おもしろいな、おもしろいな、お天気が悪くって外へ出て遊べなくってもいいや、笠を着て、蓑を着て、雨の降るなかをびしょびしょぬれながら、橋の上を渡ってゆくのは猪だ。(『化鳥』)


 JR中央線国分寺駅南口から10分ほど歩いたところに「丘の上APT兒嶋画廊」という個人運営のギャラリーがある。洋画家・児島善三郎(1893-1962)の孫にあたる兒嶋俊郎という人が代表をつとめている。
 「丘の上APT」という名のとおり、ギャラリーに続く石段を登りきって振り返ると、谷間となった家々の向こうに国分寺駅付近のビルディングが林立しているのを眺めることができる。
 この谷間こそ、大昔多摩川によって浸食され作られた国分寺崖線いわゆるハケであって、今はその谷底を密集する住宅街を縫いながら野川が流れている。 

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 はじめてこのギャラリーを訪ねることにしたのは、泉鏡花の短編『化鳥(けちょう)』をテーマにした作品展のチラシを家の近くのギャラリーで見かけ、惹かれるものがあったからである。
 『化鳥』は泉鏡花が23歳のときに発表した作品で、口語体で書かれている上に、語り手が少年であることも手伝って、鏡花の小説の中ではもっとも読みやすい。少年が周囲の人間をいろいろな動植物に見立てる‘おもしろい’趣向、橋のたもとの粗末な小屋に住む貧しい母と子の深い愛情。こういった要素が幸いして、大層美しい絵本にもなっている。(絵を描いているのは中川学という浄土宗の僧侶)

 ギャラリーはすぐにそれと分かる奇抜な概観で、ちょっと芝居小屋を思わせる。中はそれほど広くないが、靴を脱いで上がるような落ちつける空間で、ロフトに上るための木の階段がシックである。庭もまた展示空間となっていて、生垣の緑と国分寺の空とお伽噺に出てくるお菓子の家のような楽しいデザインの住居に囲まれた開放的な空間に、なんだかわからない銀色の物体が浮かんでいた。これも鳥か?
 たまにふらりと来て、ゆったりした時間を過ごすのに恰好のギャラリーである。
 
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 今回の化鳥展は『化鳥』をモチーフとして、複数のアーティストたちの作品(古布と奇木と絵画)をレイアウトし、鏡花の世界を現出しようと試みたものと言えよう。物語の中に出てくるキャラクターや背景だとすぐに判る作品もあれば、物語とは直接関係ないが鏡花らしい雰囲気(幽玄)を醸し出している作品もある。
 総じて、‘おもしろい’展示であった。 

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 ところで、『化鳥』に出てくる母子は、橋のたもとに住み、通行人から橋の使用料をもらって生計を立てている。
 橋のあちらには裕福な者たちが住み、こちらには貧しい者たちが住む。

 ちょうど市(まち)の場末に住んでる日傭取、土方、人足、それから、三味線を弾いたり、太鼓を鳴らして飴を売ったりする者、越後獅子やら、猿廻しやら、附木を売る者など、唄を謡うものだの、元結よりだの、早附木の箱を内職にするものなんぞが、目貫(めぬき)の市へ出て行く往帰りには、是非母様(おっかさん)の橋を通らなければならないので、百人と二百人づつ朝晩賑やかな人通りがある。(泉鏡花『化鳥』、以下同)

 この記述から察するに、この橋は両界にかかる橋、すなわち被差別部落と一般地域とをつなぐ橋(分ける橋)なのであろう。物語の主要人物に‘一般人’から冷たい仕打ちを受けて身の程を嘆き、職を捨てる猿廻しが登場する。猿廻しは被差別の民であった

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 母親はその昔被差別部落のある側で立派な家の奥方として裕福に暮らしていたが、落ちぶれて、夫を亡くし、人から散々苛められ、今はこのような物乞いすれすれの暮らしをしている。
 そんな母親が身に着けた処世訓が、「人を人と思わずに、獣(けだもの)と思いなさい。人だと思うからこちらも(期待する分)苦しくなる。はじめから獣だと思っていれば、どうってことない」というものである。それを年端のゆかない息子に教えている。

 人に踏まれたり、蹴られたり、後足で砂をかけられたり、苛められて責(さいな)まれて、煮湯を飲ませられて、砂を浴びせられて、鞭打たれて、朝から晩まで泣通しで、咽喉がかれて、血を吐いて、消えてしまいそうになってる処を、人に高見で見物されて、おもしろがられて、笑われて、慰みにされて、嬉しがられて、眼が血走って、髪が動いて、唇が破れた処で、口惜しい、口惜しい、口惜しい、口惜しい、畜生め、獣めと始終そう思って、五年も八年も経たなければ、ほんとうに分ることではない、覚えられることではない・・・・

 物心つくころより、やさしい母親の膝下でこの処世訓を寝物語のように聞かされてきた主人公は、それをしっかり身につけ、自分に冷たく当たる道行くお偉いさんや学校の先生はじめ世の人々を「動物や鳥や植物」に見立てる習慣を会得している。まるでゲームのようにそれに興じている。
 それが「おもしろいな、おもしろいな」という子供らしい呟きの正体なのである。