2014年08月06日
45. ”手書きの効用あるいは万年筆のススメ”
この画像はペリカンM800の3Bニブの画像。携帯から撮った写真なので、あまりうまく撮れない。
少し前、ある集まりの会報誌の編集の方に万年筆のエッセイを書いてくださいと依頼された。何度か遠回しにお断りをしたのだが、どうしてもということで渋々承諾して書いたのが、表題の雑文である。万年筆と普段縁のない方々向けなので、今更感のある情報も入っているが、一応万年筆のネタなので、こちらに転載しておく。かなりの長文になってしまったので読むのは面倒ですぞ(笑)。
では以下、転載。
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手書きの効用あるいは万年筆のススメ
現代では、メモやノートテイキング以外の「書く」という行為はほとんどが携帯かパソコンで書く時代になってしまった。私自身も論文などいわゆる「書き物」は手書きではなくほとんどがパソコンの文書ソフトとなってしまっている。では「手書き」の必要性はなくなったのかと言われれば、そうではないと答えざるをえない。手書きには手書きの楽しみあるいは効用があるのだ。
大学に入った頃だからまだ二十歳そこそこのころだと思う。受験生時代からボールペンで数式や計算、英作などの答案や小論文を書き殴るようにして書いてきた私はひどい腱鞘炎に悩まされていた。手首のあたりが熱を持ってしまって、ペンをちょっと握るのにも痛みを感ずるようになってしまった。ペンを握る筆圧が高すぎたのだろう、中指にも大きなペンダコができてしまっていた。大学の授業では、もちろん板書を写したりノートを取らねばならないのだが、手首が痛くてどうにもならない。それに伴い肩こりもひどくなってきてもうどうにもこうにも煮詰まってしまっている状況だった。
あるとき、たまたま立ち寄ったデパートの催事場で、なにやら旋盤を動かしている頑固そうな白髪の職人のそばに人が集まっているので、なんだろうと思って近寄ってみると、万年筆のペン先を研いでいる職人の技を見ようと見物人が集まっていたのだった。その職人は、人それぞれの書き癖(筆記角度)に合わせてペン先を研磨しているというのだった。万年筆といえば、高校生になったときに入学祝に父親の知人にいただいたことがあるが、ガリガリして紙を毛羽立たせるだけで書きにくく、まったく使わなくなり引き出しの肥やしとなってしまっていた。あれはたしかモンブランだったか…私は当時は万年筆にあまり良いイメージを抱いていなかった。日本では子供の進学に万年筆を贈るというこのような習慣も廃れてしまったため、その頃は万年筆の地位の凋落が著しかった。私もものめずらしさで立ち止まっただけだったのだ。
黙々と作業している職人の前には何本か万年筆が並んでいて、ふと値札を見ると、当時学生の自分でも買えそうな値段だったので、早速買い求めてみることにした。職人に言われるままにいつものようにペンを握ってみると、その角度と書き癖を見た職人が旋盤で丁寧に研磨して、あちこちにインクがこびり付いたごわごわでがっちりした手ずから私の手に万年筆を「ほい!」と手渡してくれた。深山の巌のように険しいしかめ面の職人の顔がそのときだけ一瞬、柔和に波立った。彼からいただいた言葉は、「力を入れずに紙にインクを置くように」というものだった。はたしてインクを付けて書いてみると…どうだろう!紙の面に対してまったく抵抗がなくインクが面白いようにスルスルと出てくるではないか!これがなんとも言えないのである。当時、シャープペン、ボールペンばかりになじんでいた私は、万年筆の書き味にこのときすっかり惚れ込んでしまった。本当に「騙されたつもりで」使い始めた万年筆なのだが、書くのに何の力も入れなくて済むせいか(せいぜい万年筆の自重で書く)、手首の腱鞘炎の痛みが潮をひくように消えていき、いつしか肩こりも治まった。それから私にとって万年筆は手放せないツールとなった。大切にペンケースに入れてどこへでも持っていった。
では万年筆のどこがいいのであろうか。鉛筆・シャープペン・ボールペン、これらに比べると、紙に対する万年筆の「接紙感覚」がまったく違うのである。前三者のこれらの筆記具は紙面を引っ掻くようにして痕跡を残すためにしっかりとペンを握らなければならないために「荒々しい」感触しか手に与えてこない。どうしても自然と筆圧が高くなっていってしまう。いわば「デコボコの砂利道」を走っている車のハンドルを握るようで手への負担が大きいのである。しかし万年筆は違う。万年筆は欧米では “fountain pen” なのであって、はじめは日本でも「泉筆」と翻訳されていたように、毛細管現象を用いてインクを切り割り先端のペンポイントまで導いてくるので、ペンポイントと紙面の間には常にインクが供給されているために、手にはほとんど抵抗なく濡れた線を紙の上に引いていくことができる。ペンポイントから渾々とよどみなく湧き出るインクは潤沢かつ豊潤。手元から清冽なせせらぎが流れていくようで、自在なインクの線を紙のキャンバスに描いていけるのだ。その感触は官能的でさえある。万年筆から受ける感覚は、他の筆記具で受ける感覚とはまったく別種のものだ。無理に力を入れる必要がないから何時間でも書いていられるのである。私などは何も書くことがなくとも、万年筆で紙に意味もなくただただ線を引いているだけで心がやすらぐ。書き味そのものによって脳内にドーパミンがじわじわ湧いてくる筆記具など、探したってそうはないだろう。
海外では書類のサインも日本のような印鑑ではなく手書きのサインをするために、まだヨーロッパにおいて万年筆はいまだに一定の地位を保っているらしい。実際、フランス人やドイツ人に話しを聞くと、ドイツやフランスでは小学生の時代から、ノートや答案には万年筆で書くようにしつけられるという。なぜ万年筆を子供の頃から奨励するのかと彼らに問うたところ、手直しなどせず一度で完全な文章が書けるようにということである。そういえば、ヨーロッパの作家たちの手稿や手紙などの筆跡は惚れ惚れするほど美しいことを思い出した。額に入れて眺めていたいほどである。
以前、NHKの「美の壷」という番組で万年筆が取り上げられたことがあった(2007年6月8日放映)。私も興味深くその番組を見ていたのだが、ペン先(ニブというのだが)への言及は確かにあったのだが、「美」のツボとだけ言うだけあって、セルロイドや漆蒔絵の美しい軸の万年筆ばかりに焦点が当てられていた。私としては、万年筆の魅力は軸よりもやはりその「書き味」にあると考えている。高蒔絵や肉合蒔絵は確かにとても美しいのだが、もはや芸術品であるために価格が非常な高額になってしまい、(これらの蒔絵を実用にしている人はわぁすごいなぁと思います♡)蒔絵軸万年筆は実用よりもコレクション向きであろう。(尚、漆蒔絵万年筆をご覧になりたい方は、東京・京橋のパイロット本社ビルにいらっしゃれば歴史的な蒔絵の名品を見学できます。)
執筆するのに万年筆にこだわる作家は多い。昨年の春先(2012年1月〜2月末)、横浜山手の神奈川近代文学館で「作家と万年筆」という展覧会が開催されていたので行ってみた。吉川英治、大佛次郎、柴田錬三郎、井上靖、渋澤龍彦、向田邦子など錚々たる顔ぶれの作家の万年筆が並んでいた。最も多いのがペリカン、次がモンブラン、次がパーカーというところであった。作家の商売道具として何十年も働き続けたどの万年筆もかなりの年季が入っていて、ある種の凄みが感じられた。
先にあげた鉛筆・シャープペン・ボールペンという筆記具の中で数十年も後の世まで残って使用できるという筆記具はあるだろうか。(シャープペンは芯の規格、ボールペンもリフィルの規格が変わってしまったら使えなくなってしまう。)万年筆はインクさえあれば、数十年前の個体でさえ使用可能なのである。実際、私は60年前の万年筆でさえ現役で使っている。万年筆はペン先とインクの吸入機構のメンテさえしっかりやっておけば、半永久的に使えるのである。
親交のあった方々からうかがうと、ここ最近の作家では井上ひさしと開高健は特に万年筆にこだわっていたと聞く。開高健などは「万年筆は手の指の一本になってしまった」とまで言っている。端正な文字で原稿の升目を埋めていた三島由紀夫は(ちなみに三島由紀夫と川端康成の原稿はこれまた惚れ惚れするほど美しい)、当時流行り始めたタイプライターを決して使わないのは、ペン先がいま作品を構想している頭脳と一体化しているからだとどこかで書いていたが、あえて万年筆を使うのには非常に説得力があるなぁと思ったことがある。
彼らにとって万年筆はもはや肉体の一部なのだ。
それと比べるとパソコンは「肉体の一部」とはとても言い難い。パソコンはなるほど確かに編集機能が優れていて、あとからでも文章が好きな箇所に挿入できるし、添付ファイルでどこでも送れるしと長所ばかりなのだが、どうしても身体と文字とが電気的なもので一旦「遮断」されているように感じるのだ。そこにはどこか隔靴掻痒感が伴うことは否めない。やはり頭と直につながっている万年筆でこれから書こうとしている文章のメモなり構想なりをつくってからでないと、なかなかパソコンに向かえないのだ。不思議なことに、なかなか思うように文章が思い浮かばず何日も苦悶と伸吟を繰り返しているときでも、万年筆を握って真っ白な紙の上に、意味のない漢字でもひらがなでも訳のわからない記号のようなモノを書き連ねていくうちに、大脳のどこの襞の裏側かはわからぬが、どこからかアイディアがふっと湧き出てくるのである。ある程度、それがまとまってフローチャートなどを書いて構想が出来上がってみてからはじめてパソコンのお世話になる。手書きでフローチャートを作るなどとは一見したところ無駄な作業のように思えるが、そうでもない。1970年に宇宙で不運な事故のためにコントロール不能となったアポロ13号のクルーたちは、既成のマニュアルなどがまったく役に立たず、手書きで作業手順をフローチャートにしてそれを実践して危機を乗り越え、地球への帰還を可能にしたということなので、「手書き」というものはそう馬鹿にしたものではないのだ。(※ちなみに宇宙で万年筆はまったく役に立たないのでご注意を!)
もう一つ万年筆でもって手書きで書くことには効用がある話をしておこう。万年筆の手書きにはどんな悪筆でも味があるように「見える」のだ。おそらく万年筆のニブの先から繰り出された線の強弱によってインクの濃淡が生じ、引いた線そのものに表情が出るために文字に「味」があるように見えるのではないか。私は自他ともに認める悪筆の持ち主なのだが、あえて味があるように見せかけるように手紙などはもっぱら万年筆で書いている。しかし、悪筆を自認するこの私でさえ史上最悪の「地獄の悪筆」の持ち主と考える友人がいる。仮に彼の名をYとしておこう。彼は恐ろしく字が下手で、何十年も友人である私でさえ彼の書いた文字を解読するのに大変に骨が折れる。彼から届いた年賀状さえ、読むのをパスしてしまうほどである。彼はある地方で医者をしているのだが、あるとき彼から電話をもらった。そのときに、Yが書いたカルテが読みにくくて仕方がないという病院の事務方のクレームをよくもらっているとふと私に漏らした。彼の悪筆ぶりをよく知っている私はさもあらんと思ったのだが、そこで私はYに万年筆を薦めてみた。良い万年筆のメーカー、良い万年筆の専門店、良い万年筆の砥ぎ師など私の信頼できるところをすべて彼に伝えたのである。
はたして、彼がカルテの記入をボールペンから万年筆に変えるとすぐさま病院事務方から反応が返ってきた。それまでの彼の悪筆ぶりがあまりにも甚だしかったために、反響はなおさらすさまじかった。「Y先生の筆跡が別人みたいにまったく変わった!! 一体どんな魔法を使ったんですか?」と。これは誇張でもなんでもない。実話である。
そうして私は今日も古ぼけた愛用の万年筆を手に、このような駄文を書き連ねるのである。(了)
2014年08月05日
44. 赤インクにご用心!
モンブランに「ルビーレッド」という赤いインクが販売されていた。もう数年前に廃番になってしまったが、目に鮮やかで、訂正すべき箇所などがパッと目に入って来るということで重宝していたのだ。しかし、あるときふと気づいたことがある。インク瓶の底になにやら白い沈殿物があるのだ。
万年筆を使う仲間に訊いてみると、やはり赤いインク瓶の底にたまる白い沈殿物のことはみなさんご存知だった。某万年筆屋さんのおやじさんにうかがってみたら、その白い沈殿物はまさに「危険物」だということである。この沈殿物が、万年筆のペン芯にある穴を詰まらせてしまうようなのである。特に私が長年愛用していた「ルビーレッド」は強いインクであり、手に付いたら洗っても洗ってもなかなか取れない。このような特性は万年筆の内部にもしぶとく付着してしまいどんなに洗っても取れないということになる。流れやすいかどうかというのは万年筆に優しいインクかどうかを判断する目安となるそうである。
インク瓶の底に沈殿物がたまるインクは危ないインクということである。
これを聴いて私は即座に赤い万年筆からルビーレッドを抜いた。このブログのシンボルカラーが赤なので、このブログも危険かも(笑)。いずれにしても赤は危険色なのである。
ちなみにルビーレッドは危険なインクと言われたが、同じくモンブランから出ていたボルドーは大丈夫であるそうだ。(ボルドーはかの有名な中谷デベソさんがお使いになっているインクである。)あとセピアも大丈夫だということである。
いずれにせよ、「赤」「紫」のような濃い色で流れにくい色は、やはり万年筆にとっても危険な色であるので、使っている方々は注意をされたい。

2012年06月17日
43. 司法試験と万年筆
今年は法科大学院の志願者が1万8000人で史上最低の志願者だというニュースが報じられていた。2004年にこの制度がはじまったときは7万2800人だったというから驚くべき減少率だ。
はじめは法科大学院を卒業して新司法試験を受ければ半分が受かるというふれこみではじまったが、実際は試験に受かるのは二割程度だからこれはもう大失敗したと言っても過言ではない。私の友人たちにもそれまでの仕事をやめて、法科大学院に入った友人がいたが、相当に優秀な友人でも膨大な量の勉強量とプレッシャーによるストレス、新司法試験の受験は三回までといういわゆる「三振制」などで挫折してしまった者もかなりいる。
彼らは人生において方針転換を余技なくされた。まだ再就職が決まらない友人もいる。法科大学院の学費は国公立であってもきわめて高額なので、彼らは大切な時間とお金を浪費したことになる。20代ならともかく30代以降の優秀な人材がこんな境遇にあることに正直怒りを覚える。
私もこの新司法試験制度がはじまるときに、(友人たちが受験するらしい話を耳にしていたので)これに関してはだいぶいろいろな記事を読んだ。この制度は世間の一般常識を司法の世界に取り入れられるように、仕事をしていた人たちにも門戸を拡げるのもその特色のひとつだと書いてあったが、フタを開けてみたら、既習者でないとほとんど合格は無理であるし、実際は法科大学院に入っている者でないと合格は絶対と言っていいほど無理だと聞いた。
大学にも責任がある。他の大学も法科大学院を設置したからと、「バスに乗り遅れるな」とばかりに、雨後のタケノコのように日本全国に法科大学院が粗製乱造された。この馬鹿げたお祭り騒ぎのために、大学はどれだけの無駄カネを支払ったのだろうか。そしてそのツケを払わされるのが、将来もある人たちだというところがたまらない。
これは国家的「詐欺」ではないのか。この新司法制度「改革」の失敗を誰が責任をとるのか。
…とここまで書いてきて、万年筆のことを思い出した。
司法試験は大量の筆記を要求される試験のため、受験生の中にはこれをきっかけに万年筆を買う人が多い。実際、私の万年筆を通じて知り合った友人の中にも、司法試験のために万年筆を購入したことで万年筆にはまってしまったという友人もいる。数少ない万年筆の需要の中には、この司法試験のために万年筆を買うという人々がかなり含まれているという話は、文具販売店の人から聞いた。
新司法試験制度の失敗を機に、司法試験の信用が地に落ち、受験者も大幅に減ってしまって、それがただでさえ少ない万年筆需要のさらなる減少につながってしまわないか今から危惧している。
2012年06月10日
42. ペリカンM800茶縞
ペリカンM800の茶縞が出るらしいという情報がある人から飛び込んだ。「M800の茶縞」と言えば、万年筆マニアは「!!!」となるに違いない。というのも、ペリカンM800茶縞は1991年にスペインで750セット(万年筆とボールペンのセット)が生産されたことがあるということくらいで、ほとんど幻と言える万年筆である。しかも発売されたという記録がない。どうも贈答用としてテスト生産されたようである。(ペリカンのバイブルとも言える J. Dittmer & M Lehmann著Pelikan Writing Instruments 1929-2004 によれば、「日本向け」とあるがそれは誤り。)
それまで私もペリカンの資料で写真を見たことがあるくらいであった。数年前に、知人の一人がそのセットをミント状態で入手して話題になった。そのセットは雑誌『趣味の文具箱5』でも取り上げられたから、ご覧になった方もいらっしゃるだろう。個体差もあるのかもしれないが、そのM800は茶縞が深く微妙な色合いで実にいい色の茶縞であった。
現在のペリカンの万年筆は緑縞と青縞がオーソドックスな色ではあるが、実は茶縞にはとても人気があり、数年前にも茶縞のM400(M400SE)が限定で発売されたこともある。
その茶縞のM800がこんどペリカンから発売されるという。私はあまりにも驚いて、関係各方面に「本当なのか?」という趣旨の問い合わせをした。すると返ってきた答えはいずれも本当だということだった。
ただ、いつになるかは微妙なようで、今年の秋頃という意見もあるが、大方はもっと遅くなるだろうという見通しを示している。
ペリカンの代表的な万年筆であるM800に茶縞が出れば、「万年筆マニア」の方々は間違いなく購入するし、いわゆる「潜在ユーザー」もこれを期に万年筆を購入する良い機会になるだろう。
ペリカンの「茶縞」は非常に複雑な色合いで、ルーペで眺めていると深い樹林の幹の間に迷い込んだような印象を受ける。
M800はどんな色合いの茶縞になるのか楽しみではある。
salty7
2012年06月02日
41. ブログ再開のご挨拶
ここ数年、身辺にいろいろとあって、ブログを休載させていただいておりました。
とてもブログを書けるような状況にはなかったのです。しかし、昨年2011年3月11日の東日本大震災のとき考えたのは、何か書き残しておくべきことはないのかということでした。私のようなものが、被災した方々に対して何もできることはありませんが、いつなんどき自分の生命も突然終わりを迎えるとも知らないこの世の中で、たとえ趣味のことであろうとも、気づいたことや感じたことを書き残しておくのは、現世で生きているもの責務の一つかと考えました。
確かに数年間の間、ブログは休載しておりましたが、いつもこの手にあった万年筆で手紙を書き続けておりましたし誰に手紙を書く用がなくとも、万年筆で白い紙にインクで濡れた線をひいているだけで、無聊の慰めにもなりました。
いままで私の拙いブログをお読みくださった方々、そして私を励ましてくださった方々のためにも、少しでも恩返しをするために、日常の特に万年筆にまつわる何事かを書き残しておこうかと思います。
本日は私と瓜二つだった肉親の誕生日でもあります。私自身も生まれ変わったつもりでブログを再開いたします。
なにとぞよろしくお願い申し上げます。
2012年 6月2日 横浜開港記念日の夜 salty7記
2008年06月23日
40. 沖縄戦と万年筆
今日、6月23日は「慰霊の日」。すなわち63年前に大勢の民間人をも巻き込んだ組織戦としての沖縄戦が終わった日とされる。
少し前に沖縄に行ってきた。特にあてがあるわけではなく、単なる観光旅行である。しかし、いざ沖縄を歩いてみると、いたるところに63年前の戦争の「傷跡」が残っていて、本土ではもはや過去となり遠く感じられる戦争も、ごく身近に感じられた。実際、地元で発行されている新聞を開いてみると、戦争に関する記事が必ず目に入り、戦争に対する本土との「温度差」が感じられた。沖縄では、まだ「第二次大戦」は過去のものではないのだ。
首里城は現在では、壮麗な石積みがあり、朱色が目にも鮮やかな守礼門で知られるが、戦争時の記録写真を見ると、爆撃で徹底的に破壊し尽されて、黒焦げになった木がまばらに残るだけの禿山になってしまっている。首里城のいまのりっぱな石垣の姿は、一から石を積みなおしたものなのだ。
沖縄の観光地は、戦争にまつわるものが多い。ひめゆりの塔に行ってみた。ひめゆり部隊とは、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の学生たちが学徒動員された看護部隊のこと。ひめゆりの塔の記によれば、動員数が297名。「合祀された戦没者」が224名だという。
ひめゆり平和祈念資料館に入ると、ひめゆり部隊で亡くなった学生一人一人の、顔写真(写真がない人もある)、その人柄・学校などでの活動、どのように亡くなったかということがよくぞここまで調べたなと思うほど詳細に出ているパネルが展示されていて、現在であれば、渋谷のスクランブル交差点あたりを闊歩していそうな年代の女子学生たちがむごい亡くなり方をしなければならないことに胸が塞がる心地がした。パネルの中の彼女たちは、無垢な瞳で見学者たちを見つめている。一人一人のパネルを丹念に読んでいくと、未来に開けていただろう人生が失われてしまった無念さがひしひしと伝わってくる。一人一人の人生は重い。戦争は単に犠牲者の「数」の問題で語られるべきではないと思った。
ひめゆり部隊が、負傷兵のために決死の活動をしていた場となった洞窟から出た遺物の中に万年筆があった。これはある学生が入学祝に父親から買ってもらったものだそうだ。私にはパイロット製万年筆のように思えた。軸の半分以上が鍾乳石で覆われていて、実に痛々しい。平和な時代であれば真っ白いノートの上に自由な線を描いていたろうに・・・。鍾乳石でできた滴が涙滴のように見えた。
※追記: 地元新聞の「沖縄タイムス」2008年3月28日朝刊に、沖縄戦で戦死した万年筆の持ち主が刻銘から特定でき、そのご遺族が万年筆が見つかった壕に慰霊に訪れたという記事を見つけたので、ここに転載しておく。以下引用。
戦死した父と“再会”
沖縄戦で亡くなった父の名が刻印された万年筆が見つかったとの知らせを頼りに、北海道から次女の千葉郁子さん(68)らが沖縄入りし27日、糸満市宇江城にある発見場所の壕などを訪れた。終戦から63年を経て届いた形見の品を握り締め、「バイオリンが好きだった父」に思いをはせた。(与那嶺功記者)
万年筆の刻銘を確かめた千葉さんは「父がそばに居るような気がして胸がいっぱい。家で待っている母に早く見せたい」と涙ぐんだ。
万年筆は戦没者の遺骨収集を続けている修養団(本部・東京)メンバーが今年二月、日本兵を祭る「山雨の塔」地下の自然壕で見つけた。刻銘の「槙武男」から、所有者が北海道新得町出身と判明、千葉さんらの訪問につながった。
壕内に入り「迎えに来ましたよ」と心で呼びかけたという千葉さん。故郷の酒と水、お菓子を供えた。「暗く狭苦しくて息も詰まりそう。どうやって生きていたのかを思うと切なくなる」と表情を曇らせた。
修養団沖縄支部の宮城英次会長から万年筆を受け取った、千葉さんは「本当にありがとうございました」と深々と頭を下げて感謝していた。(引用終わり)
2008年03月31日
39. 桜、菜の花、春の海
この季節、美しく咲く桜の花々を眺めていると、ある女性の顔がオーバーラップしてくる。数年前、ある女性に恋をした。その女性は、私よりずいぶん年下であったが、古風な考えかたをするしっかりした人で、性格は明朗快活。春風のように穏やかで気立てがよく、とても心のやさしいひとだった。年は離れていたが、違和感なく何でも話すことができたし、穏やかな空気と時間を共有できる人だった。桜の花びらのように色白で細面の美しい人だった。活発な人で、いつもスニーカーにパンツというスポーティーないでたちで私に会いに来た。写真がとても上手で、写真を撮りに、いろいろなところに一緒に出かけた。わけあって、その女性とは結ばれることができなかったが、私にとっては理想の女性だった。ル・クプルの「ひだまりの詩」という歌を聴くと、きまってその女性と過ごしたある春の一日のことを思い出す。
(Le Couple 「ひだまりの詩」→http://jp.youtube.com/watch?v=U4lB31sKUBk&NR=1)
一番思い出に残っているのは、春の風景を撮りに、鎌倉へ一緒に行ったときのことである。彼女がブルーのスカーフを巻いていたのを覚えている。鎌倉は、周囲を山々に囲まれ、その胸襟を海に開いている地形である。そのため気候が温暖で、東京でまだ桜が開花していなくても、鎌倉では一足早く山桜の開花を見ることができる。観光地となってしまっている若宮大路や小町周辺ではなく、山の向こうにある切り通しを目指して、歩くこととなった。その日は、前の日までの春の嵐がうそのような陽気で、ぽかぽかとした暖かい、春らしい日であった。彼女と手をつなぎながら、急な斜面をのぼっていると、握っている手もいつしか汗ばんでくる。
山の上の方にある山桜は、すでに開花し、かすかにピンク色がかった白い花弁を日光に輝かせている。春の陽光に浮かび上がるやや赤みがかった若葉と白い桜花の端正な組み合わせは、まるで屏風画のような古典的な美しさがある。枝先だけ咲きほころんだ山桜の枝の間から、うぐいすの声が聞こえた。春風に乗って、小鳥のさえずりが聞こえてくる。どこかでコジュケイも鳴いている。メジロの夫婦が仲良く桜の花をついばんでいる。鳥や花々は春を満喫しているのだ。
山を登りきると、木立が途切れて視界が突然ひらけ、海が見える。春の鎌倉の海が、春霞のもとで春の陽気の温かさにゆっくり体を伸ばすように、波も穏やかに広がっていた。海面はきらきらと輝いていた。山の上から見下ろすと、こじんまりした瓦屋根の小さな寺の背後にある開けた土地に菜の花畑があって、一面の菜の花が見渡せる。目にも鮮やかな黄色の絨毯が敷かれていた。穏やかな春の風景だった。そういう風景の中で彼女が、まるで時間を惜しむかのように、夢中でシャッターを切っていた姿が脳裏に焼きついている。
それが彼女との最後の思い出となってしまった。以前、彼女の誕生日に、前から欲しがっていたデモンストレーターの万年筆をプレゼントしたことがある。彼女はそれをとても気に入ってくれたので、私はうれしかった。あるとき彼女が撮影した鎌倉の海の絵葉書がポストに届いた。鎌倉の海の色のような穏やかな色合いのブルーのインクを使って丁寧な筆跡で私を気遣う文面が綴られていた。葉書を書きながら、私と一緒に眺めた春の鎌倉の海を思い出してくれていたのだろうか。写真の中の鎌倉の海は、あのときと変わらず陽光にきらめいている。あの時の一瞬が永遠になったのだ。
春の鎌倉の風景と彼女との思い出は、私の人生で最も美しい思い出となった。あの美しい一瞬一瞬が永遠になった。宝石のような一瞬一瞬だった。私の中で、鎌倉の春の海と彼女の笑顔は、穏やかな光をきらめかせていつまでも輝いている。
2008年03月23日
38. 彼岸の再会
万年筆の最初の記憶はいつの頃だろう。記憶の糸を手繰っていくと、薄暗い書斎でせっせと書きものをしていた父の背中が瞼に浮かぶ。その手にはいつも黒い細身の万年筆が握られていた。私の父親は、ある役所の技官だった。役所の仕事で全国を飛びまわり、なかなか自宅に帰ってこれないほど多忙ではあったが、たまにわずかな休みが取れると、車で近場の海によく連れて行ってくれた。カーステレオからは井上陽水や荒井由美の曲がいつも流れていた。大きな父の手にぶら下がりながらはしゃいで海辺を散歩したものだった。普段忙しい分、努めて子供に接しようとしてくれていたようだ。今から思うと、子煩悩な父親でもあった。
父が在宅中、よく書斎にこもって何か書きものをしていたことがあった。何度か様子を覗きにいったことがあるが、なにやら役所の原稿用紙に細かな文字で升目をせっせと埋めていた。その万年筆がどこのメーカーのものかは今となってはわからない。おそらく国産の万年筆ではないかと思う。当時、私が父の書斎に入れば仕事の邪魔になっていたはずであるが、それで怒られたことはなかった。無論、悪さをすれば厳しく叱られたが。その薄暗い部屋で、父から最初に漢字を教わった。青焼きの役所の書類の反故紙の裏に、何度も何度も漢字を書いて見せてくれた。今でも父から教わった漢字を書くときは、父の思い出がよみがえる。
そんな父は、公務中の事故で死んだ。もう30余年前のことである。あの事故から年月が経ち、とうとう私は父が死んだ年齢に達してしまった。私も父と同じように万年筆で原稿用紙の升目を埋めていく作業をしているのはなんとも不思議な気がする。父はあのとき、万年筆で何を書いていたのだろうか。まず考えられるのは役所への報告書であろうから、30年ほども経ったいま、父が書いた文章を目にすることはよもやあるまいと思っていた。
だが、現在はインターネットの時代である。たまたまある技術系の論文を検索していたら、なんと30数年前に父親が書いた論文がヒットした。墓参りの前の晩だった。海でなくした大切なものを、何年も経ってから浜辺で拾ったような感じである。父の論文はPDFファイルとなり、インターネットの海の中を漂っていたのだ。
この世から肉体は消滅しても、生きていた証がネット空間の中では生き続けているのである。亡くなった若き両親に再会するという山田太一原作・大林宣彦監督で映画になった『異人たちの夏』という作品があったが、私はネット空間の中で、亡き父親と再会したのだ。その論文は極めて専門的な内容なので、もちろん完全には理解しかねるが、文章を辿っていくと生前の父親の肉声が聞こえてくるような心地がして、懐かしさと悲しみがないまぜになったようななんとも言いようのない気持ちに包まれた。
むせ返るような線香と菊花の香りのなかで、父は生きていた証を同じ年齢になった息子の私に見せたかったのかなと墓石を眺めながら考えていた。
もうすぐ父の命日が来る。
2008年03月18日
37. デモンストレーターと色インク
デモンストレーターというのは、透明軸を持つ万年筆のこと。本来は、万年筆のメーカーが吸入機構を顧客に説明するデモンストレーションを行なうために、通常の量産型モデルの他に極わずかにこのデモンストレーターを作ったらしい。このようなモデルが市場に出ることは非常に稀なので、市場に出ると、価格はあっという間に高騰してしまう。
50年代のペリカン400のデモンストレーターをインターネットで見たことがあるが、価格はかなり高かったし、モンブラン149などは、デモンストレーターが存在したらしいが(ネットでしか見たことがない)、私などにはとても手が届く価格ではないだろう。実物では、モンブラン121のデモンストレーターを見たことがある。ちなみに私はデモンストレーターは一本も持っていない。値段が高すぎたし、インクを変えるとき掃除が面倒くさそうだから(笑)。
このようにデモンストレーターとはかなりの「レアモノ」だったのだが、数年前からデモンストレーション用だったモデルを、量産するメーカーも出てきている。たとえば、ペリカンM205やパイロット・カスタム74、レシーフ(Recife)のクリスタルなどは比較的リーズナブルな価格で提供されている。
私の周りでもこのデモンストレーターを愛用している人たちがいる。デモンストレーターの中にきれいな色のインクを入れて楽しんでいる。私も試し書きもさせてもらったが、なるほど書き味だけではなく、透明な軸の中を伝い流れるインクの色も楽しめる。男性よりも女性の方が多いのは、女性の方がファッションセンスに見られるように色彩の感受性が豊かなせいだろうと思う。
数本のデモンストレーター万年筆を愛用している女性から手紙をいただいたことがあるが、いろいろな色で書いてあって目にも鮮やかな美しい手紙であった。なるほどこういう使い方もあるものだなと感心した。ファッションのように色インクをデモンストレーターで楽しむのは、私のような無粋な「オッサン」には思いもつかなかった。
窓の外も、灰色一色だった冬から、梅・木瓜・モクレン・水仙・スミレなど色とりどりの花が咲く春の景色にいつしか移行している。様々な色インクをデモンストレーターに入れて百花繚乱を楽しむのもいいかもしれない。
2008年01月24日
36. 古くて怖いインクの話
先日、久しぶりに銀座にある「悪魔の館」に行ってきた。ちょっとクラシックな扉を開けると、店主の仏のようなFさんがいつも笑顔で迎えてくれる。このお店は、まだ万年筆が現在のようなブームになるずっと以前からヴィンテージ万年筆を扱っている。
たまに行くと、すごい万年筆が入荷しているので、入るとまず目を皿のようにして、Fさんが座っていらっしゃる机の上、そしてガラスケースの中を注意深く視線を向けるのである。「ふむふむなるほどいいのがあるな」と心の中で独り言をつぶやいて座る場所を探す。
お店の中はいつもお客で満杯なので、座る場所を探すのが一苦労なのだ。いまFさんと話しているのは、最近、万年筆を使い始めたらしい30代後半くらいの男性。どうも使い始めた万年筆がインクを吸わなくなったらしい。
その男性、古いピストン式万年筆をお父上からもらったので、うれしくてたまらないご様子。しかし、家にあった古いインク(どうも30年以上は経ったインクのよう)を吸っている内に、(落としたり乱暴に扱ったりしたわけではないのに)いつの間にか、インクを吸わなくなってしまったという。
Fさんは、その男性の話を親身に耳を傾けながら、手を忙しく動かし、万年筆を分解している。そうこうしているうち、万年筆はピストンが外され、ペン先のユニットも外されて、見る間にバラバラになっていく。
「あ〜ぁやっぱり!」とFさんは大きなため息をついた。「ペン芯の溝に、カスが一杯たまっている!」。インクに含まれていたカスが、ペン芯の溝を塞いでしまい、ペン芯が「窒息状態」に陥ってしまっていたのだ。
最近、万年筆がブームになって、万年筆が使う人が増えていることはとても喜ばしいことである。よくあるのが、古くから家にあった万年筆を引っ張り出し、やはりそのときからあったインクを万年筆に吸わせるケース。
ずっと昔からあった万年筆は長い間、ピストンを動かしていないので、ピストンを動かすときは、眠っている子供を起こすように、少しずつだましだまし起こしてあげること。いきなりピストンを動かすと、無理な力がかかって、ピストンを破壊しかねない。細心の注意が必要となる。
さて、インクであるが、どなたかが「インクはナマモノ」とおっしゃっている。インクはもってせいぜい数年。それこそ、30年も経っているインクは、瓶の底に不純物が堆積していても不思議ではないのである。そのインクのカスが、万年筆を「窒息」させて、万年筆そのものを殺しかねないので注意が必要である。
最近、ジーンズでも車でも万年筆でも「ヴィンテージ」ブームでもあるが、こと「インク」に限っては「ヴィンテージ」は怖いということを知っておいてよいかもしれない。
さて、これは古いインクが万年筆にとって「有害」であるというお話。しかし有害なのは、これだけではない。ある有名なインクメーカーの方から直接聞いた話であるが、昔は人体に有害であっても「発色」をよくするために、有害な染料を使ってインクを使っていた時期があったそうである。しかし、ここ最近は、人体に有害な物質を使う場合の規制が相当に厳しくなったため、有害な染料を使ってインクを作るメーカーはどこもないそうである。したがって、最近のインクメーカーどこでも、仮に誤って口に入ってしまっても(でも絶対に飲んだりしないでね)、人体には無害なインクを製造している。
昔のインク瓶は、なかなか趣きのあるデザインが多く、机のオブジェとして飾っておくのに良い。だから、私も一時、昔のインク瓶を買いあさったことがある。しかし、その中に入っているインクは、せいぜい眺めているのにとどめ、使わないのが自分自身にも万年筆にも賢明であるようだ。
そうこうしている内に、Fさんは、手際よく軸、インクカスの詰まったペン芯を丁寧に洗浄し、あっという間に、万年筆は元の通りに組みあがった。
件の男性は、「これからは新鮮なインクしか吸わせません。万年筆を壊してしまったら元も子もありませんものね。」と言って、ホッとした表情をして大切に万年筆をしまい、Fさんに深々と頭を下げて帰っていった。