ICUオケ

日時 2017年4月22日(土)14時~
会場 府中の森芸術劇場どりーむホール
曲目
  • E.グリーグ/交響的舞曲 作品64
  • J.シベリウス/交響曲第2番ニ長調 作品43
  • アンコール J.シベリウス/交響詩「春の歌」
指揮 井崎正浩

 シベリウスは、交響曲第2番について「魂の告白である」と述べたそうだ。自らの娘も含め近親者を次々と失った作曲当時の彼の魂の遍歴――苦しみ、悲哀、絶望、祈り、救い、受容――が歌われているのであろう。
 とりわけ、それが色濃く表れているのが第2楽章である。「ドン・ファン」をモチーフとし「死」をイメージさせる第1主題と、「キリスト」をモチーフとし「祈り」と「救い」をイメージさせる第2主題が交互する。西洋的な、キリスト教文化圏のパラダイムである。それは、現世における「苦悩」を、最終的には神(Vater)の救済と癒しによって「喜び」に昇華させたベートーヴェン《第九》の世界に通ずるものである。
 
 しかし、この交響曲の真価は第3楽章以降、とくに第4楽章にあるように思う。
 
 シベリウスが母国フィンランドの自然を愛し、それを見事に描き出したのは知ってのとおりである。それも写実的であると同時に抽象的に。たとえば、今回のアンコールに取り上げられた『春の歌』にみるように、実際の春の訪れの風景を描写している一方で、長く寒く陰鬱な北欧の冬の終焉を迎えた人々の心の底から湧き出るようなしみじみした歓びが表現されている。自然描写がそのまま心理描写であるところにシベリウスの音楽の特徴があり、そこに和歌や『源氏物語』に原点をもつ日本文学との相似を見るのである。日本人のシベリウス好きの理由はそのへんにあるのではなかろうか。
 
 第4楽章は明らかに「自然」を描いている。
 草も木も花も虫も動物も、あらゆる生命が生まれては死に、死んでは循環し、新たに生まれくる自然。水も風も土も火も、あらゆる現象が生じては滅し、滅しては循環し、形を変えてまた現れる自然。そんなありのままの自然のなりゆきを映し出している。その意味では‘しぜん’というより‘じねん’である。
 シベリウスの苦悩を最終的に癒したのは、「キリスト=宗教」ではなくて自然だったのではないだろうか。自然のありのままの姿(=諸行無常)を知ることで、人間もまた自然の一部であり、生老病死は避けられないのだと、ただ謙虚に受け入れるしかないのだと悟ったのではないだろうか。それこそが彼の「告白」だったのではなかろうか。
 シベリウスは東洋的、それも老荘思想に近いように思うのである。

 国際基督教大学の学生たちの演奏は、正直言えば、決して安定しているとも巧みであるとも言えない。1曲目のグリーグは、ピンと張った弦のような若さゆえの力強さと張力は感じたものの、ハラハラするところもあった。井崎正浩の熟練の棒によって、なんとか瓦解せずにまとまっている印象。例えてみれば、寒い冬の朝に水たまりに張った氷の板を割らずに持ち上げようと懸命にこらえているといった感じを持った。
 しかし、学校名が奇跡を招いたのか。まさにシベリウスの第2楽章「基督(キリスト)」出現あたりから‘気’が充実してきて、後半は未熟さを超越する輝きに達していた。
 はじめて聴く者(ソルティ)が、この交響曲の真価を知るのに十分な演奏であった。