宿坊光澤寺日記・・ひとりばなしのつづき。

光澤寺&宿坊光澤寺&やずブータン村。 山里のお寺で繰り広げる「こころのふる里」作りとお寺復興プロジェクトや、宿坊に来られた方々との出会いも語ります。

浄土真宗的生活のすすめ

「正信偈講座」は帰敬序です

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NHK文化センター鳥取教室

1月は積雪もなく過ごしやすくなっている。
1月の「正信偈講座」も無事に開催されました。

遠くから受講されている方もいらっしゃるので、雪がないので安心できます。

今月も全員参加、みなさん熱心に聞いて下さいます。

今回の講義は「帰敬序」です。

正信偈を説くにあたり、親鸞聖人がその信順を表白している部分。
つまり最初の二句になります。

帰命無量寿如来 南無不可思議光

この二句についての解説とその背景についてお話ししました。

本山の西本願寺では、ちょうど報恩講が勤められているとき。
1月16日は親鸞聖人の祥月命日になります。

なぜ願いが必要なのか。
その願いとは何なのか?

自分自身を受け止めるとはどういうことなのか?

そんな思いをお話ししました。


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2020年も1月15日は、名古屋の林高寺さんの報恩講法座です!

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名古屋市中村区にある林高寺さん。

毎年1月15日に報恩講が勤まります。
私は昨年から二度法座にお招きしていただいています。

そして年明けの2020年も法座に出ます。

2020年は大転換の歳になるでしょう。
その中でお寺にとっても大転換の歳になります。
後から振り返ると、あの歳だったと思うことがあります。
お寺はまさにそんな歳になるでしょう。

お寺・お墓・永代供養・葬儀・終活。
それがお寺で一気に展開します。
従来の価値観では、もう時代に着いて来れなくなります。
それはあっという間に変わって行く。

そのスタートでもある、林高寺さんの報恩講法座です。

「こころの授業」と変わりゆく日本のお寺と仏教について、お話します。

きっと熱い法座になるでしょう。

副住職は宿坊に何度か来られています。
とても意識の高い僧侶です。
これからの時代を切り拓いて行かれるでしょう。

私も一緒に進むべき道を考えて行きたいですね。

どなたでもお参りできるそうです。
どうぞ名古屋周辺の方はお気軽にお参り下さい。

法要は9時からで、法話は10時くらいからになると思います。

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親鸞聖人が「正信偈」を説かれた意味を聞く。

NHK文化センター鳥取教室

今日は、「正信偈講座」の第3回目でした。
10月から月一回、半年継続の1年間講座です。

今日は「偈前の文」と「真実五願」を中心にお話ししました。

阿弥陀の誓願である四十八願。
その願の中でも、衆生を救う願があります。
その救いに至る願と、その救いが明確に示されたもの。
それが真実五願。

その願が揃って、私たちの救いが完結する。

浄土真宗にとって最も重要なポイントとなります。

「真実五願」とは、四十八願の中でこう顕かにされています。
「第十一願」・・・必至滅度の願 (証)
「第十二願」・・・光明無量の願 (真仏)(真土) 
「第十三願」・・・寿命無量の願 (真仏)(真土) 
「第十七願」・・・諸仏称名の願 (教行) 
「第十八願」・・・必至滅度の願 (信)

さらに、親鸞聖人が「正信偈」を説かれたお心は何なのか。
それを「偈前の文」にお聞きして行きました。

その最後にこうあります。

「しかれば大聖(釈尊)のまことの教えにしたがい、大祖(七高僧)の説かれた
ものを拝読し、仏の恩の深いことを信じ、「正信念仏偈」を作ってこのように
作った。

「知恩報徳」の思い、その仏恩報謝のためにこれを作って申し上げる。

「大聖の真言」・・・「依経段」
「大祖の解釈」・・・「依釈段」

「正信偈」はこの様な構成になっています。

今日の講座の話はこんな感じです。

もちろんそこに、現代社会の問題、私たち自身の問題も合わせてお話しします。

受講者の方々は、とても熱心に聞いて下さっています。
それ自体が有り難いことです。





四国に布教に行って来ました・・・讃岐二か寺の旅その一。

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四国は香川県。

浄土真宗興正派の二か寺の報恩講法座のご縁をいただきました。
興正派のお寺さんに行くのは初めてです。

興正派は真宗十派の中の宗派で、本山は西本願寺の南隣にある興正寺です。
元々は本願寺派から別れた宗派でもあります。

四国は八十八ヶ所の真言宗が強い地域ですが、香川県は浄土真宗も多いのです。
その中でも興正派が圧倒的に多い。
香川県に限っては、真言宗寺院と浄土真宗寺院が同じくらいあるという。

今回は中央仏教学院時代の同級生のお寺さんからお声掛けいただいた。
ありがたいご縁です、私のことを覚えていただいておりました。
同級生と行っても、私は会社員を辞めて45歳で入学したので、歳は二回りくら
い違います。

最初のお寺は實相寺さんで、ご住職の坊守さんのお寺さんでした。
高松空港からほど近い高松市郊外にあるお寺さんです。

お寺は少し前に修繕されており、納骨堂も建てられています。
当分は修繕の必要がないですね。
寺院は修繕が必要かどうかでも、その負担が大きく変わってきます。

朝10時半からの法座でしたので、香川には前の日の夕方に入りました。
ご住職と高松の町でゆっくりと話しをすることができました。
お店はとても感じの良いお店、美味しい肴とお酒をいただきながら、卒業以来
の15年の時間を埋めることができた。

四国での布教も初めてでしたが、お話しする内容は特に変わることは有りません。

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法座を終えて、お寺で食事をいただきました。
法要のときの食事は、お斎(とき)といいます。

その後、次のお寺の近くのホテルに移動です。
次のお寺は東かがわ市にある。

向かう途中、讃岐うどんの店に連れて行ってもらいました。
讃岐うどんの名店は昼前後で終わる店が多いのですが、昼過ぎでも空いている
釜あげうどんの名店、「長田in香の香」です。

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釜あげうどんは、とても美味しかったです。
お昼をいただいた後でしたが、あっさりと大盛りを食べた。
これは「たらい」にしておいても良かったなと思ったくらいです。

さあ明日も頑張ろう!

やっぱり讃岐うどんは美味いのだ!


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養源寺報恩講に・・・出遇い。

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11月10日、法事と宅参りを終えて鳥取に向かった。

午後、養源寺さんの報恩講法要に出かけるため。
その法座でお話をします。

テーマは、「出遇いが人生を変える」です。
それはご住職からのリクエストでした。

私が会社を退職しお寺に戻ってからの出遇いを話して欲しい。
そんな思いだったのだろうと感じました。
それで今回、ブータンからプリンセスをお招きするに至る経過をお話しした。
そこに親鸞聖人や仏教の教えを散りばめた。

人生は出遇い。

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皆さん熱心に聞いて下さっていたと思います。

養源寺さんなのでプロジェクターを使ってみました。
その方が皆さん分かりやすいから。
いつも使うわけではないけど、その方がイメージが残りやすいでしょう。
さらに写真も見ることができる。

法座には久しぶりにお会いした人も数人いらっしゃった。
懐かしい顔を拝見すると、うれしいものです。
宿坊においでいただいていた方々も。

その中のお一人は、闘病されていたと聞いた。
今日の話はその方に届いただろうか・・・。

終了後に、その方が笑顔で来られた。
そしてゆっくりとお話をお伺いすることができました。
私も久しぶりにいろいろ聞けてうれしかった。

何よりも無事に回復されていること、そして今の生活がとても穏やかなこと
が分かった。
また元気になって宿坊においでいただきたいですね。

これも出遇いだな・・・。

そう思いながら養源寺様を後にしました。


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福岡県糸島市の法林寺様の法座のご縁!

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福岡県糸島市にある法林寺様で、法座のご縁がありました。
わざわざお声を掛けていただき、有り難いことでした。

永代経法要で金曜日三席、土曜日二席、全五席の法座。
初めてお伺いさせていただくお寺さんです。
今回はテーマを『正信偈』からいただき、それを現代社会の問題に照らし
ながらお話をさせていただきました。

法座で五席をお勤めするということは、熱心なお寺さんです。
また九州という浄土真宗が元気な土地柄でもあります。
私も精一杯お話しさせていただきました。

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糸島市といえば、若者の移住で有名な街です。
そして博多駅から地下鉄一本で約40分という便利な場所にあります。
隣は福岡市西区で、九州大学も近い。

そんな環境から、福岡市に通勤する方も多いという。
駅前には大きなマンションがたくさん建っていました。

最寄り駅は筑前前原駅。
糸島市の中心地ですが都会と違って静かな場所。
ここから車で少し走ると海岸線になり、リゾートの様な雰囲気になります。
都会から近く、大自然が広がり、綺麗な海岸線がある。
そして穏やかな気候。
人気の理由がよく分かりました。

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この写真のスポットは、有名な観光スポット。
周辺にはリゾート風のカフェやレストランがたくさんあります。

法座までの時間、ご住職にご案内いただき、糸島の風景を堪能できました。

また当日は豪雨と言う天気予報でした。
でも天候も大きな崩れもなく、お参りの方にも良かったと思います。

しっかりとご法義をお伝えしておられるお寺さん。
できるだけ分かりやすく、教義ではなく実社会に即した話です。
いつも宿坊の日帰り体験でお話ししているときと同じ。
仏教の話は、教義を話さなくても仏教を伝えることはできます。

それは、「いのち」と「こころ」を伝えることだから。


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博多へ向けて出発!

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6月6日、博多に行くために特急最寄り駅の郡家駅に行く。

車を駐車場に止めて駅に行くと、おっと見慣れた顔がいらっしゃいました。
「どこ行くんですか?」と「どうしたの?」とお互いに。

若桜鉄道もりあげ隊でご活躍の本田さんでした。
コスチュームを見ると、車内販売の応援だったことが分かる。
でも今日は平日なはず・・・?

団体さんの乗車があり、急遽応援を頼まれたとのことでした。
いつもお元気で頑張っておられる姿に、頭が下がります。

ここでは、もう一人友人にも出会う。
普段はなかなか会わないのだけれど、こんなときって続けて会うことに、
ちょっとうれしかったりします。
まあどちらもお見送りに来ていただいた訳ではないけれど。

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ホームに入ると、若桜鉄道の八頭号まで見送ってくれているではないか!

今回の博多行きは、きっと良い旅になりそうだ。
福岡のお寺さんの法座に出向するので、遊びではないのだが。
それでも九州に行けることは、ちょっとワクワクします。

天気予報は大雨となっているが、きっと良い旅になるような予感がします。



「幸せのパンケーキ」と宮崎哲弥氏の「仏教原論」

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今話題のパンケーキ、「幸せのパンケーキ」

今回の関西出張で、南船場にある「はなれ」に立ち寄った。
パンケーキと言えば、鳥取にも有名な「大江ノ郷自然牧場」がある。
僕自身、食べ比べ的な感覚もあった。

名前も「幸せのパンケーキ」、ちょっと興味をそそられたりもする。
人の感覚ってそんなものだ。
「パンケーキ食べたい!パンケーキ食べたい!」とTVで繰り返すタレント
がいる。
その言葉がなぜか頭を駆け巡る、これ本当は好きじゃなかった。
でもなぜか駆け巡るのだ。
リフレイン効果にやられてるなあ・・・、でも決して不愉快ではない。
これも人の感覚、繰り返しやられると人って受入れてしまうのだ。

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これが噂の「幸せのパンケーキ」。
ふわふわでトロトロです。

でも僕的には、大江ノ郷自然牧場の方が好きだな。
そう感じた。

どうぞ、どちらも食べ比べしてみて下さい。

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スウィーツの後は、今回の出張の目的の一つ。
相愛大学で行われてる、宮崎哲弥氏の『仏教原論』の聴講へ。

相愛大学の釈徹宗先生が主宰されているので、お二人の話を聞くことができる。
それだけでも十分に貴重です。
さらには、日本仏教が陥っている宗派原理主義から抜け出すには、仏教の源流を
訪ねることが大切だ。
一般の方は不思議に思うでしょうが、日本の僧侶は本当の仏教のことは知らない
のです。
宗派の教義ばかり学習し、釈尊の仏教に近い初期仏教は学ばない。
だから平気で仏教ではないことを僧侶の本分の様に語るのだ。
そしてその枠の中で凝り固まっている。
これは日本の全宗派がそうです。

日本は大乗仏教、そのまた先の枝葉レベルの仏教なのです。
世界では大乗仏教はほとんど知られていません。
世界は東南アジアのテーラワーダ仏教にしか興味がない。
あとはダライ=ラマ14世の存在で、人権としてのチベット仏教と。
日本ではせいぜい体験としての禅くらいしか知られていないのです。

その禅もかなり枠にはまっている。

そんな意味で、この講座にはとても興味があります。
元々私は、釈尊の仏教の方に興味があります。
浄土真宗の僧侶ではあるので、親鸞聖人の教えと釈尊の教えの整合性を考える
ことはとても興味深い。

宮崎哲弥氏の考えを聞くのも面白い。
その中で自分の考えと比較できるからだ。

でもよく考えると、「幸せのパンケーキ」と「仏教原論」は関係ありません。
ただ、大阪本町周辺はかなりディープだ!

春の総会・・・浄土真宗本願寺派の地域の活動!

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事前の連絡協議会も終えて、春の組会(総会)が開催されました。

会場は鳥取市内の寺院で、40人はテーブルで座れる会議室があります。
市内の中心にあるが駐車場も完備し、門徒会館もあって寺院葬もできる。
納骨堂や樹木葬墓地もあるので、一通り完備された鳥取でも最先端のお寺さん
ですね。

会場には半数以上は門徒代表の方々。
昨年度の総括と今年度の活動予定を報告、決算と予算も承認を受けます。
その組会(総会)をもって、地域の活動がスタートします。

私はこの日は葬儀が入っておりました。
そちらにお参りしていたので、組会には終了直前に出席。
基本は連絡協議会で調整済みなので、特にこれと言った内容はないので、問題は
あまりありません。

普段は議事進行等を受け持ちますが、今回は外部から眺めるって行った感覚。

会議終了後は恒例の懇親会とその二次会が開催されます。
私は今回は懇親会と二次会の幹事役です。

皆さんがスムーズに話ができるように段取り。

こうして今年の会も無事に終了しました!






『歎異抄講座』は続く・・・。

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昨年10月から始まった、NHK文化センター鳥取教室の『歎異抄講座』。
なかなか思うように進みませんが、3月で第6回目を迎えました。

講座は1年間となっていますが、講座は6回区切りとなっています。
この3月で前期を終了して、4月からは後期に入ります。

前期を受講されている方が後期を申し込まなければ、後期の開催はなくなり
ます。
前期は10数名受講されていますが、今回確認したところほとんどの方が継続
されるようです。
さらには、3月から新たに受講される方もいらっしゃって、ちょっと賑やか
です。

学校や研修ではないので、ゆっくりと進めています。
順番に読んで行くだけでは面白くない。
親鸞聖人の教えや浄土真宗の情報、さらにはお釈迦様の仏教から歴史を交えて
いろんな角度から『歎異抄』を語っています。

今回やっと第五条を読んだところです。
ここのポイントは「父母の孝養・・・」の部分。
浄土真宗では先祖供養とは言わない、ということを表した一文でもある。

彼岸も近いこともあって、そんなことを話しました。

4月から9月まであと6回。

もっともっと楽しい講座にしたいものですね。

講座は途中参加も可能です。
最高齢は92歳、遠くからは琴浦町から80代の段階が受講されています。

逆に私がパワーをいただいている様です。






平成最後の光澤寺報恩講を勤修する。

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平成最後の光澤寺報恩講法要を無事に勤修いたしました。

平成最後といっても、報恩講は700年以上続いている。

来年からも、浄土真宗の寺院である限りは、続いて行くでしょう。

報恩講法要は、本願寺第三世の覚如上人が始められたものですから、東西
本願寺以外では別の呼び方をされているかも知れません。

今年は、本堂の修繕と納骨堂落慶も兼ねておりました。

お参りは決して多いとは言えませんが、私はあえてお参りいただくように
お声掛けはしておりません。
お参りされたいと思う方のお心にお任せしています。

それが自然で良いと思う。
たとえいつかお参りがお一人になられても、続けて行きます。
もちろん檀家さんにはすべてご案内はしている。
いつかお寺にお参りしたいと思っていただければ、それで良いのです。

法座には、浄土真宗本願寺派鳥取因幡組組長である養源寺住職をお招きし
ました。
昨年は、隣町の若桜町のご住職をお招きしたので、2年連続で同じ組内と
なりました。

この二か寺は、光澤寺がお世話になっているお寺さんですので、檀家さん
に知っておいていただいた方が良いと思っています。
お寺には僧侶が一人という所が多い、でも何かあったとき対応していただ
ける方が良いのです。
さすがに他宗派のお寺さんに頼むことはできないですから。

法話は、「歎異抄第13条」をテーマにお話しされました。

そのあとは、私がこれからの10年について、少しだけ話しをしました。
このお寺を次の世代につないで行くため。

少なくとも、今日お参りされた皆さんには、理解していただけたかな。
毎日がその積み重ねである。






浄土真宗の研修会・・・連研を開催する。

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今日は朝から穏やかな一日。

光澤寺では浄土真宗本願寺派鳥取因幡組の連研(連続研修会)を開催しま
した。

今回で第11期で、1期は一月に一回で12ヶ月連続で研修があります。
会場は毎月違うお寺になるので、12ヶ所のお寺を見ることができます。
お寺によっての違いが分かるし、講師は基本的に会場寺院の住職が勤める
ので、いろんな住職の話しを聞くことができます。

今年は台風の影響で、中止や延期になったり時間短縮とかあったそうです。
今日は一日穏やかでしたが、本堂内は朝方少し寒く感じたので、今年初めて
本堂にストーブを入れました。

午前中は、開講の勤行の後、今回のテーマの「問題提起」があります。
その問題提起に基づいて、4班に分かれて班別の話し合い法座をします。
みんな和気あいあいと自由な話し合いをする。
そして班別の発表のあと、とりまとめの法話となります。

お昼は弁当を皆で食べるので、回を重ねるごとに仲良くなって行く。

午後は、今回のテーマの講義。
私は講義を担当しましたが、今日のテーマは「自力と他力」。
浄土真宗の教えの根幹でもあります。
できるだけ分かりやすくと思いましたが、少しペースが速かったかも知れ
ないな・・・。

連研は各地区によって開催方法はまちまち。
鳥取因幡組のスタイルは、もしかすると独特かも知れない。
でも毎回多くの参加者があり、ほとんどの方が12回参加され修了されて
行きます。

一日みっちり、そして昼食も食べて話し合い法座もある。
さらには毎回違ったお寺を回るので、変化があると言うことです。

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ご住職方も話し合い法座も、笑いがあって和気あいあいですね。

さらには、来年住職を継職される若さんと若坊守さんご夫妻も参加されて
いました。

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若さんは連研委員として、若坊守さんは連研参加者として。
これからお寺を盛り上げて行かれることでしょう。
その表情からも、やる気が伝わってきますね。

10月はイベントが続いていますが、お寺の活動もやっているの?
と思われているかも。

宗派のお寺の活動も、やっております。
という主張もしとかないと・・・。



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お礼のお手紙をいただく・・・。

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宿坊にお客様からお礼のお手紙をいただいた。

先日泊まられた80代の女性の方からでした。

封を開けるとそこには写真の手紙が入っていました。
筆で丁寧に書かれていた、水墨画の挿絵まで。

宿坊では、『正信偈』を一泊二日の間に書き上げられた。
すごい集中力です。

「仏様の力をいただけたから」、そう仰られていました。

「ここの仏様はとても優しい、包み込んでくれる様な感じ」とも。

私もその思いを一緒に感じることができました。

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一生に一度でも、そんな感覚になれたら良い。

それだけで良いのだ。

私も、宿泊に来られた方々から、いろんな思いを感じる。

一つ一つが、私のとっての縁となり円となる。

他力とはそんなこと。

必要以上に他力を強調する必要はないのです。

いつも他力を感じられたら、それだけで良いのです。

浄土真宗の僧侶が気づかないのは、そんなこと。
教義に縛られてるからそうなるのだ。

特に『教行信証』から浄土真宗に入るとそうなる。

だって信者向け、つまり凡夫向けの書ではない。
他宗に対しての対抗書であるのだから。

だからみんな勘違いする。

ただ、「これでいいのだ!」ってことなんだと思う。

それだけで良い。
すべて心はそこにあるのだから。


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西本願寺と東本願寺・・・その違いを見る。

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東本願寺(大谷派)林高寺さんの内陣
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西本願寺(本願寺派)光澤寺です。

浄土真宗と一口にいっても、大きくいうと十派あります。
新しくできた派も入れると十数派になる。

その中でも規模的には、本願寺派と大谷派が大きい。
両派ともそれぞれに末寺が1万か寺ある。
この両派を合わせると、圧倒的に日本で最大宗派となります。
次は曹洞宗の1万3千か寺だ。

元々は同じだったが、十一代目のときに内紛があり、十二代目から
派が分立することになる。
豊臣秀吉の治世のとき、東本願寺は徳川家の支援によって派を立てる。
逆に言えば、徳川家康が日本の最大宗派で権力の対抗勢力であった、
浄土真宗を内紛に乗じて分断し、東本願寺を徳川勢力に取り込んだと
いうのが正解かも知れない。

今回、名古屋の大谷派のお寺、林高寺さんに法話でお伺いした。
実は近いようでほとんど大谷派のこと走りません。
実際に法要に参列したことは今までにない。

内陣の荘厳も似ているようで、大きく違います。
蝋燭立てや花瓶やりん灯など、細かく違っています。

読経が始まると、同じお経でも節が違う。
私もついて行けないのだ・・・。
作法や衣の呼び方も違う。

たとえば、南無阿弥陀仏。
西では「なもあみだぶつ」と称える。
東は「なむあみだぶつ」だ。

当日は、法話を挟んで、前半と後半に法要があった。
後半の法要には雅楽も入る。

教義についても、その流れは違いがあります。

でも法話は私のスタイルでお話ししました。
「いのち」と「こころ」のことを話している限り、その中心は常に
お釈迦様の教えになり、親鸞聖人の教えになる。
そしてそれは必ず阿弥陀如来に行き着くのだから・・・。

これからも宗派を超えた縁が広がると良い。
3月には高田派の本山のある津にも行きます、高田派のお寺さんです。


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報恩講の宅参り始まる!

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お寺の報恩講を10月28日に終えることができました。

そして今年も、ご門徒さん宅へのお参りが始まります.
光澤寺ではお盆の棚経はお勤めしていません。

ご門徒さん宅にお参りするのは、この報恩講になります。

いつも11月になると始めておりますが、ここ数年は少しづつ早めに
始めるようになりました。

それは寒くなると厳しいと言われるご家庭が増えたこともあります。

そして、宅参りのときには「ほのぼのカレンダー」をお配りしています。
カレンダーにお寺のネームを貼り付けて、連絡先と来年の年忌法要の
歳を入れています。

家が減ってきたことなどで報恩講にお参りする軒数は年々減っています。
でも各家庭を回るのはこの報恩講だけです。

報恩講は浄土真宗では一番重要な法要で、宗祖である親鸞聖人の命日を
ご縁としています。

本山では1月16日がご正忌となりますが、寺院ではそれに向けて秋に
お勤めして行くことが多い。
ただ北海道などは冬は厳しいためか、春にお勤めするところもあるよう
です。
各寺院ではいつお勤めするといった決まりはありません。
それぞれの状況によってお勤めして行きますが、さすがに浄土真宗の寺
で報恩講をお勤めしない所はないだろう。

そんなこともあって、11月はスケジュール調整がちょっと大変。

でも大切なお勤めですから、何とか頑張らなくてはと思います。

『報恩講』のお勤めは、親鸞聖人が書かれた『正信偈』を唱えます。
そして先祖のお経も、という希望があれば『阿弥陀経』もお唱えします。

お話しもゆっくりしますので、各ご家庭を一軒一時間はかかります。
お一人お一人とお話しする大事な時間でもあるのです。

報恩講が始まると、徐々に年の瀬と冬の始まりを感じます。


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今日は連研・・・問題提起

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今日は、宗派の地区の研修会、いわゆる連研でした。

今回は第9期で、月一回12ヶ月連続での研修となります。
約30名の方が熱心に講義を受けられています。

私はなかなか月一回の研修に顔を出すことができていませんが、今回は
午前中の話し合い講座の問題提起とまとめの法話担当でしたので、久しぶり
に出席致しました。

今回のテーマは「差別とみ教え」についてです。

この問題は、宗派や仏教のとって重要なテーマです。

問題提起は、問題を難しくしないために、「差別はなぜあるのか?」と「どうす
れば差別はなくなるのか?」という内容で話し合ってもらう様にしました。

話し合い法座は約1時間。
4つの班に分かれて自由に話し合いをします。

話し合い法座の後は、班毎に発表をします。
今回のテーマはとても盛り上がった様で、難しいテーマでしたが、このテーマ
を選択して良かったと思います。

今、日本でも世界でも様々な差別が存在する。
そしてこのテーマで自由に話し合いができる場所はない。
そういった意味でも、参加された皆さんも新鮮だったのではと思いました。

発表の後は、話し合いの内容と仏教や浄土真宗の立場のお話をしました。

その後は皆さんで昼食を摂り、午後は会場寺院のご住職がテーマについて
講義をします。

皆さん熱心に参加され、ほとんどの方が修了されるようです。
この連件の熱心さが、その地域の宗派の活動のバロメーターだと感じます。

3月の修了式まであと二回。
皆さんのホッとした笑顔を見ることができるのが楽しみです。

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元旦に『正信偈』を写経する・・・一年の始まりに心を整える。

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元旦、一年の始まり。

年末年始とご宿泊された男性、一年の始まりに写経をして行かれた。

写経は、浄土真宗の宗祖である親鸞聖人のみ教えである『正信偈』です。

「般若心経」だと写経の時間は、約1時間半くらい。
でも『正信偈』は長いので、6時間から場合によっては8時間くらいかかります。

この方は、昨年来られたときに前半の半分を書かれていました。
そして今回は後半の書いて行かれた。

これで『正信偈』の写経が完成です。

ゆっくりと丁寧に書かれているのが分かります。

『正信偈』は、親鸞聖人のお心を理解するのにとても良い。
一文字一文字にその思いが託されているのです。

その思いをしっかりと受け止めて行く。
それには写経をしてみるのが良いでしょう。

宿坊光澤寺では、「般若心経」の写経を希望される方がほとんどです。

それ以外の写経は、『重誓偈』とこの『正信偈』を体験していただくことができ
ます。

それぞれにそれぞれの教えと思いがあるのです。

みなさんも、今年は宿坊光澤寺で写経体験はいかがでしょうか。

お一人でも体験できますから、本堂で仏様と向き合うことができますよ。

実はここは特別な空間でもあるのです。

ゆっくりと穏やかに写経の世界に入って行くことができます。


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友引の葬儀・・・心を込めて準備をする

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今日は今年一番の冷え込み、寒い中での葬儀でした。

ご自宅での葬儀でしたが、縁側の窓はすべて開け放ちます。
外に参列の方々がいらっしゃるので、葬儀の様子が見える様にするため。

ですから室内も外も温度は同じです。

私は葬儀中は寒さを感じない、特に読経中はそうですね。

途中の国道の温度計は昼までも3℃を表示していた。

友引での葬儀。

浄土真宗では、というよりも仏教では友引は一切関係ないものです。

仏滅とかあるので仏教に関係があると思われますが、これは中国の暦の六曜
というものです。

江戸時代に、それまでの暦が禁止されたため、暦屋が中国にある暦の六曜を
取り入れたものです。

それがたまたま日本に根付いただけのものです。

ご依頼があれば、六曜に関係なく葬儀は執り行います。
仏教は、元々そういった迷信や迷いから離れる教えなのですが、実際はそう
なっていないことが多いですね。

一体何の葬儀なのでしょうか、と思うこともありますが・・・。

まあ葬儀については、仏教とは関係ない所の習慣が多いのも事実。
それでお寺が執り行うのも、どうかなと思ったりします。

それはそれとして、葬儀の前にはいろいろと準備をして行きます。

たとえば、葬儀の前に納棺があります。
納棺後の棺の上に、尊号をお供えするのです。

これはその都度、筆を使って書いて行きます。

そして出棺のときには、故人の胸の上にお供えします。

阿弥陀如来の導きにより、迷うことなく極楽浄土に往生されるとの思いです。

棺の中には、お花をお供えして行くことが多いのですが、それ以外のものは基本
的には何も入れなくて良い。

特に浄土真宗では、迷うことなく往生することが約束されていると考えます。
そう言った意味から、葬儀では迷いにつながるようなことは一切必要ないとされ
ているのです。

迷うのは仏様ではなく、残された私たちだということなのですね。

仏になることに、残されたものが迷わなくて良い様に・・・。

それが大切ですね。















連研スタート、珍しく私のお勤めの写真が・・・。

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4月24日、鳥取因幡組の第9期連研がスタートしました。

会場となった若桜宿にある正栄寺さん、ローカル線若桜鉄道の若桜駅から
もほど近い所にあります。

日曜日でもあったので、汽笛の音がのどかに響いていました。

初回はオリエンテーションと班別に分けた役割分担を確認して行きます。
そして午後は、次回より担当していただくお勤めと作法の講義です。

宗派にはそれぞれにお勤めと作法があります。
皆さんも日々ご自宅で親しんでいらっしゃる方もおられるでしょうが、皆さん
の前でやるとなると、緊張感もあるでしょう。

今回の開講と閉講の勤行は私が調声を務めました。
私がお勤めをしている所を写真に撮っていただいていました。

この様な写真は滅多にないので、ちょっと載せてみました。

写真っていつも私が撮る側が多くなので、撮られる側ってあまりないですね。
珍しい写真です。

作法とかお勤めって、厳しくする必要はありませんが、できるだけしっかりと
することも大事です。
初回なので、私がちょっと厳しく言ったかも知れません。

怖いお寺さんってイメージになるのでしょうか?

みなさんがこれから一年間続けようというお気持ちになっていただけると、
有り難いと思います。

ゆる過ぎず厳しすぎず、そして楽しみになるような連研になることを望んで
います。

8月には私のお寺でも研修があります。
そのときのテーマは「仏教とは」です。

連研は。午前中に班別のディスカッションを行います。
午後はテーマに沿って、会場寺院の住職が講師になり講義をします。

12回なので、いろんなお寺を巡りそれぞれの住職の話しを聞くと言う経験
ができるところが一番の魅力かも知れません。

その中で多くの出会いがあり、そしていろんな方の話しが聞けます。

そして仏教や浄土真宗のみ教えを深めることができる、またとない機会。
大切にしてほしいですね。

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今回の会場となられた若桜宿の正栄寺さんです。

観光客もときどき訪れることがあるそうです。
もし若桜の町に行かれることがあれば寄ってみるのも良いですね。
ご住職がいらっしゃれば、対応して下さるかもしれません。

若桜駅から徒歩5分程度、寺通りと蔵通りの道沿いにある浄土真宗のお寺
さんです。




本願寺ビハーラ活動者養成研修会のアンケートを見て

昨日、本願寺から資料が送られてきました。

中を見ると、今年度のビハーラ研修会への出講依頼とともに、今年の3月1日
に私が関わったビハーラ研修会のアンケート結果が入っていました。

もう一度出講させていただくのはとても有り難いこと。

なぜなら、それは本願寺の研修であることはもちろんですが、私が本願寺の
活動の中で一番興味が深い活動でもあるからです。

ビハーラ、それは仏教そしてお寺の原点を見つめる活動だと思っている。

ビハーラ研修は一年単位で実施される。
その中で二泊三日の基本学習会が年四回、それ以外に施設研修などもあり
ます。

私は第四回目の「寺院ビハーラ論② 寺院の社会的使命と活動報告」が
担当になります。
コーディネーターの方と、報告者2名が関わる講義です。

アンケートは、参加者の方々が回答したものを集計してある。
内容評価と理解力評価に分かれて、それぞれに集計してあります。
さらには、参加者のコメントもあります。

もちろん提出されるアンケートなので、多少は甘めに評価してあったりコメント
してあったりでしょう。

でも中には厳しい評価やコメントもあります。

私たちのコマは、内容的なものから興味もそれなりに高く、コメントにも厳しい
ものはありませんでした。

でもそれでよいとは思っていません。

報告者も二人でしたから、もしかすると私に対する評価は本当は厳しいかも
知れない。

今年度も出講させていただけることに感謝をして、これからの一年間さらに
積み上げて行くものをしっかりと話したいと思っています。

このビハーラ活動に参加される方、とても有意義で中身の濃い研修だと思い
ます。

これからもビハーラの実践をお寺でやって行きたい。
それにはビハーラ研修はとても重要だと思います。

対象は浄土真宗本願寺派の僧侶や寺族、そしてご門徒(檀家)さんですが、
一般の方の聴講も、事前に連絡をすればできる様です。











 

赦すということ・・・、南無阿弥陀仏

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光澤寺の山門前の枝垂桜と桃の花。

ちょうど、どちらも見頃となりました。
大振りでなくて、どちらも控えめな所と二重奏なところが、私は好き
なのです。

宿坊に来られたお客様といろんな話をしていて、それを仏教や浄土
真宗の教えと重ね合わせる作業をします。
この春もそんなことを続けている。

特に宗派に関わらず来られるので、浄土真宗だけにこだわることは
ありません。
ただ、浄土真宗の教義を仏教に照らし合わせる作業も同時に行って
います。

お釈迦様の仏教と離れていたのでは、それはいくらその宗派の教え
であったとしても、それはもはや仏教ではありません。

そして仏教は心を説く教えとして、社会と乖離して存在するものでは
ないということです。

今そこで悲しみや苦しみの中におられる方、その方々の話しを通して
お一人お一人の心と向き合い、そしてその背景を思う。

その中で私自身が積み上げてきた、浄土真宗や仏教の教えを私自身
の中でクロスさせているのです。

お客様に直接その教えを話すという事ではなく、照らすことで見えてく
るものがあります。
おそらく日本の宗派仏教は、そこが欠落してきたのだろうと感じる部分
でもある。
要は社会性を持たないで、一方的な話しになっているのでは・・・。
なので社会の問題に答えて来れなかったのでしょう。

浄土真宗の教えの中で、その真ん中にある南無阿弥陀仏という言葉。
それをどう解釈して行くか・・・。
教義では様々な解釈があり、そして宗祖である親鸞聖人の解釈もある。

最近私が感じること、それは「赦すということ」です。

人が苦しみの中にいるとき、その心の中には自己批判や自己否定が
渦巻いています。
出口を失いもがき苦しむ、そしてさらに自分を責める。

悩みと思わない人には悩みでないということ・・・。

人は、その優しさゆえに自分を責めるのです。
その悩みの中にいる人を救うという事、それは阿弥陀如来の願いの大
きな一つのテーマでもあります。

それを解釈するのは良いのですが、解釈が先に立ちその本質を見失っ
てはいけないと感じる。

苦しみはその人の心の中にある。
そして、それは自分自身を責めるという事だ。

そこは出口の見えない闇だったりする、その闇の中に光を見出す。
それがアミターバ(阿弥陀)であるのでしょう。

その光とは何か、救いとは何か・・・。

それは「赦すということ」。

赦すということは、自分自身をということで、自分自身を受容して行くという
ことなのではないか。
自分が本当にすくわれるのは、自分自身を受け止められたときなのでしょう。

南無阿弥陀仏の本質は、そこにも大きな意味があると思う。

南無阿弥陀仏とは、私の願いではなく、外に向かってのことでもない。
自分の心と向き合い、そして受容して行く作業なのです。

そしていつか、自分自身を「赦す」ということができたのなら、そこには感謝
の心が生まれるでしょう。

そして、そのいのちを受容する。

生れてきたことを受け止め感謝して行く。

本当は、人はそれだけで幸せになれるのです。

本当の幸せってそんなことだから・・・。


宿坊光澤寺のホームページはこちら!










報恩講の宅参り、カレンダーをお渡しする

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今年ももう年の瀬が近づいてきた。

浄土真宗のお寺では、この時期に報恩講をお勤めする寺院が多い。

それは親鸞聖人のご命日である1月16日に向けて、お待ち受けをお勤め
するのです。

本来は浄土真宗ではお盆の棚経はしない。
なぜならそこに意味を見出すことができないからです。
でも他宗派がやっているので、浄土真宗でも盆参りをする。

教義には厳しいのだが、やってることにはあまり意味を見出せないのです。

浄土真宗では、宅参りは本来はお盆ではなく報恩講でお参りするのが普通
でしょう。

でも最近は報恩講法要はお寺でだけお勤めして、宅参りはしないお寺が増え
てきている。
年末忙しいからとか、そんな感じでしょうか。

私のお寺では、お盆の棚経はしません。

ただ報恩講には一軒一軒お参りさせていただきます。
なにしろ親鸞聖人のご命日のご縁なのですから。

ご自宅のお仏壇でもちゃんとお勤めしないと、一年が終わらないのです。

そのときに来年のカレンダーをお持ちしています。

他のご寺院がやっておられる方法を教えていただいた。
それからは毎年恒例となっている。

このカレンダーのある家は報恩講をお勤めされたということにもなります。

報恩講では「正信偈」をお勤めいたします。
さらに「阿弥陀経」をと言われる家も多い。

なので一軒に1時間かかります。
でもこのときが各ご家庭の方とゆっくりお話しをする機会となるのです。

今日お参りさせていただいたお宅でも、「ずっと聞きたかったことがあります」
とお話しがあった。

ゆっくりとお伺いし、納得されるまでお話しをすることができました。

それにはちゃんと時間を取ってお参りすることが大切なのです。

たとえお寺にお参りに来られなくても、法事や報恩講ではじっくりとご家庭の
方とお話しをさせていただきます。

そのときそのときに、にこちらも全力を尽くす。

読経にも法話にも。

僧侶としての本分はそこにある。

すべてのお参りが一期一会だ!

こちらの体調が悪いとか、都合がどうのとかは言えない。

ただひたすらに全力を尽くす。

そして真剣に向き合うのです。

それが無ければ、お参りに行く意味がない。
そう思っている。


光澤寺のHPはこちら!







浄土真宗本願寺派鳥取因幡組 第8期連研を無事終える!

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早いものです、あれからもう一週間が経とうとしています。

6月28日、光澤寺を会場に鳥取因幡組の第8期連研の修了式が開催され
ました。

連研とは連続研修会のことで、浄土真宗のみ教えを中心に、現代社会の
問題等のことを一緒に話し合い、そして学び合う場であります。

一か月に一回、それを十二か月連続での研修となる。
仕事や家庭の用事をしながらということですから、参加される方は結構大変
です。

この第8期も、40名の方々の参加がありました。
本願寺派の地域単位を組(そ)と言いますが、組の活力は、やはりkの連研
がしっかりと根付いているかどうかが基準となるでしょう。

なぜなら、この連研を修了された方々が、それぞれのお寺の中心となって
活動されることになるから。
鳥取因幡組の多くの寺院の総代さんや仏教婦人会の方々は、この連研を
修了されている方が多いのです。

連研の運営方法は、各組によって違いますが、鳥取因幡組の特長はこんな
所にあるかなと思っています。

①一か月に一回、十二か月連続で実施している。
②会場寺院を持ち回りで実施し、十二の寺院を順番に巡ることができる。
③毎月、最終の日曜日を使って、昼食をはさんで一回4時間の研修を行う。
④午前中必ずその回のテーマについて、班別に分かれて話し合い法座を行う。
⑤その会毎の講師は会場寺院の住職が務める。

以上が、鳥取因幡組の特長です。

ここ数回は、この流れに乗って実施して来ましたが、皆さんの話し合いが深ま
って、同期的な感覚になって来ます。

ただ問題点があって、日曜日の一日を使って実施するので、僧侶側としては
スケジュールの調整が大変だったりします。

私が連研の担当となり、関わった研修はこれで3回目ですが、当初はできる限
り参加していましたが、3回目の第8期は中々参加できなかったですね。
日曜日は法事や行事、宿坊の来客が多くなっていったからです。

ただ今回は、若手の僧侶が関わってくれるようになったので、その点では任せ
るということができたので、かえって良かったのかも知れないなと思っています。

これからもこの連研が長く続いて行くことを願っています。

修了式では、参加者のお一人お一人が、それぞれ感想を述べます。

いろんな思いが詰まっておられるのでしょう、涙ぐむ方も多かったですね。
無事終了して、ホッとされた方もいたのでしょう。

参加された皆さん、本当にご苦労様でした。

これからは、またいろんな所でお会いできる機会が増えると思います。
どうぞよろしくお願い致します。





ご門徒さんから新米が奉納されました

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昨日、ご門徒さんが収穫したての新米の奉納がございました。

今年は8月がずっと雨だったのですが、9月に入って天候も持ち直し、こちらの
ご門徒さん宅では大目に収穫ができたのだそうです。

いつもお寺のことを気遣って下さいます。
早速にお届けいただいたお米を仏様とご先祖様にお供えいたしました。

そのお志に感謝いたします。

昔はお寺への布施や供養は、お金ではなくお米だった。
収穫されたお米をいただいて、報恩講をお迎えするのが習慣だったと記憶して
いる。

お米は「キヌムスメ」という新しい品種で、とても美味しいと評判のお米です。
最近はおコメの品種も増えていて、いっとき流行ったコシヒカリはあまり作られ
なくなったようです。

今ではその様な習慣はなくなりましたが、こうしてご供物をいただけることは、
とても有り難いことです。

お供えは、決してお寺の者や私がいただくのではありません。

あくまでもお供えは仏様へのものであります。

それを決して勘違いしてはなりません。

仏様がいらっしゃらなくては、お供えをいただくことはないのです。

そのお志に感謝をし、そしてお寺を守るためとして、私たちが仏様にいただくの
です。

私は仏様に感謝をし、そのご門徒様のお志に、仏様のお言葉としてお礼を申し
あげます。

本当にありがとうございました、有り難くいただきます。





夏を名残り秋を待つ・・・そんな日の連研でした。

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今日は久々に清々しい天候に恵まれた一日でした。

今年の夏は、こんな日はなかったなあ。
気づけば8月の最終日、もうあっという間に秋だな。

今日は、浄土真宗本願寺派鳥取因幡組の第8期の連研の二回目。

同じ八頭郡にある智頭町のお寺さんにお伺いします。
途中、鳥取自動車道で事故があったらしく、自動車道から降りなければいけま
せんでした。

そんなこんなで、智頭の町へ、「夏子の酒」のモデルとなったことで有名な諏訪
泉酒造の前を左折すると、本日の会場へ到着です。

ご門徒さん方が車の誘導や会場の準備をされていて、有り難いことですね。

ここへ来る途中のこと。
車で走っていると、風は心地よい。
晴れているのにエアコンは必要ありません、でも外では蝉の鳴き声が聞こえる。
それもミンミン蝉やアブラ蝉の鳴き声です。

まだまだ夏が足りないって一生懸命に鳴いている感じがしました。
でも空と風はもう秋の感覚です。

8月はまだ真夏が続く頃ですが、今年はもう秋の空気に包まれている。

今日は夏と秋が同居する、お互いがどちらも譲り合っているかのようである。
秋は夏に気を遣い、夏は秋にもう譲ろうかなと・・・。

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そんな中で連研の講義はスタートしました。

午前中はテーマに沿った「問題提起」を講師が行い、それに基づいて参加者
が話し合い法座をします。
そして最後に班別の発表と取りまとめの法話があります。

午後は、テーマの講義でその内容を深めて行きます。

連研も、鳥取因幡組では第8期になります。
そろそろ人が集まらなくなってきたと、各寺院のご住職は仰られます。
でも今期は約40名の参加者で、大変盛り上がっています。

お寺離れが言われていますが、ここではこんな雰囲気は一切ありません。
やはり現在は、心の時代、仏教が求められようとしているのかも知れないな。

かなり若い方々の参加も目立ちます。

先月から始まった第8期連研、来年の6月まで毎月一回の全十二回開催され
ます。

浄土真宗本願寺派の基礎力は、この連研にあると言っても過言ではないで
しょう。

この連研がある限りは、鳥取因幡組にみ教えの火が消えることはありません。


光澤寺のHPはこちら!

「月刊住職」・・・浄土真宗の僧侶は剃髪しない?

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お寺の専門誌では人気の高い「月刊住職」。

お寺や僧侶を取巻く様々な問題を深く掘り下げて行く内容が多い。
また新しい取り組みにも意欲的な雑誌です。

その最新号の9月号に、剃髪についての特集記事がありました。

僧侶が剃髪にするときに使う道具は何かを中心にした内容です。

浄土真宗の僧侶には剃髪をしている人が少ないせいか、私のコメントも掲載
されていました。

私が剃髪するときは、先ずはバリカンがメインです。
バリカンで1mm以内にしておきます、そうすると後はT字カミソリで剃ります。
普段はバリカンだけですが、ときどきカミソリを入れて完全に剃髪にします。

お坊さんと言えば、頭を丸めていると言うイメージがあります。
坊主といえば剃髪をしているということを指すことからも分かります。

でもすべての僧侶が剃髪しているかと言えば、そうでもありません。
その代表格が浄土真宗の僧侶でしょうか。

浄土真宗の僧侶はほとんどが有髪で、剃髪をしている人はほとんどいません。
私は会社を辞め、中央仏教学院に入るとき剃髪にしました。
これは心にけじめをつけると言った思いからのことでした。

会社を辞めることで、世俗から自分自身の心を引き剥がすといった感じだった
のでしょう。
それ以来、基本的にはいつも剃髪にしています。

確かに剃髪にすることで、髪を気にする機会はほとんどなくなりました。

元々、大乗仏教は在家主義であるため、出家主義とは一線を画します。
特に浄土真宗の場合は世俗である在家を強く意識する宗派であるため、僧侶
といえども在家であると言う認識があります。

それであえて有髪を意識すると言った感覚があるのかも知れません。
非僧非俗といったこともよく聞かれます。

私が剃髪にした頃は、まだ浄土真宗の僧侶には剃髪は少なかった。
逆に言えば、剃髪にしていることをおかしいと思っている人さえいました。

浄土真宗の僧侶でも、最近は剃髪する人が増えてきました。
特に問題意識の高い方には剃髪している人が多いように思います。
ただ本願寺の職員には見かけませんね、剃髪にしづらいと言った感覚がある
のかも知れません。

浄土真宗の僧侶は有髪でなければならない、と言うことは一切ありません。

別に私にも、これと言った主義主張がある訳ではない。
ただこの方が自分でも何となく僧侶らしく、手間がかからないと言ったメリット
があるからです。

でもご門徒の方のお話しをお伺いすると、やっぱり僧侶は剃髪がいいという
方がほとんどです。
有髪がいいと言われた方には、まだ出会ったことがありません。

少なくとも、髪のことで何かを言われると言うことは、全くありませんから、この
方がやっぱり便利ですね。

第8期連研始まる

鳥取因幡組では本日より、第8期の連研が始まりました。

これから毎月一回、十二ケ月連続での研修会です。

私は今日は法務が入っておりました為、午後二時を過ぎてから参加
致しました。
最後の方でしたから、今回の連研の様子はよくわかりませんでしたが、
最後の方に、皆さんが質問をされていましたので、今回の参加者の
皆さんは積極的な方が多いのかも知れません。

その中で最後にこんな質問がありました。

ある方が、朝お勤めのときに唱えるお経は、「正信偈」と「讃仏偈」の
どちらがよろしいのですか、と聞かれていました。

回答は、次回の研修が浄土真宗のお経とと言うテーマですから、その
ときに詳しく話されると思います、というものでした。

質問さえれた方はどの様に受けとめられたかは分りませんが、まあ
それ以上のことにはなりませんでした。

回答としては問題ないでしょうが、ただここで一点考えることがありま
す。
それは仏教を学ぶときのこと、「仏法を学ぶに明日はない」ということ
です。

私たち自らが実践しておきながら、その質問に対して答えを先延ばし
にするのはどうでしょうか。
もちろん、これは質問の内容にもよります。
お釈迦さまも、質問の内容によっては無記、すなわち答える意味が
ないと判断されることもあります。

ただここは連研の場です、できる限りその場で答えることが大切だと
思います、そのために複数の僧侶がいるのでしょう。
それはよく分からないので今度までに調べておきます、ということも
ありますが、それだと学校の先生と同じになってしまいます。

「仏法を学ぶに明日と言う日はない」ということを僧侶も肝に銘じてお
くことも大切だと思います。

さて、今回の質問に私ならこう答えています。

結論から言えば、要はどちらでも良いと言うことです。

本願寺では朝のお勤めは「正信偈」と「讃仏偈」の両方が唱えられま
すね。
もちろん両方を唱えられたら良いのですが、別にどちらかでも構いま
せん。
たとえば法事などでも、どの経を唱えるかは決まっていません。
そのときそのときに、僧侶が決めれば良いことです。
ただし、その宗派の教えに沿った経典であるべきでしょう。

「正信偈」が好きな方はそれを唱えれば良い、「讃仏偈」が好きならそ
れでいい。
交互に唱えたって良い、たとえば時間に余裕があれば「正信偈」とか。
そういうことです。

「正信偈」は親鸞聖人の『教行信証』で説かれたもの、「讃仏偈」は浄
土三部経の中心である『仏説無量寿経』で説かれたものです。
どちらも浄土真宗にとっては欠かせないものですから、どちらという
判断はないのです。

僧侶研修などでは、朝や会のはじまりは、ほぼ「讃仏偈」を唱えます。
お夕事は「重誓偈」です。
研修会や会の最初に「重誓偈」を唱えることはほぼありません。
もしあるとしたなら、それは短いからという理由であります。

それぞれ阿弥陀如来が法蔵菩薩のとき、本願を立てる決意をされた
ときと、本願を立てられたときというシーンが説かれています。
なので、その場にふさわしい内容を選んでいると言うことです。


鳥取因幡組第8期連研の準備作業

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浄土真宗本願寺派で活動のバロメーターと言えば、やはり連研(れんけん)で
あるだろう。

この活動は、各組(浄土真宗本願寺派寺院の単位地域)ごとに実施されている。
全国の中では、連研を実施していない組もありますが、この活動を推進していな
い地域は厳しいのではないでしょうか。

鳥取因幡組では、今回第8期を迎えます。
毎月一回、それを連続12ヶ月で一期となり、修了すると本山で行われる中央教
修への参加資格が与えられます。

結構厳しいスケジュールの様に思われますが、私が連研担当となった第6期と
第7期は、ほとんどの方が欠席もされずに終了されました。

この連研に参加していると、仏教や浄土真宗、そして作法や経典などの基礎知識
が得られるだけでなく、会場が毎月変わりますから12ヶ寺を訪れることができる
のも魅力の一つです。
自分のお寺だけではなく、いろんなお寺を見てみるのも楽しいものです。

研修は、午前10時~午後3時まで。
この中に、参加者が班別に分かれて話し合う、話し合い法座もある。
これがみなさんとても参考になって楽しい様です。

私が連研を担当して3期目ですが、他の寺院のご門徒さんとも顔見知りになれる
ので、私としてはそれも楽しみだったりします。

そしてなにより、この連研に参加された方々は、お寺に熱心になられます。
お寺のことを理解され、そして基礎知識が学べ、自身が付くことも大きいでしょう。

結果は、すべて各寺院の活動に反映されるのです。

今回も人数の心配をしておりましたが、予想を超える方が参加され、うれしい結果
となりました。

今月から第8期が始まります。

その資料に準備を鳥取市の養源寺さんで行いました。
執行部のご住職の皆さんが、一所懸命に製本作業をします。

参加される皆さんへの思いを込めるのです。

さあ、みなさんもぜひ連研に参加してみましょう!



鳥取因幡組連研、第8期が始まります。


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                            (第7期連研修了式)

浄土真宗本願寺派では、連研(連続研修会)を推進している。

推進は、組と呼ばれる地域単位毎に行われていて、鳥取因幡組では、
7月より第8期が始まります。

各地によって推進方法は違いますが、鳥取因幡組では毎月一回で、
12ヶ月連続で開催しており、第8期は、2014年7月~2015年6月ま
でとなります。

会場は鳥取因幡組の各寺院を巡回しますので、期間中に12ヶ寺を訪
れることができます。
普段はあまりお参りする機会の無い他寺院に行けるのも、鳥取因幡組
の連研の楽しみでもあります。
講義は会場寺院住職が担当しますので、各寺院の住職の話しも聞く
ことができるのです。

同じ宗派で同じ地域であっても、お寺によって違いはたくさんあります。
他の寺院の良いところを見ることもでき、参考になります。

テーマも毎回違い、参加者の方が班別に分かれての話し合い法座も
あって、皆さんが自分の思いを話しこともできるし、また他の人の考え
を聞くこともできるのです。

時間は午前10時~午後3時までですから、結構長丁場です。
でもほとんどの方が、途中で辞めることなく修了されます。
やはりたくさんお出会いや、浄土真宗のことを学べますから、行き出す
と楽しいのではないかと思うのです。

参加された方は、それ以降、とてもお寺の活動に熱心になられる方が
多い。
自信がつくこともあるでしょう、またリーダー的な意識ができるのかも
知れません。
これは各寺院にとっても、とても有り難いことなのです。

私は連研担当をしており、今回のテーマも企画しています。
この連研の活動状況が、浄土真宗の活動のバロメーターと言っても
過言ではありません。
これからも、できる限り継続して行きたいですね。

今回は、光澤寺は最終の12回目、修了式と公開講座となります。
来年6月ですが、ご講師は未来の住職塾の松本紹圭氏にお願いして
います。
そのときどんな話しが聞けるか、とても楽しみです。


第七期 連研が終了しました。

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浄土真宗本願寺派鳥取因幡組では連研を開催しています。
現在は第七期ですが、12月22日で十二回目を修了しました。

今回は28名の参加で、27名の方が修了されました。

連研は毎月一回で十二か月連続で行われます。
今回は1月から始まりましたので、12月が最終となります。
お盆があっても報恩講があっても、とにかく毎月あります。

参加される方々もそうですが、主催者側の僧侶も法務のやり繰りをしながら
になりますので、とにかくスケジュール調整に明け暮れます。
でも無事に終えるとなぜかその苦労が嬉しかったりします。

最終回は、参加者の方々お一人お一人の感想を述べてもらいます。
それぞれの思いが聞ける大切な時間です。
こちらの対応も十分でなかったとの思いがありますが、それでも感謝の言葉
が聞けると少しホロッとします。
そしてその後に修了証をお渡しします。

鳥取因幡組では毎月組内の各寺院を持ち回りで開催し、その会場となった
寺院の住職が講師を務めます。
講義のテーマや山間部の寺院もあるので季節も考えながら開催寺院を決め
て行きますが、結局はとにかくやってみようと言うことになります。

第七期は現代の問題にも近いテーマを入れてみました。
そして最終回は外部講師を招くと言うことにし、難しいテーマを選択しました。
テーマは「いのちについて考える(生命倫理)」です。

最先端医療を仏教や浄土真宗的見地から考えるということ。

連研参加者の皆さんも、この講義は聞き応えがあったと思います。

修了者の皆さんは、これから各寺院や鳥取因幡組の門信徒の中心となって
活動して下さる方々です。
これからもまた一緒に浄土真宗のみ教えを学んで行けることを楽しみにして
います。

来年は7月から第八期がスタートする予定です。
期を進める毎に参加者が少なくなるのではとの危惧もありますが、たとえ参
加者が少なくてもやって行こうとの話しになりました。

参加される方々は、周りから勧められたからと言われますが、参加してみる
と良かったとの感想が聞かれます。

これからもずっと連研が続いて行けばよいですね。
浄土真宗のみ教えの聞法は、やはり連研がとても重要であると思います。

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報恩講は心を大切にし、生活を整えて行くこと。

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私がご門徒さん宅に報恩講にお参りしたときは、こんな感じでお勤めします。

焼香 ~ 合掌 ~ 礼拝

鏧二音

「礼讃文」

『正信偈・念仏和讃六首引』

「御文章 聖人一流章」

「恩徳讃」

合掌 ~ 礼拝

これが光澤寺がご門徒さん宅でお勤めする報恩講式です。

すべてセットでおよそ30分かかります。
今まで一日で一番多かったときは10数件ありました。
おそらく『正信偈 念仏和讃六首引』を唱えたのは、一日16回が最高
だった様に記憶しています。

報恩講のときに、先祖のお経もお願いします。
と言われるお宅も結構あります。

そうすると、これに『阿弥陀経』がプラスされるので、お勤めは45分と
なります。

でも年に一度のことですから、できればゆっくりとお勤めしていただ
きたいと思っている。

浄土真宗のお宅では、報恩講をお勤めしなければ、お仏壇を置いて
いる意味がありません。
お盆やお彼岸には、浄土真宗はお勤めしなくても構いません。
でも報恩講は絶対なのですよ。

ご門徒さん宅で、報恩講をお勤めされない家もあります。
あまり先祖やお仏壇を大切にされなくなるのです。

でも、たとえ生活が苦しくても、年一回はお勤めをした方が良いです。
それは、生活を整えて行く最低限のことになるのです。

先祖やお仏壇を大切にされなくなった家は、やはり寂しくなって行く
事が多いと感じる。

それさえしなくなるとき、心の一線が崩れて行くのです。

絶対必要な生活の基盤であるのだと痛感しています。
そのとき良ければ良いと言った感覚では、もうその家の中心が無くなり、
家族の気持ちも離れて行くことになってしまう。

たとえお一人になられても、最後まで生き抜くことが大切なのです。
そして自分が見守られていると感じ、そしてそのことに感謝をする。

心の安らぐときです。

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西本願寺念仏奉仕団に往く!

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9月2日~3日にかけて、西本願寺の念仏奉仕団に参加しました。

念仏奉仕団は西本願寺名物というか、伝統の奉仕活動ですね。
やはり一度は行っておきたいと思われるご門徒さんも多いのでは
ないでしょうか。

白の割烹着のスタイルが念仏奉仕団の名物ですね!
念仏奉仕団キティちゃんストラップも、やっぱり割烹着をきています。

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全国からたくさんのご門徒さんが参加されていて、今年度は21回目
になります。
夏休みには児童念仏奉仕団も組まれています。
こうして西本願寺とご門徒さんたちの結びつきができて行くのでしょう。

毎年延べ6000人以上が参加しているでしょう。
今回の参加者には、30回参加表彰の方もいらっしゃいました。

写真は、御影堂の畳を拭いている所です。
畳や縁を拭き掃除したり、境内を掃いたりと言った簡単な作業です。
時間も二日間で二時間程度、途中からは皆さん記念撮影などをされて
和気あいあいといった雰囲気ですね。

御門主様との記念撮影や、国宝の書院での抹茶接待など、奉仕と
言うよりも本山がご門徒さんを接待すると言った感じでしょうか。
参加した皆さんも楽しそうでした。

我が光澤寺も初めての念仏奉仕団参加です。
団旗授与もあり、何とか参加したなって気分になりました。

参加してみれば意外と楽しい雰囲気ですが、参加してみるまでは内容
が分からないので、どんな感じなのかなあと思っていました。

これからもご門徒さんに声を掛けて毎年一回くらいは行きたいものです。

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真実の教えに出遇うのは、今をおいてない。

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親鸞聖人が九歳で比叡山に上るとき詠まれた句とされる。

「明日あると思う心のあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかわ」

今年は桜の花が早く咲きました。
でも、咲いてからは花冷えが続いて、今日は寒の戻りのような気候です。

風が強く、お寺の山門にある枝垂れ桜も花を散らせている。

日本人にとっての無常観。
それが桜の花にも詠まれます。

華やかに咲く桜の花、昼にも夜にも。

でも、もし夜中に嵐が吹き荒れたなら、昨日までの華やかさとは裏腹に
散った花びらがあわれに思われる。

人のいのちもそうだ。

勢いあるように見えて、まだ若いように見えて、でもそのいのちが明日ある
とは限らない。

特に昔はそう感じられたでしょう。
子どもが生きられない時代だった。

まさに「今でしょ!」
仏法に出遇うのは、仏法を聞くのは。

百千万劫にも出遇うことが難しいと言われる真実の教え。
その真実の教えに出遇う機会があったのなら、そのときを逃してはならない。

そのときあなたのいのちは輝くのだ。

その一瞬を逃さないように。

その一瞬を生きるのだ・・・刹那に生きるとはそう言うこと。

あなたのいのちは今生きている、そして輝く。


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連研修了者研修会を開催しました。

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今日は、鳥取因幡組の第3回連研修了者研修会が、葬祭会館の
メモワールイナバで開催されました。

彼岸明けの日曜日で皆さんもお忙しいところだと思いますが、45名
の参加者がございました。

今日の講師は私が担当し、僧侶の出席も私一人でした。

皆さん、鳥取因幡組の連研を修了された方々ですが、連研終了後の
フォローアップのために、現在は毎年1回開催しています。

浄土真宗のみ教えを聞き、そして参加者同士で話し合い法座をします。
日頃の思いを話し、それぞれの意見を聞くことのできる大切な場です。

浄土真宗の本願寺派の連研は、皆さん熱心に聴講されており、浄土真宗
の組織の原動力となるものなのです。

午前中は講義と話し合いのテーマをお伝えします。
「今を生きる・・・浄土真宗のみ教え」について講義をし、そして話し合い
のテーマは「み教えをどう聞いて行き、み教えをどう伝えて行くのか」。
皆さん熱心に話し合いをしておられたようです。

最後に皆さんの発表があり、私がとりまとめをして終了です。
お昼をはさんで5時間と言う長い時間でしたが、あっと言う間に時間が
経ったと言う感じでした。

浄土真宗のみ教えを皆で学ぶ大切なご縁、このご縁をこれからもずっと
続けて行きたいものです。

参加者からは質問もあり、そして感想もいただいた。
今まで分からなかったことが分かり、スッキリしましたという感想も。
お一人でもこの様なお話しを聞くと、こんなときは有り難い思いになります。

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なぜ浄土真宗には修行が必要ないのか。

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「行は阿弥陀の側にあり」

簡単に言うと、浄土真宗に修行の無い理由はそういうことだと思う。
阿弥陀如来のはたらきである南無阿弥陀仏にそれは含まれている。

では、南無阿弥陀仏の念仏をたくさん称えたら、それだけ行を重ねた
ことになるのか。

それは間違いである。
なぜなら、それは阿弥陀如来の本願を疑うことになるからである。

これは、法然上人も親鸞聖人も同じ考えである。
念仏を百万遍唱えるなどは、全く意味をはき違えていることになります。

念仏の回数を問うことはしない。

釈尊も阿弥陀如来も、救いの対象は衆生すなわち凡夫である。
その凡夫を救うための教えであるのだ。

だから、さとりを開くために行を求めない。
ただ、あくまでもさとりを開く、つまり浄土に往生することに関してと言う
ことに対してである。

一切何もしなくて良いと言っているのではありません。
浄土真宗の僧侶は、よくそこをはき違える。

なぜ阿弥陀如来の側に行があるのか。
なぜそこまで行をし、願いを成就する必要があったのか。

それを聞くことをしなくてはならないのだ。
それが、悟りに近づく道である。

浄土真宗における聴聞とは、そう言うことなのです。

念仏一つで救われるとは、自らが何もしなくて良いということではない
ということ。

そこに気づかなければ、浄土真宗の信心には辿り着かない。

気付けば、わたしのいのちに目覚める。
私の心が転換する。
すると、私の生き方が変わる。

それが浄土真宗的生き方かなと感じる。


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覚悟、浄土真宗的な。

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覚悟と言う言葉がある。

覚悟を決めた、などと表現するが、覚悟とはどんなことだろうかと考え
てみた。

覚と言う字は、仏教的にさとりを意味する。
悟も、その字の通りさとりである。

覚悟とは、さとりを重ねること。
つまり完全にさとりを開いた状態のことなのでしょうか。

さとりとは、ありのままに受け止めることでもある。
私たちは、ありのままに受け止めると言いながら、ありのままに受け止
目ると言うことは容易ではない。

苦とは、ありのままに受け止められないときの心の状態でもある。

すべてのものを、ありのままに受け止められたとき、それが覚悟につな
がるのかも知れない。

ただ人間なので、ありのままにと言いながら、決してありのままに見る
ことはできていないのだが・・・。
どこかに必ず自分の心の作用が入っているのです。

全く自分の心の作用を入れないで、物事をありのままに見ることができ
たなら、それは悟りの状態であるだろう。
それは、すべての存在と自分とが一体化すると言った感覚。

そのときの感覚にこんな言葉がある。
「南無阿弥陀仏を称えれば、仏も我もなかりけり。ただ南無阿弥陀仏
の声ばかりして。」
これは良寛さんのお言葉であっただろうか・・・。
禅の世界も、実は最終的な段階は他力である。

南無阿弥陀仏とは、すべてを包み込むもの。
そこにはもはや、仏と私と言う存在さえなくなるのでしょう。

親鸞聖人は、絶対に自分の力では悟りの道に到ることはできないという、
私と言う存在がある。
その煩悩から離れることのできない自分という存在があるからこそ、
阿弥陀如来の誓願がある。
それは南無阿弥陀仏の世界である。

すべてが一体となる。

私のいのちもそうだ、自分では解決できない問題である。
ただ南無阿弥陀仏があれば、私のいのちの問題が解決できるのです。

すべてを他力にお任せする。

それが浄土真宗的な覚悟であろうか。

そのとき、自分の今までの心にけじめをつけることができる。
そうすると、心の転換があり、自分で自分の道を進んで行けるのだ。

他力とは、自分の心を解き放つもの。

迷いの中で、一歩踏み出して行けるのだ。


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秋の深まりと報恩講・・・報いきれなくても。

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少しづつ秋が深まる。

山里も紅葉がだんだん下りてくる。
山の上から里へと移り変わる。

12月に入ると、今度は雪がだんだんと下りてくる。
先ずは山頂付近からだ。

今のところ、11月はまだ過ごしやすい。
それほど底冷えする日は少ない。

この時期は、浄土真宗のお寺は報恩講で忙しくなる。
年末に向けて慌ただしい時期、そこにお寺の行事やお参りがある。

でもそれを終えないと歳が越せない、といった感覚もある。
ちゃんと感謝の心で今年を終え、新しい歳を迎えるということ。

やはり人は、感謝の心が必要だ。
何に感謝するのか、それは具体的である必要はない。

目に見えないものであったり、すべてのいのちに感謝するって感じで
しょうか。
その心が、人の心を豊かにするのです。
現実の物やお金にだけとらわれやすい、私たちの心を解きほぐす。
そして潤いを与える。

そうすると、手を合わせるという行為が自然に溶け込んで行く。
その心が美しいのです。

禅の竟地にしても、最後は自然に融け合うのだ。

歩む道はいろいろあります、でもちゃんと伝えなくては意味がない。

浄土真宗には『恩徳讃』という親鸞聖人の詩があります。
これを皆でおとなえする。

報いきれない恩を受け取る、そこにありがたいと思う心があり、そし
て、せめてもの私の思いで、仏様を讃える。

その先には、阿弥陀如来の願いがある。


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浄土真宗的スタンスは・・・。

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「浄土三部経」、それは浄土真宗の根本となる経典である。

浄土真宗において、所依となる経典は、これ以外にない。
そう言った意味では、浄土真宗では「般若心経」を唱えません。

もちろん、他の経典を無視するとか、批判すると言うことはありません。
ただ、私と言う人間が、救われていく教えは、この浄土三部経しかない。
そういうことなのです、他の経典に真理を求め、悟りの道を歩まれるので
したら、どうぞそれは一向に良いことです。

でも、「私にはこれしかありません」ということが、親鸞聖人がたどりつかれ
た竟地なのです。

他の道がある方は、どうぞそちらをお選びください。
そのスタンスは基本的なものです。
ですから、他の道を歩もうとされる方を、批判したり、説き伏せたりすること
はないのです。
どうぞ、どうぞご自由に。
でも、やはりこの道しかないと思われたのなら、いつでも戻っていらっしゃい。
私のスタンスもこんな感じです。
なぜなら、人の為にこの教えがあるのではない、私のためにある教えだから。
そう思えば簡単なことです。

もちろん、僧侶としては布教伝道をすることは大切なことですが。

宗教とは、特に普遍宗教と呼ばれるものは、個人救済のための宗教です。
ですから、自分がすくわれていく教えなのです。

救いも求めず、浄土も必要ないなら、浄土真宗の教えは必要ない。
そうなれば、他の宗派も必要とされないでしょうが。

どちらか分からないなら、あると信じた方がよい。
それが、あなたのすくいになるのなら。

もちろん、お寺がなくたって、教えはあります。
親鸞聖人のみ教えを聞くのに、どこかのお寺の門徒にならないといけない、
ということはありません。
ただ、ひとりで教えを聞いて行くのは難しい面があります。
どうしても、ひとりよがりになりがちですから。
別におかしいと思われるのなら、自分が正しいと思われる道を進めばよい
のです。

そう言った面では、できれば誰か師となる方がいた方がいいですね。
浄土真宗の教えを説かれる方は、たくさんいらっしゃいますから。

その中で、自分がこの人、と思われる方を探されたら良い。
講座もたくさんありますから。
でも、注意しないと、いろいろあり過ぎて、どれが本物か分からなくなり
ますね。

どこかちゃんと信じられる場所や人を探すのも楽しみです。
ただ、お金がかかるところは、とにかく止めておくことです。
それだけは注意してください。

それと、何でも断言するところも、注意が必要ですね。

あとは、何かが悪いというたぐい、これも止めた方がいいです。
たとえば、先祖のせいとか、お墓が悪いとか、何とかかんとか。
仏教で、そんなこと言う人、偽物ですから。

もちろん、浄土真宗のお寺の僧侶なら間違いない、ということもありません。
そこにもいろんな僧侶がいますから。

やっぱり難しそうですね。


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浄土は往くところ、還るところ? ・・・ 還浄を考える。

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少し前から、お葬儀のとき「還浄」と書かれることが多くなった。

昔は、「忌中」となっていることが多かった。

「還浄」は、とくに浄土真宗で使われるのでしょう、なぜなら、浄土に還るとい
うことから使われている様に感じます。

でも、本当は浄土に往生すると言います、つまり浄土は本来、往くところでは。
ではなぜ還ると言うのかな。

浄土真宗では、死を忌むべきものとは考えません。
冥土とか冥福とか、そんな言葉は使わない。
もちろんケガレとも考えないのです。
ただ、この世のいのちがたとえ尽きても、私たちには往くべき場所があり、
役割もちゃんとあると言うこと。
それが、阿弥陀如来の願いによって、約束されている。

そこで「忌中」という言葉に代わるものを探したら、「還浄」という言葉があった。
つまり浄土真宗の改革派的な一部の方々が中心となって、この「還浄」を使い
始めた、と言うのが真相の様です。
葬祭会館でも「還浄」と使うことが当たり前と思われているのでしょう、僧侶が
そう言っているからだけで、何も根拠はありません。

浄土真宗の一般の葬儀では、本来は「還浄」は使いませんよ。
そのせいか最近、浄土に還るということを言う人が多くなった。
浄土は還る場所ではなく、往くところ、これをはっきりしないといけません。

何処に還るかと言えば、私たちが住むこの世、つまり穢土です。
浄土に生まれ仏となった方が、この世に戻ってきて、有縁の方々を自由自在
に救い導く。
還ると言うことは、このことしかないのです。

では、「還浄」を使うときはどんなときか。
本来は、本願寺の御門主の葬儀のときにしか使わないものだそうです。
ですから、本願寺としては、一般の葬儀では使わない方が良いと・・・。
でも、浄土真宗のみ教えでは、阿弥陀如来の下では、皆同じ立場だとされる。
それが、葬儀で「還浄」を推進する人たちの主張の根拠であろうと思われる。

実は、このことは、僧侶もあまり知らない話しだと思います。
だから平気で「還浄」とするのでしょう。
私にはちょっと違和感があります。

ご門主のときに、「還浄」とする意味については、私も定かではありません。

でも少なくとも、「還浄」というのは、浄土真宗門徒にとって、あまりふさわしく
ない言葉であるのは事実でしょう。
何か、もっと違う言葉があると思いますが、皆さんはどうでしょうか。

浄土が故郷の様な場所になってしまう、阿弥陀如来の浄土は、本体はそん
な場所ではないのです。
なぜなら、仏の世界ですから・・・、それでは人は皆、仏だったということになる
のでしょうか。
そうではありませんね、特に浄土真宗では、そうはとらえないはずです。


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田あれば田に憂い、宅あれば宅に憂ふ・・・。

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このあとには、

田なければ、また憂へて田あらんことを欲ふ。
宅なければまた憂へて宅あらんことを欲ふ。

これは、『仏説無量寿経』のなかの有名な一節です。

とても人間の本質をついた言葉だなと思う。
当たり前なことであるが、結局、人間の迷いは尽きることがない。

悩み事があると、他のことが頭に入らなくなる。
もうそれだけで苦しい、どうにもならない。

いつか、その悩みがなくなったとする、もしくは解決したとする。
それで、はたして人間はすくわれるであろうか。

いや、悩んでいたときには気付かなかった悩みが、今度は私を支配する。
ただそれだけのことなのだ。

本当のすくいとは、その様な私の心を、ありのままに見ること。
そして、やさしく受けとめるのだ。
そのとき、私は包まれていることに気づく。

それは光かも知れない、いのちのつながりかも知れない。
すべてがいとおしく、ときには私を苦しめる存在さえも。

そして私は欲望の正体に出合う。
それは単に私の心なのだと。
そしてそれは私の幻想なのだと。

でも、そんな自分を受けとめることも必要である。
そして本当の自分と出遇うのです。

結局、人間同士では解決できないことがある。
そのとき、仏がいらっしゃったならば、私は生きて行くという意味に出遇う。

今のいのちに出遇うのです。
そしてまた歩き始める、一歩踏み出せるのです。

そして私のいのちを歩む。
それが仏弟子としてなら、そこに喜びがある。
そんなふうに感じたりもするのです。

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南無阿弥陀仏・・・私はあなたの生きる力となろう。

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南無阿弥陀仏、それは阿弥陀如来の誓い。

そして、その阿弥陀如来のはたらき、それはずっと、そして今も。

南無阿弥陀仏となって、あなたの生きる意味となる。
そして、あなたの生きる力となろう。

そう言っているようにも感じる。

その言葉に、私は仏弟子となって、道を歩くのだ。
今までそこに道があるなんて気付かなかった。

でも、今は歩む道がそこに見える。
勇気を持って踏み出すのだ。

そのとき、私はあなたの道標であり、あなたの力となって、いつも傍に
いるのだ。
そう仰られているように・・・。

日々の暮らしの中で、迷いの中で、私はあなたを見守っている。

南無阿弥陀仏                    合掌


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自分の死に方を考える・・・無量寿の会。

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仏教では無常を説きます。

分かっていても、自分はその中にいるとは考えない。
考えたくないのかも知れません。
自分とは一番遠い存在と感じるか、そう感じたいのです。

でも、覚悟という言葉がある様に、そのことを基準に考えると、後悔しない
人生が送れるのではないか。

当たり前のことを、当たり前に考える。
そして、個人個人の価値観や思いも違う。
でもみんながどんなこと考えているか、どんなことしてるのか。

少しずつ準備をしてみてはいかがでしょう。

お寺でNPOを立ち上げる予定ですが、名前は「やずブータン村」。
そのテーマは、人生を豊かに生きる場所を作ること。

でも人生の最後は、必ず訪れます。
それは突然かも知れない、病気で寝たきりになるかも知れない。
だから元気なうちに死をちゃんと考える。

そこで、『無量寿の会・・・自分の死に方を考える』を作ろうと思っています。
死に方を考えるってことは、残りの人生をどう生きるかを考えること。
エンディングノートが葬祭会館で流行っているそうですが、やはりいのちの
こと、真剣に、でも気楽に、そして真面目に楽しく。

現代は長寿の時代、時間はたくさんある。
どう死ぬかを考える、それは生きることと一体なのです。

光と陰、生と死、機と法、すべて一体、不離の存在です。
両方あって、初めてその存在があるのだ。

そろそろ、自分の死に方を考えてみる。

そんな場所があってもいいかなって思う。


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第6期鳥取因幡組の連研が終了、表情は「光顔巍巍」ですね。

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今日で、鳥取因幡組第6期連研が終了しました。

皆さんには、この連研を通じて感じたことを、お話ししてもらいました。
皆さん、それぞれの思いがあります。
いのちのこと考えたり、いろいろ。

最後には、前組長と前々組長で相談役をお勤めいただいた方の記念法話。

今回は、途中で止められる方は一人もなく、最後には皆で記念撮影。
途中欠席がある方には、来月補講をして、終了になります。
皆さんの表情は、光顔巍巍(こうげんぎぎ)です。

全12回の講義を受けていただきました。
私も担当として、できるかぎり参加をし、お手伝いをさせていただきました。

本願寺派には、この連研があるので、横のつながりができます。
鳥取因幡組19ヶ寺のご門徒さんの縁がつながって行きます。

今回は、途中で一人の方がお亡くなりになられました。
連研を受けられていて、今度は、その後の連研を見守って下さいました。

また、門徒総代会や仏教婦人会などの団体の役員さんは、この連研を受け
られている方が多いので、その連携にもなる。

そして修了者は、西本願寺で中央教修を3泊4日で受講することができる。
そこでは、北海道から沖縄まで、全国の熱心なご門徒さんとの出会いがあり
ます。

各寺院を会場とし、各住職が講師を勤め、班別で話し合い法座をする。
また、あらたな出会いが待っています。

第7期は、来年の1月~12月まで実施します。
また多くの方の、ご参加をお待ちしています。

人生を豊かに過ごすために、そして教えを学ぶ。
そんな浄土真宗本願寺派鳥取因幡組の連研に、どうぞご期待下さい。

衆生として生きること・・・その意味を問う。

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空が悟りだという。
それはある意味違うような気がする。

空はあくまでも空、悟りではないのかな。
悟りに至るまでの道、まだ途中でしかありません。

ある本を読みながら、そう思った。
あくまでも、目覚めるときの第一歩なんだろうなと。

なぜなら、空を仮に理解したとしても、ではどうなるのかということ。
世間虚仮とは聖徳太子の言葉。
あくまでも、世間虚仮としての段階でしかないのです。

でもその先には、現実の中にいる人々がいる。
空とは、あくまでも自力の行者の段階でしかないでしょう。
自力の行者が悟りと感じるものだと思う。

親鸞聖人は、その先を見つめている。
その空であり縁起を包み込むものの存在を。

それが他力です。

自力の行者も、十方の衆生をも包み込むもの。
それが弥陀の誓願なのだと思います。

空であるなら、それは堂々巡りの世界に感じる方もいる。
それならば、結局迷いでしかない。
迷いの中で堂々巡りする。

悉有仏性、有ということにこだわりがある。

それは、生死、そして六道輪廻の中なのだ。

そこから他力へと進む道があった。
結局、堂々巡りの中で、もがくしかない衆生の存在。

そこに救いがなければ、仏の道は完結しないのです。

そして、衆生と言う生きる意味が問われているのではないでしょうか。

日本は、朝廷と言う大陸からの権力が持ち込まれる。
そこに貴族社会が生まれ、後に武家が登場する。
そこでの悟りの段階が、空であるのでしょう。

あくまでも学問的悟りの世界である。
でも、それでは衆生の本当の救いにはならない。

貴族や武家だけではなく、それをも含みこんだすべての衆生と言うことに、
親鸞聖人のおもいは至るのです。

そこに仏教で説く、平等の世界が広がって行く。

衆生に目覚めること、それが他力への道なのでしょう。
衆生、すなわち十方衆生。

それは私自身のことである、私という存在がなければ、十方衆生は成立
し得ない。

そこにこそ、阿弥陀如来の願いがある、それが本願他力なのです。

十方衆生と言ったとき、世の中すべての人々と思った段階では、他力では
ないのです。
十方衆生と言ったとき、それは私のことだと思う。

すべての人々のために、そして私のためにその願いがあると・・・。
それが衆生に目覚めることなのではないかと思います。

そこには日々の暮らしがあり、すべての人々の思いがある。
そこに御同朋の社会が広がり、御同行の生き方に目覚める。

衆生と問われたとき、衆生と願われる。
あわれの中に生きる存在です。
もののあわれとは、移りゆく存在、それが空。

そして、衆生としての思い。

そこに、阿弥陀如来の本願がある。

その衆生の中には、段階もなく、身分もなく、区別がない。
だから衆生なのです。
もちろん虚仮の世界での善悪も問わない。

それは他力へと進む道。

だから法然上人の元には、すべての人々が集まったのでしょう。


日々の暮らしの中に教えがある・・・浄土真宗的日常。

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浄土真宗は、カタチがないので分かりにくい。
とか、頼りなく感じるとか。

そんなふうに言われるときがあります。
たとえば、座禅とか祈祷とか、厳しい修行とか、巡礼とか。

でも、釈尊は日々の暮らしの中に、その教えを伝えて行かれた。
親鸞聖人も、まさに自ら身をもって、日々の暮らしの中に入って行かれた。

決してお二人とも、山に籠って修行に専念されていたわけではない。
人のいる所に行って、その教えを伝えて行かれている。
釈尊に至っては、死ぬまで人々の生活の中に教えを伝えられている。

カタチにこだわると、そのことにとらわれる。

でも、仏教の基本は、ありのままに受け止めること。
そしてありのままに見る、それが四諦八正道の、正見です。

浄土真宗の基本もそう。
ありのままに見ることなのです、それは自分自身をも。

ありのままの自分を見る、そして自分を知る。
そこからすべてが始まる。

そのときに、阿弥陀如来の願いに気づかされて行くのでしょう。

ありのままに見たとき、それは無常であることに気づく。
無常であるがゆえに尊く、そして美しい、でもはかない。
はかなさは美の裏返しでもある。

でもそのいのちを、決して無常だけに留まらせはしない。
それが阿弥陀様の願いなのです。

修行や形にこだわらないこと。
それは、日々の暮らしの中にその教えが必要だからです。
そして、日常の中にこそ、その救いが必要なのです。

何も特別なことじゃない、今のあなたを見つめ見守ること。
それが仏の願い。

そして、それは無限のいのちへとつながって行くのです。

そこに念仏がある、念仏の世界が広がって行く。
念仏は弥陀の呼び声と言う意味が、そこにある。

浄土真宗的生活のすすめ12・・吉凶を問わず。

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仏教は縁起を説きます、もちろん浄土真宗も縁起がその教えの中心を成し
ています。

親鸞聖人のお言葉の隅々まで、縁起の教えが説かれているのです。
この親鸞聖人の説かれる縁起は、釈尊~龍樹の縁起に通じるもの。

元々、縁起は物事の吉凶を問うものではありません。
それがいつの間にか、縁起の良し悪しに使われている。

仏教は、そのような人々の迷いや、イワレのないことに対して、心の迷いを
解き放つ教えなのです。
でも、私たちは、日々の中でいろんなものに左右される。

占い、風水、お墓の向き、六曜の仏滅や友引。
そして、お祓いや祈祷。

仏教は、その様なとらわれから解放するものであったはず。
それが、さも現在の仏事では、そのことにとらわれているのはなぜ?

縁起とは、私たちの存在すべてに関わっていることで、それをどう受け止め
かが、仏教の教えに通じて行くもの。

そこに、祈祷やお祓いを持って来てしまっては、釈尊の説いた教えを真っ向
から否定しているようなものなのです。
浄土真宗では、世間で言われるような、縁起の良し悪しは問わない。

たとえば、お守りや祈祷というものに頼ってしまうと、逆にそのことにとらわれ
てしまうのです。
位牌や戒名にこだわると、また心がそのことにとらわれてしまう。
本来の、仏弟子としての道を歩むという教えから、逸脱してしまう。

浄土真宗では、その様にとらえて行きます。

ただそれを強制することはない、ただその様なとらわれから、少しづつ心を
解き放って行けばいいのです。

そうすると、心が逆に軽くなって行くのです。
そして、その私を見守る存在がある。

いろいろ経験されたり、いろいろ考えられたり。
でも、最後に行き着く場所は必ずありますよ。
それは、すべてのとらわれから解き放たれる世界が。

もちろん私は、まだまだ、ですね。
いつも、日々、いろんなことにとらわれています。
でも、ちゃんと先が見えていれば良いのです。

そんな世界があることを、ちゃんと。
そうであれば、そこに少しづつ近づいて行けるのでしょう。
無理をせずに・・・。





浄土真宗的生活のすすめ11・・写経する?

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写経って、浄土真宗ではあまりしない?

いえいえ決してその様なことは、ございません。
浄土真宗のお寺でも、ちゃんと写経をしますよ。

もちろん、私どもの宿坊でも、定番のひとつです。

ただ、大々的に写経を謳わないかな。
それは、修行でも功徳でもないから。

でも、仏教やお経に親しむことって大切なこと。
だから、ちゃんと写経もします。

一般的には『般若心経』の写経が多いですね。
では、浄土真宗では一体何を?

それは、『重誓偈』そして『讃仏偈』。
体力と気力があれば、『正信偈』。

というふうに、短いものから長いものまで揃っています。
そして、どれも魅力的なものばかりです。

書きながら、どんなことが書いてあるのか、興味が湧きます。

『重誓偈』と『讃仏偈』は、阿弥陀様のことを書いたもの。
そして、『正信偈』は、親鸞聖人のみ教え。

うーーーん、素晴らしい。

じゃあ『般若心経』はだめなの?
そんなことはございません。

釈尊の説かれた経典を否定することなど、まったくありません。
ご希望があれば『般若心経』も書きます。

ちなみに、私も東京時代は、高尾山から成田山まで、写経の旅をしました。
そう言えば、嵯峨野の寂庵にも、結構ミーハーですね。
鶴見の総持寺から芝の青松寺では、参禅会にも通っておりました。

何も否定しない。
これが浄土真宗の基本。

ただ、ちゃんと阿弥陀様の教えを聞くことは大事です。
そして、各宗派の教えに親しむ。

ただ、浄土真宗の写経では、納経は致しません。
これは先にも書いたように、自分の功徳ではないから。

私の思いは、あくまでも仏さまからの、お心なのであります。
と言うことは、納経料も必要ないってことにもなります。

こころ穏やかに、仏の教えに出あう。
それが浄土真宗的写経かな。

是非、あなたも写経をどうぞ。

浄土真宗的生活Ⅹ・・生きてるうちに法名を。

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生前に法名をいただく。

一般的には戒名、でも浄土真宗では法名と言う。
意味の違いは、以前にこのブログに書いているので、ここでは話さないけど。

僧侶や寺院批判の多くは、この戒名料が高すぎるとか、意味が分からないとか。
そんな話しが多い。

それは、死んでから葬式のときに、考えるからそんなことになる。
もしくは、残された人たちが、意味が分からないから、先祖と同じにしなく
てはいけないと思い込む。

あるときお店で飲んでたとき、こんな話を聞いた。
戒名は高いものは必要ないと、寺院に伝えた。
そうすると、その寺院の位牌堂に一番下に、位牌を移されたと言う。
それも、隣が無縁仏だったと。
それで、さすがに真ん中あたりに移してもらったそうです。
結構な金額を支払われたそうです。

こんな話を聞くと、戒名の意味が分かりませんね。
そして、こんな寺院や僧侶に法要をしてもらっても、まったく意味がない。

浄土真宗では、生前に法名をいただくことが多い。
これって、意外といい。
なぜって、生前からちゃんと自分の法名が分かる。
そして、葬儀のときに法名料は必要ないのだ。

法名をいただくことで、仏の道を歩くと言う、実感を伴うかもしれない。
戒名の位や格など、仏教には全く関係ないのだ。
高い戒名をもらっても、仏となることに何も関係しない。

戒名があるから、位牌が必要になる。
位牌があると、少しでも人より良いものを、という気になる。
でも、逆にそれって、仏教の教えから外れているって、ご存じなのかなあ。

釈尊も親鸞聖人も、そんなことは決して言われないでしょう。
尊いのは、あくまでも、その教えとその人の行動によってなのだ。

なので、生前にちゃんと法名をいただいておけば、そんなこと関係ない。
浄土真宗には、位牌も必要なければ、位牌堂などまったくない。

戒名批判の前に、ちゃんとその意味を知り、自分の考えに従えば、そんな
こと考えなくて済むのです。

生きているうちに、ちゃんとその教えを知る。
そして、仏の教えを知ることで、自分の人生に広がりができる。
安心のある生活を送ることができるのです。

僕は、僧侶なので、得度のときに法名をいただいている。

ちゃんと仏の道を歩いているかどうかは、分からない。
でも、その道を外れようとするとき、自分自身で考える。
そして、またその道へ戻ろうと、そんな気持ちが起きる。
それが、私たちにとっての人生の指針となる。

迷ったとき、苦しいとき、快楽に流されるとき、誘惑に流されるとき。
しっかりと法名の意味を問い直す。

浄土真宗では、そんなこともある。

それって、人生で大切なことだなって、そう思う。


浄土真宗的生活のすすめⅨ・・寺で葬儀をする。

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浄土真宗だから、寺で葬儀をすると言う訳ではない。

ただ、浄土真宗的な葬儀を考えたとき、お寺なら、もっとしっかり見送ること
ができるのではないかと思う。

死は突然です。
余命数か月と言われていても、やはり死は突然でしょう。
なので、そのときはゆっくり考える暇もない。
周りからは、あれもこれもと言われる。

お寺なら、元気なうちから、希望を聞いておくことができる。
そして、お寺側で準備をしているから、あわてないで済むのです。

そして、浄土真宗の葬儀に必要最低限のものを、揃えておく。
華美なものは必要ない。
本当に必要なものだけで、丁寧に、そして厳かに見送るのです。

その方の生きてきた証として、その人生の完成のときを見守る。
そして、残された者のために、しっかりと見送る。
これは、どちらも儀式として大切なことなのです。

枕経・通夜・葬儀とお寺でゆっくり見送れる。
家や葬儀会館では落ち着かなくても、馴染んだお寺で過ごせる。
都会や遠方から帰ってきて、自宅を片づけるのは大変なのだ。
誰も、事前にできないのが実情です。

そんなことも、これから考えておいた方がいい。
そんかことで、宿坊も始めることにしました。

浄土真宗らしい葬儀で、大切な方をお見送りしたい。
そう感じるのです。

もちろん、葬儀会館よりも、かなり安く抑えられるでしょう。
阿弥陀如来のご本尊にちゃんと見送っていただける。

最近は、葬儀の形態が変わってきた。
従来の葬儀に、価値観を見出せない人も多いと聞く。

都会が変われば、田舎もあっという間に変わって行く。

本当の葬儀、本当の見送り。
それをしっかりとお伝えできれば、葬儀の意味ももう一度、あきらかになる。
なぜ葬儀が必要なのか。

葬儀もしない社会になれば、人間のいのちは粗末になって行かざるを得な
いでしょう。
でも、それに胡坐をかいてきた寺院は、ちゃんと考え直す時期に来ている。

手遅れになってはいけないのだ。
私の寺は、本物の浄土真宗の葬儀を提案する。

それは、本堂と言う存在。
そして、僧侶としての存在。
作法・儀式の尊さ。
読経の有り難さ。
ご遺族への配慮。
仏様のことをしっかりお伝えする。
浄土真宗のみ教えを伝え、作法もお伝えする。
全てが、故人を偲び、ご遺族のことを考え、そして浄土真宗の作法によって、
それらが執り行われる。
葬儀をすることの意味を知り、それを感じていただく。
そんな葬儀を考える。

流れ作業の葬儀は、もうやめにしたいのです。

それが今年のスタートとなる。


浄土真宗的生活のすすめⅧ・・瞑想ってあり?

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瞑想っていろんな瞑想がある。

私も最近、瞑想を少し意識しています。
これは修行とか教義とかは全く関係ない世界での話しです。

私に合った瞑想方法とは、どんな感じかなと手探りしてる。
これも意外と面白かったりします。

どこか場所を決めて瞑想するというよりも、逆に場所を選ばない。
椅子に座ってるとき、歩いているとき・・・。

最近は、法要で読経をしながら瞑想的な雰囲気になることもある。
瞑想と言えば形がありそうだが、僕にはあまりない。
常にフリースタイルな瞑想。

自分を客観的に見る、もしくは自分をコントロールする。
このどちらも瞑想状態によって作り出すことができるのかなと考えたり。

普段、人って結構無意識に動いてることが多い。
それを自分でコントロールする。
この言い方は少し間違っているかも知れませんが、何となくそんなことを感じる。

たとえば、念仏のときの状態は、自然との調和がテーマ。
読経のときは慈悲がテーマとなる。

意識しないでできればよいが、最初はやはり意識してやることも必要だと思う。
それがいつか無意識にコントロールできるようになればよい。

最終的には、感情や欲望を少しはコントロールできるのではないかな。
そこには絶対的なものが必要となる。
それが仏教的真理であったり、阿弥陀如来の本願であったりする。

そこを前提にコントロールしなければ中心が分からないので、コントロール不能
になってしまうのだろう。

今は、そんなことを感じながら、少しづつ瞑想を試しています。

それは悟りを得るためとか、修行と言う概念を持たないことも重要。
そうしないと目的が違ってきてしまう。

あくまでもフリースタイル瞑想なのだ。

それには、ヴィッパサナー瞑想が役立つ。
釈尊の禅定に近い瞑想。

これから少しづつ瞑想をトレーニングして、いつかは宿坊のテーマの一つに。
心を和らげ、迷いを少しでも取り除く方法。

そして自然との調和と、縁起の中に生きてることの実感。

念仏は私のすべてを開放するもの。
でも最初からはそう思えないこともある。

瞑想がその手助けになるものではない。
ただ自然に生きて行くための方法。
とりあえず、何かやってみようかなと思ってる程度です。

でもいつかは、浄土真宗的瞑想にたどり着きたいと思っています。
それはどんなものか、少し興味がある。
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