僕が感じたこと。
それは、どこまで純粋になれるかだ。
もちろん、純粋さはなろうと思っても成れるものじゃない。
それはそうだ、純粋さはその人自身に具わったものかも知れないから。
今、お寺はこれからどうなるかを問われている。
その中で、求められるのは僧侶自身の問題である。
なぜなら、お寺はハコモノでしかない。
そこに、いのちを吹き込むのは人だからだ。
お寺をどうしたらよいか、そんな議論は山ほどある。
みんないろいろ、あの手この手を考える。
檀家が減る、寺離れが進む、葬儀離れが進む。
そんな話題が次から次へと耳に入ってくる。
そして群れるのだ。
改革する方も、保守的な方も、どちらもだ。
群れるのは良い、でも人の真似をしても意味がない。
それぞれの道を歩むのだ。
檀家をつなぎ留めるために何をするか。
しっかりとした葬儀をして、ご遺族の心を癒やしたい。
そんなことが実は改革の中心にあったりする。
こんなことをしても意味がない。
なぜなら、それは仏教とは関係ないからだ。
一体自分は何をしたいのか。
僧侶としてどう生きるのか。
それは実は、純粋さへの挑戦だと思う。
純粋さを求めるなら、そこに檀家だとか宗派など目に入らない。
檀家が目に入るから、それに囚われるのだと思う。
檀家さんはそんなことは求めていないのではないか。
そうであれば、僧侶側の勝手な思い込みである。
純粋さには、そんな囚われた思いなど関係ないんだろう。
お寺が生存を賭けていろいろな手を打つ。
そんな動きが加速する。
でも何をしても、そこに純粋さがなければ、ただの飾りでしかない。
純粋さがあれば、そこに何でも乗せることができる。
それが本質だからだ。
私は決して純粋な人間ではない。
純粋さのかけらも持ち合わせていないかも知れない。
つい先日、純粋な僧侶にお会いした。
実は僧侶になってから、純粋な僧侶に出会ったことはない。
僧侶意外ではお会いしたことはある。
でも僧侶には出会ってなかった。
でもその方は純粋な方だと感じた。
繊細さを持ち合わせている、強くたくましいと言うわけではない。
もちろん僕の勝手な思い込みかも知れない。
でもそこに純粋さを感じることができた。
仙台市にある「みんなの寺」の副住職天野和公さんだ。
自ら宗教に惹かれる意味を話されていた。
なるほど、そんな思いもあるのかと感じた。
今まであまりそんな感覚を聞いたことがなかった。
もしかすると、浄土真宗で置き忘れられてきた大切な感覚かも知れない。
お寺の運営や葬儀や法事。
それは仏教とはかけ離れたものだ。
でも僧侶にはそれが求められる。
そこに純粋さがなければ、どんなことも意味を持たないのだな。
そんな風に思った。
私もどこまで純粋になれるのかな・・・。
もしそれが叶わなくても、その一片に触れることができたなら、その存在を
知ることはできる。
今回はそんな感じであった。
宿坊光澤寺のホームページはこちら!
それは、どこまで純粋になれるかだ。
もちろん、純粋さはなろうと思っても成れるものじゃない。
それはそうだ、純粋さはその人自身に具わったものかも知れないから。
今、お寺はこれからどうなるかを問われている。
その中で、求められるのは僧侶自身の問題である。
なぜなら、お寺はハコモノでしかない。
そこに、いのちを吹き込むのは人だからだ。
お寺をどうしたらよいか、そんな議論は山ほどある。
みんないろいろ、あの手この手を考える。
檀家が減る、寺離れが進む、葬儀離れが進む。
そんな話題が次から次へと耳に入ってくる。
そして群れるのだ。
改革する方も、保守的な方も、どちらもだ。
群れるのは良い、でも人の真似をしても意味がない。
それぞれの道を歩むのだ。
檀家をつなぎ留めるために何をするか。
しっかりとした葬儀をして、ご遺族の心を癒やしたい。
そんなことが実は改革の中心にあったりする。
こんなことをしても意味がない。
なぜなら、それは仏教とは関係ないからだ。
一体自分は何をしたいのか。
僧侶としてどう生きるのか。
それは実は、純粋さへの挑戦だと思う。
純粋さを求めるなら、そこに檀家だとか宗派など目に入らない。
檀家が目に入るから、それに囚われるのだと思う。
檀家さんはそんなことは求めていないのではないか。
そうであれば、僧侶側の勝手な思い込みである。
純粋さには、そんな囚われた思いなど関係ないんだろう。
お寺が生存を賭けていろいろな手を打つ。
そんな動きが加速する。
でも何をしても、そこに純粋さがなければ、ただの飾りでしかない。
純粋さがあれば、そこに何でも乗せることができる。
それが本質だからだ。
私は決して純粋な人間ではない。
純粋さのかけらも持ち合わせていないかも知れない。
つい先日、純粋な僧侶にお会いした。
実は僧侶になってから、純粋な僧侶に出会ったことはない。
僧侶意外ではお会いしたことはある。
でも僧侶には出会ってなかった。
でもその方は純粋な方だと感じた。
繊細さを持ち合わせている、強くたくましいと言うわけではない。
もちろん僕の勝手な思い込みかも知れない。
でもそこに純粋さを感じることができた。
仙台市にある「みんなの寺」の副住職天野和公さんだ。
自ら宗教に惹かれる意味を話されていた。
なるほど、そんな思いもあるのかと感じた。
今まであまりそんな感覚を聞いたことがなかった。
もしかすると、浄土真宗で置き忘れられてきた大切な感覚かも知れない。
お寺の運営や葬儀や法事。
それは仏教とはかけ離れたものだ。
でも僧侶にはそれが求められる。
そこに純粋さがなければ、どんなことも意味を持たないのだな。
そんな風に思った。
私もどこまで純粋になれるのかな・・・。
もしそれが叶わなくても、その一片に触れることができたなら、その存在を
知ることはできる。
今回はそんな感じであった。
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