2005年11月24日
新舞踊イロイロ
新舞踊イロイロ
「新舞踊」と一口にいってもイロイロとあります。
よく引き合いに出されるのが坪内逍遙の「新楽劇論」で、
新しい日本舞踊、という意味からいけば、
坪内のアレからして「新」舞踊ではないか、
という主張などをよく耳にします。
そういう意味でいけば、
初代・西崎緑や初代・藤蔭静枝氏らも
新舞踊ということになります。
花柳徳兵衛師も新しい舞踊を沢山作ったわけですから、
新舞踊。しかし、こうなってくるともはや
言葉遊びの段階で、ワタシ自身はまともに頷く事は出来ません。
実際には、現在、「新舞踊」という言葉で指す
日本舞踊とは、大まかに言って、
主に歌謡曲、演歌などを日本舞踊の振りで踊る踊り、
のことを言います。
これはイロイロと評価がわかれるものであって、
以前にも書きましたが、「新舞踊」というと、
それはもう、いーぼぅ(evil)な「悪の枢軸」かの如く
完全否定する人すらいます。
これまた以前に書いたことですが、ワタシ自身は、この新舞踊、これから先までずうっとあるものではないと思いますが、また、全面否定する気にもなれないのです。
私は古典しか踊らないから、新舞踊を踊っている人よりも必ず上手いのよ、なんてことは残念ながらあり得ないのです。それは幻想です。技術、というものは、そんなに甘いものではありません。新舞踊というものを踊って、お客さまを納得させるのには、古典を踊って同業者から「あの人は上手い」といわれるだけの技術が必要です。
さて、そういうワタシでも、実は「あれは新舞踊だね」という言葉を批判的な意味で使う事があります。例えばこんな事がありました。
あるレコード会社の会合の折りに、NHKの番組のVTRを見せられた時です。民謡を地として、ある女優さんが踊りを踊られていましたが、まさに、それが、悪い意味での「新舞踊」だったのです。振付けも何もない、ただあっちいってバァ、こっちいっバァ、三二三四で一回り、またあっちにいってバァ、こっちにいってバァ、この連続。
民謡舞踊の場合、そういう踊りが確かにありますし、民謡舞踊を民謡舞踊の流派で習われている人はそれに満足されているわけですから何も言う事はありません。しかし、それを日本舞踊を自称する人が踊り、日本舞踊ですといい、それを見せられて、どうですか素敵でしょう、こんな風にあなた達もテレビで出てみたいでしょうと言われれば、正直、ふざけるんじゃないという事で、席を蹴らざるを得ません。確かに、ワタシでも、そういったものは悪質、というような言葉を使いたくなってしまいます。
新舞踊、というものの中には、往々にして、そんなものもあります。小泉首相ではありませんが、流派がイロイロであるのと同様に、「新舞踊」というものもイロイロです。
新舞踊と一口に言っても、音を消したら古典と見分けがつかなく、踊る人から凄く難しいといわれるような振付をするところもあります。八小節目、四分三で扇子を降ろしてくれ、そうしないと振付けが瓦解するというような振付がされており、また、フッやらハッやらというような邦楽的な間をつかわないとずれ間になり踊れないような振付がされているものもあり、とても程度の低いものとして扱う事が出来ないものもあります。そのようなものを作っているところもあります。
それとは逆に、先ほどのレコード会社の会合の例ではありませんが、自己満足以外に意味を見つける事が出来ないようなものもあります。
新舞踊といっても、イロイロなのです。
ちなみにイワユル新舞踊ではありませんが、
故・花柳徳兵衛師の創作舞踊では、100小節先まで振りが決まっていたとのことです。スコア(楽譜)を片手に持った徳兵衛師が「お前、97小節目、ずれてるぞ」という駄目だしを喰らう、それが日常的であったとのことです。現在、舞踊界において、そのような作品意識に貫徹したものがあるでしょうか?創作とは何か、舞踊を作るとは何か、作品とは何か、というものついて、ワタシタチは大変大きな間違いをしているのかもしれません。
古典ならいい、創作っていうのは、新舞踊は・・・新しいものが・・・・・・・etc
ステレオタイプから離れて、それが何をしようとしているものなのか、それを見ようとしにければ、ワタシタチは依然として盲目のままでしかありません。
