浄土真宗では救いを説きます。
その救いとは何か?
阿弥陀如来の救い、それは本願になります。
その本願は、まだ仏となる前の菩薩のときに立てた願い。
菩薩、そう法蔵菩薩と言うお立場のときに願いを立てる。
そして精進を重ね、その願いを成就される。
成就した結果、阿弥陀仏・阿弥陀如来という存在になられた。
その願いを浄土真宗では本願と言います。
本願とは、すべての衆生が必ず救われて、極楽という浄土に生まれ
ることができると言うもの。
でもそのすべての衆生とは、私の建てた極楽と言う浄土に生まれた
いと願った人である。
願った人はすべてということで、別に願わない人まで生まれさせると
までは言っておいでではありません。
それはそうだ、生まれたいと願っていない人まで生まれさせるのなら、
余計なお世話だろう。
では誰が救われるのか・・・、というと私。
仏様と私と言う関係になるので、私になる。
でも救われたいと願っていはいけないことになっています。
自分が願うとそれは自力になるから。
本願は他力なので、自力の心がそこに入ってはいけない。
仏教は執着から離れることが基本です。
救われたいと自らが願った瞬間にそれは執着でしかなくなる。
執着になった瞬間に、その願いは苦の元へと転換して行くのです。
願いはいづれ不満足になって行く。
不満足になれば、それは苦となる。
単純明快なことですね。
なので、浄土真宗では願いは阿弥陀さんの側にあるとするのです。
となると執着ではなくなるということ、我がはからいを捨て去ること。
でも本当を言うと、日常の中ではこの執着を捨て去ることはできない
でしょう。
なのでお釈迦様の時代、出家者である僧侶は無所有・無所得・無
生産でなければならないとされた。
つまり自給自足でさえ認めてはいなかった。
それは今の私が痛感していること。
すべての執着を捨て去るには、それしかないと思います。
でもそれって、インドだから生まれたのかなあと思う。
寒いシベリアでは仏教は生まれなかったでしょうね・・・。
と話が逸れましたが。
我がはからいを捨てることがポイントです。
と言われても、さてそれができるでしょうか?
絶対他力の信心とは、その願いに一切の疑惑を持たないことと
言われています。
それでも自力を頼りにする自分と言う存在、そこから完全に解脱
するのです。
自分を捨て去らねばならない・・・。
でもそんな浄土真宗の方々はいらっしゃるでしょうか?
執着バリバリ、本山は僧侶の衣の色さえ階級の様に決めている。
そういうものなのですね、教団運営って大変です。
教団運営は100%執着になります。
なので教団運営と教えとは全くマッチングしないと言う前提です。
日常は執着の世界、つまり教団は日常のこと。
私たちも日常と言う物語の中でしか生きてはいません。
もちろん仏教はこの日常から離れることを目指している教えです。
つまり現世を日常と置き換えたなら、この日常を意識している限り
そこに仏教の目指す道はない。
現法涅槃・・・、現生正定衆とはいかに。
日常と言う意識の輪廻の世界から解脱することが仏教だからです。
救われないといけないとか、救われるはずだとか、という救いを
意識した時点で、その救いは絶対他力ではなくなります。
そこを離れた瞬間が大切ってことですが、そんなことは凡夫の私に
など分かるわけがない。
だからこそ阿弥陀如来の本願はそこに向けてあるのだと・・・。
どうしようもない自分でしかないな・・・、という思い。
まあいえば、「それでいいのですよ!」ということ。
所詮、日常の意識の中から抜け出すことなどできない自分なのだ
から。
つまり悟りの世界、仏の世界と日常と言う迷いの世界、世間がある
ということに気づく。
気づきの先にあるもの・・・。
その先にすべてを捨て去った、つまり何もない世界が広がる。
それが涅槃でしょうか。
何かあると思ったら、それは涅槃ではなくなるかも知れません。
何もないから涅槃なのでしょう。
無生無滅、つまり何もない、それが仏の世界。
因果に縛られないということ。
そこがたどりつく場所になるのでしょうか・・・?
でも、「そんなあなたでは自力ではたどり着けやしませんよ」という。
「すいません、ホンマにすいません」ってとこでしょうか。
「わかっちゃいるけど、やめられません、私」
うらみ・つらみ・ねたみ・ぐち・名誉欲に物欲・さらにはこりもせずに
愛欲の世界へ・・・。
でもそのままやったら、あんたえらいことになりますよ。
だったら、阿弥陀さんの話しでもたまには聞いてみたらどうですか。
せめて生きてるうちに聞いといてください。
そうすれば、少しは自分が見えてくると思います。
そんな感じかなあ・・・。
その救いとは何か?
阿弥陀如来の救い、それは本願になります。
その本願は、まだ仏となる前の菩薩のときに立てた願い。
菩薩、そう法蔵菩薩と言うお立場のときに願いを立てる。
そして精進を重ね、その願いを成就される。
成就した結果、阿弥陀仏・阿弥陀如来という存在になられた。
その願いを浄土真宗では本願と言います。
本願とは、すべての衆生が必ず救われて、極楽という浄土に生まれ
ることができると言うもの。
でもそのすべての衆生とは、私の建てた極楽と言う浄土に生まれた
いと願った人である。
願った人はすべてということで、別に願わない人まで生まれさせると
までは言っておいでではありません。
それはそうだ、生まれたいと願っていない人まで生まれさせるのなら、
余計なお世話だろう。
では誰が救われるのか・・・、というと私。
仏様と私と言う関係になるので、私になる。
でも救われたいと願っていはいけないことになっています。
自分が願うとそれは自力になるから。
本願は他力なので、自力の心がそこに入ってはいけない。
仏教は執着から離れることが基本です。
救われたいと自らが願った瞬間にそれは執着でしかなくなる。
執着になった瞬間に、その願いは苦の元へと転換して行くのです。
願いはいづれ不満足になって行く。
不満足になれば、それは苦となる。
単純明快なことですね。
なので、浄土真宗では願いは阿弥陀さんの側にあるとするのです。
となると執着ではなくなるということ、我がはからいを捨て去ること。
でも本当を言うと、日常の中ではこの執着を捨て去ることはできない
でしょう。
なのでお釈迦様の時代、出家者である僧侶は無所有・無所得・無
生産でなければならないとされた。
つまり自給自足でさえ認めてはいなかった。
それは今の私が痛感していること。
すべての執着を捨て去るには、それしかないと思います。
でもそれって、インドだから生まれたのかなあと思う。
寒いシベリアでは仏教は生まれなかったでしょうね・・・。
と話が逸れましたが。
我がはからいを捨てることがポイントです。
と言われても、さてそれができるでしょうか?
絶対他力の信心とは、その願いに一切の疑惑を持たないことと
言われています。
それでも自力を頼りにする自分と言う存在、そこから完全に解脱
するのです。
自分を捨て去らねばならない・・・。
でもそんな浄土真宗の方々はいらっしゃるでしょうか?
執着バリバリ、本山は僧侶の衣の色さえ階級の様に決めている。
そういうものなのですね、教団運営って大変です。
教団運営は100%執着になります。
なので教団運営と教えとは全くマッチングしないと言う前提です。
日常は執着の世界、つまり教団は日常のこと。
私たちも日常と言う物語の中でしか生きてはいません。
もちろん仏教はこの日常から離れることを目指している教えです。
つまり現世を日常と置き換えたなら、この日常を意識している限り
そこに仏教の目指す道はない。
現法涅槃・・・、現生正定衆とはいかに。
日常と言う意識の輪廻の世界から解脱することが仏教だからです。
救われないといけないとか、救われるはずだとか、という救いを
意識した時点で、その救いは絶対他力ではなくなります。
そこを離れた瞬間が大切ってことですが、そんなことは凡夫の私に
など分かるわけがない。
だからこそ阿弥陀如来の本願はそこに向けてあるのだと・・・。
どうしようもない自分でしかないな・・・、という思い。
まあいえば、「それでいいのですよ!」ということ。
所詮、日常の意識の中から抜け出すことなどできない自分なのだ
から。
つまり悟りの世界、仏の世界と日常と言う迷いの世界、世間がある
ということに気づく。
気づきの先にあるもの・・・。
その先にすべてを捨て去った、つまり何もない世界が広がる。
それが涅槃でしょうか。
何かあると思ったら、それは涅槃ではなくなるかも知れません。
何もないから涅槃なのでしょう。
無生無滅、つまり何もない、それが仏の世界。
因果に縛られないということ。
そこがたどりつく場所になるのでしょうか・・・?
でも、「そんなあなたでは自力ではたどり着けやしませんよ」という。
「すいません、ホンマにすいません」ってとこでしょうか。
「わかっちゃいるけど、やめられません、私」
うらみ・つらみ・ねたみ・ぐち・名誉欲に物欲・さらにはこりもせずに
愛欲の世界へ・・・。
でもそのままやったら、あんたえらいことになりますよ。
だったら、阿弥陀さんの話しでもたまには聞いてみたらどうですか。
せめて生きてるうちに聞いといてください。
そうすれば、少しは自分が見えてくると思います。
そんな感じかなあ・・・。




