いろんな悲しみがある。
経典の中にこんな言葉がある・・・
「悲しみはその悲しみを知る人にしか癒せない」
最初にこの言葉に出会ったときは、「そうなのかな」と感じていた。
ただ特に実感はなかった。
それなら、悲しみに打ちひしがれた人が癒されるということが少ない
のではと感じたから。
逆に、その悲しみを知らないと、悲しみの中にいる人を癒せないのか。
今までで感じたことはこんなこと。
宿坊でいろんな話を聞いた。
そこで感じたことは、悲しみはその悲しみ、ということ。
それは、その悲しみを経験したということではないのだと思います。
その悲しみを自分の悲しみとして感じられるということ。
自分の悲しみとして感じられるのなら、聞くことも話すこともそこを基準として
心が作られる。
心が作られたなら、悲しみの話を聞いて他人事とは思わない。
他人事と思わないようにするとか、共感するということではないのです。
その人と同じ感覚、同じ空気感になるということなのだと思います。
共感するということは、そこに意識が働いていると思う。
思考回路が共感モードになっているだけで、その悲しみをやはり他人事と
いう感覚がそこにはある。
大事なのは、その人との空気感なのだろうか。
それはどう説明してよいか分からない。
共感しようとすると、そこにその思考回路が回ってしまう。
それだと、共感モードで話を聞く人にその空気感が出る。
話す側と聞く側になってしまう。
双方向ではなくなっているということ。
やはり、その悲しみを知るということは、双方向の空気感に成れることか
も知れない。
同じ空気感の中にいるから、共感するばかりではなく、こちらからも話し
かけてゆく。
これが実は重要なのではないだろうか?
悲しみの中にいたり悩んでいたり苦しんでいたりすると、自分の心をうまく
表現できないし、出せないことが多いから。
阿弥陀如来の経典にこんなことがある。
「あなたの悲しみを我が悲しみとして、あなたの苦しみを我がくるしみとして」
教義の細かな部分をあれこれというよりも、大乗仏教経典を読み解くとき、
そんなところの意味を感じてみることが大切なのかな。
教義にこだわるのではなく、そこに書いてあることを素直に読み取ることが
教義理解の近道であり、教義を現代社会に生かすことになる。
カウンセリングとか、ターミナルケアとか、もっと経典を生かした方がよいの
かも知れませんね。
特に浄土真宗にはそう思う。
教義を難しく捉え、それを分かりやすくといいながら、有り難い話に置き換え
ようとしている。
正直言って、法座とか回りくどく面倒に感じることが多い。
さらにはその本質が違っているようにも感じる。
他力だからと言って、すべてが有り難く受け身であるというのはおかしい。
でもそれでは、その悲しみにいる人には通じる機会は少ないし、話が回り
くどいし、有り難いだけの話になりやすい。
40代以下の世代には通用しない手法になる。
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