宿坊光澤寺日記・・ひとりばなしのつづき。

光澤寺&宿坊光澤寺&やずブータン村。 山里のお寺で繰り広げる「こころのふる里」作りとお寺復興プロジェクトや、宿坊に来られた方々との出会いも語ります。

仏教

さぬきの庄松さんの百五十回忌に出勤いたしました!

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香川県東かがわ市。

そこに浄土真宗の寺院がある。
勝覚寺さんという、妙好人さぬきの庄松さんゆかりの寺である。

私は昨年12月、報恩講法要の法座に出させていただいたご縁がありました。

今回私は日帰りでこのお寺にお参りしました。
その庄松さんの150年忌法要に出るためでした。

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今回は法座ではなく内陣出勤となります。

お寺は大きく檀家数も多いと聞いています。
本堂の修繕や境内地の整備が必要だそうですが、歴史と伝統のあるお寺さん
だから、きっとご住職が頑張られるのだろうと感じます。

法座のご講師は龍谷大学教授の貴島先生でした。
私と若い住職は、中央仏教学院で同級生だったご縁です。
もちろん歳は大きく違います。

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卒業からすでに15年が経とうとしている。

みんな同じく年を取ったのです。
時間は止まることはない。

この時期だけあって、交通機関はどれも空いていました。
そういった面では移動はしやすかった。
ただ、3月は移動の多い時期でしょう、経済は厳しいと思います。

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このままだと日本経済全体が沈んでしまう。
元に戻るかどうかは分かりませんが、早く復活してほしいものだと感じます。

それと同時に、お寺も復興してゆかなくてはいけません。







NHK文化センター鳥取教室、2020年春も講座が続きます。

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2020年春のNHK文化センター鳥取教室の案内が送られてきました。

2018年から続いているNHK文化センターの講座。
2020年春も引き続き担当させていただきます。

現在は毎月一回の「正信偈講座」。

そしてもう一つ、二回セットの「マインドフルネス講座」も今回設定されています。

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最近は仏教講座も人気があるのでしょうか?

私の担当する講座も人気の講座の様で、申込みもコンスタントにあります。

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もしご都合が合えば、参加して見られたらどうでしょうか?

宿坊でも日帰り体験しているので、両方で楽しむことが出来ます。



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「宿坊仏教リトリート2」二日目はこんな感じ!

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「宿坊仏教リトリート2」

二日目は朝7時からの勤行から始まります。

先ずは皆さんに焼香してもらう。
そして読経、今回は「仏説阿弥陀経」です。

その後は瞑想。
この日は、歩く瞑想を体験していただきます。

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お勤めの後は朝食。

仏教リトリートは朝粥御膳にしています。
精進ではなく、普通に朝粥。
そしてコーヒー。

その後はゆっくりと準備。
散策したり、のんびりしたり。

そのあとは朝ヨガ。

マイさんのヨガがゆっくり進んで行きます。

そして最後は参加者全員で、話の会。

小粥嬢が進行役です。
今回は、小粥の復活降臨がテーマ。

元気な小粥に会えて、皆さん幸せだったことでしょう。

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また次回は7月に開催します。
ぜひご参加下さいませ。

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小粥ここに復活降臨!

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栃木からお寺に戻った。

お寺には小粥嬢がすでに来ていた。
小粥復活降臨です。

昨年7月、「宿坊仏教リトリート」を開催した。
そのとき彼女は、肺に大きな腫瘍があると診断されていました。
それでもリトリートに参加し、そのあとそのまま実家近くで闘病に入る。
抗がん剤治療だった。

肺の腫瘍ではなかったが、悪性リンパ腫だった。

でも僕は信じていた。
おそらく復活するだろうと。
なぜって、光澤寺本堂の曼荼羅を描いた本人なのだから。

なので実家のある宮崎までは見舞いに行かなかった。

そして12月にメールが入った。
「仏教リトリートを開催しましょう!」とあった。
1月には完全復活する。

そして2月15日、お釈迦様の入滅の日にリトリートを開催する。
そのメインホストが小粥である。

小粥復活降臨です。

やけに凜々しい。

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宿坊仏教リトリート2/小粥復活降臨 開催です!

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2020年2月15日、宿坊光澤寺で仏教リトリートを開催します。

「宿坊仏教リトリート2/小粥復活降臨」です。

昨年7月に初めて開催した仏教リトリート。
仏教リトリートは全国でもあまり例がない。

実は、かなり先進的な取組みなのです。

仏教ワークショップの他にヨガや死と再生のワークショップなどもあります。

第一回目を開催するとき、リトリートの提唱者でもある小粥に異変があった。
開催日前日の検診で、肺に大きな腫瘍が見つかったのです。

リトリートが終了すると、実家に戻りガン治療が始まった。

そして1月、小粥よりメッセージが入る。

「住職、リトリートやりましょう!」

ということで、2回目を開催することになりました。

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ご参加いただく方は、2月15日午後1時~2時受付。
2時スタートになります。

どうぞ光澤寺びご集合下さい。

尚、既に定員いっぱいなので、申込みは受け付けておりません。
3回目も開催しますので、ご案内をお待ち下さい。


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カルマ・プンツォ博士の講演が鳥取で聴ける!

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鳥取環境大学の浅川研究室から案内が届きました。

2月11日、ブータンのカルマ・プンツォ博士の講演があるフォーラムの案内。

「ブータンの歴史」で有名な博士です。

さらに通訳はチベット仏教の研究家で有名な今枝先生です。

テーマは、「ブータン仏教からみた人間の幸せ」
Human wellbeing from the view of Bhutan bhuddhism

ブータンおよびチベット仏教の研究では欠かせないお二人の講演です。

鳥取でこんな講演が聴けるとは素晴らしいことです。

聴講は無料ですが40人限定とのこと。
ご希望の方はお早めにお申込みされた方が良さそうです。

もちろん私は申し込んでいます。



なぜ、小粥復活降臨なのか・・・、いのちのステージ。

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2020年2月15日、「光澤寺仏教リトリート2」を開催する。

今回のテーマは、~小粥復活降臨~ です。

最初の仏教リトリートは、7月に開催した。
仏教リトリートをやりたいと言ったのは、小粥だった。
小粥は光澤寺本堂のマンダラを描いた、放浪の仏画師です。

その開催前日の金曜日、小粥から電話があった。
「住職大変なことになりました・・・」
なんだろうかと思ってると、「実は昨日病院で検査をしたら、肺に大きな腫瘍
が発見されました。」
すぐに実家に戻って手術をする必要があるという。

「私は明日行った方が良いでしょうか?」、という電話だった。

私は「もし来なかったら、もう二度と会えへんかも知れん」と伝えた。
小粥は「では明日行きます」と応えた。
それで第一回目の仏教リトリートは小粥も参加して無事に開催することができた。

その後、小粥は実家の近くの病院に入り、すぐに抗がん剤治療が始まった。
それは小粥のブログを読めば様子が分かります。
頭は本当に尼僧になった様だ。

もし最後になるなら会いに行こうと思っていた。
でも光澤寺マンダラのパワーがあれば大丈夫だろうとも、本気で思っていた。
どうも行かなくて良さそうだ・・・。

そしてつい先日、小粥からメールが入った。

「住職、2月に仏教リトリートを開催しましょう!」

2月の厳寒の寺でやるか・・・。
でも小粥からのリクエストだ、「じゃあ2月15日にしよう」と応えた。
2月15日はお釈迦様が亡くなられた日だ、釈迦入滅である。
その日がいい。

そして小粥が復活し光澤寺に降臨するのだ。

まさか小粥は弥勒菩薩ではないだろうな・・・。
釈迦はインドに実在した方であるが、大乗仏教で言う釈迦如来は遠い昔に仏と
なった存在で、実在したお釈迦様とは別なのです。
つまり阿弥陀如来と同じ感覚。

もしかすると釈迦如来となられて、56億7800万年経ったのかも知れない。
そんなことを思った。

これは復活降臨だな・・・。

そんなことよりも、小粥が無事に光澤寺に戻ってこれることがうれしい。

彼女にとって今回のことは必要なことだったのだろう。
彼女のいのちのステージを上げて行くために。

今回のことで彼女自身が深まっていったのが分かる。
そのために通るべき道だった。

来年の5月か6月頃、「東京仏教リトリート」を開催したいと思っている。
第一回と第二回は、その準備を兼ねている。
第二回は相当深めることができるだろう。

弥勒菩薩になった小粥に会える。
まさに空海になったようだ・・・。

※2月15日~16日の「光澤寺仏教リトリート2」は、すでに定員となり
ました。


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人生を問う・・・、本堂深夜バーで。

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ご夫婦が宿坊に来られました。

砂丘に寄った後、夕方に宿坊に入りますと連絡がありました。
予約も直近で入ったので、鳥取観光のついでに寄られるのかなと思った。

宿坊光澤寺は、ここを目的に来られる方が多い。
観光途中で寄られる方は少ないのです。
ただ観光であれば鳥取市内のホテルや温泉旅館に泊まられるだろう。
山間のお寺に泊まられると言うことは、何かがあるのだろうと思います。

夕方に入られて、コタツでお話をする。
その後は夕食とお風呂です。

「本堂深夜バー」には行かれますか?
とお伺いすると、「はい、お願いします」とのこと。

お風呂から上がられるのを待って、本堂に準備をします。
準備と言っても、照明を点けてテーブルと椅子を用意するだけ。
本堂はそのままで十分に雰囲気は出ます。

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最近はちょっと冷え込んで来たので、ストーブも出している。

お二人といろいろとお話ししていると、仏教にとても詳しいことが分かる。
ご主人は会社員をされていたとき、高野山大学の大学院で学ばれたという。
特にチベット仏教にはとても詳しい。

「なぜ仏教に興味があるのですか?」と聞く。

おそらくそれは人生の問い、生きると言うことなのではないかと感じました。

そして「南無阿弥陀仏」の意味をと言うことでもあると言われた。
ご自身の家は浄土真宗であるという。

「南無阿弥陀仏」の意味、これを教義で語ることしかできないのが、浄土真宗
の僧侶であるだろう。
もしかすると教義でも語れない僧侶も半分以上だと思う。
実際に僧侶は仏教や宗派の教義をそれほど知っていないのが現実。
それほどは勉強していないのだ。
さらには社会経験が乏しいので、協議の枠から出られない。

この様な実践の問いには答えるべくもない。

実際に、いろんな宗派のお寺で話しを聞いたが、皆教義レベルの話しまでだった
と言われていた。

以前にも「悟り」の感覚を聞きたくて日本中のお寺を回った方が来られたことが
あります。
でもどんなに有名な僧侶も、応えてはくれなかったと。

もちろん仏教的な感覚は非常に難しい。
でも自分でどう感じているかということが大切なのです。
紋切り型の話しでは、それに応えることはできない。

ましてや日本の宗派ではなく、釈尊の仏教やチベット仏教については、ほとんど
知らないのが日本の僧侶です。

枠の中だけの仏教では、これからの社会では通用しなくなるでしょう。

葬儀や先祖供養だけの寺の存在意義はなくなるからです。



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仏教と人権

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お寺を出て鳥取県を西に進む。

その途中に北条バイパスがある。
そこを走行するとき、空に一筋の雲が見えた。
それも短い一筋、その雲が虹色に光っていた。
一瞬、雲ではないように感じたが、やはり雲だった。

夕陽の時間、ちょっと不思議な光景だった。
きっと良いことがあるんだな・・・。
そんなふうに感じられた。

この日は琴浦町にある赤碕文化センターでの講演に向かっていた。
テーマは「仏教と人権」です。

この講演は、元々は違う講師だったが、都合が悪くなったとのことで、私に
ピンチヒッターでした。

ただ私が思うに、「仏教と人権」というテーマでまともに話せる人はあまり
いないのではないかと思う。
どこかに偏っていたり、仏教の本質を知らないで日本の仏教観で話すから。

日本の仏教観と言っても、それも宗派色が強いので、本当の仏教と人権にな
らないのです。
だから、まともにこのテーマで話せる僧侶は鳥取にはいないでしょう。

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琴浦町までは、お寺から約1時間半。

開始は夜の7時半、終了は9時です。
そしてテーマは仏教と人権。
ここで誰も退屈させずに話すことが一番大切、でも内容が伴わなくては意味が
ない。

難しいテーマをかんたんに話し、興味を持ってもらう。
さらには眠くならない話をすること。

内容はポイントだけを決めておいて、そのときの感覚によって話をします。
型にはまると面白くないし、聞き手によってそのときの雰囲気が変わるから。

この日は、日本海新聞でイベントの紹介記事が載った日。
会場にはその記事を読まれた人もチラホラと、いらっしゃった様です。

皆さんはとても真剣に、でも笑いながら聞いておられたと思います。

何とかお役目を終えて、真っ暗になった山陰道を無事に帰りました。

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しかし、あっという間に日が暮れるのが早くなりました。

ちょっと寂しい気分です。










Bhutan Festival 2019 のスケジュールです!

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Bhutan Festival 2019 in Koutakuji - Japan

10月12日~14日の3日間開催します。

イベントは3日間とも13:30スタート。

マンダラ製作の見学会やブータン僧侶による読経。
ウェルカムコンサートも開催します。

《10月12日(土)》・・・終日入場無料・申込み不要

13:30~ 
◇マンダラ製作スタート
◇ブータン僧侶による読経
14:00~
◇スコティッシュダンス倶楽部による歓迎ダンス

14:30~16:30
ウェルカムコンサート
◇大須賀ひできコンサート
大須賀ひでき(デューク・エイセス トップテナー)
   & 玉木孝治(ギター)+玉木孝治(パーカッション)

《10月13日(日)》・・・入場無料・申込み不要(「ブータン料理の夕べ」は有料です)

13:30~
◇マンダラ製作見学
◇ブータン僧侶による読経

14:00~16:00
◇ブータントークⅠ ~ブータンと日本の交流を通じて~「ブータンと日本、本当の幸せとは」
メインゲスト:松山大耕師(妙心寺退蔵院副住職)
ゲスト:プリンセス・中尾和則氏 進行:光澤寺住職

17:00~20:00
◇「ブータン料理の夕べ」
ブータン料理人によるブータン料理を楽しむ。
農家レストランのビュッフェスタイルで、ゲストや参加者の懇親を深める。

参加費:5,000円/お一人 要予約(当日の受付は致しません)
お申込みは、☎️0858-84-1650 ✉️ koutakuji.jushoku@gmail.com
HP:宿坊光澤寺の「contact」から、facebookのメッセンジャーでも受け付けています。

《10月14日(祝)》・・・終日入場無料・申込み不要
13:30~
◇マンダラ製作見学
◇ブータン僧侶による読経

14:00~16:00
◇ブータントークⅡ ~仏教って面白い~「ブータンと日本、未来の仏教!」
メインゲスト:松本紹圭氏(未来の住職塾塾長)
ゲスト:プリンセス・中尾和則氏 進行:光澤寺住職


皆様のご来場を楽しみにしております。













ドイツから二人の若者が仏教体験に来た!

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ドイツ人の二人が宿坊にやって来ました!

「いろいろと仏教体験をしたい」というのが、日本の代理人の方からのリク
エストでした。
希望の日程が上手く合わず、一泊二日の旅程となりました。

お二人の実家は、ドイツ南東部にあるニュルンベルグの近くだという。
バイエルン州北部と言った感じでしょうか?
僕はドイツに行ったことがないので、イメージは余り浮かばない。

宿坊に来られてから、いろいろと話が続いた。
話の中心は、仏教と瞑想のこと。
かなり深く考えているのが分かる。

日本の方と仏教について、そこまで深く話をすることは少ないのです。
やはりヨーロッパでは仏教の人気が高まっているのが分かる。

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彼らはお経も唱えたいという。
さらに作法は真面目である。
よほど仏教徒らしいのだ。

彼らに宗教を聞くと、「今は決めていない」という返事だ。
実はこれ、宿坊に来られたキリスト教圏の若者に聞くと、この答えが本当に
多いのです。
ヨーロッパでは予想以上にキリスト教離れが進んでいるのかも知れない。

ドイツは元々神聖ローマ帝国であり、さらには宗教改革にも熱心な国でした。
国内はカソリックとプロテスタントの勢力は拮抗しているという。
そのドイツでもそうなのだ・・・。

そんな中で、仏教が注目を集めているのはそうだろう。
その中心は、禅と瞑想である。
やはり世界的に、心の問題はあるのだ。

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写経も希望だったので「般若心経」を体験していただく。
外国の方にとって、「般若心経」はなかなかの難関です。

でも彼らは真剣に取り組んだ。
そして立派に書き上げた。
字もかなり上手い。

さすがドイツ人だなと感じた。

これほどまでに仏教に興味を持つのは何故なのか?
そんな考えも、ふと浮かぶほどだ。

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夜は本堂深夜バーのリクエストもあった。
そこでも様々な話題になった。

彼らはすごく真面目で、話も常に真剣です。

お一人が日本語が堪能でした。
それで話が聞けたのです。
難しい仏教の感覚もかなり理解していた。

こうして一日目は過ぎて行きました。

まだ時差が抜けないという・・・。


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警策が届きました!

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警策が届きました、真新しく削り立てです。

もちろん京都の仏具屋さんに頼んだ本物です。

警策って何?
と思われた方、座禅のときに使う例のものです。

読み方は、曹洞宗では「きょうさく」、臨済宗では「けいさく」というそう
です。

なぜゆえ浄土真宗の寺に警策が・・・?
と思われるかも知れません。
もしかして宗派替え?

いえいえ、とんでもございません。
実はこれ、7月に宿坊で開催する「仏教リトリート」で使うのです。

リトリートの中で、「マインドフル瞑想+禅+陰ヨガ」の体験を考えています。
そこで京都にある臨済宗の名刹、建仁寺両足院で座禅体験をして参りました。

そのとき、この警策のイメージが強く残りました。
気合いを入れるためではなく、心と身体をほどく、といった感覚でした。
なるほど・・・、それなら意味も分かる。

そして痛いというよりも、心地良く感じるのです。

リトリートに先駆けて、6月15日に開催するTemple Morningの、Morning禅
体験でも使います。

浄土真宗の寺だからと言って、別に禅を否定することはありません。
さらには、禅と念仏は相性が良いのです。
明治の巨人、鈴木大拙も臨済禅と念仏の両方を取り入れられています。

つまり明治時代にはすでにやっているのです。
やはりこれは、ちょっと面白い。

念仏も禅を通してみた方が、よりピュアに見えてくる一面があります。
でもこれは体験した人間でなければ分からない。

念仏や南無阿弥陀仏の世界観や感覚、それは教義を追求するだけではたどり
つけない境地がある。

禅や瞑想から見る方が、ハッキリと見えてくる物があるのです。

鈴木大拙師までは至らなくても、先人の知恵を借りることは大切だと思う。
ちなみに、鈴木大拙師は禅を世界に紹介したことで有名です。
禅は師によって世界に知られる様になったのです。

その一方で親鸞聖人の教えも深く学ばれています。
長い間、大谷大学で教鞭をとっているのですから。

そんな意味で、仏教はこれからもっと楽しくなります。
従来の宗派の枠を超えて体験してみることです。




「幸せのパンケーキ」と宮崎哲弥氏の「仏教原論」

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今話題のパンケーキ、「幸せのパンケーキ」

今回の関西出張で、南船場にある「はなれ」に立ち寄った。
パンケーキと言えば、鳥取にも有名な「大江ノ郷自然牧場」がある。
僕自身、食べ比べ的な感覚もあった。

名前も「幸せのパンケーキ」、ちょっと興味をそそられたりもする。
人の感覚ってそんなものだ。
「パンケーキ食べたい!パンケーキ食べたい!」とTVで繰り返すタレント
がいる。
その言葉がなぜか頭を駆け巡る、これ本当は好きじゃなかった。
でもなぜか駆け巡るのだ。
リフレイン効果にやられてるなあ・・・、でも決して不愉快ではない。
これも人の感覚、繰り返しやられると人って受入れてしまうのだ。

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これが噂の「幸せのパンケーキ」。
ふわふわでトロトロです。

でも僕的には、大江ノ郷自然牧場の方が好きだな。
そう感じた。

どうぞ、どちらも食べ比べしてみて下さい。

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スウィーツの後は、今回の出張の目的の一つ。
相愛大学で行われてる、宮崎哲弥氏の『仏教原論』の聴講へ。

相愛大学の釈徹宗先生が主宰されているので、お二人の話を聞くことができる。
それだけでも十分に貴重です。
さらには、日本仏教が陥っている宗派原理主義から抜け出すには、仏教の源流を
訪ねることが大切だ。
一般の方は不思議に思うでしょうが、日本の僧侶は本当の仏教のことは知らない
のです。
宗派の教義ばかり学習し、釈尊の仏教に近い初期仏教は学ばない。
だから平気で仏教ではないことを僧侶の本分の様に語るのだ。
そしてその枠の中で凝り固まっている。
これは日本の全宗派がそうです。

日本は大乗仏教、そのまた先の枝葉レベルの仏教なのです。
世界では大乗仏教はほとんど知られていません。
世界は東南アジアのテーラワーダ仏教にしか興味がない。
あとはダライ=ラマ14世の存在で、人権としてのチベット仏教と。
日本ではせいぜい体験としての禅くらいしか知られていないのです。

その禅もかなり枠にはまっている。

そんな意味で、この講座にはとても興味があります。
元々私は、釈尊の仏教の方に興味があります。
浄土真宗の僧侶ではあるので、親鸞聖人の教えと釈尊の教えの整合性を考える
ことはとても興味深い。

宮崎哲弥氏の考えを聞くのも面白い。
その中で自分の考えと比較できるからだ。

でもよく考えると、「幸せのパンケーキ」と「仏教原論」は関係ありません。
ただ、大阪本町周辺はかなりディープだ!

宮崎哲弥氏の「仏教原論」講義を受講する!

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相愛大学の社会人講座、宮崎哲弥氏の「仏教言論」を受講するため、大阪に
出かけてきました。

この講義のプロデュースは相愛大学教授の釈徹宗氏。
日本の仏教界を代表するお二人の講座なのです。

宮崎哲弥氏は、TVのコメンテーターとして活躍されています。
その鋭いコメントは、いつもさすがだなと感じています。
でも実は仏教においても、その深い知識と鋭い切り口は、特別な存在です。

僧侶ではなくどの宗派にも関係ない、なのでどこにも遠慮する必要がない。
僧侶の場合、何処かの組織に属しているので、遠慮する部分が必ずあります。

さらには日本の仏教は宗派仏教なので、釈尊の仏教とは大きく乖離している。
そして釈尊の仏教を学ばないという、独特な仏教なのです。

私は宮崎氏の本はほとんど読んでいます。
そしてその論説には共感するところが多く、ぜひ一度話を聞いてみたいと思って
いました。

昨年度から相愛大学で講義をされていますが、中々行く機会がなかった。
今年もその講義があると言うことが分かり、大阪に出かけて行きました。
さらには釈先生と「仏教教理問答」も行うので、楽しみは倍増です。

宗派の仏教だけでは、はっきり言って仏教は語れません。
そして本当に心を救うことができるのは、釈尊の仏教です。
日本の仏教は、ただの先祖供養の仏教ですから、本当の救いにはたどり着けま
せん。

宮崎氏の講義は楽しく聞けました。
釈先生とのやりとりも面白かったです。

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ただ会場には僧侶らしき人はほとんどいませんでした。
やはりみんな宗派の教義にしか興味がないのでしょうか?

本当は、宗派の教義や様々な活動にかまけてる場合じゃないと思っています。
お寺がやってる最近の活動のほとんどは、別にお寺じゃなくてもできるものが
ほとんどです。
そこに仏教のエッセンスがあって初めて生きるもの。
宗派の教義だけでは、はっきり言ってもの足りないはずです。

この会場の状況だけ見ても、日本のお寺の行く末が見える様な気がします。

次回は5月20日、また参加する予定です。






直葬に思う・・・

直葬の割合が増えているという。

それぞれに事情があり、それぞれに思いがあるだろう。
何が正しいなどないだろう。
葬儀はこうしないといけない、なんて何もない。

今日は、午前中の永代供養セミナーで話をしたあと、火葬場に向かった。
今日は直葬のお参りである。

直接的な檀家さんではなかったが、縁があり依頼があったのです。
もしかすると、僧侶派遣よりも私の方がお布施が安いという理由からかも
知れない。

都会では直葬が増えていて、その割合は2割にもなるという。
おそらくこれからは、その割合がもっと増えて行くだろう。
直葬でも火葬場で読経を頼む人は多い。
ただ、今は僧侶さえ呼ばないという人もいるという。

お布施のこと戒名のこと寄付のことなど、お寺には負担がかかる。
それなら僧侶を呼ばなくて良いと考える人はいるでしょう。
もちろん経済的な問題も大きい。
そう考えると、今までのように葬儀は法事が続いてゆくのは難しいでしょう。

ただ縁がある以上は、私も全力を尽くします。
火葬場の法要室では読経を二巻唱える。
長いお経ではないが、せめて通夜と葬儀として唱える。
炉前でも唱える。

そして収骨勤行も勤めた。
できる限り思いを伝え、そして受け止める。

今回は、火葬を終えるとそのまま墓に納骨したいとのことでした。
鳥取地方では納骨は四十九日の法要を終えてからが通常です。
ただご遺族の強い要望があった。

それで収骨後は、そのまま墓に向かった。
火葬から収骨まで、そんな事情もあってずっと火葬場で待っていた。
さらに収骨にも立ち会った。
待っている間は、お孫さんとずっと話をしていた。
まだ若いが意外と話が続いた。
こんなこともあるのだなと、あらためて感じた。

現代の社会だと、経済的に厳しくなる事が増える。
そんなとき、お布施やお寺への寄付にお金を回すことができなくなっ
てくる。
そのときお寺が慌てても遅いだろう。

そのときは、もう目の前だ!







日本の仏教ルネッサンス第二章・・・ここから始まる!上田紀行先生の公開講座

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仏教新時代だな。

そう感じた。

僕は14年前に東京の仏教講座を訪ね歩いた。
それはお寺に戻るかどうかを考えていたからだ。

会社員という立場に閉塞感を感じていたのも事実。
でも、その安住の立場を捨てて、過疎地の寺に戻るのか、という自問自答。
さらには、日本のお寺という存在に意義を見出すことができなかったから。

あるとき営業途中に時間があったので神谷町から御成門方面へと歩いていた。
そのときふとあるお寺に入った、公園の様なアプローチがあり、自然に入った。

そのお寺は、曹洞宗の青松寺といった。
そこでふとあるパンフレットを手に入れた、それが「仏教ルネッサンス塾」の
パンフレットだったのだ。
正直言って、その当時あまり興味を惹く仏教講座はなかった。
特に宗派の築地本願寺に失望していたときだった。

「これは面白そうだ!」

そう一瞬で感じ取り、それからは講座がある度に青松寺に向かった。
森ビルが都市開発で整備したお寺、山門の両隣りには五重塔の如くタワー
マンションが聳えていた。
都会の中の異空間でもあった。
さらには学寮である獅子吼林サンガもあった。

そこで毎回繰り広げられる講座は新鮮でもあった。
僧侶ではない人々が集まってきていた。

その「仏教ルネッサンス塾」を主宰していたのが、東京工業大学で当時准教授
であった上田紀行氏であった。

そのとき獅子吼林サンガには曹洞宗の鬼才南直哉師もいた。
南師の仏教講座や一泊参禅会にも通った。

今思えば不思議なほど、そこは仏教ルネッサンスがまさに始まった場所だ。
そこに居合わせたという偶然もあった。
そこから300mくらいしか離れていない光明寺には松本紹圭氏がいた。
この半径300mの所に、この3人がいたのである。
松本氏はその頃すでに神谷町お寺カフェを始めていた。

おそらく日本で仏教が一番進んでいた場所だ。

そして上田先生の「がんばれ仏教!」と言う本を片手に、そこに載っている寺、
神宮寺や應典院に行った。

「おーっ、お寺って魅力的な場所だ!」、そう直感的に感じた。
「よし、お寺に戻ろう」、そう決めたときでもある。

僕の仏教はここから始まっているので、ありきたりのお寺には何の魅力も感じ
なかった。
浄土真宗本願寺派という宗派にも魅力など全くなかった。
ただ教義と資格は押えとかなければ、僧侶になる意味もないと感じた。
それで会社を退職し、中央仏教学院に入り、宗派で取れる資格はできる限り
取得した。
それが布教使と学階、それ意外は興味がなかったので、それで終了。

そして50歳のときにお寺に戻った。

その後は宿坊を始め、鳥取の山の中の過疎地にある寺だが、それなりに知られ
た寺になり、寺に来る人も急激に増えた。
未来の住職塾では他宗派の活動も見ることができ、代表の井出氏や松本氏と
話す機会も多々あった。
ただ未来の住職塾での若い僧侶の活動は、それほど魅力は感じない。
今までのお寺のスタイルから抜け出たものを感じなかったから。
まだこの程度か・・・、それが正直言った感覚だった。

それが、最近ある感覚を感じることが続いた。

従来のお寺の価値観にとらわれない世代が現れたということだ。
その世代は28歳くらいだ。

それまでの仏教の改革の旗手は40歳。
この世代は従来のお寺の枠を超えようという動きだった。
それがその一回り下の世代には、枠を最初から考えていない世代だ。

「仏教ルネッサンス塾」から始まった、日本仏教ルネッサンス。

それが今、その流れの第一章が終わり、第二章に入るときだ。

僕は平成新仏教の時代だと考えていた。
確かに平成は仏教新展開の時代だった。
でもそれは従来の枠の中での改革だったのかも知れない。

ときはまさに、平成から新しい年号に変わろうとしている。
本当の意味での新仏教の時代が到来する。

私にとっては、「仏教ルネッサンス 第二章」である。

時は機会を与えている。

まさに2019年3月、仏教ルネッサンスの上田紀行先生を鳥取因幡組の
公開講座にお招きするのです。
これは1年前から講演をお願いしており、先生にもご配慮いただき実現
することができた、「仏教ルネッサンス塾」の縁。

3月24日(日)浄土真宗本願寺派鳥取因幡組公開講座。

これは公開講座なので、どなたでも参加いただくことができます。

まさに、「時が来た!」といった感じである。

上田先生には、「これからの日本の仏教!」というテーマでお話しいただく
予定です。

どうぞ楽しみにして下さい!











他宗教の法会に参加してみる・・・立正佼成会生誕会

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立正佼成会「開祖さま生誕会」

私の知人から会に出席して欲しいと、お招きを受けた。
来賓としてということでした。
私が来賓で良いのかなと思いましたが、せっかくの機会でしたので、出席
させていただきました。

最近は宗派が違っても、超宗派での交流が盛んになっています。
でもそれは、どちらかというと伝統仏教と言われている宗派間がほとんど
です。

立正佼成会や創価学会という新宗教と言われている教団とは、あまり交流
がありません。
それはお互いにといった感じなのでしょうか。

生誕会は本部と各協会をネットでつないで同時中継しながら、並行して進む。
途中献茶式も行われ、裏千家の千宗室大宗匠が献茶をされていました。

浄土真宗では降誕会と言われるが、誕生より命日の報恩講の方が重要とされ
ています。

先日は、同じ町内の黄檗宗の寺院の晋山式にも出席した。

二ヶ月連続で違う宗派の法要に出席する機会となった。

伝統仏教教団でも宗派が違えば、他宗派がどの様な教えでどの様な活動をし
ているかは分かりません。
ましてや新宗教であれば、尚更です。

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法話や話しを聞いていると、おおよその感覚は分かります。

法要の後、昼食をいただく機会がありました。
そのとき鳥取教会の佐保教会長とお話することができました。

後で分かったことですが、私と同い年。
この12月には本部に異動されるそうである。

私は名前を知っているだけで、それ以外のことには無知でした。
それで教会長に少し立正佼成会のことを聞いて見ました。

細かいことは分かりませんが、少しだけ理解できたかなと思います。

他の宗派や宗教の法要に出てみるのも興味深いものです。
とても勉強になりました。

私は外国に行くときは、そこにある教会などの宗教施設には必ず行くこと
にしています。

ただの観光ではなく、宗教的な観点で見ると面白かったりするのです。


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円満!

円満とは双方向につながること。

たとえば、仏教的には自利と利他が双方向につながり、円となること。

それが円満。

たとえば、法要の場だと、仏様と私たちが双方向に回向する。
回向とは思いを差し向けるといった感じ。

すると、それはそれぞれの思いなのだが、双方向になるので、それは
元々どちらの思いなのかって分からなくなる。

でも、仏と私たちだと、間違いなく仏様からが先なのです。
仏様からの声は聞こえないので、私たちは自分たちから先に差し向け
ていると思っているのです。

今日はまさに、円満だった。

お骨をお墓からお出しし、別の場所へと移し替える作業。
訳あって一旦お預けしたお骨を、思う場所へ安置し直す作業。

先祖のお骨が数ある中で、そのお骨を特定できるかどうか。
さらには、そのお骨を取り出すことを施主の後継者が同意するかどうか。
なぜなら、その方のお骨が納められていること自体、知られなかったから。
すでに代替わりをしていたのです。

このパターンって、もめることが多い。
さらには、どのお骨か特定できないという場合も多々あります。

今日は、大雨警報が続いた後、猛暑もなく丁度過しやすい気候だった。
さらには、関係者すべての都合がついて、お墓に集まることが出来た。
そのうち一人でも来ることが出来なかったら、難しい案件でした。

お骨の特定も、お墓を管理されている方が、先祖様のことをよく記憶され
ていました。
私も過去にあったお墓の納骨のことをお話しする。
するとすべての符号がかち合った。
不思議なくらいに簡単にお骨が特定できたのです。

タイミングずれていても難しかった。

お骨を出してあげたいというご家族の思い。
そこから始まったこと。

でもそれは、実はその仏様からの思いが届いたのかも知れない。
そして、すべての条件を整えられた。
偶然のようで、実は整うように準備されていたのか。

そう思うしかないほどだった。

そこにいる関係者全員が納得できたのです。
不思議な縁でした。

その方は朝のTVの占いで、今日の運勢は「問題解決します」とあったそう。
さらには、栗がラッキーポイントだったという。

お骨のことがスッキリと解決し、そのあとお寺に来られたとき、坊守が栗の
渋皮煮と栗の入ったクレープを用意していたのだった。

何と言うことだ・・・。

占いまで準備されていたとは。

この一週間、「お骨が分からなかったらどうしよう」という夢を見続けて
いたという。

そんな心配も全く不要でした。

すべては円満だった。

さて、その縁はどこから発せられたのだろうか?

円って始まりと終わりがないから円という。
だったらお互いの思いが同時進行だったのかも知れないですね。


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13年前の東京~現代・・・仏教との邂逅.魂の巡礼・・・2

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13年前の東京~現代・・・仏教との邂逅.魂の巡礼・・・2

「浄土真宗本願寺派梅上山光明寺」 東京の地下鉄神谷町駅を出て2分、
東京のビジネス街のど真ん中、周辺には大使館があったりする。


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そこにこのお寺がある、その境内には墓があり東京タワーが灯明の様に
見え、本堂前はcafeテラスになっている。
そうここは、13年前に未来の住職塾塾長である松本紹圭氏が所属する
お寺。

今流行のお寺cafeの先駆けで、当時ですでに無線LANが使える環境
を整えていた。
ここから全国のお寺に、お寺cafeが広がっていったのです。
私が会社員をしているとき、このcafeで休んだことがある。


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仏教ルネッサンス塾が近くで開催されているとき、松本氏はすでに僧侶
としてこの光明寺にいた。
当時の青松寺から、現在はここが未来の住職塾の本拠地として新しい仏教
の展開を図ろうといているのだ。


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歩いてせいぜいが5分くらいの距離だろうか。
奇しくもここから日本仏教の展開が始まろうとしている。
この東京のこの二つの場所が、日本仏教再生のブッダ・ポイントなのだ。

私はこの13年間、ずっとその動きを見続けて来ました。
そしてこれからも見続けて行くだろう。


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13前の東京へ・・・仏教との邂逅.魂の巡礼・・・1

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13前の東京へ・・・仏教との邂逅.魂の巡礼・・・1

「曹洞宗萬年山青松寺」 今から13年前、会社を辞めてお寺に戻るかどうか
迷っていたとき、この寺で開催されていた「仏教ルネッサンス塾」に出会った。

東工大の上田紀行先生が主宰されていた。
ここには、その名の通り未来の日本仏教がそこにあると感じた。

さらには駒澤大学の前身でもある学寮の「獅子吼林サンガ」があり、そこでは
南直哉師が仏教講座を開き参禅会も行われていた。

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その当時、同じ宗派の築地本願寺に失望していたときに、私に道を開いてくれ
たお寺だった。
そのとき、ここは間違いなく日本の仏教復興の地だった。その後、その改革の
流れが速すぎたせいか、南師は寺を去り恐山菩提寺へと向かう。

さらに上田氏の仏教ルネッサンス塾も終わった。今はただの都会の立派な曹洞
宗の一寺院でしかなく、そこには何の魅力も感じない。
でも確かに13年前にあった息吹は、今も感じることができた。
一泊参禅会でお会いした仏様にもお会いできた。感謝しかない。


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私が救われたのは、浄土真宗の寺院ではない、そこには何の救いもなかった。
そして今の私がある。
やはりお寺は、規模や歴史や文化財ではなく、人によって立つのだ!


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なみのこの二つのビルはお寺の両脇に建っており、再開発からお寺を護るため
に、森ビルのオーナーが仏塔に見立てて建てたものです。

現代の仏塔でもある。



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何億光年はなれた星にも・・・永遠のいのち

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何億光年はなれた星にも寿命があると、おしえてくれたのは、あなたでした・・・

野に咲く一輪の花にも永遠のいのち、おしえてくれたのもあなたでした・・・

「さよならのむこうがわ」の詩、少し違うかも知れない。
ただ私の中で覚えているイメージを書いてみた。

これって何だろうか。

僕は「色即是空 空即是色」を現代の言葉に置き換え、それに感情を込めた
ものかなと思っています。

宇宙にある存在すべて、それがたとえ遠く離れた星であったとしても、寿命
があるんだよ・・・
私のいのち、あなたのいのちだってそれは例外じゃない・・・

今見ている星の光、それは今私たちに届いているけれど、ずっと前に放たれた
光だ・・・
私たちが今あると思っているその光の星は、すでになくなっているかも知れ
ないんだ・・・

宇宙にある存在すべて、すべてがそう移り変わって行くんだよ・・・
移り変わらない存在など、一つもないんだ。
あなたも、あなたも、あなたも・・・

でもね、

道ばたになにげなく咲いてる一輪の花
それははかないいのちかも知れない
明日見たらもう枯れているかも知れないんだ・・・

でもそんな花だって、本当はね、永遠のいのちなんだよ・・・
なぜって?
それは、すべての存在は一つだからだよ
すべてはつながってる・・・
そう宇宙にある存在すべて、それは一体となって宇宙っていうんだ
だから何一つ孤独な存在などないんだ

ただそれは、あなたが孤独だと思い込んでいるだけ
ただそれは、あなたが私が死んだと思っているだけなんだよ

僕はたとえ死んでも、このいのちは無くなることなんてないんだ
だから永遠のいのちを生きてるってこと

またいつか会えるんだよ・・・、かならず。

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ここから何かが始まる・・・宗派を超えて宿坊に集まる!

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4月のある日、ここ宿坊光澤寺に集結した面々。

さてここから何が始まるのだろう?

集まったメンバーは、(社)お寺の未来・未来の住職塾代表の井出氏。
そして全日本仏教青年会理事長・全国曹洞宗青年会会長の倉島氏。
全日本仏教青年会理事・全国曹洞宗青年会副会長の河口氏。
さらに行政書士ネットワーク代表の黒沢氏。

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迎えに行った鳥取砂丘コナン空港にあるコナンのだまし絵でお決まり
のポーズを。
さらにはこのまま絵から抜け出して鳥取砂丘に登場する。

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宗派や業界を超えて集まる。

これからの寺院の在り方とは何か。
そして疲弊する過疎地寺院の復興策は何か。
さらに、これから始まる民泊にお寺としてどう取り組むか。
お寺として、葬儀や法事から体験できるお寺へと展開するには。

そんなテーマを宿坊を舞台に話し合いました。

わざわざこんな鳥取の山里の宿坊までお越しいただけるとは、有り難
いことです。

ここは、来てみないとその雰囲気は味わえない。
それが井出代表のお心です。
それに賛同して皆さんがお越しになられました。

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朝は本堂で浄土真宗のお経を皆で唱えました。
曹洞宗のお二人を加えた読経は、いつもと違った響きがあった。
それはとても心地良いものでした。

これからのお寺を考える。

ここから何かが始まる・・・、そう感じた二日間でした。

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朝、出発するとき、皆さんの顔は輝いていました。

倉島理事長は、この後26日に東大寺大仏殿で勤修される「千僧法要」
で導師を勤められる。

そんな方々と一緒に朝のお勤めができたのは有り難いご縁でした。


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哲学の巨星、大峯顕さん往く!

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大峯顕さんが往生されたという。
2月3日、奈良のセレモニーホールで葬儀が執り行われたそうだ。

私はそのニュースを知らなかったが、宗派の鳥取因幡組の執行部会の
あとの懇親会でそのことを知った。

私がまだ30代だった頃、お寺に帰る予定はなかったが時々仏教の本を
買って読むことがあった。
そのとき手にしたのが大峯先生の「親鸞のダイナミズム」でした。
私がその頃、どうしても好きになれなかった浄土真宗の感覚があった。
研修会などに行ったとき聞く、いつもの感覚。

そんな感覚を開いてくれたのが大峯先生の本だった。
いつか先生の話を聞く機会があるだろうと思っていた。
実際に、昨年のことだが宗派の鳥取因幡組の研修会に先生をお招きした
いと思い、直接お寺に電話したことがある。
すると先生が電話に出られた。
事情を話すと、先生は「最近は体調が悪く、すべてお断りしています」
との返答だった。
やはり体調が優れなかったのでしょう。

京都大学を出られたあと、大阪大学で長く哲学の教鞭をとられていた。
宿坊にも、大阪大学で哲学を学ばれた方が来られたことがあります。

浄土真宗では長く本流ではありませんでした。
それでも教学研究所の所長を務められた。

宗教者なのか哲学者なのか、その両方なのだろうと思う。
でも世間では哲学者としての扱いでしょう。

最近、小出遙子さんが出された「さとりってなんですか?」という本
でも、悟りについて先生が語っておられた。
それは本当に大峯先生の究極の完成なのだろうと感じました。
これ以上の感覚はもうないだろうというくらいのものでした。

結局、一度も先生のお話しを聞くことはできなかった。
遠い存在ですから、思いが叶うことはなかった。

それでも浄土真宗の教えに近づけてくれたことは感謝しています。

浄土真宗も大切な方がまた一人いらっしゃらなくなった。

梯實圓先生、大峯先生、このお二人が至極でした。
後はもういらっしゃらないのではないか・・・。
そう感じてしまうくらいの存在だったと思います。

合掌


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お寺を護る・・・仏様の意志がそこにあるのだ。

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本堂を片付けているとき、暗がりの中でホコリにまみれていた仏様。
そのあと洗って乾かしていた。

すると木目が浮き出して、鼻の高い観音様となった。
おそらく自然の木を仏師ではない方が彫られたものだろう。

ただその穏やかな表情が人を優しく包み込む感じがする。
片付けていたとき、すべてのものに読経で感謝の思いを伝える。

この仏様もずっと見たことがなかったもので、真っ黒になっていた。
最初は捨てようかと思ったが、表に出すと、もしかするとこの仏様は
本堂をしっかりと守り続けてこられたんじゃないかなと思った。

私がお寺に戻ったとき、本堂も境内も庫裡も、すべてがゴミで溢れて
いた。
すべて片付けるのに半年かかったほどだ。

そんなとき、庫裡の押し入れの中から、布袋さんと思われる木像が出
てきた。
そのときは断捨離だったので、すべて捨てるつもりだった。
でもこのとき、ずっと押し入れの中でゴミと一緒にあった像を捨てる
ことはできなかった。
洗って磨いて玄関に置いておくことにしたのです。
宿坊を始める前のこと、それ以来ここに来られる方々を玄関で迎えて
くれている。

そして今回は本堂からだ。
洗うと真っ黒だった表面に木目が現れた。
これからお墓プロジェクトを始めるとき、その片付けの中でのことだ。
きっとこのお寺を護るという意志なのだと感じた。

ここに来られる方々を慈悲で包み込むだろう。
この本堂が女性に優しい空間になっていると言われる由縁は、この仏様
の慈悲の力が強いのだ。

これからは本堂で皆さんにお会いすることができる。
何十年もの間、ずっとこの日を待って下さったのだろう。

庫裡と本堂での出来事は、私にとってすごく大切なことでした。
仏様には力を持っている存在はあり、それ感じ取ることも大切だ。
そしてその力を最大限に発揮してもらうには、大切にすることです。
今回も、まさにその縁があった。

だからお墓プロジェクトは必ず成功する。
そしてこのお寺が地域を支えるお寺となる。

そう私は信じています。


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六七日・・・朝の逮夜参り・・・、そして問いがある。

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今朝は久しぶりに晴れ間がのぞいた。
境内は一面真っ白だった。

昨晩、葬儀から帰るとき、車がお寺までたどり着けなかった。
誰も通らない道だが、その道路に雪に埋もれていた。
今朝は六七日の逮夜参りがあった。

逮夜というと、実際の日の前の晩という意味だ。
なので実際の六七日の前の日にお勤めするのだ。
私のお寺では昔からこの習慣だ。

ただ車は動けないというか、雪に埋もれている。
朝から雪かきをしても間に合わない、バスで行くことにするが、この
状態なのでバスの時間も読めない。
そこでお参りするお宅に連絡し、鳥取市内から来られるご親族に国道
でピックアップしてもらうことにした。

国道のバス停で乗せていただくことが出来、無事にお参りすることが
できました。
先方のお宅も、お寺より雪深い所ですが、六七日の法要はお勤めする
気持ちは雪では揺らがない。
来週は四十九日の法要ですが、しっかりと皆さんと一緒にお経を唱え
ることができました。

読経は、「讃仏偈」「重誓偈」「正信偈」の偈文三巻です。
ご家族三人だけのお参りなので、法話はしないで一緒にお話しをする。
30分くらい話しただろうか、そして帰りも送ってもらうことができた。

車を降りる前に、問いがあった。
「草津温泉で亡くなられた自衛隊の方が、生まれてきた意味って何なの
でしょう?」ということでした。
私は仏教的な見地からのお話しをしました。

その話しから「生まれてくるには、そのことを乗り越えられる人だと聞い
たことがあります」と言ったような話がありました。
仏教的には、生まれることに意味があるのであって、今のお話しはキリス
ト教的な立場になるかも知れません。
キリスト教ではチャレンジャー的な意味を持たせることがあります。
仏教では、生きるということはチャレンジャーではありません、とお話し
した。
ただ、生まれるということには意味があります。
ここに存在するということだけで十分なのですと・・・。
もちろんチャレンジしたければすれば良いし、できなかったからといって
も別にそれはそれだけのことなのです。

なぜなら仏教は神とは契約しているわけではありません。

あなたは、あなたの命を生きれば良いのです。
生まれるということは偶々ですが、生まれたときに、それは必然となる。
誰かをかばって身代わりとして死んだとしても、それはそれそれなのです。
いのちとして生まれ生きたことに何ら変わりはない。
ただその行為が尊いと言うことは有ります。

そんな話しを車を降りる数分間のあいだにしました。

いつどんな問いが突然有るか分からないのです。
そのときに僧侶の本質が問われると思っている。
仏法には明日ということはないのだから、縁はそのときにです。

車を降りる前、「なるほど、分かりました」と言葉があった。
通じたかどうかは分かりません、でもそのときに応えることが必要です。
次ぎ会うとき、その問いでさえあるかどうかも分からないから・・・。

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除雪は無事に昼過ぎに、村の方々が行ってくれました。
車もお寺に戻って参りました。


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話題の二冊・・・「ごまかさない仏教」と「光の中のマインドフルネス」

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最近話題の本を二冊取り寄せて見ました。

話題と言っても、仏教界でと言っても良いかも知れませんが、それでも
この本は一般でも注目度が高いかも知れません。

もちろん内容の評価はそれぞれで良いと思います。
ただ日本の仏教において、どちらもこれからの大きな流れになるものだ
ろうと思われます。

一冊は、「ごまかさない仏教」です。
著者は佐々木閑さんと宮崎哲弥さんのお二人の対談形式。
さすがに内容は濃い、お二人とも仏教の原典や解釈書をことごとく読破
されているだけに、仏教の本質がその中心にあるのは間違いないだろう。

日本の宗派仏教でおかしい部分が一目瞭然でもある。

現代の社会は情報が溢れている、それは僧侶よりも一般の方々の方が情報
を知ってたりする時代になると言うこと。
今までは、仏教やお寺のことはその宗派の僧侶だけの世界で良かった。
適当に言っておけば、誰もそれをそのまま受け止めてきた時代。

でもこれからはそうはいかない。

特に若者は仏教のことをよく知ってたりする。
適当なことでは通用しなくなる。
逆に適当でも通用する人は、お寺に興味がない人たちになる。

もう一冊は「光の中のマインドフルネス」。
著者は、仏教3.0の山下良道氏です。
日本の瞑想界をリードするお一人でしょう。

こちらは従来の日本の宗派仏教の延長線的な背景もあるので、融合と
いった面では、これからの一つの流れになるかも知れません。
ただ曹洞宗がその背景にあるので、浄土真宗では難しい面があるかも
知れませんね。

私は瞑想体験は最初から取り入れているので、戸惑いはないですが、
頑なに体験を否定するお寺や僧侶には受け入れられないでしょう。

でも、瞑想は仏教の根源的な体験である。
それを否定する仏教はないのです。
さて、浄土真宗の教団はそれに対してどう向きあうのか興味がある所
ですね。
築地本願寺で運営する銀座サロンではマインドフルネスを扱ったりし
てるようですが。

マインドフルネスが流行となってから、ヨガやセラピーの先生も仏教
的な感覚を話しをされることが多い。
もちろんそれを仏教と思っているかどうかは別として。

その話しを聞いていると、僧侶が話すことより相当レベルが高かった
りするのです。

さてこれからの僧侶は、どうするのでしょう?

これからは、仏教の本質を知っておかないと通用しない時代になるか
も知れませんね。


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釈尊と親鸞聖人・・・仏教と浄土真宗

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仏教と浄土真宗

普通なら日本の宗派は仏教という前提なので、そこに違いがあるとは思って
いなかったりするでしょう。

今は、テーラワーダ仏教やチベット仏教が日本にどんどん入って来ている。

テーラワーダでは瞑想を始めとしたもの、チベット仏教ではダライ=ラマ14世
の話しが伝わる。
そして世界で仏教は、その二つを中心として動いているのです。
決して日本の仏教が中心で動くことはない。
しいて上げれば禅が知られていて実践されているくらいだろう。

その中で浄土系宗派、特に浄土真宗はその動きから全く違う場所で動いている。
というのも実践や体験がない宗派なので、外国から注目されることはない。
あくまでも内向きの宗派でしかない。

たとえば最近、西本願寺や築地本願寺は、新しい動きを加速させている。
社会に開かれた宗派という展開です。

でもそこで行われていることは何か?
全く宗派の活動とは関係ないものばかり、仏教としてのものではないのです。

要は仏教というものを前面に出せないのが浄土真宗寺院なのです。

確かに注目を集めたり、入りやすい寺という動きは分かります。
だけどそこには何もない。
別にお寺でなくたってできるものが多い。
言えば自己満足型ってことでしかない。

別に批判しているのではありません。

私が今考えることは、浄土真宗と釈尊(もしくは釈尊に近い)仏教の融合では
ないだろうか。

浄土真宗として仏教にアプローチしておかなくてはならない。
私は親鸞聖人とお釈迦様に、共通点が多くあることを感じます。
浄土真宗的な表現で解釈されすぎて、親鸞聖人の本質がぼやけているような気が
してなりません。
教学も大事だが、これからは釈尊へのアプローチと融合が求められていると感じ
ます。

それが内側を向いた教学が外に向けて展開できるときではないかと思っています。

西本願寺には龍谷大学があり、仏教学と真宗学が両方ある。
でもその強いが活かされていない様に感じる。
それぞれにそれぞれといった感じです。

もしくは仏教は知識として知っておくもの的な、日本の宗派独特の考え方が根強い
のかも知れない。

私がこれから考えていることは、親鸞聖人と釈尊の教え、そして唯円とアーナンダ
ですね。


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10月17日の風景から想う・・・これからのお寺

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10月17日の風景
そして通り過ぎて行く。
「人は死んで四十九日経つと別の命に生まれる」、そんなブータン仏教。
ハエも殺さない、だって誰かの生まれ変わりかも知れないのだから。

だから「生けとし生けるものの幸せを願う」のだ。でもハエに生まれな
いように、今の生に功徳を積む。ブータンの法要は、みな真剣だ、でも
そのときを喜び楽しんでいる。

そんな思いが伝わってくる。そして墓は必要ない、だって生まれ変わるの
だから骨にはこだわらない。「骨は川に流したりとか・・・」。
「ブータンに墓はないのですか」と僧侶に聞いた、「ないない」と答える。

実は仏教国で墓にこだわる国は少ない。なぜならそこは、仏教的にはこだ
わるところではないから。
なので墓の心配はないし、先祖供養という感覚もない。先祖供養は仏教で
はなく儒教的背景が強く、日本の葬式仏教は仏教ではなく道教や儒教とい
う中国的なもの。
位牌などはまさにそれだけのものでしかない、仏教では必要ないもの。
そんな物があるから戒名が高くなるのだ。

「父母の孝養のために経を唱えず」、これは親鸞聖人の言葉と伝えられる。
でも東西本願寺の起源は、親鸞聖...人の墓だったりする。浄土真宗では供養
はしないというが、実際に寺でやってることは、そこに乗っかっている。

墓と葬儀と法事、それがお寺の収入だ。本来のお布施でも何でもない、それ
をお布施というから僧侶は勘違いするんだろう。

仏教は今を生きるためにある教えであり、葬儀や法事のためのものではない。
それだけは確かなこと、だから今のいのちのために読経があり、教えがある。
ブータンの法要は今を生きるためのもの、そして次によりよい生に生まれる
ためだろうか・・・。

もちろん、先祖を大切に敬うことは大切なこと。それは人としての大切な心
だと思う。供養し手を合わせる場所、それは今を生きている人を支えること
になる。

心の拠り所だ。

悲しみを受け止め、その心を癒やし慰める。それはとても大切なことだと思う。
ただ、それだけではない仏教が今求められているのだと自分は感じている。
最近の私自身の無力感は、そんなことかも知れない。
そろそろ日本の葬儀と法事と墓という概念を変えて行くときかも知れない。
でなければ自分自身がきつい。先はよく見えないけれど・・・。

お墓プロジェクト、その方向性を確かなものにしたい。


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ブータン仏教最高指導者とブッダポイント

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ブータン一日目。

パロの空港から首都ティンプーへ移動。
ホテルにチェックインしたあとは、ツェチュという祭りを見たあと、
ブータン仏教最高指導者である、ジェ・ケンポに接見するためであった。

さらには、ブータンに来て初めて仏教に触れる機会でもあった。

私が今回ブータンに来る目的として、ブータン仏教を自分の目で見て
みたいという気持ちがありました。

チベット仏教最後の聖地でもあるのだ。

チベットでは中国による漢民族同化政策がとられている。
ダライ=ラマ14世は亡命政府をダラム=サラに建設している。
中国ではチベット仏教はすでに終わったと考えられている。
そして、最後に残ったチベット仏教の国がブータンなのだ。

そしてそのお寺に行って驚いた。
実はブータンに大仏が建っているとは知らなかったのです。

いきなり山の上に現れた大仏、釈迦座像である。

そこで、ブータン仏教最高指導者であるジェ・ケンポが数十年に一度
という法要を行っているという。

数千の人々が朝から場所取りをしているそうだ。
それが何ヶ月も続いている。
そこで、ジェ・ケンポが読経をするのだ。
おそらくこれほど功徳のあることはブータンにはないと言うくらいだ。

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私たちは来賓の扱いで、大勢の参拝者の前に立った。

そしていきなり五体投地が始まる。

日本以外の仏教国では五体投地が普通ですね。

今回のブータンでは五体投地を何度もする機会があった。
やはり仏を敬う心は、五体投地が必要なのかも知れない。

ただ何となく不思議なのは、この大寺院はチベット仏教寺院ではないと
いうこと。
そこでブータン仏教最高指導者の法要が行われ、数千人の人々と数百人
の僧侶がいるということ。
チベット仏教は中国との関係が微妙なのではと思っていただけに、最初は
違和感があった。

このブッダポイントという場所は、華僑が80億円寄進して建てられた
のだと聞いた。
ブータンでは予想以上に中国の影響力の下にあるとう気がした。

この寺院には数千人が参拝できるというメリットがある。
山の上にあるのだが、それでもこれだけの寺院はブータンにはないのだろう。
密教寺院はあまり内部が大きくないのだ。

ブッダポイント、クエルセルポダンという。

寺院内では、経典の原版の修理が行われていたり、寄進者による仏像がたく
さん安置してあった。
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ブータン仏教の意外な(僕にとってであるが・・・)一面を見た気が
した。

でも実は、全然意外でないのかも知れない。

この件に関しては、また別の機会に話そうと思う。


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「仏法僧(ブッポウソウ)」のお話し

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「とっとりNOW」の2017年夏号。

以前にも紹介しましたが、この号には「フレキシブルな僧侶たち」というお寺の
特集があって、光澤寺も大きく紹介されています。

夏号の表紙は美しい鳥が描かれていました。

最近、宿坊にバードウオッチングの男性が来られた。
そして野鳥ファンの女性も来られ、鳥の話しがあったのですが、どちらも同じ
話しをして行かれました。

男性は宿坊の近くにある「ふるさとの森」に行くために関東から来られていた。

そして女性の方にこのとっとりNOWをお見せすると、あとでこの表紙の鳥は
「ブッポウソウ」ですよと教えてくれた。

ブッポウソウとは仏法僧のこと。

あるとき森の中で美しい鳥の啼く声がする。
その啼き声が「ブッポウソウ」と啼いていた様に聞こえた。
どんな鳥だろうと辺りを探すと、美しい鳥がいたので、きっとこの鳥が啼いたの
だと思い、この鳥を「ブッポウソウ」と名付けたのだそうです。

ところが、実際のブッポウソウの啼き声は「ブッポウソウ」とは啼かないのだそう。
声はガラガラ声で、決して美しい啼き声ではないようです。

では、ブッポウソウと実際に啼いた鳥はどんな鳥でしょうか。

実はフクロウのコノハヅクだったのだそうです。

バードウオッチングに来られた方の目的の一つには、コノハヅクを見に来ること。
「ふるさとの森」は、コノハヅクが見えると言うことで有名なスポットでした。

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ふるさとの森
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コノハヅク ※ネットからお借りしました

フクロウなので、姿は見えるけど昼間は啼かなかったそう。
でも男性は、さすがに夜は山には泊まれないとのことで、宿坊に宿泊される
ことにされたそうです。

ブッポウソウの話しを続けて聞く機会がありました。
そして、光澤寺を載せていただいた「とっとりNOW」の表紙がブッポウソウだっ
たこと。
さらには本当にブッポウソウと啼くコノハヅクが、なんとふるさとの森にいるコノ
ハヅクだったと言うことに、ちょっと驚いた。

さすが「とっとりNOW」さんですね。
寺院特集が掲載された号の表紙をブッポウソウにされていたとは、とても粋な
はからいですね。

ところで、ブッポウソウすなわち、仏・法・僧って何でしょう?

仏・法・僧は仏教になくてはならないもの、つまりどれか欠けても仏教は現在に
存在しないということです。

仏とは、釈尊が悟りを開かれて仏陀となられたこと。
つまり、この世に仏という存在が誕生したということです。

法は、その釈尊が悟りを開かれたとき気づかれた真理、すなわちその仏陀の
説いた真理の教えということ。

でも仏と法だけでは、その教えが広がることはない。
事実、仏陀はその教えがあまりに難解であるため、衆生に説くことは無理だと
考え、当初は自分だけ悟りの中で楽しもうと考えられていたのです。

ただ、やはりこの教えを伝えて行くことにしようと決められて、当初お釈迦様に
付き添っていた五人の従者の元に向かう。
釈尊が苦行を離れたので、堕落したと思いお釈迦様から離れた五人です。

お釈迦様が来たとき、皆は相手にしないことにしようと思っていた。
ところがお釈迦様の姿を見ると、今までとは違うお釈迦様であることに気づいた。
さらに話しを聞くと、五人はその教えに感動し、コンダンニャを始めとして次々に
悟りを開いていったのです。

そこに僧であるサンガ(僧伽)が成立することになった。

これで仏教が広まるため、そして仏教教団が成立する基盤である仏・法・僧が
整ったのです。

つまり、ブッポウソウは仏教にはなくてはならないものですね。

今回、いろんなものが一気につながって行きました。

面白いものですね。


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自利から利他への転換・・・無明と救いとは

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人は苦しみの中で自分を見失う。

そして、もがき苦しむ。

そんなことがあるだろう。


救いとはなんだろうか・・・。


自分のことだけじゃダメだと言われる。

自己中心ではダメだと言われる。

利他の心が大切だと・・・。


そこでまた苦しむのだ。

なぜなら、いつまで経っても自分を受け入れられないから。


そうではない。

まずしっかりと自分を受け入れなければ、その苦しみからは出られない。


宗教的な救い、特に普遍宗教と言われるもの。

その救いは孤である、普遍とはその一人に向けての救いなのだ。

孤が救われずしての普遍性はない。


そこが最近の仏教が見間違っている所ではないのか。

そう感じる。


孤は孤独だ。


その孤独を包み込むもの、それが悲である。

慈悲の悲だ。


その悲に包まれて、自分に気づいて行くのだ。

悲しみに喜では対応できない。

苦しみに歓では対応できない。


悲しみには悲しみが、苦しみには苦しみが。

そこに人は光を見出す。


お釈迦様の方便を知ることだ。

自利と利他。

自利がなければ利他へと転換できない。


自らが自利から利他へと転換するとき。

お釈迦様は微笑する。

釈迦の微笑。


それは自利から利他へと転換したときではなかろうか。

自利から利他への転換が重要なのです。


それには先ず自利が必要なのだということ。


最近の仏教は聞こえは優しいが、自利が抜けていることが多い。

だから本当の救いになっていないのです。


最近の仏教の話しは利他全開だ。


仏という存在は、自利利他円満であるということ。

そのとき、利他よりも自利が先に立つのです。


嫉み・恨み・怒り。


それは自分の満たされない心から起きるもの。

それを無明という。


心は物や地位や金では満たされはしない。

その心を満たすのは何か。


仏教は心を満たす教えなのです。

満たすこと、それはあると思っている幻影を手放すことです。


手放すことによって満たされる。


それが仏教だと思います。



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花祭り・・・お釈迦様と阿弥陀如来の関係

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四月八日、今日は花祭りです。

花祭りとは、お釈迦様の誕生日。

お釈迦様は生まれるとすぐに立って七歩、歩いたという。
そして右手を上に、左手を下にし、「天上天下唯我独尊」と言われたという
物語があります。

もちろんこれは史実ではありません。
じゃあどうでも良いかというと、それはとんでもない。
何故かというと、仏教が説かれた意味がここに込められているからです。

天にも地にも、我ただ尊いものになる。
つまり悟りを開き仏となるという決意である。

これがお釈迦様の仏教宣言であるのです。

もちろん七歩歩くということ。
これは迷いの命である六道輪廻。
そこから抜け出す、つまり解脱する存在を顕わしている。

地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六道。
天といえども終わりではない、その最上位である有頂天の先には、真っ逆
さまに墜ちる地獄が待ち受けているのです。

その迷いの命から抜け出し仏となる、六道を超えるから七歩となる。

今日は午前中、四十九日の法要でした。

花祭りの話しをして、お仏壇にはお釈迦様がいらっしゃらないと言うことも。
そして阿弥陀如来とお釈迦様の関係をお話ししました。

実は、阿弥陀如来のモデルはお釈迦様である。
法蔵菩薩出家の物語は、そのままお釈迦様です。

お釈迦様が亡くなられてから、民衆にお釈迦様待望論が起きる。
お釈迦様が死ぬ直前まで力を注いだこと、それは民衆への伝道です。

それがお釈迦様が亡くなられてから、僧侶は寺院に籠もるようになり、伝道
を疎かにする。
さらには難しい教義を議論し、修行に明け暮れる。

本来の目的である、民衆に教えを説くと言うスタイルではなくなっていた。

そこで、今でもお釈迦様の教えを聞きたい民衆のエネルギーが、阿弥陀
如来を創り出していったのです。
つまり永遠の命のお釈迦様、だから今でも浄土で教えを説かれているのです。

花祭りにちなんで、お釈迦様と阿弥陀様の関係のお話しでした。


経典や仏教の物語、それをただそのままに受け取っても意味がない。
そこに込められた思いや背景を読み取ることが、それを読むときのポイント
なのですね。



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文殊様がお寺にやって来た・・・!

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お寺の内陣の写真です。

この写真の中に文殊菩薩像がありますが、どこにいらっしゃるか分かりますか?

三月のある日、お寺に電話があった。
日帰り体験の予約でしたが、そのとき「文殊菩薩をお持ちしたいのですが」という
言葉があった。

一瞬何のことか分かりませんでしたが、家に置いている文殊菩薩像をお寺に安置
して欲しいといった内容でした。

持ち主の方は、以前ネパールに2年ほどいらっしゃったことがあるそうです。
そのときに頼んで造ってもらったもの。

ただ、家に置いておくよりもちゃんとした所において欲しいとのご希望でした。

そういうことでしたら、お寺にお持ち下さればお預かりしますとお伝えした。

どの様な像かも分かりませんし、お会いしたことのない方からでしたが、お預かり
することにしました。

そのご家族の皆さんが宿坊に日帰り体験に来られました。

文殊菩薩像をお預かりして本堂に安置致しました。
安置する場所は決めておりませんでしたが、とりあえず奉納するためによく見える
所に安置することに。

お昼までいろいろとお話しをしました。
食事の後は本堂で体験をしていただいた。

その後で、文殊菩薩像を見ていただいたが、最初どこに安置してあるのか分か
らなかったようです。
体験のときも、そのよく見える場所にずっとあったのですが・・・。

こちらに置いておりますとお伝えしても、「えっ、どこですか」との反応。

こちらですとご案内して初めて「ここにあったのですか」と気づかれた。

元々ここにあった像だと思いましたと言われた。

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内陣の荘厳と調和していて違和感がなかったのでしょう。

色と形と大きさが、その場所に見事に調和していました。

阿弥陀如来の存在は調和である。
『阿弥陀経』でもそのことが説かれています。
さらにはそのお経の中に文殊菩薩も登場するのです。
文殊師利法王子と。

その調和が見事に顕されていると感じられた。

「なるほどな・・・」と。

そのことをお話しすると、みなさん嬉しそうでした。
ここに安置して良かったと思っていただけたでしょう。

奉納するのにいろんな思いがあったのかも知れません。

お話しをし体験していただき、その像の姿を見て安心された。

仏像は粗末に出来ないから尚更です。

文殊様も喜んでおられる様に感じました。
ここに来られるためにネパールから日本に旅をされた、そしてここに安置
される。

これから人々を導くために・・・、ここに来られたのだ。
私にはそう聞こえた。
阿弥陀如来の導きによって、文殊菩薩のはたらきがあるのでしょう。

「よろしくお願いします」。

「これからどうぞ人々をお導き下さい」

そのはたらく場所にやって来られました。

その脇には文殊菩薩が乗られる獅子も鎮座している。

智慧を司る仏様です。
これからその智慧で皆さんを導くことでしょう。
どうぞ光澤寺に会いにお越し下さい。


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「地域寺院」を読む

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「地域寺院」という冊子があります。

これは大正大学地域構想研究所・BSR推進センターの編集だそうです。

この冊子の編集方針の一つに、「本当に地道に地域に根付いて頑張っている
お寺を取り上げよう」というものがある。
そう書いてありました。

確かに読んでみると、決して有名ではなく大寺院でもない地方のお寺が取り
あげられている。

たとえば、マスコミが取り上げるような派手な活動やスーパー僧侶と呼ばれる
非常に強力な個性・才能を発揮している事例では、ほとんどの寺院や僧侶が
「うちでは無理」と思われてしまう。
といったことがある、と書かれていました。

確かにそうだ。
寺院は寺院毎の事情があり環境もすべて違う。
さらには僧侶自体が全く違うのだから、成功事例のように取り上げられている
お寺は参考にならないだろう。

こんなことも書いてあった。

・日々の積み重ねでじわじわと壇信徒を増やしている。
・地域で重要な役割を担っている。

こんなお寺を紹介し、「これならうちでもできる」や「同じ悩みがある」と感じて
もらえて参考になる誌面にしているそうです。

確かに目立つ寺や僧侶では、誰も気後れするでしょう。
そして自分では無理と感じてしまう。

それでも取り上げられたお寺は、それなりに頑張っているお寺である。
そうでなければ取り上げられないでしょう。

今、日本のお寺や僧侶は変わりつつある。

この冊子も、そんな背景から出来たものでしょう。
昨年に創刊され毎月一回発行している。

ちなみに大正大学は、天台宗・真言宗豊山派・真言宗智山派・浄土宗という
四っつの宗派によって出来たという。
まさに今で言う超宗派で、先見性のある大学かも知れない。

それぞれの記事が中々読み応えのある冊子です。


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宿坊でテーラワーダ仏教との出会い

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3月、男性のお客様が来られました。

雪国から一気に春に変わってきた。

話しを聞くと、大学院の博士課程にいらっしゃって、臨床心理士でもあると言わ
れる。

現在はテーラワーダ仏教と瞑想の研究に力を入れておられるとのこと。

途中お参りが入ったりしながら、話しは夜中まで続いた。

ここまで真剣にテーラワーダ仏教や瞑想の話しをすることはない。
というか、日本の僧侶はテーラワーダ仏教や瞑想を知らないので、そんな話し
になることはない。

現在はマインドフルネスがブームになってきているが、本質と違った方向に進ん
いるので、本当のマインドフルネスの話が出来ることは滅多にない。

若いしお寺に生まれたわけではない。
でもこれほど仏教のことを勉強してるんだなと感じた。

最近は一般の方も仏教に触れる機会が増えてきた。
その中で、僧侶が知らないことも多いだろう。

特にテーラワーダ仏教や瞑想は仏教の基本的な部分でもあるので、これからの
僧侶はテーラワーダ仏教や瞑想のことを語れなければ対応できない時代になる。

今回は私もたくさん教えていただくことが出来ました。

また臨床心理士の観点での話しもしました。
私が実際宿坊で行っている対応の話しもさせていただいた。

基本的には臨床心理士で学ばれていることと似ていた。

私は宿坊での対応で独自に作り上げてきたものですが、臨床心理で学ばれてい
ることの実践と言った感じでもありました。

まだ若いので、これからいろんな展開が出来るでしょう。

翌日は法事が入っていたので、ゆっくりと話が出来ませんでしたが、今度機会が
あれば、またゆっくりと話をしてみたいですね。

もっとお聞きしたことがたくさんありました。

宿坊にいると、いろんな経験をされた方が来られるので、情報はたくさん入って
来るのがありがたい。


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葬儀式での法話について思う

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法要では法話を必ずします。

それは当たり前のことです。
普段仏教に縁のない方は多い、法要の場はその縁に遇える数少ない機会だ。
そこで読経や作法だけだったのなら、それは縁に遇えたとは言い難い。

どんなに短くても教えは説かなくては法要の意味は半減するだろう。

法話は常々感じ続けていないと、言葉は出てこない。
同じ話をしても、月日が経つとその意味の深さも変わってくる。

幸いに、私は宿坊の日帰り体験や講演をさせていただく機会がある。
このとき、宗派は分からないので、誰にでも通じる仏教の話しをする必要が
ある。
さらには法座ではないので、仏教の知識もないという前提です。

その方々に届く内容と話しをしなくてはならない。
それを常に考えている。

ところで、葬儀で法話をするか?
と言う問いがあれば、ほとんどの僧侶がしないと応えるだろう。
私のお寺のある鳥取県では、年忌法要や通夜法要でも法話をしない寺が多
いと聞きます。
これは宗派によっても傾向があるでしょう。

ただ普段あまり仏教に縁のない方は多いと思います。
通夜や葬儀は特にそうです、このときは仏教の縁に遇っていただける貴重な
機会でもある。

私は葬儀で法話をするときとしないときがある。
通夜では必ず法話をしますが、葬儀の場合はそのときの状況によってです。

ただ葬儀は時間に制約がある。
出棺の時間は守らなくてはならない、それは火葬場の時間があるから。
読経や作法などの時間を考えると、長くても5分まで。
それでも長いと感じる方もいるでしょう。

そうなると、3分くらいが法話の時間になります。
3分でどんな法話をするかを考えなくてはいけません。

そこに参列されている方々の興味も引かなくてはいけない。
意味のない法話をするのなら、しない方がましだから。

そして葬儀は、そのときによって事情が大きく変わる。
それも考慮に入れておかなくてはならない。

私は故人の死因は基本的に聞かないようにしている。
ご遺族が話されるときは別ですが、こちらからは聞きません。
もちろん年齢や性別は分かりますが、それ以上は分からないことが多い。

そうなると通夜や葬儀に法話は、どんな方にも通じる話しをする必要があり
ます。

さらには以前にこんな話しを聞いたことがある。
自死をした二十歳の方の葬儀で、僧侶が浄土の素晴らしさを説いたという。
若くして亡くなられた方の、ご遺族へのせめてもの思いだったのでしょうか?

ところが、その法話を聞いた友人が、「そんなに楽なところなら死んだ方が
良い」と感じて、後追い自殺をしたと言うことだった。
その友人も悩んでいたり苦しんでいたのかも知れない。

そんなこともあるのです。

そういった意味では、通夜や葬儀での法話は十分に気をつけなくてはいけ
ない。

先日執り行った葬儀では法話を入れました。
時間にして2~3分です。

読経を終えた後、退堂の前に法話を入れます。

そのときの内容は、「極楽浄土はあるのかないのか?」でした。
この内容は以前に梯實圓師の法話を聴聞したときの内容から、私自身の
感じたことを加えています。

浄土真宗の僧侶であれば、極楽浄土はあるか?と言う問いに応えるのは
当たり前のことである。
極楽浄土があるということも分からないで、葬儀などできないでしょう。

梯師の話しを聞いたとき、「なるほど・・・、そうだ」と感じました。
たった一度のご縁でしたが、この話は心に残っている。

これは故人もご遺族も、参列者の方もすべての方に共通するテーマです。
さらには興味のあるテーマでもあるし、葬儀のときに気になる内容でもある。

そこを明確に伝えることで、ご遺族の心が少しでも救われるのならと思う。
さらには仏縁に遇われた方の心に残れば良いと思います。

この話の最期には、「極楽浄土に行くことは焦る必要はない、なぜならこれ
からもずっと存在するから。この世のいのちをしっかりと生き切ること、その
後のことは心配せずとも良いということだ。」と伝えます。

なぜなら、極楽浄土は今を生きる私たちのために存在するのだから・・・。
そこに南無阿弥陀仏の意味がある。

あるかないかを問うことはない。
と言う意味は・・・、またお話しする機会があると思います。


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『こころの授業』7・・・四苦八苦について語る。

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四苦八苦

これは人が逃れられないものです。

日常を生きるとき、すべての人はこれに苦しみ悩む。

四苦はいのちに関わるもの、お釈迦様がこの四苦から人々の心を安めたいと
仏教を説かれたのです。

八苦は心に関わることになる。
心も日常によって引き起こされるものです。

世の中には、いろんな悩みや苦しみや悲しみがある。
でも最後には、すべての苦しみはこの四苦八苦に行きつくのです。

四苦は、「生老病死」。

命あるものは、これから逃れることができません。
でも何とか逃れたいともがく。

その時点でそれが苦しみになって行くのです。

八苦は以下の通り。

愛別離苦・・・愛するものと必ず別れるときが来るという苦しみ。
怨憎会苦・・・憎しみ怨みのあるものと会わなくてはいけない苦しみ。
求不得苦・・・求めたものが手に入らない苦しみ。
五蘊盛苦・・・身体や心、それにまつわるものすべてが苦である。

四苦八苦という言葉はよく知っていても、では一体どういうことかとなると、
実は意外と内容を知っていないという人は多い。

さらにはそれが仏教の教えだとは思っていないのです。

仏教の原点は、この四苦八苦にあるのです。
ここから人の心を安んじ、そして解き放つ教えが仏教なのです。

何も葬儀や法事をすることが仏教はないし、お墓のことなど本来はまったく
関係ないのです。

この「四苦」から、縁起が説かれ空として展開される。
これは宇宙全体を考えても、縁起から外れるものは何一つないということ。

たとえそれが、いのちがあろうとなかろうと・・・。

夜空に輝く星にも寿命があると・・・、と言う歌ではないが、そういうことなの
です。

何も私だけが、ということではない。

でも人はいつも、なぜ私が・・・、と考えるのです。

そこから苦しみの連鎖が始まって行く。

そして周りと自分と比べる。

それはさらに深みにはまって行くのだ。

日常とは、「周りとの比較」・「見返りを求める」、そんな世界です。
その両方ともが、苦しみを生み出している原因なのですが・・・。

たとえば、比較することなく自分のいのちを知る。
そして見返りを求めない生き方をする。

実はそれだけで、生き方が大きく変わって来るのです。
でも日常に囚われている限り、なかなかそこに思いが行かない。
だから苦しいのです。

「四苦」をちょっと考えてみる。

これは、生れたくて生まれてきた人は誰一人いない。
誰もが歳を取りたくないし、ましてや病気にもなりたくない。
そして、いつか死ぬのは分かっているが今は死にたくないとか、元気でいて
ぽっくりと死にたいとか・・・。

でも思った通りにはなりませんね。

そう、この四苦の苦とは、元々仏教では「思い通りにならないこと」という意味
だったのです。

「思い通りにならない」とは、人に不満足の心を起こさせます。

この、「思い通りにならないこと」そして「不満足」のことを苦しみというのです。

なので苦しみは誰もがすべて同じですね。

たとえば、すべてのことが思い通りになっていたら、それは苦しみを生みません。
さらには、あることを全く気に掛けない人は、そのことで苦しむことはない。
なぜなら、そこに思いがないからです。

そういうことなのです。

意外と単純。

でも日常という物語の中が自分の全てと思っていたら、そこから抜け出すことが
できない。

それで人は苦しみます。

だってそうでしょう、日常って思い通りにならないことばかりなのですから。

たとえ望みがかなっても、そこから苦しみが始まっているのです。

なぜなら、人の思考回路には、満足という意識がすぐに上書きされます。
次の意識ではすでに不満足の思考に入っているということ。

満足とは、それを手に入れるまでの瞬間であって、手に入れた瞬間に不満足
の回路に転換します。

なので永遠に不満足の連続でしかないということ。

それをどう捉えれば、心が安らぐのか、悩みや苦しみから逃れられるのか。

その答えは、これからゆっくりと、この授業の中でお話しして行きたいと思い
ます。


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最近読んだ本で興味深かったもの

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最近読んだ本で興味深かったものです。

中にはだいぶ前に読んだ本もありますが、今年出た本も多い。

仏教関係の書籍は本当に数多く出版されるようになりました。
話題性が高い本も多いですね。

ここにある本は宗派とは関係のない本ばかり、でも宗派とは関係ない本も
読んでおいた方が良いです。
なぜならその方が仏教を広い視野で見ることができるから。

内容が面白いとかではなく、一度目を通しておいたほうが良いと思われる
物を選びました。

最近は仏教ブームで、瞑想(マインドフルネス)関係や「さとり」関係の本も
多く見かけます。

宗派の教義だけでは仏教の本質は見えにくい。
なので、様々な本を読み、自分の感覚と合っているか、もしくは違っている
かの判断基準にもなります。

特に『「さとり」って何ですか』という本は、各宗派の僧侶がそれぞれに「さとり」
について語るという、とても面白い本です。
これを読めば、それぞれの方が「さとり」をどう理解されているかが分かります。

また、僧侶が絶対聞きたくない言葉「無葬社会』という過激な名前の本。
この方の著書は過激なタイトルで評判を呼ぶという感じですが・・・。

でも実情を知るという意味では、読んでおいたほうが良い本ですね。

もし日本が「無葬社会」になれば、檀家のあるお寺さんのほとんどが、一気に
消滅して行きます。

なぜなら、葬儀がお寺から離れれば、法事もなくなるし戒名も必要なくなる。
もちろん塔婆も要らなければ、お墓もお寺から離れて行くでしょう。
檀家という呪縛からも解放される。

こう書くと、お寺って必要の無いものに聞こえますが、そこでお寺がこれから
どうするのかということが問われているのだろうと思います。

私は最近は寝る前に、これらの本を読み返しています。

そこで自分の感覚を確かめていると言った方が良いかも知れません。

それぞれの本が、自分の僧侶の感覚を確かめるには必要な本です。

読みやすいので、これからの宗派を超えた仏教を知るのに最適だと思います。

ただし、仏教的な知識がないと読みこなせない本もありますので、どなたでも
という訳ではありません。

僧侶であれば、これくらいは読みこなせないとまずいでしょうが・・・。


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「インド古代音楽ライブ」in宿坊光澤寺 ・・・ ヨガの原点に触れる

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10月19日、「インド古代音楽ライブ」が宿坊光澤寺で開催された。

このコンサートは、私の主催ではなく、地元の「天然食堂つきとおひさま」の
小倉千春さんのプロデュースでした。

夕方6時から「つきとおひさま」の夕食。
そのあと7時からコンサート開始です。

私もインド音楽を直接聞くのは初めて、とても興味がありました。

この宿坊には、インドに行かれたことのある方が良く来られる。
さらに今年からは、ヨガが毎月開催されるようになった。

そんな中でのライブです。

夜のライブなので、照明は地元の瓢箪照明アーティストの青木学さんが担当。
夜の本堂をやさしく包み込む演出は素晴らしかったです。

その幻想的な空気の中、ライブ開始。

第一部は、サーランギのオカダケンシン、タブラのJata Dhari(日本人です)

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第二部は、ドゥルパド声楽すずきなお、パワーカジのカネコテツヤ

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以上の四人の奏者によるライブです。
それぞれの持ち時間が、約1時間くらい。
演奏が始まると、途中で止まることなく1時間のライブでした。

インド古代音楽と言っても、それはヨガだそうです。
ヨガの定義は広く、数千年の歴史がある。

自分自身を見つめること・・・。

場所が夜の本堂なので、とても雰囲気が出る。
その空気によって、奏者の心も変わってくるだろう。

仏様の聖域でもある、きっと心が解放されて行くのではないかと思う。

私にとって、とても興味深いライブでした。

ライブが終わったあと、ゆっくりとお話しできる機会がありました。

私はヨガのことについては何も知らない、でも瞑想や悟りということをヨガの
方々は良く感じておられる。

なのでそこでも、とても興味深い話しが聞けます。

普段、僧侶の人たちと話しをしても、悟りや瞑想の話しになることはありません。
なぜなら、それは誰も知らないからです。

それで僧侶なのかなと思うこともしばしば、ヨガの方たちの方が僧侶よりも、
はるかに仏教に近い意識を持っているでしょう。

話していると一人の方が、以前いろいろ感じたことがあって全国で有名な僧侶
に何人か話しをしに行ったことがあると仰られた。

そこで感じたことや今どう感じているかなど、かなり深い話しになりました。

その方が言うのに、そのとき僧侶からは、大した話は聞けなかったのだそうです。
まあそんなところだろうと思います。

今日の話しの方がよく分かった、そして受け止めてくれているのが分かった。
そう仰られました。

そう、日本の僧侶は葬儀や法事の話はするけど、本質的な仏教の話しはでき
ないのです。
その問いの意味さえ分からないのが現実でしょう。

そのときある思いが通り過ぎた。

少し前のオウム真理教のこと。
その頃、問いをもった若者たちに、誰も応えることができなかったのだろう。
それで答えを出してくれると感じた場所に行ってみたのだと思う。

そう、自分自身に問いがあったとき、それに応えてくれるお寺が日本には、ほと
んどないのだ。

それは、僧侶となった今、すごく感じるのです。

私が、「日本の僧侶は悟りのことなんて何も知りませんよ、だって悟りを目指して
いないですから」というと、みなさん驚かれていました。

「まさか・・・」といった感じです。

そう、日本の僧侶は宗派仏教の思考の枠の中で、どうこう言っているだけなの
です。
それが思考であるということさえ認識していない、なので何を分からんことを
言ってるのだとなるのでしょう。
そうとしか言いようがないからです。

さらには、檀家さんも先祖供養のことしか期待していない。
つまり、日本の僧侶は先祖供養という素人が分からない分野だけで通用する
僧侶でしかないのです。

そのことに社会が少しづつ気づき始めている。
ヨガの方々の言葉を聞いて、仏教を考えさせられる不思議な時間でした。

ヨガと仏教は、とても似ている所があります。
でも本質的に、ヨガと仏教は違う。
けれど、仏教を知っていなければその違いは分からない。

日本のほとんどの僧侶は、それさえ何も分からないでしょう。
ほとんどは、その方たちの問いに答えられないか、無視するだけですね。

そんなことを今日の話しから感じることができました。


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中垣顕實氏と釈徹宗先生の対談が面白い・・・その後に忘年会もあるよ!

年末に大阪で興味深い講座があります。

ニューヨーク仏教連盟会長の中垣顕實氏(元ニューヨーク本願寺住職)に、
あの釈徹宗先生が、卍のこと、そしてアメリカの仏教事情を聞かれるという
講座です。

12月2日(金)午後6時30分~8時、大阪中島朝日カルチャーセンターで
開催されます。

中垣氏と釈先生のお話しが聞けると言う、またとない機会です。
ぜひこの機会に参加されてはどうでしょう。

もうすでに、朝日カルチャーセンターに申し込みができます。
https://www.asahiculture.jp/nakanoshima/course/a71d13e4-d23a-5466-3e85-57a46a7d4d90

そして今回は何と!

講座終了後に、中垣氏と釈先生とともに忘年会を開催することになりました。

たまたまそんなお話しをしたところ、思いがけずお二人ともその気になって
いただきました。

年の瀬は大阪の夜が熱い!
って感じですが、

お二人の興味深い話しが聞けると思います。
こんな機会は、またとないでしょう。

ぜひ皆さんも、朝日カルチャーセンターの講座にご参加ください。

講座にご参加される方で、遠方から来られる方を優先に6名まで受け付けて
おります。
といっても、特に遠方でなくても良いのですが・・・。

この忘年会は、思いつきであり何の背景もありません。
なので、どなたでもお気軽にご参加いただけます。

忘年会は、講座の終了後20:30~22:30くらいを予定しています。
会費は実費とさせていただきます(割り勘)。

場所は会場から近い、大阪キタあたりの居酒屋にしようと思っていますが、
これから決めるところです。

ご希望の方は、下記ホームページのCONTACT(お問合せ)か、
http://www.koutakuji.com/
もしくは
fb https://www.facebook.com/hidetoshi.munemoto のメッセージの
どちらかからご連絡いただければ結構です。

みんなで大阪の夜、仏教に浸るのはどうでしょう!

私がいる限り、絶対に難しい話しにはならないはずです・・・。







 

「仏教とは」・・・連研での講義

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今日は8月の最終の日曜日。

光澤寺では、浄土真宗本願寺派鳥取因幡組の第9期連研の5回目が開催
されました。

午後には豪雨も予想されましたが、一日天候が持ち、この時期にしては涼し
い本堂での開催となりました。

今日のテーマは、「仏教とは」です。

連研の参加者は約30名、スタッフが約10名での研修。
10時から開式勤行、そしてそのあとテーマの問題提起と班別の話し合い法座
と続いて行きます。

そのあとは、班別の発表と、取りまとめの法話。
昼食をはさんで、午後からはテーマである「仏教とは」の講義となり、午後3時
まで研修が続く。
結構一回の研修が長丁場で、濃い研修内容となっています。

これを毎月一回、十二回連続で研修を続けるので、連続研修といい、すなわち
連研と称しています。

この連研が、実は本願寺派の生命線でもあるのです。
この連研が熱心に行われる地域は活動が活発ともいえるでしょう。

今日のテーマは「仏教とは」です。

私の最近のテーマは、釈尊の仏教に近づくことなので、今回の研修の中では、
私がこのテーマを選択したと言った感じもあります。

仏教2500年の教えでもあるので、それはそれは壮大で、一回の講義ですべて
話せるものではない。
でもそれを約2時間で話すので、仏教のキーワード14項目とその周辺情報を
約50枚のスライドでお話しすることにしました。

理解するのは難しい、なので仏教のイメージとキーワードを一つでも心の隅に
置いておいてくれれば良いと言った感じです。

2500年の仏教を2時間で駆け抜けました。

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浄土真宗においてはもちろん、他宗派の研修でもこんな仏教の講義はないので
はないかと思います。

なぜなら日本は大乗仏教のそれも宗派仏教だからです。
宗派仏教の中のことしか語られないのが普通です。

浄土真宗でも、浄土真宗における仏教と言うのが、通常の講義になるでしょう。
私は今日の講義は、あくまでもニュートラルな視点からの仏教で話しました。

参加されておられた皆さんは、ちょっと驚かれたかも知れません。
でも仏教の本質を少しは感じていただけたかもしれないなとも思っています。

帰り際、「本当に目が覚めた思いです」と仰っていただいたり、スライドのコピー
をいただきたいとの声もありました。

私としても、ちょっと一安心といったところで、ありがたいことでした。

これほど情報過多の時代、宗派の考えだけで行くのは、ちょっと無理がある
でしょう。

仏教の本質をしっかりと受け止めることも大切だと思います。
さらにその上で、宗祖の思いを受け止めることで、仏教や浄土真宗の理解も
進むのだと思います。

私がこれまでずっと仏教の勉強を重ねて行く上で感じていることでもあります。

さあ、先へ進もう!
それは釈尊の仏教の原点を知ることだ。

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       (班別の話し合い法座の様子)


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テーラワーダと浄土真宗

日本には仏教の宗派がたくさんあります。

そこに最近は、東南アジアに伝わった仏教であるテーラワーダ仏教が
かなり浸透してきています。

浸透していると言うのは、生活の中の仏教ではなく、瞑想などの体験
を通じて入ってきているということです。

瞑想は座禅と似ていると言うか、座禅も瞑想のヴァージョンの一つと
みることもできます。

そんな感じで禅が瞑想的な感覚であるマインドフルネスを取り入れる
様になってきました。
これは今まで、禅を普及させるのに難しかった部分、つまり実践部分を
マインドフルネスが補ってくれるからに他ならないでしょう。

今その接点が不明確になりつつあると感じています。

ところで、浄土真宗は修行をしないことで有名な教えです。
決して修行を否定している訳ではない、その点はよく誤解されるところ。

修行を否定したなら、自らを仏教ということはできなくなりますね。
なぜなら釈尊を否定することになるからです。
まあ、このあたりのことは浄土真宗ではあいまいにされていて、とにかく
修行めいたことは否定するというかんじでしょうか・・・。

ただ浄土真宗の方々は、浄土真宗しか勉強されないので、他と比べよう
がないといったこともあるかも知れません。

そう言った点で、テーラワーダという釈尊に近い仏教と浄土真宗は遠い
存在だと思われていたりするのでしょうか。

でも実際にはそんなことはありません。

もちろん出家主義を取るテーラワーダと在家主義の浄土真宗の違い。
さらには修行するしないという点でも、大きく違うような感じがします。

でも、ではなぜ瞑想をするのか・・・、仏教の目指すものは何なのか。
という本質的な観点から見ると、テーラワーダと浄土真宗は一番近い
ということに気づく。

日本の仏教が、葬儀に力を入れてきたこと、さらには祈祷や護摩など仏教で
否定されてきたことをやっていることなどから考えると、釈尊に近いのは逆に
浄土真宗なのかも知れないということ。

要は心のことを中心に、悟りへと導くからです。

浄土真宗は、とらわれから自らを解き放つと言うことを一番大切にする。
それは仏教の根本でもあります。

アプローチの方法は正反対の様で、実は一番シンプルにその道を進む様な
感じがします。

もちろん、今の浄土真宗のスタイルがという訳ではなく、あくまでも親鸞聖人が
説かれた浄土真宗に限ればということですが・・・。

瞑想を深めれば深めるほど、絶対他力の感覚を感じるところがあります。
お聴聞しているだけでは、絶対他力は見えて来ず、ただ有り難いということで
終わってしまっている面が強い様に感じます。

お聴聞の場が、今の社会で苦しんでいる人の役に立っているかということ。

実はマインドフルネスは浄土真宗と相性が良いと感じます。

そんなことは感じていますが、これはそれを知っている人にしか分かりません。

他宗派だけでなく、浄土真宗も突き詰めるとその教えにそぐわないことは沢山
ある。
それはそれとして、しっかりと知っておくことも大切でしょう。
そして自分以外のことも知ることも大切。

さて、これからの日本仏教はどんな方向に向いて行くのでしょうか。

それぞれがそれぞれの道を歩む。

また新しい流れが起きるかもしれません、それはそれで時代の流れでしょう。

釈尊の教えから離れた仏教になっているのですから、別に今が正しい訳では
ありませんから。


 

葬儀での読経の印象・・・仏の意志

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今日は葬儀でした。

松江であった実践運動の会議の欠席連絡をして、葬儀に臨みました。

その葬儀に参列されておられた方から、そのときの印象をfacebookに
メッセージを下さった方がおられました。

読経を瞑想しながら聞いておられたとのこと。
そのとき感じたことは、「山の尾根を霧に包まれた山頂目指して歩いている
イメージになった」ということでした。

さらに、「目指すは天界への導き・・・みたいなことだった。目は冥ってても
脳は無になっていた」

そんな印象をいただきました。

もちろんそれは、私の読経のせいだけではないかも知れません。

でも実は、私は読経をするとき、そこにいろんな思いを持って唱えています。
もちろん自力とかという意味ではありません。

そういうものを通り越して、そこに意味を感じているということ。
ただし唱えている私には何もありません。

何もないからこそ、そこに思いが伝わるのだと思います。

私が読経すると、そこに何かを感じられる方は実際に多いですね。
そのことは時々言われることがあります。

仏様を感じられる方はとても多い。

お経をそのままに伝えたい、それは波動となって伝わって行くものだと感じる。
だからこそ思考を超えて伝わって行くのだと。

今日はたまたま具体的な印象をお伝えいただいたので、この様なことを書い
てみました。

そのお経の意味は分からなくても、その真理は伝わって行けると信じています。
言葉に囚われることなく、心に伝わって行くこと、それが読経の醍醐味であると。

お経は読経になって、エネルギーとなり波動として伝わって行く。

それは仏の意志であると信じているから・・・。


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救いって執着?

浄土真宗では救いを説きます。

その救いとは何か?

阿弥陀如来の救い、それは本願になります。

その本願は、まだ仏となる前の菩薩のときに立てた願い。

菩薩、そう法蔵菩薩と言うお立場のときに願いを立てる。

そして精進を重ね、その願いを成就される。

成就した結果、阿弥陀仏・阿弥陀如来という存在になられた。

その願いを浄土真宗では本願と言います。

本願とは、すべての衆生が必ず救われて、極楽という浄土に生まれ
ることができると言うもの。

でもそのすべての衆生とは、私の建てた極楽と言う浄土に生まれた
いと願った人である。

願った人はすべてということで、別に願わない人まで生まれさせると
までは言っておいでではありません。

それはそうだ、生まれたいと願っていない人まで生まれさせるのなら、
余計なお世話だろう。

では誰が救われるのか・・・、というと私。

仏様と私と言う関係になるので、私になる。

でも救われたいと願っていはいけないことになっています。

自分が願うとそれは自力になるから。

本願は他力なので、自力の心がそこに入ってはいけない。 

仏教は執着から離れることが基本です。

救われたいと自らが願った瞬間にそれは執着でしかなくなる。

執着になった瞬間に、その願いは苦の元へと転換して行くのです。

願いはいづれ不満足になって行く。

不満足になれば、それは苦となる。

単純明快なことですね。

なので、浄土真宗では願いは阿弥陀さんの側にあるとするのです。

となると執着ではなくなるということ、我がはからいを捨て去ること。

でも本当を言うと、日常の中ではこの執着を捨て去ることはできない
でしょう。

なのでお釈迦様の時代、出家者である僧侶は無所有・無所得・無
生産でなければならないとされた。

つまり自給自足でさえ認めてはいなかった。

それは今の私が痛感していること。

すべての執着を捨て去るには、それしかないと思います。

でもそれって、インドだから生まれたのかなあと思う。

寒いシベリアでは仏教は生まれなかったでしょうね・・・。

と話が逸れましたが。

我がはからいを捨てることがポイントです。

と言われても、さてそれができるでしょうか?

絶対他力の信心とは、その願いに一切の疑惑を持たないことと
言われています。

それでも自力を頼りにする自分と言う存在、そこから完全に解脱
するのです。

自分を捨て去らねばならない・・・。

でもそんな浄土真宗の方々はいらっしゃるでしょうか?

執着バリバリ、本山は僧侶の衣の色さえ階級の様に決めている。

そういうものなのですね、教団運営って大変です。

教団運営は100%執着になります。

なので教団運営と教えとは全くマッチングしないと言う前提です。

日常は執着の世界、つまり教団は日常のこと。

私たちも日常と言う物語の中でしか生きてはいません。

もちろん仏教はこの日常から離れることを目指している教えです。

つまり現世を日常と置き換えたなら、この日常を意識している限り
そこに仏教の目指す道はない。

現法涅槃・・・、現生正定衆とはいかに。

日常と言う意識の輪廻の世界から解脱することが仏教だからです。

救われないといけないとか、救われるはずだとか、という救いを
意識した時点で、その救いは絶対他力ではなくなります。

そこを離れた瞬間が大切ってことですが、そんなことは凡夫の私に
など分かるわけがない。

だからこそ阿弥陀如来の本願はそこに向けてあるのだと・・・。

どうしようもない自分でしかないな・・・、という思い。

まあいえば、「それでいいのですよ!」ということ。

所詮、日常の意識の中から抜け出すことなどできない自分なのだ
から。

つまり悟りの世界、仏の世界と日常と言う迷いの世界、世間がある
ということに気づく。

気づきの先にあるもの・・・。

その先にすべてを捨て去った、つまり何もない世界が広がる。

それが涅槃でしょうか。

何かあると思ったら、それは涅槃ではなくなるかも知れません。

何もないから涅槃なのでしょう。

無生無滅、つまり何もない、それが仏の世界。

因果に縛られないということ。

そこがたどりつく場所になるのでしょうか・・・?

でも、「そんなあなたでは自力ではたどり着けやしませんよ」という。

「すいません、ホンマにすいません」ってとこでしょうか。

「わかっちゃいるけど、やめられません、私」

うらみ・つらみ・ねたみ・ぐち・名誉欲に物欲・さらにはこりもせずに
愛欲の世界へ・・・。

でもそのままやったら、あんたえらいことになりますよ。

だったら、阿弥陀さんの話しでもたまには聞いてみたらどうですか。

せめて生きてるうちに聞いといてください。

そうすれば、少しは自分が見えてくると思います。

そんな感じかなあ・・・。
 

日蓮宗の皆さまが宿坊に!

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日蓮宗の広島で教化事業の活動をされておられる皆さま。

宿坊に研修にお越しになられました。

わざわざ鳥取までお越しいただいたこと、感謝しております。

普段は他宗派の方との接点は少ない。

また同宗派でも、お寺の活動を共有することはほとんどありません。

そんな中で他宗派の方と接点を持てるのは、宿坊をやっていることのメリット
だと感じます。

宿坊のメリットは、ただお寺の事業としてだけではありません。

自分自身が多くの方と出会うことができること。
そして、その方々といろんな思いを共有できることにもあります。

今回は一日でしたが、宿坊を感じていただくことができました。

次の日の朝は、宿坊の体験メニュー「こころソリューション」を一部体験して
いただきました。

宿坊で経験してきたことを、皆さんにお話した。

皆さん、熱心にお話を聞いていただき感謝しています。
というのも、自分自身の考えや実践を、他の宗派の僧侶の方に聞いていただく
のは、とても重要なことだと思っている。

仏教を通して、私が実践していることの検証作業にもなるからです。

もしオカシイところや間違ったところがあると、それを指摘していただけることも
あるかも知れない。

朝7時前に朝のお勤めをし、朝食をお摂利いただいた後、8時くらいから体験
をしていただきました。

何やかやと時間が過ぎ、終わってみれば11時を過ぎていた。
おそらく最初のイメージでは9時半くらい予定。

最後に、最近日蓮宗で厳しい修行をされた若手の僧侶の方に、「何かない?」
と先輩の僧侶の方が一言。

その方は、厳しい修行を終えられたばかり。
少しだけお話を聞くと、100日間の修行中3時間毎に水行があるのだという。

日蓮宗では皆さんされるのかと、ちょっと驚きましたが、そうではないと聞き、
少しだけホットしました。

浄土真宗ではまったく感じられないところですから。

そして、「私が5年間かかってたどり着いたことを、分かりやすく話していただ
いた」と仰っておられた。

もちろん、それぞれの思いはあると思います。
宗派の違いもあるでしょう。

ただ、他の宗派の僧侶の方にお話をさせていただく機会は貴重です。

私自身も気づきがあります。

お越しいただいた皆様、本当にありがとうございました。


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しあわせの原点をしることで、人は皆幸せになれる・・・幸せの思考回路。

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青空の上に白い雲が乗っかっている。

このまっすぐに伸びる線路。

皆さんが思っている自分の心とは、実は実体のないこの白い雲。

雲は流れて行くもの、心も同じようにひと時として同じものはなく、そして流れ
去って行く。

自分を喜ばすのも、苦しませるのも、悩ませるのも、この雲がその正体なの
です。

白い雲がぽっかりと青空に浮かんでいる。

これはまだ心が楽しかったり、悩みが無かったりする状態。

でも人の心と一緒、あっという間に曇り空になるり、雨雲が覆いつくしてしまう。
雨雲が覆いつくすと、これからずっとその雨雲が心を覆ってしまうという気持ち
になったりする。

でも絶対にそんなことはないのです・・・。

必ず流れて行く、流れなくさせているのは、実は自分自身の思考なのですよ。

そんな心を自分自身で変化させてゆくことができます。

要は私たちが思っている心は思考回路でできている。
その思考回路を、幸せの思考回路に変えて往けば良いのです。

私たちは、しばしば幸せを勘違いする。

それは条件や環境に幸せを求めて行くということ。

そこに幸せを求めて行く限り、本当の幸せにには行き着かない。

それは、条件や環境に満足ということはなく、常に先を求めてしまうから。
そしてそれを手にしたからと言って、それが幸せではなかったということに気づ
くだけです。

そう、本当の幸せはそんなところにはない、と気づけばよいだけなのです。

気づくと、心は新しい思考回路を通ります。

そうすると、心は少しづつ幸せの思考回路が積み重なって、いつかそれが本当
の幸せへとつながって行くのです。

では、幸せの原点とは何でしょうか?

それはすべての人に共通することでなくてはならない。

でなければ、最初から幸せの人そうではない人ができてしまう。
それは本当の幸せではない。

自分だけが幸せでも、それは真の幸せとは言えない。

本当の幸せとは・・・。

それは、「生まれたこと、この世にいのちを恵まれたこと」。
ただそれだけ。

いのちとは誕生によって宇宙に出現する。

それで、命は完結しているのです。

後は日常のことであり、それがどう生きたって、その命の価値に関係ない。

そのことに気づいたとき、すべての人は幸せになれる可能性が広がるのです。

自分の心がその当たり前に事に気づき、そのいのちを生ききる。

心が幸せになれるなら、その心を元に次の思考が生まれ、その思考によって、
行動が起こされるのです。

人が生きるってことは、ただそれだけでしかないのです。

心が幸せになれば、行動が変わる。

そして周りにその幸せを振り向けることができるのです。

それが仏ということなのですよ。


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仏教の目的は、こころソリューションなのです!

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「こころソリューション」ということを、私は今年のテーマにしています。

ではこの、こころソリューションとはいったい何だろうと思われるかも知れま
せん。

ソリューション、それは問題解決ということ。
人が生きて行くうえで大切なもの、それは心です。
心が幸せを決め、苦しみの元となり、行動の原点ともなる。

日常の中で、人は心を離れて生きるということはない。
でも、その心のことを何も知らないし、日本のお寺はそれを分かりやすく
教えてくれない。
それは、僧侶がそのことを知らないからだけなのです。
日本の僧侶の大半は、仏教が心の問題を説くことだと気づいていないし、
その問題解決のために教えがあるとも思っていない。

それは、葬儀や法事にばかり心を捕らわれているからです。

ズバリ言うと、仏教とは本来は心のソリューションということなのです。

「えっ、どういうこと?」と思われるかも知れません。

本来仏教に、葬儀や祈祷やお祓い、先祖供養などというものはない。
もちろん戒名を付け、そこに差があるなんてありえない。
そこに至ってはハッキリ言うと、お釈迦さまや各宗派の宗祖をないがしろに
している行為でもあるのです。

でもそれが、お寺の役割じゃないの? 

いえ、まったく違います。

仏教は心の問題を説く教えであって、それ以外のことは全くない。
つまり、現在の日本のお寺がやっていることは、仏教に関係ないことばかり。
でも檀家制度によって、仏教の意味が大きくはき違えられている。

つまり全日本仏教会がamazonの僧侶派遣にクレームを付けたが、本来は
筋違い。
葬儀や法事が仏教の宗教行為であると言ったなら、日本の仏教会が仏教を
間違った方向に進めていることになります。

もしクレームをつけるとしたなら、仏教ではそのような行為は宗教行為とは
認められません。
そう発言したのなら、それは筋が通っているということになるでしょう。

元々、お寺や僧侶が葬儀や法事や戒名、祈祷やお祓いを商売としてきた
ことによるもので、本来仏教の持つ本質的な宗教行為ではない。
さらには現行の戒名制度や祈祷やお祓いは、ヒンドゥーや道教の宗教儀礼
であって、仏教ではありません。
さらには儒教の先祖崇拝もそこに加わった。
要は日本の神道の範疇に属するものが多いのです。
もちろん護摩行もそうです、これはヒンドゥー教とゾロアスター教の影響で
しょうか?
中国でそれが仏教だと言われたので、日本はそのまま輸入しちゃった!
ってことくらい。

葬式教や先祖供養教と名乗っていれば問題ないでしょうが・・・。
それは仏教ではないということです。

もちろんグリーフケアということを含めると、そこに意味を見出すことはでき
ますが、ただ衣を着てお経を唱え戒名を付けてそれを対価とするならば、
そこに意味を見出すのは難しい。

お釈迦様が説かれた教えは、まさに「こころソリューション」なのです。

つまり、心の問題解決をしようということ、これに尽きます。
生きているとき、そこにある心の問いに応えるのが仏教ということなのです。
グリーフケアもここに入りますね。

葬儀や法事にも、そういった意味で大きな役割を果たします。
でもそこに、戒名やお布施という問題が入ってくると、それはどうかと思い
ます。
宗教行為ではなくサービス行為になっているのではないでしょうか?
サービスであれば税金対象にさえなりかねません。
その本質を僧侶や教団はどう問うのでしょうか。
従来のところ、そこはまったくスルーされています。
日本全体が、葬儀や法事のことだけで宗教行為と思っているからでしょう。
さらには教団を形成している主要な寺院や僧侶は、それで莫大な収益を
上げているからですね。
それがなければ、日本の寺院や教団は成り立たない。

もしかすると、日本の仏教が衰退し消滅する可能性すらあります。

まさに末法の世。

でもインドではすでに一度、仏教は衰退し滅亡さえしているのです。

これをお釈迦さまはどう感じられるでしょう。
間違った仏教をスルーすること、それこそがまさに末法だと言われるかも
知れません。
日本の仏教は、まさにそれを問われようとしているのではないかと思い
ます。

法が真理であれば、その教えは引き継がれてゆく。
ただ、世間ではそうばかりではないでしょう。

そのことをお釈迦さまは何とも思われないでしょう。
人々に教えを説くことにはすべてを尽くした。

必要であればそれでよいし、そう思わなければそれでよい。
そんな感じではないでしょうか。

悟りの目的は、自分自身の心の解決が先にある。
そしてその教えを伝え、人々を導くこと。
それが生きる意味であったのではないでしょうか。

「こころソリューション」

実は、これは現在の日本の仏教に必要なキーワードかも知れないのです。
仏教を今生きている人に届ける。

その日常で苦しんでいる方々の心を救って行く。

涅槃は死んだところにあるのではなく、生きている心の中にあるもの。

教義や教えを例え話や有り難い話に置き換えて、本来の仏教の持つ意味
を分かりづらくさせている。
私が所属する浄土真宗ではこの傾向が強い。
多宗派では、祈祷やお祓い護摩など、お釈迦様が否定したことを平気で
行う。
それは日本に仏教が入ってきたときそうだったという事です。
まあそれはそれで、日本の宗派仏教の限界というところでしょう。

先祖を大切にとばかり言う僧侶は、僧侶の衣を着た偽僧侶であるのは
間違いない。
大切にすることの意味をしっかりと伝える、それが大事なのです。

お釈迦さまは亡くなられる前に、こう言われたという。
「私の死にかかわるな、お前たちは修行を続けよ」・・・。

それは人々に教えを説き続けよとの意味でもあります。

「こころソリューション」ができて、日本の仏教は甦って行くでしょう。
もしそれでダメなら、今の日本に仏教は必要ないということかも知れない。

「それはそれ」ということなのだと思います、なぜならそれが仏教・・・。

この世のことは、諸行無常なのです。


さて、これを読まれた皆さんは、どう感じられるでしょうか?

書かなくてよい、余計なことを書いてみた。
日本中の僧侶を敵に回したかもしれませんね。

「では、お前はどうなんだ!」

と聞かれると、「それができない迷いの中にいます」。
これが実態ですね。

葬儀と法事と納骨が主たるお寺財政、それで生活させていただいている。
もちろん、それだけではない道を毎日模索してもいます。

宿坊でお一人お一人と向き合って行くこと、そしてお一人お一人に仏教の
お話しをしながら、心のことに向き合って行く。

それでもまだ批判される対象だと思います。

ただその中でも、仏教的な「こころソリューション」を目指して行きたい。
そう思います。

人々の心の苦を解き放つこと、それが仏教の目的だから・・・。

そして、それがあって初めて葬儀や法事の意味も浮かび上がってくると・・・。

すべての人は、お寺に望むものは違うでしょう。
だから、このお寺はこのお寺としての役割を持って行くこと。
それぞれのお寺が、それぞれの役割を果たせばよいのだと思います。

お寺や僧侶が、葬儀や法事の呪縛から解き放たれたとき、日本の仏教は本物
の仏教として甦るかも知れないのです。
何が本物かは、これからその振り返りが必要となりますが。

「自らを島として 法を島として」 「ただ犀の角のごとく歩め」
それが私の生きる意味だと思っています。


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通り過ぎて行く時間の中で

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時間は一瞬一瞬通り過ぎて行く。

仏教ではその時間を刹那と表現する。

すべての存在は、刹那の連続の中にあるのだ。

その存在ごとに、刹那がある。

その存在がすべて重なり合い、縁を起こしながら・・・。

すべての存在が交差して行く。

その一瞬を切り取ったもの、それを一瞬に写し込むのが写真なのかな。

連続で通り過ぎて行く瞬間を切り取る。

ある意味、刹那の一瞬。

もうその瞬間は二度と戻ってこない。

そうして、ずっと過去から繰り返されてきた時間。

またずっと過去へと巻き取られて行くのだ。

そこに自分と言う存在を、どう見つめて行くのか。


カウンセリングにとって大切なことって?

カウンセリングにとって大切なことって何だろう?

私は特に専門的に学んだ訳ではありません。
なので、日々のことから私自身が感じていることなのですが・・・。

よく研修では、クライアントの話を聞くこと。
つまり傾聴が大切だと言われることがあります。

たとえば、「頷き」とか「オウム返し」とか。

でもこれって、それだけではないということを知っていますか。

傾聴とは、力でもあるので、ただ耳を傾けるだけではダメなのです。

要は、聞く力がなければ傾聴にはならないということです。

聞く力とは、経験や感覚、そして数多くの実践がなければつかない。

よく研修などで、施設などでの傾聴ボランティア体験などあります。

でもあれは、お茶のみ相手ってことであって、傾聴ではないと理解
しておく必要があります。

傾聴には、相手の心を引き出す力も大切なことなのだと思う。

なので、カウンセリング力は、学問や研修で身に付くものではない
と感じます。

日本の臨床心理などは、まだ歴史が浅く学問や研究論文などに頼っ
た部分が多いでしょう。

実際に聞く話では、臨床心理や精神科でのカウンセリングはほとんど
実践さえてないという。
ただ薬の処方になっているケースがほとんどだとか。

これでは日本にカウンセリングの蓄積がなされない。
実際に、日本ではカウンセリングがお金にならない社会でもある。
なので、なおさらそうならざるを得ない。

宗教界でも、臨床宗教師なるもの話題になっていたりする。
多くの宗教者が研修に参加しているそうですが、おそらくこれは所詮
研修レベルで終わるでしょう。

なぜならカリキュラムをこなすだけの研修だから。

日本にもチャプレンをということでしょうが、そんなものは必要とされて
いないのだから、あくまでも研修のための研修でしかない。

もっともっと、心のことを知り、多くの方々の話を聞く。

私が悩みや相談を聞くときは、半分は私の方から話します。
相手から苦しみの話が簡単に出てくることはないのです。

世間話しや会社のこと、生活のことや家族のこと。
友達や彼氏のこと、話すことはたくさんある。

ときには全く違うレベルの話し、たとえば宇宙とか世界のこととか、歴史
のこととか。

それと、違う人の悲しみや苦しみだったり。
もちろん個人を特定することはありません。

そんな話の中から糸口を見つけてもらうことも大切なのです。
こちらから糸口を探るのではなく、相手の方に見つけてもらうのです。

そうすると、話しが一気に進む時があります。

苦しんでいる人に、話しを聞き出そうとしてはいけないのです。

ゆっくりと時間をかけなければいけない。

糸口が見つかれば、あとは相手の方の話しを聞いて行く。
そのときにも聞き方ってあるのです。

私が半分話すと言っても、相手にプレッシャーをかけてはいけないし、
必要に応じてアドバイスもしなければいけないのです。

ここで話すことは、ほんの一部ですが、傾聴と言っても多くの実践と社会
経験が必要です。

なぜなら、悩みは仏教の中にあるのではなく、社会の現実の中にあるの
ですから。

なので社会経験のない僧侶が、いくらカウンセリングと言っても、それは
ただの相談されたレベルであって、カウンセリングにはなっていないと言う
ことなのです。

もちろん、相談に仏教の言葉で応えるようなことがあってもダメですね。

私は仏教のこともよく話します。

でもそれは、現実に応用が利かないとダメだということを前提にしています。

方便になっていなければ、仏教の話しをしても意味がない。

そう、先ずは相手の方を全面的に受け止めることから始まります。


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地図記号の卍が変更される?・・・文化と歴史を考えない国土地理院って何?

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地図記号が外国人観光客の増加によって、分かりやすいものに変えようとの
動きが出ているそうです。

その中に、お寺の記号である卍も含まれていると言う。

国の施策によって、日本の歴史と文化が捻じ曲げられようとしているという事
に気づいているのだろうか?

国土地理院も堕ちたものだ。

なぜ外国人に迎合しなくてはいけないのだろうか。
それよりも、自国の文化を外国の方に教える大切な機会ではないか。

欧米の方は、卍はハーケンクロイツを表し、ナチスドイツを連想させるシンボル
マークだと連想するかも知れない。

それを気遣ってのことであれば、それよりもはるか昔から、日本のお寺を意味
する卍をなくす方がおかしいでしょう。

実は、この卍研究の第一人者は、ニューヨーク仏教連盟会長の中垣顕實氏で
ある。
元ニューヨーク本願寺の住職で、日本人の方である。 

光澤寺にも一昨年の秋、文化講演会でお越しいただいたことがあります。
そのときにも、卍の持つ本当の意味を教えていただいたのです。

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氏の著作である、「卍とハーケンクロイツ」をお読みいただけると、卍の背景
がよく分かります。

卍は、元々宗教の中心を表すシンボルであった。
古代インドやユダヤやキリスト教でも古くから使われていたシンボルです。

神や仏は、光の存在です。
その中心の光が卍なのです。

ジャイナ教やヒンドゥーを始めとし、仏教でもその光を表していて、神聖なる
ものとして扱われているのです。
日本には、卍が仏教のシンボルマークとして入ってきたのです。

それはナチスドイツより、1500年くらい古い。
古代インドやユダヤ教の世界では、すでに2000年以上前から使われている。

インドを旅行した人が、卍のマークはどうして使うのか、ナチスのシンボルでは
ないかと質問したと言う。

すると、そのインド人は、「インドでは数千年以上前からこのシンボルを使って
いるのだ。なぜ変える必要がある!」と言ったそうです。

日本でも、馴染み過ぎていて普段は気づかないが、いたるところに卍があるの
です。

光澤寺にも、本堂と山門の瓦に卍が入っている。

欧米でも、戦前戦中までは、キリストのクロスを表現するものとして、普通に使
われていたものです。
それがナチスのシンボルマークを連想させるという事で、戦後は一気に姿を消し
たという経緯がある。

ではそもそも、なぜナチスはそのシンボルに卍を選んだのか?

それは、第一次世界大戦後にドイツ国民は敗戦によって、落ち込んでいた。
国も戦後賠償などで景気も悪く、誇り高きゲルマン民族が意気消沈していたの
です。

そのとき登場したのがヒトラー率いるナチスです。
ヒトラーは宣伝に長けていた。
国を象徴する国旗、そこに力を込めてドイツ人を奮い立たせようと考えた。

そこで一番力があり神聖なマークはなにかということで、宗教の中心の光を表す
シンボルマークの卍を採用したのだと言う。

その旗の元にドイツ人の結集を図り、一気にドイツが 甦ったのです。

その様な経緯があります。

それも氏の著作に書いてある。

インドでも古代ペルシャでも欧米でも、すべての宗教の原点であるものが、この
卍であるのです。

その卍の意味をしっかりと考え、中途半端な迎合主義に陥らないようにしないと
いけない。
外国人は、日本文化に親しむために日本にやって来る。

卍の本当の意味をしっかりと伝えることが、日本文化を伝えることになるのでは
ないのか。

日本仏教会も、amazonの僧侶派遣にとやかく言う前に、この問題をしっかりと
国土地理院に提起すべきではないのか?

本当にしっかりとして欲しいものです。

自分たちの伝統が消されようとしていることには発言せず、時代の流れによって
自分たちの利権が侵されようとするところだけ反応していたのでは、社会から
そっぽを向かれてしまうでしょう。

国土地理院と日本仏教会は、この問題をしっかりと考えて欲しいものです。

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尚、ここに掲載させていただいた写真は、光澤寺にお越しいただいた時の
中垣顕實氏です。


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