February 21, 2008

ダウンタウンKY

もうだいぶ前からのことであるが、元ジャイアンツのパウエル投手が契約で揉めている。
(1)先にオリックスが統一契約書にサインをさせたのに、(2)そこに不備があって、(3)そのスキを突いてソフトバンクがより有利な条件で契約を結んだというのが概要である。
世論としては「きちんと契約書を取っていなかったオリックスが悪い!」というのが大勢のようである。
まあ、確かに外国人選手であるし、「契約書」というものの存在は裁判等では絶対的なものではあるだろう。
けれど、そこに違和感を感じてしまうのは僕だけだろうか。
ソフトバンク。もっと「コンテクスト(context)」を読めよ。
現代風の言葉を使えば、「空気」読めよ。
そんな風に思ってしまう自分は、本当に日本文化にどっぷりと頭のてっぺんまで浸かっているのだなと再認識する。
だからこそ、日本のプロ野球が好きで、そして純日本型経営を続ける広島東洋カープが好きなのだが。
ということで、今回はいつも以上に長い文章で、パウエル問題について意見を述べさせて下さい(時間かかるから受験生は読まないで)。

          *     *     *

昔、ダウンタウンの「ガキの使いやあらへんで」に、「○○の限界に迫る!」というシリーズがあった。
もう10年近く前のものだから、覚えている人も少ないかもしれない。でも、これがメチャクチャ面白かった。
そして、コミュニケーション論的に見ても、非常に含蓄深いコーナーだった。
由来は、松本人志が喫茶店で「マイスモーヒー」と注文したら、きちんと「アイスコーヒー」が来たということ。
だから、どの言葉までが「アイスコーヒー」と店員に認識されるのか、ココリコや山崎邦正などの後輩芸人を実際の店に忍び込ませて注文させる、という内容である。
ちなみに、「アイスコーヒーの限界に迫る」の回は、覚えているところでは、

「アイスコーヒー」→「ナイスコーヒー」→「マイスモーヒー」(中略)「たんす納品」→「ハイソサエティ」→「アイアンヒーロー」→「欧陽菲菲」

と変化する(実際番組を見るとわかるのだが、「ハイソサエティ」辺りの店員とのやりとりがメチャクチャ笑える)。
他に、「冷やし中華の限界に迫る」の回は、「中華冷やし冷やし」や「鈴木京香」などという言葉で挑戦していた。
「マイルドセブンの限界」の回は、「アイドル気分」や「My Sweet Memory」などという言葉で挑戦。
で、結果であるが、意外に、これが結構ちゃんと注文できるのである。
少なくとも、「中華冷やし冷やし」でちゃんと「冷やし中華」が来たのは覚えている(ちなみに、「鈴木京香」では、「水餃子」が来た)。
これ、まさに「コンテクストの力」だ。
「中華料理店」という状況、「中華冷やし冷やし」という言葉があれば、それだけでコミュニケーションは成り立つのだ。
深い...。

例えを変えると、日本語には「適当」という言葉がある(内田樹が使っていた例です)。
この言葉は、
1.「いい加減」
2.「的確」
という、全く逆のベクトルの意味を持つ不思議な語だ。
「いい加減」はマイナスイメージ。
「的確」はプラスイメージ。正反対である。
ところが、我々はこんな難解な語を、何の苦もなく読み取ることができる。
例えば、テストの問題で、
「次の選択肢の中から、最も『適当』なものを選びなさい」
と言われれば、必ず『的確』なものを選ぼうとする。
少なくとも、「なんや、なんでこれがバツなんや。『適当』書いてあるから、『ええ加減』なもん選んだんや。文句あるか!?」と言いがかりをつける人は(多分)皆無である。
これこそ、「コンテクストの力」。
「テスト」という状況、「適当」という言葉があれば、我々は出題者の意図を汲み取れるのだ。

          *     *     *

今、僕の手元には、「warp」というファッション雑誌の昨年の3月号と、スラヴォイ=ジジェク著の「ラカンはこう読め!」という哲学書(というほど難解な本ではないが)がある。
この2冊、ジャンルも難度も全く関わりがないのであるが、実は有機的に結びついていることを、私栗山、発見致しました。
まず1冊目、「warp」の中には、こんな文章が載っている。

「今現在、東京のカルチャーそのものが全世界で注目されている中で、東京のファッションブランド、そしてスタイルが新時代を作っていることは事実無言。セクシーとかセレブとかリアリティのないスタイルではなく、ストリートの現場から生まれた『本物の服作り』にこだわり、世界をも唸らせるオリジナル・スタイル」(warp 2007年3月号 p20)

うーん。
確かに内容もひどい。「本当かよ!」というツッコミはいくらでもできそうだ。
けれど、僕が言いたいのはそこではない。言葉の使い方である。
これ、いくらなんでもひどすぎるだろう。
読んでいただければすぐにわかるはずだ。
問題は、文章の真ん中にある「事実無言」という言葉である。
もちろん、そんな言葉は日本語に存在しない。
たしかに、「事実『無根』」ならある。
広辞苑にはこう載っている。「事実にもとづいていないこと。根も葉もないこと」。
で、更に驚くべきことに、この文章では「事実無言」は、その「事実『無根』」の意味ですら使われていない。
それどころか、全く逆の「言うまでも無い事実」という意味で使用されているのである。
「事実無言」=「言うまでも無い事実」。
ライターが勝手に「事実無根」と似た言葉を作って、それを何の躊躇もなく独自の意味で使っているのだ。
ある意味、逆に凄い...。

で、ここで僕が言いたいのは、「ライターを換えろ! ひどすぎるぞwarp!」ということではない(もちろんそれもあるが)。
何より驚くのは、僕らが、この文章の意味を「読めてしまう」という事実である。
今、僕は「事実無言」を「言うまでも無い事実」だと解釈した。
恐らく、日本語のネイティブスピーカーならば皆同じような推測をするだろう。
まさに、「ナイスコーヒー」を「アイスコーヒー」と解釈するように。
もしくは、「適当なものを選びなさい」で「的確なものを選ぶ」ように。
これこそ、「コンテクストの力」だ。

コミュニケーション論を学ぶとすぐに出てくることだが、日本語というのは本当に「ハイコンテクスト」な言葉だ。
「言外の意味」を読み取りまくってコミュニケーションをする。
どこだかのクラスで話したことがあるが、ウチの奥さんと外で喧嘩をしたときに「もうついて来ないで! どっか行って!」と言われたので、「あ、オレのこと嫌いになったんだ。さようなら」と思って本当に「どっかに行」こうとしたら、後ろから蹴られて、「どうしてわからないの!」と叫ばれたことがある。
そこでの言葉が、今でも僕の心に残っている。
「『ついて来ないで!』っていうのは、『ついて来て』って意味なのに、なんでわからないの!」
...僕が未熟でした。
コンテクストを読めなかった。

そんな例を踏まえて、二冊目の本「ラカンはこう読め!」を紹介しよう。
これは文章が難解なことで有名な心理学者ラカンの理論を、ジジェクの言葉で焼き直したもので、非常に平易で面白く記されている。
この本には次の一節がある。

「親友との間で激烈な昇進争いをした後で、たまたま私が勝ったとする。そのとき私がすべきことは、彼が昇進できるように自分が身を引くと申し出ることであり、彼がすべきことは私の申し出を断ることだ。このようにすれば、おそらくわれわれの友情を救うことができる」(「ラカンはこう読め!」p33)

これは、ラカンの言う「大文字の他者」の概念を説明しているときの文章。
まさにここに「ハイコンテクスト」な文化を感じ取ることができる。
ラカンはフランス人で、ジジェクは旧ユーゴスラヴィア出身。
どちらの方も日本語に似て、「文脈を読み取る」ことに重きを置いた言語を使っている(特にラカンの使うフランス語)。
ラカンの文章は、「文脈を高度に読み取る」ことをしない限り、読めない。
「ついて来ないで!」を「ついて来て!」と読み取ることを要されるほど、ハイコンテクストな文章なのだ。
ジジェクはこう続ける。

「もちろん問題はある。もし一方が、拒絶すべき申し出をすんなり受け入れたらどうなるだろうか。昇進争いに負けた私が、きみが代わりに昇進してくれという親友の申し出を受け入れたらどうなるだろうか。当然破滅的状況が生じる」(同p33)

破滅的状況...。
実は、英語というのは、「申し出をそのまま受け入れる」ことを是とする言語である。
つまり、「ローコンテクスト」なのだ。
言葉を文字通り受け止めること。
言いたいことは言葉にしてハッキリすること。
状況に任せておかないこと。
これが英語の原則である。
例えば、オーストラリアに行った時に、レストランでのコースの食事が終わってコーヒーを飲んで一服し、会計をしようとして、店員に目配せをしたことが僕はある。
日本ならば、何も言わなくても、その状況で目を合わせれば伝票を持ってくる。
だって、全部食べ終わっているのだから、それくらいはわかるだろう。
でも当たり前だが、英語ではそれが通用しない。
結局、店員は何も持たずにテーブルに来て、にっこりと笑顔で僕の言葉を待ち始めた。
僕が"Check please."と言わない限り、彼らはその行動をとらないのである。
「ナイスコーヒー」と言ったら、本当に「素敵なコーヒー」が出てきそうな勢いだ。
英語を使っていると、日本語の特性が本当によくわかる。

          *     *     *

この度、小学校5年生から英語を学ぶように学習指導要領が改訂されることとなった。
マスコミは、これを好意的に報道している。
僕だって英語講師だから、学生達の英語のレベルが上がるならば素直に嬉しい。
けれど、日本語すらままならない内に英語を学ぶことが本当に善なのだろうか。
先ほども言ったように、英語というのは「マイスモーヒー」を「iced coffee」と解釈をすることを禁じる言語である。
だからこそ、英語圏の国々(特にアメリカ)で子供の頃から教育を受けた人々は、「何でもハッキリと言葉にして自分の意見を言う」こと、「相手を論破して、yesかnoかをハッキリさせる」ことを善と見なす風潮がある。
言葉にならないものなど読み取る必要はないのだ。
ICUの学生だった頃から、アメリカ人の先生達にそう言われ続けていた。

"Don't be shy! Please say directly what you think"

何度言われて来たことか。
...で、気がつけば僕も英語講師になり、一丁前に偉そうに英語を教えている。
例えば、自由英作文の授業では、必ず僕はこのように言う。
「まず初めにyesかnoか結論を!」
「yesとnoを中途半端にしてはいけない!」
「譲歩、逆接の手順を踏んで、相手の意向も認めながら」
「最後は、もう一度、自分の結論をしっかり言う。中途半端はダメ!」
もちろん、英語を使う際には「相手のルール」に則ることは絶対的な原則ではある。
だから、大学生や大学受験生に、「英語のルール」を教えることを否定はしないし、それが僕の仕事でもある。
けれど、小学生の内から「言葉にならないものを読み取るな! 自分の意見はハッキリ口にしろ! それが正しいのだ! 好きならばきちんとI love you!と直接的に言うんだ!」と教えるとしたら、僕は正直ぞっとする。
日本語がままならない子供達に英語を教えるというのは、そういうことを教えることなんだぜ。
そのことをわかって、文部科学省の役人達は英語を導入することにしたのだろうか。
うーん。
僕はやはり「鈴木京香」と言って「冷やし中華」が出てくる社会に住みたいと思ってしまう。

昨年流行った(実際に使っている人を聞いたことはないけど)KY「空気読めない」という言葉。
これは子供達の間から生まれて来た言葉であるらしい。
これ、結局は「言外の状況から判断をせよ!」という警告であるわけで、僕の目からすると、現在の「英語中心/アメリカ中心/ハッキリ言うことバンザイ主義」に対しての、子供達からの反動のように見えるのだが。

          *     *     *

話を初めに戻そう。パウエルの契約の問題のことだった。
たしかに、オリックスだって悪いのはわかる。契約書のサインを、コピーではなくて本人の元まで行ってもらってくるべきではあっただろう。
けれど、ソフトバンクが獲得に乗り出した時点で、報道では「オリックスが契約!」ということになっていたのである。
それは僕に伝わっているくらいであったから、ソフトバンク側もきちんと知っていただろう。
しかし、彼らは「アメリカ式」に、「しっかりした契約書をオリックスは作っていない」、つまり「言葉にしていない」ことを武器に、いきなり攻め込んで来たのだ。
ジジェクの言葉を借りれば、「断るべき申し出を受けてしまった」のである。
あとは、待つのは「崩壊」のみだ。

現在、プロ野球選手達はどんどんメジャーリーグへ流出している。
資金では勝ち目はない。
であれば、そこに歯止めを効かせることができるのは、「日本語の論理」しかない。
「な、わかるだろ? 先に報道されていたんだからさ。そこの空気を読めよ」ということだ。
江川問題の頃は、まだ世論は「江川を敵」/「ジャイアンツを敵」にしていた。
同じように、「パウエルを敵」/「ソフトバンクを敵」にしてほしいと僕は願ってしまう。
これを拒否してこのままアメリカ化に向け突っ走る限り、日本のプロ野球はメジャーリーグに勝てない。
幾つかの球団は間違いなく崩壊して行くだろう。
日本のプロ野球ファンである僕は、とても悲しい。

今日の1曲:くるり「ワールズエンドスーパーノヴァ」(Live Ver.)

salto_mortale1977 at 15:47 
Recent TrackBacks
言葉のチカラ (佐藤秀の徒然\{?。?}/ワカリマシェン)
挟み撃ち
  • ライブドアブログ