。

「生まれたから死ぬんだよ・・・」
そんなのあたりまえじゃん、と思う。

本当にそうだろうか、日々の生活の中に埋没している心では、そのことに
さえ気づかなくなっているのです。
そう自分が今生きていると言うことに。

真理ってそんなところにあるなと感じます。

今回のテーマでもそうです。

脳は二つのことを同時に処理する様にはできていないのでしょう。

テーマを一つのことに絞って行くって大切なことなのでしょう。

お寺のこともそうです、経営が厳しい、兼業する、何かないか。

そのときのポイントは、お寺の本業に関わると言うことだと思います。
そこからの発展性が無ければ、どちらも中途半端になるのでしょう。

その中心はどこにあるのかをしっかりと見つめておかなければならない。



第2回『宿坊で語り合うガン患者の集い』の開催決定です!

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                                   (宿坊談話室)

宿坊光澤寺では、第2回『宿坊で語り合うガン患者の集い』を開催することが

決定しました。


日時は5月17日(土)~5月18日(日)

詳細は宿坊ホームページでご確認ください。

ホームページはこちらから!


第1回目は昨年秋に開催致しました。

そのときの参加者の皆さんの感想を添えてみます。


【参加者感想抜粋】

 

心に残ったことは書き尽くせないほどあります。私がふと口にした

  好きな言葉に対して、「共感出来ますよ」と言われた時はとても嬉

  しかった。病気の部位や世代は異なっていても、分かってもら

  えることの喜びを素直に感じることができました。(50代女性)

 

◇お世話になりました。いいグループワークに参加させていただき、

  嬉しかったです。人は心の深い所で、‘悟り’を感じたいと思って

  いるのだとも感じました。 (70代女性)

 

◇いままでお会いすることのなかった方々と、様々な角度・切り口での

  語らいができました。(50代女性)

 

◇住職様、坊守様の細やかなお心遣いに、とても居心地の良さを感じ

  ました。 (50代女性)

 

◇心に残る話を沢山頂戴して帰りました。ありがとうございました。

  (50代男性)

 

◇住職さんと坊守さんがとても自然で、温かい。(60代男性)

コーディネーターの宮本直治氏は、ご本人もガン患者であり神戸の「ゆずりは」

で、ガン患者支援の会を主宰されています。

その宮本氏から、ぜひ宿坊でがん患者の方々がゆっくりと語り合う場所を作り

たいとの申し出があった。


宿坊では初めてのことでしたが、宿坊の開業のときの思いに通じるものがある

と感じて、すぐに引き受けました。

そして第1回目はガン患者の方々を中心に、宿坊でくつろぎ楽しんでいただけ

る様に心がけた。

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                                    (本堂)


できれば継続した会にして行きたいとの思いがありましたが、そんなとき

宮本氏から第2回目の開催の案内がありました。


2回目だからと言って慣れると言うことはない。

常にそのときそのときが最初のつもりでサポートできればと思っています。

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                         (バスルーム&洗面所)


とにかくゆっくりと山里の宿坊で、一泊二日の間それぞれの思いを語っていただ

ける場にと考えています。


ガンサバイバー及び治療中の方で、お一人での参加が可能な方が参加資格と

なっております。


ぜひ一度参加して見られませんか。

きっと何か出会いがあるはずです。








うどん巡礼記・・・香川編①「日の出製麺所」と「がもううどん」に学べ!

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霧にむせぶ瀬戸大橋を恐々渡ってきました。

高所恐怖症系なので、やっぱり大きな橋は怖いですね。

何か風に吹き飛ばされそうで・・・。


勇気を振り絞って橋を渡りきると、すぐに坂出北ICを下りる。


そこに本日1軒目の「日の出製麺所」があります。


11時半開店ですが、11時15分くらいに到着しました。

お店の前にはすでに行列ができています。


今までガイドブックやネットでさんざん見てきただけに、やっと来たって感じです。

開店10分前には店内に入れてくれた。


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もちろんセルフで、ネギは自分でハサミで切っていれる。

かけの場合はポットから注ぎます。


これから数件回るので、うどんは小で100円のみ。

これにネギを切って出汁を注いで終了。


ここは麺の通販も積極的にやっています。

先着の100人は、「さぬきの夢2000」で麺を打っているのだそうです。

それ以降は「さぬきの夢2009」になるとのこと、手打ちの麺をゆっくりと味わい

ました。


「うーーーん、なるほどこれが香川のうどんか」


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ちょっと感動しながらすすりました。

お店の中はお世辞にも綺麗とは言えません、でもたくさん人が来る。

香川のうどんの名店とはこんなかんじのお店が多い。

特にうどん屋って雰囲気ではないのが面白いところかな。


今回は、お店の雰囲気を楽しむのも大きな目的の一つ。

お寺の境内でどんなふうに食べるかをイメージするのです。


さあっ、2軒目に行くぞ!


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2軒目は、さぬきでもトップクラスの「がもううどん」です。


日の出製麺所から車で10分もあれば到着します。

この日は2月の下旬の平日、そして天候は曇りときどき雨。

おそらく混んでいないだろうと言うことでこの日を選びました。


なぜなら香川のうどんの名店は昼に2時間程度しかやっていない店が多い。

となると移動にも時間がかかるので、待ち時間は極力減らしたいと考えたから。

3月の週末などはおそらく混むなと予想した。


がもううどんも、到着すると並んではいたが、駐車場も空いていて、すぐに食べ

ることができた。

おそらく混雑するときは駐車場もいっぱいだろう、と言っても50台は置ける駐車

場である。

今日でも他県ナンバーが多いし、若いカップルやうどん巡りをしている風の方々

も目につきました。


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店内はこんな感じ、何と言うか徹しているといった雰囲気である。

麺を打ち、湯がす、それだけに徹する。


客としてここでうどんを食べるのは、サービスで食べさせてもらっていると言った

感もある。


ここでも麺は小、130円。

それに出汁を掛けて、アゲをのせる、全部で210円だ。


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これが、がもうの基本スタイル。

薄めで大きなアゲがとてもジューシーで美味い。


出汁もあっさりとしているがイリコがよく効いていて美味しい。

さすが人気店だけのことはある。


やはり、さぬきうどんの出汁は、カツオ風味でイリコが効いてるって感じです。

麺はそれぞれの店で違うので、これは好き好きだな。


とりあえず人気店を2軒回ってみました。


どちらもそれなりに雰囲気のあるお店。


麺へのこだわり、そしてそれぞれの出汁やトッピングの味わい。


うどんも奥が深そうだなと、これからのことを考える。


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がもううどんでは、天気が悪くても皆外で食べてる。

逆にそれを楽しんでいるのだ。

店だって綺麗じゃないし、前の川だって。


普通ならあり得ない。


安くて美味ければ、こうなるのですね。


美味いと言うこと、そしてこだわりが大切だ。

ただのうどん屋なら誰も来ない。


香川県にうどん屋は約1,000軒あるのだ。

それでも客が来ると言う魅力は何なのか。


そこが、うどん屋が成功するかどうかのポイントだろう。


光澤寺うどんの場合は、うどん屋ではないが、この雰囲気とこだわりは重要だ

と感じさせられた。






光澤寺うどん巡礼記 3 ・・・ 香川県でうどんを考えた。

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うどん県を標榜する香川県に一泊二日で行って来ました。


うどん県のとおり、讃岐うどんを食べるツアー、といよりうどん修行って

感じでもあります。


ホテルに到着すると、早速ポスターで歓迎してくれます。

確かに「うどん県」って感じがするくらいうどん屋が多い気がする。

観光ガイドもうどん屋がメインです。


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このポスターの意味してるもの。


うどん県と名乗っている以上、うどんがとにかく中心になる。

逆に言えば、そればかりが目立って、それ以外に注目が集まらないと言った

感じでしょうか。

「それだけじゃない」と言われても、やっぱり写ってるのはうどん。

じゃあ他に何がって言われても分からないですねえ。


午後ホテルにチェックインして高松の街中を久しぶりに歩いた。

27歳から29歳くらいまで営業で四国担当だったことがある。

ちょうど瀬戸大橋が完成する頃で、宇高連絡船も最後だった。

宇高連絡船でもよくデッキでうどんを食べたな。


久しぶりの高松はとても綺麗に整備された町でした。

有名な商店街のアーケードがあり、中心部にはオフィスビルや琴電が走って

いる。

やっぱり四国の玄関口だけあって地方都市として、よくまとまった町と言う感

じがします。


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琴電もいい雰囲気を醸し出しています。

街の中に良く溶け込んで、市民の足になっている感がある。


この町でうどんが愛されてるんだなあ。


四国の友人に話しを聞いた。


昔のさぬきはあまり豊かな土地ではなかった。

雨も少なく川が流れていない、要は水不足の土地柄、米の採れない分小麦

を作っていた。

そこに弘法大師がうどんを中国から持ち帰った。

麺文化が生まれたのです。

だからうどんは讃岐の人々にとって主食として愛されてきたと言う歴史がある

のだと・・・。


なるほど、うどん県と言うだけの歴史的背景はあるなあ。


確かに麺へのこだわりは強い。


そして出汁にも、瀬戸内海で獲れる小魚をイリコ出汁として使う。

あまり食材に恵まれなかったところだからこそ、それを活かすうどん文化が

生れたんだなあ。


うどん屋に行って感じたこと、それはどの店もダシはイリコの風味が強いと

いうことが特徴になっている。

そこにもそんな意味があったのか。


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さあこれから、うどんを食しに行きます。


うどんを食べるぞと気合を入れたのは初めてかな。

何となくうどんを食べる?・・・って感じでした。

ラーメンとはそこが違うかなって感じ。


でも今回は、香川県にあるうどんの名店巡りをするのだ。






情報誌「とっとりNOW」・・・Human PowerでSmile Townへ

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鳥取の情報誌「とっとりNOW」。


鳥取の地域やお店そして人物を紹介するしっかりとした情報誌です。

独自の視点での取材があくまでも主体で、企画や編集にポリシーがあると

いった感があります。


その最新号2014年SPRING号、つまり季刊雑誌ということですね。

それが3月1日発行になります。


その号の巻頭特集が「Human PowerでSmile Townへ」。

サブタイトルが「花開き、活気あふれるR29」です。


R29とは国道29号線のこと、つまり鳥取県東部の若桜鉄道沿線の紹介

となっております。


若桜鉄道やその沿線で活躍されている方々の紹介の中に、宿坊光澤寺も

取り上げていただきました。


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地元で活動されている方々の中に混じって紹介されるのは、有り難いこと

ですね。

やはり僕の活動も地域活性化につなげたいと常に考えているから。

そのスポットとして宿坊光澤寺の存在が認識されることは大切なことだと

思っている。


日常の中にお寺や宿坊を溶け込ませて行くことができればいい。

そして自然に地域活性化につながればいいですね。

肩ひじ張ってもできることは限られている、そのできることを少しづつ積み重

ねることしかない。


それが今回の様に地元の情報誌に取り上げていただけるのは、正直言って

嬉しいことですね。

それがまた次へつながって行くと信じているから。

地元の方々との連携も将来的に自然な形で広がって行くと思います。

あくまでも自然な流れが望ましい。


それが長続きする町おこしの原点かなと・・・。



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