宿坊光澤寺日記・・ひとりばなしのつづき。

光澤寺&宿坊光澤寺&やずブータン村。 山里のお寺で繰り広げる「こころのふる里」作りとお寺復興プロジェクトや、宿坊に来られた方々との出会いも語ります。

仏教的生命倫理を考える

救いって執着?

浄土真宗では救いを説きます。

その救いとは何か?

阿弥陀如来の救い、それは本願になります。

その本願は、まだ仏となる前の菩薩のときに立てた願い。

菩薩、そう法蔵菩薩と言うお立場のときに願いを立てる。

そして精進を重ね、その願いを成就される。

成就した結果、阿弥陀仏・阿弥陀如来という存在になられた。

その願いを浄土真宗では本願と言います。

本願とは、すべての衆生が必ず救われて、極楽という浄土に生まれ
ることができると言うもの。

でもそのすべての衆生とは、私の建てた極楽と言う浄土に生まれた
いと願った人である。

願った人はすべてということで、別に願わない人まで生まれさせると
までは言っておいでではありません。

それはそうだ、生まれたいと願っていない人まで生まれさせるのなら、
余計なお世話だろう。

では誰が救われるのか・・・、というと私。

仏様と私と言う関係になるので、私になる。

でも救われたいと願っていはいけないことになっています。

自分が願うとそれは自力になるから。

本願は他力なので、自力の心がそこに入ってはいけない。 

仏教は執着から離れることが基本です。

救われたいと自らが願った瞬間にそれは執着でしかなくなる。

執着になった瞬間に、その願いは苦の元へと転換して行くのです。

願いはいづれ不満足になって行く。

不満足になれば、それは苦となる。

単純明快なことですね。

なので、浄土真宗では願いは阿弥陀さんの側にあるとするのです。

となると執着ではなくなるということ、我がはからいを捨て去ること。

でも本当を言うと、日常の中ではこの執着を捨て去ることはできない
でしょう。

なのでお釈迦様の時代、出家者である僧侶は無所有・無所得・無
生産でなければならないとされた。

つまり自給自足でさえ認めてはいなかった。

それは今の私が痛感していること。

すべての執着を捨て去るには、それしかないと思います。

でもそれって、インドだから生まれたのかなあと思う。

寒いシベリアでは仏教は生まれなかったでしょうね・・・。

と話が逸れましたが。

我がはからいを捨てることがポイントです。

と言われても、さてそれができるでしょうか?

絶対他力の信心とは、その願いに一切の疑惑を持たないことと
言われています。

それでも自力を頼りにする自分と言う存在、そこから完全に解脱
するのです。

自分を捨て去らねばならない・・・。

でもそんな浄土真宗の方々はいらっしゃるでしょうか?

執着バリバリ、本山は僧侶の衣の色さえ階級の様に決めている。

そういうものなのですね、教団運営って大変です。

教団運営は100%執着になります。

なので教団運営と教えとは全くマッチングしないと言う前提です。

日常は執着の世界、つまり教団は日常のこと。

私たちも日常と言う物語の中でしか生きてはいません。

もちろん仏教はこの日常から離れることを目指している教えです。

つまり現世を日常と置き換えたなら、この日常を意識している限り
そこに仏教の目指す道はない。

現法涅槃・・・、現生正定衆とはいかに。

日常と言う意識の輪廻の世界から解脱することが仏教だからです。

救われないといけないとか、救われるはずだとか、という救いを
意識した時点で、その救いは絶対他力ではなくなります。

そこを離れた瞬間が大切ってことですが、そんなことは凡夫の私に
など分かるわけがない。

だからこそ阿弥陀如来の本願はそこに向けてあるのだと・・・。

どうしようもない自分でしかないな・・・、という思い。

まあいえば、「それでいいのですよ!」ということ。

所詮、日常の意識の中から抜け出すことなどできない自分なのだ
から。

つまり悟りの世界、仏の世界と日常と言う迷いの世界、世間がある
ということに気づく。

気づきの先にあるもの・・・。

その先にすべてを捨て去った、つまり何もない世界が広がる。

それが涅槃でしょうか。

何かあると思ったら、それは涅槃ではなくなるかも知れません。

何もないから涅槃なのでしょう。

無生無滅、つまり何もない、それが仏の世界。

因果に縛られないということ。

そこがたどりつく場所になるのでしょうか・・・?

でも、「そんなあなたでは自力ではたどり着けやしませんよ」という。

「すいません、ホンマにすいません」ってとこでしょうか。

「わかっちゃいるけど、やめられません、私」

うらみ・つらみ・ねたみ・ぐち・名誉欲に物欲・さらにはこりもせずに
愛欲の世界へ・・・。

でもそのままやったら、あんたえらいことになりますよ。

だったら、阿弥陀さんの話しでもたまには聞いてみたらどうですか。

せめて生きてるうちに聞いといてください。

そうすれば、少しは自分が見えてくると思います。

そんな感じかなあ・・・。
 

先端医療を仏教的立場から見る・・・鳥取因幡組公開講座

今月の22日(日)、公開講座を開催します。

テーマは「いのちについて考える(生命倫理)」です。

ご講師は、龍谷大学教授で前滋賀医科大学教授であった早島理先生
です。

今回は最先端医療に対しての仏教的見地から死を見つめて行きます。

先生のお話しの中にこんな言葉があります。

あるお子さんが質問した・・・「お祖母ちゃんはなぜ死んだの?」

それに対してこう答えます。

(医者) 「それはね、悪性のガンだったから・・・。」

(釈迦) 「それはね、生まれてきたからだよ・・・。」

仏教者として、お釈迦様の答えから何を感じるだろうか。

仏教は「生・老・病・死」を四苦とし、そして最後の苦は「一切皆苦」です。

その苦を逃れるため、人類はひたすら医療の進化を目指してきた。

最先端医療は、私たちが思いのままにならないいのちを、その手中に
しようと努力を重ねている。

先生の言葉をお借りすれば、一つ解決したと思えば、また出口のない
新たな難問を自ら抱え込むことになる。
すなわち「一切皆苦」であり「さらなる皆苦」の連続なのだ。

たとえば「臓器移植」、「iPS細胞」、「新型出生前診断」など・・・。


12月22日の会場は、鳥取市鹿野町にある光輪寺さんです。

今回は公開講座ですが、案内は浄土真宗本願寺派の寺院とご門徒
さんにしかしておりません。

現代の最先端医療や問題に関しては、従来仏教者の発言が求められ
ることは少なかった。
倫理委員会でもそうです。
宗教者がいのちの問題において発言を求められないのは、やはり寂し
い気がします。
僧侶は死んでからで良いと言った感覚か、もしくは僧侶自身がいのちの
問題に向き合っていなかったからでしょうか。
そんな国は先進国と言えども日本くらいのものではないかと考える。

最先端医療や少子高齢化社会になり、仏教的概念が必要とされるとき
が来るのではないかと考えています。

この様な時代において、仏教的見地から先端医療を見つめて行くこと、
そしてその先にあるいのちを見つめて行くことは非常に重要なことであ
ると考えます。

今回の公開講座は、私が関わってきましたので、少しでも多くの方に
会場に足を運んでもらいたいものです。



無常ということ ・・・ それはいのち輝く。

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花が次々と咲いて行く。

順番を待ちきれないかのように、今年は思いがけず早く咲く花もある。

そして順々に季節が巡って行く。

その花もいつか散って行く、これも花のいのちである。

その花は、また次の花を咲かせるために。

まさに無常である。

無常という言葉を聞くと、何か刹那さとはかなさを感じる。

日本人の死生観の根底あるもの。

そして仏教の根底に流れるもの。

その無常に美を感じるのだ。

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散るからはかない、でもその瞬間を生きるから美しいのだと。

私たちのいのちも、その瞬間を生きる。

この世のいのちは永遠ではない、でもそのいのちを生きるのだ。

永遠でないもの、不変ではないもの。

それがいのち。

そのいのちを生きる、その瞬間を生きる、いのちが輝く。

無常とは、そんなこともある。

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仏教者から見た生命倫理を考える。

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今月から始まる鳥取因幡組の連研のテーマの中に、生命倫理を加え
ました。

日本における生命倫理についての発言は、仏教側や僧侶としての
視点がほとんど語られることはない。
TVや新聞等でも、仏教者がその発言を求められることはない。
もちろん、日本では教以外の宗教者も取り上げられませんが。

キリスト教国においては、宗教者の発言は重視される。
イスラーム諸国においては、宗教学者の発言が最も重いでしょう。

仏教と他の宗教との根本的な立ち位置の違いがあるので、一面から
みると、最もかなという思いもあります。
神という唯一絶対という存在を認めないという立場ですから。

そうすると、生命倫理という立場から、仏教者が語る部分はそれぞれ
の判断にゆだねられるのかも知れません。
特に聖書やコーランと言う、聖典が決まっているものと、数多く残され
ている仏教経典を考えても、難しい点かも知れません。

特に釈尊や、各宗派の宗祖の教えには、民衆の生活を規定する部分
は少ないのです。

現代は、科学や医療が進化し、その倫理面も重要になってきています。
それを仏教的な立場で考えてみることも重要ではないかと思います。
脳死や臓器移植、精子バンクそしてips細胞など、様々な問題がそこに
あります。
そしてターミナルケアや終末医療の問題も。

釈尊は、霊魂に関しては無記とされた。
そんな悟りを開くことに何の関係もない形而上学的な問題を考えること
に意味はないとしたと言われます。

ただ現代の医療は、私たちのいのちに大きく関わってくる問題です。
悟りを開くと言うことに直接関係しなくても、現代の苦に対しての取り
組はなされるべきであると思います。

結論を出さないといけない、と言うことではない。
仏教者としてどの様に取り組み、向かい合うか。
そしてそこには、どの様な背景があるのかを、知っておくことも重要
ではないかと思うのです。
そして、そこには釈尊や親鸞聖人の教えはどうなのかと言うこと。

一般論的なものではないもの、それを求めて行きます。
もちろん、世間と違うものを求めると言うことではありません。
ただ従来の視点とは違った面からとらえて行きたいと思います。

今回は、12月に浄土真宗においては、その第一人者である龍谷大学
の早島先生をお招きいたします。

それまでに、鳥取因幡組としても、私個人としても、この問題を深く探って
行きたいと思います。


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いのちを考える・・・仏教的生命倫理1.序。

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現在、西本願寺ではビハーラ活動が活発に行われています。

これは、現代社会に応えられる寺院や僧侶、そして浄土真宗そのもの
を問うて行く活動です。
実際に、西本願寺は、特別養護老人施設「ビハーラ本願寺」を開設。
また、「あそーかクリニック」も併設し、実践面でも取り組んでいます。

現在は、いのちの問題がいろんなテーマで論議される。
医療・ターミナルケア・延命治療・緩和ケア・脳死・臓器移植など、たく
さんの問題がある。
そして、介護のことも重要なテーマです。

これからの僧侶や寺院は、そのことに取り組んで行かなくてはならない。
直接的ではなくても、その背景や自分自身のスタンスをしっかりと持っ
ていなければ、いのちの問題について話すことはできない。

現代社会の中で、その様な要求は高まり、宗教的そして浄土真宗的な
精神や背景を理解しておくことが求められる。

社会的に、現在は僧侶はこれらの議論から取り残されている。
誰もコメントしない、マスコミも僧侶にコメントを求めない。

でも仏教は、そのテーマに最初から取り組んできたはずではなかったか。
でも日本では宗派によっても、そのスタンスは違う。

これからは、仏教的に、そして浄土真宗的に、それらの問題を考えて
行きたいと思います。


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