宿坊光澤寺日記・・ひとりばなしのつづき。

光澤寺&宿坊光澤寺&やずブータン村。 山里のお寺で繰り広げる「こころのふる里」作りとお寺復興プロジェクトや、宿坊に来られた方々との出会いも語ります。

法話

福岡県糸島市のお寺さんに参ります!

福岡県糸島市、といえば移住したい町で人気が高いのは有名です。

玄界灘が広がり温暖な気候、そしてのどかな風景。
さらに大都市である博多駅から地下鉄で一本で行けるという利便性。
もちろん福岡県という元々人気が高いエリアでもある。

私も会社員時代は転勤族だったが、東京から転勤したい街としておそらく
人気NO.1だった。
転勤した後、さらに転勤になったとき、家族を博多に残して単身赴任する
と言うケースも多い。

ということはさておき、その糸島市のお寺さんに法話に参ります!

私としても法話では九州初上陸です。

日程は、6月7日と8日。
7日は3席、8日は2席の合計5席となります。
7日は午後2時~、8日は午前11時~、始まります。

私の法話のテーマは、「いのちと心」です。
常に今を生きることを中心に、仏教と浄土真宗的な立場からお話しています。

もしお近くでしたら、どうぞお参り下さい。
お寺さんは、浄土真宗本願寺派の法林寺さんで、「永代経法要」です。

といっても、私も初めてお参りさせていただくお寺さんなので、事情はよく
分からないのです。

おそらくどなたでもお参り頂けると思いますが、そうではないかも知れません。




今日の体験は婦人クラブの法話、興味を引きつける法話とは?

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花冷えどころではない、今日は寒の戻りだった。
まさに真冬なみの気温、山は雪に覆われていた。

4月だというのに大変だ、桜の花見も小休止。

そんな日、宿坊は熱かった!
鳥取市内から、婦人クラブの皆さんが宿坊に来られたのです。

お昼前に到着、昼食はイタリアン精進料理。

昼食の後は本堂で法話をご希望。
今日は時間に余裕があったので、1時間半くらい話せそう。
宿坊での法話は、お客様の希望に合わせた時間になります。
いつもは1時間くらいの希望が多い。

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プロジェクターも使いますが、実はほとんど見ないで話します。
見ながらの話だと、言葉に力がなくなって研修のようになってしまいます。
自分の言葉でしっかりと話さないと、みんな真剣に話を聞いてくれません。
なるべく身近な話をすること、さらには自分と重ね合わせられること。

これが話に引きつけるポイントですね。

特にご婦人の場合、興味のある話だととても反応が良いのです。
なので皆さんと一緒に話をしてる感覚が必要です。
それと世代に合わせた話をすることも大事、自分が経験したことなら、一瞬で
その時に戻れるのです。
もちろん僕も一緒にその時に戻れたなら、それが楽しい。

今日はちょっと長めの1時間半。
寒い中でしたが、みなさんと一緒に盛り上がりました。
とっても乗りも良くて、楽しい時間。
もちろん本堂納骨堂やマンダラも見学していただきました。

みなさんとても元気にお帰りになられていました。
きっと今度はまた女子会で来られることでしょう!


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名古屋の林高寺さんの報恩講で法話を・・・苦しみや悲しみは今の心にある!

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宿坊のお客様を郡家駅まで送る、私たちも一緒に同じ特急列車に乗るのだ。

浜松までお帰りになられる、私たちは名古屋だ。
1月15日、名古屋のお寺さんの報恩講の法座に呼ばれていました。
昨年もお勤めさせていただき二年目となります。

郡家駅~姫路駅まで特急列車。
姫路で新幹線に乗り換えて名古屋まで、意外と早く乗り換え時間も含めて
3時間で到着します。
郡家駅~姫路駅までよりも、姫路駅~名古屋駅までの方が早い。

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名古屋のホテルは駅の中にあるホテル、とても便利で見晴らしがいい。
とてもリッチな気分になれます。

でも次の日の法座の準備を、ホテルのデスクで。
これもまた雰囲気があって、身持ちが良い。
旅の楽しみでもある。

ただ、名古屋めしは外せない。
時間を見て名古屋めしを食べに出かける、それはまた次の回で報告します。

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報恩講当日、朝食を済ませて8時半にはお寺さんに行く。
お寺は浄土真宗大谷派の林高寺様。

私たちがお寺に到着すると、お参りの方々が次々に来られていた。
何となく気分が盛り上がる。

最初にお勤めがあって、10時から法座が始まる。

私の法話スタイルは、浄土真宗の法話的ではないでしょう。
現代社会の問題を分かりやすくお話しして行きます。
そして笑いあり涙ありです。
さらには、“気づき”も必要だ。
気づきがなければ、苦しみの心に届かないから。

昨年もお参りされていた方も多いでしょう。

もちろん法話に満足と言うことはない。
そして本音は聞きようがない、だから常に真剣にお話しする。

今年も良いご縁をいただきました。
心より感謝しています。

さて来年もお呼びいただけたとしたら、またこれから一年間の思いをつなげ
て行く。
今の心を話さないと、現代の法話には力がないだろう。
苦しみそして悲しみは、常に今の心の中にあるのだから。


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逢坂地区公民館の皆さんへの法話で感じたこと!

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鳥取市から逢坂地区公民館の皆さんがお越しになられました。

今日の日帰り体験は、時間的に余裕がありました。
それで昼食までの時間、ゆっくりとお話しさせていただきました。

ゆっくりと、と思っていたら本当に話が長くなって約100分間でした。
皆さんもちょっとお疲れだったかな?

でも最後の方になるにつれて、真剣に聞いていただいていた。
話しを聞いていただくだけでも、ありがたいことです。

今日は仏教講座と瞑想といった感じでもあったので、お釈迦様のことを
いろいろお話ししてみました。

「四苦八苦」から「天上天下唯我独尊」、そしてありのままに見ること。
そこから心のことと、幸せについてお話をする。

もっと話の内容と話し方を学ばなければと思う。

宿坊の日帰り体験で、団体さんやグループの方に法話をする機会はとても
多いです。
もしかすると年間50回以上になるかも知れない。
さらには講演会に呼んでいただくことも多い。

もちろん法事や通夜のときも必ず法話はします。
ただ法事では長くても15分以内と決めているが、日帰り体験や講演では、
60分~90分程度はお話し致します。

これからも、もっと内容を深く。
そして分かりやすく面白く、さらには楽しく。
宿坊に行けば法話が聞ける、ということを楽しみにして欲しいのです。
連続して皆さんが来られるということは、口コミで伝えて下さる方々が
いらっしゃるからだと思っています。

だからこそ、もっともっとレベルを上げなければならない。
そう感じます。

「光澤寺に行って、住職の法話を聞きたい!」

そう思っていただくことが、やはりこれからのお寺には大切なことだろう。


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立正佼成会創立80周年記念・・・平井知事が受けてた!

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今日は知人からのお誘いを受け、立正佼成会創立80周年記念講演会に
行って来ました。

来賓という扱いでしたので、駐車場も確保してあって助かりました。
創立80周年というと、戦時中くらいになるのだろう。
新宗教というカテゴリーの中では、古い方になる。

講演は、北法相宗大本山清水寺貫首主の森清範師であった。
年末の今年の漢字で、筆で書いている人と言った方が分かりやすいだろう。
さすがに会場は、約800席がほぼ満席でした。

講演については、さすがに話なれているといった感じがしました。
特に難しい話しはなく、聴衆も笑いながら聴かれていました。
講演会は有名な方で、難しくなく、気軽に笑いながら聞ける。
それが一番良いのかも知れません。
僧侶の法話と言うよりも、落語的な語りといった感じでしょうか。
笑いを取る方が主体だったと思います。
そう言った点も、笑いを取るツボを得ていて、落語的な感じを余計に受け
たのかも知れません。

講演後は来賓代表で平井鳥取県知事が祝辞を述べられた。
平井知事としても、笑いを取る知事として有名なので、負けられない所も
あるでしょう。
「感謝するとき、関西ではおおきにと良く言いますが、鳥取は何と言いま
すか?サンキューといいますか?」
といった貫主の内容を引いて、「鳥取ではサンキューとは言いませんが、
サキューは言います」と話していました。
今日の話の中で、これが一番受けていました。

やっぱり、こんな講演などでは、ベタな方が受けると思います。
適当に自虐を入れながら、ベタな笑いを取るのが良いのでしょう。

私としては、普段は講演会や僧侶の法話を聞くことは滅多にありません。
僧侶になる前は、講演会にはよく通いました。

今は、人の話しを聞いても面白いと思わないので、私自身の講演でない
限り行くことはなくなりました。

今回はご縁をいただいたので、行って見ましたが、たまには他の人の話し
を聞くのも悪くないですね。

ただ今日の講演では、仏教的な深みはなかったですが。
法座ではなく講演会なので、皆さんが笑って元気になる方が良いですね。

今日はお招きいただき感謝しております。
たまには有名なお坊さんの話しを聞くのも良いものです。
心地良い時間を過すことができました。

私ももっと法話にはヴァリエーションを持った方が良いとも感じました。
これからは、もっと他の人の話しを聞きに行かないと。

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でも、たくさんの方を集める力はありますね、スタッフの方も熱心に対応
されていました。

鳥取にある伝統仏教で、こんな会が開けるだろうかと考えてもみました。

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米子から宿坊に・・・40分の法話に賭ける!

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今日は米子市から、女性グループ20名が法話を聞きに宿坊にお越し
いただきました。

お話しをさせていただく時間は40分、わざわざ米子からこのお寺まで
来ていただくのです。
もちろんココだけではないですが、それでも山の中のお寺に来られた。
40分という時間の中で、どこまで皆さんに話ができるか。

パワーポイントも写真を選んだりで、興味を持っていただく。
そしてポイントとなる言葉を選び、あとはそこから話しを広げて行く。
ホワイトボードも使いながら。

そして参加者が8名以上だと、私はマイクを使っています。
その方が無理なく聞こえますから。
せっかくお越しいただいたのに、よく聞けなかったでは申し訳ないです。

本堂でお話しするときは、プロジェクターとホワイトボード、そしてマ
イクを使います。
その方が退屈しないし興味を持ってもらえます。
さらには分かりやすいし、メモも取りやすい。
法話って意外とメモを取られる方がいらっしゃいます。

従来の布教スタイルにこだわる必要はない。
でなければ仏教に興味のない方(世の中のほとんどの方がそうですが)
に話しを聞いてもらうのです。
さらには話しに引き込まなくてはいけません。

お念仏がどうだとか、阿弥陀様の救いがどうだとか、そんなことを話し
ても意味が無いのです。
そこにいる方の心に話しが届かなければ意味が無い。
それはお釈迦様の教えを説くスタイルもそう、その人に真理が届くよう
に話しをされるのです。

「いのち」と「こころ」のことをしっかりと話すことができるなら、その
話しは、ちゃんと法話になり仏教の教えになり阿弥陀様の願いに通じる
のです。

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お帰りの際に記念写真をお撮りしました。
全員ではなかったのですが、皆さんの笑顔が素敵ですね。

お帰りのときの笑顔が、私の心の栄養って感じです。

喜んで帰られたかなと思えるからです。

本当に今日は米子からお越しいただき、ありがとうございました。



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潮音寺様の法座で思うこと・・・

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いきなりこんな写真ですいません。

これは先日の潮音寺様での永代経法要、説教のときの写真です。
普段は自分を撮ることはないのですが、でも今回は写真を撮って下さ
った方がいらっしゃったので、ちょっと載せてみました。

法話も読経も一期一会、すべてがそのときに全力を尽くす。
それしか私にはできません。

ただ説教の内容は、浄土真宗の独特のものとはちょっと違うと思います。
私はそのような法話はできない、ただ、どうお参りの方の心に届くかを
いつも考えています。

お寺の法座のスタイルも、これからは一気に様変わりするでしょう。
今までのような法話では人が集まらない、そう言いながらも変え様とし
ない。
それは何故かというと、誰もどうしたらよいのか分からないから。
分からないから従来のものを変えようとはしない。
それが伝統を守るとかというお寺特有の考え方になっている。

今回の法座には、潮音寺のご門徒さんだけではなく、部外の方々も
たくさんいらっしゃっていたのが印象的でした。
ご住職がお声掛けをされていたのでしょう、休憩の時間はその方々
が名刺交換をされて、さながら異業種交流会のようでしたと言われ
ていた。

常に新しいスタイルの法話を考えています。
現代社会の人たちにダイレクトに届く法話が必要、そう思っている。

皆さんは熱心に聞いて下さったと感じた。
もちろん本当のところはよく分かりませんが。
ただ肌で感じるものはあります。

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こんなに自分の写真があるのは珍しいです。
自分ってこんな風に話してるんだなと初めて分かった。

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聞いておられる方が興味を持って聞く。
そして何かに気づいていただける。
退屈しない法話。

そんなことを常に考えている。

写真はちょっと多すぎたでしょうか。
普段は自撮りしないので、たまにちょっと多く載せてみました。





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葬儀の法話で何を話すか・・・2

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葬儀といったとき、たとえば通夜と葬儀式と還骨・初七日の三度法話
をする機会があります。

基本的のその三度に法話をします。
ただそれぞれに時間があるので、時間はそれぞれ決めています。

先ず通夜のときは10分まで、葬儀式は3分、還骨・初七日は5分
程度となります。

一番はやはり通夜勤行となる。
最近は通夜のみお参りされる方も多いし、亡くなられてから最初の
法話となるので、いのちのことを話して行きます。
あまり故人のことについては話さない、それが良いばかりとは言え
ないからだ。

死ということをしっかりと見つめて行くことを中心にお話しする。
ただ話しても10分まで、その10分に生きてきた意味を話す。
それ以上になると厳しい、良い話しでも長いとなれば、良い話しで
なくなってしまいます。
南無阿弥陀仏の意味を、そこにどれだけ思いを込められるかだ。

葬儀式のときは3分までです。
私は、「あの世はあるのか?」という問いをすることが多い。
前提は、誰も分からないが、あるということの意味を説きます。

そして還骨と初七日のときの法話です。
この頃はご遺族も相当疲れている。
なので興味深い話しを手短にするということを心がける。

このときは、御文章で「白骨章」も称えます。
仏となる意味をしっかりと話す、そしていのちの往く場所と法名
の意味を説いて行きます。
浄土真宗なので、「本願海」と法名のつながりを話す。
そのときに名付けた法名の意味を説くこともある。

葬儀のときの法話が一番心に残ることが多い。
さらには大切な方を亡くした悲しみが、この法話で救われることも
あるのです。
私はそんな場面を何度も見てきました。

とにかく僧侶の側の自分勝手な思いを話さないことが大切だ。
教えも基づき、但し教えの言葉はできる限り使わないことです。
普段は、仏法を聞いていない人がほとんどだから。

そして注意することは、あの世や極楽浄土の話しをしていても、今
生きるいのちを中心に話すこと。
あまり次のいのちを希望溢れるものにしてはいけない。

故人のことを慮って、良い話しばかりすると、今生きるという思い
が薄くなる。
ときには若い人が後を追ってしまうということもあったという話し
も聞きます。

とにかく葬儀は読経の力と法話の思いが重要です。
この二つがなければ葬儀をする意味は無い。

だからそのときそのときが常に真剣勝負である。

この間は、常に意識を研ぎ澄ます。
それは無理にではなく、自然にそうなること。


これからは僧侶も選ばれる時代になるのだから・・・。



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名古屋市の林高寺さんの「報恩講法要」でお話しします・・・新スタイルの法話を考える。

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名古屋市にある真宗大谷派の寺院である林高寺さんから機関誌が届き
ました。

林高寺さんの副住職は宿坊に二度もお越しになられ、この機関誌で宿坊
をご紹介していただきました。
さらに私も4回に渡って寄稿させていただいたことがあります。

副住職は私の宿坊の活動に大変興味を持っていただいておりますが、
その思いはとても熱く私が及ぶところではありません。
初めてお会いしたとき、まだ二十代と若いのにすごいなと感じました。

そして1月15日に林高寺さんでお勤めされる「報恩講法要」にお招き
いただき話しをするご縁をいただきました。
東海地方に行ってお話しするのは初めての機会です。

宿坊でのことや、宿坊体験で行っている「心の授業」をお話しさせて
いただきます。
過疎のお寺のこと、宿坊を始めたこと、そこで出会った多くの方々の
こと。
そしてそこから出来上がった「心の授業」。

私の一つの試みとして、浄土真宗らしい有り難い法話というスタイルを
取らない法話をしています。
それは、私自身が「ありがたい」「感謝」が妙に耳に付く法話が好きで
ないということもあります。
さらには宿坊に来られる日帰り体験の方の95%が他宗派の方という
事情も相まって、そんなスタイルになっています。

ただこれからの法話のスタイルはそうなって行くだろうとも考えている。
従来の浄土真宗の寺院の法座のような話しは、いずれなくなって行く。
ではそのとき、どんな法話が求められるのか・・・。

それが私の向いている方向です。

若い人は、仏教の本質や体験には興味があるが、実は宗派の教義には
あまり目が向いていません。
これは家制度の中で、親から子へ、そして孫へと受け継がれてきたもの
だから、家制度が崩壊した現代では、親鸞聖人に興味のない浄土真宗の
門徒が急激に増えている。
ひいては本山への興味もあまりないだろう。

そんな時代に、教義に頼った法話では誰にも通用しなくなるだろう。

だから私は、仏教や浄土真宗が何のために説かれているのかを中心に
考えている。
すなわち「いのち」と「こころ」のことだ。
それ以外に仏教も浄土真宗の教えもない。

四苦八苦、すなわち「いのち」と「こころ」を救うことが目的な教え
なのです。
他力のとらえ方もそこから始まります。

他力が前提ではありません、他力とは何を意味するのかを説くのです。

林高寺さんの「報恩講法要」は、1月15日の9時から始まります。
私の法話は10時~11時30分を予定しております。
11時30分からの第二法要では樂も入るそうです。

名古屋市周辺の方は、ぜひ林高寺さんに足を運ばれてはいかがでしょ
うか。

林高寺 名古屋市中村区岩塚町新屋敷23


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葬儀を執り行う・・・読経と作法と法話、僧侶の本分。

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今日は葬儀だった。

一昨日のこと、県外のお寺さんから電話が入った。

そのお寺のご門徒さんのご家族が鳥取にいらっしゃるとのこと。
その方がもう長くないとのこと、お寺さんを探しているのだが親戚の方は鳥取
を知らないので、どうすれば良いかという相談でした。

「私でよろしければお参りさせていただきます」、とお応えした。

私のお寺は郡部にあるので、葬儀社から葬儀の依頼があることは、今までに
一度もありません。

あるとすれば、檀家さんの親戚だったり知り合いだったりということです。

今回も葬儀社ではなくお寺さんからの依頼です。
たまたまネットでこのお寺を知ったので、ご連絡をいただいたのです。
こんなこともあるのだなと・・・、これもご縁です。

そのお寺さんのことは直接は知りません、でも困っておられるだろうと思い、連絡
があればお参りさせていただくことにしました。

そして昨日が通夜で今日が葬儀、スケジュールは対応できるものでした。

いつものことですが、すべてに全力を尽くす。

葬儀でご遺族に寄り添うと言う話しをする僧侶は多い。
でも根本的に勘違いしている人も多いのだ。

寄り添うとは、僧侶が全力で儀式を執り行うということなのです。
派手でなくても参列者が多くなくても、すべてに全力を尽くす。

読経は下手ではいけません、やはり読経が故人を癒やしご遺族の心を癒やす
のだから。
そして作法や所作や衣体もしっかりとしていることが大切だ。
その上に、心は常に故人とともにあり、ご遺族を優しさで包み込むことだ。

お経は意味が分からないと言うけど、やはり仏様と故人とご遺族の心にはしっ
かりと届きます。
そこが中途半端だと、本当はもう葬儀にはなりません。
いくら三奉請を唱えても、仏様はいらっしゃらないのです。

そして、私は葬儀のときは、必ず剃髪をします。
いくらとやかく言っても、僧侶は剃髪しているに限ります。
なので浄土真宗の葬儀は中途半端に感じることが多い。
さらには読経が下手な僧侶も多く、作法もケジメが付いていないことが多い。
これは修行がないので、見よう見まねでやっているからです。

儀式を執り行うのが僧侶の役割であるなら、これは最低限必要なことです。
苦手なら精一杯練習しないと、と思います。

優しく包み込むのは、やはり法話が一番大切です。
今回は、通夜と葬儀と還骨のとき三回法話をしました。

それぞれに、12分・3分・10分です。
この時間は重要です、悲しみと疲れなど、様々な状況があるから。
通夜は最初の法話であるため、その入りとしてしっかりと話す。
葬儀は、一番大切なことをコンパクトに。
還骨法要は、疲れておられるが、最期の締めでもある。

それぞれの法話に流れがあることも大切です。

今回は、往生浄土とその意味、最後にそこから法名のことをお話しする。

法名には釋が付きます。
この釋の意味をしっかりと話せる僧侶は少ない。
ただ釈尊の仏弟子となって・・・、レベルでしかないのだ。
それではこの釋の意味にならないのです。
みなさん結構適当なのです。

今回の法名は親鸞聖人の和讃、「いちいちの花」からいただいていることを
お話しした。

「いのち」
「願い・・・本願」
「仏となる意味」
「南無阿弥陀仏」
「往還二回向」
「極楽浄土の存在」
「釋とは」
「和讃・・・いちいちの花、法名のこと」

以上が今回の法話の流れです。
もちろん南無阿弥陀仏以外は仏教用語は使いません。

内容は覚えておられないでしょう。
でもそのとき感じられたら良いのだと思っています。
そしてそのとき思いを受け止められたら。

故人には生前お会いしたことはない。
ご遺族の方々ともお会いしたことはない、そしてこれからももうお会いする
ことはないかも知れません。

でもこのときに思いが伝われば良い。
そして十分に伝わるのです。

私は布教使資格を持っている。
持っているから法話ができる訳ではないが、取得するにはそれなりのハー
ドルがあります。
少なくともそれはクリアしているし、そこからは自分自身の問題なのだと思い
ます。

葬儀の重要さは、しっかりと見送ること、そして心にケジメをつけられること。
そして故人に思いを伝えること。

下手な読経では、それは伝わらないのです。
仏様が悲しんでいる。

しっかりとした読経には、仏様がそこにいらっしゃるのです。
下手な読経には、仏様に届きません。

そんなことも分からなくて読経している僧侶は多い。

グリーフケアとよく言われるが、その前に僧侶の本分を丁寧に全力で務める。
もちろん自己満足にならないことが一番大切。

実はそんな僧侶には滅多にお目かかったことはないのです。

そして、視点がずれたところの話題に終始している。
特に若い僧侶の方は、僧侶の本分を徹底的に追求することだ。
そこからしか本当の見送りは見えてこない。

表面だけに囚われていると、方向性を間違えます。

もちろん、いつも思い通りになることはない。
というよりもそうでないことの方が多いかも知れません。

ご遺族の気持ちも様々ですから。

でも僧侶として葬儀を執り行う以上、そこに思いがあるのです。


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50回忌のご縁が二つ・・・それぞれの思いがそこにある。

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年忌法要をいつまで勤めるのかということは、特に決まりまありません。

要はお寺の習慣であったり、それぞれの家の習慣であったりします。

私のお寺では、50回忌まではお勤めするようにしています。
それは今までのお寺の習慣だからであって、宗派の決まりがあるわけでは
ない。

今日の土曜日。
お寺で二件の法事がありました、そのどちらも50回忌の法要です。

どちらの家も、もう誰もいらっしゃらない。
娘さんが県外から戻って来られ、お父さんの五十回忌をお勤めされる。

もうお一人は、施設に入っておられるのだが、娘の五十回忌をお勤めされる。
姉妹が施設から同伴されて、わざわざお寺までお参りに来られた。

それぞれに、それぞれの思いがそこにあるでしょう。

どちらもお久しぶりにお会いした方々。
僕がまだ二十歳前後だった頃にお会いして以来かも知れません。

時代は大きく変わったけれど、過ぎ去った時間はあっという間だった。
大きく変わった社会も、自分にとってはそれほど変わっていない様にさえ感じる。

お経を唱え、法話をし、詩を歌う。
そして終わってからは、思い出話をお伺いする。

法話は、「今の私の心に沁みました」と仰られた。

私の法話は、専門用語はほとんど使いません。
しいてあげれば、南無阿弥陀仏とか慈悲といった言葉くらいです。

でも仏法は専門用語を一切使わなくてもできるものです。

お釈迦様や親鸞聖人は、弟子に教えを伝えるときと、一般の民衆に話すとき
では違うでしょう。

それは当たり前のこと、相手に伝わらなければ、教えを説いたことにはならない
のだから・・・。

仏教では方便を使います。

この方便が、法話の一番重要なポイントでしょう。

私は方便を使いこなすことはできません、でもそのことは大切にしています。
宿坊に来られる方々、日帰り体験では数十名の団体さんが来られます。

宗派は様々、浄土真宗の方は少ないですね。
それは鳥取県は浄土真宗の方が少ない県ですから、必然的にそうなります。
その方々に教義をお話ししても通じません、もちろん専門用語も。

なのでどなたにでも分かる様に話しをします。
でもそれを続けていると、教義や専門用語を一切使う必要がないことが分か
ります。

今日の五十回忌の二件の法話もそうでした。

それだからこそ、南無阿弥陀仏や慈悲の意味をしっかりと受け止めることが
出来るのだと思います。

今日の二件の法事は、それぞれに心に感じることのできた法事でした。


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女性三人の日帰り体験、そこでの法話のことを少し・・・。

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女性の五十代から六十代って、いろいろ大変な時期になる。
だけど楽しい大切なときでもあると思います。

今日はそんな三人の女性が宿坊に来られました。

この宿坊は、女性のグループもたくさん訪れます。

気の置けない友だちだったり女子会だったり。
お一人の日帰り体験も、ちょくちょく来られる。

やっぱり女性ってお寺が似合うなと思う。

でもお話しを聞くと、お寺にそれほど行くわけではない。
せいぜい法事くらい・・・。

でもこうして何もないお寺に来られるのです。

午前中は法話をご希望でした。

法話はいつもそのとき考えます。
ご年齢や性別や人数、そしてその方々の印象に合わせる。

話しながらも反応も気にしながら。

表情を変えない方もいらっしゃいますが、その方がたまに笑うと、この辺かな
と思いながら話題を投げかけて行きます。

人数が少ないときは、こちらからも問いかけながら話します。
そうすると、距離感が縮まってきます。

もちろん話題も、皆さんが知っているようなことを例に挙げることも大切。

今日は、小林麻央さん、そして軽井沢のバス事故、さらにスティーブ・ジョブス
さんでした。

いつもテーマの中心は、「いのちとこころ」。
仏教のテーマは、これしかないのだから。

そして生きる意味と、幸せと苦しみの方程式のことなどです。

今日の三人さんも、話の途中に笑われたり、真剣に聞き入られたり。
そんな感じでした。


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美保南地区公民館の皆さまと・・・法話で思うこと。

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3月18日、宿坊の日帰り体験。

鳥取市から美保南地区公民館の皆さんがお越しになられました。
鳥取から来られるので、ここまでの交通手段が問題になります。

市の福祉バスや民間のバスやジャンボタクシーを手配して来られます。
なので募集の人数も定員になるようです。

今日は18名の皆さん。

午前中は、「こころソリューション」。
今年から宿坊で始め様と思っている体験。

まだこれからの体験ですが、実は以前の体験や法話で話してきたことを、
一つの形にしたもの。

ですから、何も新しいものではありません。

ただ、この体験は積み上げてきたものですから、日々進化しているのも事実。
同じようで同じものはないですね。

予定時間を10分ほどオーバー。

一回として同じ話はないので、その時のお客さんの状況や表情で内容は変わ
ってくる。

こちらとしても、一回一回が真剣勝負のような感じ。
上手くいった様に感じることもあれば、もう一つだった様に思う時もある。

でも一年前や二年前とは違っているのは確か。

人にとって同じ時間というものはないのです。

であれば、法話や体験も上手くいったからと言って、同じところにとどまってい
てはならないと思う。

同じ話を磨き上げる落語とは根本的に違うと思うところ。
法話を磨き上げるというのは、私はそれは違うのではないかと思うのです。

だから他の人の法話は聞く意味がないし、聞いても気づきはない。
だから聞かないことにしています。

それならお釈迦さまや親鸞聖人と向き合っている方がいいに決まっています。


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四十九日と年頭法要

今日は、四十九日をお勤めした。

そして午後は、その村の年頭法要。

先祖を大切にしてこられたお婆ちゃん。

お孫さんは、お婆ちゃんのこと好きだったんだなと思った。

お経を唱え、法話をする。

法事はいつもそうです。

でも唱えるお経は同じでも、そのときそのときで、お経は全部違う
のです。

法話もそう、僕はいつもそのときそのとき、行き当たりばったり。
事前に用意した法話をすることはありません。

なぜなら、そのときの法事に来られている方。
その時の天候や空気感によってイメージが変わるから。

同じような話しになることは多いのですが、基本的には全部違う。

四十九日の法要の後の年頭法要。

同じ方もお参りをされていた。

法話なので内容が重なることは当然ある。
でも同じ法話ではない。

なぜなら台本がないから。

そのときの感覚を大切にする。

年頭法要は毎年続いている。

年配の方が多いのですが、やはりこれからも続いてほしいと思います。

今日はお寺のこれからのことも話した。
お寺を次の世代に引き継ぐために・・・。

皆が同じ気持ちになることはないかも知れない。

でも誰か一人でもその思いを持ってくれていたら良い。
もしかして誰も思っていなかったとしても、私が思っていれば、その思い
はまたいつか誰かに伝わるかも知れない。

そして自分にできることでいい。

それでいいんだなと・・・。


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しあわせについて、そして生きる意味。

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今日は、地元八頭町の安部地区公民館で講演をさせていただいた。

町を元気にする活動の一環で、公民館の行事の中の1時間の枠を頂いた。

私の今日のテーマは、「ふる里に、いのちを吹き込め!」でした。

全体的には過疎化と高齢化が進む地域で、みなが楽しく元気に暮らして
行こうと言った感じです。

今回は、町おこしを中心に仏教やいのち、そして生きる意味や幸せについて
お話ししました。

高齢者の方が中心で、約30名の皆さん。
最初は僧侶の格好を見られて、何でお坊さんが来るの?
って感じでもありましたが、話しが始まると熱心に耳を傾けてくれました。

どんな講演であっても、私は話の中に仏教的なことや、いのちや生きる意味、
幸せとは、といった内容も織り交ぜて行きます。

テーマは違っても、人にとって大切なテーマだからです。

昨年秋に開催した、「第二回やずブータン村まつり」。
テーマは、「しあわせについて語ろう!」でした。

そのときは、おぼろげだったことが、この一年様々な角度から見たり考えたり
することによって、その輪郭が大分はっきりしてきました。

生きる意味とかいのちについてもそうです。

難しかったり分からなかったりすること、それを自分自身のテーマにすることで
その意味が徐々に見えて来るのです。

一年くらい考えていると、自分でもこういうことだなと、感じることができます。

お話しをさせていただくとき、その場には高齢者の方が多い。
もちろん私よりも年齢を重ね、経験も豊富な方たちである。

その方たちに、ありきたりなことや偉そうな話をしても通じない。

自分が感じたこと、考えてきたことでなければ駄目である。
借りた言葉では、言葉に力が足りません。

今日お話しさせていただきながら、そんなことを感じたりしていました。

もちろん、これは法話についてもいえること。

今年は、講演依頼も、企業向けから法話、町おこしや人権、いのちや心のこと
まで、多岐に渡りました。

様々な場所でお話しをさせていただく機会を得たことで、私自身がいろいろ感
じさせていただく機会を与えていただいた。

それはとても有り難いことでした。

講演や法話は、そのときそのときが大切です。
二度目ということがない。

そのことを肝に銘じて、来年もさらにテーマを積み重ねて行きたいですね。


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六七日に思う

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今日の夜、六七日にお参りした。

七日ごとのお参り、長かった様に感じるけど、終わってみると早いもの。
やはり丁寧にお勤めすることが大切だと思う。

別れのことは惜しんだり中途半端にすると、後々心に残ってしまうことがあり
ます。

心にはけじめをつけて行くことが大切です。

人が亡くなって、次の生を受けるまで中陰と言います。
その間が四十九日間と言うわけです。

誰も亡くなった人に聞く訳にはいかないので、本当のところは分からない。
ただ、四十九日という考え方は日本だけではなく、仏教全般に共通するもの
だと言う。
もちろんその考え方には、それぞれ違いがあると思いますが。
日本でさえ宗派間でかなり違いがあります。

よく中陰の間、つまり此岸から彼岸へ行く途中に三途の川があると言う話しが
ある。

私はこの七日毎のお参りのときの法話では、その間を旅に譬えることが多い。
阿弥陀様の願いによって仏となることが約束されていても、やはり皆で見送り
たいものです。

六七日だと、写真の様にもう雲を突き抜けて虚空へと到達してそうです。

やはり、川を渡ると言うよりも雲を突き抜けるって感じかなと思ったり。

迷いの雲を突き抜けると、そこはすでに彼岸である。

もうそろそろですね!

来週は四十九日、満中陰です。


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「生きる!」・・・ってこと。

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宿坊には、日帰り体験に多くのグループや団体の方が来られます。
毎月5~10くらいのグループや団体の方が来られるだろうか。

写経などの体験をご希望されるときもあるし、法話や地域活性化、より楽しく
生きるには、と言った個別のテーマをご希望されるときもあります。

最近は、そんないろんな話しを織り交ぜてお話しさせていただくこともあります。

今日のご要望は、「法話」でした。
法話である以上、仏教に基づいた話しをしなくてはなりません。
でも来られる方々の宗派はそれぞれに違います。

逆に鳥取の地元からお越しになられる方々は、浄土真宗ではない方々が
ほとんどなのです。
つまり浄土真宗的なありがたい話をしてもあまり意味がないというか、でき
ませんね。
これは悩みや苦しみを持って宿坊に来られた方に対してもそうですね。
浄土真宗的なありがたい法話は実践では全く役に立ちません。
もちろん教義の背景はしっかりと押さえておかなくてはなりませんが・・・。

それで私は、宿坊でのお話しや実際にお話しを聞いたことなどから、仏教的
なお話しへとつなげて行くことが多いのです。

まして仏教のことはお話ししますが、仏教の専門用語を使うことはほとんど
ありません。

ただ共通認識の「空」についてと、「縁起」については分りやすくお話しします。

法話をご希望ということで選んだ今日のテーマは「生きる!」です。

そのテーマに合わせて、パワーポイントで資料を作り準備をします。
資料といっても文章は書きません。

テーマに基づいた言葉だけ、そして写真を使います。
文章にすると、それを読むことに気を取られ、イメージが湧かなくなってしま
う。
それでは法話ではなく研修になってしまいます。

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「生きる!」についてお話しします。

そこで関わって来るのが「いのち と こころ」ですね。

いのちのことと、こころのことを、いろんなお話しを通して皆さんにイメージして
いただける様にしています。

言葉として表現するのは、この程度です。
これ以上の文字にはしません。

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一通りお話しをした後、昼食の前に最後にお話ししたこと。

【問い】を皆さんに投げかけました。

「しあわせって何だっけ?」

みなさん簡単には答えられないですよね。

そして【こたえ】をお見せします。

「ポン酢しょうゆのある家さ!」

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これって昔流行ったテレビCMに使われていたコピー。

聞かれていたみなさんも記憶にあります。
だから一瞬「エッ!」となるのです。

「そのままやん!」って感じです。

でもその前に、「しあわせとは?」ってことをお話ししています。

ただいきなり答えがストレートだったので、エッ!となられたのです。

でも、次の瞬間には、「そうだよね」って感じの表情になられます。

その前には、ブータンの「しあわせの方程式」のお話しもしていました。

こちらから一方的な押し付けではなく、一緒にイメージして行くこと。

そして身近であっても、自分では中々気づかないこと。

言われてみればそうだと納得できること。

仏教のお話しはしますが、決して専門的だったり自分の押し付けは
一切しないこと。

それでいてすべては仏教の教えに基づいていること。

要は、仏教は日常の生活の中にその教えはあるのだと気づいてもらう
ことが大切なのですね。

それがなければ仏教を説く意味がありません。


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逮夜参り

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今日は、六七日の逮夜参り。

氷雨の降る、3月の寒い夜でした。

初七日から始まり、六七日までお参りする。

そしてその次の週が、四十九日の満中陰法要となる。

お葬儀が終わってから四十九日までお参りが続きます。

ご親族にとっては、ある意味大変かも知れません。

でもこの逮夜参りにはいろんな意味がある。

一番は、ご家族やご親族にとって、いのちをしっかりと受け止める大切な
意味があります。

そして大切な方をしっかりと見送るという、心のケジメになる。
いのちにケジメがなければ、そのいのちは寂しいのです。

そして心を支えて行く、グリーフケアの意味もある。

さらには、仏教や浄土真宗にみ教えに触れるという事も大切です。
お経を唱えるということもあります。

毎回、経本を持って行って、皆に今日は度のお経を読むか、最初に必ず
伝えます。

六七日のお勤めは、「十二礼・らいはいのうた」、「正信偈」、法話と御文章、
最後に「しんらんさま」を唱和する。

これで約50分くらいかかります。

今回は、毎週月曜日の夜7時からでした。

唱えるお経も工夫し、法話も毎回興味をもってもらえそうなテーマを考えて
行く。

今日は、仏様の意味や阿弥陀如来、そして南無阿弥陀仏のことを、いのち
と関連づけてお話ししました。

お子さんもいらっしゃるし、80代の方もいらっしゃる。

それぞれに届く言葉、でもお子さんにはたとえ難しい言葉があっても、その場
を共有しているという、大切な思いが残るのです。

法話の時間は、10分から15分の間の必ず納める。

でなければ、どんな良い話しでも、皆さん疲れてしまうのです。

その時間の中で、どれだけ感じ取ってもらえるかが勝負です。

もちろん、現代的な内容も盛り込む必要もあります。
あとは地域的な話題も。

そうすることで、お参りの皆さんもイメージしやすくなるのと、退屈しないです
みます。

様々な年代の方々、宗派の違う方々、仏教や仏事に興味のない方々。
いろんな方がそこにいらっしゃいます。

この逮夜参りが、僧侶にとって重要な実践の場となります。

お布施をいただきながらも、自分自身の実践の場を提供していただいている。
お育ていただく場であるのは、間違いない。

僧侶として、この場を使わなければ、大きな損失でもあるのです。


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三十五日(五七日)の法話

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三月に入って、今日はもう完全に春です。

まだまだ朝晩は寒かったりしますが、空の景色が春になりました。

今日夜、三十五日の逮夜にお参りした。
そのときの夜空は、完全に春の空だった。

今までは、冬の中に暖かい日もあるといった感じ。
これからは、春の中に寒さが戻って来るのです。


もうそろそろ宿坊も、春の準備に掛る。
境内の落ち葉はほとんど拾ったので、これからは内部の方です。
現在、図書室を作る準備をしていますが、中々片付きません。


今日のお参り、三十五日は、逮夜参りの中で一番大切な法要とされています。
昔でしたら、三十五日には閻魔大王の前に出て、裁きを受ける日とされていた。
生前の良い行いと悪い行いを秤に掛けるのだ。

こんな話しを聞いて、子どもたちは行いに自制心を持って行ったのでしょう。

今日の法要では、その様なお話しから入って行きます。
年配の方も子どもたちもいる、両方に聞いてもらわないといけません。
それには閻魔様の話しがいい。
ちょっと怖く、ちょっと面白く。

初七日から四十九日まで、最初は長く感じます。
三十五日くらいが一番長いと思われるのでしょう。

なので、三十五日を大切なお参りにしているのだと思います。
中だるみしないように・・・。

そして亡くなられてから一か月経つ。
寂しさを実感として感じる頃でもある。

法話にも工夫が必要だ。
閻魔様のお話しをした後は、いのちの話し。
いのちとは、いのちの根源とは、人は死んだあとはどうなるのか。

そんなお話しです。

仏様を感じてもらいたい、お年寄りにも子どもたちにも。

そんなお話しをしました。

来週、六七日をお勤めすると、その次は四十九日の法要になる。

過ぎてみると、誰もが早かったと感じるのです。

今日のお勤めは、「重誓偈」のあと「正信偈・行譜」、皆でお茶をいただいたあと、
法話と御文章。最後は「しんらんさま」を合唱です。

これでしめて1時間のお参りです。

夜7時からですから、仕事帰りだったり夕食がまだだったり。

村の方々も参って来られます。

他宗派の方もいます、なのでお勤めのときは経本を皆さんに配ります。
最近では、お子さんが配ってくれるようになりました。

いい感じです。


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三回忌のご縁・・・お経を受けとめる

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今日は三回忌の法要でした。

朝、先ずお墓に皆さんとお参りし、「讃仏偈」と「重誓偈」をお唱えする。
そしてご自宅に戻り、「無量寿経」「阿弥陀経」「正信偈」を唱える。

頼りにしていた息子さんを亡くされている、なかなかその心は癒されること
はない。

いつものことではあるが、読経は心を込めて一心に唱える。
仏さまからの思いを受けとめさせていただく、大切な言葉であるのだから。

ご両親もいつも一緒にお唱えされている。
法話を終え、御文章を読み、最後に「しんらんさま」を皆で歌います。
この「しんらんさま」のとき、涙が出てくるとご主人が話されていた。

今日の法話は、この三回忌のご縁についての話しをしました。
癒えることのないこの悲しみを、どう受けとめさせていただくのか。
言葉だけで通じるものではないが、一回一回の法要を終えて行くことで、
心に通じるものが少しでもあればいいと思う。

今日、お経を唱えるとき。
リズムが良い人の読経について行くときは、とても唱えやすいものだ。

もちろん私が読経するのであるが、今日は仏様が私をリードしてくれて
いると感じたのです。
だから私が唱えていても、もう私ではないなと感じていた。

あくまでも仏さまからの導きであったのだ。
そしてそのお経を受けとめる。

お参りのみなさんにも、その思いはきっと通じたはずだ。
そのお話をすると、皆さんも頷いておられた。

ご主人も久しぶりにお酒を少しだけ飲まれた。
「うまいなあ!」と呟かれていた。

心がそう思えないと、いくら飲んでも味がしないものだ。

少しだけ、三回お注ぎした。
「三回忌ですから・・・」と、僕が言う。

少しづつ、少しづつ、生きる意味を感じて行くのだと思った。


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今晩の通夜法話

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今日はお通夜でした。

通夜勤行をお勤めしますが、その内容は同じ宗派でも、寺院や僧侶に
よって違いがあります。

たとえ同じであっても、そこにはそれぞれの僧侶としての差があります。
その中でも、読経と法話がやはり中心になる。

読経と法話は次第は同じでも中身はまったく変わってくるところ、そこに
僧侶としての思いが込められる。

今日のお通夜は生前を知らない方、それでもその方の年齢やご遺族の
方々との話の中でその方に合った法話を考えます。

80歳を過ぎられていた、そこにいのちをテーマにお話しをする。
今日のお通夜をご縁に、故人からのメッセージを窺うのだ。

普段お経を聞いていてもあまりなにも感じなくても、今晩は少し違った感
覚を持たれたのではないか、それはこの場がいのちの場だからだ。
私たちが一番大事なものは何かと聞かれたら、健康だったりします、でも
実はお金だったりとか、でもよくよく考えれば一番大切なものは、いのちだ
と言うことに気づきます。
なぜなら健康やお金の価値は、いのちあることを前提としているからです。
いのちが無ければそんなものは必要なくなります。
でも、いのちのことを考えているかと言うと、意外と私たちは考えていない
のではないでしょうか。

こんなお話しがあります、おじいちゃんのことが大好きだった、お孫さんの
お話しです。

なぜおじいちゃんは死んでしまったのかよく分からない、大好きだったのに。
それでお爺ちゃんが亡くなった病院でお医者さんに尋ねた、「なぜおじい
ちゃんは死んだの?」。
するとお医者さんは、「おじいちゃんは最後まで頑張ったけど、ガンで死ん
だんだよ」と答えた。
そこのもしお釈迦様がいて、子どもが同じことを聞いたならどう答えたでし
ょうか。
お釈迦様は、「おじいちゃんは、生まれたから死んだんだよ。人はね生まれ
たら誰もが死ぬんだよ」。

これは私たちにいのちと言うものを改めて気づかさせてくれます。
そう、いのちは生と死の両方で始めて一体となる、死のない生はないのだ
ということを。
そのとき死を見つめて、私たちは生と言うことの意味を知る。
そして限られたいのちを今生きていると言うことに気づくのです。
そのとき、私のいのちは今までとは違った意味を持つのだ。

もうひとつ、お子さんには聞きたいことがあった。
それは何か、「おじいちゃんはどこに行ったの?」ということ。

これには皆さんどう答えるのでしょうか。
もし答えが曖昧なら、あなた自身死んだらどこに行くのか分っていないと
いうことになります。
死んだらしまい、でもここにはまだ死んだ方はいません、となるとその先
のことは誰にも分からないということになります。

いのちとして生と死を持った存在なら、その無常であるいのちをしっかり
と支えてくれる存在が必要であり、依り所となる場所が必要なのです。
これがあるかないかで、いのちの存在が安心できるかどうかと言うこと。

そこに阿弥陀如来の本願のはたらきがある。
南無阿弥陀仏が私たちに届けられるのです。

無常であり、苦しみ深く、悲しみ深い、そんな存在。
そのいのちをしっかりと支えてくれるものがあれば、そのいのちも輝きを
増すでしょう。
その願いを届けてるために仏と言う存在があるのなら、私たちはその届
けられた願いに感謝をするでしょう。
その思いがまた、南無阿弥陀仏となって私の口から称えられるのです。

故人の思いをしっかりと受け止められましたか?

そこに仏様の心がある。

そのようなことを本日の通夜をご縁として受けとめさせていただきました。

今日の通夜での法話こんな感じでした。
通夜のときは10分間と決めています、参列者やご遺族のことを配慮し
ますから。

もちろんこの内容だけではなく、そこに自分の体験やみ教えなどを織り交
ぜていますが、骨組みはこんな感じだったでしょうか。

参列者の方々に、いのちと仏様の意味を考えて欲しかったのです。

法話のあとは、直接みなさんの感想を聞くことはありません。
なのでいつも自分自身で反省の日々です。

枕経~臨終勤行の法話。

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山里にも春の空気が満ちてきました。

花もその表情が柔らかい。

お寺の境内も少しづつ掃除をしている。
冬の間は雪が積もっていたり濡れていたりで掃除はお預け。
春の日差しの頃に掃除を始めて行く。

枯葉をかき集め、そしてまだ根の浅い草を今のうちに抜いておく。
暖かくなると根を張って抜けにくくなる、また雑草も花を咲かせてたくさんの種が
飛び散るから。
綺麗な花は残して雑草の花は早めに抜きとる。
人って、いのちは大切と言うけれど、どこまで行っても自己中心だなと思う。
そんなことを雑草を抜きながらいつも考える。

そんな日の夜、枕経の電話が鳴った。
ご自宅に着かれたらご連絡をいただくようお伝えした。
私のお寺では何時でも関係ない、ご自宅に戻られたら枕経をお勤めする。

人が亡くなられるときはやはり夜が多い。
枕経も夜にお参りすることがなぜか多いのです。

枕経、通常は亡くなられてご自宅に戻られたときにお勤めする。
浄土真宗では臨終勤行と言う。
その方のいのちの尽きようとするとき、長年お世話になった仏様とご先祖様に
御礼の勤行となる。
ご家族と一緒にお勤めする最期のお経、そしてお勤めだ。

お経を唱える前に、そのことをご遺族の方々にお伝えすることから始まる。
そして阿弥陀経を唱えた。

そのあと御文章を唱え、法話を少し。

その方のいのちの意味について考える。
そしてこれから仏となられることの意味をお伝えする。

この世のいのちが尽きるまで、たとえ病に伏せていようと長生きをされていよう
とも、最後の最後まで精一杯生きて来られたいのち。
そして大きないのちの流れの中で、多くのいのちの縁をつないで来られたのだ。

そしてこれからまた新しいいのちを生きられる。
それは有縁の方々を導くために。

阿弥陀経の最後に親鸞聖人の和讃がある。

「南無阿弥陀仏を称うれば 十方無量の諸仏は 百重千十囲繞して よろこび
 まもりたまうなり。」

そうだあらゆる仏様が周りを取り囲み、そのいのちをともに慶び、そしてお守り
されていらっしゃる。
これほど安心できることはない、その死をただ終わりにはさせない。

そんな思いを感じさせていただく。

そして私たちは精一杯お見送りをさせていただくのだ。






子どもたちへのご法話・・・十七回忌の法要にて。

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今日法事にお参りしたときのこと。

故人のお孫さんたちが数人一緒にお参りされていた。

いつもはお一人暮らしなのだが今日は賑やかだった。

お経本を持っていた子もいた。

何所を読んでるのかなと経本をめくっているようなしぐさを感じた。

『無量寿経』や『阿弥陀経』は経本に載っていなかったり、子どもたちにはちょっと
難しいかなと思い、そのままお唱えしました。

『正信偈』に入る前、お子さんたちにこれからこれをお唱えするよとお経本を開い
てあげた。

するとどうでしょう、一斉に子どもたちが『正信偈』を唱え始めました。
そしてだんだん声が大きくなって行きます。

「おっ、これはすごいな、仏さんの思いが伝わってる」って感じた。

最後の念仏和讃の途中でどこか分からなくなった子もいましたが、最後まで大き
なこえで唱えていただきました。

お経が終わったとき、お参りされてた親戚のおばあちゃんが、「初めてなのに皆
ようあげとったなあ」と仰られた。

そうか今日が初めてのお経だったんだな、と嬉しくなった。
そのあとお菓子をいただきお茶を飲んだ。

そして少しだけ法話。
小学校低学年のお子さんたちにも届くような法話が良い。

今日は十七回忌。
仏さまの十七回目のお誕生日だよ、仏さまには0歳はないから十六年だけど十七
歳、命日は仏様となられたお誕生日だからね。

なぜ仏様になられるか知ってる?
それは仏様となって、ここにいる皆を見守りそして導くためだよ、幸せになる様に
って仏様はいつもみんなを見守ってる。
そのために仏様になるんだよ。

仏様はいつもみんなの近くにいて、みんなを見守っているんだよ。
だから僕たちは、いつもありがとうって言うんだ、それが南無阿弥陀仏ってこと。
南無阿弥陀仏は「ありがとう」という感謝の心なんだ。

そして、ときどきはこうして心を込めて仏様をお招きするんだ。
大切な仏様にみんなでありがとうって言うこと。
それが今日のご法事だよ、みんなが大きな声で唱えたから、仏様は喜んでいらっ
しゃる。
あ~思いが届いたなって。

御文章をお唱えしたあと、「しんらんさま」を歌う。
そのときも後ろから大きな声が。

今日は仏様もご機嫌だな。


悲しみを悲しみのままに・・・二七日のお参り。

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昨晩は逮夜のお参り、二七日でした。

昨日は鳥取地方は集中豪雨、近くの川は水位も上がっていた。
八頭町内や鳥取市内では避難勧告も出ていたが、夕方にはすべて
解除になり晴れ間も出てきていました。

そんな中、夜七時からのお勤めでした。
「讃仏偈」と「正信偈」をゆっくりお勤めしたあと、お茶をいただき法話
をしました。

こんな日は皆さん、おかげさんで・・・という言葉が出ますね。
今日は特に大きな被害もなかったので、挨拶がおかげさんで良かった。
鳥取県は最近は、大雨でも洪水や土砂崩れはない。
私も、ついおかげさんでという言葉を遣うことがあります。

故人はいつも自分より人のことを心配される方でした。

自分が「おかげさんで・・・」と言うとき、その反対側には悲しみや苦しみ
に遭っている人がいることが多いのだ。
地震や集中豪雨、水不足や豪雪、日本でもいろんな災害がある。

金子みすゞ という方の詩を思い出した。
「大漁」という詩だったと思う。

陸に住んでいる人間は、鰯の大漁に浜は大賑わい。
でも海の中では鰯たちが何万という弔いをしているのだろうな。
そんな詩だった。

視点や立場が変われば思うことも違う。
金子みすゞなら、「おかげさまで・・・」という思いは出てこないかも知れ
ない。
そのとき別の場所で誰かが泣いているかも知れないから。

そんな人のことを気遣う。
お嫁に来られいろんな苦労をされ、息子さんや娘さんを先に亡くされ
たこともありました。
悲しみも苦しみも、でも多くの喜びもあったいのちだったのでしょう。
だからいつも他の人のことを気遣う、そして先祖や仏様を大切にされ
ていた。

毎朝唱えられていた「阿弥陀経」や「正信偈」。
お経で癒される心もあります、悲しみをお経が受け止めてくれるのだ。
お経を聞きそして唱える、そのとき涙があふれ出す。

普段は気丈だったり、頑張っている。
でもお経が始まると涙があふれ出す。
お経がその悲しみを受けとめてくれる。

悲しみをその悲しみのままに、苦しみをその苦しみのままに。
お経にはそんな力があるのだなって思う。

お経だけが癒してくれる心もあります。

そんなことを感じさせていただいた、二七日のお参りでした。



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生きるとは死ぬこと、死ぬこととは生きること。

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生きることは死ぬこと。

これが仏教の基本です。
生老病死の四苦、そして無常。

これ以外に仏教観はない。

そしてこの世に生を受けたものすべての存在に共通するもの。
それは必ず死が訪れると言うことだけです。

つまり、生きると言うことは死に向かって歩き続けているだけです。
生きると言うことは死ぬということなのです。

でも現代社会は死を遠ざけ、死を見ないように、死がケガラワシイ
ものの様に扱ってきた。
死に打ち勝とうとしているのかもしれない、医療現場が長い間そう
だった。
今でもその傾向はあると思いますが・・・。
だから医療現場と僧侶が語り合うことはなかったのでしょう。

死を見ないと言うことは、逆に現実を見ないと言うこと。
それに気づかなかったりする。

そう、自分がいまいのちを生きていると言うことを忘れているかの
ように。
現代人は生きていることを忘れてしまっているのです。
だからふと自分にその現実が突きつけられると、怖れの様に感じ
てしまうのかも知れません、そして余計に遠ざけようとする。

「生きると言うことは死ぬこと」を前提としておけばいいのです。
いつか必ずこの世のいのちは終わるときが来る。
歳を取り、病になり、そしていつか・・・。

では、死ぬことは生きることとはどういうことか。

生と死は一体のものであると言うこと。
仏教は死を見つめながら、今の生をどう生きるかを問うのだ。

いつかは死ぬと言う現実に気づいたとき、自分が今生きていると
いうことに気づかされる。
その限りあるいのちをどう生きるのか、それが自分に問いが生ま
れる。
いのちの終わるときは、明日かも知れない、50年後かも知れない。
ただ宇宙の時間、仏様の時間からすると、私の一生は短い。

であるなら、私の残された限りあるいのちを、どう生きて行こうか。
生きると言うことに目覚めて行くのです。

生から死を見つめる、そして死から今の生を輝かせるのです。

そのときに、私のいのちの存在に気づく。
そのいのちは、多くの縁によって支えられているいのちである。
その縁の中に自分のいのちが溶け込んで行く。

多くのいのちに支えられていることに感謝する。
その感謝の心が、自らのいのちの輝きになるのは間違いない。

それが仏の心であり、南無阿弥陀仏となって行く。

南無阿弥陀仏とは、無常のいのちを包み込むものなのです。

そして私の今日のいのちを生きて行くエネルギーとなる。

仏の道を歩いて行くのだ。
すべてのものが尊く、すべての存在が私を支えてくれているのだ。

自分のいのちの尊さに気付くとき、私はそのいのちを生き切る。
生き切るとは、ただ今の一瞬に生きることとなる。


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講習会や研修会・・・言葉に力が必要。

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最近の仏教関係の講習会や研修会では、プロジェクターを使ってやる
ケースが目立ってきました。

企業ではだいぶん前から、プレゼンテーション等で使われていたが、
企業と仏教ではやはりちょっと違うかなと思うこともある。

それは、データを使うと、どうしてもその画面の説明が中心になって
くるからです。
先生タイプによく見られるケースです。

そこでの問題点は、言葉に力がなくなるということです。

その点に注意しないと、せっかくの文明の利器も、聴衆にとっては面倒
なものでしかなくなる。

やはり一番大切なことは、言葉に力が必要だと言うことです。

そのちからとか・・・。

それは、自分の言葉で語ると言うことです。
誰々がこう言っていた、あの方の本にこう書いてある。
あの詩人はこう言った。
などと引用するケースが多い。

確かに知っている名前だと興味を惹かれる様ですが、ただそれだけ。
結局は自分の言葉ではないのだ。

たとえ引用しても、その引用した言葉のその先をしっかりと語らないと
意味はないのです。

画像やデータや資料も、あくまでも参考となるものです。

言葉がそれらによって薄くなると言うことを念頭におかなくてはならない。

だから常に自分で考えると言うことが必要なのだと思う。

経典や親鸞聖人の言葉が今の時代に残り続け、人のこころを揺さぶる
のは、その言葉に力があるからでしょう。

その方々に近づくことはできないかも知れませんが、せめて自分で思惟
する努力は大切なのだと感じます。


今日は老人会の法話・・・お釈迦様と阿弥陀如来と親鸞聖人。

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今日は地域の老人会の法話会に出かけた。

これで4年間続いた会となりました。
今年は二ヶ所増えて、合計六カ所となり、多少なりとも浄土真宗の
み教えをお伝えできたかなと感じています。

それぞれテーマを考えて行きますが、会場で話しが変わることも
しょっちゅうです。
でも今日は、予定通りのお話しになりました。

内容は、お釈迦様と阿弥陀如来、そして親鸞聖人の関係とその系譜
を簡単にまとめたものです。
特に浄土真宗のお仏壇にはお釈迦様がいらっしゃらないので、その
関係が良く分からない方も、意外と多いのです。

そして、日本で花開いた浄土教の教えと、親鸞聖人の教えがどの様
につながって行くのか。
そんなお話しを、1時間と少しお話ししました。

意外と皆さんの反応もあって面白い会となりました。
特に、お釈迦様の誕生説話と、阿弥陀如来の本願の関係のお話し
は、興味深く聞いてくださいました。

キーワードは、すくい・平等・十方衆生・縁起かな。

生れるとすぐにお釈迦様が七歩、歩かれたわけ。
天上天下唯我独尊に込められた思うなど。

普段分かっているようで分からないことが多いのです。

来年もこの会が続けばいいのですが。
こればかりは、私の意志だけではどうにもなりません。


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「いのち」は流れている。

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私たちのいのちは、流れている。

この世界、そして宇宙からみたとき、そのいのちの流れは一瞬のよう。

光ったか光らないか誰にも分からないくらい。

ものすごいスピードで流れる中に、私たちのいのちがある。

私たちは、生きてるとき、そのいのちは長く感じるかも知れない。
でも、過ぎ去ったときは、一瞬の様である。

多くの、数限りないいのちの流れがあり、私のいのちも、その流れの
中にある。

すべてと一体なのだ。
一体となったいのちの流れがある。

そう、宇宙とは、全体であり、そして私自身が宇宙なのだ。

そこには、流れがあるのだ。
その流れを感じると、私と言う存在が、無限に溶け込む。

有限である、私のいのちが、無限となる瞬間である。

そのことを、親鸞聖人は、本願海ともいい、倶会一処とも表現する。

私は宇宙の一部であり、宇宙そのものでもある。

何も、空に輝く星や銀河系が宇宙ということではない。

人は、いつも自分を横に置いて考えている。
だからいつも間違うのだ。

自分自身が宇宙だということ、人は自然そのものであるということ。
だから人工とは、人間が偉くなったいい方でしょう。

人間は自然そのものなのだから。

ただ、宇宙という存在を自分自身に感じられたのなら、その心が
変わって行くのでしょう。

南無阿弥陀仏って、そんんこともあるのかな。


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出遇い、そして導かれる。

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四十九日の法要があります。

人が亡くなってから、彼岸にたどり着くまでの状態を中陰と言う。
それが満たされて彼岸にたどり着かれる、それが満中陰と言う。

仏教では、世界的に四十九日の法要はお勤めされると聞いたことが
あります。
やはり、故人を偲び喪に服すと言った意味合いが多いのでしょう。

日本では、四十九日から百か日、そして年忌法要が勤められる。
面倒だと思う方もいらっしゃるかも知れませんが、キリスト教の方々は、
そんな習慣があって羨ましいと思われることもあるそうです。

故人を皆で、敬い感謝をささげる。
尊い思いであることに違いないのです。

葬式仏教と言われますが、やはり葬儀から年忌法要まで、しっかりと
決まっているのは有り難いことなのだと感じます。

決して豪華さや華やかさは関係ありません。
それは、それぞれのご遺族の問題なのです。

でも、しっかりとお勤めされるということは、自分のいのちを見つめる
ことになります。
生きているいのちを見つめること、それが大切なのでしょう。

この世の死から、仏のいのちとなる。
その道を、故人から私たちは教えていただくのです。

お勤めをされたなら、南無阿弥陀仏とお称えする。
そこにこそ、阿弥陀如来の願い、元の法蔵菩薩の願いがある。
その願いは、私たちに届けられるのです。

その願いは、法蔵菩薩が、尊い仏に出遇ったときにはじまります。
そこに、法蔵菩薩の悟りに至る道が始まる。
それは、法蔵自身ではあるけれど、仏に導かれたものでしょう。

私たちも、出遇いがあり、導かれて行く道がある。
ただ、念仏を称えるだけでと思うかもしれませんが、そこにはすでに
出遇いがあるのです。


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葬儀での法話で何を話すのか。

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浄土真宗の本願寺派における葬儀規範。

一応は決まっているようで、正式なものはないのだと思います。
ですから、同じ宗派であっても、地方や寺院によって葬儀の作法や
流れが違うこともあるのでしょう。

葬儀は、宗派の規範と言うよりも、その地方ごとでの流れの方が、
中心になることもあります。
ただ近年は、情報化が進んでることもあって、統一化されつつある
かも知れません。

まして最近は、葬儀も会館葬が増え、時間や次第も会館やご遺族
の方々の意向も強くなっていることもあるでしょう。
限られた時間の中で、僧侶としてどう故人を偲び、哀悼の意を表す
るとともに、葬儀の意味を問い、み教えを伝えるのか。

現在の葬儀は、参列者は通夜が多くなってきているそうです。
その様な中で、通夜勤行と葬場勤行、そして出棺勤行の意味を
問うて行くことが大切に感じます。

ここにご親族や一般の参列者が来られる。
そのとき、どのように伝えることができるかが、大切なことだと思って
います。
ただ、儀式を執り行えばよいと言うだけでは、仏教における葬儀の
意味がどんどん軽くなって行くでしょう。
それが結局は、葬儀離れにつながったりして行くのではないか。

厳かさの中に、故人を見送ることの大切さ、悲しみを受けとめて行く
み教え、そして作法と読経。
すべてをそこに込めて行くにはどうすれば良いのか、自問自答の
日々です。

通夜と葬儀のお勤めの中で、僧侶が自身の言葉を伝える機会は、
表白と法話しかありません。

表白については、やはり故人への言葉でもあり、法要の意義をお話
しして行きます。
本当にみ教えをお伝えするのは、やはり法話になるでしょう。

法話は、そのときによってすべて変わってきます。
そして、通夜のときと、葬儀でももちろん違います。

限られた時間の中で、通夜では10分~15分まで。
葬儀では5分~10分までと決めています。

その時間の中で、故人への思い、仏となられる意味、浄土真宗そして
親鸞聖人のみ教え、残されたものの思い、南無阿弥陀仏と浄土。
往生されて行かれることを、しっかりとお伝えしなくてはならない。

浄土真宗は、あくまでも往生して行く、いのちなのですから。

参列者の方が、一番真剣にお話しを聞かれる機会であります。
逆言えば、中途半端なお話しだと、しない方がましと言ったことも。
その点でも、このときはすべてのことを思ってお話しをする必要があり
ます。
僧侶の勝手な話しでは、逆効果になることも・・・。

そこでは、親鸞聖人の大切なお言葉を一つ選んでお話しのテーマに
します。
親鸞聖人のお言葉には、心に響く言葉がたくさんあります。

故人に照らしてみて、そのときに一番伝わるだろう言葉を探します。
そして、その言葉を中心にお話しを進めて行く。

そのときには、いのちと仏、南無阿弥陀仏を必ずキーワードとすること
も忘れてはいけないと思う。

あとは絶対にダラダラと締まりのない話しにならないこと。
そしてそれを聞かれた方が、そういうことだったのかと感じていただけ
たなら、それが有り難いご縁ですね。

実際に、そのときの言葉で救われる方もいらっしゃいます。
悲しみに深く沈んでおられる方に、届くこともあります。

だからとても大切なご縁となります。

次の機会には、実際に通夜と葬儀でお話しした法話を書いてみようと
思います。


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六七日・・・届けと願う仏の思い。

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六七日のおつとめ。

昨晩、六七日のお勤めをした。
ご親戚、ご近所の方々、毎週たくさんお参りされた。

ずっとずっと、一緒に四十九日まで、故人と旅をする。
阿弥陀様の願いがある、導きがある、だから迷うことはない。

でも、できるだけずっと一緒に旅をしていたい、傍にいてやりたいと思う
のが情である。
その情によって、人のこころは慰められ、癒され、そして悲しみを感じる。
悲しみはできるだけ我慢せず、思いっきり出すのだ。

残された私たちのできることは、故人とともにあり、そしてしっかりと見送
ることしかない。
だから、その方とずっとずっと一緒にいる。

臨終勤行~通夜勤行~出棺勤行~葬場勤行~還骨勤行。
そして初七日から六七日。

その間、ご家族の悲しみが癒えることはない。
でも、しっかりと見送った、しっかり付き添ったと言う思いは残る。
たとえ、悲しみが癒えることがなくとも後悔はないのです。
その思いがあれば・・・。

一つづつ、一つづつ、区切りをつけて行かなくては、その悲しみの癒える
ことはない。
いのちを見送るとはそう言うことなのだと思う。

そこに、その方からの思いが届けられる。
仏のいのちを生きることとなられた方から、私たちに。
見送る側が、いつのまにか見守られる側であることにも気づく。
いや、気づかされるのだ。
そう気づかされたとき、また前に一歩踏み出すことができるのかな。

無理をしないで、あなたの思いは私はすべて分かっているから。
言えなかったこと、できなかったこと、それもすべて分かっているから。

すべてがつながるとき。
円となって、縁となって、つながるいのち。

「連続無窮にして、休止せざらしめんと欲す。無辺の生死海を尽さんが
 ためのゆゑなり」と。


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僧侶の憂鬱・・・ギリギリを探す。

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葬儀や法事をお勤めしたあと。

時々、憂鬱になるときがある。

その一番は、法話です。
通常は10分から15分程度と短いのですが、話しが何となくまとまら
なかったとき。
それ以上に、後からきついのが、調子よく話したつもりだったとき。
意外とそこに落とし穴があったりするのです。

法話は、基本的にその場にはいろんな方がいるという前提でお話し
をします。
たとえば、こんな方々。
①法話を聞くのが初めての人。
②他宗派もしくは他宗教の方。
③仏教や浄土真宗の専門家。
④老若男女。
⑤その場は、最初で最後。
などなど・・・まだありますが。

そして、その聞き手の誰一人も不快な思いにさせないことが大切。
つまり、その聞き手の場を奪う行為をしない。

いつもその前提に立ってお話しするのですが、思わず感情が入ると
良くないこともある。

こちらは良いと思って話しをしている、ただ聞き手の本当の心は分か
らないのです。
すると、後からこうだったのでは、と考え込んだりすることがあります。

相手の気持ちを慮っているように見えて、本当のことが分かっていな
いと感じられているかも知れない。

そんなこと、お寺に帰ってから感じたりすると、結構落ち込んだりしま
す。

あとから、たまに声を伺うこともありますが、意外と良い反応だったり。
そんなときは気が休まります。

僧侶の法話は、葬儀や法事と言う大切な場を提供していただいている。
だからこそ、毎回必ず違ったお話しをします。
そのとき、その方、ご家族、ご親戚などを考えながら。

ただ、淡々とお話ししたとしても、そこに思いがなければ届かない。
思いが入り過ぎてもいけない。
そのギリギリの境界を探しながらと言った感じです。

ああ、また今日も眠れないかな。

僧侶の憂鬱って、こんなところにあります。
僕だけかも知れませんが。


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通夜の法話でお話ししたこと。

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今日のお通夜は、昨年ご主人をお見送りされた方でした。

『正信偈』をいつも一緒に唱えられていた。
今日の通夜勤行では、そんな思いも感じながら唱えた。

そして、「いちいちの花」という親鸞聖人の和讃のお話しをする。
その方の法名にもちなんでいます。

阿弥陀様の願いによって、浄土へ往生される。
浄土に咲く蓮の華、人は蓮の華の上に生れ仏となると言う。
仏さまは、蓮華台の上にいらっしゃる。

その蓮の花びらの一枚一枚から、三千六百千億もの光が放たれる。
まばゆいばかりの宝石の様な光。
光明をてらしてほがらかに、いたらぬところはさらになし。

阿弥陀様の願いを受けて、仏となる道を歩む。
そして浄土に生れられたなら、これからは仏のいのちを生きられる。
永遠のいのちである。

そして、この世に残した有縁の方々を、見守り導く。
仏の意味には、もう決して迷いのいのちには戻らない、という意味も
あるのだ。

もう迷うことのないいのちの中で、利他のはたらきに生きる。
私たち、迷いの衆生を導く。

それが、数えきれないほどの光となって、私たちに届けられるのだ。
その光が届かないところはない。

阿弥陀様は、願いを立て、その願いは南無阿弥陀仏となる。
ただ、阿弥陀如来のお姿は、私たちには思うことも見ることも適わな
のです。
だから諸仏が、その阿弥陀如来の本願をほめたたえ、称名する。
その諸仏の称名が、私たちの声となって、称えられる。
私の声となって、南無阿弥陀仏を称えるのだ。

ここに、阿弥陀の願いと、諸仏の称名が、私たちに届けられる。
そして私たちの口から南無阿弥陀仏の声となって出てくる。

三つの存在がひとつにつながる。
その思いは、清らかで尊い。

三輪清浄の世界が、そこには広がっているのです。

仏となられる方は、「さよなら」とは仰られない。
なぜなら、私はいつもあなたの傍にいますよ。
南無阿弥陀仏となって、あなたに届きますよ。

だから、私の名を称えて下さいね、南無阿弥陀仏と・・・。

お婆ちゃんの思いが、皆さんに届きますように。

今日の通夜勤行の法話で、こんなことをお話ししました。



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三十五日法要・・・第十七願、諸仏称名の願の思いを受けて。

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三十五日(五七日)は、初七日から六七日までのお勤めでは、一番
大切な法要と伝えられています。

そのいわれは、故人がこれからどこに生れるかが決められる日で
あると言うことからでしょうか。
昔でいう、閻魔大王の判断があるのでしょう。
そう言って、毎週のお参りにメリハリをつけることもあったのか。
また、ご遺族の思いを皆さんに伝えたいと言うことも。

いろんな理由があって、それぞれの法要をお勤めするのです。
もちろん、最大の目的はご遺族のグリーフケアですね。

今晩のご法話では、その仏様の思いをどう受け止めのかをお話し
しました。
最初に、大切なお勤めであるということをお話しした上で、称名の
ことについてです。

称名とは、南無阿弥陀仏を称えること。
でも、称名を称えることが目的ではありません

回向は、阿弥陀様から差し向けられた働きのみ。
私たち衆生から故人へ差し向けるものなどないのです。
では、法要をお勤めする意味がないではないか?

そこに、この諸仏称名の願、つまり第十七願があるのです。
これは第十八願とは切っても切れない願いです。

阿弥陀如来の本願のはたらきによって、南無阿弥陀仏が私たちに
届けられる。
但し、そこに阿弥陀如来の称名は聞こえてきません。
だからこそ、そこに諸仏の称名が必要になってくるのです。

その方から私たちに南無阿弥陀仏が届けられているのだろう。
今晩の法要で、私たちは南無阿弥陀仏を称える。
それは一体誰から届けられた南無阿弥陀仏だろうか。

阿弥陀如来の思いを、その方が称名として私たちに届けられたの
ではないでしょうか。
そして私たちは南無阿弥陀仏を称える。
そこに思いがあろうとなかろうと、南無阿弥陀仏と称える。

確かに私たちに届られたのだ。
その方の行き先が決まるとか決まらないとか、そんなことは関係
ないのです、間違いなく阿弥陀如来の元にいらっしゃるのだ。
こうして私たちに称名が届いているのだから。

たとえ仏の存在が見えなくても、たとえ浄土があるかないか分から
なくても、ちゃんと私たちに思いは届けられている。

それが阿弥陀如来の他力である、還相回向のはたらきでしょう。
往相も還相も、すべて阿弥陀如来の本願力によるものです。

仏となって、残してきた方々を見守り導くこと。
これが仏となる本当の意味であるのでしょう。

それを受けとめたなら、私たちは感謝をせずにはおれません。
そして、今日をしっかりと生きて行く、残りのいのちをしっかりと生きる。
そんな思いが込められているのかな。

仏と故人と私たちが一つになる場です。
円となってつながる、円満となります。

三輪清浄の世界なのです。


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人の世に涙の川があり・・・

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今日は、年末年始の疲れを癒しに三朝温泉に行って来た。
温泉街の旅館は、日帰り湯をやっている。

昼過ぎに入ると、まだお客さんはチェックインの前です。
有名旅館のお風呂が貸切状態なのです。
今日も一番風呂でした。

これが楽しみで三朝温泉の「日帰り湯」に行きます。
今日の旅館は、三朝温泉でも老舗の「斉木別館」です。

温泉にゆっくりと浸かり、温まって暖簾をくぐると、そこに一枚の書が
額に飾ってあった。

遠藤実さんの書でした、そこには・・・。

「人の世に 涙の川があり 苦労の山もある
 その川を渡る時 その山を越える時 歌と言う友がいる」

昭和を代表する作曲家、そして演歌と歌謡曲を支えた人。

そうか、そうやって歌を人々にとどけていたんだなと。

心にその思いがあって、その思いが人に伝わるのだ。

人は迷いのいのちを生きる。
ただそこには釈尊の教えがあり、阿弥陀如来の導きがある。
それに気づくとき、人は一人ではなくなる。
迷いの道から悟りへと・・・。

そんなこと、その書を読みながら感じていた。

そして、この世のいのちの尽きるとき。
三途の川の暗闇も、開かれているのだと、親鸞聖人は説かれる。

人のいのちを支えてくれる存在って、やっぱり必要なんだな。

人のこころに響く言葉、そこには仏様に通じる思いがある。
そんなことを、良く感じます。

これは、歌の詩もそうです。
マンガもそうかな。

大ヒットする歌やマンガ。
そこには、その方が意識しているかどうかは別ですが、宗教的な
背景が作品に込められていることが多いのです。

特に日本の作品には、仏教的な心が宿っているのだと思います。
知らず知らずにかも知れませんが。

今日はそんなこと考えながら、お湯に浸かりリフレッシュ。
途中の新春の海もきれいに輝いていた。
サーファーの方たちも気持ちよさそうでした。

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ダカラ・・・、さよならは言わないよ。

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今日は、お寺の近くのお宅で三七日をお勤めした。

二十代の若いいのちでした。
今晩は、村の方々、そして同級生の方でしょうか。
若い方のお参りも目立ちました。

それぞれの思いを込めて、お経に出遇う。
南无阿彌陀佛に出遇う。
仏さまとひとつになる。

そして、その思いを届ける。
そして、その思いを受けとめる。
思いが一つになる。

仏教は、縁であり、円である。
一つにつながる、いのち。

帰りに空を見ると、月がおぼろに出ていた。
あれっ、もしかして満月かな。

十二月は、お釈迦様が悟りを開かれた月。
仏教にとっても、聖なる月なのです。

そして満月は、お釈迦様の相でもある。
円満にして欠けるもののない、完全なる悟りの象徴。

お父さんとお母さん、そしてお爺さんとお婆さん。
ご兄弟、親戚、村の方々、そしてご友人。

たくさんの方々とお勤めした三七日。
きっと彼女も感謝している。

悲しみの中に、融けこむいのちがあるんだ。

ずっと、これからはみんなを見守って行くからね。

だから私は仏になるんだよ。
だから、さよならは言わないよ。

今宵は、阿弥陀様の光りがはっきり見えた。
きっと彼女からの贈り物。

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そこに南無阿弥陀仏がある・・・。

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南無阿弥陀仏がある。

そこには願いがある、その願いの対象は私。

願われていた自分の存在があった。

見つめられている私の「いのち」があった。

そんなことを思う。

何か自分を支えてくれている存在があれば、人は生きて行ける。

何も支えがないと感じていたなら、人は寂しく悲しい。

順風なときはその存在が見えないでしょう。

でも逆風のとき、その存在に気づく。

いつもそこに、その願いがあったのです。

その無条件の願いが、私には必要だったのです。

自分自身の存在が、小さくなって落ち込んでいるとき、その願いが

遠い存在なら意味がない。

無条件だからこそ、そこに救いがある。

そこに南無阿弥陀仏があるのでしょう。

私のこころに灯りがともる。

その小さな灯りが、いづれは輝き出すのだ。

それは、いつでもそこにある。

その願いを聞く気持ちがあれば・・・。

その願いを受けとめられたなら・・・。

そこに南無阿弥陀仏がある。



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