
「念仏は義なきを義とす」
歎異抄の第十条はこう始まっています。
第九条までは、弟子である唯円が聖人のおそばで見聞きしたことを
書き記されている。
聖人がいらっしゃったときには、信をひとつにし、思いを浄土によせて
いらした人々。
イザとなれば、親鸞聖人にお伺いすることができた。
「そもそもかの御在生のむかし、おなじくこころざしをして、
あゆみ遼遠の洛陽にはげまし、信をひとつにして心を当来の報土に
かけしともがらは、同時に御意趣をうけたまわりしかども・・云々」
という一節からも読み取れる。
ただ近来は念仏を申される人々が多くなりましたが、その中には聖人
のみ教えではない、異議を唱えておられる人がいらっしゃると聞く。
それらの異議を一つ一つ、これから詳しく述べて参りましょう。
『歎異抄』は第一条から第九条までは、親鸞聖人のお姿やみ教えを、
その近くで見聞きされた唯円房が、できるだけ忠実に記している。
つまり、私がうかがった親鸞聖人はこうでしたよ、と伝えているのです。
そして第十条からが、『歎異抄』の本題に入るのです。
つまり『歎異抄』とは、親鸞聖人のみ教えとは違うこと、つまり異議を
歎き、正しいみ教えを伝えようとする唯円の心の書なのです。
やはり親鸞聖人のお近くに長年付き添われていた唯円だからこそ
記すことができた、もしくは記さざるを得なかった書であるでしょう。
そして第九条までのお話しと、これからは私が親鸞聖人から伺った
み教えと、世間でとなえられる異議とを、一つ一つ正して行こうとさ
れるのです。
それが第十条なのでしょう。
「念仏は無疑をもって義とす。不可称不可説不可思議のゆゑにと
仰せ候ひき。」
念仏は疑なきを義とす、それは阿弥陀如来のはからいは、不可称
不可説不可思議であるのだから・・・。」
他力の念仏は、自らのはからいなきことをその教えとする。
なぜなら念仏とは、私たちのはからいを超えたものであり、たとえる
ことも、説くことも、思い尽くすこともできないから・・・。
そう親鸞聖人は仰られている。
人は、目に見えるもの、実体がある様に思っているもの、自分が想像
できるもの、それにしがみついているのでしょう。
でも、阿弥陀如来の絶対他力の念仏は、そのような自力の思いをはる
かに超えたものであるということ。
私たちの考え得ることでは、そのいのちを見守ってゆくことはできない
でしょう。
自力には限界がある、だから私たちが頼りにするのは、他力の教え
なんだということでしょう。
だから宗教があり、仏教があり、浄土真宗がある。
私たちには、そのいのちを見守り導く存在が必要であり、その存在を
知ることで、すくわれていくいのちがあるのです。
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