宿坊光澤寺日記・・ひとりばなしのつづき。

光澤寺&宿坊光澤寺&やずブータン村。 山里のお寺で繰り広げる「こころのふる里」作りとお寺復興プロジェクトや、宿坊に来られた方々との出会いも語ります。

和讃のこころ

和讃・・・悲歎述懐、親鸞聖人の心の奥底か。

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親鸞聖人の和讃の正像末の三時を説いた和讃、「正像末和讃」。

その中に、「悲歎述懐讃」がある。

これは、親鸞聖人の心の叫びとでもいえるような和讃。

自らの心を見つめるとき、とても清らかな心などない自分に気づかされる。

告白と言うには、あまりに厳しい言葉の連続である。

その最初の和讃

「浄土真宗に帰すれども
       真実の心はありがたし
               虚仮不実のわが身にて
                      清浄の心もさらになし」

ここでの浄土真宗とは、浄土の真実の教えであり、法然上人の教えとも
言えるのではないか。
常にこの言葉でわが身を振り返るのでしょう。

中にはこの様な和讃も

「悪性さらにやめがたし
        こころは蛇蠍のごとくなり
                修善も雑毒なるゆゑに
                        虚仮の行とぞなづけたる」

このような私にとっては、修善でさえ、ただの雑毒でしかない、ただの
虚仮の行なのだ。

この悲歎述懐讃は、中途半端に詠んでしまうと、火傷しそうなくらい。
そんな言葉が並んでいる。

でも親鸞聖人は、この和讃を詠まずにはおれなかったのでしょう。
そのお心は、まだ私には届かないな。




慈悲に三縁あり。

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慈悲には三縁ありという。

一つは、衆生縁。
これは小悲なり。

二つには、法縁。
これは中悲という。

三つには無縁。
これは大悲である。

如来の大悲は無縁なのです。
ゆえに絶対。

大悲とはすなわち、出世の善である。
安楽浄土は、この大悲より生ぜるがゆえなればなり。
ゆえに、この大悲を言いて浄土の根とする。

ゆえに「出世善根生」というなり。

これは、天親菩薩の浄土論の解説書である『往生論註』を、親鸞聖人が
引用されて、『教行信証』に述べられているものです。

親鸞聖人の、往生浄土に関わることは、この『浄土論』と『往生論註』に
依るところが大きい。
天親と曇鸞、いわずもがな、親鸞聖人が最後に、自ら名を選ばれた方々
である。

親鸞聖人の詠まれた和讃にはこのように・・・。

「小悲小慈もなき身にて  有情利益は思うまじ
如来の願船いまさずば  苦海をいかでかわたるべき」

       (正像末和讃 悲歎述懐讃)

わたしには小悲も小慈もなき身である
そんな私に、衆生を救おうなんて思いなどない
たとえ思っても、適えることなどできない
如来の願いがなければ この苦海をどう渡って行くことができようか


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いちいちのはな ・・・ 親鸞聖人と曇鸞大師の縁。

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浄土和讃のなかに、讃阿弥陀仏偈があります。

これは、阿弥陀如来を讃える詩ですね。
親鸞聖人が詠まれた、阿弥陀如来を讃える詩。

昨日の法話でお話しした和讃にこんな和讃があります。

「一々の華のなかよりは 三十六百千億の
 
 光明てらしてほがらかに いたらぬところはさらになし」

「一々の華のなかよりは 三十六百千億の
 
 仏身もひかりもひとしくて 相好金山のごとくなり」

こんな詩があります。
とっても美しく、とってもオシャレな感覚です。
こんな詩を約800年前に詠まれていたなんて、親鸞聖人は第一級の詩人
でもあるのですよ。

親鸞聖人の和讃が世界に広まっていたら、ボードレールやランボーも霞ん
でしまうかも知れませんね。

でも、この和讃には原題があります。
それは、親鸞聖人のお名前にもなった、曇鸞大師。

この方が、約1500年前に、この詩を詠まれているのです。

一一のはなのなかよりは・・・

一つ一つの華の中より光が放たれる、その光は三十六百千億もの光。
その光は、皆の心を安心へと導く光、その光がとどかないところはない。

すべての仏の思いは、光となって私たちにとどいているのだ。
なんということか、わたしのこころも、ほがらかになる。
仏の光につつまれる。

その後にはこう記されている

願共諸衆生往生安楽国
南無至心帰命禮西方阿弥陀仏

ここに、親鸞聖人と曇鸞大師の重なる思いを聞くことができる。
親鸞聖人は、曇鸞大師が好きなんだなあ・・・。

親鸞聖人の思いは、善導大師ではとどまらず、曇鸞大師と天親菩薩に
行き着くのだ。

日本の浄土教の終着点もである、親鸞聖人。
浄土宗との本当の違いは、ここにある様な気がする。

法然上人と親鸞聖人の思いのいたるところが違うのでしょう。

曇鸞大師から、親鸞聖人は往相還相の二回向を聞く。
そして、他力の世界へと誘うのである。

それは、歓びの世界。
それは、こころにとどけられる。

和讃のこころ ・・・ 愚禿親鸞作

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浄土和讃で冠頭讃の二首に続いて、讃阿弥陀仏偈和讃となる。
そこには、愚禿親鸞作となっている。

そして、南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)

「讃阿弥陀仏和偈」とは曇鸞大師の作られたもの。
その偈をほめたたえるのです。
もちろん、それを通して阿弥陀仏をほめたたえる。
親鸞聖人の阿弥陀仏のお姿は、曇鸞大師のお心を通していらっしゃる
のかも知れない。
そして、それは往相還相の回向へとつながる。

その最初が、正信偈のあとに称えられる、六首の和讃の一番最初のもの。

「弥陀成仏のこのかたは
    いまに十劫へたまへり
       法身の光輪きはもなく
          世の盲冥をてらすなり」

阿弥陀仏となられてから、すでに十劫のときが経っている。
その智慧の光明は、限りなくその教えとなって私たちに届き、そして導く。
常に迷いの中にいる無明の私たちを、照らしつづけていらっしゃるのだ。

親鸞聖人は、この「讃阿弥陀仏偈」を経典と同じに見ておられるのだ。
そして六首和讃はここから始まっていく。

阿弥陀仏のその存在を先ずあきらかにする。
劫の意味は、少し前にお話しした通り。
十劫とは、私たちからすると、永遠とも思える時間である。
でも、確実にそのときは過ぎて行く。
そしてその間に、私たちがその光明に照らされるときがある。
それだけでも奇跡なのだった。

永遠と思える時間のうちにさえ、遇うことの難しいこと。
その存在を私たちはいま、受けとめることができるのだ。

そのことにどうぞ気づいてください。
そのときは、まさに過ぎ去ろうとしている。
だから念仏に遇うのは、今なのだ。

そう呼びつづけている。
あなたを呼びつづけている。
ずっと呼びつづけている。

そこに幾多の縁が重なり、その光に私たちは出遇う。
それは自分から求めたもののように思える、でも本当は呼びつづけて
いただいてたんだな。

そう思えたとき、他力の意味に気づく。

ああ、何というかたじけなさよ・・・。
親鸞聖人のお心である。


和讃『讃阿弥陀仏偈』・・讃めたてまつりて安養といふ。

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「南無阿弥陀仏 釈して『無量寿経傍経』と名づく、讃めたてまつりて
また安養(あんにょう)といふ。

成仏よりこのかた十劫を歴たまへり、寿命まさに量りあることなし、
法身の光輪法界に遍じて、世の盲冥を照らしたまふ、かるがゆえに
頂礼したてまつる。」


上記の言葉は、親鸞聖人の『浄土和讃』、徳号列示の序文である。
曇鸞大師の『讃阿弥陀仏偈』を、独特の解釈をされている部分。

徳号、つまり阿弥陀如来をいろいろな言葉で表現して、続く和讃の
表現を述べられているのです。

その数、三十七。

無量寿仏とはたとえようもなき、不可説な存在である。
でも、なんとか様々な表現を使って、皆に説き明かそうとする。
説き明かすと言うよりも、少しでも皆に感じ取ってもらいたいと言った
方が適切なのでしょう。
でも一言ですべてをあらわす表現はない、だからたくさんの、様々な
表現で呼ぶのです。

その中でも、序文にこの言葉があります。
そして『正信偈』の和讃で有名な、六首を詠まれて行きます。

曇鸞大師は、親鸞聖人のお名前のお一人です。

法然上人は、やはり善導大師である。
でも親鸞聖人は、最後は天親菩薩と曇鸞大師なのです。

そこには、愚禿親鸞作とある。
親鸞の名をいただいていながらも、自らはやはり愚禿なのです。
ただの迷いの凡夫でしかない。

法然上人と親鸞聖人。
浄土の教えは同じであるが、どこまで辿って行くかで、その表現に
違いが出てくるのでしょう。

そしてその立ち位置。
法然上人は、あくまでも智慧の人である。
たとえ万人のすくいを説いていても、自らはあくまでも清廉の身である。
親鸞聖人は、情とか愚の人と表現されるが、きっとそうではない。
ただ、そこまで身を賭すのである。
自らが、その場に立とうとされるのです、つまり実践の人。

浄土の教えは、智慧の法然上人によって開かれ、親鸞聖人の探究心
と情熱と苦悩、そしてその実践によって、日本に花開いたのでしょう。

親鸞聖人 和讃のこころ・・・冠頭讃(かんとうさん)。

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親鸞聖人が書かれた和讃、その『浄土和讃』の最初に、二首の和讃がある。
その二首の和讃は、冠頭讃と言われている。

ではなぜ、この二首だけ取り出して、和讃の最初にあるのか。
それは、実際にその和讃を詠んでみた方が良いでしょう。

【一】
「弥陀の名号となへつゝ 信心まことにうるひとは

憶念のこころつねにして 仏恩報ずるおもひあり」

同じように、南無阿弥陀仏の名号を称えていても、信心を本当に得た人は、
本願を疑うことなく、憶念する心が常にあり、仏の恩に報いたいという気持ち
があるのでしょう。

信心を得て、その喜びと感謝の気持ちをもって、念仏する人は、
常に弥陀の本願を思うこころがある、そんな人は、その仏の恩に
報いたいという気持ちがあり、その様な生き方をされている。
・・・ただ念仏を称えれば良い、と言うものではない。
その様な生き方をして、初めて信心を得たと言えるのでしょう。
どんな悪人でも救われる、などとといったものではないのでしょうね。

弥陀の本願を憶念する、そこに信心の原点がある。
それが出遇いであるのでしょう。
多生の縁の中でも、いまその本願に出遇えたという、その喜びと、その願い
に対しての、かたじけなさよ。

それを思えば、その恩に報いて生きるのが、浄土真宗門徒なのでしょう。

【二】
「誓願不思議をうたがひて 御名を称する往生は

宮殿のうちに五百歳 むなしくすぐとぞときたまふ」

その浄土真宗の信心は、疑蓋無雑、つまり少しの疑いもないもの。
それを疑うと言うことは、自力の念仏になってしまう。
御名とは名号、南無阿弥陀仏である。
弥陀の本願を疑いながら、少しでも功徳を積もうとする、自力の念仏者は、
たとえ往生したとしても、その浄土の化土である宮殿の中に、五百年留まら
ざるをえない。
そう大経には説いてあるのです。

この冠頭讃の二首は、それぞれ信心のあり方を、説いている。
【一】は、他力念仏往生を説いた、本願である第十八願の教えである。

【二】は、自力の計らいのある、自力念仏往生、すなわち第二十願を説いた
ものになります。

称名念仏の意味を取り違えやすいところを、しっかりとこの二首で最初に
説いているのだと思います。

つまり、この原点を心がける様に、そしてこれに続く、和讃すべてに、この
教えは通じていますよ、という親鸞聖人のお言葉が聞こえてくるのです。

化土の宮殿のうちに五百歳、つまり阿弥陀如来の説法も聞くことができず、
すぐに仏となれないので、現世に残してきた有縁の人々を導くことができな
い。
五百年も経つと、現世ではもう誰も知った人がいないのです。
それでは、仏となるまで寂しい時間を過ごさなくてはなりません。
還相の思いが果たせないからです。

阿弥陀如来の、「私にまかせよ、必ずすくう」という願いを、疑うことなく信じ、
その名号を称えたならば、もう浄土に往生することが決定する。
その人は、仏の恩に感謝し、その思いに報いたいと、心から思うのです。
そして、その恩に報いる様な、生き方になるでしょう。
決して、どんな悪いことをしても一緒だ、などとは決して思わない。

まして、その弥陀の誓願を疑いながら、名号を称えているなら、それは自力
作善の人である。
それでは、そのまますぐには浄土に往生し、仏とは成れないよ、という誡め
の言葉でもあります。

それは、浄土真宗の絶対他力の信心、つまり他力念仏往生の因果と、
自力念仏往生の因果が説かれているのです。
皆が陥りやすいところですね。

その様に、私は受け取らせていただいています。
 

和讃をあじわってみよう・・・「序」

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浄土真宗には、和讃があります。

和讃とは、和語をもって讃嘆するということ。
日本において、仏教経典やその論釈の書は、基本的に漢文です。

でも、それでは、なかなか伝わりにくい。
それを和語(漢字とカタカナ)で、その教えを分かりやすく表現したもの。
もちろん、親鸞聖人の著述である。

その数は五百を超える。

そして、親鸞聖人直筆の和讃も、今に伝えられている。

本願寺では、毎朝、「正信偈」がお勤めされる。
その「正信偈」には、念仏と和讃が加えられる。

いわゆる「正信偈・六首引き」である。
毎朝、「正信偈」のあとに、六首づつ和讃を繰り読みして行くのである。
節も、その和讃によって違うので、称え慣れていないと、ちょっと難しい。

ただ、毎朝、「讃仏偈」で阿弥陀さまを讃嘆し、「正信偈」を唱え、和讃を
あじわい、御文章を聞く。
これが、浄土真宗の毎朝のおつとめ。

その和讃には、阿弥陀如来とその浄土の徳を讃えた、『浄土和讃』。
インド・中国・日本の七人の高僧の教えと徳を讃えた、『高僧和讃』。
そして、晩年の信心の境地である、『正像末和讃』。
この三篇のの和讃をまとめて、『三帖和讃』と呼ばれる。

親鸞聖人のお心を聞くのに、この和讃はとても助かるのです。
この和讃の存在が、いまも私たちに、そのお心をリアルに伝える。

法話のときに、この和讃を選ぶことも多い。
逆に、その数が多いので、選びやすいということもあるのでしょう。

浄土真宗の法要や行事でよく歌われる、「恩徳讃」も、和讃ですね。

これから、親鸞聖人が伝えられた、和讃を少しづつ、あじわってみようと
思います。
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