宿坊光澤寺日記・・ひとりばなしのつづき。

光澤寺&宿坊光澤寺&やずブータン村。 山里のお寺で繰り広げる「こころのふる里」作りとお寺復興プロジェクトや、宿坊に来られた方々との出会いも語ります。

葬式仏教を考える

一人と向き合う・・・高齢者の方との食事会。

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お一人暮らしの方と月一回の食事会に行きました。
檀家さんでは無く、このお寺を新聞で知られて来られた方。

それが宿坊を始めた年でした、それからのお付き合いで5年以上経つ。
ご主人を先に亡くされた後、一人で生きて行くことを決められた。

そのときから終活の始まり。
その中の一つのテーマが、お寺を自分で選ぶと言うことだった。
いろいろとお寺を回ってみられたそうですが、中々自分に合うお寺は
見つからなかった。

そんなとき新聞で光澤寺のことを知った。
そしてすぐに連絡をいただき、お寺に来られて話しをしました。

お一人暮らしのとき、自分の最後のときのことを決めておくことも大切
なことだと思います。
放っておかれるのも寂しいこと、できるときに決めておきたいですね。

お付き合いが始まり、定期的に食事に行くようになりました。
途中で骨折されたり、足が動かなくなって車椅子での生活になられたり。
その時間をずっと見続けてきました。

「食べられて話せるうちは、出かけたい」というのがご希望です。
今は月一回くらいのペースでご一緒しています。

話す内容とか身体の具合とか。
近くでずっと見続けることで気づかされることも沢山あります。

人生の中で、家族ではない方を見続けて行くと言うことは少ない。
施設等ではあるでしょうが、普通のお付き合いの中では。
そう言った意味で、この出会いはありがたいことです。
自分もいつかはそうなるから・・・。

そして、お寺での出会いは、お寺の頑張りがその方の喜びにもつながる。
新聞で紹介されましたよ、とか。
TVに出ますよ、とか。
これからこんなことします、とか。

そんなことを楽しみにして下さっている。
「自分の選んだお寺が、このお寺で良かった」と思われる。

人生には様々な選択肢があります。
最後の選択は、お寺を選ぶと言うこと。
そして自分の眠る場所を決める。

マイ寺院、マイ僧侶、それがこれからのエンディングの選択の一つに
なって行くでしょう。


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浄土真宗の葬儀に想うこと

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今日は葬儀でした。
朝から晴れ上がり穏やかな日。

浄土真宗の葬儀って、至ってシンプルです。

飾りがとかではなくて、儀礼そのものがって感じでしょうか。

以前に地元の葬儀社の方が、「浄土真宗の葬儀は、もうちょっと派手さ
があった方が良いです」と言われてたことがありました。

他の宗派の葬儀はあまり出会ったことがない。
というか自分で勤める葬儀以外はあまり行ったことがないのです。
同じ宗派でもそう、寺院関係の葬儀は通常の葬儀とはかけ離れているし。

たとえば鳴り物がないということ。
だから浄土真宗の葬儀は、導師一人でも十分勤めることができる。
いわゆる仏具の道具類はほとんど使うことがない。

だからいろんな宗派の葬儀を行う葬儀会館なのでは、浄土真宗の葬儀が
ちょっと物足りなかったりするのかも知れない。

でも実は、シンプルな儀礼だからこそ厳かさを出せると思っている。
服装や鳴り物に頼らない儀礼。

そこでは作法の所作と読経そして法話がすべて。

作法が凜としていること。
読経はその空間を作り出すもの。
そして法話は、悲しみの心に届くもの。

逆にシンプルだからこそ、葬儀の厳かさを際立たせることができるのが
浄土真宗だと私は思っています。

だからこそ、読経にこだわる。
実は浄土真宗の場合、あまり読経が得意でない方が多いと感じる。
修行する機会がないからかなとも思います。

私は導師一人で葬儀を執り行います。
他宗派ではたくさん僧侶がいることもあるそうですが、僧侶が多いから
良い葬儀になるということはない。
私は一人の方が良い、その方が余計な気を遣わなくて済みます。
さらには作法や読経がバラバラだったり、一瞬でも気を遣うとその場の
厳かさがなくなってしまうのです。

だから力ある僧侶が一人で執り行う葬儀の方が良い。
お布施が安く済むということもあります。

もちろんいつも思い通りには行きません。
それでも心は常にそこに置いている。

三奉請で阿弥陀如来に入堂していただく様に、そしてその空間を阿弥陀如来
の慈悲で満たすように心がける。

そんな感じでいつもお勤めしています。
葬儀は僧侶の力が試されるときでもある。


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お骨での葬儀もこれからは対応して行く!

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葬儀の連絡があった。

お一人暮らしであった、ご家族は県外在住です。
電話は病院からでしたが、そこもお寺から遠く、車で1時間半かかる。

「どうしたら良いでしょうか?」と相談があった。
「お骨で葬儀はどうですか」とも仰られた。

私は、ご遺族の方にその思いがあれば骨葬でも良いと思っています。
実際に鳥取県西部地方や島根県では骨葬は普通に行われている。
以前に東北地方は骨葬が当たり前だとか、淡路島でもそうだとか。

知らないだけで全国ではいろんな葬儀の方法がある。

できるだけご遺族に負担のない方法を考える。
身近な親族だけでの葬儀になる。

私もスケジュール的に、片道1時間半の距離を何往復もできない。

そこで先にお骨にして、そのあとお寺で骨葬を執り行うことにした。
私は火葬場に行き、そこで読経をする。
通常だと火屋勤行だけなのだが、そこで葬儀前の読経を一通り執り行う。

ただ私は初めてのエリア外の火葬場であるので、どこまで対応可能か分か
らない。
なのでご遺体が到着する少し前に火葬場に行き、調整をすることにしました。
相談してみると、思いのほか上手く対応していただけることが分かった。
最近できた火葬場だけに、直葬などの受け入れも対応できるようになってい
た。
告別式場となっていて、椅子も用意してあった。

そこで一通り読経を行い、最後に火屋勤行をお勤めした。
そしてお骨となった故人をお寺でお迎えした。

本堂でお骨でも葬儀を執り行う。
お骨葬と言っても葬儀と何ら変わらない。
ただ、身近な方だけの葬儀であり無理がない。
さらには葬儀社の費用も少なくて済むので、身寄りの少ない方とか、ご家族
が遠方にお住まいのときなどは、この対応でも良いと感じた。

そうでなくても、骨葬がこれから増えるかも知れないな・・・。
というのも、鳥取検討中部ではその習慣がないだけで、それが知られる様に
なれば一般化する可能性もある。
そうなると葬儀社はさらに厳しくなるかも知れないが。

それはお寺も一緒です、何でも簡素化して行くのが良いわけではない。
それでも社会が変化して行く中で、必要に応じて葬儀や法要が変わって行く
ことも避けられないことだろう。

お一人世帯が増えて行く中で、これからは骨葬も増えて行く可能性がある。
私のお寺は、5年前は寺院葬を検討し、かなり具体的な所まで組み立てた。
でも時期尚早であると判断し、宿坊に舵を切ったことがあります。

これから骨葬の仕組みを具体的に作ることも大切でしょう。

今回は、いろんな状況を勘案しての骨葬であったが、意外にもしっくりと
くる面も感じた。

お一人暮らしや参列が少ないとき、費用が心配なとき。
そんなこともこれからは考えるときだ。


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酷暑の中の法事・・・暑さに負けない読経を!

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昨晩の10時半頃の温度計と湿度計。

玄関にある時計、温度は28.7℃ 湿度は83%を表示していた。
さすがに夜でこの状態だと、エアコンなしではとても過ごせない。

昼間は四十九日の法要とお墓への納骨をお勤めした。

田舎の家の仏間は、一番日当たりの良い部屋にあります。
普段は使わない部屋なので、エアコンは設置していません。

さらには、お仏壇は一番奥に安置してあるので、風通りはない場所。
その上にロウソクや線香を焚くので、やはり暑さは半端ないです。

お参りの方々もとても暑いでしょう。

それでも扇風機を使って下さり、ロウソクの火を考えながら風向きを考えて
下さいます。

私が汗かきなのもご存知です。

大切な法要、ただ暑かっただけでは申し訳ない。

この暑さに負けない読経を心がけています。

精一杯、読経をする。

お釈迦様と親鸞聖人。

そこに亡くなられた方の、仏様としての想いを伝えるのだ。

私の読経の力というわけではない、仏様から届けられた想いなのです。
そして残された方々の想いをつなげて行くのです。

お互いの想いが一つになる場所、それが法要の場の持つ意味なのです。

それを円満という。

双方向の想いが円となるのです。

読経と法話、それが私が僧侶としてできること。
そうであれば、暑さに負ける訳にはいかない。

全身全霊で唱え、そして話しをする。

それしかできないのであれば、そのことに全力を尽くす。

暑かったとか、長かったとか、そんな思いの前にあること。

それだけでも届けたい。


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葬儀を執り行う・・・読経と作法と法話、僧侶の本分。

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今日は葬儀だった。

一昨日のこと、県外のお寺さんから電話が入った。

そのお寺のご門徒さんのご家族が鳥取にいらっしゃるとのこと。
その方がもう長くないとのこと、お寺さんを探しているのだが親戚の方は鳥取
を知らないので、どうすれば良いかという相談でした。

「私でよろしければお参りさせていただきます」、とお応えした。

私のお寺は郡部にあるので、葬儀社から葬儀の依頼があることは、今までに
一度もありません。

あるとすれば、檀家さんの親戚だったり知り合いだったりということです。

今回も葬儀社ではなくお寺さんからの依頼です。
たまたまネットでこのお寺を知ったので、ご連絡をいただいたのです。
こんなこともあるのだなと・・・、これもご縁です。

そのお寺さんのことは直接は知りません、でも困っておられるだろうと思い、連絡
があればお参りさせていただくことにしました。

そして昨日が通夜で今日が葬儀、スケジュールは対応できるものでした。

いつものことですが、すべてに全力を尽くす。

葬儀でご遺族に寄り添うと言う話しをする僧侶は多い。
でも根本的に勘違いしている人も多いのだ。

寄り添うとは、僧侶が全力で儀式を執り行うということなのです。
派手でなくても参列者が多くなくても、すべてに全力を尽くす。

読経は下手ではいけません、やはり読経が故人を癒やしご遺族の心を癒やす
のだから。
そして作法や所作や衣体もしっかりとしていることが大切だ。
その上に、心は常に故人とともにあり、ご遺族を優しさで包み込むことだ。

お経は意味が分からないと言うけど、やはり仏様と故人とご遺族の心にはしっ
かりと届きます。
そこが中途半端だと、本当はもう葬儀にはなりません。
いくら三奉請を唱えても、仏様はいらっしゃらないのです。

そして、私は葬儀のときは、必ず剃髪をします。
いくらとやかく言っても、僧侶は剃髪しているに限ります。
なので浄土真宗の葬儀は中途半端に感じることが多い。
さらには読経が下手な僧侶も多く、作法もケジメが付いていないことが多い。
これは修行がないので、見よう見まねでやっているからです。

儀式を執り行うのが僧侶の役割であるなら、これは最低限必要なことです。
苦手なら精一杯練習しないと、と思います。

優しく包み込むのは、やはり法話が一番大切です。
今回は、通夜と葬儀と還骨のとき三回法話をしました。

それぞれに、12分・3分・10分です。
この時間は重要です、悲しみと疲れなど、様々な状況があるから。
通夜は最初の法話であるため、その入りとしてしっかりと話す。
葬儀は、一番大切なことをコンパクトに。
還骨法要は、疲れておられるが、最期の締めでもある。

それぞれの法話に流れがあることも大切です。

今回は、往生浄土とその意味、最後にそこから法名のことをお話しする。

法名には釋が付きます。
この釋の意味をしっかりと話せる僧侶は少ない。
ただ釈尊の仏弟子となって・・・、レベルでしかないのだ。
それではこの釋の意味にならないのです。
みなさん結構適当なのです。

今回の法名は親鸞聖人の和讃、「いちいちの花」からいただいていることを
お話しした。

「いのち」
「願い・・・本願」
「仏となる意味」
「南無阿弥陀仏」
「往還二回向」
「極楽浄土の存在」
「釋とは」
「和讃・・・いちいちの花、法名のこと」

以上が今回の法話の流れです。
もちろん南無阿弥陀仏以外は仏教用語は使いません。

内容は覚えておられないでしょう。
でもそのとき感じられたら良いのだと思っています。
そしてそのとき思いを受け止められたら。

故人には生前お会いしたことはない。
ご遺族の方々ともお会いしたことはない、そしてこれからももうお会いする
ことはないかも知れません。

でもこのときに思いが伝われば良い。
そして十分に伝わるのです。

私は布教使資格を持っている。
持っているから法話ができる訳ではないが、取得するにはそれなりのハー
ドルがあります。
少なくともそれはクリアしているし、そこからは自分自身の問題なのだと思い
ます。

葬儀の重要さは、しっかりと見送ること、そして心にケジメをつけられること。
そして故人に思いを伝えること。

下手な読経では、それは伝わらないのです。
仏様が悲しんでいる。

しっかりとした読経には、仏様がそこにいらっしゃるのです。
下手な読経には、仏様に届きません。

そんなことも分からなくて読経している僧侶は多い。

グリーフケアとよく言われるが、その前に僧侶の本分を丁寧に全力で務める。
もちろん自己満足にならないことが一番大切。

実はそんな僧侶には滅多にお目かかったことはないのです。

そして、視点がずれたところの話題に終始している。
特に若い僧侶の方は、僧侶の本分を徹底的に追求することだ。
そこからしか本当の見送りは見えてこない。

表面だけに囚われていると、方向性を間違えます。

もちろん、いつも思い通りになることはない。
というよりもそうでないことの方が多いかも知れません。

ご遺族の気持ちも様々ですから。

でも僧侶として葬儀を執り行う以上、そこに思いがあるのです。


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三月一日の通夜

今日から三月

今朝方の枕経から、今晩は通夜だ

最近では珍しい自宅での葬儀

家の中は親族と村の人でいっぱいだ

普段は夫婦二人だけの家
ご主人が亡くなられた

また一気に寂しさが増すかも知れない

村の人に見送られたい、そんな気持ちだったのだろう
最近は関わりを持たない方が楽と言ったこともある

それでも、この村で生まれ育ち、そしてこの世のいのちを終える

皆に見送られたい・・・

そんな思いを感じた

会館は遺族も参列者も僧侶も楽だろう

特に僧侶は楽が出来るのです
会館のスタッフに大事に扱われる

その点、自宅での葬儀は着替えるのも参列者の前だ
そんなとき、衣を着て袈裟を付けるのも作法の内である

僧侶が家に到着したときから、すでに儀礼は始まっているのです

七条袈裟を身に付ける作業も周りからすべて見える

着替えから作法に読経、さらには法話

すべてが真剣勝負なのだ

必要以上に思いは込めない、ただすべてに妥協はない

その場を作る




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読経はその空間を震わせる波動となり、その場をプロデュースするものだ!

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12月に入っても、極端に冷え込む日はなく、初冬にしては過ごしやすい日々
が続いています。

秋から冬に掛けては、お寺は報恩講のお勤めがあって、檀家さんの宅参りが
続きます。

そして、そこに法事や葬儀などが入ってくる。
一年を通して、やはりこの時期が心が一番宗教的感覚になるときかも知れま
せん。

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法事や葬儀、報恩講もそうです。
やはりそこには儀礼が先にあります。

作法があってその場の雰囲気が変わる。

そしてそこに読経があるのです。

一連の儀式によって仏の空間がそこに作りだされて行くのです。

その空気を作りだすもの、それはそれぞれの場所をご用意される方がいらっし
ゃり、僧侶がプロデュースして行くのです。

なので衣もその要素だし、作法も大切になって来る。

そこに読経が始まる。

私は読経によって、その場の空気感を醸し出す。
なので、常に全身全霊で読経をする。

お経の意味は・・・、などと問うことの無意味さを感じていただけるくらいでなけ
れば読経の意味はない、そう思っています。

そこに仏様の空間を作り出すのだ。

理屈など必要ありません。

お経は意味が分からん・・・、日本語で読め・・・。
そんなことを言われるくらいではだめだということ。

言葉が必要ないくらいに、読経がその場の空気を振動させ、お参りされている
方の身体から心に響き渡るのです。

なので読経は波動なのだということを、僧侶は知っていなければならない。
ただ文字を読んでいるだけではないということを。

波動が心を震わせるのです。

もちろん、いつも同じように読経できる訳ではない。

今日一日も、法事を二件、報恩講を3件お勤めさせていただいた。

浄土三部経以外でも、「正信偈」は、多いときには一日10回近く唱えることも
あります。

常に正信偈はお唱えするのです。
「正信偈」を一回唱えるのに、約25分掛ります。

親鸞聖人の直接のみ教えであるので、何度唱えても唱え尽くすということの
無いものです。

やはり、死ぬ前にもう一度あのお経を聞きたい。

そう言っていただけるくらいには・・・。

もちろん、そのあとの法話だからこそ、法話にも心が入って行くのです。
法話だけが良い僧侶っていうのも考えものです、なぜなら本質を分っていない
のだと思うから。
浄土真宗に多いタイプかも知れませんが・・・。

浄土真宗はみ教えが一番と言ってたり、でもみ教えはお経の中にあるのです。
読経が中途半端で、み教えがしっかりと説けるわけはないのです。

親鸞聖人もみ教えの前に、読経や儀礼のプロフェッショナルだったということ
が、置き忘れられているのでしょう。

法然門下では、親鸞聖人は声明の名手だった安楽や住蓮と懇意だったと言っ
たことも・・・。


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先祖供養だけのお寺は必要なくなる、なぜなら仏教は伝道だから!

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お寺に先祖供養は必要ないと言っている訳ではありません。

ただ先祖供養だけでお寺の役割を果たしているということでなら、そのお寺は
これからは必要とされなくなるでしょう。

なぜなら仏教の目的は先祖供養ありきではないからです。

仏教は伝道があって初めて仏教である、伝道なき仏教はもはや仏教ではない。

伝道とは教えを説くこと、そしていのちに寄り添い心の支えとなること。
いろんな意味がそこに含まれている。

もちろん先祖供養も大切な心の支えである。

でもそこに至るまでが大切なことだということ。

お葬式で初めてお会いすることもあります。
だけれども、そこに至るまでの行動が葬儀の場での思いに通じるでしょう。

伝道と言う意識がなければ、ただの儀式になってしまう。
ただの儀式であれば、そこにいる僧侶は衣をつけてお経さえ読めれば誰でも
良いのです。

お寺の格や宗派など、これからはさほど意味を持たなくなる。
さらには戒名や塔婆など不要になるだろう。

そのときそこにあるものは、必要とされるものは・・・。

もしかすると僧侶の存在さえ必要ないかも知れないのです。

檀家制度がこれからも続くと思い、先祖を大切にしろと言っておけば良かった
時代はもう終焉を迎えているのです。

これからはお墓の概念さえ大きく変わろうとしている。

つまり仏教から先祖供養と言う概念が失われつつあるということです。

この前は、読経は伝道だと書きました。

読経だけではない、お寺そして僧侶そのものが伝道を問われている。

それも従来の僧侶の押し付けではない伝道が・・・。

その道を目指すお寺とそうでないお寺の差がこれから一気に出てくるだろう。


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他宗派の通夜勤行に行く!

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今日は友人のお父さんの通夜だった。

お寺から歩いて10分とかからないので、通夜勤行の始まる時間に合わせて
歩いて出かけた。

昨晩と違って今晩はかなり冷え込んでいる。
もしかすると昨晩とは10度近く差があるかも知れない。

通夜の始まる時間に到着し、受付を済ませて仏間に参列させていただいた。

参列の方は思ったより少なかった。
これはその地域の風習によっても違うのだろう。
「あれっ、参列するのはどうかな」と思った。

でも喪主の奥さんに進められるがままに席に着いた。

実は自分で通夜をお勤めするときや親戚以外で通夜に参列したことはほとん
どなかった事に気づく。

たまには他宗派の通夜勤行を体験するのもいいかと思った。

今日のお通夜は、浄土宗系の宗派の寺院である。

同じ浄土系でも浄土宗と浄土真宗はまったく違います。

ただ同じ経典を所依の経典としていることもあり、ところどころ知ったお経の言
葉が出てくる。

作法と読経が終わると、法話もあった。
でも僕のスタイルとは大きく違う。

さらには、法話の内容も浄土真宗ではその様な話しは絶対にないなと思うもの
であった。
やっぱり浄土宗と浄土真宗では、仏のとらえ方や浄土へのアプローチが違うの
だと感じる。

元は同じ法然上人の教えであるが、弟子や時代の変遷によって変わって行くの
だろう。

同じ話しを聞いても、受け止め方は人によって違う。

お釈迦様や法然上人が亡くなられた後は、その真偽は他に委ねるしかない。
そうなれば教えも変わり宗派も変わって行くのだ。

特に法然上人は著作をほとんど残しておられない。
さらには流罪の後、赦免になっても京には戻られることはなかった。

そして聖道門に対して浄土門と言う新しい概念を打ちたてられて行かれた。

それが弟子によって捉え方が違うということにつながる。
当時の僧侶に他力の教えは斬新すぎて十分には理解できなかっただろう。

親鸞聖人と他の弟子との教えの違いは、自分自身で他力の教えに入られたか
どうかが大きいと思う。
他力を自ら感じなければ、自力の枠からは抜け出せない。
たとえ同じ法然上人のお言葉を聞いていても・・・。

そう言った意味では、浄土宗の教義にはどうしても限界があると感じざるを得な
い。

それは現在の問題意識のある浄土宗の僧侶であれば、感じておられることだろう
と思います。

まあそれは、どの宗派であれ多かれ少なかれ、感じておられることでしょうが・・・。

通夜の席でもいろいろ感じることができるものだ。

これからは他宗派の通夜や葬儀や法要に、できれば参列してみたいものです。


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突然の訃報、そして友引・・・。

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もちろん、訃報はいつも突然です。

私のお寺では、亡くなられると真夜中でも電話がかかってきます。
一般的に言う枕経、浄土真宗では臨終勤行をお勤めするため。

夜の10時以降に掛って来る電話は、訃報であることが多い。

今でも一瞬、ドキッとします。

何かな?と同時に、どなたかな?と思ってしまう。

最近は、宿泊の問い合わせもあるので、訃報ばかりではないのですが。

今回の電話は、まだ六十代の方でした。
お寺のこともご尽力くださっていた方。

お病気だとは知っていたが、お元気そうだったのにと感じました。

家に戻られる時間にお参りさせていただいた。

ご親族が集まられていた。

臨終勤行は『仏説阿弥陀経』、そして御文章とお話しをさせていただきます。

その後は、故人のことを確認させていただき、これからの予定をご遺族の
方と打合せして行きます。

今回は、友引に掛っていました。
浄土真宗では友引を問わないとしています。

ただ、火葬場が友引に休みになるときがある。
さらにご近所の方々がお手伝いされるので、やはりご遺族はその日は避け
たいと思われます。

私は、そこには一切口をはさみません。
もちろん私の都合も兼ね合せてですが、友引でも葬儀をと言われれば、何も
言わずにお受けします。
友引は避けたいと仰られれば、それもそのまま。
六曜のことは考えず、ただご遺族の仰られる日で検討します。

お葬儀ですから、教義も大切ですがご遺族の方々のお心も大切です。

少し暑いくらいですが、天候に恵まれた通夜とお葬儀でした。

悲しみを抱えておられる方々に、さらなる心配事を作る必要はない。
田舎ではよく感じることなのですが、どなたか亡くなられると、それが続くこと
があるのです。

もちろん、たまたまですが、そこに意味を持たせない方が良いのです。

臨終勤行を終えると、私は必ず頭を剃髪にします。
いつも剃髪ですが、そのまま少し伸びている。

なのでバリカンを入れ、カミソリで剃りあげます。

その方が、私自身の心が落ち着くから。
さらには仏法を説くものの態度として、当たり前のことだと思っています。

それは自力でも他力でもなく、僧とか俗とかという問いでもない。
ただ、葬儀を執り行うものとしての心持ちの問題だと思っています。

それが私の流儀。

少なくとも剃髪をしていて、見苦しいと思われることは一切ないでしょう。

最近は、浄土真宗の僧侶の方でも剃髪の方が増えてきました。

浄土真宗の教義だけでなく、仏教を大切にされている方は、剃髪の方が
多いように感じます。

ただそんなふうに感じているだけですが。


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季節の変わり目・・・葬儀のあれこれ

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2月から3月に入る。

春の陽気だったり、寒い雨だったり、気温の変動も大きい。

三寒四温という様に、気圧の変化もあるのでしょう。

私がお寺に入ってからは、私のお寺では葬儀は少なかった。

高齢化時代なので、葬儀が多そうに思われるかも知れないが、過疎化で元々
の人口が大幅に減っているのです。

葬儀がなければ、もちろん法事の件数も減ります。
何といっても、お寺の収入は葬儀を基準に成り立っているという事です。

いくらお寺活性化と言っても、自分のお寺の収入がなければ、そんなこと言って
る場いいではないという事になります。

今、様々な活動をしているお寺は、それなりに収入が安定している所でしょう。

私のお寺は、私が戻ったときは、すでにお寺の収入では生活できないということ
が早々と分りました。

減少し、そしてお寺から距離のある檀家。
あと何年食いつなげるかと言うレベルではない。

現状の延長線の絵が描けないのなら、業態を変えて行くしか先はないと考えた。

話しは逸れましたが、そんな3月になって、葬儀の連絡が続きました。

田舎では、葬儀は村の総事になる。
以前なら、親戚でなくても仕事を休んで葬儀の手伝いをするという、しきたりでし
た。
さらには、村八分という言葉もありますが、なぜ八分かというと、葬儀と火事は
除くという言う意味ですね。

それが葬儀会館が近くにできるにしたがって、自宅での葬儀が減り、村の総事
ではなくなることが多くなりました。

それによって、参列者の数も減って来る。

この田舎でも、最近は葬儀の形態が大きく変わりつつあります。

自宅で葬儀を行うときは、村の方々が葬送の行列を組む習慣が残っていて、幡
を準備して行きます。

これを竹で作った竿に結んで先頭を歩いて行くのです。

そんな風景も、もう見ることが無くなるかも知れませんね。

でも、葬儀の業態が変わって行くのであれば、お寺としても新たな提案をして
行けるときでもあります。

葬儀は個々の感覚によって変わって来るので、お寺独自の提案もできる様に
なって行きます。

時代の変化の中で、どんな提案ができるのか。
それぞれのお寺の存在が試されるときでもあります。


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プライヴェート寺院を目指す ・・・ マイ寺院!

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お寺は檀家さんのものです。

なので、お寺は行事や法要など、檀家さんによって運営されている。

また活動は、檀家と一体になって活動する。


これはもちろん、私のいるお寺もそうです。

でも、過疎地の寺院や、檀家さんの組織のないお寺もあります。
さらに、活動が縮小して行く寺院も多い。


普通であれば、檀家さんを何とかまとめたいと思うでしょう。

実際に、その活動も大切だと思います。


その中で、私はあえて、プライヴェート寺院を目指してみようと思っている。


檀家さんも、それぞれに事情が違う。

一体であっても良いが、一人一人と向き合うことも大切だろうと思います。


「マイ寺院がある!」って感じがいいと思うのです。

お寺の運営は大切なこと、それには檀家さんの力が必要です。
でも、それでは運営が難しくなってくる寺院も多くなる。

そして、檀家さんも団体行動ではなく、個人的な感覚がさらに強くなって
来ると思います。

であるなら、仏教の本来の目的である、「一人一人と向き合う」寺院があっ
ても良いのでは。

もちろん檀家さん以外に間口を広げてみるのもいい。

従来は、お寺と言うと檀家さん単位でしか、ものごとを考えることはできな
かったと思います。

でもこれから目指すお寺は、プライヴェート寺院だと思います。

住職や坊守との付き合いの中で、心の拠り所を作って行く。

場所が離れていても問題はなくなって来た。

たとえば、普段はメールやインターネットでつながることができる。
もちろん電話もできる。

法事や葬儀に行くのも、交通が便利になってきた。

鳥取からだと、関西圏はそれほど問題ではありません。

お墓の問題にしても、自分の信頼するお寺や住職に任すことができるなら、
離れていることも、さして問題にならないでしょう。
まして、お一人暮らしの方が増えれば、なおさらそうです。

私のお寺は、宿坊も開設しているので、いつでも訪ねて来れます。
そのときは、一日一組ですから、何でもゆっくり話して行ける。
法要をすることさえできるのです。

これからは、自分のお寺って言う感覚を大切にされたらどうか。
自分の気に入ったお寺、気に入った住職。
それをしっかり探すことが大切になって来る。

でなければ、葬儀や法事で頼みたくもないお寺と関係しても意味がない。

行事や法要やイベントは定期的に開催する。
組織も、もちろん継続して行く。
でも、それが今の檀家さんを支えることにもつながって行くのだろうと思う。

これからのお寺は、プライヴェート寺院。
そしてマイ寺院、マイ住職がいい。

檀家さん向けにも、家族単位、親戚単位、個人単位で、いろんな提案を
して行こうと思っています。

そして、そこにまた望めば、新しいコミュニティーもできるでしょう。

様々な悩みや問題、悲しみなどを持たれた方々のコミュニティーでもいい
のです。

何となく、そんなことを考えています。

お寺の可能性が広がって行きます。


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今日は六七日をお勤めする。

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今日は六七日法要をお勤めした。

仏教では世界的に四十九日ということは大切にする。

もちろんそれぞれの地域や宗派によって、その概念に違いがあるでしょう。
でも四十九日という考え方は共通する様です。

六七日なので、四十二日と言うことになる。
これは、その方が亡くなられてからの時間の経過。

一般的に、人は亡くなると、次の生を受けるのに四十九日間必要とされる。
その間を中陰と言い、四十九日の法要を満中陰と言うのです。
つまり中陰が満たされ、次の生に生まれ変わったとされる日です。

浄土真宗の場合は、本来は四十九日を待つことはない。
でも、この期間を故人を偲び、そのご縁を受けとめる期間として大切にされ
ています。

特に、七日毎の法要もお勤めする習慣も残っています。

初七日から始まり、六七日までお勤めし、満中陰法要となる。

今日はその六七日。

雪の中、近所の方々も数人お参りされていた。

葬儀の簡略化によって、これらの法要もお勤めしないというお寺もあります。

でもせっかく仏教の縁に遇えるとき、また故人を偲び、その思いを受けとめる
大切な時間でもあるのです。

長寿であったとしても、そのときはやはり突然にやって来ます。

しっかりと心の準備をしているつもりでも、いざとなると、思い残すことが出て
きます。

その思いを、しっかりとこの期間に、故人と向き合うことで、その思いを伝える
ことができる。

それが人の心を落ち着かせて行くことになります。

葬儀や法要が、グリーフケアとしての役割もあるということが、そこからも分か
ります。

おばあちゃんも、きっと浄土で微笑んでいらっしゃるだろう。


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僧侶としてではなく、参列者として葬儀を見ると・・・。

昨日、親戚の葬儀が岡山県でありました。

今回は、私は僧侶としてではなく、親族として葬儀に参列する。

普段とは見る風景が違うので、そのはそれで興味深くもあった。

同じ宗派のお寺さんによる葬儀だったので、自分との違いもよく分かる。

もちろん地域が違えば、葬儀の風習も違ってきます。

「こんなふうにやってるんだな」と感じることもあります。

ただ、客観的に葬儀をみることで、葬儀における僧侶の存在意義なども
考えたりしました。

もっとこうした方がいいのに、とか勝手に思ってしまうのも、職業病かな。
一般の参列者の方々は、そこまで考えないでしょう。

故人は、私も若い頃にお世話になった方です。

いろんな感情も交じりながらも、僧侶的な観点から見てしまうということ
もありました。

会館での葬儀のありかたや、僧侶の在り方。
いろいろ考えさせられる部分もあった。

ただ今回は、久しぶりにお会いする親戚の方も多かったですね。
近況をあまり知らなかったので、皆さんがどうされているのかが分って、
葬儀には参列できなかった母に、帰りに寄ってみんなの話しをしました。

故人への追悼もありますが、親戚の確認の場にもなります。

普段の付き合いが疎遠になっていることでもある。



月夜の枕経と通夜勤行

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昨晩、あるご門徒さんと夕食をご一緒していました。

するとそこに一本の電話がかかってきた。

「これから枕経をお願いします」とのお電話でした。

病院を出る前だったので少し時間がある、ちょうど食事も終わるときでしたから、
今からお寺に戻れば十分に間に合う。

夜9時過ぎくらいだっただろうか、お寺に着くと月灯りがすごかった。
ミラクルムーンだそうだ、一昨日の夜の明るさは今までに無いくらい。

月の灯りに照らされながら、枕経に向かった。

こちらでは一般的に、亡くなられたときに枕元で唱えるお経を枕経と言う。
ただ浄土真宗では枕経とは言わず、正式には臨終勤行と言います。

臨終勤行とは、その方がこの世の最後に、長年お世話になったご本尊で
ある阿弥陀様に対しての、感謝のお勤めと言う意味があります。

私はそこにいらっしゃるご遺族の方々に、故人と一緒にお唱えする最後
の経であることを伝えます。

お経が終わった後、法話と御文章で締めくくる。

そして今日は、家を出られるときの出棺勤行、そして会館での通夜勤行を
お勤めした。

通夜にはたくさんの方がお参りされていました。

今日の夜も月灯りが眩しかった。

通夜勤行での御文章は「大聖世尊章」です。
このときはお釈迦様の教えに耳を傾けるのです。
本願寺派の葬儀規範としては、通夜勤行ではこの御文章を唱えると言う
ことになっていますね。
この御文章は長いのですが、今晩は三奉請・表白・『正信偈・行譜』と法話、そし
てこの御文章でお勤めいたしました。
ご参列の方々には少し長いかも知れません、でも45分間。
故人を偲ぶにはやはりしっかりとお勤めすることが大切だ。

現在では、葬儀よりも通夜勤行の方が、一番心に残るものかも知れない
と思っています。

意外と「白骨章」を通夜で唱えることもあるようですが、私はあくまでも
「白骨章」は還骨勤行のときにしか読みません。

臨終勤行から還骨勤行まで、勤行や法話をできる限り省かない。
そしていくら会館葬であっても、その流れの中で全身全霊を尽す。
それが仏となられる故人への礼であると思う。

たとえ流れ作業の様なときでも、僧侶の力量によっていくらでも空気は変える
事ができます。
それくらい儀礼と読経には本来持つ力があります。
葬祭会館のせいにする僧侶は、本来元々力量の無い方でしょう。
お経の持つ言葉一つを表現できないでは仕方ない。

それが故人、そしてご遺族の方に対しての私の葬儀に向かう姿勢です。
一つ一つのお勤めの度に、精神を使い果たすと言った感じでもある。

もちろん思った通りに行かないこともある、反省も多い。

でも私の心の中に、言い訳しないことが大切ですね。


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仏教の歴史は変わり続ける?

仏教の歴史は変わり続ける。

それは何故か?

大きな要因は、仏教が生まれたインドで仏教が滅亡したことでしょう。

仏教はアショーカ王の時代に、当時の世界に伝道されていった。
ただし武力を用いない純粋な伝道です。

特に力を入れたスリランカへの伝道から、仏教は東南アジアへと拡が
って行く。
そして、その後に大乗仏教運動が興り、北西インドからシルクロードを
通って中国へと伝わり、それが日本にも伝わるのです。

でもスリランカも中国も日本も、仏教の中心国ではありません。
中国では玄奘三蔵を始めとした僧が天竺を目指す。

日本からは仏教先進国であった中国へ、遣隋使や遣唐使が送られる。
その目的の一つには最先端の仏教を仕入れに行くと言うこと。
最澄や空海はまさにそうであった。

およそインドでは、一千年以上に渡って仏教と言う存在が消えていたの
です。
そして大乗仏教を運んだシルクロードは1300年前にイスラームの国
に変わっている。

こう言った事情から、後から発掘されたり発見されたりすることで、仏教
の歴史は大きく変わって行くことになるのです。

お釈迦様の生存年代も時代によって変わります。

そして今日の鳥取環境大学の公開講座でも、認識を変えるお話しがあ
ったのです。
それは石窟寺院ができた年代のことでした。

少し前にタリバンによって破壊されたバーミヤンの石窟の仏像。
この石窟寺院や仏像は、そのルートから中国よりもバーミヤンの方が
古いと考えられていた。

しかしタリバンの破壊によって、バーミヤンの仏像の建造年代があきら
かになって来たと言う。
するとおそらく6世紀前後ではないかと推測されるのだそうです。

中国の雲崗の石窟の仏像は5C前後と言われており、こちらの方が古
いと言うことが分かった。
すると、バーミヤンの磨崖仏は中国の影響を受けてできたものであると
いうことです。
でもこの一帯は、その直後にイスラームの圏内に入って行くのです。

経典もそうですね、日本に伝わった経典は、元々いつごろどこで成立
したのか分からないものが多い。
中国では見つかっていても、インドでは発見されていない。
またチベットにはあってもインドにはないとか・・・。
つまり経典の多くは、中国でアレンジされたり創作されたものが多いと
言うことです。
日本で有名な「般若心経」は、中国で創作されたものであると言われ
ている。
もちろん般若経典を元にしているのでしょうが。
おそらく玄奘三蔵以降に創られたものでしょう。
玄奘訳を仏教では新訳経典としています、つまりかなりアレンジが多
いということでもあります。
それだけ名訳と言うことにもなりますが、独自の視点が入ると言った
面も否定できません。
臨済や曹洞は中国から直接輸入したものなので、こちらに影響を受け
ることが大きいのではないかと考えます。
逆に親鸞聖人は、その経典を引くのに、新訳は一切使われていない。
旧訳のみを引かれておられます。
そこにはどの様な意味があるのかを窺うのも興味深いことです。

そして、そのインドでは一千年の空白期間があり、仏教遺跡や仏教経
典はその間まったく顧みられていないのです。

欧米が仏教を認識し始めてから、まだ100年程度しか経っていない。
でもその後は仏教研究が進み、現在では日本よりもはるかに進んで
いると言われるほどです。

それは客観的に仏教を捉えることができるからです。
そして良いものはどんどん取り入れて行くことができる。
ですから瞑想などは学問的にも医療的にも、すごく進んでいるのです。
そこでの仏教研究は、東南アジアのテーラワーダ仏教が中心ですね。
それは釈尊の仏教に最も近いと考えられているからです。
そう言った意味では、仏教は宗教的な感覚よりも、東洋の哲学であり
心理療法等と認識されている面が強い。

日本では大乗仏教が主流であり、東南アジアや釈尊の仏教に触れる
ことは今だかってなかったのです。
あくまでも中国で成り立った仏教しか経験していません。

鎌倉時代でしたら、それも致し方なかったでしょう。

でもさすがに現代ではなかなかそうは行きません。

様々な情報が大量に入ってくる。

それは仏教も例外ではありません。

日本仏教が変わる、もしくは変わらざるを得ない、そんな状況がもう眼の
前に来ているのかも知れません。

先祖供養と言う日本独特の仏教形態がどうなるのか。
それはそれで日本人のアイデンティティーとして意味のあることでしょう。
でもそれだけでは通用しなくなる。
そして従来の宗派仏教の枠が取り払われて行くことにもなるでしょう。

そのとき日本の仏教は、本当に日常に生かされ、いのちを見つめ、人々
の依り所となることができるのではないでしょうか。

宗教は死後の世界も問題にします。
日本の仏教が目覚めたなら、本当に生老病死から死後の世界観まで、
すべてに応えられる仏教となる可能性が見えてくるのです。

そこをどう展開して行くか、これがこれからの20年間で問われることに
なるのだと感じています。
そのときに私がその中にいることができるのは、とても有り難いことです。


何となく、お寺Cafe!

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光澤寺では、何となくお寺cafeを始めています。

何となくと言うのは、お寺や宿坊に来られる方に、お茶やお菓子をお出しして
いたからです。

お寺にいろんな方が来られる様になって、本堂のテーブルにお出しすることも
増えました。

たまたまレコードを掛けるようにもなって、まるでBGMのようになった。

本堂の仏様の前でゆっくりと過ごす。

お寺に気軽に来てもらいたい、というのではなく、何となく人が来られる様にな
ったので、まるでお寺cafeみたいになったなあと感じただけです。

本堂の前に広がる遠見山を背景に、自然の中そして広い本堂でくつろぐのは、
とても気持ちのいいものです。

まあこうしてみると、本堂もいろんなことに使えるなと思います。

確かに法要や法座で使うことが望ましいでしょう。
でも、光澤寺はほとんどお参りも来客もないお寺でした。
報恩講の法座でも10人集まらなかったでしょう、お参りもない。
ご講師もほとんど呼ばなくなっていました。
そう言えば、僕がお寺に関わる様になった4年前、最初にお呼びしたのが、
「やなせなな」さんだった。

何も使わないでそのまま放置していると、掃除もしなくなるので、ますます人の
足は遠のいて行きます。
私が住職となった3年前までは、荒れ果てたお寺になっていたのです。
ガランドーというよりは、ゴミ置き場の様でもありました。
檀家さんも、お寺を見るのが偲びなかったと思います。

今では、研修でもたくさんの方が訪れる様になりました。
お寺に直接関係ない研修だけでも年間に10回くらいあります。
そこに、日帰り体験や宿泊者の方が来られ、レコードコンサートも定期的に開
催する様になりました。
あと、やずブータン村関連のイベントもあります。

保育園児から小学生・中学生・大学生・少年野球のチーム、保護者会や保育
所の先生、婦人会や老人会、公民館活動から図書館活動や福祉協議会。
研修だけでも様々な方が来られます、もちろん浄土真宗の関係の団体の方々
も。

お寺cafeは、お参りに来られる方に、せめてお茶だけでも飲んで、ゆっくりして
いただこうとの思いです。

お寺でcafeはブームかも、でもわざわざかしこまらなくても、普通にしていたら
そうなるなって感じかもしれません。
お寺も活動を始めたら、いろんなものが複合的に展開して行く様になります。

今日は午前中、近所の方が遊びに来られていました。
今日のBGMは「かぐや姫LIVE!」です。

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本堂の中を爽やかな風が通り過ぎて行きました。

お寺なので料金は必要ありませんよ。

その中で、オープンなお寺、人の中に入って行くお寺とはどんなお寺だろうと、
いつも考えている。

お釈迦様も親鸞聖人も、お寺を持たずに伝道布教を続けられたのです。

であるなら、お寺という感覚をもっともっと広げて行けばいい。

何か今日は、お寺cafeのお話しから、かなり飛躍してしまいました。
ただ目指していることは、ある意味原点回帰だけですね。


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ある葬儀の弔辞・・・大好きだったおじいちゃんへ。

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葬儀を執り行う前、葬祭会館の方と次第を確認する。

「今日は弔辞がございます」と会館の方。

そう葬儀式には弔辞があるときとないときがあります。

「お孫さんお二人が弔辞を読まれます」と言われた。

葬儀の前の晩、通夜勤行の法話では、大好きだったお爺ちゃんの死に、
お孫さんの気持ちを伝えるお話しをしたところだったのです。

「ああ、そうですか」とお答えした。
それでは導師焼香と表白のあと、読経に入る前に弔辞を読んでいただ
くことにしました。

「大好きだったおじいちゃんへ・・・」
お二人の弔辞はそんな言葉から始まった。

お孫さんと言っても、もう二十歳を過ぎておられる、女性のお二人でした。
それぞれが思いを話された。

料理が好きだった、いつも弁当を作ってくれた、反抗期のときもいつも
ご飯を用意してくれていた。
都会に出て帰省するたびに弁当を持たせてくれたこと・・・。

何かあっても必ずお爺ちゃんがいてくれたことが心の支えとなっていた。
そんなことがよく分かる弔辞でした。

前の晩の通夜の法話と重なった。
良かったなと思えた。

やはり人には、いつも見守ってくれる、そして支えてくれる存在があった
方がいい。
その思いがあるだけで、苦しいときも悲しいときも乗り越えて行ける。

ただいつもいてくれると言う思いが大切なのです。

そんなことをあらためて強く感じることができました。

本当に尊いご縁となりました、葬儀と言うことの大切さも・・・。

おじいさんが仏となるその意味もお話しさせていただいた。

これからは浄土から皆さんをしっかりと見守ってくださるでしょう。

                                         合掌

週刊ポスト「1銭もかけない死に方」を読んでみた。

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最新号の週刊ポストです。
その特集に「1銭もかけない死に方」が載っていました。

いつもはあまり気にかけないけど、今日はたまたまお昼に入ったうどん屋さんに
置いてあったので読んでみた。
すると中身は、要は葬儀と戒名は不要と言う記事のオンパレード。

この手の記事は以前より沢山あるが、より具体的になって来たなと感じた。
もちろん批判するつもりもなければ反論するつもりもない。
ただ素人相手に取材もろくにしないで、適当な記事を載せてるなといった内容
であるのは間違いない。
コメントを寄せている宗教学者と言う方は、はっきり言ってこの手の記事の様
内容もものに多く発言しており、学者ではなく評論家って感じです。
仏教的な内容には深みが全くないので。

ただこの様な記事が出てくるということは時代がお寺や僧侶が感じている以上に
進んできていると言うことだろう。

記事についても特にこれといったことはないが、要は現在の僧侶主体の葬儀の
不要と、戒名をめった切りにしていると言った感じ。
私は僧侶になる前は東京で会社員をしていたが、その時読んでいたら納得して
いたであろう内容です。

葬儀の要不要や有無はそれぞれの感情や環境があるが、戒名についてはここ
で述べられていることに反論はない。
ただその歴史については的を得ていないが、仏教的見地から言って現在の戒名
制度はやはり釈尊の意ではないと感じます。
この戒名によって僧侶批判が繰り返されることを見ると、もっと責任を持った対応
をして欲しいと思うのだが、これから家ではなく個の社会になって行くと、その必要
性は薄れて行くでしょう。

そう言った意味では、現在の戒名制度はいずれなくなって行くだろう、そのスピー
ドは早いかも知れない。
私は現在の戒名制度には僧侶としてもあまり納得していないので、まあこんな記
事が出てくるのも無理はないかなあと感じてもいるところです。
そこに依存度が高いと10年後20年後と難しい局面が出てくるでしょう。

お寺や僧侶として、今社会で起こっていることから目を逸らしてはならない。
何が大切か、何が求められているのか、それは仏教的にどうなのか。
しっかりと見つめて行かなくてはならないと思う。



道を聞き続けるだけ

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葬儀と法事をテーマに、先日の日曜日に連研を開催しました。

身近なテーマでもあり、話し合い法座では皆さん活発な意見が出た
ようです。
内容はやはり個人個人の価値観の違いもあるでしょうから、こうだ
という結論にはならないでしょう。

でもその意味や背景、あとはどうやればいいのか、何が正しいのか
を知りたいと思っていられる方々もいらっしゃった。

葬儀や法事については、宗派・寺院・僧侶・地域によってすべて変わ
るものなので、その内容についてはこれが正しいということはない。
それぞれがそれぞれなのですね。

本願寺派では、たとえば葬儀規範というものがありますが、あくまでも
参考であり、こうでなくてはいけないということはない。
あくまでも各寺院にお任せするしかないのが現状でしょう、ただしみ教
えに反するものは認められないとか、できれば改善して欲しいという
ことはあるでしょうが、それらを一々把握したり確認したりということは
できないのです。

作法や儀式についてはいろいろあるでしょう。
ただその心はやはりそれぞれの宗派のみ教えが根底にあった方が
良いのでしょうか。
少なくとも僧侶側は、その背景が無ければ葬儀をお勤めすることは
できないでしょう。

たとえば浄土真宗では、葬儀や法事等で先祖供養という考え方をし
ないということがあります。
私はそれを主張することで、逆に堅苦しいものになっている様にも感じ
ますが、そうであるなら、親鸞聖人のみ教えを背景に、どうお伝えする
かが大切になります。
そこはやはり僧侶の力量によるでしょう、経験や思いもある、学問だけ
では解決しないし、ご遺族やご門徒の方も納得されないでしょう。
そのあたりのギャップがある様に感じられます、僧侶の一方的な思い
だけになっていないか、浄土真宗はこうだと勝手に思い込んでいないか、
儀式だけやっとけばいいとなっていないか。
儀式だけやっとけばいいという場合、その儀式さえ中途半端なものが
多いでしょう。
浄土真宗はこうだという場合も、勝手な思い込みをしているか、もしく
は不勉強な場合が多いでしょう。
なぜなら親鸞聖人の背景を私たちがすべて知りうることはできないから。
もちろんお釈迦様しかりです。
そのことにさえ考えが及んでいないのです。

やはり道を聞き続けて行くしかない。
それは歳とともに、思いとともに、経験とともに常に変化して行く。
まさに縁起の世界であるのです。

真実の教えはある、それを生涯聞き続けて行く。


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葬儀や法事は本当に必要ですか・・・連研テーマから。

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今度の日曜日、連研が開催されます。
浄土真宗のご門徒さん向けに本願寺派が推進している研修会。

鳥取因幡組では毎月一回、連続十二回の一年間で修了できるように
開催しています。

今回のテーマは「葬儀や法事って必要ですか?」です。
このテーマは現代のお寺で、寺離れや葬儀離れが言われる中、その
意義を問うという背景があります。

教義ばかりではなく、現在直面している問題を参加者で話合い、また
講義を聞くと言う場になります。
今回私は、急遽ピンチヒッターとして、その問題提起と取りまとめの
法話を担当することになりました。

今回のテーマは、連研では初めての取り組みとなるテーマで、私が
提案したものです。
その担当が回ってくると言うことも何かの縁かも知れません。
今回の内容は、それぞれ個人個人の価値観に負うところも多いので、
決して結論を出すとか、回答を僧侶側から押し付けるものではない。
ただそれぞれの意識の中でどう捉えるのか、先祖供養のためだけでは
ないものを感じ取っていただくことが大切です。

また僧侶側としては、葬儀や法事の意味をしっかりと持っておかないと、
まったく説得力を持たないものになります。

なぜ葬儀や法事が必要なのか、なぜお経を唱えるのか、なぜみ教えを
伝えなくてはならないのか。
僧侶はこのテーマに常に向き合い、自問自答し、自分としての立ち位置
をしっかりと持っておかなくてはなりません。
もしそれを持てないのであれば僧侶をやっている意味が分からなくなり
ます。

問題提起としては、あまりこちらから回答を引き出すようなことはしない。
参加者の皆さんがそれぞれの思いを語っていただくことが大切だと思っ
ています。

今回の会場は、女性の住職です。
また違った感覚の葬儀や法事のとらえ方があるのかも知れません。
それも少し楽しみにしています。

皆さんは、葬儀や法事は何のためにあると思いますか。
そして葬儀や法事は本当に必要でしょうか。

その意味を少し考えてみてはどうでしょうか。


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人生はエンディング活動だ!

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最近、終活がブームです。
以前なら、あまりオープンに語られなかったことですが、最近は余裕が
あるのでしょうか。
長生きできるようになったことも一因だと思います。

リタイヤ後の人生が長くなった、そして皆さん健康志向だから。
個人的な価値観が多様化していて、従来の暗いイメージではなく、自分の
エンディングを演出したいとの思いがあるのかも知れません。

ところで仏教は死を見つめて、今の生を輝かす教えです。
すなわち仏教の教え自体がすでに終活でもあるのです。
決して死後の世界を語るのではありません。

人はこの世に生れたなら、絶対に避けられないものがある。
それは死と言うこと。
そのことを意識したときからエンディング活動が始まるのです。
今生きているこのいのちをどう生きて行くのか。
それが仏教の最大のテーマです。

ですからお寺や僧侶が、終活を支援することって理に適っているのです。

お寺や宿坊でエンディングを語り、そして今のいのちを考える。
そんな場所だとも思っています。

エンディングとは今の生を考えること、そのより所となりサポートする。
あなたのいのちをしっかりと支えることが、私の役割なのだと思っている。

そんなことも思いながら・・・。


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四七日の旅 

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昨晩、四七日をお勤めしました。

近所や親戚の方を合わせて20~30人くらいいらっしゃる。

そろそろ一月が経とうとしていますね。
それでも故人とのお話しは尽きないでしょう、お経を唱えながら、
そして聞きながらゆっくりと時間をお過ごしください。
そうお話ししてお勤めに入った。
今日は『重誓偈』と『正信偈』続いて「御文章」と最後に「しんらんさま」
を合唱する。

最新はご家族と近い親族の方だけでの逮夜参りが多いが、熱心な
方でしたので多くの方がお参りされている。

『正信偈』を唱え始めると、皆さんがご一緒に唱え始められる。
大きな一つの思いとなって届けられる。
その中に小さなお子さんの大きな声もあった。
おそらく5歳くらいのお子さんだと思う。

するとまた皆さんがさらに大きな声で唱えられる、子どもの力って
大きい、とくに仏様のことになると効果は絶大だ。
ずっと最後の方まで声が聞こえていた。

お勤めが終わりお茶を飲む、その後に法話となる。

逮夜参りの法話は10分間くらいと決めています。
皆さんの大きな声が故人にしっかりと届きましたね、きっとすごく
喜んでおられるでしょう、何か写真の顔がより輝いて見えますね。

とお話しすると、皆さんが写真を見つめて頷いていらっしゃる。
そう、こちらの気持ちが晴れやかだと、その気持ちが伝わるのだ。
人のこころは自分の心の持ち方で変わってきます。
お経を唱えるとそんな気持ちになります。

そんなお話しをしながら、『信じる力』についてお話をした。

四七日、心を安らかにし、故人を想い、そして我が身を思う。
そんな一時間の旅でした。


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「お寺の教科書」という本を買ってみた。

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今日郵便受けにamazonから本が届いていた。
田舎の山の中に住むものにとってamazonは助かる、仏教関係などの書籍
は本屋ですぐに見つからない。
注文しても取りに行くだけで大変なのです。

本屋さんは大好きなのですが、やはりamazonはなくてはならない存在。

本のタイトルは「お寺の教科書」

著者は松本紹圭氏と井出悦郎氏の共著。
内容はこれからのお寺を考えるといった感じでしょうか。

「彼岸寺」net.や「未来の住職塾」で現在の仏教界で注目の方々。

僕が東京でサラリーマンをしていた頃、神谷町の光明寺に行ったりしてい
たので、松本氏の名前はかなり以前から知っていました。
会社を辞めてお寺に戻るとき浜松町駅にある本屋で買った本が、松本氏
の「おぼうさん、はじめました」だった、もう8年以上前になる。

10年くらい前に日本の仏教が変わると思っていた。
その旗手は松本氏かも知れないなあ、などと漠然と思ったりしていた。

現在のお寺や僧侶が置かれている現状が分かりやすく、かつ正確に書か
れています。
そしてこれからどうして行けばいいのか。

上田先生の「仏教ルネッサンス塾」や「ボーズ・ビー・アンビシャス」と言った
切り口があり、それと並行するように松本氏が僧侶として新たな展開を始め
て行く。
この10年間はそんな感じだった、そしてこれからの10年はさらにその動き
が加速して行くだろう。

「未来の住職塾」から第二世代や第三世代が次々に生まれて来るのかな。
そうなれば日本のお寺や僧侶も変わって行くだろう。
それは檀家制度に縛られないものだと感じています。
伝統的なものの価値観が変わり始めると、意外と早く変わるかも知れない。
過疎地の寺院にいる私としてはその方が有り難いのですが。

本は一般論ですが、その一般論を一通りまとめてあるので、現状を考えた
りこれからのヒントになると思います。
なので具体的な内容までは至っていませんが、それはそれぞれの僧侶が
考えること、もしくは「未来の住職塾」にはあるのかな。
どちらにしても個々の僧侶の意識の問題です。

自分自身が思い浮かべるもの感じるものを再確認し、その背景を押さえる
のには最適な本だと思うが、自分自身に信念がなければ読んでもあまり効果
はないでしょう。
変わらない方がいいと思っている人にも・・・。

まあお寺も僧侶もそれぞれですから、どれが正解と言うことはない。

9月1日に、鳥取因幡組で仏教壮年会の研修会があります。
お寺の次代を担う人たちです、その講師を私が引き受けています。
これからのお寺と言うテーマについて、この本を参考にさせていただきながら
問題提起をしてみたいと早速に購入してみました。

はたしてどの様な内容になることでしょう、自分でも楽しみです。


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孤独死について

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今年の夏は暑かった。

熱中症で亡くなられる方もニュースで聞いた。

孤独死を考えるとき、その背景は何かなと思う。

突然の病気もあるでしょう、ただ寝ていて亡くなる方もいらっしゃるかも
知れない。
中にはお金が無くてエアコンを点けていなくて熱中症で亡くなる方も。

いろんな孤独死があるのだろうな。

僕が田舎のお寺に戻るとき、檀家さんに孤独死をされる方が無いよう
にしたいと考えていた、そのときはただ漠然とでしたが。

もちろん孤独死は寂しい出来事である。
もし誰か傍にいたなら死なずにすんだかも知れない。

現在は、核家族の中で高齢者の独居化が進んでいる。
そして結婚をしない方、離婚される方など、ますますその傾向は高まる。
ある意味孤独死は現代が抱えたと言うより自らが選択してきた生き方
のなかで起きうるべき問題です。

そして人は孤独なのです。
思うように生きて行くことは中々できません。

ただ孤独死は周りからみると可哀そうに思うかもしれないが、当事者は
あえてそれでいいと思う方がいるかも知れない。
そんなことを感じたこともある。

「人は独り生まれきて、独り去って行く。独り来て独り去る、誰もそれに
 代わることはできない」

これは『仏説無量寿経』の中の一節です。

仏教の三宝印の最初は、諸行無常印である。
この世のすべての存在は無常である。

孤独死が社会の闇の様に扱うのではなく、孤独死ということをもう一度
考えて行くことも大切なのかも知れません。

医療や介護だけの問題としてでなく、僧侶がその問題に取り組んで行く
ことが求められている。
求められているというより、求めて行くことが僧侶として必要でしょう。

個人の尊厳死ということを言うのであれば、もしかすると孤独死も尊厳
ということが言える。
もちろん孤独死を進めたり肯定するものでなく、それに対し僧侶や社会
はどう向き合って行くのかと言うことです。

私もできるなら自らの死の道を自分なりの方法で歩いて行きたいと思う、
最近そんなことも思ったりしている。

死を自分の中で意識し始めているのでしょうか。

自分の死に方と死に場所を求めて。
そのときは孤独死を選択するのだろうか。


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お寺離れ ・・・ そこに世代の壁がある。

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私は昭和35年生まれ。

現在は50代前半、若くもなく、ただ高齢化社会においては年配と
までは言えないな。

このまえ、ある方がボソッと話されことがある。
葬儀業界の方でした。

お寺に熱心だった方々の子どもたちがお寺嫌いになっていること
が意外と多いのだとか。
子どもと言っても、60代~40代の世代の方々です。

お寺のこと、仏様のこと、先祖のこと。
これはその家に代々伝わってきたものです、そして家を守るのと
同時にお寺を守ってきた。
家の宗教としてのお寺の存在があったのです。

でも今はそれさえも厳しさに直面しているということか。
寺院や僧侶は、どちらかと言うと自分たちより上の世代との付き
合いが多くなる。
逆に同世代の話しを聞くことが少なくなるのかも知れない。

私身近にそのことは感じていた。
私の母の実家は、お寺の総代を代々続けていた。
何かあればお寺が優先、多額の寄付もしているのです。
法事と言えばいつも盛大だった、僧侶も何人も来ていた。

その息子、つまり私の従兄は、お寺嫌いになった。
おそらく、なぜそこまでするのか、それに何の意味があるのか。
なぜ自分たちがそ犠牲にならないといけないのか・・・。
価値観が見出せないのだと思う。

今はその家で法事が勤まることはありません。
お墓も荒れ放題、昨年お墓参りしたとき数年間手も付いてない
状態だった。

そこには、家族における世代の壁が大きく立ちはだかっている
のではと思うのです。

私は40代半ばまで会社員をしていた、そこに仏教の入り込む
余地はないように思っていた。
特に団塊の世代を境に、日本の価値観は大きく変わっている。
高度成長期、自らの力で繁栄を勝ち取ってきたと言う意識があ
るだろう、都会へと皆が出て行き、核家族化が進展する。
皆、古いしきたりは田舎に残った方々が引き継いだ。

そしてバブル崩壊からリーマンショックを通して日本の会社や
経済が大きく変わった。
無駄なものに投資をしないと言う感覚が強い、その中でお寺や
僧侶はその変化に気づいてこなかったのではないか。
寺院や僧侶のやっていることに疑問を持つのです。

その反動がまさに起こっているのでは、その話しを聞いたとき
そんなふうに感じた。
自分自身でそう感じていたので、当たり前の様に受け止めたが、
実は周りからそう言われると、「やっぱりそうか」と受けとめざる
を得ない。

でも最近感じることがある。
20代~30代の若者が決して宗教やお寺から離れている訳で
はないと言うこと。
事実、あれだけ問題になった新興宗教でさえいまだに若者の
心をとらえているのです。
求めているものはある、ただそれに応えられるお寺や僧侶が
いなかったと言うことだろう。

ただ40代~50代、つまり団塊の世代の前までのところで、途切
れている感覚はあります。
その世代が一番宗教に関心が薄いのではないか。

つまりお寺離れや葬儀離れをしている世代。
これはその価値観に由来している部分が大きいのではと思う。
時代が進み、経済が発展し、目に見えないものへの価値観が
見出せない世代ではないかと思います。

そんなことを感じました。

仏教として時代に応えて行かなくてはならない。
その教えによって社会に応えて行かなくてはならないのだと思う。

目の前にある当たり前と思っていたことが大きく変わるのです。


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寺院葬はいかが・・・、荘厳をセットしてみました。

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今日はお寺で、寺院葬のイメージをセットアップしてみました。

元々はお寺でゆっくり大切な方をお見送りできないかと思案していた。
そこに、お寺周辺の過疎化・高齢化、そして独居化が急速に進んで
いることを感じた。

葬儀会館までは少し遠い。

そんなとき寺院葬のイメージを提案して下さった葬儀社さんがあった。
そして今日、そのセットを作ってみました。

想像以上の出来栄えです。
花が綺麗に並べられ、焼香台も合掌をイメージした新しいデザインです。
これが本堂内陣の荘厳と絶妙にマッチングして、厳かさと気品を感じる
ものになりました。

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さすがプロにやっていただくと、これだけの物ができる。
お寺と葬儀社で役割分担して、そこには何もやり取りはありません。
お互いの仕事をする、そこにマージンも何もありません。

そして極めつけは、宿坊での宿泊がセットになっています。
遠くから来られたり、お身体が心配でも、ご親族の方々でゆっくり過ごせ
ます。
ご自宅や会館の様に、気を遣う必要はありません。
なぜならお寺なので、すべてこちらで必要なものだけご用意しています。
不必要な物は一切使いません。

大切な方を通夜から葬儀まで、心行くまでゆっくりとお見送りできます。

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よく分からないまま葬儀社さんと打合せする。
気忙しさと遠慮から、ついつい高額な葬儀代になってしまうことがある。
必要のないものまで頼んでしまう、それが意外と高額だったりする。

ご親戚や近所の方々がいろんなアドバイスを下さる、でもどうしたら良い
かよく分からない。
でもお寺ですから、ご要望をお伺いしたら、必要最小限でしかも最大限
のご葬儀をご提供できます。

ご遺族の方は、本堂で故人をゆっくりお見送りし、ゆっくりお話しできる。
遠くから来られた方は宿坊のベッドでゆっくり休めます。
露天風呂もあるので、お葬儀でお身体と心を休めることができるのです。

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                     (写真は、お通夜の場合です)

悲しみをゆっくりとときほぐす、そんな葬儀があっても良いのではと思う。
何も心配しなくても安心できる葬儀をして欲しい。
そんな願いがあります。

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                     (写真は、葬儀式のときの場合)

本堂を使うので、最高の荘厳になり、参列者にも優しい葬儀になる。
そして葬儀の作法や勤行は、浄土真宗で最高になるように。
そんなお葬儀を。

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県外の方でもお受けできるように準備をしています。

ご希望の方には、永代経から納骨までもセットでご提供できるよう
にして行きたいと考えています。

これから準備をして行こうと考えている。

光澤寺は、新しいお見送りのカタチをご提案して行きます。


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脱、檀家制度を往く。

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お寺には檀家があります。

もちろん最初から檀家さんがいないお寺もある。
ただ、檀家があるお寺は、檀家の数を言う、多いとか少ないとか。
最近は過疎化もあって、檀家さんが減ったとか。

最近、2040年の人口予測が発表されていました。
日本の人口は大幅に減る。
特に地方の人口減少率はすさまじいのだ。
言えば、現在の2/3の人口になるのです。

現在は、お寺離れとか葬儀離れとか言っています。
そんなこと関係なく人口が大幅に減ってしまう。

そんなこと考えたら、お寺の将来がどうなるかは一目瞭然です。
現在のまま、お寺だけが生き残ることなんて有りえない。

檀家制度などは、ある意味、風前のともしびの様なものである。
ましてや、価値観がこれだけ多様化している中です。
従来のように、病気や災い除けの加持や祈祷など、全く必要ない。
何故なら、これだけ医療や福祉が発達し、情報社会です。

檀家に頼れば、檀家離れや檀家の減少に憂う。
もちろん本山にそれをすくう手立てはない。

檀家のことを考えると、檀家制度の枠から逃れられない。
自らをその中に縛り付けることになる。

檀家制度なんて、本当は仏教に何も関係ないのです。
ただ江戸幕府の権力者の都合だけの制度。

檀家の数やお布施を憂うことなかれ。
そのそろ、自由な道を選ぶときです。
教えの道を進むべき時です。

脱、檀家制度がお寺の進むべき道になるでしょう。
そのときお寺は、僧侶はどうするか試される。

そうすると、檀家さんとも真剣な交流になる。
逆に、檀家さんも離れて行かないでしょう。

檀家を持たないと心に思えば、檀家に頼らない方法を考える。
まさに、なきがゆえの心の平穏です。

もちろん、お寺を支えて下さる方々は大切です。
それは、教えに基づいて、しっかりと支えて行く。
だけど、ギブアンドテイクではない。

テイクを考えると、それが執着になって行く。
執着になれば、それが悩みになり苦しみになる。

要は、僧侶と寺院が独自の道を歩み、自らの信じた道を歩むこと。
法灯明・自灯明である。

「ただ犀の角の如く道を歩むのだ。」

すべてを捨て去ったとき、手に入れるものがある。
それは本当のみ教えです。

今、お寺はそう言うときなのだ。


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お布施をいただくとは・・・。

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今日は一周忌のお勤めをしました。

実は、もしかしたら法事はされないかも知れないと思っていました。
でも、声をかけられたご親族がいらっしゃったのか、お参りすると
何人かいらっしゃいました。

各ご家庭にはいろんな事情がある。
仏教や浄土真宗、そして法事に思いが全くない方。
思いはあるけど、金銭的なご事情があることも。

そう言えば、宿坊に泊まられた方が、朝のお勤めが終わったとき、
こう言われたことがある。

その方がまだ小さなお子さんだったとき、大好きだったおばあちゃん
が亡くなられた。
そのとき、家が貧しかったので、葬儀にお坊さんを呼べず、近所の
方にお経をあげてもらったことがあると・・・。

その方は、とても立派な方です。
まさかそんな思いがおありだったとは、とても感じることができません
でした。
朝のお勤めのとき、ご一緒に『正信偈』を唱えられていた。

それぞれの地方やお寺によって、多少の違いがあるでしょう。
でも、私はお布施に関わらずお参りに行きます。
ただ、先方よりご依頼がないと行けないですね。

ご依頼があれば、どんな事情があろうとお参りします。
もちろん、それでお経が変わるとか手を抜くとかはあり得ません。
それだと、僧侶としての本分を果たせない。

そこにお布施の本当の意味があるのだと感じる。

その方が、ご自分のできるだけの思いを込める。
それを私である僧侶がお預かりする。

お布施とは、仏様に捧げられたものであり、お寺に預けられるもの
なのです。
決して僧侶がいただくものではありません。

だから、お布施を無駄に使うことはできないのです。
お寺が存続し、仏の教えを伝えて行けるために、いただくものです。

法要の読経も、僧侶が仏に捧げるのではない。
仏様の教えをいただき、それをお伝えすることなのですから。

ですから、読経もいい加減な気持ちでは決して唱えることはできま
せん。
そんなことをすれば、僧侶である自分が苦しくなります。

そこを勘違いしている僧侶がいたならば、その僧侶は決して幸せに
なれないでしょう。
そう思います。


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寺院で葬儀を・・・最高の儀礼で、ゆっくり見送れ、そして費用も良心的なら。

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                           (写真はあくまでも参考です)
今日はお寺に葬儀社の方が来られた。

今、お寺で葬儀ができるように準備をしています。
今日は、本堂内を簡単にセットしてみました。
結構それなりに見えるので、やはり寺院葬はいいなあとあらためて感じ
ました。

お寺の地域は、元々自宅葬が中心です。
現在でも約9割が自宅葬、でも少しづつ会館葬が増えてきた。

ただ山間部にあること、地域の方が会葬される風習も残っている。
だったら、お寺で葬儀をしてみようと思い立つ。

そこにはいろんな問題が横たわっている。
なので、葬祭会館とタイアップし、お互いの持ち分を明確にし、区分け
することで、スムーズな葬儀の流れを創り出す。
もちろん葬儀に不要な物、余計なものはお寺ですべて対応できます。

浄土真宗の寺院では、本堂での葬儀はあまり行われない。
もし葬儀をするときも、それなりの儀礼があります。

ただせっかくある広い本堂を、ご門徒さんのために使った方が良いの
ではないかと思う。
そして、その本堂を最大限生かすように。

今は、独り暮らしの方も多い、自宅もすぐに片づけるのも大変。
お子さんやお孫さんは都会で暮らしていたり。
そんなとき、お寺で葬儀が出来れば、安心できるしゆっくり見送れる。
葬儀代も最初からセットで決めておきます。
お布施や寺院使用料もすべて決めておく。
だから余計な心配はしなくて良い、もちろんオプションも用意しますが、
必要最低限のものでも、相当立派な葬儀ができます。

儀礼も、住職が浄土真宗として最高の儀礼を尽します。
間違いなく浄土真宗でもトップクラスの儀礼となります。
途中の法話も、住職は本願寺派の布教使ですから、いい加減な法話
ではありません。
ゆっくり見送ることができ、最高の儀礼を尽くし、料金も心配しなくて良
いし、そのとき迷わなくて良い様に、私たちが助言できます。

お通夜からご親族が泊まれてゆっくりできるように、宿坊も用意してい
ますし、その料金もセットメニューになっている。
故人をしっかりと見送ることができるように。

広々とした本堂、そしてゆっくりできる宿坊。
最高の儀礼、安心できる料金。
それだけのものをすべてそろえる準備をしています。

もちろんお布施と葬祭会館の料金は別です。
どこかがお布施を中抜きすることなどありません。
最高の儀礼であっても、お布施は高くありません。

皆さん、こんな葬儀があったらいいと思いませんか。
大阪や神戸からでも、十分に対応ができるように準備しています。

日本の葬儀が、見送られる方々にとって、本当に大切なもので、良かっ
たなと感じてもらえる様に。

ちなみに写真のセットなら、お布施もすべて含めて50万円前後あれば
納まりますよ。
それには、お布施(臨終・通夜・出棺・葬儀・火屋・還骨の勤行)、宿坊代、
本堂使用料、葬儀社のセット(花一対や寝台車、霊柩車等)が含まれて
います。
宿坊なので、途中の食事も含まれていますから、食事の心配もいりませ
ん、ただし通夜振る舞いや精進落しは別になりますが。

お寺で葬儀だけでしたら、お勤めや葬儀社のセットは一緒で、30~35万
円くらいで納めることもできます。
儀礼も変わることはありません。
もちろんご要望に応じて、食事代や、花やバスなどプラスが必要なものも
あります。

あとは、納骨堂もありますので、家族葬クラスでしたら、永代供養料や
納骨も含めて100万円あれば、都会の方でも十分に葬儀が可能です。
これにはご遺体の搬送料も含まれています。
都会で火葬を済まされてから、お骨での葬儀も可能です。
そのときはもっとお安くできますね。

もししっかりとお見送りされたい方は、そのご要望にお応えできます。
花で祭壇にいっぱいにするとか、僧侶を増やすとかは簡単なことです。

山里の自然豊かなお寺で、その後の管理料や墓参りを心配されること
なく、お寺に任せられます。
毎日、お勤めがあり、花や香が絶えることはございません。

また宿坊には全国からたくさんの方々が来られます。
決して寂しいお寺ではありませんよ。

お盆やお彼岸、年忌法要は宿坊に泊まってゆっくりすることもできます。
大阪からなら、特急電車で2時間少々、池田ICから車でも2時間少々
ですし、梅田や難波からは安い高速バスがありますし便数も多いです。
遠い様でも、実は家族旅行やドライブくらいの感覚で法要をお勤めする
ことができる。

ただし、事前に一度宿坊に来ていただいて、ちゃんと説明を聞かれて、
納得されてからとなります。
ですから、これからまだ先のご自分のときのこととなるでしょうか。

お寺も僧侶も、教義や儀礼も含めて説明責任がございます。

だから安心と言う訳ではありません、人には好き好きや合う合わない
がありますから。
ゆっくりとご判断されることが大切です。

これからの時代、この僧侶で、このお寺で見送られたいと、選択する
ことができるのですよ。
そんな時代になって行くでしょう。

ただ理由も分からず高いお布施や費用を支払うことはありませんね。

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寺院と僧侶、保守的な世界も限界が近づいている。

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先日、あるお寺さんからメールをいただいた。

そこに連絡事項とは別に、雑誌の記事の紹介もありました。
お寺や葬儀のことが、いろいろ書いてあり、これから変わって行かざる
を得ない寺院事情、そして葬儀のことが書いてありました。

これらのことは、10年くらい前、私が僧侶の道に進むかどうかを考え
ていたときの内容が、いよいよ現実に迫って来たなと感じた。
でも実際に僧侶の道を歩み始めてからは、僧侶の中に、この問題意識
を持っている人は少なかったのです。
これは私としては意外でした、もっと危機感があっただろうと勝手に思っ
ていたからです。

お寺とか僧侶の世界に居ると、お寺や葬儀、そして法事などは変わら
らないと思っている。
もしくは、変わらないで欲しいとの願望かも知れないが。
最近でも、それほどではなかった。

確かに、僧侶の世界も超保守的な業界です。
お寺と言う存在と、檀家制度と言う努力しなくてもお寺は変わらないと
言った感覚であったと、そして自分一人が変わってもどうしようもない。

そんな感じでしょうか。

ただ、最近はそれが限界に近づいてきたなと感じる。

保守的な業界が変わるときは、劇的に一気に変わって行く可能性が
あります。
それは、僧侶が望む望まないにかかわらず。
変化があるときは、必ずしも良いことばかりではない。
ただ、時代がそれを求めているのでしょう。

たとえば、ソビエト・イラク・エジプトなどの国が変わって行くこともある。
日本でも江戸から明治に代わるとき。
皆はすぐには変わらないと思っている、そして変わった後も、皆が幸せ
とか限らない、今までの方が良かったと言う人も多い。

特に戒名と葬儀のお布施は変わって行かざるを得ないでしょう。
何故なら、そこに仏教的意義を見つけることはできないからです。
ただ、寺院側の都合にすぎないからです。

それが今までは、葬儀と言うことと、家の見栄によって支えられていた。
その家族制度が崩壊し始めている今日、意味や価値を見出せなくては、
崩壊して行かざるを得ない。

そしてお寺や僧侶は、葬儀や法事、戒名や法名、お寺そのものの意義
を本当に問うて行かなくてはならないのです。

すでに変わりつつある寺院や僧侶も多い。
これからは、本当の意義があるものが求められる。
もしくは、現在の日本仏教的な葬儀や檀家制度が崩れて行くか、どちら
かでしょう。

時代は待ってくれない。

寺院も僧侶もそれを感じて行かなくてはならない。

貴方に、お寺に、それだけのお布施を出す意味がどこにあるのかと。
私は、会社員をしていた十年前からずっと、それを問い続けている。

僧侶や寺院に関わらず、仏教と言う存在は、これからも存在し続ける。
何故なら、それは永遠の真理だからだ。
滅ぶなら、今の日本の寺院であるだろう。


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檀家制度について。

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今日、七回忌をおつとめしました。

元々、他宗派の方ですが、縁あって私のお寺で法要をされた。
ご夫婦それぞれ宗派が違うそうですが、私のお寺はそのどちらでも
ない。

都会では、近くに自分の宗派の寺院が少なかったりすると、その様
なこともあるでしょう。
菩提寺がなくて、葬儀社に紹介してもらったりと。
特に浄土真宗の寺院は関東に少ないので、その様なこともあるの
でしょう。

現在の寺院の多くは、江戸時代から続く檀家制度によって存続する
ことができた。
今までの習慣や先祖によって守られてきていたのです。
それがときには意にそぐわない場合でも。

今日の法要では、浄土真宗の経典を唱える。
経典なので、お釈迦様の教えですから、基本的には問題ない。
たどり着く先は同じですから。

宗派の教えであれば、仏教的見地からは各論の様なものですから、
宗派独自のものは、今日は唱えません。

仏教は、家の宗教的な部分があります。
でもこれからは、自分に合った教え、自分に合った寺、自分に合っ
た僧侶を選択することが増えて行くかも知れません。

今までの家の宗派にこだわらないと言ったことも。
もちろん、お布施によっても変化があるかも知れません。

意味も良く分からないけど、お布施は高額であるとか、代々の家の
戒名だからと言った理由で高額な戒名を付けるとか。
そういったことには非常にシビアになって来るかも知れません。

お布施は、それぞれのお気持ちですが、決してそうばかりではない。
であれば、自分で選択する様になって来るかも知れない。
あとは、子どもに負担を掛けたくないと言った声が増えています。

これは、お布施や戒名だけでなく、お墓や納骨のついても同じです。

そのときは、檀家制度に守られた寺院が変化して行くときでしょう。

もちろん安ければいいと言うものでもありません。
要は、しっかりと教えを伝え、しっかりと儀礼もお勤めする。

そこにまた、+α の魅力があればと思います。
それで、お布施も決して高額ではないと言ったことも、これからは
重要な要因となるかも知れません。
それが第一義ではないでしょうが。

何故なら、昔と違って、情報が伝わりやすくなっている。
特に、お寺へのお布施は寺院によっても、宗派によっても大きく
違いますが、あまり語られない世界だった。

でも、これからは変わって行かざるを得なくなるのでは。
そして、本当に良いもの、本当に必要なものが見えて来る時代。

私のお寺は、お布施はまったく高くありません。
逆に言えば、その時代の準備はできているのかも知れないと、最近
は少し考えるようになってきました。

体制を整えることができたなら、やはりそれを知らしめることも必要
かも知れません。

ただ、心持ちは常に最高のものを心がけています。
なぜなら、それは釈尊の教えであり、親鸞聖人の教えだからです。
やはり、そこだけは外せないのです。


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人生って・・・。

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今日、四十九日のお参りと、納骨壇への納骨がありました。

ご自宅で四十九日の法要をお勤めし、お寺で納骨法要を行った。
どちらも親子お二人でした。

そのとき、いろんなお話しをしました。
普段の法事では、なかなかゆっくりとお話しをすることはできません。

その方は70歳を超えておられる。
お身体もちょっと不自由です。

今日は、奥様の法要でした。

私も50歳を超えて、いのちや人生について少し考えるようになった。

その方は戦時中に生れられ、戦後復興からバブル景気、そして現在
までいろんな経験をされている。

良いことも悪いことも、いろいろある。

途中こんなお話しも。
同級生で事業をしていた人がいて、すごく成功されたそうです。
でも、若くして50過ぎで亡くなられた。

そうですか、お金といのちは引き換えにはなりませんね。
でも長生きしたからと言って、決していいことばかりでもないですね。
どちらが良い人生かと考えても分かりません。

その方も、以前はとても良いときがあった、でも今は厳しいです。
そう仰られていた。

そのときこんなこと感じました。
やはり、仏様がいらっしゃるから、心を埋めることができるんだなと。
どんなときも、調子の良いときも悪い時も。
仏さまにとっては関係ありません。

いつでも、どこでも、誰でも、いつも変わらない。
それが心の支えとなる。
いつだって一人きりじゃない。

それがないと、人生は寂しく虚しいものになるかも知れません。

いつも、そこに南無阿弥陀仏がある。

今日の法要では、そんなことを感じていた。


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出遇い、そして導かれる。

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四十九日の法要があります。

人が亡くなってから、彼岸にたどり着くまでの状態を中陰と言う。
それが満たされて彼岸にたどり着かれる、それが満中陰と言う。

仏教では、世界的に四十九日の法要はお勤めされると聞いたことが
あります。
やはり、故人を偲び喪に服すと言った意味合いが多いのでしょう。

日本では、四十九日から百か日、そして年忌法要が勤められる。
面倒だと思う方もいらっしゃるかも知れませんが、キリスト教の方々は、
そんな習慣があって羨ましいと思われることもあるそうです。

故人を皆で、敬い感謝をささげる。
尊い思いであることに違いないのです。

葬式仏教と言われますが、やはり葬儀から年忌法要まで、しっかりと
決まっているのは有り難いことなのだと感じます。

決して豪華さや華やかさは関係ありません。
それは、それぞれのご遺族の問題なのです。

でも、しっかりとお勤めされるということは、自分のいのちを見つめる
ことになります。
生きているいのちを見つめること、それが大切なのでしょう。

この世の死から、仏のいのちとなる。
その道を、故人から私たちは教えていただくのです。

お勤めをされたなら、南無阿弥陀仏とお称えする。
そこにこそ、阿弥陀如来の願い、元の法蔵菩薩の願いがある。
その願いは、私たちに届けられるのです。

その願いは、法蔵菩薩が、尊い仏に出遇ったときにはじまります。
そこに、法蔵菩薩の悟りに至る道が始まる。
それは、法蔵自身ではあるけれど、仏に導かれたものでしょう。

私たちも、出遇いがあり、導かれて行く道がある。
ただ、念仏を称えるだけでと思うかもしれませんが、そこにはすでに
出遇いがあるのです。


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葬儀での法話で何を話すのか。

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浄土真宗の本願寺派における葬儀規範。

一応は決まっているようで、正式なものはないのだと思います。
ですから、同じ宗派であっても、地方や寺院によって葬儀の作法や
流れが違うこともあるのでしょう。

葬儀は、宗派の規範と言うよりも、その地方ごとでの流れの方が、
中心になることもあります。
ただ近年は、情報化が進んでることもあって、統一化されつつある
かも知れません。

まして最近は、葬儀も会館葬が増え、時間や次第も会館やご遺族
の方々の意向も強くなっていることもあるでしょう。
限られた時間の中で、僧侶としてどう故人を偲び、哀悼の意を表す
るとともに、葬儀の意味を問い、み教えを伝えるのか。

現在の葬儀は、参列者は通夜が多くなってきているそうです。
その様な中で、通夜勤行と葬場勤行、そして出棺勤行の意味を
問うて行くことが大切に感じます。

ここにご親族や一般の参列者が来られる。
そのとき、どのように伝えることができるかが、大切なことだと思って
います。
ただ、儀式を執り行えばよいと言うだけでは、仏教における葬儀の
意味がどんどん軽くなって行くでしょう。
それが結局は、葬儀離れにつながったりして行くのではないか。

厳かさの中に、故人を見送ることの大切さ、悲しみを受けとめて行く
み教え、そして作法と読経。
すべてをそこに込めて行くにはどうすれば良いのか、自問自答の
日々です。

通夜と葬儀のお勤めの中で、僧侶が自身の言葉を伝える機会は、
表白と法話しかありません。

表白については、やはり故人への言葉でもあり、法要の意義をお話
しして行きます。
本当にみ教えをお伝えするのは、やはり法話になるでしょう。

法話は、そのときによってすべて変わってきます。
そして、通夜のときと、葬儀でももちろん違います。

限られた時間の中で、通夜では10分~15分まで。
葬儀では5分~10分までと決めています。

その時間の中で、故人への思い、仏となられる意味、浄土真宗そして
親鸞聖人のみ教え、残されたものの思い、南無阿弥陀仏と浄土。
往生されて行かれることを、しっかりとお伝えしなくてはならない。

浄土真宗は、あくまでも往生して行く、いのちなのですから。

参列者の方が、一番真剣にお話しを聞かれる機会であります。
逆言えば、中途半端なお話しだと、しない方がましと言ったことも。
その点でも、このときはすべてのことを思ってお話しをする必要があり
ます。
僧侶の勝手な話しでは、逆効果になることも・・・。

そこでは、親鸞聖人の大切なお言葉を一つ選んでお話しのテーマに
します。
親鸞聖人のお言葉には、心に響く言葉がたくさんあります。

故人に照らしてみて、そのときに一番伝わるだろう言葉を探します。
そして、その言葉を中心にお話しを進めて行く。

そのときには、いのちと仏、南無阿弥陀仏を必ずキーワードとすること
も忘れてはいけないと思う。

あとは絶対にダラダラと締まりのない話しにならないこと。
そしてそれを聞かれた方が、そういうことだったのかと感じていただけ
たなら、それが有り難いご縁ですね。

実際に、そのときの言葉で救われる方もいらっしゃいます。
悲しみに深く沈んでおられる方に、届くこともあります。

だからとても大切なご縁となります。

次の機会には、実際に通夜と葬儀でお話しした法話を書いてみようと
思います。


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四人だけのお通夜

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今朝、電話があった。

今病院で息を引き取られたとのこと。

葬祭会館とご親族から電話があり、今晩お通夜で明日朝の葬儀と
なりました。

明後日は元旦のため、明日葬儀をされたいとのことでしたが、火葬
場と会館の都合が中々つかず、朝九時からの葬儀式になりました。

夕方、お通夜にお参りし、臨終勤行と通夜勤行をお勤めした。
ご親族は四人、家族はいません。

でもお経を唱えていると、皆さん一緒にお唱えされていた。
そして法話のときは、真剣に聞かれている。

いつも思うことがある、歳を重ねるとまるで自分と重ね合わせられる
ような感じです。
真剣に一所懸命。

いつかは自分も、この世を去るのだ。
私も、そのときのことを思い法話をする。
浄土のお話しも、説く側が真剣でなければ、聞く側も信じられない。
説く側の気持ちがなければ、法話だって何も意味を持たない。
僧侶の勝手な判断や押し付けも必要ない。
もちろん教えを信じることは再前提です。
信じられないなら、もしくは信じようとしないなら僧侶になる必要は
ないのだと思う。

釈尊と阿弥陀如来、そして親鸞聖人の教えと思いをお伝えする。
それを先ず、僧侶自身が聞いていなければ、読経も法話もする
意味がない。

ご親族四人と私の計五人のお通夜。
でも、静かにお勤めをすることが出来ました。
ゆっくりと、そのいのちを感じながら。


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勘三郎さんの葬儀がありましたね。

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今日は、東京の築地本願寺で中村勘三郎さんの葬儀が執り行われた。

TVの情報番組でその様子が流れていた。

築地本願寺なので、浄土真宗の本願寺派のご門徒さんなのでしょう。
このときに、法名が意外と話題になったりする。

各宗派では戒名となるが、浄土真宗では法名となる。
法名の場合、院号が付けられても最大で六文字なのです。

ただ、他宗の場合の戒名は長いほど有り難いといった印象がある。
でも、法名は仏の名前なので、そこに差はないのです。

まして戒名が長いからと言って、仏様の位が上がる訳がない。
ただ人間の欲望が生み出した産物でしかないのだ。

少しでも周りの人たちより、上に位牌を置く。
残された者たちの欲望以外の何物でもない。
まして各宗派の開祖はそんなことは間違っても言っていないはず。

さすがに今回の葬儀では、勘三郎さんの法名は阿弥陀様で見えなく
されていました。
浄土真宗本願寺派の東京の拠点である築地本願寺の葬儀において
浄土真宗では、本来付けない法名だったからでしょう。

まあ、これはご本人の問題ではないでしょう。
寺院側の方が気を遣って付けられたのかも知れません。
ただ、親鸞聖人の教えではないと言うことです。

人間の欲望は限りない、それを親鸞聖人ご自身がうかがわれている。

やはり、葬儀やお墓、戒名や法名。
これは残された者たちのものであると言うことが、よく分かる情景でした。
もちろん目くじらを立てる様なものでもありません。
さすがに勘三郎さん、最後を滑稽に飾って行かれました。
まあ、その法名を付けられた僧侶は、自分が滑稽だとは思ってらっしゃ
らないでしょうが。

その迷いの姿のまま、阿弥陀如来はすくうとお誓いになられている。

ただ、浄土真宗の法名の「釋」という一文字には、すべてのものが
平等に浄土に往生し仏となる身である、と言う意味が込められている。

その意味をしっかりと受け止めると言うことも大切だなと、あらためて
感じている。

きっと勘三郎さんも、浄土で笑っておられることでしょう。
そこには迷いもなく、別れもないのだ。
だからこの世に後悔はないのです。

いつかまたお会いできるのだ・・・倶会一処ですね。


南無阿弥陀仏                           合掌




心でお経を称え、そして精一杯唱えるとき、思いが共振する。

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先日、宿坊に来られた方から、お手紙をいただきました。

浄土真宗では、法要のときお経の前に『三奉請(さんぶじょう)』を唱え
ます。

阿弥陀如来、釈迦如来、そして十方の諸仏を敬い、その場にお招きす
る作法、そのとき散華を撒きます。

華のを降らして仏様をお迎えするのです。

何と美しい光景か・・・。

あるときこんなことを仰られる僧侶がいらっしゃった。
仏様はいつも見守っておられるのだから、『三奉請』を唱えてまわざわざ
お迎えする必要なんかないと・・・。
 でも私たちは、仏を敬い讃嘆し、丁重にお迎えするのが礼儀。
やはり礼を尽くすこころが必要なのです。儀礼をおろそかにすると、すべ
てが疎かな方向に進んでしまう。
いつも見守って下さっていることへ感謝の心を持ってお迎えするのです。

お手紙をいただいた方が宿坊に来られたとき、「お経が大好きです」、
そう仰っていた。
そして、お帰りになられるとき『阿弥陀経』をお唱えした。
そのときお経の前に『三奉請』をお唱えした。

今日のお手紙に、その時の御礼が書いてありました。
 「そのときのお声は深く美しく朗々として心にしみてゆきました・・・」そして、
「深い感動のうちに阿弥陀経が終わりました。」
私にとって、これ以上ありがたい言葉はない。

やはりお経は心で称えるものでしょう、でも声も非常に大切だと感じます。
心から仏様の声を聞きながら、その言葉を精一杯唱えるのです。
 その声は波動となって、伝わって行くのだと感じています。

もちろん、それを聞かれる方の心によって、それが共振する。
そのときに仏様に包まれてる思いがあるのだと。

同じお経を唱えても、その唱える心、思い、そして、受け止める心。
それが違えば、お経の意味も唱える意味も、すべて変わる。
何でも唱えれば良いと言うことはないのです。

それらのすべての思いの中に、法要はあるのでしょう。


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心でお経を称え、そして精一杯唱えるとき、思いが共振する。

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先日、宿坊に来られた方から、お手紙をいただきました。
浄土真宗では、法要のときお経の前に『三奉請(さんぶじょう)』を唱
えます。
阿弥陀如来、釈迦如来、そして十方の諸仏を敬い、その場にお招き
する作法、そのとき散華を撒きます。

華の雨を降らして仏様をお迎えするのです。 何と美しい光景か・・・。

あるときこんなことを仰られる僧侶がいらっしゃった。仏様はいつも
見守っておられるのだから、『三奉請』を唱えてまわざわざお迎えす
る必要なんかないと・・・。

でも私たちは、仏を敬い讃嘆し、丁重にお迎えするのが礼儀。
やはり礼を尽くすこころが必要なのです。儀礼をおろそかにすると、
すべてが疎かな方向に進んでしまう。
いつも見守って下さっていることへ感謝の心を持ってお迎えするので
す。

その方が宿坊に来られたとき、「お経が大好きです」、そう仰っていた。
そして、お帰りになられるとき『阿弥陀経』をお唱えした。

そのときお経の前に『三奉請』をお唱えした。今日のお手紙に、その時
の御礼が書いてありました。

「そのときのお声は深く美しく朗々として心にしみてゆきました・・・」そして、
「深い感動のうちに阿弥陀経が終わりました。」

私にとって、これ以上ありがたい言葉はない。

やはりお経は心で称えるものでしょう、でも声も非常に大切だと感じます。
心から仏様の声を聞きながら、その言葉を精一杯唱えるのです。
その声は波動となって、伝わって行くのだと感じています。

もちろん、それを聞かれる方の心によって、それが共振する。
そのときに仏様に包まれてる思いがあるのだと。

同じお経を唱えても、その唱える心、思い、そして、受け止める心。
それによってすべてが違うのです。

ただ唱えておればよいなんてことはないのです。

それらのすべての思いの中に、法要はあるのでしょう。


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心でお経を称え、そして精一杯唱えるとき、思いが共振する。

先日、宿坊に来られた方から、お手紙をいただきました。 浄土真宗では、法要のときお経の前に『三奉請(さんぶじょう)』を唱え ます。 阿弥陀如来、釈迦如来、そして十方の諸仏を敬い、その場にお招き する作法、そのとき散華を撒きます。 華の慈雨を降らして仏様をお迎えするのです。 何と美しい光景か・・・。 あるときこんなことを仰られる僧侶がいらっしゃった。 仏様はいつも見守っておられるのだから、『三奉請』を唱えてまわざ わざお迎えする必要なんかないと・・・。 でも私たちは、仏を敬い讃嘆し、丁重にお迎えするのが礼儀。 やはり礼を尽くすこころが必要なのです。 儀礼をおろそかにすると、すべてが疎かな方向に進んでしまう。 いつも見守って下さっていることへ感謝の心を持ってお迎えするのです。 その方が宿坊に来られたとき、「お経が大好きです」、そう仰っていた。 そして、お帰りになられるとき『阿弥陀経』をお唱えした。 そのときお経の前に『三奉請』をお唱えした。 今日のお手紙に、その時の御礼が書いてありました。 「そのときのお声は深く美しく朗々として心にしみてゆきました・・・」 そして、「深い感動のうちに阿弥陀経が終わりました。」 私にとって、これ以上ありがたい言葉はない。 やはりお経は心で称えるものでしょう、でも声も非常に大切だと感じ ます。 心から仏様の声を聞きながら、その言葉を精一杯唱えるのです。 その声は波動となって、伝わって行くのだと感じています。 もちろん、それを聞かれる方の心によって、それが共振する。 そのときに仏様に包まれてる思いがあるのだと。 同じお経を唱えても、その唱える心、思い、そして、受け止める心。 それらのすべての思いの中に、法要はあるのでしょう。 光澤寺HPはこちら!

心でお経を称え、そして精一杯唱えるとき、思いが共振する。

先日、宿坊に来られた方から、お手紙をいただきました。 浄土真宗では、法要のときお経の前に『三奉請(さんぶじょう)』を唱え ます。 阿弥陀如来、釈迦如来、そして十方の諸仏を敬い、その場にお招き する作法、そのとき散華を撒きます。 華の慈雨を降らして仏様をお迎えするのです。 何と美しい光景か・・・。 あるときこんなことを仰られる僧侶がいらっしゃった。 仏様はいつも見守っておられるのだから、『三奉請』を唱えてまわざ わざお迎えする必要なんかないと・・・。 でも私たちは、仏を敬い讃嘆し、丁重にお迎えするのが礼儀。 やはり礼を尽くすこころが必要なのです。 儀礼をおろそかにすると、すべてが疎かな方向に進んでしまう。 いつも見守って下さっていることへ感謝の心を持ってお迎えするのです。 その方が宿坊に来られたとき、「お経が大好きです」、そう仰っていた。 そして、お帰りになられるとき『阿弥陀経』をお唱えした。 そのときお経の前に『三奉請』をお唱えした。 今日のお手紙に、その時の御礼が書いてありました。 「そのときのお声は深く美しく朗々として心にしみてゆきました・・・」 そして、「深い感動のうちに阿弥陀経が終わりました。」 私にとって、これ以上ありがたい言葉はない。 やはりお経は心で称えるものでしょう、でも声も非常に大切だと感じ ます。 心から仏様の声を聞きながら、その言葉を精一杯唱えるのです。 その声は波動となって、伝わって行くのだと感じています。 もちろん、それを聞かれる方の心によって、それが共振する。 そのときに仏様に包まれてる思いがあるのだと。 同じお経を唱えても、その唱える心、思い、そして、受け止める心。 それらのすべての思いの中に、法要はあるのでしょう。 光澤寺HPはこちら!

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先日、宿坊に来られた方から、お手紙をいただきました。 浄土真宗では、法要のときお経の前に『三奉請(さんぶじょう)』を唱え ます。 阿弥陀如来、釈迦如来、そして十方の諸仏を敬い、その場にお招き する作法、そのとき散華を撒きます。 華の慈雨を降らして仏様をお迎えするのです。 何と美しい光景か・・・。 あるときこんなことを仰られる僧侶がいらっしゃった。 仏様はいつも見守っておられるのだから、『三奉請』を唱えてまわざ わざお迎えする必要なんかないと・・・。 でも私たちは、仏を敬い讃嘆し、丁重にお迎えするのが礼儀。 やはり礼を尽くすこころが必要なのです。 儀礼をおろそかにすると、すべてが疎かな方向に進んでしまう。 いつも見守って下さっていることへ感謝の心を持ってお迎えするのです。 その方が宿坊に来られたとき、「お経が大好きです」、そう仰っていた。 そして、お帰りになられるとき『阿弥陀経』をお唱えした。 そのときお経の前に『三奉請』をお唱えした。 今日のお手紙に、その時の御礼が書いてありました。 「そのときのお声は深く美しく朗々として心にしみてゆきました・・・」 そして、「深い感動のうちに阿弥陀経が終わりました。」 私にとって、これ以上ありがたい言葉はない。 やはりお経は心で称えるものでしょう、でも声も非常に大切だと感じ ます。 心から仏様の声を聞きながら、その言葉を精一杯唱えるのです。 その声は波動となって、伝わって行くのだと感じています。 もちろん、それを聞かれる方の心によって、それが共振する。 そのときに仏様に包まれてる思いがあるのだと。 同じお経を唱えても、その唱える心、思い、そして、受け止める心。 それらのすべての思いの中に、法要はあるのでしょう。 光澤寺HPはこちら!

お寺を仏教テーマパークに・・・。

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お寺を仏教のテーマパークにできるか。

若者の仏教離れが言われるが、決してそんなことはないと思っている。
ただ、仏教やお寺の情報発信力が弱かっただけだと思う。

それは、お寺側に危機感がないからだろう。
大きなお寺は、葬式と法事で十分やって行ける。
体制的には、保守的な考えが行き渡っている。

今の流れを変えたくないと言った感じでしょう。
何故なら、自分の時代のことばかり、この先も変わらないと思っている。
と言うより、そう思っていたいのでしょう。
だから、檀家さん以外への情報発信はしなくてもいい。

今日、TVの情報番組を見ていたら、今はテーマパークや遊園地が、
大人気なのだと言う。
いずれも入場客が大幅アップ、増益なのだと言う。
ポイントとして上がっていたのが、団塊の世代以上の方々の三世代が
一緒に訪れることができるから。
つまり、子守と大蔵省(ちょっと古い)の役目を頼めるということ。
年配者が来ると、遊園地もお金が落ちるので、ありがたいだろう。

最近僕も思う、みんな高度成長期やバブルで贅沢になっていった、
旅行もいろんなところに行った。
その年代の方々が、リタイヤしたとき何をしたいのか。
旅行も行き尽くしているのです、で、贅沢な旅館やリゾートに行くか?
否、そうではないと思う。

これからの人生、やりがいと生き甲斐と、文化的生活、そして自然に還る。
それと、くつろぎと安らぎ。
そして今までできなかったことと、本物志向。

お寺だって、今まで通りなら新たな魅力はない。
本物ではあるけど、新たな取り組みが求められる。
従来の檀家制度で満足しない方々が一気に増えると予測します。

先祖は仕方ないけど、自分のときは、自分の好きなお寺で、自分の気に
いった僧侶に見送ってもらいたいと言う人が増えるのは間違いない。
そして、納骨堂もお墓もそうです。
自分だけのものが必要になるのです。

お寺だって、元々はエンターテインメントの中心であった。
だったら、仏教テーマパークにしたらいいではないか。
仏教カルチャーの情報発信をする。

自分だけのカリキュラムが組める、講座や体験。
仏教に求めるものは、個人個人によって全く違う。
それをお寺はカタチにはめ込もうとする。
法要や行事、講座、もうそれでは誰も満足しない、ただの義務感のみ。
でも、仏教に心の依り所を求める声は多い。
情報発信力があれば、さらに要求は増えるであろう。

思い思いの、自分だけの、そんな仏教テーマパークを創ろう!
そして、そこには触れ合いが欲しい、でも余計な過干渉はいらない。
強制されるのも嫌だろう。

それを満たしてくこことも、お寺としては考えて行かないといけない。
檀家制度も、先祖を大切にする心から現在まで続いているが、もう
そろそろ厳しい時代に入って来る。
檀家制度の次に来る仕組みを考えて行かなくてはならないだろう。

いろいろ考えていかなくては・・・。


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浄土真宗のお葬儀で散華を。

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今日はお葬儀でした。

一昨日、法事のとき病院から連絡があった方です。

さすがに、そのときは「しんらんさま」を皆で歌うとき、声が詰まった。
ダメかなと思いつつも、何とか最後まで歌い終えた。

今日はその方のご葬儀。
自宅葬だったので、たくさんの方々が参列されていました。

そして今日のご葬儀では、初めての取り組みをしました。
それは散華をしてみたこと。

私は、葬儀式に前に帰敬式を執り行い、続いて出棺勤行をお勤め
する。
流転三界偈からお剃刀をする。
三帰依文(和語とサンスクリットで)、其佛本願力の偈文を唱える。

そして、葬儀式へとうつる。
開式の言葉が入り、三奉請をお称えします。

法要では、三奉請のとき散華(さんげ)をする。
作法では、華籠(けろう)を持って出勤するので、本日の葬儀にも
華籠を持ってお勤めしました。

華籠には、三色の紐がありますが、法要のときと違って葬儀では
白紐が前になります。
華籠に華杷(けは・・通常は蓮の花びらの形)を載せ、経本を置い
て三奉請のとき立ち上がります。

そして、散華楽で華杷を撒きます。
最近の本願寺派の作法では一枚たらすだけですが、本来の散華
は数枚空中に撒きます。
そうすると、ひらひらと舞い落ちてくる。
私のイメージでは仏様を敬う心があっていいなって思う。
そして少しだけ華やかになりますね。

この作法は、本願寺派の勤式の専門の方に確認をした上でやって
おります。

お斎のときに喪主さんとお話しすることがありました。
そして散華のお話しを。
お葬儀で散華をするのは珍しいのですよと・・・。

そうすると、その華杷がたまたま座布団の四隅に舞い落ちるのを
見られたそうです。
上手い具合に落ちるもんだな、わざとそうしているのかと思われて
いたそうです。
それは、たまたまだったのですが・・・。

でもとても喜んでいただきました。

これからは、葬儀の儀礼や作法を見直して行こうと思っています。
本来の葬儀や儀礼の意味を問いながら、簡略化されたり本来の
ものとは違ってきている葬儀の儀礼を見直してゆく。

厳かさと華やかさと、仏様の讃嘆とをしっかりと表現して行きたい
と思っています。

皆さんも、お葬儀で散華をしてみませんか。


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仏教的グリーフケアと百か日。

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昨晩は、百か日でした。

夜6時半に、近くのご親族の方々が集まられた。
お勤めは、『仏説阿弥陀経』と『正信偈』を唱える。

百か日は卒哭忌とも言われる。
泣くこと、悲しみから少し癒されると言うことでしょうか。
また、四十九日で成仏できなかったときのための、供養のため。
そんなこともありますと、お話しをする。

でも、葬儀から初七日から四十九日、そして百か日。
これは仏教的なグリーフケアである。
そこから見れば、四十九日を過ぎて、少し時間が空きます。
大切な方を亡くされたあと、忙しさの中で四十九日を迎える。
悲しみの中で何とかそこまではと、気持ちをつなげて行く。

そのあとで、やはり3ヶ月を過ぎたあたりに、やりきれない空虚感に
襲われることがあると言う。
四十九日までの張りつめた心、そして、その方がいないと言う現実を
あらためて感じるとき。

そんなころに百か日をとうのです。
そこで皆が集まって、そのご遺族を支える。
故人のこと、皆忘れてはいないよ、そんな思いを伝えるのでしょう。

仏教で行われる法事には、そんなグリーフケアの意味がある。
そんなこと面倒くさいといった風潮もあるでしょう。

でも、本当の悲しみに襲われたとき、その思いをしっかりと支えること。
それが大切です。
心を慰め、そして心にけじめをつけ、心と現実の間をつないで行くので
す。

いろんな理由や意味を付けていますが。
百か日までの法事は、そんな背景があります。

ただ、それが僧侶側の都合で面倒だからといって執り行わなかったり、
お布施をいただくため、と言ったものであれば、その意味はなくなる。
僧侶の意識によって、その意味が伝わらないのなら、面倒ということに
もなるでしょう。

昨晩も、ご遺族の方は、法要の最後の頃に涙を流されていた。
決して卒哭ではないだろう。

ただその涙の意味は、四十九日までとは少し違ってきたかな。
そんなことを感じました。

お経一緒に唱える、そのことに没頭する。
漢文の経典を唱える意味も、そこにはあります。
それって意外と大切なことなのですね。


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教義と儀礼・・・廃立と助正とは。

廃立と助正。

これをどうとらえて行くか、とても大切なことです。

廃とは、廃すること、つまり棄てるもの。
立とは立てること、つまり選ぶものといった感じでしょうか。

助正とは、その立てたもの、つまり選びしものを助けるはたらきをする、
そんな感じになると思います。

具体的には何を顕すかというと、廃立は教義になります。
助正とは儀礼になるのでしょう。

ここで考えて行かないといけないのは、これを一緒にしてしまうことです。
現在の浄土真宗教団は、この廃立と助正を混ぜこぜにしているのでは、
ということです。

つまり、教えがこうだから、浄土真宗はこうでなくてはいけない。
ということが、教義の世界にも、儀礼の世界にも幅を利かせているという
ことです。

浄土真宗とは、凡夫である民衆、つまり人々を解放して行く教えであった
はずです。
これをガンジガラメにしていっている現状があるように思います。

これは、連綿と続いていることですが、特に少し前の世代の僧侶に多い
と思います。
そしてそれが、本願寺の主流を占めてきたと思います。
実際は、中々そうだとは断言できないことでも、浄土真宗はこうだと言い
きってしまう。
もちろん宗教ですから、カタぐるしい部分があるのでしょうが・・・。

やはり教義においては、廃立があります。
教えとは違う部分を、曖昧にすることはできないでしょう。
ですから、教義においては廃立が成り立ちます。

では、儀礼についてはどうでしょうか。
み教えに基づくものではあっても、儀礼については廃立は完全に成立
しえないのです。
つまり、儀礼は廃立の世界ではなく、助正なのです。
それを完全に、白か黒かみたいな表現を強いる現実があります。

本当にそうなのかと言う議論にならない。
浄土真宗はこうだと言い切る、では一体だれがそう言ったのでしょうか。
少なくとも、親鸞聖人は仰っていないにも関わらずです。
その研究が、本願寺ではあまり顧みられていない。
逆に近代以降、そう言ったものを否定するかのようです。
何でも新しくすればよい、そんな時代遅れのものは止めてしまえ。

そしてやっていることと言えば、儀礼や法要の簡略化と現代化です。
そして次の世代へ継承するものが無くなっている現実に気づかない。
まったく本願寺の儀礼は魅力がないのです、でもそれに危機感がない。

現代の流れに添うことも必要かも知れない、でもそれは伝承してきたも
のを踏まえ、伝えて行くと言う前提のもとに、それがあって初めて生きる
ことなのだと思います。

そうなると、葬儀や法要の儀礼の意味を問うことが疎かになる。
そして僧侶がその意味を分かっていないという結果になる。
葬儀離れに対して、僧侶にはそれを食い止める力さえないのです。
儀礼を建前だけで、疎かにしてきた結果だと思います。
今回の750回大遠忌法要も、その儀礼に対して惹きつけられたという
感じはまったくありませんでした。

本当は、儀礼には仏を敬い讃嘆するとともに、民衆を惹きつける力が
あったはずです。
それを時代に迎合し、今では法要を現代語訳執り行うという僧侶もいる。
本来の儀礼や経典の意味も考えずに、分かりやすいと言うことだけで、
そうしているのでしょう。
中途半端な時代への迎合は、かえって衰退を早める。
そのことが分からないのでしょう。
何故かと言うと、時代の移り変わりは早いのです、迎合していると何が
本質なのか見失ってしまいます。
それが現在の状況でしょう、次から次へと変わって行き、本当に継承
して行かなくてはならないものが見えていない。

そしてこういいます、「浄土真宗はこうだ」と・・・。
そう断言する人は、本当の儀礼を理解していない、つまり教義も背景も
理解していないと言うことになりますね。

今、儀礼の持つ本当の意味と、その魅力をしっかりと受け止めるときが
来ていると思います。
そして、その儀礼を執り行うことが僧侶に求められていると思います。


浄土真宗の儀礼について・・・僧侶研修会、今日から始まる。

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(今日の会場は、妙好人源左さんの願正寺さんでした。立派な本堂です)

今日は鳥取ブロックの僧侶研修会でした。
私が担当なので、無事終了したので少しホッとしています。

今日の講義は、浄土真宗の儀礼についての考察でした。

私が今、一番テーマとしている問題でした。
葬儀や法要をお勤めしていて、その意味や背景を問うこと。
僧侶がしっかりと押さえておくべきテーマです。

この儀礼と法話があってこそ、浄土真宗のみ教えが一体となる。
特に、浄土真宗では教義優先的な部分があり、儀礼はあまり顧みら
れていない様に感じていました。
現代的な法要を目指すばかりで、大切なものを置き去りにしている様
に思います。

葬儀離れやお寺離れということがクローズアップされていますが、僧侶
がその儀礼の意味をしっかり問うていなければ、それはさらに加速す
るでしょう。

私は、儀礼の重要性と、そこに込められた意味を問うことが大切だと
思っています。
そのことを伝えられてこそ、お勤めする意義があるのだと・・・。

今日は、その原点を確認することができた、有意義な研修でした。
目指すものが、今まではおぼろだったのが、はっきり見えた。
辿り着けるかどうかは分かりませんが、見えていたならいつか辿り着く。
そう確信した研修会であったこと、ご講師の先生に感謝しています。

教えを説く法話だけでは、法要は成立しない。
儀礼の奥深さと、厳かさ、そして仏から届けられるもの。
それを表現して行きたい、それを葬送儀礼、そして法要に。
これから新たな取り組みと展開が始まります。

おそらく今日の講義は、参加された方たちの考えを変えるかも知れ
ない。
それほどの印象でした、もちろんすべての方が受け入れられるかどう
かは別です。
でも今の本願寺では決して聞くことのできない尊いご縁でした。


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僧侶研修会に臨んで・・・仏の思いを伝える。

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明日は、浄土真宗本願寺派鳥取ブロックの、僧侶研修会です。

本願寺派が推進する、重点プロジェクトの一環として、浄土真宗の儀礼
について研修をします。

ご講師は、中央仏教学院の大八木先生に依頼いたしました。
明日の研修会が楽しみです、久々に大八木先生の声明が聞けます。

お寺離れがよく言われますが、僧侶としてもその儀礼の持つ背景を認識
した上で、執り行うことが大切です。

本当に大切なものであり、意味があることであれば、やはり葬儀を行うと
いうことは決してなくなりはしない。
ただ、そうでなければ自然と淘汰されて行くのだろう。

そのことは自分が身を持って感じなければ、意味をなさない。
受け売りでは、ただの儀式で終わってしまう。
どの僧侶であろうが、何宗の僧侶であろうが関係ないということになる。
であれば、お布施の意味がなくなってしまうのだ。

やはり葬儀を執り行う以上は、私のすべてを出し切るという覚悟が必要
です。
それは、作法・声明・衣体・法話、そして思い、どれが欠けてもいけない。

そこに参列された方々へ、思いを届けなくてはならない。
そしてご遺族の心に届かなくてはならない。

故人に対して、私たちの思いを届けなくてはならない。

たとえ仏から届けられる思いであっても、儀礼を執り行うのは僧侶なの
だから。
仏の思いを伝えなくてはいけないのです。

そこに儀礼の意味がある。


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葬儀でも法話をなさるのですか、と・・・当然です。

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                (写真は、お寺での法要・往生礼賛日没です。)
今日はお葬儀があった。

昨日は友引で、火葬場がお休みだったそうです。
なので、今日は混雑をしていました。

今日のお葬儀は葬祭会館でした。
僕が住職を勤めるお寺は、山間部にあるので、自宅葬がほとんどです。
最近は、それでも会館葬が時々あります。

会館で、昨晩は通夜勤行。
今日は、出棺勤行と帰敬式、そして葬場勤行をお勤めする。

会館であっても法話は致します。
通夜勤行のあと、そして葬場勤行のあと。
つまり葬儀にも法話があるということです。

浄土真宗の場合、法話にみ教えがある。
法話のない法要や儀礼は、浄土真宗の法要にはふさわしくありません。
なので、葬儀でも法話をします。
もちろん、出棺の時間が決まっているので、3分間だけ。
でも、葬儀ですし、参列者の方の宗派は分からない。

なので、み教えを三分間に凝縮して、分かりやすく、心に伝わるもの。
それだけを厳選してお話し致します。
みなさん、ちゃんと真剣に聞いてくださいます。
通夜のときは、時間が関係ないので15分間と私が勝手決めて、お話し
します。
このときも、法話も読経も、いつも真剣勝負です。

葬儀や通夜のときに伝わる思いや言葉があります。
それを僧侶が逃していたら、葬儀の意味が薄くなってしまいます。
還骨でも致しますが、そのときには、多くの方が帰られたあとなのですから。
元々、仏教は伝道が中心ですからね。
釈尊は、初転法輪以降、伝道中心の生活を送られている。

その会館は、私は初めてだったので、葬儀後に進行役の方が挨拶に
来られ、葬儀のときも法話があるのですかと驚かれていました。
進行に落ち度がありましたかと言われたが、そんなことはございません。
儀式と進行も含めて、滞りなきようこちらで判断をしております。
葬儀の次第も、衣体も、作法も、もちろんすべて怠りなく。

鳥取では、浄土真宗本願寺派の僧侶は法話をしますよ、とお答えした。
実際は、葬儀のとき法話をするのは2~3ヶ寺だと思いますが。
それでも、鳥取因幡組では、葬儀で法話をしようと動いています。

本当のみ教えを一人でも多くの方にお伝えしようと。
でも、それには僧侶にも覚悟がいります。
中途半端なお話しなら、しない方がいいから。

しっかりと、覚悟を決めて、葬儀に臨むのだ。
そして、本当に浄土真宗の葬儀が必要だと、皆に思っていただくこと。


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葬式仏教を考える・・・その2(寺院葬に取り組む)

本堂

日本の仏教においては、葬送儀礼を執り行うことが、重要な役割になって
いる。
やはり、死と言うことは、当人にとっても残された人々にとっても、大切な
人生のテーマであり、通過儀礼なのでしょう。

そんな中で、光澤寺では寺院で葬儀を執り行えるように準備を進めています。
もちろん以前から、お寺で葬儀をされているところは、たくさんあるでしょう。
ただ私のお寺では、葬儀は自宅で行うことが中心で、寺院での葬儀は滅多
にありませんでした。

ではなぜ、寺院葬を始めようと思ったのか。
それは、高齢者だけのご家庭が増えてきたこと、そして親族が県外に居住
されていることが多くなったことから。
死は、どんな方でも突然です、たとえ余命数か月と告げられていても、いつか
は分からない。
そうすると、亡くなられた後、ゆっくり進めることができない。
お寺への連絡、葬儀会社の決定、親族や関係者への案内等。
考える暇もなく、ゆっくりお別れをすることができない。
ましてや県外にいらっしゃると、移動だけでも大変です。
これが自宅だと、片付けから準備で休む暇もありません。
会館だって、ゆっくりできませんし、儀礼からは遠くなります。

葬儀は多いけど、自分が主体となって執り行う葬儀は、そんなに多くありま
せん。
つまり、いつだって経験のないことばかりなのです。
だから周りの言うことに左右される、そして葬儀会社によって左右される。
すべての葬儀会社が良心的と言うことはありません。

それをお寺で葬儀をすることで、面倒なこと分からないことを全部お引き受
けすることができます。

住宅にお住まいの方、生活保護を受けておられる方。
その様な方にも、ちゃんとした葬儀をご提供できます。

事前に、お寺と葬儀会社で確認をしておけば、料金も安心です。
不必要なものは一切排除します。
あとは、ご希望に応じたものを、葬儀会社に頼めば良いだけです。
内容は、事前にお寺側で全部チェックしておきます。

もちろん、寺院と葬儀会社でお金やリベートのやり取りは一切ありません。
お互いがお互いの役割を責任もって行うだけです。
信頼関係も必要でしょう。
だから、どこの葬儀会社でも良いということはありません。

ご遺族の方は、お寺でゆっくりとお見送りができます。

お寺へは、寺院使用料(お寺の護寺会の積立金へ)。
そしてお布施。
寺院使用料は、通夜等の宿泊なども含めても5万円前後。
そして、光澤寺のお布施は他寺院に比べると、とても驚かれるくらいです。
もちろん高い、ということではない方で。
ただお布施は安ければいいと言うものでは、もちろんありませんが。

皆さんも、ゆっくりと安心してお葬儀をしてみたくないですか。
それも、本来の教えに基づいて、しっかりと見送ることができます。
葬儀の意味を考え、どうするかを決めておきましょう。
そのとき、あわてなくて良い様に。
中には、知らないで高額な費用を支払っておられる方もいます。
それは葬儀会社にもですし、お寺にもです。

お寺(というよりも僧侶かな)も自分で選ぶ時代がやって来ます。

適当な僧侶の儀礼で高額なお布施では、葬送儀礼も意味がなく
なってしまいます。
葬儀会社経由で頼むことも、本来は良いことではありません。
教義も儀礼も適当な僧侶はたくさんいますから。
ちゃんと考えておくことが大切ですね。

葬送儀礼については、次回お話しします。


光澤寺HPはこちらへ!





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