宿坊光澤寺日記・・ひとりばなしのつづき。

光澤寺&宿坊光澤寺&やずブータン村。 山里のお寺で繰り広げる「こころのふる里」作りとお寺復興プロジェクトや、宿坊に来られた方々との出会いも語ります。

浄土真宗を学ぶ

悲しみは悲しみによって癒される・・・

悲しみの中にあって、宿坊を訪ねて来られる方もいる。

いろんな悲しみがある。

経典の中にこんな言葉がある・・・

「悲しみはその悲しみを知る人にしか癒せない」

最初にこの言葉に出会ったときは、「そうなのかな」と感じていた。

ただ特に実感はなかった。

それなら、悲しみに打ちひしがれた人が癒されるということが少ない
のではと感じたから。

逆に、その悲しみを知らないと、悲しみの中にいる人を癒せないのか。

今までで感じたことはこんなこと。

宿坊でいろんな話を聞いた。

そこで感じたことは、悲しみはその悲しみ、ということ。
それは、その悲しみを経験したということではないのだと思います。

その悲しみを自分の悲しみとして感じられるということ。

自分の悲しみとして感じられるのなら、聞くことも話すこともそこを基準として
心が作られる。

心が作られたなら、悲しみの話を聞いて他人事とは思わない。

他人事と思わないようにするとか、共感するということではないのです。

その人と同じ感覚、同じ空気感になるということなのだと思います。

共感するということは、そこに意識が働いていると思う。

思考回路が共感モードになっているだけで、その悲しみをやはり他人事と
いう感覚がそこにはある。

大事なのは、その人との空気感なのだろうか。
それはどう説明してよいか分からない。

共感しようとすると、そこにその思考回路が回ってしまう。
それだと、共感モードで話を聞く人にその空気感が出る。

話す側と聞く側になってしまう。
双方向ではなくなっているということ。

やはり、その悲しみを知るということは、双方向の空気感に成れることか
も知れない。

同じ空気感の中にいるから、共感するばかりではなく、こちらからも話し
かけてゆく。
これが実は重要なのではないだろうか?
悲しみの中にいたり悩んでいたり苦しんでいたりすると、自分の心をうまく
表現できないし、出せないことが多いから。

阿弥陀如来の経典にこんなことがある。
「あなたの悲しみを我が悲しみとして、あなたの苦しみを我がくるしみとして」

教義の細かな部分をあれこれというよりも、大乗仏教経典を読み解くとき、
そんなところの意味を感じてみることが大切なのかな。

教義にこだわるのではなく、そこに書いてあることを素直に読み取ることが
教義理解の近道であり、教義を現代社会に生かすことになる。

カウンセリングとか、ターミナルケアとか、もっと経典を生かした方がよいの
かも知れませんね。

特に浄土真宗にはそう思う。
教義を難しく捉え、それを分かりやすくといいながら、有り難い話に置き換え
ようとしている。
正直言って、法座とか回りくどく面倒に感じることが多い。
さらにはその本質が違っているようにも感じる。

他力だからと言って、すべてが有り難く受け身であるというのはおかしい。

でもそれでは、その悲しみにいる人には通じる機会は少ないし、話が回り
くどいし、有り難いだけの話になりやすい。
40代以下の世代には通用しない手法になる。


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Tomorrow is another day! ・・・ から絶対他力まで。

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「風と共に去りぬ」のエンディング。

主人公のスカーレット=オハラが一人語るシーン。
だったように記憶している。

日本語では、「明日は明日の風が吹く」と訳されることが多い。

ただ、ニュアンス的に言うとどうだろうかとも思うのだけど。

たとえば、「明日は明日の風が吹く」という言葉の感じ方では、そこに
あまり自分自身の意志と言うものが感じられない。

もちろん、この言葉自体には、自分の意志を離れたところという感覚、
一つの意味がそこにあるのは分かります。

ただ、「Tomorrow is another day!」という言葉には、そこに強い
意志が感じられるのです。
すべてを受けとめた上での、意志ですね。

自分の力だけではどうしようもないこともある。
それを理解し、自分自身で受け止めながらも、そこに意志を持って生き
るということでしょう。

名画ではあるが、なぜこんな昔の映画のことを書いているかというと、
宿坊に来られた方の学生時代の研究テーマが、「風と共に去りぬ」だっ
たということを聞いたからです。

映画は何度か見た記憶がありますが、鮮明に覚えてはいません。
でもこの言葉は、有名なシーンであり台詞なので、覚えてはいます。

様々なことを経験し体験した中での言葉である。
だからこそ、私はそこに強い意志を感じるのです。

意志の中に、意志を離れたところの流れを受けとめる。

たとえば浄土真宗の教義中で重要なキーワードに「絶対他力」という
ことがあります。

でも宗派の教義では、老いも若きも絶対他力じゃなければ浄土真宗で
はないと言った感があります。
大学生から若い僧侶までが、絶対他力だと説いている。

これってあり得ないですよね、ただの学問上での絶対他力しか語って
いないという事に気づかないのです。
一番始末に負えないという場合もあります。

ご門徒さんまでが、さも当たり前の様に絶対他力と言われる。

絶対他力は教義の真髄です。
その真髄を、さも簡単に当たり前のように語る。
学校の授業程度でしかないのです。

親鸞聖人でさえ、他力の道を選んでからも、相当歳を経たあとでも、
自力の行者的な行為をなさっておられるのです。

過程を省いて結論だけを見て教義の話しをする。

おそらく親鸞聖人のたどり着かれた絶対他力と、宗派で語られる絶対
他力はニュアンスが違うだろうと思っています。

学問的な教義か、自分自身で体験し心の底から湧き上がってくるもの
かの違いです。

絶対他力には、自分自身の心の叫びがなければ、ただの本読みでしか
ないのでしょう。

Tomorrow is another day! と言う言葉を久しぶりに聞いて、こんな
ことが心に浮かんだのです。








次の日曜日は連研の補講を開催します。

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            (第7期連研修了式 私のちょっとした失敗の写真)
今度の日曜日。

連研の補講を開催します。

鳥取因幡組の連研は、毎月一回(最終日曜日)で十二か月連続で
開催しています。
この十二回をワンクールにして、受講時間が本山の規定の36時間
をクリアしていれば終了となります。

その中で受講時間が足りない方、もしくは必修科目を受講されてい
ない方、もう少し講義を聞いてみたい方のために補講を実施してい
ます。

今回の補講は二科目で実施、その中で私はおさらいとして仏教全般
を中心に浄土真宗への流れを講義します。
あまりに大きなテーマですし、講義時間は1時間未満ですから、よほ
どテーマを絞るかサッと流すかのどちらかですね。
私は、テーマを絞ってサッと流すと言う両方のやり方でトライします。

仏教ですから縁起を話さないといけません。
その縁起の本質から、お釈迦さまから阿弥陀如来へと仏教の流れ
えおお話しし、それが浄土教へとつながり親鸞聖人の他力の教え
へとつなげて行きます。

歴史にして1700年、インドから日本へと、背景は壮大ですが話しは
コンパクトにと考えています。

やはり宗教を考える上では、その基盤となっている立ち位置を明確
に知っておく必要があります。
そのことを押さえた上で教義へと入って行った方が良い、そう感じて
います。

今年の7月からは、新しく第8期に入ります。
鳥取因幡組も若い世代の僧侶がいらっしゃるので、そろそろバトン
タッチの時期かなとも思います。

これからも連研が続きますように。



江津組実践運動研修会の講師を!

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先週のある日の朝電話があり、来週の20日に島根県の江津市の
研修会に講師として行ってほしいとの連絡がありました。

もう一週間もないのだが、予定していた講師が都合がどうしてもつか
なくなったとのことで、ピンチヒッターとしてでした。
せっかく私にご連絡をいただいたのだからと、「はい、いいですよ」と
とりあえず返事をした。

研修の内容は西本願寺で推進している「実践運動」についてというこ
とでした。
私は実践運動の推進役をしている訳ではありませんが、私に講師を
ということですから、現在お寺で行っている活動を中心に、お寺が抱え
ている問題にどう取り組んで行くかということを話すしかないと考えた。

前日までに資料を作成し、20日の朝は7時にお寺を出た。
同じ山陰教区とは言え、距離で言えばおそらく250km以上はあるで
しょう。
ただどちらも過疎化と高齢化という同じ問題を抱えていると考えた。

研修会は1時半からでしたが、1時前に会場の寺院に到着。
とても立派なお寺さんです。
今回の研修の参加者は江津組の寺院のご住職の方々だという。
私の様に住職になってまだ3年も経っていない若輩が、諸先輩方へ
お話しするのですから、逆に僧侶として経験の浅い分、自分が僧侶
の道を選ぶきっかけや、お寺で現在活動していること、そしてこれから
お寺が目指していることをそのまま話しました。

70分程度の講義と、休憩をはさんで約1時間くらい感想や質疑応答
となりました。
普段の研修会は、難しい教義や本山からの堅い話しが多いのでしょう。
私の話しは身近であり、新しい取り組みと感じられたのでしょうか、皆さ
ん暖かい雰囲気で聞いてくださいました。

ピンチヒッターと言うこともあって、当初の目的とは少し違う内容になった
と思いますが、感想や質疑応答も次から次へと続きました。
これほど質疑応答の多い研修会もなかった。

お寺としてこれから取り組んで行かなくてはならない、身近な問題が実は
実践運動につながって行くのだと改めて感じたことです。

今回の研修会は、ご門徒さん向けではなく住職の方々へという大変貴重
な経験をさせていただきました。

江津組の諸先輩のご住職方々に深く御礼を申し上げます。
本当にありがとうございました。

会場の寺院の手前に道の駅があります。
その道の駅で情報収集も少しして行きました。
すると、江津市は亡くなられた映画監督の松林宗恵さんのご出身地で、
記念館もあるそうだ。

私が30代のとき、浄土真宗に興味を覚えるきっかけとなったことに、当時
プレジデントという雑誌の対談がありました。
その対談は、松林宗恵さんと当時龍谷大学の学長であった千葉乗隆先生
でした。
千葉先生は作家の五木寛之さんの師でもあります。
その雑誌のそのときの特集は親鸞聖人でした。
五木寛之さんもそのとき文章を載せておられました、その頃より親鸞聖人
に関する本をたくさん出されるのです。
そんな記憶もよみがえり、そのことから今回の研修の話しを始めることが
できました。

その対談の中でお二人が浄土真宗の信心についてお話しされる場所が
あります。
千葉先生は、浄土真宗の信心について、柿が熟す様なものだと仰られて
いました。
柿はいつ熟して甘くなるのかは行く分らない、でも少しづつ少しづつ熟して
行くのだと仰られていた。
松林監督は、ご自分の経験を踏まえて、親鸞聖人の教えはブーメランの
様なものだと譬えられていた。
自分では遠くに遠ざかっているように思えるときもある、でもまたその教え
に戻ってきていたと気づくのだと・・・。

このお二人のお話しは、私の経験を通してみても、なるほどなあと思える
のです。

私もその様な歳になってきたのかなと感じることもあります。

尊いご縁、有り難くも大切にして行きたいと思うことでもあります。

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さあ出発、早朝の光澤寺周辺-3℃、凍てついています。


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三業惑乱とその後・・・、そして尾崎翠「第七官界の彷徨」。

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本願寺派(西本願寺)で江戸時代に教義論争があった。
その論争を「三業惑乱」という。

「三業惑乱」は宗門として厳しい結果となる。
なぜなら、あまりにも混乱をきたしたため、江戸幕府に裁定を仰ぐ
という結果になったのです。

宗派が二つに分かれて大論争を繰り広げた。
本山の学林と、安芸を中心とした学僧によって論争が続き、宗派内
では解決できないほどであった。

裁定の結果は何と、本山側が間違いとされた。
本山側は「三業帰命説」を唱えたが、それは間違いとされる。
人は自らが行う行為、たとえば「心から願い」・「口に出して称え」・
「合掌礼拝する」ということを持って仏に祈願請求すること。
三業に意味をもたせることを説いたのである。

結果、本山側は大打撃を受けるが、勝った方もそれ相応の覚悟が
求められるのです。
喧嘩両成敗的なこととなります、そしてご門主は蟄居閉門となるので
す。
浄土真宗の教義について幕府の介入を許し、そして教義について
裁定を委ね、結果はご門主の蟄居閉門、関係者は自害した僧も多々
いるのです。

今日、連研で訪れた寺院において、江戸時代に三業惑乱に関わった
住職がいらっしゃるのだという、立場としては本山側であった。
惑乱後に許されて本願寺派に戻ることが許されるのだが、その後に
自害をされた。
その思いは幾ばくであったであろうか、遺言書には辞世の句が・・・。
そこには「法を開き 身命を捨てん 云々・・・」とあるそうです。

本願寺派ではその当時惑乱に参加した寺院で、本願寺派から分か
れ独立した寺院が少なからずある、それは現在でもそのままの所が。

この事件以降、本願寺派の教義は非常に厳しく取り締まられる。
つまり安心と異安心を見極めることが、教義において重要なことと
なるのです。
本願寺派の教義は決してその枠を出ることは許されない。

明治期以降、大谷派(東本願寺)では学僧が輩出したが、本願寺派
では有名な学僧は出ていない。
これはこの三業惑乱を契機とした教義のとらえ方によるものでしょう。
こう書くと、本願寺派の教義はガンジガラメと言った感じになるかも
知れませんがそうではない。

実は基本さえ押さえるなら、そこからは親鸞聖人のみ教えをしっかり
聞くことができる、つまり果てしなく広がる世界がある。
逆に大谷派は有力な学僧を輩出したことで、明治期以降のその学説
に縛られることになっているように見受けられなくもない。
でもそれはある学僧の説であって、親鸞聖人のみ教えとは限らない。

本願寺派はあくまでも親鸞聖人のみ教えを聞くことだけに専念する。
つまり『教行信証』に常に聞いて行くのです、そして『浄土三部経』を。
なので途中の有力な学説にあまり左右されることはない。
もちろん本願寺派でも有力な教義の流れはあるが、決してそれだけ
に捉われることはないのです。

そんなふうに感じているのですが、本当はまだよく分かりません。

そんな三業惑乱のお話しをご住職からお伺いした。
でもそのお寺は、なんとあの女流作家として有名な「尾崎翠」さんの
生誕のお寺さんだそうです。

尾崎翠さんは「第七官界彷徨」の著作で知られています。
林芙美子さんとも交流があったと聞く。

やはりそれだけの情念が脈々とこのお寺に受け継がれてきたので
しょう。

「身命を捨てん・・・」

私には到底たどり着くことのできない竟地であるだろう。

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なお、尾崎翠のお墓は、鳥取市内の養源寺というお寺さんにあります。
一度訪れてみてはいかがでしょう。

「第七官界彷徨」を読まれた後に、生誕の地とお墓を訪ねられたら、
また違った風景が見えるかも知れません。

どちらも浄土真宗本願寺派のお寺さんです。












浄土真宗を学ぶ・・Ⅴ.「浄土真宗の宗派ってどうなってる」

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日本の各宗派にはまたそれぞれに宗派が分かれて行きます。

最近では正式に宗派と認められているものから、勝手に名乗るものまで
たくさんあります。
浄土真宗も同じで最近は聞いたことがないものまでたくさん出現している。

一応、浄土真宗では真宗連合という括りがあって、そこでは真宗十派と
なっています。
これらは歴史的に以前より真宗の宗派としての教団があります。
なぜ真宗というかと言えば、浄土真宗と名乗れるのは本願寺派だけしか
ないということに起因しているのでしょう。
それ以外の宗派はすべて真宗ということになります。
最近の新興教団では浄土真宗と名乗るところも出てきていますが・・・。
それで話しをややこしくしていることも少なくありません。

一応真宗十派とは以下の通りです。

浄土真宗本願寺派(西本願寺)
真宗大谷派(東本願寺)
真宗高田派(専修寺)
真宗佛光寺派(佛光寺)
真宗興正寺派(興正寺)
真宗木辺派金織寺派(金織寺)
真宗出雲寺派(毫摂寺)
真宗誠照寺派(誠照寺)
真宗三門徒派(専照寺)
真宗山元派(證誠寺)

この通りになります、これらの宗派は歴史を重ね今に続いています。
これ以外の宗派は、近年にできた宗派で新興の浄土真宗の宗派という
ことになるかも知れません。

これらの宗派の背景には様々な要因があります。

先ずは、親鸞聖人からの血縁での相続と、教えである法縁による相続。
血縁はというと、西本願寺と東本願寺になります。
法縁は親鸞聖人は布教された関東の弟子の流れを汲むと言うことに
なります。
実は本願寺も設立当時は勢力は弱く、関東の弟子の流れを汲む宗派
の方の勢力が元々は圧倒していました。
ですから親鸞聖人の真蹟の書なども法縁の方に宗派に残っていること
も多いのです。
法縁の宗派は、何と言っても高田派の専修寺で、現在は三重県ですが
元々は関東にありました。親鸞聖人の門弟である真仏の元に興った
高田門徒の中心寺院です。
あと同じ高田派を源流としその京都の布教の中心となっていたのが、
佛光寺派です。京都では本願寺など足許にも及ばないくらい隆盛を誇
っていたと言われています。
西本願寺の隣にある興正寺も高田派の流れを汲みます、途中本願寺
に転じ江戸時代までは西本願寺の筆頭寺院でしたが、明治以降再度
独立をしています。
この興正寺には本願寺の血縁も入っています、四国の香川県において
は一番浄土真宗の中で勢力が強いですね。
他に他宗から縁あって転じたりするなどいろいろな形で浄土真宗の各
宗派を形成し本山となっています。

すべての宗派において共通するのは、親鸞聖人のみ教えを聞く教団で
あると言うことです。それ以外は別のことが多い、たとえば本願寺では
八代目蓮如上人は中興の祖として厚く敬われていますが、他宗派では
逆に自分たちの末寺を本願寺に奪っていった人物との評価になります。
ですからこれらの宗派では、蓮如上人の御文章を唱えることなどありま
せんね。
作法やお経の唱え方、仏壇の飾りなども違ってきます。

因みに三門徒派は、親鸞聖人の和讃を大切に称えたので「讃門徒」と
呼ばれたことで宗派名になったとも言われています。

もちろん教団連合だからと言ってすべて仲が良いと言うことはありません。
そしてほとんど教団同士の連携もありません、皆それぞれ。
ただ最近は若手を中心にそれぞれ真宗の宗派を超えて連携することも
出来てきたような感じもします。

また、大学は本願寺派の龍谷大学と、東本願寺の大谷大学が教学の
中心であったり、勤式作法は西本願寺の中央仏教学院が中心ですので、
他宗派の方もそこに学ぶことが多いということも要因かもしれませんね。

ここ以外の真宗系の宗派は近年にできた教団です。
たとえば元々大谷派の東京の拠点だった浅草本願寺が大谷派から
お家騒動で昭和57年に独立した東本願寺派があります。

また最近では北本願寺派とかという名前をネットで見ますし、それ以外
にもいろんな名称を目にする様になりました。

あと有名なところでは、浄土真宗親鸞会という組織もあります。
ネットで親鸞聖人のことや浄土真宗の教えを検索すると、こちらのサイト
に行くことが多いので、その点では新しい教団らしい布教方法にに力を
入れているのかも知れません。

いろんな解釈があって、浄土真宗は活性化して行くのかも知れませんね。
動きのない宗派は逆に誰にもその教えが伝わらないと言うことにもなり
ますから。

親鸞聖人は多くの書物を著されておられ、その教義の解釈を細かく説か
かれていますが、時代の流れやそれを解釈する上でそれぞれの都合で
解釈してしまうこともあります。
また念仏が弾圧されたり、江戸時代は真宗が禁制だった藩などもあって
それぞれ真宗の教えを伝えて行く上で、いろんな解釈が出てきたことも
否めないと思います。
また近年では、本山の運営など保守的だったり高圧的だったり押し付け
的であったことが明治から戦中、そして戦後にあったので、それに反発
する寺院や僧侶がいたこともあったと思います。

本願寺が親鸞聖人のみ教えの中心と言うことはありません。
それぞれにその思いがあることでしょう。
ただ、最近は西本願寺の龍谷学園グループの力や影響力が大きくなって
いますから、教義研究から大きく仏教研究までが日本仏教研究の中心的
存在になりつつあるのも事実です。
奈良にある歴史的な大寺院の僧侶も龍谷大学で仏教学を学ぶことが現在
では普通になったりしています。
特に私が感じるのは龍谷大学は保守的ではありますが仏教研究ではと
てもリベラルな感じを受けます、大谷探検隊を出したような校風が今の
時代にも息づいているのでしょうか。
念仏弾圧の頃からみると考えられなかったことでしょう。

これらからも、仏教も時代とともに移り変わって行くのではないかと改めて
感じます、それも諸行無常ですね。




浄土真宗を学ぶ・・・Ⅳ.「浄土宗と浄土真宗の違い」

浄土宗の開祖は法然上人です。

親鸞聖人の師であるのですが、ではなぜ浄土宗と浄土真宗とに宗派が
別れたのかという疑問が残るという方もいらっしゃるのでは。

では浄土宗と浄土真宗とは教えが違うのかということを考えてみる。

基本は同じでしょう、なぜなら浄土真宗の元々の意味は法然上人の
み教えを正しく伝えるという意味が込められているのですから。

では今も同じかと言うと、それは違います。
なぜなら現在の浄土宗には法然上人が生きておられないからです。
これって当たり前ですね、浄土真宗だってそうです親鸞聖人は生きて
おられない。
だから宗派が分裂して行くのだろうと思います。

仏教そのものだってそう、お釈迦様が生きておられない。
なので仏教の宗派は分かれて行くのです。

開祖が生きていたなら、教えや戒律のことは開祖に聞くことができる。
でも亡くなられたらもう聞くことはできない。
そして時代背景も変わってくる、お釈迦様の時代の生活に貨幣はまだ
流通していなかった、でも後の世には貨幣経済が出来上がってくる。
貨幣のことはお釈迦様の教えでは判断できないこともあるでしょう。

また教団が成立するとその運営をして行かなくてはならない。
教団の成立と開祖の死によって宗派は分裂して行かざるを得ない面
があります。
教えの解釈の仕方、時代背景の推移、教団の運営は教義とは違う面
が必ず出てくる。

浄土宗の場合もそうですね。
法然上人が存命であれば問題はない、でも亡くなると誰がその後を
継ぐのかということになる。
先ずは教えで分かれる、そして弟子の間の勢力争いで分かれる。
そこに政治も絡む。

法然上人とともに流罪になっていた親鸞聖人はそこにいない。
そして仮にいたとしても、兄弟子が多く新参者であった親鸞聖人は
その中心ではなかったでしょう。

当時の日本の仏教会では革新的な発想であり、旧仏教会から弾圧
もされていた宗派です。
先ずはその教えを正確に理解できる弟子は少なかった。
正確に理解していれば逆に煙たい存在でもあったでしょうから、遠ざ
けられざるを得ない。
法然上人亡きあとは勢い権力側にすり寄って行った、その反動で
教義は変わって行く。
浄土宗の主流派は、法然上人の教えからは離れて行くと言う現実が
あったのでは、民衆を救うはずの教えが権力側に近づいて行く以上
はそうならざるを得ない。
教義はそれでも自己完結しなくてはならないので、展開力はなくなら
ざるを得ませんね。
だから「悪人正機」は元々法然上人の教えだとかいう人も出てくるの
でしょう、そんなことは大した問題ではないのに。
教義を押さえているなら・・・。
別に親鸞聖人の専売特許などと誰も言っていないはずです。

法然門下では遠く越後に流罪となっていて京にいなく、アウトサイダー
でもあった親鸞聖人はまったく蚊帳の外にあったのでしょう。
逆に蚊帳の外であっただけにその教義はまっすぐでもあったのです。
あくまでもその視線は庶民を向いていました。

ただ法然上人の教えだけは守らなくてはならない。
念仏に込めたその思いを伝えて行かなくてはならないという使命感は
人一倍強かったのではないか。
なぜなら親鸞聖人は自らの意志で他力の道に入ったからです。
この点は他の弟子と大きな違いとなります、師によって教えを聞いて
いただけでは当時の僧侶が純粋に他力の道に入ることは極めて困難
であったことでしょう。
とにかくそれほど革新的な教えであったのです。

仏教は先ず自力であることが前提であったところに、他力の思想を
を説いていったのですから。
そこには、お釈迦様が「すべての人々の心を安んずる」と宣言された
通り、阿弥陀如来の本願の対象である「十方衆生」への教えが開示
されたという重要な意味があるのです。
親鸞聖人は最後まで十方衆生ということを目指されている。

結果的に後世で宗派が分かれて行くことは必然であったことでしょう。

どちらの教えが良いとか悪いとかと言うことではありません。
それぞれの考え方や教えがあり、それぞれの教団運営があります。
そういう本願寺教団でもその歴史の中では、権力にすり寄り、そして
戦争に加担してきた歴史もあります。

その本分は教団を残すことが最優先であったと言うことでしょう。

教義と教団運営と勢力争いという視点で見て行くことが、それぞれの
宗派を見て行くとき見落としてはいけないことなのでしょう。

一度分れた宗派がまた一緒になると言うことはない。
どちらかの勢力が弱まり存続できなくなるかどうかということになれ
ば分りませんが。

これはキリスト教でも言えることです、決して教義の本流が正統な
継承者とはなっていないと言うことです。
そのときの勢力争いに勝ったものが正統な継承者となるのです。
それはときに政治的背景によっても左右されます。
ローマ帝国の国教となって行った中で変遷してきた歴史があります。
権力者の都合も重要な要素ですし、それは格好の隠れ蓑になる。

現在は、教団の規模や集金力が強ければ発言力が増す。
これは寺院も同じ、檀家数が多く資金力のある寺院が有力寺院と
なるのは必然。

さてこの時代、いったい僧侶は何処を目指して歩むのか。
それぞれの僧侶に課せられた命題でもあるでしょう。

私の道は見えているようでまだ見えてはいない。
迷いの中にあります。

お釈迦様や親鸞聖人がたどられた竟地は果てしなく遠い。



浄土真宗を学ぶ・・・Ⅲ. 「大乗の至極」

真宗教証興片州

これは親鸞聖人が書かれた「正信偈」の一節。

浄土真宗の教証、つまりその教えと悟りの道が興された。
お釈迦様が説かれたインドから遠くそして長い時を経て、アジア
の片隅で。

浄土真宗は「大乗の至極」とも表現されます。
大乗仏教における最終到達地点なのです。

それはなぜか?

お釈迦様が追い求め、親鸞聖人がたどり着いた教え。
「すべての人々の心を安んずる」こと。

それが浄土真宗のみ教えによって顕かにされる。

自力では限界があり、たどり着くことができない竟地。
それを他力によって超えて行くことができる。

そんな教えが浄土真宗です。

つまり自力と他力の境を超えて行くこと。

心を解き放ってゆくこと。

生死の迷いを超える。

そんな感じでしょうか。

この浄土真宗を学ぶシリーズを読んで行かれると、あなたも
そんな竟地に至ることができるでしょう、きっと。


浄土真宗を学ぶ ・・・ Ⅱ.「なぜ宗派が分れるのか」

日本の仏教は宗派が分れすぎていてよく分からない。

そんな話しを聞いたことがあります。

みんなお釈迦様の教えなのになぜ分れるのでしょうか。

実はこれ仏教に限ったことではないのですよ。
キリスト教も数限りなく分派しています、あまり知らないとキリスト教は
一つの教えだけかと思っている方がいるかも知れません。
でも大きく分けると、カソリック・プロテスタント・正教に分かれていて、
それぞれがまた多くの派に分かれていますよ。
その教義はとても同じ宗教とは思えないくらい違います。
でも仏教にも似た様な面がありますね。

日本の場合、戦後は宗派を自由に名乗れる様になったので、真言宗
系などはどれだけあるのかさえ今は分りませんね。

昔は宗派を名乗るには教相判釈といって条件を満たしたうえで承認を
得なくてはなりませんでした。

明治になるまで、仏教において最大勢力であった本願寺勢力は、宗派
を名乗ることができなかったのです。
まあこれには本家を自認する浄土宗の増上寺などの妨害があったせい
だったりしますが、旧仏教界からは浄土真宗は目障りだったのでしょう。

明治になってやっと浄土真宗と言う宗派名を名乗ることが出来ます。
ただ正式には本願寺派(西本願寺)のみが浄土真宗と名乗ることがで
きるのです。
他の浄土真宗系の正式名称を見ると分かると思いますが、他はほとん
どが真宗〇〇派となっていると思います。
これは本家だからという意味合いよりも、申請をいち早く出したという
ことの様です。
長州藩を支援していて明治政府と懇意だった政治力のなせるところ。
大谷派(東本願寺)は江戸幕府寄りでした。

浄土真宗の名前は、親鸞聖人の書かれた「教行信証」という書物に
「真実の教 浄土真宗」とあります。
意味合いは、浄土の教えを正統に解釈すると言うことだと思います。
つまり法然上人の浄土教の正しい教えを受け継ぐと言う意志が読み
とれます。

直接は言いませんが、浄土宗を受け継いだ他の兄弟子たちの宗派は
法然上人の教えを正統には受け継いでいない。
つまり浄土の教えの中心である他力の理解ができていないと考えてお
られたのではないでしょうか。

この点から、親鸞聖人は新しい宗派を立ち上げるために浄土真宗と
言う名を使っているのではないと言うことです。
あくまでも法然上人の教えを正しく伝えるという意味で浄土真宗と言っ
ておられるのだと言うことです。

ただ時代を経て、本願寺と言う教団も仏教では最大勢力となった。
キリスト教の布教も本願寺の前には無力でもありました。

やはり独立した宗派でありたいという願いは強くなっていったでしょう。
独立した宗派でなければ制約を受けることも多々あります。
一つには本願寺住職になるには天台宗の青蓮院で得度しなくてはな
ならなかったりとか。
自分たちですべて自由にできると言う訳ではなかったのだろうと思い
ます、もちろん莫大な寄進も要求されたことでしょう。

宗派が分れるということは釈尊がいらっしゃらなくなって、その教えの
解釈が分かれて行ったことに依ります、また弟子たちの勢力争いも
もちろんある。
東西本願寺の場合は、相続争いに乗じて徳川家の政略があったと
言うことです。

ですから分れた宗派がまた一つになると言うことは難しいですね。
元は同じでも教団組織が別にあり、教義も解釈が違ってきたりして
います。

ただ仏教である限りは目指すところは同じでなければならない。
世界遺産になった富士山の頂上は一か所です、でも登山ルートは
分かれているような感じでしょうか。

最後は、「さとり」を得て仏となることが仏教の目的であるということ
です。

ブッダにはなり得ない人間という存在がある限り、教団や教義が
分れて行くのは仕方ないことなのでしょう。
もう確かめる人がいなければ、それは違うと指摘できる人がいない
のですから。




浄土真宗を学ぶ ・・・ Ⅰ. 「最初に」

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浄土真宗を初めて学ぼうとしている方へ。

もしくは自分の家は浄土真宗だけど、何も知らないという方へ。

そんな方々のために、浄土真宗をやさしくそして分かりやすく解説
してみたいと思う。


日本に伝わった仏教は、インドからアフガニスタンやイラン周辺を
経由して、シルクロードという中央アジアから中国、そして朝鮮半島
へと伝えられた大乗仏教と言われる仏教です。

インドでお釈迦様が教えを説いたのは、今から2500年くらい前の
こと。
それが中国や朝鮮半島を経由して日本に伝わったのは今からおよ
そ1500年くらい前になります。
インドから日本に伝わるまでに約千年の時間を要しているのです。

その間にパレスチナの地では、キリスト教が生まれています、そして
アラビア半島にイスラームが誕生する約百年前、日本に仏教が伝え
られた。

大乗仏教が中国に伝えられる二百年前くらいには、仏教はスリランカ
へと伝えられている。
これは昔、日本で小乗仏教と言われた仏教のことです。
実際には、上座部仏教、長老派、テーラワーダ仏教と言われたりし
ます。
どちらかと言えば、こちらの仏教の方がお釈迦様のスタイルに近い
とも言われていて、世界的に仏教と言えば、こちらの仏教のことを
言います。
大乗仏教は決して仏教の本流ではないと言うことも理解しておいて
も良いかも知れません。

では大乗は仏教ではないのか、ということです。
よく大乗仏教の経典は、お釈迦様が説いた教えではないと言われる
事があります。
なぜならお釈迦様が入滅されて数百年後に成立した経典だからと
いうことが根拠の様です。

そんなことあらためて言わなくても分りきったことです。
上座部の経典でさえ、本当にお釈迦様が説いたお経かと言うと、誰
も証明できないのです。
そして上座部も大乗経典の影響を受けて言うと言われるのも事実
です。

要は、お釈迦様の滅したあとに、誰がその教えをどのように聞いたか。
そしてそれをどのように伝えて行ったのか。
それを私たちは伺って行くのです。

そこに、どれだけの人々の思いがあり、どれだけの時間を経て、そし
てどれだけの国や民族を経て、その教えに私たちが出遇うことがで
きたのか。

そのことを聞いて行くことが大切なのです。
どれが正しくどれが正しくない、と言うことではありません。

私が仏の教えをどう聞かせていただくかが、最も大切なことであると
私は考えます。

そして、浄土真宗を学ぶものとして、宗祖である親鸞聖人のみ教え
を聞きながら、その教えに近づいて行きたいと考えます。





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