la vie du Fukuoka

日々の憂鬱、悔悟、悦楽、虚栄、無為、虚無を語る。精神医学、精神病理、医学全般、雑多な文学、語学など

私という病  中村うさぎ

私という病 (新潮文庫)
中村 うさぎ
新潮社
2008-08-28






著者、中村うさぎ氏、私はあまり詳しいことは存じ上げない。
しかし、氏の20年前の著作、エッセイ集であるが、たいそう気に入っていた。

「パリのトイレでシ・ル・ヴ・プレ」





「崖っぷちだよ、人生は」





私に推奨してくれたのは、当時高校生だった娘である。
抱腹絶倒、素直に面白かった。
内容についての記憶は残っていないが、他にも何冊か読んだ記憶がある。
が、氏が購入したブランド品の数々、その写真をうっとりと拝観したものの、それ以後すっかり忘れていた。
世は、まだバブル景気の興奮からまだ冷めやらぬころである。
ホスト通い、男性同性愛者、氏の配偶者もそうである、美容整形、氏が取り組むテーマの変遷はテレビにご出演の際、切れ切れに知るのみであった。

久方ぶりに思い出したのは、当直の深夜、車いすに座りずいぶんと変わった様子でテレビ出演なさった氏を見てからであった。
Stiff person症候群、私も聞いたことのない稀な疾患にり患なさったそうである。
呼吸停止から、死に瀕した、そのような重篤な疾患であった。
筋無力症とも、異なるそうであるが自己免疫疾患、らしいが確たることは不明である。
ステロイドを内服されているのであろう、そのような顔貌であった。
そこで、あっけらかんと臨死を語る氏に興味を覚えた。
たまたま佐藤優氏の「国家の罠」「私のマルクス」を読んだ後であった。


中村うさぎ氏と佐藤優氏の対談「聖書を語る」を読んでみた。

聖書を語る (文春文庫)
佐藤 優
文藝春秋
2014-01-04




まったく面白くなかった。
内容はほとんど記憶していない。
とうとうと語る佐藤氏に対して、冷ややか、手短に応じる中村氏、あまり熱意は感じられなかった。
この本を読むまで、中村うさぎ氏がプロテスタント、キリスト教徒であることを、私は知らなかった。
はっきりとは語っていなかったが、「デスノート」がらみで「予め選ばれた民の救済」について両氏が語っていたことから、カルヴァン派ではなかろうか。

他者という病 (新潮文庫)
中村 うさぎ
新潮社
2018-02-28



ついで本作
「私という病」
ともにアマゾン中古、1円でゲット。

「私という病」は昨日読了したのである。
なかなか印象深い記述である。
Stiff person症候群に罹患する数年前、47歳ころのご自身の体験を基にした作品。
乱暴に括ってしまえば所謂「私さがし」がテーマである。
中古1円で買えるということは、よく売れたがもう読む人は少ない、ということを意味してもいる。
冒頭、氏がデリヘル嬢体験を敢行する、という当時物議を醸した記述で始まるので、売る気満々であったことがしのばれる。

難癖をつければ、この実体験が実にゆるい、生ぬるいのである。
たった三日間、三年でも三か月、あるいは三週間でもない、それも飛び飛びでの三日間、お客様は計11名であったとか。
プロの方々から見れば、たった三日で何がわかるか、とお叱りの言葉が飛んできそうな、あくまで「なんちゃって体験」「おままごと」である。

さて中村氏にとって、デリヘル嬢体験とは、単に世間の好奇心を掻き立てる、ということが主目的ではなかった、それなりの立派な大義名分があってのことなのである。

その大義とは、中村氏が受けた「外傷的体験」に由来している。
そのつらい、心の底に鉛の如く重く沈み込んでくる体験とは、当時42歳の中村氏が貢ぎこんできたホスト君から受けた酷い仕打ち、なのだそうである。
ホスト君のまるでやる気のないおざなりエッチ、そのことに女性として酷く傷つくのであった。
その傷つけられた女としての尊厳を回復する行為、としてのデリヘル嬢なのである。

ここで読者は、中村氏が内包している奇妙な倒錯、我儘ぶり、視野狭窄に強い違和感を感じるに違いない。

 嵌狃」はその「彼」であるホスト君に敬意を感じ、欲望したのであろうか、ホスト君を一人の人間として。
◆嵌狃」は、2人で行う愛という行為を欲望したのであろうか?
その欲望があったとしたら、それをホスト君に遺憾なく伝達できたのであろうか?

中村氏の記述は、 ´◆´ともに否である。
中村氏が欲望したのは、「彼」では全くなかった。
愛がもたらす喜悦でもなかった。

中村氏が熱望したのは、ホスト君の欲望の対象となることであった。
氏の言を借りれば、女性としての価値を認められる、ということだそうである。
つまり他者の承認、女性としての価値の鑑定書の発行なのである。
「鑑定書」を欲望したのである。
これではホスト君もやる気を失うだろう。
いくら鈍感そうな男でも、この辺は人間であるからして敏感である。

最初からボタンの掛け違いがあったのだが、ここから大いなる迷走、暴走が始まる。
ただし、この暴走とは、ぐるぐる回る果てしない、答えの出ない方程式であり、換言すれば似たような言説を繰り返し、さらに今後も執筆する糧となりえるような、という計算づくの「豪快な暴走」なのである。

そもそも中村氏が声高に主張する自己同一性、俗にいうidentityとはなんであろうか。

みうらじゅん氏なら「やめときなはれ」と一蹴するような問いである。
答えの出ない、せいぜい論述しえても正解のない方程式である。
さらには、難問が残っている。
「女性」とは、そもそもなんであろうか。
中村氏は、予測通り何ら有効な記述を成しえていない。
むべなるかな。である。
なにせ最大の難問である。

Lacanは、semineire Encoreで万言を弄した。
その結果、「性関係はない」である。
性を指し示す言述はない、というのだそうである。




中村氏の場合、その根っこの議論は、棚上げされたまま、いわば超先験的、あらかじめ既知の「もの」として論じられる。
記述は、さらに奇異な方向へとなだれ込む。
男女の、いわば権力関係、上か下かという上下関係を論じ始める。
中村氏にとっては、女性は弱者であり、特に中村氏はそうだったそうである。
自らのOL時代の痴漢被害体験、セクハラ被害に、今もって腹に据えかねると怒りが爆発する。
その流れの下流、河口付近に件のホスト君も座すこととなる。

デリヘル体験とは、その弱者、権力関係の下に位置することを強いられてきた彼女が、金銭との交換として性的悦楽を供給する立場、いわば強者としての位置を一瞬にしてゲットし得る、まるで魔法のような特権性を獲得しうる稀有な体験、なのだそうである。
中村氏は、強者をひたすら目指すのである。
なんだかニーチェ的でもあるが。

「若さ」「美しさ」こそが男女間の強者、権力の源である。
強者こそが、主体としての実体性、強者として自己同一性を獲得できる。
この強者の位置に座しえないことが、氏の不幸であった、中村氏はそう主張する。
ミシェル・ウエルベックも、彼の作品中で主張しそうなテーマである。

確かに、曖昧模糊とした「性」或いは「女性」を、いわば数量的、定量的に数値化し得るがごとき「力学的関係」で捉えることは、一見よさげではある。
が、記述を読了してみても、何も記述しえていないことに読者は「やはり」という思いを確認するのである。
本来記述不可、或いは甚だ困難な「女性」なるものを、かくのごとき単一な指標をもってして指し示しえた、かのごとき記述を目にする読者は、空回りし続け摩耗していく中村氏に当惑、或いは不気味な違和感を抱かざるを得ない。
中村氏とは、まさに「自己愛の殉教者」である。
読者は粛然とせざるを得ない。


その中村氏が、終盤に「東電OL殺人事件」に触れる。
被害者の女性に、自己像を投影するのである。
「私によく似ている」
被害者の姿、というよりイメージに、中村氏は己の抱える葛藤を投影する。

が、これは妥当な記述ではない。
現実の事件はもっと闇の深い、底なしにである、いまだに真相の不明な事件であった。
中村氏は表層のみを記述し、その闇には一切触れないのであるが。
被害者女性が抱えていた深い精神病理(摂食障害、或いは周囲が唖然とするほどの人格水準の低下が伝えられ、一方で被害者の預金が1億円であった等々、詳細は不明である)、1審で無期懲役刑判決を受けたをネパール人男性の裁判経過、高裁での逆転無罪、いまだに真相は闇の中である。
気軽に引用できる範疇を超えた事件である。

この著書ののち、中村氏は「セックス放浪記」、秀逸な作品名である、なる著作を上梓、今度は新宿2丁目のウリセンの男性を求めての旅となったそうである。
こちらは、私はまだ未読である。

セックス放浪記 (新潮文庫)
中村 うさぎ
新潮社
2010-02-26













劇場  又吉直樹

劇場
又吉 直樹
新潮社
2017-05-11




又吉直樹氏の第2作長編である。
連休中に読んでみた。

例によってアマゾン、中古1円でゲット。
2,3日で読み終わった。
すらすらと読み終えることが可能である。
現在ほとんど記憶に残っていない。
読む価値のない作品か、と問われれば、他人の行動基準、価値観を云々できるほど私は賢くはない。
今様の若者たちの姿、いやもうそういう年代でもないのだろう、いつの間にか30代後半、いや40歳過ぎても自分が何をやっているのかよくわからない私。

かっての私でもあり、この駄文を呼んでいるあなたも、たぶんそうなのであろう。
心優しく、けして悪い人ではないのだけれど、人付き合いの下手な男と女の愛の物語、と言い切ってしまうと、もの凄く退屈な作品を連想してしまう。
ヒモ男の物語、そう決めつけると確かにわかりやすい。
どこかで読んだような「既読感」も感じるのである。
ヒモ物語、それもDVがらみのたちの悪い、というと西村賢太氏が第一人者ではある。
あちらがハード系ヒモ物語なら、この作品はマイルド系ヒモになるのだろうか。
マイルドな外面を装っているだけに、より「心優し」「けだるい諦め」「気づかれないような思いやり」「研磨されえない感受性」等々、更には「控えめな自己愛」実は巨大な万能感で男は窒息しそうなのであるが。

それらは西村賢太氏の自虐作品と共通している。

暗渠の宿 (新潮文庫)
西村 賢太
新潮社
2010-01-28




両作家の共通する点がもう一つある。
非常に奇妙というか、異様でもある。
もう一人の主人公である女性、その美しすぎる姿である。
ホストに貢ぐ女性たちのそれとは、かなり違っている。
今時、このようなマゾヒスティックな女性、そう「夕鶴」に出てくる鶴の化身、「おつう」のごとし、である。
身勝手な男たちが時折みせる「優しさ」、牡クジャクの羽に相当する「秘められ開花しつつある才能」に引き寄せられ、男たちに尽くす、尽くしまくり消耗疲弊する。
なんとも哀れ、というよりも現実離れしているのである。
大昔のことは、私もよくは知らないのであるが、今の世である。
現実にはこんなお通のような女性は、少なくとも日本にはいないのである。
女性も必死に生きているのである、おのれ一人を生きるすべとして。

それよりも空恐ろしいのは、男たちの勝手な脳内世界にはまだその存在が許容しえるという、理解しがたい事実である。
だから共感を得ることができるし、男たちの甘い幻想を掻き立て、そのうぶな男たちを書店へと誘うことも可なのかもしれない。
その本を手に取り、私もその一人であるが、幻想の甘美な物語に浸るのである。
そして読み終える頃、はっと気づくのである。
これは現実ではない、現実世界ではない、舞台劇なのである。
まさに作品の題名「劇場」である。
男女2名の役者によって演じられる甘美な物語、芝居が終わり、観客席の照明がてらされる時、夢から醒め、深いため息をつくのである。

さて、観客は過酷な現実に戻るのであるが、その時から各々がどう物語を作り上げていくのか、そのほうが気になることである。



















那覇  識名園

何度目かの識名園である。
かっての琉球王の別邸である。
石造りの城郭、厳めしい首里城での生活を忌避した琉球王は、美しい庭園と瀟洒な木造平屋建築の御殿での生活を好んだのであろう。

江戸時代初期、薩摩藩による検地では琉球諸島を合わせ9万石弱であり、琉球王の知行地としては5万石を江戸幕府は認知したとのことである。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A7%E5%9B%BD%E9%83%A1%E5%88%A5%E7%9F%B3%E9%AB%98%E3%81%AE%E5%A4%89%E9%81%B7


大藩とは言えないが、それでも中国との密貿易で薩摩藩からピンハネされながらも、結構金を持っていた。
それに先島に対する、圧制、収奪である。
今の世も語り続けられる重税、農奴的強制労働で搾り取っていた。
現在、いやそうではないという異論もあるが。
この識名園以外にも2か所の邸宅、別荘があった。

さて那覇市郊外、識名にある識名園である。
那覇市を取り巻く東側環状線、県道82号線から西側に丘を登る。
すぐにさりげない佇まいの園に辿り着く。
そこそこ広い駐車場は、日曜日の午後であったが、ガラ空きである。
目立たない入り口で入場料400円を支払う。
門番が詰めていた番所の脇を通り、でこぼことした路地、というには大きな石畳を通る。
大小不同、表面のざらついた珊瑚礁の岩、沖縄石灰岩である。
地表にごつごつとした根を張り巡らせ、巨大な幹に蔦を絡みつかせたガジュマルがあたりを圧している。


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アカギ、デイゴの木々、それに巨大な団扇のような葉をした薯科の植物が多い。
離れた場所には、バナナの木も見ることができる。
小鳥の囀りを聴き、身体にまといつく虫を払いのけつつ、丘を登り、足の裏にごつごつとした珊瑚礁の岩を感じつつ森の斜面を下る。


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急に視界が開ける。
緑青色をした池が広がる。
池には、ひときわ目を引く中国風の橋が二本かかっている。


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池の畔、柳の傍に瀟洒な佇まいの六角堂がある。
明治以降の建築物である。

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左側には、この池の水を満たし続けてきた泉、冊封使が読んだ漢詩を刻んだ石碑があり、教養深い王を称え、美しい庭園での月夜の秘めやかな酒席に謝意をうたう。
左手、両側を石壁で囲繞する小道を辿る。

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と、前回記述済みとほとんど同じ内容を記していることに気付く。

http://blog.livedoor.jp/sambockarie/archives/51652028.html


同じことを書いてもつまらない。

この離宮の中心部、御殿「うどん」である。
離宮全体は、1975年から20年間の月日を費やし再建されたものである。
太平洋戦争、沖縄戦でこの離宮は灰燼、焼け野原に帰した。
70年代から80年代の沖縄県、その木工の粋を尽くした建築物、多分そうなのであろう。


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玄関口といってもあっさりとしたものである。
大名の御殿というと、仰々しい唐派風であったり、銘木を敷き詰めた式台玄関を想像するが、まるで農家のそれである。
入ってすぐ奥、8畳の茶室がある。
炉を切っているが、内地の茶室の数寄屋とは全く異なる。
あっさりとしたものである。


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廊下を渡れば、三の間、二の間、広間から奥の居室、使用人たちの控えの間、台所、便所まで一周できる。
廊下、天戸、戸袋、それに軒、垂木、柱、各々が簡素、素朴であるが趣深い。
中でも正面の蔀戸が一際目を引く。
素朴なつくりであるが、戸を支える支柱のバランスが美しい。


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目につく柱は四角を削り所謂几帳面である。
しかし、細かな造作は、内地と異なり鷹揚である、というか素人目には雑にさえ見える。
おそらく多湿なこの地域ならではの、木材同士膨張、緩さを勘案した結果なのではないかと思った。


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屋根は、派手な赤瓦である。
正面の屋根は、微妙に反りが入っているように見える。

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庇を支える垂木、雨の多いこの地方であるから板と共に30年以上の年月、湿気で傷み始めている。
定期的に交換、修理しているのであろうか。


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次いで目立つのは、夥しい数の板戸、天戸である。
風雨に耐える戸袋も趣深い。

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礎石に立つ柱、あえて自然なまま、素朴な風合いである。


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珊瑚礁を想像させる沓脱石、ざらざらとした質感を持つ。


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東側の築山、芝生であるが昔はどうだったのだろうか。











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涼しい風が吹く抜ける廊下。













裏側の日常の居室、違い棚を備えた書院づくりである。

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こじんまりとした竈を備えた台所

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表と裏の狭間、中庭であるが、風通しを狙ったものであろうか。


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自殺 2  エマニュエル・トッド 直系家族

自殺率の国際比較。
よくネットで見かける。
日本のお隣、韓国がOECD加盟国中第1位、十万人当たり25.6である。
と思っていたら2017年のデーターでは、バルト海東岸のリトアニアも突出して高い。
日本は19.7である。

かねがね韓国の自殺率が高いことは、よく知られている。
社会、経済不安、若者の失業問題、格差社会、よくある文脈で語られる。
日本とは、昨今共に「なかよし」「お騒がせ」の韓国である。
日本とは切っても切れない国であり、抜き差しならない民族でもある。
なにせ今の日本人のルーツの民族らしい、色々と異論はあるだろうが。
半島からやってきた人々、彼らがそう遠くない昔、日本の支配者となった。

一方で、彼らの来る数千年前から日本に住み着いていた人々もいるのである。
南の海流に乗ってやってきた人々、或いは北の氷の国からやってきた人々たちである。
なにせ、当時は文字を持たなかったのであるから、謎の人々である。
この先住民、素人の私としては、縄文人と同一視しているが、現代における日本の家族システムを考えるうえで、今も微妙な影響を与えている、私はそう思っている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC#%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E9%BB%8E%E6%98%8E

日本に文字が伝来したのは、それほど古い時期ではなかったらしい。
古墳時代、紀元後3から7世紀頃である。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%A2%E5%AD%97#%E6%BC%A2%E5%AD%97%E3%82%92%E8%BC%B8%E5%85%A5%E3%81%97%E3%81%9F%E5%9B%BD%E3%81%A8%E3%80%81%E7%8F%BE%E5%9C%A8%E3%81%AE%E4%BD%BF%E7%94%A8%E7%8A%B6%E6%B3%81


なにせ西欧でも、ラテン語、ギリシャ語、更にはセム語となると紀元前にさかのぼるが、フランス人やドイツ系の人々が文字を持ち、文書を記述し始めた時期も日本とほぼ同じ、「浅い歴史」の人々なのである。



https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E6%99%82%E4%BB%A3









韓国も日本も、トッドに言わせれば「直系家族主義」なのである。
が、直系家族主義といっても、相違点がいろいろとある。
日本は、いとこ婚を古くから許容している。
相続は、原則としては男子、長子であるが、婿、女系の相続も場合によってはあり得る。
対して韓国、というよりも朝鮮では許容されない。
いとこ婚を認めないし、男子以外の相続は認められてこなかった。
このことが社会システムとどう影響しあっているかは、様々な言説があり得るであろう。

日本の直系家族が確立したのは、半島からの人々が渡来し、日本を支配した時期、とは即断できない。
男系長子相続が定着し始めたのは、日本ではどうも鎌倉末期から室町期であったらしい。
それまでは武家であるが、所有地を兄弟で分割していたのである。
室町期になって、原則として長子が全部の領地を相続し、他の兄弟は土地所有を諦めねばならなくなった。
農地開発の技術的限界が訪れ、人口密度が飽和した時期であったのかもしれない。
狭い土地を、更に細切れにすることは、氏族の脆弱化を意味していた。
が、原則ではあって例外もあったであろう。
江戸期に至っても、分家、傍流、長子を立てながらも様々な兄弟間の不平等を緩和する策が為された。
勿論、本家の血流が途絶することの回避もあった。
逃げ道、保険でもある。
逃げ道、保険というのは社会の激変に対応、生存し続けるうえで重要である。


更に、日本であるが北海道のアイヌ、或いは沖縄では、家族観が異なる。
意外といっては先入観が露呈してしまうが、共に核家族である。
沖縄では、母方同居という特徴がある。
この母方同居核家族は、南の方向、インドネシアまで広がりを持つ家族主義である。

アイヌの場合は、双処居住核家族である。
日本の場合、単一の家族主義ではないのであるし、日本の北端、南端の両地に異なる家族主義がある、ということは、これらが元々の古来からのオリジナル、素の家族主義である可能性が高い。
周辺部、辺境にこそ、古来からの、アルカイック、素のシステムが残存している可能性が高い、トッドそう主張する。

また近畿以西と比較して、関東より東の地域では、日本においてはより古い家族システム、共同体家族の残滓がある。
これは先祖から続く農地の開墾を経て、一所帯当たりの所有面積が広いことに由来する。

更に五島、長野県の山間部には共同体家族システムも見出されている。
これはその地域の特産品、その生産技術の伝承、その秘匿が義務付けられていたゆえだそうである。


新ヨーロッパ大全〈1〉
エマニュエル トッド
藤原書店
1992-11-01




ところでもう一つの自殺大国、リトアニアである。
バルト海に面する小国である。
ここも直系家族主義である。
が、様々、複雑な要因、歴史を包含している。
すぐ隣、或いは近在の強国、ロシア、ドイツ、スウエーデンに翻弄されてきた。
社会、文化においてその影響を受けている。

ロシアは共同体家族、ドイツ、スウエーデンは直系家族である。
リトアニアは、貴族、騎士という支配階級が、ドイツの影響下に直系家族システムを取ってきた。
その影響が庶民にまで、下方向に浸透した。
あるいは、隣国の最強国ロシアに住民全体が反発し、直系家族システムを採用した可能性もある。

なにか日本を含め、自殺と直系家族との関連を考えたくなってしまう。
自殺ランキング上位の国の共通性として、「直系家族」を高々と掲げるのは短慮である。

ポルトガル南部に突出して自殺率の高い地方がある。
この地方の家族システムは、共同体家族である。
母型居住である。
全く直系家族とは異なる。
母権が強い。
婚外子、庶子の誕生率が高いのだそうである。















自殺 日本における家族システム 1

先日、わが荒廃都市にて精神科の勉強会があった。
当日のお題は、精神科領域における自殺問題であった。
その場では、治療現場、ミクロ的、メデイカル・モデル的視点での講演があった。
自殺念慮、企図がある患者さんにいかに適切に対応するか。
総合病院、精神科病院、それぞれ微妙ならず複雑な事情がある。
精神科医のみで解決できない問題である。
PSW、多職種をフルに稼働させ、社会的バックアップを図らねば成果はおぼつかない。
で、社会資源である。
行政である。
保健所、児相、所轄警察、行政ではないが裁判所、といろいろある。
司法書士、行政書士、弁護士、サポート的立場の民間団体、等々民間の方々の御助力を多々必要とする。
そのあたりの話は、業界人なら今更なにを、耳にタコ話ではあるが。

別に視点を持たねば、退屈極まりない。
そこでマクロ話、ソシアル・モデルからの視点で考えてみたい。
人口十万人当たりの自殺者、自殺率は2003年の27.0をピークに徐々に低下し、2016年は17.3だそうである。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E8%87%AA%E6%AE%BA#%E6%88%A6%E5%BE%8C

この要因は様々な推論があるであろう。
過去にも1958年の25.7があった。
2003年がピークの自殺率、この要因は何といってもバブル崩壊、というよりもその後の苛烈な不良債権処理の不幸な結果である。
企業破綻、失業、非正規雇用の増加、それは違うというご意見も多々あろうが、竹中平蔵元金融担当大臣率いる金融庁が意図的に惹起した大災害、私は個人的にはそう思っている。
現在も、氏は安倍政権、加計問題のいわくつき、国家戦略特区の委員として活躍中、また派遣社員の元締めたるパソナ取締役である。

さてなぜ自殺率の低下に至ったのであろうか。

https://www.npa.go.jp/safetylife/seianki/jisatsu/H26/H26_jisatunojoukyou_03.pdf

回復が早いのは、大都市部だそうである。
対して地方では遅れている。
日本という狭い様で多様な国、大雑把ではあるが都道府県別の比較データーは、ネットで容易に検索可能である。
但し、年齢構成等様々な要因がバイアスとして作用し得る、そのことを考慮することは必須である。
年度によって入れ替わりが激しいが、東北地方、日本海沿い、男性では秋田、島根、新潟、青森県だそうである。
が、九州ではこの年は佐賀県が上位に位置している。
意外なことに東北からは遠い沖縄県、年度によっては上位に位置するらしい。
年齢補正によってかなり入れ替わりがあるだろうが。
それに分子がいかんせん低値であるので、毎年の上位常連以外は入れ替わりが激しい。

http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/other/15sibou/dl/16.pdf


神奈川、大分、愛知で低く、また東京でも近年低下が著しいそうである。
年齢層的には、かって多かった40,50代年齢層の低下が著しい。

これをもって景気回復、アベノミクスの成果と唱える政治家、識者もおられるようである。
そうかもしれない。
そういう面もあるだろう。
最悪よりはましである、現在は。
借金取りから追い回される生活、そこから破産なりで負債を清算、ほっとしたところなのかもしれない。


が、自殺率が依然高い地域について考察してみることは、自殺の予防、自殺企図したが救命しえた人々の今後を考えるうえで大切である。
精神科医療単独では、その力が及ぶのはごく一部、視界に入りえるごく狭い領域でしかない。

あくまで私の憶測、仮説でしかない。

http://todo-ran.com/t/kiji/10557


自殺者数 [ 2016年第一位 秋田県 ]http://todo-ran.com/t/kiji/18573
自殺者数 [ 2016年第一位 秋田県 ]



さてこの都道県マップをみていると、気づくことがある。
確かに日本海側に自殺率の高い県が多い。
震災の影響であろうか、東北地方全般に高い。
東北ではないが山陰の島根県も高い。


九州、年度によっては宮崎、鹿児島県、あるいは沖縄県も高くなるそうである。

地方、中でも農業、漁業の従事者の多い地方に注目するべきであろうか。

http://todo-ran.com/t/kiji/11541
農業就業人口 [ 2015年第一位 岩手県 ]http://todo-ran.com/t/kiji/11541
農業就業人口 [ 2015年第一位 岩手県 ]



相関係数、どなたか統計に熱心な大学者先生にやってほしい。

となると、人口減少、高齢化県、家族構成、核家族か否か、が絡んでくるかもしれない。
所得とも関係してくるだろう。

http://todo-ran.com/t/kiji/17181

総人口増減率 [ 2016年第一位 東京都 ]http://todo-ran.com/t/kiji/17181
総人口増減率 [ 2016年第一位 東京都 ]




日本海沿い、東北地方、人口減が目立つ。
が、なにもこの地域に限った話ではないが。
65歳以上の多い県ともいえるが、これも偶然そうなったのかもしれない。




http://todo-ran.com/t/kiji/12053


65歳以上人口(高齢者数) [ 2016年第一位 秋田県 ]http://todo-ran.com/t/kiji/12053
65歳以上人口(高齢者数) [ 2016年第一位 秋田県 ]





核家族、あるいは逆にみると3世代同居率はどうであろうか。

http://todo-ran.com/t/kiji/16414

三世代世帯人数 [ 2015年第一位 山形県 ]http://todo-ran.com/t/kiji/16414
三世代世帯人数 [ 2015年第一位 山形県 ]





今まで出てきた図表とよく似た、ある種の共通性が伺われる。
3世代家族が多い地域と自殺率の高い県とが重畳する、そう私には思えた。




以下は、あくまで私の独断と偏見、強引な暴論である。

バブル後の金融引き締め、統制で日本の経済、社会は大混乱に陥った。
最も痛手を負ったのは、企業、商店当の自営業、その中核をなす40,50代の男性であった。
彼らは経済的破綻の後、多くの方々は今日立ち直ってきた。

それは政権による経済政策の成功、それも若干あるかもしれないが、都市部で回復しえたということは、単に経済的回復のみでは説明しにくい。

東京など、大企業本社が集中する地域は確かにお金の流通は盛んであろう。
大都市には、顕著な異変が生じた。
バブル後に押し寄せてきたのは、新自由主義経済、グローバルゼーションという新たな大波であった。
(グローバルゼーションという名ではあるが、実際はアングロ・サクソン的思考法である。
世界共通、或いは普遍的思考なんぞとは、無関係である。
イギリス、その中でもイングランド地方、アメリカの支配層に分布する人々、あくまで彼らにとって都合の良い思考法である)

大都市での人々は、生きていくためにその本来の思考を転換した。
彼らは、もともとは核家族ではなかった。
本来の彼らは、サザエさん、マルちゃんの世界を生きてきた人々である。
三世代同居、父権的家族である。
昭和50年代の家族がそのイメージを代表している。

大都市では、核家族化が急速に進展した。
居住環境、就労状況も、核家族こそが大都市で生きていくにはふさわしかった。

エマニュエル・トッドがいうアングロ・サクソン的絶対核家族主義に、都市生活者は近似してきた。
しかしあくまで近似であって、本質的変貌、転換ではないのであるが。


対して自殺率の高い地域(沖縄は別に考えねばならないが)であるが、農村地帯、3世代居住、人口減というのが共通項である。
自作的農地での継承的農業従事、3世代同居、というのは特に重要である。

代々、農地で生活の糧を得、原則長男相続、父親の権威を重んじる。
兄弟間の不平等は容認する。
長男相続というのは、ある一定の耕作地の維持、細切れ的不動産拡散の防止、及び伝承されてきた農業技術の教育、継承を包含する。
漁業、林業においても、事情は同様であろう。

つまりトッドが言う、日本に伝統的である直系家族主義の濃厚な地域、なのかもしれない。
少し前の日本そのものである。
更に飛躍すると、この日本古来の直系家族主義は、アングロ・サクソン的絶対家族主義と折り合いが悪い。
絶対核家族主義の価値観、他者に無関心(特に無関心という点は重要である、差別にも無関心なのであり、社会的不平等にも無関心、無視或いは是認する)、非権威主義、絶対的自由主義という特性とあらゆる点で軋轢を生むのである。

この軋轢に耐久性を持たない地域、そこは地域社会が不安定化せざるを得ない。


要約すると、都市部では本来直系家族主義であったが、バブル崩壊後父親的権威は霧散し、権威よりも自由を選択し、核家族化した。

折から、刹那的、性急な成果を要求するアングロ・サクソン的新自由主義経済の大波が押し寄せ、絶対核家族主義的価値観を都市の人々は甘受するようになった。
そこでは従来重視され、長期間を費やしてきた社員教育、熟練工養成は無駄だと排除されるようになった。
瞬時に買収、合併、吸収される企業では、これまで尊重されてきた社風、伝統、会社への忠誠心は無価値となった。

社員、その家族にとって、他者への無関心、伝統権威の軽視、不平等の容認、諦念が処世訓となる。
その結果、何とか生活は再建できるようになってはみた。
が、彼らの根底には太古から伝わる直系家族主義が蠢いているし、深層では健在である。
ゾンビカトリシズム的郷愁を祖先、或いは皇室に未だに求め、心奥に抱き続けている。
が、すがりつくもの、権威を喪失している都市生活者には、常に空虚感がつきまとうのである。


また例外的地域もありそうである。
北九州市、筑豊のような少数の地域は、例外かもしれない。
この地とは、直系家族主義の農漁村から次男、三男が食い扶持を求めたどり着いた土地である。
この地の人々は、明治時代以来の平等主義核家族である。
所詮150年前からの家族主義ではあるが、いまだにその気風は根強い。

そのせいか、地域経済は今も振るわない。
衰退の一途である。

闘争領域の拡大  ミシェル・ウエルベック

闘争領域の拡大 (河出文庫)
ミシェル ウエルベック
河出書房新社
2018-02-06




今やフランスきっての有名小説家となったミシェル・ウエルベックの処女作である。
初版は絶版、中古で6000円以上する。
買えなかった。
最近お手頃価格の文庫本が発売されたので買ってみた。

彼自身の著作の表紙、或いはYou-tubeでみる彼の風貌、どこか疲れておりインタビューでは怯えた表情も見せ、なかなか打ち解けた様子は見せない。
イメージと違って、あまりシニカルには見えないのであるが。
日本でもよく見かける、そこそこ中途半端な学歴、大卒の公務員、けれどキャリアなんかじゃない、恋人はいない、実家には顔出さない、特に趣味もない、なんとなく都会で生活している、電車に乗ると隣に座っているような、そんな青年、いやもう40近いオジサンを思い浮かべてしまう。
そんな青年がしたためた私小説、彼の切なく空しい日常をしたためたもの、私にはそう思えた。

淡々とした記述が続く。
文体はごく簡明、シンプルである。
ある意味、潔い。
風景の描写にしろ、内面の吐露にしろ持って回った言い回しをこの作家は好まない。

ストーリー性といっても格別瞠目すべき事件、事象が起こるわけでもなく、
「僕」の眠たげな陳述、どこかけだるく無力感が充満している、が延々と続く。
そういう話法、手法は後年の作品にも共通している。

ウエルベック自身は、両親の離婚のあおりを食って祖母に養育された。
農業技術系grandes ecole卒、一応エリートなのだそうである。
が、ENA出、超一流のエリート様では全くない。

パリ市内にはこのような中途半端な方々、もう青年とは言えないオジサンたちがひしめき合って生活している。
そんな事情は東京も同じであるが。

ここでの「僕」は、いつも冷めた目で周囲を細かく観察し続ける。
関与を忌避しつつも「観察」は死ぬほど好きである。

周囲の他者のみではない。
吐き気を催す街の風景、役所、オフィス、地下鉄、歩道、カフェテラス、
各々が素敵に「僕」の繊細な「神経」主に脳内神経組織を好き勝手に苛み、嘲笑するのである。

「僕」には、他者とはあくまでなじみの薄く、どちらかといえば意地悪であり、油断ならない何ものかであり、
同時に憐憫、嫌悪、軽蔑、つまりは大いなる違和感を惹起せしめるものでしかない。
他者への侮蔑は、同時というよりもそれに先行して恐怖がある。
彼らから「僕」が承認され、愛されることは金輪際ないのである。

最後には「僕」という意識、存在の希薄な志向する主体そのものも「他者」と判然としなくなる。
主体、つまり曖昧模糊、脆弱ひ弱、メルトダウンしつつある「僕」という主体、
そして眼前にそびえたつ他者、その差異化が困難となりはててしまう。

さて他者とのかかわりにおいて、30歳そこそこの「僕」にとって、唯一魅惑的なもの。
苦痛そのものである空虚をいやすすべ、とは何であろうか。
かっては、つまり2年前までは憧憬の対象であった「性関係」を「僕」は思慕する。
それは本能を充足してくれるだけではなく、「愛」という甘美な他者との関係性を易々と構築する、
かの如き幻想をつかの間ではあっても抱かせてくれるのである。

が、そこにはもうかってのような魅惑ではなく、意地悪く殺伐、冷酷な「性関係」しかない。
僕の思念の中には、性関係とはただでさえ冷淡な現世から徹底的に放逐を強いる拷問具なのである。
うっとりとするような官能的悦楽ではなく、落胆、屈辱、恥辱、さらには嫌悪、身をよじらせるような苦悶こそが報酬である。

「僕」は、性的享楽も社会的階級により無残にも差異化されてしまっている、と被害感を炸裂させる。
社会的特権、高い給与、知的ウイット、美しい外見を所有するものこそが享楽にありつける。
まるで数値化され、システムとして社会の中に組み込まれているかのごとくに。

などとくどいほどに主張する。
が、その開放化、民主化を主張する程の膂力はなどは皆無である。

何も特権的な人々のみが性的享楽に身を浸しうるのではない。
愛の対象としての「他者」との親密な関係性を好み、心地よく思う人、熱心かつ、泥臭い努力をいとわない方々。
何よりも「他者」としての緊張関係を超克、とまでいわなくとも共感、尊重するものこそが「愛」の恩恵に浴しうる点は、太古の昔から変わらないと私は思うのであるが。


そのような、今日の日本でも隣の席にいそうな絶食系青年、 
その「僕」が最後に意図せずとも、その情念の流れ込んでいく河口とは「うつ病」であることは、うんざりとするほど自明である。
それも古典的「内因性うつ病」ではなく、あくまで今日巷間満ち溢れる「現代型うつ病」ディスメチア型うつ病、
となることはこれまた自明ではある。
「僕」にとっては「僕が悪い」という自罰ではない。
「僕」とはあくまで被害者である。
対して他者、或いは世の中、社会は実に悪い、嘘つき、偽善者ばかりである。
「僕」は傲然と、そう主張する。


そのような「僕」であるが、何か憎めない、
電車の隣に座っり、疲れた表情でスマホをいじっているあなたな、或いはい眠りをしている私なのである。

という点では、極めて私小説的である。
日本もフランスも同じ穴のナントやら、五十歩百歩である。

文豪、大作家ウエルベック先生に是非お勧めしたいことがある。

来日し、日本のヤンキー、彼らをじっくりと観察してほしい。
イスラム嫌いのウエルベック先生である。
内婚制共同体イスラムと違って、ヤンキーの家族観とはパリジャンと同じく平等性核家族である。

10代早々の早々としたを性交渉の開始、活発奔放な性活動、女性はイケイケで放縦、子沢山、高い離婚率、シングルマザーの頑張り、力強さ、彼らこそウエルベック的、青白く病んだ西欧知識人への最善の処方箋である。


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スコルタの太陽  ロラン・ゴデ

スコルタの太陽 (Modern & Classic)
ロラン ゴデ
河出書房新社
2008-06




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南イタリア、プーリア地方、アドリア海に面した小さな村モンテプッチ。
と聞くと、私のような単細胞の日本人は、夢想に包まれるのである。
陽光にきらめくアドリア海、青々と広がる海原、浮かぶ小舟、爽やかな潮風、飛翔する海鳥、丘を下ると砂浜が広がり、途切れたあたりには大小さまざまな奇岩が重なる。その上には白壁が連なり中世から続く石造りの家々が身を寄せ合う。そこでは昔ながら、先祖の風習を守りつつ、潮風に声がかすれた男たちの生活が営まれる。

などという型どおり、なんら新鮮味のない連想しか浮かばないのである。
行ったこともないから、テレビのお仕着せイメージそのものである。
そのような、まさに凡庸な私めが読んでの感想である。

汗臭い小説である。
乾いた土、まいたつ砂ぼこり、よどんだ水路の臭い。
赤ら顔の太った男たちがくゆらす煙草、昼間からの強い酒、汗のにおい、脂っこい食事、残飯に群がる鷗、狭い路地の空にはためく洗濯物、村の教会の鐘、眩い太陽、静謐と倦怠、その中で少しずつ家族の物語が語られていく。

150年間にわたる家族の物語。
やわらかで居心地の良いソファーで語られる、耳障りの良い話、とはいえない。

貧困、延々続く貧しさ、それに影法師の如く付きまとう屈辱、恥辱、怒り、憤懣、最初は折り目正しく梱包されているが、やがて発酵、腐敗し風船のように膨張していく。

なにかを切っ掛けに血が流れる。
ある命が消えていく。
それは4世代にわたって繰り返される。

各人、凡庸であり善良でもある。
が、あえて運命を受け入れ、甘受する。
というよりも、何も考えていないのである。
無学、無知である。
カトリックである。
そこそこに信仰心はあるが、さほど熱心ではない。
目の前のパスタを平らげるように、運命を飲み込んでいく。

昔ながらの伝統を重んじ素朴な彼らとて、努力しないわけではない。
なにか、自分を昂揚させるものがありはしないか、時に思いをはせる。
旅をする、恋をする、泥棒をする、商売をする、密輸を稼業とする、いろいろとやってはみる。
が、このちっぽけで貧しい村からは離れられないのである。

4世代、特に後半の2世代の人生模様がこの小説の主題である。

などと書いていくと、私がこの作品を気に入ったような記述となってしまうが、違う。

退屈である。
凡庸とは言わないが、さりとて傑出した作品とも思えない。
十数人、その彼らの内面の描写はち密さからは程遠い。
まるで農夫が描きあった、各々の肖像画である。
素朴で力強いが、そこで終わってしまう。
顔の皴のこまごまとした陰影まで筆が及ぶわけでもないし、そのようなことは最初から何ら顧慮されてはいない。
乱暴に言うと、どの人物も似たり寄ったりである。


何も予備知識がなければ、イタリア人作家の手になるイアタリアの小説と思ってしまう。

作者はLaurent Gaude、生粋のパリジャンである。
本作品は、2004年ゴンクール賞に輝いている。

パリ生まれ、パリ育ち、両親はともにラカン派の分析家。
南イタリアからは遠い、うすら寒く狭いアパルトマンの暗い一室で記述された作品である。
パリの知識階級、なにか気難しいへ理屈ばかり主張し倦むことを知らない奇態で不健全な人々、そのような偏見を持つ私にとっては、全く意外である。

Laurent Gaude、劇作家でもある。
彼の文体は独特である。
とにかく文章が短い。
わざとらしさ、作為、厭味に感じさせられるほどである。
プルースト、あのうねうねと続く峠道のような文章の対極である。
今読みかけの彼の作品、La porte des enfers でも同じような文章が並ぶ。
舞台もイタリア、ナポリである。
作家には、幼児期に過ごしたイタリアに愛着が強烈らしい。
「パリを舞台にし、パリジャンの生活を描くなど私にはできない」
Michel Houellebecqの対極でもある。

さて私が最も興味を持ったのは、ここで描かれたこの家族の姿、というより様式である。
Emanuel Toddがいう南イタリアでの特徴、平等主義、或いは不完全共同体主義家族である。
兄弟は、平等関係である。
長男を重んじる直系家族とは、全く価値観が異なる。
何よりも平等、自由が重視される。
父親の権威は、重視されない、少なくとも本作品では父親像は希薄であり、強力で支配する父親は不在である。

結婚後の兄弟の家屋が互いに独立しているかが問題であるが、作品では明確ではない。
少なくとも共同家屋ではなさそうであるが、互いの行き来は非常に密であり、近接した生活らしい。
平等主義であるとともに、共同体主義の色彩も持つ。
但し、父権は強くないから、基本的には平等主義である。
権威、時には教会もそうなる、を嫌悪する。
実際、司祭を一人こっそりと殺してしまう。

パリ市、パリ周辺地域の平等主義核家族と、ある種の共通する価値観(平等、反権威主義)があるからこそ、パリの人々の共感を得やすいのかもしれない。
直系家族主義の日本人にとっては、私もその一人であるが、彼らの生活ぶり、価値観、相当に奇異に思えるのである。





作品中出てくるトラブッコ、釣り用、木製の崖にせりだした足場である。
音がうるさいのでご注意を。





いまどき精神科医

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いまどき精神科医
最近といって良いのか悪いのかはよくわからない、という言い訳をしつつの言説である。

私は内科医からの精神科転向組である。
その当時は、比較的転向組なんぞ、稀であった。
私の卒業時、そもそも精神科入局希望者は僅か2名であった。
今でこそ二桁であるが。
その2名とは、1名は開業マイナー科医の長男、他は精神科勤務医の息子さんであった。
精神科医とは、不人気科医、地味で裏街道の外道イメージが強かった、いや今もそうであるが。
そのことに気づかないまま、入局、或いは転科する若者が多いので困る。

かくもうす私も、最初はなんでも屋、いまでいう総合内科に別にこれといった理由もなく入局した。

その内科医局のバイト先が田舎の精神科病院、居心地が良かった。
のんびり、時間がゆっくりと流れる、あるいはずいぶんと前から止まっている世界であった。
学位を取得したのち、封建的、貧乏、能書き垂れるが技術は身につかない、派閥争いが伝統芸能、空疎なプライド以外は何もない大学医局、そこでの茶坊主見習い生活を一秒でも早く辞めたかった。

なんの役にも立たない学位をゲットした後、翌月退局した。
精神科病院に勤務する内科医として勤務し始め、同期の内科医たちからは憐み、蔑みの温かなまなざしを注いでいただいたものであった。

医者のヒエラルキー、普段は目に見えないのであるが当時も今も厳然としてある、では最下層に位置していたのが精神科医である。
いまでは、下から何番目かに、若干ではあるが出世しているようである。

今も昔も実家が精神科大規模病院、そこのご子息というのは精神科医局に素直、まっすぐに入局なさるようである。
もちろん例外もある。
いや、例外は当時から多かった。

親子で微妙に不仲であると、最初は身体科医になられる先生もおられた。
そして微妙なご家庭が、実に多かった。
が、親が病気になったりすると周囲から懇願される形を万端に整え、ご帰還なさり最短5年で精神科指定医を滞りなく取得なさる。
この場合、大学精神科医局の全面的バックアップ、がたいていある。

さて、わたしのような歳をくってヒラの精神科医の場合、あちこち渡り歩くことが多い。
私の場合、今の病院が4件目である。
稼働停止までに、10件くらいは踏破したいものである。


一概には言えないのであるが、最近の若手精神科医、といっても結構歳をくっている先生が多い。

が、例外もある。
女医さんであった。
進学校からのストレート、最短29歳、精神科指定医を取得なさり、風のように去っていった。
頭脳明晰、仕事は万事そつなく要領よく、家庭、育児と仕事を見事に両立、なかなかの美人、
なんだか出来すぎであった。
出来過ぎるお方は、今から先が怖い。

もう一人いた、いた、若くはないが。
40歳近くで医師免許を取得なさった女医さん。
もともと看護師さんであった。
医師を目指し、まず教育学部に一旦入学、
が、あくまで踏み台である。
そこで皆勤賞、「優」をとりまくり編入試験で他大学の医学部に編入、という軽業師がおられた。
げに女は執念深く、したたかである。


さて今の私の周囲の若手の先生方、といってもみな40歳過ぎ、おっさんである。
彼らの経歴をみると、といっても一括りにはできなのであるが、実にあちこち放浪なさっておられる。
出身大学を見るとすごい、想い出すままであるが東大、阪大、東京医科歯科、神戸、名古屋、千葉、少し落ちるが国立大学卒ばかりである。
高偏差値校ばかり、私のような4,5流私立卒なんぞおられない。
彼らに共通してるのは、18歳の段階では、医学部に進学する意思がなかったことである。

食っていくための職業選択、やりたい学問、ともにはっきりしなかったそうである。
一流大学をご卒業なさって「こんなはずじゃあなかった」という暗澹たる思いが湧き上がってくる。

おりしも、バブル破裂後の長い就職氷河期である。
中には銀行、教職に就職したり、目標のない海外留学、或いは発展途上国への海外協力隊に参加した方もおられる。
すんなり医学部に入れた方もおられれば、何年か浪人生活を送った方もおられる。
そんなご苦労のあげく、医学部に入学、医師免許証をゲットなさった時は既に30歳半ばをとっくに過ぎ40歳近い。
素直に老けておられる。

そんな紆余曲折を経た方々ばかり、さぞかし経験豊富、人智に富み、教養に優れ、鋭敏な現実検討能力を保持し、感情もゆたかであろうと思う、私も最初そう思っていた。

全く違うのである。

まるで違う。
今述べたことの真逆と思っていただいてよろしい。

特に目立つのは、患者さん個別の症状、抱えている社会的、家族的問題への洞察、治療していくうえで必須の社会保障、そのどのシステムを活用するべきなのか。
といった基本的問題の抽出、その解決法(それは数種類あることが望ましい)が、さっぱり洞察できない点である。
いや、医師以前の問題、一市民としての常識さへ、十分とは程遠い。
例えば、幼児、老人の虐待、家庭内暴力にどう対処するか、等。
守秘義務(医師に限らずあらゆる職種ではこれを負う)をいかに守り、いかなる場合には第三者にも開示、その手続きを如何にするか等々、山ほどある。

乱暴に括れば、彼らの拠り所とはマニュアルである。
学会診断基準、治療指針、DSM、それらを遵守することは勿論大切であるが、それを個別の症例にどう反映させ、うまくいかないときはどう修正させてていくべきか、で壁に突き当たるのである。

そのためか、お役所に提出する書類、精神科では非常に重要なのであるが、これが書けない
型どおり書けばよいのであるが、一人一人患者さんの型は異なるのである。
マニュアル的なものはあっても、あくまで個は個である。

黄色やピンクの紙、その狭い枠の中にその患者さんのいわば人生を凝縮し的確に記述する、かの如き顧慮をにじませつつ、齟齬なきように上手くまとめ上げねばならない。
ここで彼らの優秀な頭脳は簡単にフリーズする。

結局、下書きを私に見せるのである。
他人に厳しく意地が悪い、それが私である。
嫌な顔を見せつけつつ、殆ど全部書き直してしまうことになる。
昔と違って、今はワードのフォーマットがあるので楽にはなった。
楽にはなったが、彼らの子供っぽい記述にあきれることが多い。
昨今、入試や大学内の試験では記述問題が多くなったと思うのであるが、彼らがこの関門をどうやって潜り抜けてきたのか謎である。

所謂国語力不足とも異なる。
型どおりの文章なら、彼らは遺漏なくきちんとかける。

が、人間を観察するうえでの想像力は皆無である。
全くない。
そもそも人間に対する興味が殆どない、
あっても希薄、ごく限られた範囲だけである。
メガトライアル、統計的有意差、マウスの学習能力には鋭敏であり、興味を示す。

例えば彼らに力動だ、転移、或いは自分の逆転移感情は、など泥臭い議論しても全く通じない。
勿論彼らがマニュアル通りにこれらを学習したのちは、話が別であるが。
型どおり話をまとめては来るだろうが、数種類の仮説の設定は無理である。
マニュアル通り、ワンパターンである。

あくまで型どおりである。



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文化防衛論  三島由紀夫






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正月である。
この歳になると別に感慨というものはないわけではないが、早朝の氷の如く薄い。
正月休み、不思議と三島由紀夫の本を手に取ってしまう。
何故か、懐かしく感じるのである。
作家の死が昭和45年11月25日であるから、テレビでこの時期作家の姿を目にすることが多いからである。

「文化防衛論」硬い題名のエッセイである。
昭和43年7月中央公論初出、とあるから作家の死の2年前である。
最初に読んだのはいつであったか、もう記憶していない。
坊主頭、ニキビ面の頃であったろう。
当時さっぱり理解できなかった、ただ日本文化の中軸とは天皇である、という主張だけは読み取れたが、少年の頭の中、それも明晰とは程遠い、では唐突に感じられた、という記憶しかない。
今回再読してみての感想である。
やはり没後40年の月日である。
今なら、趣旨は同じであってもこうは書かなかったのではないだろうか。

冒頭に、何故このエッセイを記したか、その意図が表明されている。

2行目より
「近松も西鶴も芭蕉もゐない昭和元祿には、華美な風俗だけが跋扈してゐる。情念は涸れ、強靭なリアリズムは地を拂い、詩の進化は顧みられない。

中略

われわれの生きる時代がどういふ時代であるかは、本来謎に満ちた透徹である筈にもかかわらず、謎のない透明さとでもいふべきもので透視されている。」

「昭和元禄」懐かしい言葉である。
もう忘れ去られつつある言葉でもある。
昭和39年東京オリンピック、その4年後である。
高度成長経済、という日本にとっては伸び盛り、若々しい青年の時代であった。
昭和43年、東大安田講堂を学生が占拠、安保条約改定前、世は学園紛争で大荒れであった。
数万人規模の大デモが各地であった。
中学生の私には「なんだか騒々しいお祭りだな」という意識しかなかったが、同時にベトナム戦争は米軍の旗色は思わしくなかった。
北爆の効果により戦術的には米軍は優勢であったが、日本、世界の世論は反米的であった。

さらに三島が言うこの記述である。

「近松も西鶴も芭蕉もゐない昭和元祿には、華美な風俗だけが跋扈してゐる。情念は涸れ、強靭なリアリズムは地を拂い、詩の進化は顧みられない」

この評価が果たして妥当であるかどうか、そう決めつけられる根拠がどうも判然とはしない。
「謎」ではなく、「物語」と記せばより分かりやすい文章だと素直な私は思うのであるが、三島にとっては、ここは「謎」とすることは絶対に譲れなかった、そうも思う。

が、「謎」と記することは
「何か書きつくせない、記述し得ないなにものか、そんなものが存在し得る」
という超先験的、結論ありきを、読み手は知らず知らずに鵜呑みにされてしまうのであるし、こういう文章ではありがち、プロが瀕用する常套手段でもある。

が、先んじて「詩の進化は顧みられない」と迂闊にも本音を漏らしてしまっている、
「謎」とはecritureなのである。
案外三島はかくのごとく正直者でもある。

wikiを見ると興味深い。

昭和43年を見てみる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/1968%E5%B9%B4%E3%81%AE%E6%96%87%E5%AD%A6

三島はこの年、あまり目立つ作品を出版し得ていない。

一方では、川端康成のノーベル賞受賞があった。
三島、でもよかったはずなのであるが、本人にとって残念であったろう。

対照的に昭和44年である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/1969%E5%B9%B4%E3%81%AE%E6%96%87%E5%AD%A6

三島は、この年はもの凄く頑張っている。
死の前年、必死で4部作のうちの2作品「春の雪」「奔馬」、
及び戯曲「黒蜥蜴」「癩王のテラス」、歌舞伎台本「椿説弓張月」を上梓しているのである。
いわば三島の中では、「文化防衛論」を記述した昭和43年とは、アイデアが充溢してはいても未だ纏め上げきれていない苦悩の時期であったろう。
焦り、不安があったのだと思う。

当時の三島は、文壇の中で最も高額所得者、稼ぎまくっていた作家であった。
扶養家族が多く、また優美、豪華な南欧風建築を都内に自宅としてあつらえていた。
当然稼がねばならない、書かねばならない、しかし思うがままには書けない、書くにしても恥じねばならないような作品は身を落とすこととなる。
というのはあくまで私の個人的憶測である。

ついで当時の日本文化批判を繰り広げる、あくまで三島が見たところのであるが。
人畜無害化され毒を消し去った「文化」こそを理想とする価値観が、今の日本を覆いつくしている。
嘆かわしいではないか。
そうじゃないだろう、汚らしくおぞましく卑しく忌避すべきものさえも文化は包含する、いや、それらおぞましいものこそが弁証法的に文化を支えているのである、という三島のかねてからの主張(私の独断と偏見で括ったにすぎないが)を怒りを込めて炸裂させる。
そうである、市民社会における「健全な文化」というものはまさに、三島が告発する偽善、上っ面だけのきれいごと、でしかない。

当時も今も、似たり寄ったりである。
私も、大いに賛同したい。
「文化」を「美」と称しなおすとさらに三島らしい文脈となったのではなかろうか。

しかしそこと社会主義政権下の文化を引き合いに出すのは、冷戦後の今の世の人にはピンとこないであろう。
社会主義といっても、もはや北朝鮮、いや朝鮮民主主義人民共和国のような国家しか、私は思い浮かばないのであるが。
いや、お前が無知なだけだ、依然としてアフリカ、中東、お隣中国なんぞは、いまだに独裁者に正面から歯向かう言説は圧殺される、とお叱りの言葉も聞こえてきそうではある。


次いで非武装中立論とは、一億総玉砕と軌を一にする妄念であると批判する。
これも、今の世ではもう黴の生えた言説となってしまった。
もうそんなことを主張するお花畑の住人は、どこかに消え去って久しい今日この頃である。


さてここまでで、私には気になる三島の記述があった。
あげあし取り、ともお考えになっていただいえて構わない。

冒頭近くに出てくる「菊と刀」である。
有名なアメリカ人ベネディクトの著作の題名であるが、三島はここでは日本文化の精髄を語るべく引用するのである。
これは奇妙というか、変ではなかろうか。
アメリカ人が提唱したからといって、それ自体矛盾であるというわけではないが、日本文化、それも防衛を語ろうとする者が、何故日本人として自らの思惟、観念を記述しようとしなかったのであろうか。
アメリカに対して、三島は反米的ではない。
私見であるが、やや好意的でさえある。
これまた個人的希望であるが、三島には力強く声高に力説してもらいたかった。
「日本に平和憲法を押し付け、日本文化を堕落させた張本人はアメリカである」という言説を私は期待してやまないのであるが。
ただ私は、結構な誂えの今の平和憲法とは、政治軍事的プラグマティズム的観点からは、ありがたやと高評価してきたし、今日の改憲論については慎重な立場である。


またまたあげあし取りである。

「博物館的死んだ文化」という記述がある。
今の世なら、ネットで炎上するような無遠慮、失礼極まりない記述である。
小市民、私もその一人であり、かっての三島もそうであった。
その小市民が王朝の雅、日本の美の精髄に触れ、粋で優雅な美意識を掲げながら生き、死んでいった祖先を思慕し、つかの間であっても心の安息を得るのは、まさに博物館のガラスの向こうの世界があるからである。
何気ない言葉、「博物館的死んだ文化」という記述、
悪意でとれば「自分は日本文化の精髄に身近な存在であったし、現に今もそうである」
かの如き三島の歪んだ選良意識がここに露呈している、のではないか。
またこの個所に限らず、そのことを無防備、無邪気に露出させてしまうこの時期の三島の脇の甘さ、自我の脆弱化、痛ましいと私は感じるのである。


さらにあげあし取りである。

「パリは一フランスの文化であるのみではなく、人類全体の文化的遺産であるから、これを破壊から護ることについては敵味方は一致するが、政治的局面においては、一方が他方に降伏したのである。そして国民精神を代償として、パリの保存を購ったのである。このことは明らかに国民精神に荒廃をもたらしたが、それは目に見えぬ破壊であり、目に見える破壊に比べたら、はるかに恕しうるものだった!」


パリは確かに、今日世界遺産である。
人類全体の宝でもある。
が、今のパリはたかだか150年前、フランスの大バブル期、ナポレオン三世、オスマン男爵によって綺麗に整備された都市設計の一傑作(他にも沢山傑作はある)でしかない。
フィリップ・オウギュスト敬虔王の壁なんぞも残っているが、ごくごく一部である。
作品としては、大規模ではあるが、まだまだ真新しい、熟成する以前に凝固した作品なのである。

三島の記述、パリをここ(文化とその防衛を語る文脈において)で持ち出すことには、私は違和感をぬぐいきれない。
確かにフランス人ならば、誰しもパリを誇りには思うであろう。
しかし既にナチスにフランス国内を蹂躙され尽くし、戦力の大半を喪失したフランスが降伏し、ナチスのパリ占領を甘受したことは、それほど恥じねばならないことであろうか。
賢明であった、ということでしかない、私はそう思う。
げんに、ドゴール将軍、ルクレール中将らフランス人の手で取り戻したではないか。



次いで、この論での最も重要な記述となる。



三島がいうところの文化とは、一体どんなものなのだろうか。

次の段落である。



日本文化の國民的特色

「第一に、文化は、ものとしての帰路を持つにしても、その生きた態様においては、ものではなく、又、発現以前の無形の國民精神でもなく、一つの形(フォルム)であり、國民精神が透かしみられる一種透明な結晶體であり、いかに混濁した形をとろうとも、それがすでに「形」において魂を透かす程度の透明度を得たものであると考へられ、従って、いはゆる藝術作品のみではなく、行動、及び行動様式をも包含する。」

おそらく三島はここで自分なりの文化の定義、といえる程の厳密さは回避しつつ、文化とは何ぞや、という問いに対する回答を記述したものと思われる。
なにか曖昧模糊とした記述である。
というのも、「もの」「生きた」「形」「結晶體」、さらには「魂」という最も多義的な語句を曖昧なままに記述しているからである。

ちなみにネットで日本語でいう「もの」を調べてみた。

wikiには以下の如く記述されている。

該当しそうなものには便宜的に,らまで番号を挿入させていただいた。
物(もの、ぶつ)とは、広義には対象を特定化せず一般的・包括的にいう語であり、人間が知覚し思考し得る対象の一切である。
ゞ間のある部分を占め、人間の感覚で捉えることが出来る形を持つ対象。
物質、実体、または物体等。
具体的な存在から離れた、人間が考えられ得る形を持たない対象。
物事や事物、言葉、学問等。
妖怪や霊魂等、不可思議で霊力を持つ得体が知れない存在。
E学では経験の対象(客観)とされる時間的存在者のこと。空間的・時間的対象。ドイツ語で Ding。(反対語:物自体 Ding an sich)

以下略す。

三島が使った「もの」という語句は、この場合、,諒質的存在、或いは△隆冉暗な対象、これらを判然とさせないまま記述していると、私は思う。
というのはこの後に、解体、再構築を前提とした「日本の木の文化」、それと対照させる意味で「西欧の石の文化」の記述が出てくるからである。
ただの意味、現象学派が言う「もの」、ラカン派が言う「もの les choses」、哲学的にこだわりだすと混迷を極めることとなる。

しかし三島は意識していなかったであろうが、文脈からはの意味での「もの」と重畳しているのである。
というのも、三島が言う「文化」とは、「一つのかたち(フォルム)」である、「行動をも包含する」という記述に連なるからである。
三島はかねがね、芸術とは様式である、と主張してきた経緯がある。
しかしここでは「様式」と固定させてしまうとそれは概念、そして概念であれば「もの」そのものとなってしまうのであるが、三島は、いやそうではない、行動である、と力説する。

行動、というからには以下のことが問われるべきである。
|が、つまり「主体論」
¬榲、つまり乱暴に括れば「欲望の対象」
9堝阿箸いΔ發里蓮∋間の連なりであり、時間の連続体である。
す堝阿垢襦△弔泙蟠間内を移動する。
空間が問題となる。
たとえ不動の行動であっても他の空間がなければ、「不動」は成立しえないからである。
一つのかたちとは、その分節化である。

ところで「一つ」とはなんであろうか。
一つ、唯一なのであろうか、例えばという言い回しなのであろうか、一つというからには、2,3、さらには無限大の数値が想定されるべきであり、それらは「他」としいて差異化されねばならないはずであるし、「一つ」と「他」とは弁証法的な関係性を持たざるを得ないのである。

ただ、形、フォルムを特徴とする芸術、芸能は、何も日本の専売特許ではない、西欧であれ、非西欧もどこかしこも万国共通である。
「フォルムがフォルムを呼び、フォルムが絶えず自由を喚起するのが、日本の藝能の特徴であり(以下略)」
とあるが、三島の記述は自分の主張のこだわるあまり、視野狭窄を起こしている、私にはそう思われる。


次いで三島は論を展開させていく。
「オリジナル」と「コピー」論になる。
西欧は、まずオリジナルありき、石の彫刻、建築である。
パリは石の建築であり、破壊されれば廃絶してしまう。
今日、ギリシャ彫刻(本来のオリジナル)の大半は失われてしまっている。
したがってそのコピーともいえるローマ彫刻を見ることによって、オリジナルのギリシャ彫刻を偲ぶしかない。


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たいして日本は木の建築であり、何度も焼失しては再建、それを繰り返してきた。
そこにはオリジナルに対するこだわり、コピーとの落差は生じない。
伊勢神宮をみよ、あれは20年ごと新築されるが、常に新しいものこそがオリジナルなのである。

上げ足を取ることになるが、日本の木の文化、建築は、常に古い時代、先輩の作品を尊敬、追慕し続けてきた。
聚楽第の遺構、どれほど尊ばれ各地に再利用されてきたことか。

京都の寺院、方丈、その多くに御所の再利用がみられる。
茶室もそうである。
木の建築文化とは、常に再利用を考慮され、古材は尊ばれ融通無下に再利用され続けてきた、それが日本の伝統である。
昔から日本の建築文化とは、エコだったのである。

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次いで三島の主張は一気に飛躍する。




伊勢神宮の造営、オリジナル、コピー論からの続きである。

「このような文化概念の特質は、各代の天皇が、まさに天皇のその方であって、天照大神とオリジナルとこコピーの関係にはないところの天皇制の特質と見合ってゐるが、これについては後に詳述する」

これは唐突な記述である、首をひねってしまう。
各代の天皇各々がオリジナルの天皇であって、けして天照大神のコピーでもないし、他の天皇のコピーでもない、という意であろうか。
そのわりには、加後号といって後一条天皇、等々たくさんおられた。
いろいろあっての天皇即位の正当性、或いは祖先をしたって号したとか。
各々すべてがオリジナルであり、オリジナル、コピーの関係性ではないという三島の主張は、少し無理がある。
天皇も、歴史の中ではご苦労なさりやっと即位できた方もたくさんおられたし、無理やり退位された方もおられた。
この天皇と文化概念とが見合っている、と三島はいう。
今までの文脈から言えば、似ているかもしれないが、ただ似ている、共通する点がある、というだけなのではないだろうか。

ついで次の段落となる。
國民文化の三特質
ここで三島は、〆撞∪、∩澗寮、主体性の三つを特質として挙げている。
これも曖昧で回りくどく分かりにくい記述である。

,寮睫世涼罎如屬發痢廚箸いΩ斥佞出てくる。
更に見られるもの」「見るもの」 という記述が出てくる。
ここまでくると、三島が以前から関心を寄せていたハイデッガーを意識しての記述であることがうかがわれる。
Wikiが分かりやすく要約してくれていることに気づいた。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「日本文化の特質は「再帰性」「全体性」「主体性」の三つに要約される。
「再帰性」とは、文化が過去にのみに属する「完結したもの」ではなく、現代の日本人の主体に蘇り、現在の時に「連続性と再帰性」が喚起されることである。
「全体性」とは、文化を道徳的に判断するのではなく、倫理を「美的」に判断し、〈菊と刀〉を「まるごと容認」することである。文化とは本来は「改良」も「進歩」も「修正」も不可能なものであり、包括的に保持するべきものである。
「主体性」とは、文化創造の主体者たる個人における「形(フォルム)」の継承である。人間が「主体なき客観性」に依拠した単なるカメラや機能であってはならない。」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「見られるもの」「見るもの」との言う記述は、この中で「再帰性」を語る文脈の中で出てくるのである。
なにか今風というか、再帰性、反復という語で置き換えると、デカルト的特権的主体ではなく、「見られる」つまり「他者によって」見られるような主体、という意図が伺えるかの如くもとれる。
文化に必須である伝統、歴史、時間、それらの中で生きる主体とは、常に他者による眼差しを受ける主体、それは意識しないまでもそのしがらみの中でしか生きてはいけない、という発想が芽生えている。
フロイドでいえば、反復強迫である。

三島の記述である。
「文化の再帰性とは文化がただ「見られる」ものではなくて、「見る」ものとして見返してくる、といふ認識にほかならない。」
という中で「見る」ものとは、過去の伝統、他者である。
三島にとっての主体の中には、この時点で時間、他者という思考が折込まれつつつあったのだろうか。

「全体性」については、まさに三島の指摘に賛意を示さないものは、今の世ではごくごく少数派であろう。
美と醜、健全と頽廃、痛み、不快を伴いつつ、我々はありとあらゆる雑多、混沌、いわばかりそめで使う言葉であるが「すべて」を包含させ、甘受するべきであり、そうでしかない。

「主体性」 これについては色々と議論があるだろう。
三島は、丹羽文雄の戦中、戦後の文筆活動に批判的である。
丹羽文雄のペンとは、克明に写し取ることのできるカメラである。
そこには主体の関与はない、という趣旨である。

私が思うに、カメラレンズのごとく事象を克明にペンで写実として記述できるなら、まさに文筆家の到達点であり、見事、素晴らしいことであろう。
三島が言うほど、主体は他者から独立し、孤高の存在として自らの欲望に能動的に関与し、果たして実行できるであろうか。
近代的、というよりも古典的主体観に三島が陥っていたことが伺われる、私はそう思う。
三島は、自分の自我の中に潜み操る他者に対して、あまりに無邪気、無防備であった。
これは行動論への三島的な不思議な「確信」へと繋がっていく。




次の段落である。


何に対して文化を守るか

「體を通してきて、行動様式を学んで、そこで初めて自分のオリジナルをつかむという日本人の文化概念、といふよりも、文化と行動を一致させる思考形式は、あらゆる政治形態の下で、多少の危険性を孕めていると見られている。」

で始まるのであるが、なにやら陽明学に関する三島の思いがほのめかされる。
言論統制が、文化の切断、断絶を意図するもの、として俎上に挙げられる。

ここで源氏物語について言及される。
江戸時代、源氏は「淫蕩な」書、特に儒学者の間で見做されきた、らしい。
ここで再度「菊と刀」が取り上げられる。
「刀」による防衛の必要性、重要性、必須性を強調する。
文化は、文化によっては防衛できないとするのである。
三島は、「文化主義」「平和主義」にひそむ偽善性、怯懦を告発する。

しかし、ここには目もくらむような論理の飛躍がある。
抑圧するものは、言論だけとは限らないであろう、音楽、美術、藝能も場合によっては、権力者、或いはある種の集団、大衆、民族によってさえも弾圧され得るであろう。
ここでいきなり文化の防衛のために、人は「刀」を抜かねばならないのであろうか。
これでは当事者同士いくら命があっても、足らないであろう。
文化を抑圧するもの、それは出所は様々であろうが、暴力であれ、権力であれ、法的拘束力であれ、何らかの物理的強制力を持つものである。

戦後仇討ちをテーマとした歌舞伎、大革命中のサドの作品はその渦中で苦悩にあえいだ。
三島の作品「癩王のテラス」、最近までアマゾンでは入手困難であった。
一昨年の3月、同作品「ライ王のテラス」と名付けられ劇場公演が行われたことを、無知な私は今日知った。

これは権力と、それに抗する作家、愛好者の権力闘争となる。
言論での闘争から、地下出版、法廷闘争、或いはデモ、平和的なものから暴力的なものまで、或いは民族闘争、戦争もその民族の持つ文化を守る防衛である。
幅広いものであり、複雑な現実への関与、投企であり、場合によっては身を滅ぼす、死にもいたり得る「行為」ともなる。

ラカンに言わせれば、「現実界」である。
この捉えがたい、或いは捉えることが可能であってもごくごく一部でしかない捕捉不能、不可能な「世界」なのである。
三島の記述中には、この捉えがたい「現実」というなかで生き、変化し、翻弄される「文化」という捉えがたい「もの」と一体化し得るに違いない、そうでなければならない、という超理想主義が潜伏している、そう私には感じ取れるのである。
幻想であり、それは必ず不幸な帰結、幻滅に終わる、それは宿命である。
三島がいう「文化」とは、いつの間にか対象aにすり替わっているのであるが、それは硬く武骨な記述のかなたに見え隠れしているのでわかりにくい。


ただ言論、表現の自由、その究極点を三島は主張しているのでもあるが、その点は私ならずとも多くの人々は賛意を示すものである。
が、表現の自由とは、不幸にも今日、権力、時によって人権という新たな権力によって遮断されうることを覚悟せねばならない。

弱者、少数者、排除されつつある人々、彼らの人権を自由に蹂躙する言論の自由とは、「シャルリ・エブド」でテロによって遮断されたばかりである。
これには議論あるところではある、いまだに。




次の段落である。

創造することと守ることの一致

「自我分析自我への埋没といふ孤立から、文化が不毛に陥るときに、これからの脱却のみが、文化の蘇生を成就すると考へられ、蘇生は同時に、自己の滅却を要求するのである。」

これは自我への埋没、ここで云う自我がなんであるかという疑問をまず感じるのであるが、自我に執着する文化、例えば私小説的な記述を批判しているのかもしれない。
文化が不毛に陥る原因を、自我への執着にのみ帰する事へのリスクを顧慮しなくてよかったのであろうか。或いは他の複数多々の要因を吟味し、具体的に記述したがそれら原因としては該当しえなかった、という過程をすっ飛ばしてしまった、私にはそう思える。


「かくて、創造することが守ることだといふ、主体と客体の合一が目賭されることは自然であろう。文武両道とはそのような思想である。」

何げなく記述されている一文であるが、三島の思想を考える上で非常に重要な記述である。
「創造することが守ること」とは、そういう場合もあり得るだろう。
しかし等価であろうか。
そうう言い切ってしまう危うさを包含している。

更には「主体と客体の合一が目賭されることは自然であろう」という曖昧な記述が続く。
創造する=守る、でありその二つは「主体と客体の合一」へと繋がっていく、と看做すことは「自然であろう」
という流れに、読者は巨大な警戒感を抱かざるを得ない。

ー臑里筏丗里蓮△修發修盥膂譴憩世襪發里任△蹐Δ。
これは思想上の大きな問題であり、一行の記述で済む問題とは異なる。

◆崛和い垢襪海箸守ることだ」と「主体と客体の合一」との関係性とは、「それらは単に類縁関係である、必然的不可避的関係性を保証し得ない」という言説には反論し得るのであろうか。

「自然であろう」というが、「自然である」とはここでは何を意味、隠喩し、何を意味しえないのであろうか。

なにか結論ありき、後付けの理屈のようでもある。
なにがなんでも文化、武道、肉体への賛美、彼の中で未消化な宝石を、ずらり並べるうえでの無理を重ねた修辞ではないだろうか。

この短い記述の中に三島が抱えていた深い懊悩、解決を焦らねばならない焦燥、それは深く暗い冥界なのであるが、その暗渠をうかがわせる。




次の段落である。

戦後民族主義の四段階

ここで三島は民族主義について記述し始める。

「血族共同体と国家との類縁関係はむざんに絶たれた。しかしなほ共同体原理は、そこかしこで、エモーショナルな政治反応を引き起こす最大の情動的要素になってゐる。それが今日、民族主義と呼ばれるところのものである。よかれあしかれ、新しい共同体原理がこれを通して呼び求められてゐることは明らかであろう。」

ここで三島が言う「血族共同体」というものがどういう意味、位置づけなのかは明らかではない。
が、血族とわざわざ記述したところから、「家族制度」の意味を含有させていたのではなかろうか。
家族を出発点とする共同体、さらには国家という権力機構との関係性が、絶たれている。
そのような意味であろうか。

それを償う、或いは代償するために蠢く、時に勃興するものとは民族主義という位置づけで論じられるようである。

「民族主義」の発展段階として、三島は以下の如く記述した。


\鏝紂∪衫硫爾量餌下腟舛任△襦
戦後しばらく、占領下の民族主義は国家観念の明らかな崩壊の状況下に社会革命なるものと癒着してゐるやうな外見を呈した。
それはおとなし気な外観とともに、声高な革命の空想とも癒着してゐた、とする。
これは1960年、第一次安保闘争で一旦終焉を迎えた。

自民党政府は、徐々に国家権力による民族主義の収奪を考へた。 中略 オリンピックにおいて、平和憲法と民族主義との戦後最大の握手が国家の司祭によって成功した。
所得倍増政策、高度成長経済の達成、さらにはその記念碑としてのオリンピックを、民族主義の国家によるガス抜き済みの偽善的管理である、と三島は批判しているようである。
その偽善をあからさまに告発し、国家の目論見を失敗させたたのが、円谷選手による自刃であった、と主張する。

F本で最盛期を迎えた学生運動、三島はエンタープライズ事件を引き合いに出す。
すなはち、ヴィエトナム戦争への感傷的人道主義的同情は、民族主義とインターナショナリズムの癒着を無意識のうちに醸成し、反政府的感情とこれが結合して、一つの類推を成立させた。
佐世保の米軍基地に学生2名が突入した学生運動を取り上げ(結構その行為に対して三島は快哉を感じていたが、ただ侵入に終わったことに晦渋な表現で失望を述べている)その背後には反米主義、ベトナム戦争によって醸造された、民族主義とインターナショナリズムの「危険な野合」を指摘する。
この三島の指摘は、今日当を得ていると私も思うのである。

ぁ‖茖潅奮について記述される。
ところがここで今日の視点から言えば、大変な逸脱を喫してしまう。
なにせ40年前ではある。
中央公論社でも、特に奇異とは思わなかったであろう。

民族主義とは、本来、一民族一国家、一個の文化伝統・言語伝統による政治的統一の熱情に他ならない。

日本は世界にも稀な単一民族単一言語の国であり、言語と文化伝統を共有するわが民族は、太古から政治的統一をなしとげてをり、われわれの文化の連続性は、民族と国との非分離にかかってゐる。

同じようなことを放言し、謝罪した政治家を思い出す。
なにせ40年前ではある、目くじら立てても仕方がないが。
ここから、日本には民族問題はそもそも存在しない、と三島は記述する。

「沖縄問題」「朝鮮人問題」「新島の島民」を糧に、加害者、被害者の政治的プロパガンダそれの道具としての民族主義が顕在化している、と主張する。
が、このあたりから三島の文化の窮屈さ、息苦しさ、固定化した可変性の喪失、思想の中のそれこそ「死んだ美」「剥製のような美」が忍び寄ってくるのである。






次の段落である。

文化の全体性と全体主義


「敍上の如く、日本では戰後眞の異民族問題はなく、左右いづれの側にとっても、同民族の合意の形成が目標であることはいふまでもないが、同民族の合意とは、少なくとも日本においては、日本がその姿に目覚め、民族的目的と國家的目的が文化概念に包まれて一致することある。その鍵は文化にだけあるのである。」


なんとも思い込みの強い言である。

1970年代といっても、いかに島国日本といえどアイヌ、少数であるが二ヴフ、ウイルタといった北方、独自の文化を持った人々がいた。

70年代は少なかったかもしれないが、すでに朝鮮に限らず世界各国から日本に帰化、様々な民族性を背負いつつ日本人となった人々が少なからずいたはずである。

これらの人々の「文化」を無視し、所謂大和人を基準とした前の段落での「単一民族」、本段落での「異民族問題はなく」とは、いかにも違和感をぬぐえない。
このような狭量、強引な視点では、日本という多彩で雑然とした文化を持つ人々、そのとてつもなく複雑な集団を、一括りで語ることは不可能というか、どこか上滑りとならざるを得ない。
そのような「単一民族」「異民族問題はない」を前提とする三島はさらに不安定、奇異ともいえる記述をし始める。

そもそも文化の全体性とは、左右あらゆる形態の全体主義との完全な対立概念であるが、ここには詩と政治とのもつもっとも古い対立がひそんでいる。文化を全体的に容認する政体は可能かといふ問題は、ほとんど、エロティシズムを全体的に容認する政体は可能かといふ問題に接近してゐる。」

ここで三島が言うエロテイシズムとは、おそらく三島が高く評価していたG.バタイユ的文脈であろう。
いつもエロティシズムを語るとき、三島は中国の凌遅刑を常にバタイユ的見地から語っていた。
写真を載せるわけにはいかないが、私なりに要約すれば、おぞましさの極致、自我を消し去ってしまう生で赤裸々な主体が露出する「現実」であり、絶対者、死を眼前とする光景なのである。


包括的、幅広い文化(美から醜、貴から賤、純から雑、ありとあらゆるものでなければならないとする)というもの、三島はこれを必須とする。
そういいながらの「単一民族」なのであるが。
この文化の全体性に「嫉妬」し、これを束縛するものが「全体主義」であり、三島は全体主義こそを排する。
これは今の世でもまさに正論である。

ここから先の三島の記述は、最初は微妙であるが段々と大きな円弧を描きながら逸脱していくのである。
「言論自由は本質的に無倫理的であり、それ自体が相対主義の上に政治技術的概念であるから、」

当然である。
それであるからこそ、文化は多様であり、豊穣、猥雑、節操にかけるのであり、尊いのである。
ところが三島は文化に絶対の安定性、ないものねだりなのであるが、それを希求し始める。

「前略 文化共同体理念は、その絶対的倫理的価値と同時に、文化の無差別包括性を併せ持たねばならぬ。ここに文化概念としての天皇が登場する。」

相対的、不安定さを身上とする文化である。
そこに無理やり、しゃにむに絶対性、安定性を求めるがために現人神、天皇が登場してしまう。


最後の段落である。


文化概念としての天皇

三島はこの最後の文章を記したいがために、これまでの記述を為したわけである。
下準備の後の記述、というわけであるが、それでも「菊と刀」、天皇と軍隊という三島の主張は今の世では突飛というほかはない。
だがこの時代、70年安保が祭りの炎のごとく燃え上がり、しかしさほどの社会的変革をもたらしたわけでもなく終息を迎え、なおも冷戦時代であった。
三島なりに、切迫した危機感を抱いていたのであろう。

最初はよくある手法であるが、三島の忌憚なき意見ではなく「思想界」の重鎮というか、識者のご意見を読者は拝読するはめになる。
当時の「佐々木惣一博士」、「和辻哲郎氏」の論争、昭和22年頃の象徴天皇制と「国体」概念論争らしいが、今読んで興味を持てる内容ではない。
退屈である。
天皇制、国体、政治、文化、共同体、これらの概念をどう組み合わせるや否や、という括りしか粗雑な私の頭ではできなかった。
が、三島にとって必要だったのは以下の如き記述であったと思う。


「ここで氏(和辻哲郎氏)が、天皇概念を国家概念と分離するとき、そこまで氏自身が意図したかどうかは定かではないが、『国家が分裂しても国民の統一は失われなかった』歴史的事実における統合の象徴としての天皇が、文化共同体の象徴概念であるがゆゑにこそ、変革の理念たりえたといふ消息がおのづから語られてゐるのは示唆的である。」

何か三島にとって都合の良いというか、「権威者」の言述から美味しい部分を抜き出したに過ぎないのではないか、という意地悪な見方もできる。

鎌倉幕府崩壊から、南北朝、更には皇室が貧窮を極めた戦国時代、この時代においてはたして「国民の統一は失われなかった」と言えるのであろうか、国民、武士団(それは農民でもあったのだが)は離合集散を常に抜け目なく繰り返し、首が飛ばないように必死、懸命であった。
「国民の統一」とは程遠かった。
幕末もそうである。
鳥羽伏見の折、幕府の若手首脳部は、本気で武力による皇室廃止を画策していた。

次いで三島は、津田左右吉氏の論として、以下のごとく引用する。

『今一つの重要なことがらは、皇室の文化上の地位とそのはたらきとである。上代においては皇室が文化の中心でもあり指導者でもあられたことは、いうまでもないがこれは日本の地理的位置と、農業本意である日本人の生活状態とから、民衆が異民族と接触しなかったために、シナの文物を受け入れるには朝廷の力によらねばならなかったところに主因があり、武力を用いられることの無い皇室が、おのずから平和の事業に威を注がれたことも、それを助けること事情となったであろう。 以下略』


実はこ天皇制を考えるとき、重要な記述が記されている。

‘本が島国であり、今日よく言われる地政学上の特徴により、独立、或いは孤立した歴史を長期間歩むことができた。
日本は農業本意の生活状態であった。
D廷が中国との外交を一手に受け持った。
す勅爾鷲靂呂鰺僂い覆った。(これは、南北朝だけを考えても、そう言い切ってしまうのは如何なものかとは思うが)

このあたりは、今日においても常識的であり、青筋立てて反駁する筋合いではない。

が、三島の記述は、これ以降飛躍が目立ち始める。
三島の本意は以下のごとく記述されている。

「雑多な、広範な、包括的な文化の全体性に、正に見合ふだけの唯一の価値自体として、われわれは天皇の眞姿である文化概念としての天皇に到達しなければならない。」


「このような文化概念としての天皇制は、文化の全体性の二要件を充たし、時間的連続性が祭祀につながるとともに、空間的連続性は時には政治的無秩序さへ容認するにいたることは、あたかも最深のエロティシズムが、一方では古来神権政治に、他方ではアナーキズムに接着するのと照應してゐる。」

「『みやび』は、宮廷の文化的精華であり、それへのあこがれであったが、非常の時には、『みやび』はテロリズムの形態さへとった。すなはち、文化概念としての天皇は、国家権力と秩序の側だけにあるのみではなく、無秩序の側へも手を差し伸べててゐたのである。」

この実例として三島は、「光明天皇の大御心に應へて起った桜田門変の義士達」「二・二・六事件」をあげた。

「(戦後)天皇と文化は相関はらなくなり、左右の全体主義に対抗する唯一の理念としての『文化概念たる天皇』『文化の全体性の統括者としての天皇』のイメージの復活と定立は、つひに試みられることなくして終わった。」

「みやびの源流が天皇であるといふことは、美的価値の最高度を『みやび』に求める伝統を物語り、左翼の民衆文化論の示唆するところとなって、日本の民衆文化は概ね『みやびのまねび』に発してゐる。」

等々、同じような趣旨の文章が並ぶ。
三島は、天皇に日本の美の精髄、その根源を求めるのである

ここで唐突に日本神話、頻用されるエピソード、須佐之男命である。
ここの反逆、革命、卑俗さへも「みやび」に包括されるとする。
とどのつまり「みやび」を起点に、「菊と刀」、ついには以下の記述へと飛躍する

「菊と刀の栄誉が最終的に帰一する根源が天皇なのであるから、軍事上の栄誉も亦、文化概念としての天皇から與へられなければならない。」

ほぼ文脈としてはかくのごとくである。

一つ一つに賛同する、反対する、色々な考えがあるであろう。
むきになって論を重ねても退屈なだけである。

私としては、ここで40年後の今、視点を変え記述してみたい。

1・天皇と武力の問題
2・天皇と「穢れ」の問題
3・三島がこれを記述せざるを得なかった心情への仮説
4・三島がおそらく抱いていたであろう家族観

である。




1・天皇と武力の問題

私は歴史の専門家ではない。
ど素人である。
そのような私の歴史論議でしかないのである、と言い訳をさせていただく。

おそらく平安時代以前の日本、天皇家の内紛、内乱は頻繁であったようである。
最近では、中大兄皇子、天武天皇の時代、大きな政変があったという説をよく聞く。
少なくとも、古代の天皇は、殺戮を勝ち抜いてきた人々であった、らしい。

ところが平安時代、特に藤原氏の摂関時代に至り、天皇と武力との関係性はどんどん希薄化していく。
律令制にも、兵部省、刑部省と軍隊警察機構はあったが、何故か著しく非力であった。
更に桓武天皇の時代、常設の軍隊を一切保持しなくなった。
これは巷間、「穢れ」の概念が当時の皇室周辺で強く影響していたと言われているが、確証はない。
なにか「穢れ」という概念的なものだけではなく、常備軍を保持することは、経済的に無理があったのかもしれない。
中世、ルネッサンス期の西欧でも、似た事情があった。
フランス王も近衛兵しか持たなかったが、それもドイツ、スイス人傭兵であった。
京の治安を守る必要性から、検非違使という令外官制度が作られたが、京市中の警察的役割しか持たなかった。

一方、無警察状態の地方では、治安維持に苦慮した。
その結果、農民が武装化し武士団を形成するようになった。
武士団の棟梁となったのは、都では摂関家に冷や飯を食わされ、地方に任官下野した、或いは追放された皇族、その末裔たちであった。
というのが歴史の授業で教わった天皇と武力との経緯である。
天皇、及びそれを取り巻く公家たちの「穢れ」への怖れ、それは死であり疫病、更には人を殺す武士、武力への怖れ、侮蔑へと転じ、汎化した、という説をよく目にする。
が、常備軍を維持する経済的負担、及び皇族同士の内紛、クーデターで常備軍を利用され寝首を掻かれる、或いは常備軍そのものの反逆、というマイナス要因を勘定に入れていたのではないだろうか。

だが、南北朝時代ともなると天皇家も悠長なことは言っていられなくなった。
後醍醐天皇の息子たちは、みな各地に散って北朝方勢力と戦闘に明け暮れていた。
中でも後村上天皇、幼児期から北畠親房に連れられ戦場を転々とする生活であった。
97代天皇に即位後も大和賀名生に本拠地を置き、足利一族と抗争を繰り返した。
足利家の内紛に乗じ、一時的ではあったが京の奪還にも成功している。
伝説では、天皇は僧形に鎧兜、薙刀を持ち乗馬して出陣した、という。
負け戦では、命からがら逃走し天皇の鎧には数本の矢が刺さっていたとか。
後村上天皇、例外的な存在ではあった。
以後天皇は、軍事から遠ざかった。

ただ、明治からの皇室はがらりと変わった。
宮たちの多くは、軍服をまとい海外の戦地にも赴いた。




2・天皇と「穢れ」の問題

天皇は神道の総帥である。
戦前は現人神であらせられた。
天皇が何故、例外を除き基本的には武力を保持してこなかったのか、その説明に使われる概念に「穢れ思想」がある。
穢れについてwikiをみるがあまり要領を得ない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%A2%E3%82%8C

神道において、「穢れ」の源泉になるものとは、どうも「死」に繋がっていくようである。
一方では、女性の月経、出産、出血が絡むものであるが、これも「穢れ」に相当するそうである。
一種のタブーであろうか。

「死」とは、生命体である人間にとって絶対としての他者である。
全ての生命体にとって、何時かは出会わなければならない不可避の絶対者でもある。
人間にとって、そのことから逃れられない宿命であるからこそ、「祓う」という行為が為され、そのことを尊ぶ。
女性の出産、昔は現実的に「死」と隣り合わせの大仕事であったし(今もそうであるが)、同時に「死」の対極に位置していた。
これまた不可知、未知の生命体誕生である。
これも見方を変えれば、対極にある「死」を思い起こさせる、不吉なものである。
同時に人智の及ばない神秘でもある。
いわば無から有が生じる不条理な事象でもある。

この「死」、そして生命体の「誕生」という「穢れ」を祓う、禊を行う祭祀者こそが天皇である。
いわば「穢れ」同士の綱引きの中央部に位置して、何とかバランスを維持する、バランスをとりながら、かくの如き緊張関係をヴェールで覆い隠蔽する、隠蔽により民の安寧を維持させる。

天皇の担う責務とは、そのような緊張関係の上に存在せざるを得ない。
三島が執拗に主張する「エロティシズム論」とは、本来この「穢れ」に遺憾なく綿密、執拗、仮借なく赤裸々に言及するべきであり、そうでしか三島の論拠は存在し得ない。
何故、三島がバタイユに言及しつつも曖昧、煮え切らぬ言述に終始したのは、「穢れ」が持つ禁忌に触れることを恐れたからであろう。
言及することはタブー、禁忌であるからこそエロティックなのであるが、これは物書きとして反則である。

ところで明治以前歴代の天皇は、対外的に排他的であったようである。
なにせ遠いご先祖は、7世紀の白村江の戦い、13世紀元寇でさんざんご苦労なさった経験がある。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%AF%87#%E7%AC%AC%E4%B8%80%E5%9B%9E%E4%BD%BF%E7%AF%80
元寇の折は、1268年鎌倉幕府は、外交は天皇の役割、と交渉の役割を当初朝廷に振っている。
朝廷は、元との外交交渉を即座に断っている。

次に興味深い天皇と外国との接触があった。

カトリック勢力、イエズス会の布教である。
1551年、京に滞在したザビエルは、室町将軍足利義輝との拝謁は京が戦乱の為にできず、後奈良天皇への拝謁は全く相手にされなかった。
余談であるが、当時の後奈良天皇、先代の後柏原天皇共に、歴史上最も貧窮した天皇である。
京都御所、道喜門のいわれをNHKが紹介していた。
川端道喜という餅屋が、貧窮していた天皇に粽持ちを毎日差し入れしていたのである。
後柏原天皇は、毎朝の差し入れを、まだかまだかと楽しみになさっておられたとか。
この風習は、幕末まで続いた。

wikiにはザビエルの貢物が不足していたから、とあるが実際にはもっと根源的問題があった。
1560年、ガスパール・ヴィレラ司祭は、足利義輝への拝謁が叶い、布教を許可されている。
が、正親町天皇との拝謁は、けんもほろろ全く叶わなかった。
あくまで異国人、異教徒として朝廷からは強く排斥された。

ところが1581年、織田信長によって内裏で催された有名な京都御馬揃えの際、ひと悶着があった。
正親町天皇御高覧の席である。
大規模な桟敷が設けられた。
天皇、公家が坐する位置から見える場所に、当時来日していたイエズス会ナンバー2、巡察使であったアレキサンドル・ヴァリニアーニ一行が招かれ見物していたのである。
それを見た天皇、皇族、公家共にひどく困惑したとか。
天皇にとって、彼らはおそらく「穢れ」として映ったのであろう。


3・三島がこれを記述せざるを得なかった心情への仮説

三島の記述の中ではなかなか伺い知れないことであるが、語り言葉、言述を聞くと三島が実に誠実で正直であることがわかる。
三島の「文化防衛論」における主旨を再度まとめてみたい、私なりにであるが。

‘本の文化の構造、その中の空間、時間の中軸にあるのは生身の天皇である。
空間的広がりの説明の中で、日本文化というのは無政府状態、アナーキズム、放埓な反乱さえも包含しえた。
更には文化の「全体性」として、ありとあらゆる卑俗なものさえも包含しえる、そのような権能を持つ。
ここに天皇を中心とした日本文化のエロティシズムとしての、本質がある。

日本文化の精髄とは、歴史の中で断絶する危機はあったかもしれないが、今日まで綿々と継続し続けている。
時間という連続した軸、その中軸にあるのは天皇である。
天皇とは、各々がオリジナルであり、常に過去から「みられ」かつ「みる」という反復性を維持し続けるのである。

I靂呂筏離を置き続けた天皇は、常に文化、特に「詩」の洗練に意を尽くし続け、その清華が今日の日本文化の精髄を成している。
そもそも日本とは、世界にも稀な単一民族からなる、純度の高い精緻な文化を構築し続けてきた歴史がある。
(いうまでもなく、聞かされるほうも恥ずかしい誤謬、偏見に満ちた軽薄、浅薄な言説である。かくの如き狭量な思考こそが、三島をして文化の祭祀者、すなわち天皇へと強引に収斂させてしまう。その三島の引っ込みのつかない呪縛、不自由な思考が希求したのは自決であり、不可解な悲劇であった)

ぁ´△能劼戮親本の文化の危機、それは明治以降、常在している。
天皇は、常に政治勢力によって政治のために利用され続けた。
このため本来の文化の中軸としての権能が見えづらくなってしまった。
日本文化の防衛とは、この歪みを正すことである。
文化防衛とは、言論の自由と大きく重畳するし、その自由とは倫理を知らない。
そのような自由を、我々は何よりも重んじなければならないものである。
自由を束縛する全体主義は、共産主義、資本主義、その政治体制ににかかわらず、断固排さねばならない。

ヅ傾弔蓮武力を持たなかった。
しかし日本文化とは「菊と刀」である。
反逆や放埓な武さえも包含しえるのが、天皇の文化であった。
天皇にこそ、日本の軍隊の統帥権を帰するべきである。


思いつくままに記してみた。
お前全然わかってないな、というお声も聞こえてきそうである。
三島の主張に、没後40年以上たった今日においても耳を傾けることは有意義である。
私なりに、三島の心情を推し量ってみた。
三島が自決する数か月前のインタヴューがYou-tubeにアップされている。









実に興味深い。
もうこの時点では、死を決していたはずである。
もう死ぬ身である。
「見ていてくださいよ、じきにわかりますから」
何度か繰り返されるこの言葉が痛々しい。

さて、三島の記述、言述から、ある種の言説と奇妙な類似点を感じた。

カトリックである。
三島文化の中心軸を、天皇が唯一であり、他にはない、とする。
インタヴューの中では、絶対性と陳述する。
まるで神の代理人ローマ法王ではないか、いや違うと三島はいうだろうが。
しかし一神教の教義のようである、三島の記述からはそう思える。

私見であるが、日本は神々の国である。
多神教の人々が常に大多数であり、神々を祭祀しながら営みを継続し続けてきた国である。
三島の主張に、まず違和感を感じるのはこの点である。
天皇は、確かに日本文化の中枢にあった。
しかし中枢にあるのは、他にも多々あるのではないだろうか。
例えば卑俗なもの、賤しい、排除されてきたもの、隠蔽され続けてきたが絶滅しえなかったもの、いわば天皇の正当性を逆説的に支えてきたものである。
日本という空間を網羅し、時間を通じて脈々と伝わて来た数々のアイテム、その中の一つが天皇制であり、天皇制はその中でも中枢部、根幹に位置している、私はそう思うことにしている。
多彩なものは、多彩であり、ある種のカオスであり、それがこの世の豊饒さを保証し、人々を飽きさせないのである。


三島の主張に別の見方もできる。
天皇を文化の精髄、中軸、みやび、詩を次々に生み出す美の生産者、様々に賛美する。
更には「菊と剣」であり、刀を付与せよというのである。
ラカン的にいえば、天皇をファルス化しているといえる。

斜線を引かれたS  $を主体とし、語り得ぬシニフィアン、S1(三島がファルス化した天皇である)に語り掛けるとどうなるであろうか。
生産されるものとはS2である。
S2とは、様々な言説である、しかし、あくまで残渣物、残り物、更には主体にとってのごみであり、作品でもあり、抜け殻でもあり、主体の求めに対し施しを金輪際、一切もたらさない。

三島は空疎な言述に、心の奥底では落胆するし、まだ語りつくせるはずだ、と幻想を抱く。
その幻想とは真理の場であり、対象aで表されるが、三島には到達することはあたわない。
よく知られた、ラカンの4つの言説の中のヒステリー者の言説である。
重要なことは、ファルスに向かって語る主体$にとって真理の場に出現する対象aとは、剰余享楽である。


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いわば三島が繰り返し主張し、魅了されていることも公言していたが、天皇の周囲にあるはずの禁忌、エロティシズムとは、実はここに潜んでいるのである。
三島は、このエロティシズム、対象aに魅せられ、現実界の中を闇雲に突っ走ってしまった。
「禁忌」を犯し、市谷の総監室で血塗れの惨劇、自決を決行する、それは苦痛に満ちた死でもあった。
いわば享楽でもあった対象aに、三島は生きながら出会い、その数秒後に死んでいったのである。
三島にとっては、エロティシズムとの一体化を果たしてしまったのである。




4・三島の家族観

三島の祖父は樺太庁長官、父は東大卒後農林省の局長まで務めた高級官僚、超エリートの家庭であった。
祖父定太郎が死亡する1942年まで、三島は祖父、父、と三世帯家族であった。
祖母は三島を溺愛した有名な夏子である。

後年三島は結婚し2子をなす。
超有名作家になった後も、父梓は三島と同居し続けている。
やはり三世帯家族である。
三島は3人兄弟の長子、妹は17歳で早逝、は有名である。
弟千之氏は、祖父の代からの官僚の道、外務省を選ぶ。
そして弟千之氏は、ポルトガル大使の経験もあり、早くから家を出たようである。

とみてくると、昔ながらの日本の家庭である。
エマニュエル・トッドのいう典型的直系家族である。
日本、特に戦前の東京では最も主要な家族形態であった。
更には、伝統的農耕社会では頻繁にみられる。
他の家族形態、絶対核家族主義、平等主義核家族主義、共同体家族とは異なる性格を持つ。

三島の日常生活にも、この家族観に大きな影響があったのでは、と思われる。
すなわち、父親は権威的である。
権威には従順であり、秩序、しきたりを尊重する。
勤勉であり、教育熱心である。
兄弟間の不平等を止むを得ない、或いは社会の中でも不平等は当然であると受け入れる。
長男以外は、早くから実家を出て自分の生活手段を獲得しなければならない。

三島の文化観、思想形成の中で、このような伝統的家族観が大きな比重を占めていたと、私は考える。
天皇家も、この直系家族の一典型である。

ここまでだらだらと記してきたが、ネットを主とした乏しい知識を基にした雑文であり、いや違う、とおっしゃる方々がたくさんおられると察せられる。

もっとも正解などは、ないのであるが。




















月が登らなかった夜に    ダイ・シ・ジェ





読み始めてすぐに、これは傑作だと感じた。
もう一度言おう、これは傑作である。

ベストセラーとなった「バルザックと小さな中国のお針子」、本当は悲惨な物語、苦労話なのだろうが、読後の読者の思念に残るのはユーモアに富んだ青春小説であった。






「フロイトの弟子と旅する長椅子」は良くなかった。
文中に瀕用されるフロイトもラカンも消化不良、いや精神分析の名を借りてはいるが全く無縁、無関係、或いは不適切な道具仕立てであった。
中国社会の混沌に逆に飲み込まれた無残な失敗作、と個人的には思っていた。




が、本作品に関しては傑作、としか申し上げようがない。

作者はDai Sijie フランスでは文学者、そして映画監督でもある。
自作の小説「バルザックと中国の小さなお針子」を映画化、カンヌ映画祭で2002年 un certain regardに選出された。

この作家、非常に衒学的である。
スノッブである、作者はそのことを臆面なく披瀝しまくる。
なにせ中国4000年の歴史であるから、薀蓄をおっぱじめればそもそもきりのない世界である。
小説の題材には事欠かないであろう。
しかし本作品の主題とは、中国、その歴史、文化、社会、人々の生態等々、よく取り上げられてきた題材ではない。
中国における仏教伝来、それにまつわる或る一時代の記憶、といってしまうとこれまた違う。

太平洋戦時下日本陸軍航空機に搭乗していた満州国皇帝溥儀、帝国は崩壊し亡命の途に就くどさくさ時、ご乱心を呈した末に破り捨てられ、空から地上へと捨て去られた紙切れのお話なのである。
一巻の巻物、その切れ端の物語である。
紙切れには、今日知られていない言語が記載されている。

眩暈を感じるような複雑な語り口で語られる物語である。
語り語らるのは皇帝溥儀から北京の路地裏の人々、商店の売り子、学生、四川の刑務所の栄養失調の徒刑囚、刑務官、フランス人女性、フランスから中国に国籍変更した言語学者、ソルボンヌのチベット人僧侶兼教授、ひたすら仏典を木版に彫り続けるミャンマーの僧侶達であり、ありとあらゆる人々、としか言いようがないのである。
仏教の伝来、伝承、それに魅せられた人々が錯綜し、愛し、捨てられ、迫害され、殺され、時間という潮流に流される。

潮流の果てに小舟がたどり着くのは北京の路地裏、紫禁城、日本軍の連絡航空機、西域の砂漠、砂の中で朽ち果てた僧坊(その僧坊の奥には忘れ去られた極彩色の仏画が絵が画れ観る人もない)四川の山奥、囚人がひしめく劣悪な収容所、生き残ることが困難な強制労働鉱山、パリのモンパルナス通の狭いアパルトマン、カフェ、静謐なミャンマーの僧院、ありとあらゆる場所である。

あざとい光と汚泥が織りなす豪奢な織物である。

一読者として思うのは、かくのごとく奇態な作品こそは大真面目に歴史云々を考証(まともに考証すれば虚偽だらけである)するよりも、溢れ出る豊かな語彙と失われたものへの儚き憧憬、背骨をへし折るが如き仮借ない絶望を楽しめばよいのである。
読む間は、甘美で深く不健全で退廃的な酩酊に酔うことができる。
実に有難いことではないか。

この物語を語らせ続けるのは、人ではない。
古びれぼろぼろに黄ばんだ紙切れなのである。

そしてそこに記された謎の言語なのである。

この辺りからは、アラン・ポーの「盗まれた手紙」を想起させられる。

無意味を読解することこそ、人を魅了し幾重にも誤解を繰り返させ、行動へと駆り立てるものであり、無と有の間を周遊させるものである。
周遊し果て、翻弄されたのち何かを悟るのではなく、再び新たな旅に出ることになるのであるが。