
僧侶のとは一体どういう存在なのか。
4月の宿坊とお寺は、何となく慌ただしく過ぎて行きました。
一つ一つこなしながら、それでも過ぎ去って行く。
それは虚しさなのか、充実感だろうか。
でも、どちらでもない様な気がします。
最近少し思うことがある。
やはり僧侶は無所有無所得と言うことが必要なんだなと。
お釈迦様の時代、もしくはそれ以降も僧侶は無所有無所得が原則です。
そうでなければ心を解き放つことはできないし、煩悩を手離すことはできない。
つまり涅槃の竟地に立つことはできない。
やはり出家するとか僧侶になるとは、本来厳しいものだな。
現代の日本で無所有無所得と言うことが可能なのかな。
もちろんお釈迦様の時代でも難しいことであったと思います。
なにしろ、釈迦族の王子であり、多くの民衆を率いて行かなくてはならない。
その上に奥さんもいて子どももいた、それをすべて棄てて出家されたのだから。
そこまでしないといけないのなら、現在では誰も出家できないかも知れない。
出家希望者も激減するでしょう。
法律で国民の義務も決められている、僧侶の本来の生活はその範疇には入らない。
でも理想はそこにある様な気がします。
少なくとも、心は無所有無所得と言うことを理解すると言うことが必要かな。
なぜ無所有無所得でなくてはならないのか。
心に執着を持たないで済むにはどうするのか。
お金も名誉も何もかも棄て去り、身体やいのちさえも・・・。
そのときの心はどんな状態なのだろうか。
いろいろと思いを巡らす。
いつかそんなときが来たらいいな。
そんなことを最近は感じています。














































