宿坊光澤寺日記・・ひとりばなしのつづき。

光澤寺&宿坊光澤寺&やずブータン村。 山里のお寺で繰り広げる「こころのふる里」作りとお寺復興プロジェクトや、宿坊に来られた方々との出会いも語ります。

浄土真宗 法話

秋の長雨に咲く花・・・一瞬の思いを受けとめる

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秋の長雨という。

今年の夏は猛暑から一転して、一気に秋になった。
長期予報では10月くらいまで残暑が続くと言っていたが、どうやらそうでは
ないらしい。

涼しくなるのはいいけど、夏があっという間に通り過ぎるのも寂しくはあるな。

その長雨のなか、境内に薄紫色の花が咲いている。

その雨に濡れて露が花に・・・。

雨の似合う花だと感じた。

「季節ごとに咲く 一輪の花に 無限のいのち 教えてくれたのも あなた
 でした・・・」

ついこの歌を思い出す。

夜の星に気づいたとき、境内に咲く花に気づいたとき。

山口百恵さんの「さよならの向こうがわ」と言う歌だと思う。
阿木洋子さんの作詞だったと覚えているのだが・・・。

よく歌が仏教の教えに似ていると言われることがあります。

でもそれは、仏教の教えに似ているということではなく、その一瞬一瞬に教え
があるのだろうと思う。
その一瞬を切り取ったとき、心に通じるものがあるのだろう。

私がそんな話しを聞いたとき、いかにもそれらしいと言った歌だった。
でも僕は、いかにもって感じは好きではないです。

何となく、ふとしたときに感じる歌の方が好きです。

その一瞬の言葉から、その思いを紡いでゆく。

そんな感じの方が、僕は法話に出来る。 

なので、この歌はよく法話に使わせていただいております。


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一周忌に想う・・・私という存在は。

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人は何によって行動するのでしょうか。

それは自分の意志によってと思っている人が多いのかも知れません。
でも自分の意志と思っていても、よくよく考えると周りによって自分の
行動が決まっているのではないかと思うこともあります。

それは自分の意志ではないのだから、周りに迎合しているかのように
受けとめられるかも知れません。
何か判断するときに、まわりにその判断を委ねているなら、そう思える
かも知れません。

ここでは、たとえ自分が判断していることでも、実は多くの縁によって
その判断が下されているかも知れないということです。
そう、人の行動や人生って、周りの多くの人の縁によって動かされて
いることが多いのだと思います。

私が会社を辞めて僧侶となり寺に戻る。
そして今日、一周忌のご縁によってここにお参りさせていただくこと。
それらは本当に自分の意志だけであろうか。

何かによってそう動かされ、何かによって今の自分がある。
そこには私の意志とは違うものが働いているのです。
生れてきたこともそう、そして死ぬことも自分の意志ではないだろう。

何かに衝き動かされている自分と言う存在がある。

お経を唱えているとき、それはもう自分ではないと感じることがあります。
それを唱えさせているものは何か。

お念仏もそうです。
自分で称えているつもりであるが、実は称えさせられている。
そこに自分の意志はなくなるのです。

禅では心身脱落を説く。
実は浄土真宗の念仏は、すでにそこに我がはからいはないのです。

念仏は仏のはからいであって、自らのはからいではない。

お経を唱えていても、そこには私と言う存在はいない。
ただお経だけがそこにある。
私が唱えていても、それを称えさせているのは私ではない。

そんなことがあります。

すべての縁によって私の存在があり、私の縁によってそべての存在が
その存在たらしめられる。

それは仏教では縁起における「無自性」ということになります。

この世のすべての存在は、縁によって成り立ち、そしてすべての縁によ
って動かされるのです。

その動きを見つめ、そしてそのことを理解する。
そこに自分と言う存在を、その中に融かしこむ。
それが念仏の世界だと思います。

そこにあるのは、仏の思いへの感謝の心になるのだろう。

まさに、「円満得号勧専称」なのです。

そして、これからの縁は、今のあなたが作ってゆくのでしょう。
あなたの行動によって、その縁がどう展開して行くのか。

他力とはそういうものなのかな。


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しあわせとは・・・

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幸せとは生きていることだと思う。

今のいのちを生きること。

そのいのちは無常である。

短かったり長かったり、でもその期間は関係ない。

いのちが存在したと言うことが幸せなのだ。

苦しみや悲しみとともに私のいのちはある。

そして喜びとともに私のいのちはある。

それ以外には何もない。

今日生きているこのいのちが幸せなのだ。

孤独とつながりの中にある私と言う存在。

その存在を存在たらしめるのが、願いだ。

願いとは何か、その無常のいのちを包み込むもの。

その存在が私には必要なのだ。

私を私たらしめるもの。

いつかそのことに気づくときがあるだろう。

今日は三回忌の法話でした・・・法話をするときのポイント。

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今日は日曜日。

三回忌の法要が二軒ありました。
一軒は、ご門徒さん宅で、お寺のこといつも大切にされていた方。
この方は、私の唱える三奉請がお好きでした。

もう一軒は、ある寺院の前院主の三回忌。
そちらから法話のご依頼があったので、参列いたしました。

ご法事のときは、法話はいつも15分以内と決めています。
お斎(食事)の時間が決まっているのと、これ以上長くなると、皆さんも
しんどいでしょう。
15分間にどれだけ伝えられるか、そして毎回違う法話をします。
逆に、コンパクトに教えを伝えることに集中するので、自分自身のトレ
ーニングになる。
仏様の力を借りて、自らを鍛える。

法話は話すポイントを1点に先ず絞って、そのポイントから外れない様に
話しをして行きます。
法話はお話しするテーマ、つまりポイントを決めることが大切です。
そしていつも、違う法話をすることを心がける。
そのとき、どこかの本や法話集などを参考にしないこと。
参考にするのは、経典や親鸞聖人のみ教え、もしくはそれについて
書かれたものです。
あとは自分の言葉で語らないと、結局法話が上滑りになってしまうと
思っています。
良くても悪くても、自分の感じたこと、受けとめたこと、経験したことを語ら
ないと、いつまでたっても本当の法話にならないと思う。
自分で常に考えると、いつしか法話のテーマが増えて行きます。

もうひとつの、ご院主の三回忌の法要は40分と決まっていました。
今日のテーマは「いのち」です。
お釈迦様と親鸞聖人の教えを、私の体験を交えながらお話しする。
お参りの方々は、皆さん初めてお会いする方々です。
私は、そのご院主にお会いしたことはないので、三回忌のご縁をいた
だくことの意味をお伝えしようと思いました。

少し長い法話は、先ずテーマを決める。
テーマの次に、お話しするポイントを3つから5つ程度決めます。
ポイントについては、日ごろ自分でお話ししていることなので、自然に
15分程度は話すことができる様になっています。
ただ一点は、み教えから絶対外れないこと、テーマと関係ない話しを
しないことです。
あとは流れに注意する。

法話をするときの注意点は、細かく筋書きを決めないことです。
筋書きに気を取られたり、途中で忘れたり抜かしたり。
そうするともう戻れなくなって、話しにまとまりがなくなってしまいます。

なので、テーマとポイントを決めたら、あとはイメージを膨らませる。

法話が始まると、お参りの方々の反応を見ます。
年齢や、性別、み教えの理解度などを、話しをしながら感じ取ります。
そしてその感覚によって、内容を調整して行く。
ことば遣いだったり、語句などを分かりやすくとか。
あとは声の大きさ、スピードなどに注意。

お話しをしていると、あるポイントの話しが膨らむことがあります。
そのときは時間との兼ね合いを感じながら、他のポイントを調整して
行くことになります。

今日の法話は、どちらもそれほど長い時間ではありませんでしたの
で、以上の様なことを考えながらお話しをまとめました。

法話の感想を聞くことはできませんので、どうであっても最後は自分
で受け止めるしかないですね。
自分では上手く話せたと思っていても、実はそうでなかったり。
あまり良くなかったかなと思っても、実は・・・と言うこともあるでしょう。

あとは、み教えと自分とのお話しですね。


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