宿坊光澤寺日記・・ひとりばなしのつづき。

光澤寺&宿坊光澤寺&やずブータン村。 山里のお寺で繰り広げる「こころのふる里」作りとお寺復興プロジェクトや、宿坊に来られた方々との出会いも語ります。

インド仏教滅亡の理由

なぜインドで仏教が滅びたのか?・・その9(その後のインド)

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インドにおける仏教の滅亡には様々な要因があるでしょうし、いままで述べて
きたこと以外にも大きな要因があるかも知れません。
ただどちらにしても複合的に重なって滅亡へと進んで行ったのでしょう。
でも、どれか一つをとっても、いづれは滅亡する運命であった様にも感じます。

インドの北東部には、インド滅亡後も密教は残っていましたが、地理的考える
と昔のインドと言う訳ではありません。
またインド内部にもほんのごく少数の仏教徒が残っていることもTVで見たこと
があります。
ただどちらをもってしても、インド仏教の滅亡を覆すような状況ではないと考え
ます。

インドで仏教が復活するのは、第二次世界大戦後のインドの独立を待ってか
らとなります。
これは、インドカーストの枠外に置かれたアンタッチャブル(不可触民)出身の
アンベートカルの登場を待ってと言うことになります。
アンベートカルはインドがイギリスから独立したときの初代法務大臣となり、カ
ースト制度の撤廃に尽力した人ですが、あの有名なガンジーと激しく対立した
ことでも有名です。

その対立は、ガンジーは独立に際してカースト制度の存続に肯定的であった
ことにあります。
アンベートカルはカースト制度の撤廃なくして真のインドの独立はないと譲らな
かったのです。
初代法務大臣となったアンベートカルは、カースト制度の撤廃を法律で定める
ことを成し遂げましたが、ヒンドゥー教の教えが根付いているインドでは法律で
決まっても実際の差別は無くならることはなく、現在に至っても厳然と続いてい
るのです。

アンベートカルはヒンドゥー教があるかぎりカーストは無くならないと考えて、民
衆30万とも50万とも言われる人々を引き連れて、1956年仏教徒に改宗し
ている。
アンベートカルはこの集団改宗のすぐ後に亡くなっている。
その後も集団改宗を行っているが、まだまだインドでは少数勢力である。
これには差別に対する社会保障が、仏教徒に改宗すると受けられなくると言う
様なこともあるそうです。
もちろんさまざまな社会環境が整っていないと言う面もあるでしょう。

このアンベートカルは日本では仏教界でもあまり知られておらず、取り上げら
れることも少ない。
ガンジーの方がはるかに有名なのである。
仏教国である日本が支援してもよさそうですが、この運動には関わっていない
ですね。
その理由は、大乗仏教至上主義だった日本は、小乗と呼んでいた上座部へ
の改宗であったことや、下層階級出身者だったことなどと推測される。
まあ日本の仏教界と言えば、世界宗教者会議で当時の日本の仏教代表が
「日本には一切差別はない」と発言する様な体たらくな世界だったわけでもあ
ります。

アンベートカルにはイスラームやキリスト教からの誘いもあったようですが、仏
教がインドで誕生した宗教であることなどから、仏教徒への改宗を決めたので
す。
アンベートカルはこの様な誓いがあったそうです・・・
「ビシュヌ・クリシュナなどのヒンドゥーの神は信じません、ブッダがビシュヌの
化身とは信じません。人間を差別するヒンドゥー教を否定しブッダの教えを信じ
ます。」

因みに、ガンジーは「カーストは自然な秩序だ」として、アンベートカルに対立
して断食を敢行したということです・・・。

このアンベートカルの集団改宗を以てインド仏教の復活と言えるかどうかは微
妙です。
決して教えが復活したわけではないのでしょうから。
現在でも仏教徒に改宗した人々はインドのごく少数の人たちだけです。

ただこのことが一つのきっかけとなり、仏教が見直されることになるときが来る
かも知れません。

なぜインドで仏教が滅びたのか・・?その8(比較宗教論)

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昔インド人と言えばターバンを巻いているイメージがありました。
でもターバンはヒンドゥー教徒ではないのです。
それはジャイナ教徒であり今でもインドで確固たる地位と勢力を保っています。
インド財閥のタタグループはジャイナ教徒であると言われています。
虫をも殺さないと言った教えはこのジャイナ教に由来しています。

イスラームの侵攻と長く続いたイスラーム王朝の治世化にあってもヒンドゥーと
ジャイナ教は存続しているのです。
アラブ地域の様にイスラーム一色になることはありませんでした。

仏教は科学的合理主義の教えであったため、生活や文化を押し付けると言う
ことはあまりありませんでした。非戦争主義でもある為教えを広めるために他
の国へ侵略することもありませんでした。
ただ教えのみを布教伝道すると言うスタンスだったと考えられます。

たとえば、イスラームやキリスト教は、教えを広めると言うことを旗印にして、他
の国へ侵略しています。
それは神の名の下に、その教えを広めると言う大義名分が必要だったから。
現在のキリスト教国が昔からキリスト教国だった訳ではありません。
ヨーロッパでも本格的にキリスト教が広まったのは10C以降ですし、北欧では
もっと先になります。
中南米は新大陸の発見において、16C以降神の名の下に侵略と虐殺と奴隷
という搾取が行われているのです。
宗教は絶対的な安心を生むと言うことはありえないと言うことが歴史によって
証明されています。
十字軍も神の名を語った侵略戦争でした。
ある意味、秀吉の朝鮮出兵に似た面もありました。
イスラエルの建国も約束の地であると言うことを名目にしたイギリスの対アラブ
戦略でしかありません。
なにしろ欧米の金融界はユダヤ人が牛耳っていたわけですから。

その昔は、金貸しという商売はイスラームでもキリスト教でも下賤な商売だった
とされました。
イスラームでは教えの中で利子を取ることは禁じられていたため金融業が発達
しませんでした。
このことが近代になってアラブ世界と欧米との経済発展に決定的な差を生むこ
とになります。
ユダヤ民族はその苦難の歴史の中で金融業でその活路を見出します。
そして、そのことが現在の欧米の経済発展に大きく寄与して行くことになります。

言わば、キリスト教が広まった要因は、伝道布教によるものではありません。
侵略による伝道であったとも言えるでしょう。
事実、侵略の少なかったアジアではキリスト教は広まっていません。
元々伝統的な仏教国だった国がキリスト教国に替わった例はありません。
普遍宗教の展開が遅れていた国にキリスト教が侵略者として入って行き、そこ
にキリスト教を広めていっただけなのです。
事実、一時期カソリックは徹底的に中国に宣教師を送り込みます。
ただ結果的には野垂れ死にする宣教師が多かったのです。
映画「炎のランナー」の登場人物も同じ運命を歩んでいます。
ただ一つ例外は韓国で、日本の占領支配の中で日本から強制された神道
政治への反動から戦後は一気にキリスト教が勢力を伸ばしました。
その中で韓国では独特のキリスト教として発展しています。

キリスト教になじまなかったアラブ諸国はイスラームの登場を待って、一気に
イスラーム化して行きます。
砂漠の民と言われるイスラームは、その厳しい生活環境にその教えがマッチ
していたと考えられます。
要は助け合いの精神的な教えがありました。
一夫多妻制度も、戦いによって主人が亡くなって往く中、その力のあるものが
未亡人を救済して行くシステムでもあったのです。
ムハンマドも未亡人の子どもとして育っているのです。
ですから第一夫人もそれ以降の夫人も待遇に差を設けないことが原則となって
います。

今までの話の様に、イスラームやキリスト教やインドに残った宗教は、生活や
政治、文化そのものでもあったのです。
もちろん民族のアイデンティティーでもありました。
ですから自分たちの民族が生き残るためには、他の犠牲をも厭いません。
その宗教が亡くなれば自分たちの民族の存在をも危ういといったものでもあり
ました。
その点、仏教の合理的性から、仏教はそこまでの規定はしていないのです。
他の宗教と融合ができる宗教だったのですが、逆にそのものという面には多少
弱かった面があるのでしょう。
仏教の先進性なるが故に、逆に縛り付けることも弱かったかも知れません。

現在、世界三大宗教と言われるものや、ヒンドゥー教も過渡期に入っていると
言われています。
それぞれがこれからの展開を思案している状況にもあります。
これは日本仏教にも言えることで、現在日本仏教が置かれている立場は、あ
る意味、世界の宗教が置かれている立場でもあります。
フランスではカソリック離れが言われていますし、アメリカでも従来の保守的な
キリスト教への反動が起きていることもあります。

それぞれ家族や一族のアイデンティティーであった宗教が、個人主義的な宗
教へと変わりつつある中で、次の展開を模索している状態であるとも言える
のではないでしょうか?
そのときに仏教は、人々への訴求力が強い宗教でもあると考えます。
欧米では、家の宗教を離れて、個の宗教である仏教への関心が強まっても
いるのです。
ある意味では現代にマッチした宗教である可能性が秘められているのです。
万物の創造主たる神よりも縁起に由来する仏教の本当の出番かも知れま
せんね。
ちょっとそんな気がします。
もしかしてその仏教は日本が起点となるかも・・・?

なぜインドで仏教が滅びたのか?・・その7(インド仏教の考察)

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インドと言ってもその範囲は広く、どこまでをインドと言うか?となるとその時代
のよって違うかもしれません。
釈尊が生まれたのは現在のネパール、伝道布教したのはインド北部のガンジ
ス川流域ですし、大乗仏教の中心は北西インド方面とも言われている。
たとえば、インドの東部のガンジス川東岸はベンガル地方と言われインドとは
区分けされ、現在はバングラデッシュとなっている。
インドの語源となったシンドゥー川、現在のインダス川はパキスタンである。
バーミヤンの磨崖仏はアフガニスタンにあり、タリバンによって破壊されている。

南伝仏教と言われる上座部仏教は、その伝播が紀元前であったため、他の
影響を受けることなく、現地の土着宗教を吸収しながら伝わり、現在に至って
いる。
その伝播の年代からも釈尊の教えに最も近いと考えられてもいます。
現在では日本でも少しづつではあるが、瞑想などを中心に信者を増やしてい
る。

北伝仏教である大乗は、紀元前後頃に興った在家者仏教の民衆運動が中心
であり、その後その理論付を龍樹を代表とする中観派、無着・世親(天親)の
瑜伽行派などが行っていった。
その特徴は、仏塔の礼拝・仏徳讃嘆・偈頌の読誦などであったとされる。
初期大乗仏教経典は、『般舟三昧経』『大阿弥陀経』などで、その特長は文学
的で構想力豊かな表現で宗教的な情念あふれるものであった。
中期以降になると、教義中心の理論的性格が顕著になってきている。
この点でも、難解な教義や儀礼中心になり民衆が離れて行ったとも考えられる。
この大乗仏教が伝わって行く過程で、ゾロアスター教の影響を受けていると言
う学説もあり、ゾロアスター教の神であるアフラ・マズダが阿弥陀如来の原型
とされている説もあります。
このアフラ・マヅダは光の神で、ユダヤの神やインドのヴィシュヌ神にも影響を
与えているとされるなど、光の神の原点とみる説もある。
因みに自動車メーカーのマツダのロゴはMAZDAで、この神から来ているとも
言われています。

中国には、インドでは遅れて成立した大乗仏教が、上座部仏教とほぼ同時期に
伝えられることになる。
その結果、中国では大乗から小乗と呼ばれていた上座部仏教より大乗仏教の
方が受け入れられたのである。

もう一つの仏教の流れは密教である。
密教は4~5C頃に、ヒンドゥー教を取り入れながら仏教が変化したものを言う。
ただ「密教」の意味するところは秘密仏教でるとされ、釈尊の説いた教えである
が、その内容が崇高で難解であるため一般には理解されない為、それまでは秘
密にされていた教えであるということ。意味としては後付け的ですが。
7C頃に中期密教が興り、この中期密教が日本に伝えられて「純密」と言われる
ものである。
この密教はその後北東インドに伝わり、チベットやその周辺国にも広がっている。
この密教は日本やチベットではさらに個別に進化をとげ、それぞれが大乗仏教
の教義を取り入れるなどしている。
このことなどから密教も大乗仏教の流れとされることもあります。
空海や最澄が唐に渡ったときは、この密教がまだ日本ではあまり知られておら
ず、逆に仏教の最先端と考えられていた面があったため、密教の奥義を日本に
持ち帰ることが求められていたが、中国密教の高僧であった青龍寺恵果より授
戒し戒壇を許可された空海が最澄に一歩先んじたことになる。
ふたりとも第一の目標はこのことであったのだから、空海はその渡航からして
天才的な強運と才能の持ち主であったと感じる。
ただその後、高野山は密教一筋となったが、比叡山は仏教総合大学的な場所
になる。そして鎌倉仏教の開祖の主要人物は、比叡山で学んだ人によって興さ
れるのである。
もし立場が逆であったら、日本の仏教は変わっていたかも知れない。
ただ思うのは、民衆に支持されない仏教は衰退に向かっていることを考えれば、
鎌倉仏教が興らなければ確実に日本仏教はインドと同じ道を辿っていたかも?
前にも話しましたが、チベットを除く中国では密教はさほど広がっていない。
それは、ヒンドゥー的な要素のある密教に対して、中国には民族宗教である道
教が民衆の間に根付いていたからと言われている。
その様な点では、日本の密教はある意味、神道的な面も多々あり、聖地巡礼
も含めて日本仏教の多面性の象徴とも言えるかも知れません。

この様にイスラーム興隆前に南アジアや東アジアに伝播した仏教は、その後も
受け継がれて行くが、イスラームが侵攻した中央アジアはイスラームの国にな
り、インドでもヒンドゥー教に吸収されるか、もしくはイスラームに改宗して行かざ
るを得なかった。
たとえば、インド周辺で仏教勢力のあった現在のアフガニスタンやパキスタン、
バングラデッシュはイスラーム教国になっているのである。
そしてインドでは、英領になる前のムガール帝国時代までイスラーム王朝が約
900年近くも続くが、ヒンドゥー教は滅びることなく民衆に深く根ざし、現在も隆
盛を誇っている。
これには仏教の教義的な面も大きく関わっているのではないかと感じます。
ヒンドゥー教はインド人の文化や生活そのものであり、アイデンティティーでもあ
りますが、仏教はそこまで民衆の間に浸透していなかった。
普遍的であり合理的主義であった仏教は、仏教の利点を必要とする商人階級
や、インド社会で正統性を持たない下層階級出身の王侯貴族や異民族の支配
者に受け入れられていたが、一般民衆までの浸透ができていなく、イスラーム
の侵攻の前にはヒンドゥー教のような対抗勢力にはなり得なかったのである。
また生活面や文化面でアイデンティティーまで至って無い点で、イスラームにも
改宗しやすかったのかも知れません。
ある意味、その当時の世界ではその思想や教義は最先端であったがゆえに、
その頃のインド人には十分に受け入れられなかった面があったのでしょうか?
仏教と同時期にインドに興ったジャイナ教は、滅びることなく現在も財閥グルー
プを始めとした有力信者を擁しています。
そして、仏教が再びインドで復活するまでには、長い年月を要するのです。
その間に仏教関係の建造物や経典はあまり顧みられず、破却されるか地中に
深く埋もれたままになって行くのでしょう。

なぜインドで仏教が滅びたのか・・その6(内的要因と外的要因)

インドにおける仏教衰退の理由としては、今まで話してきたとおりの要因が
重なってのことなのでしょう。
一つには、仏教が釈尊の入滅後に部派に分かれてお互いを攻撃しあって
きたこと。
仏教の中心であった上座部仏教およびその一派である説一切有部が、国
王や貴族、商人の庇護を受けるようになったが、逆に民衆への伝道布教が
疎かになり、教理主義・修行主義に陥って行き大寺院における宗教となって
行った。
その間、衰退していたバラモン教が民衆や僧侶の力もあり、次第に勢力を
回復して行き、ヒンドゥー教となってインド人のアイデンティティーである宗教
に衣替えして行き、ヒンドゥー文化を花開かせたこと。
その過程で、王朝もヒンドゥー教を保護し、大きな支援者であった交易の商
人も、その貿易相手国だった西ローマ帝国の滅亡によって没落して行った。
その中で、仏教は民衆の力を得られず次第にヒンドゥー化して行き、本来の
釈尊の教えから乖離し仏教の存在意義がなくなった。
以上のことが、仏教がインドで衰退した内的要因であると考えられます。

では、外的要因にはどの様なことがあったのか?
それは、イスラームの興隆にあります。
イスラームは突然、サウジアラビアの砂漠の地メッカに興ります。
ムハンマドが神の啓示を受け、苦難の中、メッカからマディーナに移ります。
これをイスラームでは聖遷(ヒジューラ)と呼び、この年(622年)をイスラーム
元年としています。イスラームではこのイスラム暦を用います。
イスラームの神とキリスト教の神、ユダヤ教の神は同じなのか違うのか?
これはよく聞かれる命題です。
ただ一点間違いなく違う点は、キリスト教は神の使徒(預言者)であった
イエス=キリストが、十字架に架けられて人類の罪を受けたこと、そしてその

罪を贖い復活し神となったことです。ユダヤ教でもイスラーム教でも神
はただ一つの絶対無二の存在ですが、キリスト教では神とイエス=キリスト
と精霊を神と見なす「三位一体説」を基本原理としています。
また神の母であるマリアも礼拝の対象になります。
キリスト教で一番の聖なる日はキリストが復活した日、イースターとなります。
三つの宗教の違いは、啓示を受けた預言者、つまり神の言葉を受け取った
者の違いであるとも言えます。
イスラームはモーゼもイエス=キリストも預言者として認めていますが、イエス
を神とは認めません。これはユダヤ教も同じです。
イスラームでは最後の預言者がムハンマドと言うことになります。
ちなみにラテン語で神を「ヤハウェ」と呼びますが、ヤハウェをアラビア語で
読み替えると「アッラー」になります。
共通点は、神は唯一絶対神であり万物の創造主であるということです。
ですから基本的に他の神の存在を認めません。
そして神は本来、不可称・不可思議・不可説の存在であるため、偶像崇拝
を認めないということです。
すなわち、見ることも想像することも、説明することもできない存在という事
になります。
ユダヤ教やイスラームは現在でも偶像崇拝禁止です。キリスト教も一部で
は偶像崇拝を禁じていますが、カソリックを中心として十字架や神を描い
た絵画が沢山残されており、偶像崇拝がある信仰の中心となっている面が
あります。ルネッサンスもこの影響があるからこそ興った文芸復興ですから
宗教絵画や教会の壁画が中心となっています。
またユダヤ教は、ユダヤ教を信じる人々のみを救うと言う、いわゆる民族
宗教であり、その苦難の歴史にあったユダヤの人々の宗教であったため、
普遍的に広がることはありませんが、ユダヤ教を普遍宗教に改革したの
がキリスト教であると言えます。
ですから新たに神と契約する必要があったので、新約聖書が登場します。
この新約聖書の編纂のとき、福音書にはかなり仏教説話があったことは
知られています。

そしてアラブの砂漠に興ったイスラームは、燎原の火のごとくその勢力を
拡大して行きます。
イスラームは布教のための慈悲の戦いを聖戦(ジハード)と呼び、一気に
その勢力を拡大し、当時の大帝国だったササン朝ペルシャをも滅ぼし、
その後100年程度でスペインから中央アジア~唐までその地域を広げて
いる。まさにイスラームの共通した価値観の元にアラブ全域をその支配下
に治めている。
ササン朝ペルシャの国教はゾロアスター教であったが、滅亡後はこの宗教
を知る人がいないほどになった。
のちにニーチェが「ツアラスツトラかく語りき」と言ったツアラスツトラとは、こ
のゾロアスターのことなのである。
実は、このゾロアスターが元々、大乗仏教やインドの神々、ユダヤ教や
キリスト教にも影響を与えたと言う説があるほど、世界最初の普遍宗教と言
われる宗教だったのです。

イスラームは、偶像崇拝の宗教を徹底的に攻撃しています。もちろん仏教
やジャイナ教、ヒンドゥー教もその攻撃対象になります。
その言葉は、「改宗か死か」(コーランか剣か)と言われていますが、改宗の
なかには貢税と言う意味合いもあったとも言われています。
当初は、イスラームの支配に対して反抗しなければ、異教徒にも攻撃的で
無かったとされていますが、ひとたび反抗的であればその都市そのものが
殲滅させられることもあったと言われています。

玄奘三蔵が西インド地域を周った頃、すでにその周辺にまでイスラームは
侵攻していたが、「大唐西域記」には一切そのことには触れられていない。
インドも玄奘が考える天竺という仏教国ではなくヒンドゥーの国になっており、
また、大寺院での仏教も密教化が進んでいたインドに大乗仏教の僧である
玄奘が辿り着いたのである。
玄奘の心境は図りかねますが、中国で何とか大乗仏教を興隆させて行こう
と言う決意はあったのではないかと思います。
玄奘が天竺を目指し、そして帰路に辿った中央アジア一帯は、その後間も
なくイスラームの侵攻を受け、仏教国はすべて滅亡して行く運命でもあった
のです。

イスラームがインドに侵攻し仏教国を攻めたときの状況に、こんな話があり
ました。
その町を攻めたとき、町は城門を閉じ市民は戦いの準備をしていた。
イスラームはできれば戦うことなくその町を手中にしたかった。その町の指導
者はサマーニー(仏教僧)で、そのとき外出をしており、市民はその指導者の
帰りを待った。その指導者が町に戻るとイスラーム側に使者を送ってこう言っ
たと言われる。
「私たちはすべてカリフのものである。カリフには反抗しません。私たちはあな
た方を信頼し支援します。」
「なぜなら私たちは苦行者であり、私たちの宗教は「寂静」を説く教えであり、
その教えには血を流すこと、相手を殺すことは許されていません。」と・・・。
この様に仏教僧のいる町は、町ごと改宗する例も多かったとされ、改宗しない
町は壊滅させられたことでしょう。
町ごと改宗しても、いつかまた信仰は戻すことができるとも考えていたかも知
れません。ただ一度イスラームに改宗するともう戻ることはできませんでした。
それは死を意味するからです。
今でも、ムスリム(イスラーム教徒)がキリスト教などに改宗すれば、自分の国
に戻ることはできない国もあります、それはすなわち死を意味するから。

特に多神教や偶像崇拝する宗教には厳しく対応したと思われ、仏教国や大
寺院もその対象になったであろうと思われます。

なぜインドで仏教が滅びたのか?・・その5(ヒンドゥーの語源と仏教の変化)

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では、インド人とかヒンドゥーとかってどうして言われるようになったのでしょう?
コロンブスが新大陸を発見したとき、そこは目指すインドに到達したと思い込み、
そこに住む先住民をインディアンと呼んだことがありましたが・・・。

インドに侵入したアーリア人?(このアーリア人説には異論もあるので)は、現在
のインダス河を「シンドゥー」と呼んだことに始まると言われています。
ペルシャ人は「シンドゥー」を「ヒンドゥー」と発音し、ペルシャ側から当時のインド
に住む人々を「ヒンドゥー」と呼び、後にインドに入ったイスラーム教徒が自らと
異なる信仰の人々を「ヒンドゥー」と呼ぶようになった。
そのうちに、イスラーム教徒と区別するために、インド人も自らを「ヒンドゥー」と
称するようになり、13C以降はヒンドゥーは「ヒンドゥー教徒」の意味でも使われ
るようになったと言われている。
玄奘三蔵も当時、このシンドゥー河流域を旅しているのである。
その辺りには、あまり熱心ではないが仏教を信仰する民族がいたのである。

ではヒンドゥー教とはどんな宗教なのか。世界三大宗教と呼ばれている仏教よ
りもその信者数は圧倒的に多いし、インドの人口増加によってさらに増え続け
ている。
ヒンドゥー教は、バラモン教の影響を多大には受けているが、決まった教え
と言うものはなく根本聖典もありません。
要はバラモン教を踏襲したインド土着の信仰形態であり、「仏教」「ジャイナ教」
「シーク教」そして「キリスト教」「イスラーム」を除いたインドの宗教を総称して、
ヒンドゥー教というのです。
たとえば中国の道教、日本では神道のようなイメージになるのでしょうか?
なのでいろんな神様がいるし、地域や民族によって変わって行きます。
ただそれを結びつける価値観が二大叙事詩であったり、イスラームに対抗する
アイデンティティーであったりするのでしょう。
ヒンドゥー教の影響を受けている密教が中国で受け入れられなかったのは、
中国には道教が土着の宗教として浸透していたからと言われています。

シンドゥー ⇒ ヒンドゥー ⇒ インド と呼ばれます。
これはサンスクリット~ペルシャ~ラテン語と言葉が変わると呼び方や表記が
変わっていくと言うことになります。

インドを4C頃に統一したグプタ王朝はヒンドゥー教王朝であり、ヒンドゥー文化
が一気に花開きます。
民衆へはあまり浸透していなかった仏教は、王侯貴族が離れて行ったことと、
交易で儲けていた大商人が没落し、いよいよ衰退が始まります。
この頃にインドには天親菩薩(世親)が仏教に登場する時代ですが、どちらか
というと、思想的な面が中心であったのかも知れません。

仏教はナーランダ寺院を始めとした大寺院の僧侶によって継承されて行きます
が、社会的環境がヒンドゥー文化全盛ですから、次第に仏教がヒンドゥーに取り
込まれて行きます。というよりもヒンドゥー化しなければ仏教が存在できなかった
ということなのかも知れません。
仏教の仏にヒンドゥーの神様が取り入れられます、鬼子母神・馬頭観音・韋駄天
弁財天・吉祥天など。そして観音菩薩信仰が盛んになり、仏教に現世利益がと
り入れられます。
こうして現世利益の菩薩として、十一面観音・千手観音などに変化して行きます。
また、聖地の巡礼や装身具(瓔珞や宝冠)。歌舞などの奉納、これらヒンドゥー
の様式が取り入れられます。
また儀式的に、護摩・加持・祈祷などの作法も取り入れられました。
これが密教と呼ばれ、そこ後には、ヴィシュヌ神であるヴァイローチャナが、取り
入れられ、真言の本尊である大日如来になります。
ヴァイローチャナは東大寺の大仏、毘盧遮那仏でもあります。
教えも、バラモンの「梵我一如」が「即身成仏」へと取り入れられて行き、インド
の仏教はもはや釈尊の仏教ではなく、ヒンドゥー教の一派的な様相となります。
途中では釈尊が、ヴィシュヌ神の十大化身の一人とされ、ヒンドゥーの神様の一
人にさえなってしまうのです。

ヴィクラマシラー寺院の壊滅を持ってインド仏教の滅亡とされていますが、実は
もはやインドには純粋な仏教といえる存在はなく、ヒンドゥー化した仏教は、特に
インドに存在する意味合いもなくなっていたため、とりあえずその滅亡が歴史的
事実である寺院の壊滅と言うことになっているのでしょう。

仏教は上座部として南アジアへ、そして大乗として中国・朝鮮・日本へ、密教と
して北東インドからチベットへ。
その命脈はインドで滅びても、釈尊の教えはアジア全域へ広がって行きます。

(注)ここに記した事は、あくまでも個人的見解であり、事実かどうかは証明され
ている訳ではありませんことをご承知下さい。

なぜインドで仏教が滅びたのか?・・その4(バラモンとヒンドゥー教)

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インドの仏教を語る上で、外すことができないのがバラモン教とヒンドゥー
教です。
バラモン教はアーリア人がインドに侵入し、先住民の土着宗教を吸収しな
がら独自の宗教を形成して行ったものです。
あくまでも侵入してきた民族ですから、先住民がいます。征服した側は、
自分たちより人口の多い民族を押さえ込まなくてはなりません。
そこでカーストを運命論づける様な流れが造られたのかも知れません。
バラモンとは、司祭者であり魔術や呪術、さらには神をも駆使できる存在
として、宇宙のあらゆる現象を支配することができる者とされます。
つまりそれらに関わるすべての祭式を司ることになります。
そ儀式に、護摩やマントラ(真言)という呪文が用いられます。その祭式の
方法は、あくまでも口伝であり他の誰にも絶対に明かされません。
基本的な原理として、ブラフマン(梵)とアートマン(我)、サンサーラ(輪廻)
とカルマン(業)という二つの原理が確立されて行きます。

戦をするのも何をするにも、バラモンの許しや儀式が必要ですから、バラ
モンは絶対的な権限を握ることになる、もちろん国王でさえ逆らえないの
です。
この中で、被征服民族は下層のシュードラに置かれることになります。

この様な支配が長く続きますが、釈尊や六師外道などの新しい思想を持
つ人たちが相次いでインドに登場してきます。
新しい概念は、バラモン支配の中で押さえ込まれていた階層の人たちに
とって非常に有利に働くことがあります。
たとえば国王・貴族・兵士階級や商人などですが、この人たちの中に積極
的に仏教を支援する人たちが出てきます。
バラモンの価値観では否定されていたものが、仏教では自由になることも
できたのです。
こうしてバラモンの圧倒的支配から、そのカウンター思想である仏教や
ジャイナ教が勢力を拡大して行ったのです。
アショーカ王は優婆塞(うばそく)となり仏教を支援し、カニシカ王は奴隷階級
出身だったとも言われています。
また商人は積極的な対外貿易で莫大な利益を上げ、仏教の支援者とな
って行きます。

こうしてバラモン教の支配は徐々に崩れて行き、仏教も隆盛して行きます
が、その仏教も前頁で述べた様に、仏教内同士で批判したり、分裂したり、
教理主義に陥り次第に民衆と乖離して行きました。

仏教がその様な流れにあるとき、バラモン教は静かに装いを変えて行きま
す。宗教儀礼や神や女神の信仰、瞑想とかヨガの実践などを徐々にまと
め上げて行きます。
そしてその後の流れを決定的に変えたのが、紀元前3C~紀元3C頃まで
と長い年月をかけてじっくりと作り上げられた『マハーバーラタ』『ラーマーヤ
ナ』という二大叙事詩です。
この価値観は現在でもインド人のアイデンティティーとなっていて、僧侶や
民衆が一体となって、インド人の神話・伝説・哲学を織り込んでいるのです。

そしてインド人の宗教と言われるヒンドゥー教が、バラモン教から形を変え
民衆の宗教となってインドに登場してきます。
ただ、儀式やカーストなど多くのものがバラモン教から引き継がれている。
これが紀元4~5Cの頃、そして同時に仏教がインドで一気に衰退して行
く時期にもなります。
この二大叙事詩の完成のあと、ヒンドゥー教王国であるグプタ朝がインド
を統一し、インドに一気にヒンドゥーの文化や学問が大きく花開きます。

この後、インドに仏教を支持する王朝は現れていません。
その間に仏教は衰退の道を進んでいます、在家者の大乗仏教運動も、
ヒンドゥー化の波に押し出されるようにインドで衰退して行き、その中心は
シルクロードを経た中国や朝鮮、日本に移ります。

インド仏教の中心だった上座部も、民衆と乖離した難解な教義や瞑想など
大寺院に籠って、民衆化を進めていませんでした。
ヒンドゥー教の台頭とともに、王侯貴族の支援もなくなり、そして商人階級
もそれまで交易の相手国だった西ローマ帝国が滅亡したことで、一気にそ
の勢力を失い、仏教の支援者がいなくなったのも、仏教が衰退して行く大
きな要因の一つとなります。

そういう意味では、玄奘三蔵がインドにたどり着いたときは、インドに仏教
は民衆の間には少なく、ナーランダなどの大寺院で研究されていた程度だ
ったでしょう。数百年ヒンドゥー王朝がインドで続いた後のことですから。
そしてそこの中心にあったのは、大乗仏教ではなくヒンドゥー教化した密教
と言うものだったのですから、さらに驚きだったでしょう。

インドの中心ではなく、その周辺地域の東部と西部そして北西部などで仏
教徒はその信仰を受け継いでゆきますが、その後にはヒンドゥー教よりも
大きな脅威が待ち受けています。多分、玄奘三蔵もその脅威を感じていた
はずです。

そんなことを想うとき、玄奘三蔵の「大唐西域記」とはいったい・・・。

なぜインドで仏教が滅びたのか?・・その3(大乗と小乗)

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仏教が根本分裂になった頃、アレクサンダー大王の東方遠征があり、後
にガンダーラ美術が興る種が蒔かれています。

上座部仏教は、スリランカ・タイ・ミャンマー・ラオス・カンボジアへと伝えら
れ、その命脈は現在にも伝えられている。
タイでは一度滅びますが、スリランカから再度仏教を輸入し、現在に至っ
ており、現在でもタイ国王は仏教徒でなくてはならないと法律で規定されて
います。
現在、世界的に見て仏教と言えばこの上座部仏教のことを指します。
大乗仏教は仏教の中心と見られていないと言うことを知っておくことも、
日本の仏教者としては必要な基礎知識だと思います。
密教はダライ=ラマの存在があるので世界的には有名ですが、教義的に
は仏教の中心とは見られていません。
もちろん、それによってそれぞれの仏教の価値が変わると言うこともあり
ません、それぞれにそれぞれの価値観があり、文化の違いがあります。
この上座部を大乗仏教側の人間からみたときに、小乗という言い方をす
るだけで、上座部の方々はあくまでも釈尊の伝統仏教を正統に伝えてい
る仏教としか思われていません。要は大乗側からの差別語の様なもの。
さすがに最近は日本でも、小乗というときは大乗仏教を語る上での学問上
だけの世界になってきていると思いますが。

その後、有名なクシャーナ朝のカニシカ王も上座部の説一切有部を庇護し、
その下で『阿毘達磨大毘婆沙論』が編纂されている。このことが「第四仏典
結集」とも言われています。
ただこの頃には、仏塔の建立が盛んになり、また初期の大乗仏教の経典
が編纂されるなど、大乗仏教運動が興ってきます。
そのときに、当時仏教の主流だった上座部仏教を批判するために、自らを
大乗と譬えて相手を小乗とすることで、主流派を攻撃するための手段であ
ったと言えるでしょう。
大乗仏教がどのように興ったかは諸説あります。またインドで仏教が滅ん
だ事もあり、その研究は進んでいないということもあるのでしょう。
とにかくインドで仏教の研究と言うものが、欧米や日本の研究者が入るま
で600~700年あまり途絶えていたのですから仕方ありません。
その間は仏教聖典もインドではあまり価値がない物だったと思われます。
金銀財宝でないので、でもいまなら金銀以上の価値があるでしょうに。

ただ主流だった上座部は大乗仏教を無視し、そして一般民衆からかけ離
れて行き、大寺院に籠って教義の研究と修行に明け暮れる。
釈尊以来、伝道布教に力を注いでいた仏教が、内側に籠って民衆をあま
り顧みなくなって行ったのです。
これは国王を始めとした有力なパトロンの存在で政治経済力があり、莫大
な資産を背景に、教理研究や瞑想三昧で、独善的で高踏的になっていた
のです。
何かこれ、鎌倉仏教が興る前や、江戸時代の檀家制度以降の日本仏教
の状態に似ていると思いませんか?
ここにも大乗仏教が興隆し、上座部仏教に対するカウンター思想を背景に
在家者である民衆運動が興る要因があったのでしょう。

そういう意味では、日本に平成新仏教が興る気運は十分にあると思いま
すが。

もう少し、インド仏教の流れを見て行きます。

なぜインドで仏教が滅びたか?・・その2

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インドで仏教が釈尊によって説かれた頃、インドには多くの思想家
が出現している。
それは一つの要因として、長年インド社会に君臨したバラモン教に
対するカウンター思想が一挙に噴出した時期。
でも世界的に見ても、ほぼ同時期に中国で孔子を始めとした思想
家が登場し、ギシリャではソクラテス等の哲学者が出てくる。
要は、世界的に思想や哲学、宗教が一気に花開いた時期に相当
するのです。
内容と規模は違うけれど、日本で鎌倉仏教が一斉に花開いた状況
に似ているかも知れません。

インドでは釈尊の他に、六師外道と呼ばれる代表的な思想家がお
り、その勢力を争っていた。
今でもインドで信者の多いジャイナ教の開祖マハーヴィーラも、その
うちの一人である。
仏教で使われる外道と言う言葉もここから来ていますが、決して他
を非難している意味ではありません。道を外れた者ということでは
なく、本来は他の教えの道を歩む者と言う意味合いで使われてい
ます。

仏教は釈尊入滅後、第一回・第二回の仏典結集をへて、根本分裂
します。大きな流れでは、保守派の上座部と革新派の大衆部です。
ただどちらも出家主義であり、後に興る大乗仏教とは異なります。
この時期の仏教の思想は「阿毘達磨」仏教を中心としています。
大衆部はやがてインドで消滅しますが、当時の勢力が強かった、
上座部の中心に説一切有部があり、その後に龍樹がこの「有」と言
う考え方を徹底攻撃したことでも知られています。
説一切有部に対してのカウンター思想が、後の中観派になって行き、
それが縁起思想の釈尊への原点回帰とされています。

後に消滅した大衆部に対して、仏教の中心だった上座部は釈尊の
教えを正統に受け継ぐものとして、マウリア王朝アショーカ王の庇護
の元、スリランカを始めとして世界へ伝道師を派遣しています。
最遠ではアレクサンドリアにも伝道所を開設しており、後のキリスト
教の修道院のモデルにもなったとも言われています。
また、近くにユダヤ人居住区があったことなどから、後にキリストに
も影響を与えていると考える学者もいます。
実際に、福音書には仏教の説話が数多く登場しているのですが、も
ちろんキリスト教神学的にそれは一切認める訳にはいきませんね。

ちょっと話は逸れましたが、次はインドにおけるその後の仏教の流
れについて話してみたいと思います。

なぜインドで仏教が滅びたのか?・・その1。

DSC_0250

釈尊の説かれた仏教が、歴史的にインドでは滅亡したと言う
事実があります。
実際には、インド北東部には現在まで仏教は現存しているし、
内部でもごく少数ですが、仏教を伝えてきた種族の方は存在
するけれども、ただ大きな意味でインドでは仏教が滅亡したと
伝えられている。
ただこの事実は日本においては、あまり顧みられていない様
にも感じます。これは大乗仏教至上主義的な側面があったか
らかも知れませんが。

私が僧侶の道を進もうと思ったとき、一つの疑問がありました。
なぜインドでは仏教が滅亡したのか?
もしくはなぜインドでは仏教が滅びなければならなかったのか。
もし滅亡したとしたならば、その理由を知りたい。
もしその理由が分かれば、現代の日本の仏教の再興の参考
になるのではないかとも考えたのです。

会社を辞めて、中央仏教学院に行ったとき、個人的にそのテ
ーマを探ってみようと思い立ち、自分なりにその理由を探りま
した。
このテーマは、現在の学説上結論を見ていないものですが、
自分なりの結論は、何か歴史的な出来事があったとき、その
原因は一つではないと言うこと。
外的及び内的要因も含めて複合的に要因が重なりあってい
ると言うことです。
今回のテーマもまさに複合的要因によって、インドでは仏教
が滅んでしまったのではと思うのです。

では何を持って滅亡とするかですが、歴史上では1203年に
ヴィクラマシラー寺院がイスラム教徒によって壊滅されたこと
とされています。その前の1197年には、玄奘三蔵も訪れた
と言われているナーランダ寺院も壊滅されている。
その時代仏教は衰退し、信者もほとんどいなかったと言われ、
かろうじて維持していた仏教寺院がイスラームのインド東部へ
の侵攻により、一気に殲滅されたということです。
このときのイスラームの攻撃はすさまじく、寺院は何日も燃え
続け、僧侶は一人残らず虐殺されたと・・・。
当時の仏教はもはや仏教的と言うよりも、ヒンドゥー教化され
た密教でしかなく、仏教の持つ本来の教えから遠くなっていた
ことで、インドでその存在意義を失っていた状態であった、とも
言われています。

仏教を学ぶ場も、仏教を伝える僧侶もいなくなったと言う事実
を持って、インド仏教の滅亡とされているのです。
しかし、インドでは現在もヒンドゥー教は衰えることなく、今も
民衆の間にはインド人のアイデンティティーとして、確固たる
ものがあります。
その理由を探って、インド仏教の旅に出てみたいと思う。

そう言えば、インドで仏教が滅亡したと伝えられる頃、日本で
は、鎌倉仏教が興っていた時代に重なるのです。
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