2009年06月06日

「ともだち」の「ともだち」の「ともだち」の「ともだち」の「ともだち」

以下の法則を認めてみる。

[1]もしあなたに「ともだち」が100人いたとする。
[2]その各々の「ともだち」にもそれぞれ「ともだち」が100人いたとする。
[3]「ともだち」はかぶらないとする

……これを繰り返していくとどうだろう?

あなたの「ともだち」の「ともだち」の「ともだち」の「ともだち」の「ともだち」

100×100×100×100×100人

100億人

に達してしまう。

これはすなわち、この地球上で、全く関係ない2人(Aさん、Bさん)がいたとしても、


Aさんの「ともだち」の「ともだち」の「ともだち」の「ともだち」の「ともだち」の「ともだち」


……すなわち
5つ「ともだち」を辿りさえすればBさんに結び付くことに他ならない。



やっぱり地球って素晴らしいって思う。


samurai_feynman at 20:07|PermalinkComments(3)TrackBack(0) 論考 

2008年08月01日

生命とは○○である

生命とはなんぞや。

今日はそんなごくありきたりだが、未だ定かでない問題を扱ってみたい。
(修士卒業単位かせぎのため、この前出席した授業のレポートと同一の内容であることは内緒である)


もしあなたなら次の○○に何をあてはめるだろうか?


「生命とは○○である」



23年とちょっと生きている今。
僕が出せる答えは次のようなものだ。

「生命とはシステム(系)そのもののことである」

その語義自体、十人が十通りの答えをすることは無論承知だ。
だが、(細かいことは抜きに)どうしても、私には

「生命は、システムという言葉と等価」

に思われるのだ。


 「生命」を考えるにあたり、我々は多くの武器を所持している。そして様々な切り口が考えられる。

その進化・構造を解析して追うことを得意とする生物学
「生命」いやこの世すべてのdynamicsについて理論・実験・シミュレーションを武器とする物理学
はたまた、「生命」という「概念」自体にまでもツッコミをいれ続ける哲学・文学
(……ここには挙げられぬが、すべての学問・人間の行動は武器になりうると実は考えている。)

 僕は、物理学のアプローチが好きな故、ここでは敢えて「システム」という言葉を用いたのである。

考えるにあたり、基盤となる材料は、当然地球上で「生命」といわれている「モノ」となってくる。
彼らの共通点を探れば、なにか「生命」にとって普遍なものを演繹的に導けるに違いない。
その抽出されたものこそ「生命」たる十分条件に他ならない(注:必要条件にはならない)。

 これはすぐわかることだが、実は僕らすべての「生命」は地球という中で束縛されて観測されている。
加えて「生命」同士は、何らかの形で必ず物理的・化学的な相互作用をしている。(光合成・食物連鎖など)
また、一つの「生命」について内部構造をみてゆくと、彼の中にはさらに多くの「生命」が観測できる。(人間のなかの大腸菌など)

このように、その「スケール」に伸縮性があり「相互作用」が行われる我々「生命」と呼ばれるモノは、僕たち物理学を志す者からみると、ある物理単語が浮かんでくる。

そう。
まさしく。
それは。

「システム」と呼ぶにふさわしいのである。



すなわち、「生命」と普段我々が呼ぶモノは、実は「システム」という物理量の単なる言い換えなのではないかと思うのだ。


すると、みなさんはこう思われるかもしれない。

「地球」や「原子」も「生命」なのですか?と。

僕は、まさにそのとおりだ」と思う。

地球は、自分のなかに「生命」を内包しつつも、自らの存在を他の惑星との重力作用により維持している一つのシステムに思える。
これがガイア説と同じスタンスなのかは分からないが、少なくともシステムをなしているという点において、地球は「生命」である。

原子も同様である。
ある箱を用意してくれば、その中をかけっこする原子たちと出会える。
原子の中をのぞけば、かれらはさらに中にヒモ(Strings)など多くの仲間を含有している。

むしろ、「地球や原子も生命そのもの」であるということを「受け入れにくい」と感じる人がいるのであれば、それは単にヒトのもつ「主観」の問題ではないだろうか。


その主観はどこから生まれたのか?

まず、我々ヒトは、

「非生命」を定義することで「安心」を得ている「生命」ではないか

と思うのだ。

「ヒト」は「ヒト」の定義を知りたがる節がある。

我々はどういう存在なのかを確立したがる癖がある。
(もしやこれが生きる意味。生きるということなのではないかと17歳の時に考え、今に至っている)⇒※Appendix参照

そのために、「ヒト」とは明らかに異なる言動をするモノを「非生命」として設定し、「定義化」に向けた作業をしやすくしてきただけなのではないか

…というのが僕の推論である。
(※まだ論文投稿してない。先行研究もよく知らない。)

--

P.S
僕は、現在惑星を研究する研究室に属している。
近年、太陽系外惑星の発見がめざましく、中には「地球のような惑星が??知的生命体が?」みたいな議論が絶えない。(そういうことが実は研究の大義名分〜仕事となってしまう汚い話は内緒)

だが、そこは僕はあくまで物理屋である。
できることなら死ぬまで物理屋でいたいと思っている。
あくまでこの世の「物理」そのものが死ぬほど面白くてたまらないのだ。

無論、太陽系の外に生命いる?いない?も大事だ。
俺だって宇宙人会いたいさ。

だが、どうも僕には、まずこの宇宙そのものが「一つのシステム」
すなわち「生命」に思われて仕方がないのだ

地球外に生命はいるか?など、「地球を基にした生命」の話にこだわる必要がいったいどこにあろうか?

「宇宙」というもっと大きなスケールで「生命」の幅を広くみていていただければ幸いである。


そう。
幕末の坂本竜馬が、それまでの「藩人」を捨て、「日本人」という新しい概念を作ったように。
「地球人」という言葉が汎用されるには、やはり地球外からの黒船が必要なのだろうか。
「宇宙人」という言葉が我々に似合うようになるには、宇宙外からの来訪者が必要なのだろうか。

願わくば……。
自らの内在する力で概念をぶちやぶりたいヒトでありたいものである。

2008年8月1日

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Appendix
(この内容は以前にも書いた気がするが)


当時17歳の僕は大いに悩んだ。

「ヒトはなぜ生きる(という行為をする)のか」

これは、もちろん自我にだんだんと目覚めていった僕が
自ら出した問いであった。

全くわからなかった。
数学オリンピックの問題とか解いてウハウハ(いまはアハ!なのか)
していた右脳も左脳も、この問題の前となると途端にフリーズ。

そう、「切り口」がまるで見つからないのだ。
パスコースを完全に遮られて、前に「自分パス」し続けるしかない、元日本代表FWの岡野のように。(ファンの人ごめんなさい)

ただ、「人はなぜ生きるのか」という問いに対し、
17歳の夏、暫定的な「第一原理」を見いだし、なんとか受験勉強に向かいました。


それは、

「人は自分自身の定義を見つけるため生き続けている」

という第一原理だ。

人は、なぜ寂しがるのか。
それは、「人と出会うことで自分自身と比較し、自分を定義できる」からだ。
人は、なぜ好奇心をもつのか。
それは、「好奇心から生まれるもの(e.g 学問)から、自分自身の周りの環境を知り、その上に自分を上書きすることで、自分を定義できる」からだ。

よく、「生きる」のは本能だとか安直な言葉で片付けてしまうことが多いが、あくまで「第一原理」にこだわり、本能の最も根本的な部分を抽出してみたのが、この

自分定義説

である。
やはりまだ論文投稿はしていない。
やはり先行研究もどう調べればいいかわからないでいる。
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2007年07月12日

「束縛」あってのこの世界 (後編)

梅雨真っ只中皆様いかがお過ごしでしょうか?

大学にいかなくてラウンジでウジウジしてるあなた。

この暑くジメジメした中、ふと我に返り、会社にいく途中「俺.....一体何してんだろ」と悩むあなた。

はたまたケロロ軍曹のように梅雨になってますます「エネルギッシュ」になってしまい悩んでいるあなた。

いいと思います!

「悩む」ところから始まる「自分」革命ッスもん!!(無理やりすぎ?)

そう。あの茂木健一郎も推奨してやまない「アハ理論」!※

※「アハ理論」⇒脳を活性化させるには、「なんでだろーなんでだろー」と悩んで頭をフル回転させ、脳を一種のモッシュ状態にさせるのがイイという理論 (編:だいしん)

日頃からガンガン悩んで、いろいろ頭をひねりましょう。

今宵も「論考」スタートです。(これまでのクオリティーとテンションをさらにパワーアップしまっせ!)

 

さて、

前回の続きということで

「束縛」のイメージアップ

を図るため、さらに進んで考えてみることにしましょう。

前回は、

「束縛」というものの原因は、なにかしらの「束縛場」を生み出す「源泉」があり、そこを中心に「束縛の領域」をつくって外部と内部を分けている

.........などの話をしました。

今回は

「束縛」が生み出した我々の「概念

に焦点を当てて考えてみたいと思います。

 

実例 フランス革命

いわずと知れた「市民革命」。この原因はなんだったか覚えていらっしゃるでしょうか?

そう

それは、

ルイ王制のためひっ迫した市民達が

「権利」「自由」を求め立ち上がった革命。

世界史の教科書に載っている絵画「戦いに導く女神」は有名ですよね。

バスティーユ監獄とか。

で、

ここでポイントなのは

「自由(freedom)」という概念が生まれていたということ。

ところで、みなさんは

「自由」

ってどんな状態のことなのか説明できます?

 

自由?

うーむ。

)糎渦函

 理由:自分のやりたいことを誰にも邪魔(束縛)されることなく自由に探検するから。

確かに日々家族のために働くサラリーマンに比べれば自分の時間が多い。

でも、そうはいっても「冒険家」という職業に「束縛」されて生きているわけですよね。

即興演奏?

 ⇒理由:ジャズなどではソロは即興演奏。ポップスやロックのように演奏しなければいけないフレーズなんてないから。その場で自分が思いついた感情を思い描くがままに演奏していいから。

でも、そうはいっても「コード進行」には乗っていなければならないわけだしそもそも「曲」である時点で「束縛」ですよね。

自由電子? 

 理由: (「懐かしい!」と感じたあなた。それは高校一年前期の化学毅の授業をちゃんと聞いていた人です!) 束縛ポテンシャルに閉じ込められていない電子のこと。金属中を電流が流れるのは彼らのおかげ!

でもでも。結局は電子なんですよね。電子。(某番組のでんこちゃんではありません!)フェルミ粒子。スピン1/2....。などなど

 

これらの考察から、僕が思うに、

この世に「自由」という概念は独立には存在できないと考えます

おそらく「自由」といったものは、dependentな概念で、

「〜〜からの自由」という形でのみ

存在できると考えます。

すなわち、この「〜〜」にあたるのが

「束縛」

だと。

ここに以下のことを結論付けたいと思います

「自由」は「束縛」があって初めて成り立つものだ

と。

18世紀のフランス市民も、ルイ王制の束縛がなければ

「あ〜。。こんなあんな世の中にならないかなー」

と思わなかったはずというわけです。だからfreedom!

 

さらに発展させて考えてみたいと思います

ヒトの思考・行動は多かれ少なかれ、この「束縛」が原因になっているのではないでしょうか?

そして、「束縛」なしにはヒトは生きていけないのではないでしょうか?

 

ヒトを不安に陥れる要因について考えてみましょう。

例 〇纏

僕の寮時代の友達がやっていた「T・K会議」というバイトがありました。

彼がそのバイトを辞めた理由として、洩らしていたのが

「だってすることがなんにもねーんだもん........」

といったもの。

そう、窓際族がつらいのは「やることがなにもない」という状況

ヒトは本当に弱い生き物だと思います。(自分も含め)

なにかに束縛される・所属されるという状況下にないと「自分」という存在が主張できないんだと思います。

仕事を任されたりなどの他人に求められる行為があって、初めてヒトが「自分」といったものを確立できるケースは多いと思います。

だって、所詮我々が「自分だ!!」と主張できるのは、この体一つだけなんですから!※

(※ちなみにこのコメントも自体も実は怪しい

⇒人気アニメ「攻殻機動隊」の主人公「草薙素子」が語るには、「自分を自分と証明できるものなんてあるのかしら」「私のゴーストがささやくのよ」などの、自我を特定するには外部記憶に頼るしかないという主張がみられる。同じく副主人公バトウも。)

アニメ関連でいえば、おなじみ大人気アニメ「新世紀エヴァンゲリオン」でも「自我」に触れた場面がありました。覚えていらっしゃるでしょうか。

第20話あたり。

主人公「シンジ」が意識の奥底で、空を飛んでいるシーン。

空を飛んでる!自由だ!」...........でも何も生まれない......。

そこへ、鉛筆で一本の線が引かれ、地面ができる。

すると「シンジ」は、その上を歩くことができる

確かに、「地面を歩かなければならない」という束縛はできてしまったけれども、その「束縛」のおかげで色んなものが生まれる。

ここからは僕の意見なのですが、「地面」という束縛のおかげで(無論他にも色んな要因はありますが)、この荒涼とした宇宙全体の中で、こんなにも多種多様なアクテビティ溢れる環境が作られたわけです。

生物の進化。サッカー・テニスなどのスポーツに至るまで。

それらを考えると

単に「束縛」はイヤだ!

と食わず嫌いをするのではなく、

じゃあ今ある「束縛」をどう利用してゆけばいいのか??

はたまた

その「束縛」がイヤならどのようにして「自由(脱却)」を図るべきか??

ということを考えて、行動すべきだと僕は考えるのです。

そう、要するに

「現状に文句・不平をぶつぶつ言っている暇があんだったら、何かしろよ」

ということです。

ヒトが進化の過程で適応してきたことをそのまんま同じようにやればいいだけの話なのです。

 

どうでしょうか?

「束縛」って意外と縁の下の力持ちということが伝わったでしょうか?

今回も最後は、無事、プラス思考で論考を結論付けられて、内心ホッとしています。

次回の論考もお楽しみに!

ではよい束縛を!



samurai_feynman at 23:19|PermalinkComments(2)TrackBack(0) 論考 

2007年06月22日

「束縛」あってのこの世界 (前編)(仮)

みなさんは

束縛

ってお好きでしょうか?

いやー。

束縛なんて大嫌い!!

(束縛好きな付き合いとかはおいといて.....) → こんな返答が多いんじゃないかと思います。

気付くと、この世って「束縛」だらけですよね。

 

例えば、とある男子寮に住んでたT君

あー!外国行くのにも「パスポート」がいる!

パスポートを発行するにも書類を提出しなきゃいけない!

書類提出するにはハンコとか住民票とか........あぁあぁ探している間にバイトの時間だ....(束縛)

...................ちなみに出発当日にパスポート見つかんなくて旅行いけなかったとか。

 

例えば、とある男子寮に住んでたM君

いっつも僕の部屋に入ってくるときは携帯電話を欠かさず打ちながら入ってきていた彼。

なにしてんだろーと思ったら.......おぉ。スロットゲームか。

またしばらくしてみると...................おぉぉ...........彼女さんのためにメールを打ってますね。

おぉぉぉ......打ってる打ってる。あ、送った...............あ、また打ってる。。

僕と話をしながらも..................あ、やっぱ送っちゃう。

...........あー........やっぱ送ってる。

→(まぁそれってとっても大事なことなんだけどさ。.......わざわざ俺の部屋来なくてもさぁ。苦笑)

彼女も携帯もゲームも、M君にとってはやっぱりある種の「束縛」。

 

まぁこれだけでなくても世の中には数え切れないほどの「束縛」があるわけです。

でも。。。

「束縛」を嫌うなんてあんまりじゃないか!

「束縛」くんがかわいそうだ!!

と思って。今回の論考に至りました。

 

そう。

今回の論考の焦点は、このいわゆる「束縛」について。

そのイメージアップを図りたいと思います。

で、構成は次の2段階でして。

 崑縛」の持つ重要性。(弊害という概念からの脱却を図る)

◆崑縛」があって初めて生まれる概念。

 

これら2点をまとめて、最後に

この世界に「束縛」がどれだけ大事か......

ということを結論付けてみたいと思います。

 

ではまず  崑縛」の持つ重要性。(弊害という概念からの脱却を図る) について。

 

先ほど挙げた例だけでなく、生きていて、

「あ、俺、いま自由じゃないな」

と感じる時が、人には何かしらあると思います。例えば.....

「男であること」

まぁ、うすうす気付いていた方もいらっしゃると思いますが、僕はっす。

街中を颯爽と歩く女の人をふとみると......

「女の人」って、男の人とどんくらい違った人生なのだろう?

と不思議に思うときがあります。

いやいや。僕は変態じゃなくてね。

男が思い描く、

「女の人からみた世界の見え方はこんなかなー.....」

っていうものと、どんだけ違っているのかとか。

これは、やっぱ女の人になってみないと経験できないんでしょうね。

出産とか。お袋の味とか。女子高とか。(←あ、これは教師になれば体験できるのか!)

いやいや。僕は変態じゃなくってね。

生物学的に、地球上では、我々人間は生まれた時に性を(生を)授かります。

男であること。女であること。(むろんそれらから解き放たれることもできますが)

この「束縛」起点として、とりあえず人生は進んでいくわけです。(この起点というのがあとで重要になってきます。後編でのキーワードになります)

人生ゲームでいうところの、最初のキャラ設定みたいなもんですね。

これはやっぱり「束縛」だと思うんです。だってそれ以外のことが分からないんですから。

 

他の「束縛」としては、「立っている」ということはどうでしょう?

ふと夜空を見上げるとしましょう。

そこには見たことも、これからもおそらく間近では見れることのない「外」の世界が広がっています。(この外という概念はあとで大事になってきます。前編の最後で出てきます。)

いつしか人類は、

「僕らはこの地上にへばりついて生きているだけなんだ」

という事実に気付かされました。

これは、地球と僕らとの間に働く、「万有引力」という「束縛力」のせいなのです。(それから解き放たれたくて人類は宇宙を目指してるのかもしれません)

その「力」のせい(いやその力を働かせるための重力場が存在しているせい)なのです。→ここも前編の後半で大事になってくる概念です。

 

このように自然に生きている中で.....よくよく考えると自分に対する行動の「束縛」というものは多いはずです。

でも、それは確かに「束縛」ではありますけれど、果たして「弊害」といえるものばかりでしょうか??

僕には、「束縛」の多くは「弊害」とは思えないんです。

僕には、「束縛」の持つその「制限性」が多くのものを生み出していると思うんです。

まず、「制定法」という種のものから見て行きましょう。

 スポーツ

サッカーがサッカーとして面白い理由は、まさに「手を使わない」というルール(束縛)の賜物なのではないかと思うんです。

手を使ったほうが簡単ですよそりゃ。点入れるためにはね。

でも、そこを敢えて「やらない」とお互いに法律を設ける。だからこそ、必死のプレイが生まれる。マラドーナの神の手も「神の手」と言われる。

子どもの遊びもそうですよね。

だれか一人が卑怯なことやってしまっては、

「うっわー。空気読めぇ〜。」

ってなって、確かに公園中によどんだ空気が流れるわけです。

公園デビューする前のお母さんも大変ですよね。

(お父さんがやってらどうなるんだろう。僕だったら一緒にこどもと泥だらけになって遊んで一日が終わってしまいそうですが。)

あ、話がずれましたね。では、例◆

 

例◆)[

法の話が出たので、法律のことも。

お互いの自由を認め合いつつも、衝突する範囲でなんらかしらの制約を設ける。フランス独立の際の「人及び市民の権利宣言」でしたっけ?そんなことが書いてありました。

法という規律を。一線を。引くことによって

こっから先をやってしまっては.........(溜め)。

と人の心に「束縛」の「場(field)」が生まれ、お互いに無駄な衝突が出ないように。お互いにとって合理的な結果が得られるように、「法」はいい意味で束縛していると思われます。

ここまでは、「制定法」。

 

こっからは「自然法」についていきたいと思います。

ただ、いわゆる法曹の方々が使われる意味とは違って、この論考では

「この世界に内包されている束縛」が作り出している「法則」

という意味で使います。

「束縛」のつくる「場」

とでもいいましょう。また、これを

「束縛場(restrict field)」

とでも呼びましょうか。

まぁ、物理的には「ポテンシャル(potential)」と同義と思ってもらって結構です。

ここでは、哲学的な側面にも突っ込んで話を広げてみたいので、とりあえず

「束縛場」

といいます。

ここまでオッケーですかね?

(小休止!!)

 

さて、それを踏まえた上で。

こんな問いはどうでしょう??

「内側」と「外側」はどうやって決まるのか。

それは簡単だと人は言うかもしれません。

「境界が基準だ」

とね。

でも「境界」ってなんぞや。という話なんですよね。目に見えるロープでもあるまいし。

ここで。万人を納得させる方法としては

「定式化」

というのがあります。

すなわち「式」で定義してしまえということです。

要するに、「束縛」の影響力が効く範囲を式にするのです。(束縛圏とでも呼びましょう)

で、その範囲から、「ここからここまでだ」という距離に変換してみるのです。(ここは普通と逆に考えるわけです。1次元であるはずの距離という概念→3次元の範囲という概念 というdimension shift が普通。)

で、影響の源泉からその束縛圏の範囲のことを

「内側」

といえば、定義がスッキリいくような気がするんです。

すると、人間の定義にも応用できる気がするんです。

人間とはなんぞや?

人間と外界とを隔離している(と思われる)、この膜。皮膚??はなんぞや?

すると、これまでの話からこう考えられそうです。

人の内側に、これらのものを閉じ込めている「場」が存在するはずだ。

と。

まぁ、それが究極的には、原子核内部の核力だったりするわけです。(湯川秀樹さすがっす!)

なぜこのような「領域」に押し込まれているのかって疑問にも、この「束縛場」という切り口は有効だと思われます。

 

さて、ここまでは、我々の色んな束縛」というものや「束縛」を切り口として考える有用性について話してきました。

次回の論考は、その「束縛」がさらに生み出すもの。「束縛」あって初めて生み出されるものについてお話したいと思います。

そう。勘のいい読者はお気づきでしょう。

束縛からの自由!フランス革命!freedom!!!!とかですね。

あの有名な絵を思い出しますね。勝利を導く女神。

 

次回はこのような「束縛」が我々の行動に与える影響などを論考し、「束縛」のイメージアップをどんどん図って生きたいと思います。

余裕があれば「束縛」を利用して日々頑張るアスリートなどの紹介もします!



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2007年05月07日

身近な物理学第一弾

   街中で見かけた物理学第一弾!
 
※連休中こんなことばっかり考えてた訳では決してありません!!

論考する内容でもなかったのですが。一応.....

       
        
「身近な物理学」

 
     はい!じゃー連休明けの一発目。

‖斥朷郎廼日焼け止め「ANESSA(アネッサ)」

      ANESSA

    いまどのチャンネルつけても流れるこのCM!

  http://www.shiseido.co.jp/anessa/
  http://www.youtube.com/watch?v=mGrZG9s3mE0

    太陽系最強UVカットの日焼け止め。
 
 いままでにないUVカット効果だとか。
 UVとはUltraVioletのこと。紫外線ですね。
 我々の身近な日光のなかでも、特に振動数の高いこの紫外線。
 お肌に非常によろしくないのです!(特に5月が一番強いとか)
 まさに

        全世界の女性の敵!
 
     .....ゴキブリ同然の扱いとは.....

 
     なんでこのCMに興味持ったかというと.....

               「太陽系最強!」

     ってCMでいきなり流れてくるからですよ!
 
         ....「ん?太陽系最強だと?」

      俺がここで反応しないわけない!
 
 それに、銀河系最強!って言わないところがいい。
 資生堂もついにドラゴンOールに配慮するまでになったか!

 しかもこの化粧品。
 謙虚にも「太陽系」と抑えているところがいい。
 考えるところ、あくまで、この太陽系内のみが適用範囲。  
                   
 太陽から地球にやってくる太陽風のスペクトルとか。地球磁場との相互作用とか。

これらをすべて考えた上で、あくまで太陽という恒星にのみ対応できる日焼け止めだよ!と言ってるわけだ。

 いやーここまで考えてるとしたら太陽ニュートリノ問題も解決できるんじゃないか??頑張れ!日震学!
 
 うーむ。他の惑星系に住む宇宙人には無理かもしれんな。
 もっと過酷な紫外線下で生きている生物もいるかもしれないですし。他の宇宙人はもっと高性能な日焼け止め使ってるんでしょうか?

        
                 つづいて2発目!

◆崔砲枠距離だ!」「ゴルフは、物理だ!」

ゴルフは、物理だ!

 

        おいおい!                                                                                                                
       熱すぎるぜ!!
       この看板!!!

      なに!?物理だと!?

 

      これこそ俺が反応しないわけないだろ
 見つけた途端、思わず嬉しくて心の中で叫んじまったじゃねぇか!

 これは、新宿駅南口を出て、タイムズスクエアの方へ向かう途中に見かけたもの。Docomoタワーを正面にして左手のビルの屋上にあります。

             それにしてもこの看板....

      一体どこの物理学科出身のヤツが書いたんじゃい?

 

    あなた。どんだけ物理好きで、ゴルフ好きなんですか!

 しかも、

           ゴルフは、科学だ!

 じゃないんだよね。科学じゃなくて......

                                    ゴルフは、物理だ!

 なんだよね!

 ストレートに言うね!全国の物理やってる連中からは拍手喝采だぞ!


 しかも、その前のセリフもいいんだ。これが。

              「男は飛距離だ!」

 いやー字体もいいだ。
 男ときたか!こりゃ男子校出身だな!!決まりだ。
 と書いていたら....メタラーだったかもな。
 
 どっちにしろ

      新宿の中心で物理を叫んだ看板に乾杯!

 

 おし。

 今日のところはこのくらいでカンベン!
  
 
 



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2007年03月19日

「ある」とはどういうことなのだ?

◆どうも最近、世間では「あるある」が賑わっているらしい。社会もようやく哲学的思考になってきたってことですな。

え?なんでかって? いやいや。みんな、

ものが「ある」とは一体どういうこと?

という疑問に行き着いたってことでしょ?(あ、違う......え?。あ。ただの不祥事....)

 

◆今回は、「ものがある」ということについて。

いやー。うーん。「ものがある」ってどういうことなんだろう。

いま、日本で最も有名な脳科学者である茂木健一郎の言葉を借りると......

「〔椶料阿了物から眼球に入ってくる様々な視覚情報を視神経が受理し、△修譴砲茲辰道彪磴鮗けたニューロンが発火。それによって脳内にクオリアが生まれ、それをひとは認識し、「事物」として認識する」(編:管理人)

ということだそうです。

目の前に繰り広げられている光景。それを「自分」が認識する。そして「ある」という状態が完成する。そんなところですかね。

でも、これは、

ものがあることを自分がどう認識に至るか」の過程

を単に物理的に説明しただけに過ぎないじゃないですか。

僕が、無謀にも試みたい&欲しい答えは、

「ものがある」ということを他人に説明できて、他人もそこに「ものがある」と納得できる

ような存在証明書......うんこれこれ。この存在証明書が欲しいんです。

 

例えば、宇宙人が東京にやってきて、東京の名所案内を頼まれたとするじゃないですか。そのときに、

「ここに建っているのが東京タワーです」

って教えても、そうそう簡単に

「○×◆△?※!!」(おおーこれが!)

なんて簡単に納得できるとは到底思えないんですよ。

やっぱ、目みたいなもんがないと無理。

つまり、僕らと共有or同種の感覚器官によって、共通の「ある」という状態を共有できるという前提が必要だと思います。

 

また、感覚器官云々を抜きに考えたとしても、

そこに「ある」という状態は、他人からみても文句なしに「ある」と言える保証はあるのか?

とか

そこに「ある」という状態は、果たして自分がいなくても「あり」うるのか?

という問題が付きまとう訳ですよね。

(ちなみに、2番目に挙げたやつは、人間原理というものと深い関係が「あり」ますね。) 註↓

人間原理:この宇宙が存在するのは、宇宙を認識できる我々人間がいるからだという、なんとも傲慢なんだけど反証できない原理のこと)

 

◆もうちょい慎重に研究しないと「ある」は打開できそうにないみたいですね。

これは、僕らが普段の生活のなかで

「ある」ものばかりに囲まれて、「ある」が当たり前になっているということが議論しにくくさせている

ような気がします。

 

もうちょい考えてみましょうか。なんか出るかも。

 

これは、思いつきなのですが

「ある」という状態の反対の状態(余事象のこと)

を切り口に議論すれば、やりやすいのでは?........と考えてみました。

 

じゃあ、ここで問題。(100人に聞きました!)

「ある」の反対の事象はなんでしょか?

結果は....(ほぼ100%で)

「ない(無い)」!!

でしょう。これを読んでるあなたもたぶんそう。

 

.......................え。でも。それってホント?

 

確かに。うん。確かに、それは小学校のとき教わりましたよ。

ほら、よくこういう国語の問題あったじゃないですか。

 

問:次の言葉の反義語を答えなさい

       有 ⇔ □

んでもって、正しい答えはこんな感じ。

 

答:  無

 

.........みたいな。確かに、「有」の反義語は「無」って言われてきました。

でも、考えてみて下さいよ。

それって、

「無」っていう状態が「有る」ってことでしょ?

 

少年少女の頃こんなカワイイ質問、親に投げかけたことないですか?

宇宙の外側には何が有るんだろー?.....って。

そこで、愚かな大人ならこう答えるでしょう。

宇宙の外側は、なにも無いんだよー

..................⇒いやいや、それ嘘だって。

「無い」って状態が「有る」んじゃないですか。それって実は自己矛盾してますよ。

この問いに対しては、

「まだ観測できてない」が科学的に正しい答えだと思います。

 

◆「有」の反義語は果たして「無」なのでしょうか?

このように考えると、僕らが想像しているいわゆる「無」という言葉では、なんとなくですが、反義語として弱い気がします。

「有」を解析するには、その反義語であり、もっと「無」っぽい概念を想定すべきと考えます。

そう、「有」の余事象として独立して存在できる概念。

この世の、一切の「有る」という束縛にとらわれない概念。

これにあてはまる言葉はないか。もしくは新しく創れないのか。

 

うーん。これは言葉のニュアンスなんですけど、.........「空(くう)」とかどうですかね。

うん。これだ。「」。

これからは、「」でいきましょう。

だが、やっぱりここで問題なのは「空」を説明することもまたこれ難しいということ。

それは、上の定義からでは、

【「有」に反義語として存在する概念の通称】

としてしかまだ言えてない。

 

◆ここで、「空」の独立な定義や解釈に入りたいと思います。

まだ曖昧なのですが、僕の持ってる「空」の具体的なイメージは

江戸時代における「テレビ」

のようなもの。

(なんじゃそりゃー?と皆さんは感じると思われます。慌てず続きを読んでください。)

 

えーっと。説明すると、テレビが誕生したのは20世紀ですよね。

この時、同時に「テレビ」という概念自体もこの世に生まれたわけです。

同時に「テレビ」というものは「有」という存在証明書を獲得すると考えます。

すると......「テレビ」の生まれていない江戸時代における「テレビ」というのはどうでしょう。

江戸時代では「テレビ」という機材「テレビ」という概念さえも、人々の頭の中には一切存在していない訳です。

この時点・状況における「テレビ」というものを

              

と考えています。「その世」から完全に独立した概念な訳です。

こういったものがいわゆる「有」の余事象概念と言えるのではないかと考えます。

 

ただ、存在証明書とか出してきてしまっているわりとアバウトな議論ばかりで。

もうちょっと僕には熟考が必要みたいですね.......

 

◆とりあえず「きょうの結論」としては

    有 ⇔ □

の答えには、

      空

と高らかに叫んでみようということで。(ガッコの先生への哲学的反駁も熱いかと思います)

ではまた。



samurai_feynman at 21:45|PermalinkComments(1)TrackBack(0) 論考 | 論考

2007年02月16日

記号に流されること勿れ

◆人ってのは、どう頑張っても毎日を当たり前のように過ごしがち。(無論僕も例外ではない!)

どんなに敏感にアンテナを張ってても、アンテナだってやっぱ休みたいときあるよね。いつも新鮮な情報や発見ばかり仕入れることなんてなかなかできないですわな。

「日常には面白いことがない」とヒトは言う。

でもそれは違う!

自分の周りに転がっている「発見」に気付いていないだけ! だと思いますっ!

 

◆今日も当たり前のように論文に目を通す。。

.....ふと。いつも当たり前のように使い、当たり前のように現れる「等式」や「記号」が気になった。

いつもは何気なく使っているんだが。。なんか今日は違って見えた。

特に、頻繁に使うこの

X

という文字について。

お?いつも当たり前のように使ってるけど。。。これって。。。なんだ?

存在意義はなんだ?お前はどこから産まれてきたんだ?誰が作ったんだ?

それに.....

なんで「バツ」と読まずに、俺は「エックス」と無意識のうちに読んだんだ?..........(確かに音楽的な影響はモロに受けてきてる!けど.....)

 

◆我々は経験を積んで、出てきた記号を自分に吸収し、当たり前のように記号を使えるようになる。

W.C. という表記をみれば、「あ、ここはトイレだな」と刹那に認識するし、

F という文字をみれば、「あー単位また落としちゃったかぁ......」と瞬時に認識し、メッカ(親のいる方向)へ無言で頭を下げてしまう.....。

X という文字は、僕にとっては「変数」というやつだ。

 

音楽の譜面だってそう。ヘ音記号をみれば自動的に頭の中で音符の音を処理してるし、そもそも音符(♪)の位置、形を見ただけで、頭の中で自動的に音としてイメージ化できてしまう。

その有用性。情報交換の効率性を追及する我々人間は、こんな感じで「記号」を取得して、コミュニケーションなどの場で情報処理に役立てている。これが、現在の我々の営みなのだ。

記号は情報を集約してくれ、物事を円滑化する。だから、我々は使い続ける

 

ここに問題ありき僕は考える。物事を円滑に進める記号を設定し使うのはよかろう。

だが、

その「記号」というものは、我々の思考を短絡化させてはいないだろうか?

記号を使うことで「深い思考」をすることを無意識のうちに停止させていないだろうか?

 

そもそも、人間の思考の根源というものは、どんな手段を用いても表現できないものだと考えられる。

思想というもの。考えというもの。これらは、そもそも無限の広がり(これはよくイメージと称されるが)を持ってるはずだ。

だが、それを「口にした」途端。「活字化した」瞬間。

これらの思想は「みなの共有できるような、ある収束した」情報となってしまう。コンパクト化されてしまう。

この時点で。言語を用いて表現した時点で、我々の思想というのは既に「簡略化」された形になってしまっていると考えられる。

だが、こうでもしなくては。このような膨大な容量を持つ「根源的な思考」を「言語」によってコンパクト化しないことには、他の人と情報が交換できないのだ(あたかも、CDの情報をmp3などのファイルに圧縮してファイルを交換するように)

 

◆しかし現代では、言語だけではなく、「記号」という「定義化」された意味しか持たぬ「言語」が蔓延っている。

そのせいか、我々の目の前にはますます多くの情報が現れるようになってしまった。そして、それらを対処するのに必死で、落ち着いている暇さえ与えられなくなってしまった。

物事の一つ一つの意味を確認したり、じっくり考えてみたり......

そんな作業も許されない..............それが現代なのだ。

(僕は本が大好きだが、今の大学生は本でさえ一年間に平均1冊も読まぬらしい....)

 

◆いつも当たり前のように使ってる言葉。記号。

普段は深く考えることのない言葉を、たまには一つ一つ意味をおっかけてみる。

じっくりじっくり言葉を味わったり、言葉の背景にある「思想」を想像してみたりする。

そんな、「まわりくどい」「アナログな」作業というのが僕はとても好きだ。

何か発見がありそうでしょ!?

 

普段簡略化されているものをじっくりじっくりと。

明日は、たまにはCDではなくレコードで音楽を聴いてみようかな?

 



samurai_feynman at 01:13|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 論考 | 論考

2007年01月22日

死後の世界

現実を「素直」に生きているヒトにとって、「」は普段意識されないものです。でも死を目の前にした途端「」について強く意識するようになります。僕らはそんな我が儘な生き物だ。(不整脈をもつ僕自身も、不整脈が起こるたびに「死」を意識するくらいの不安に駆られる。普段は生き生きだが。)

しょっぱなから暗い出だしで申し訳ないです。ただ、今回のテーマなんでガマンしてやってください。(最近、自分の文章が哲学者の野矢茂樹みたいになってきてる気がします。)

今年の論考もこんな調子で、普段の生活を忘れ、現実を当たり前と思わず、現実から一歩上の次元をもって色んなことを考えてみましょう。ね。(⇒想像してみよう。自分の上にもう一人の自分がいて、いまPCを見ている自分を見下ろすような視点....そんな次元)

ちなみに上のような視点を持った次元を僕は

プチ4次元

定義しています。今年の流行語はこれだ。プチ4次元。時間軸でも座標軸でもない.....そんななんともいえない次元の飛び越えた感覚をこの言葉に凝縮させてみた。

4次元」というなんとも難解そうで魅力的な言葉。そして女の子も気軽に使える「プチ

いいでしょ。凝縮された言葉に加え、物理屋にも女の子にも身近なこの用途の懐の深さ!

 

さて。そろそろ本題に入りますか

(皆さんプチ4次元の視点は用意しましたか??)

いま気になっているフレーズ。それは

ヒトはどこから来てどこへ行くのか

というもの。今日の論考ではそんなエラく哲学的な問いを無謀にも立ててみた。(ちなみにこの問いの出所は、マガジン系のマンガ「ARMS」を読んだ方はもうお分かりでしょう。そうキース・ヴァイオレットが高槻巌に言った言葉。)

今回僕がアプローチを試みたい部分はこの「何処へ行くのか」です。特に、今回さらに絞って、「人類の行く末」なんて大それたことではなく、「一人ひとり個人の行く末」について考えようと思います。

個人の行く末。誰しもがたどり着く境地。

それは「死」

無論。「ヒトが死んだ後何処へ行くのか」という問いに明確に答えられるヒトなど有史以来だれもいない。死後の世界については、その時々の時代背景・人々にあわせて、価値観が変遷してきているため、これといった答えなどないと思われます

いや。独りで「うん!そうか!そういうことだったのか!」と合点がいったヒトはいたかもしれませんよ。また、ある種の宗教法人の教えに首までどっぷりと浸かってしまわれている方々は「境地」についてある程度の答えを見出せているのかもしれないですし。

だが万人の首を立てに振らせるような的を得た答えを出せるほど.....我々は賢くない

我々は常にバカだ。馬鹿すぎる。簡単なこと以外何一つできぬ。過ちを繰り返す。そして悩み続ける。(卒論・進路など...いろいろあって悩む僕としては、最近もろに生きていく苦しさを存分に味わっている。)

だけど、今回、死を考える上で、僕はこの点に注目します。

死」。そして生きる間にヒトが抱える「悩み」という苦しみ。この相関関係が「ヒトの行く末」への鍵を担っているのではないかと。

ここを「死」を考える上での、研究のポイント(切り口)にしてみました

 

ヒトはなぜ人生において悩むのか。そして散々悩んだあと、なぜ死が待っているのか

 

僕の解釈はこうです。(長くなりますので気長に......)

STEP1として、まず次のことを考えます。それは、皆々が口々に言う「死後の世界」こそがヒトがもともといた「本来の世界」だということです。死後の世界は、それはもう完璧な世界。犯罪もなければヒトは過ちもおこすことのない世界だと考えます。(この理由はあとで)

では...なぜ我々は「いま」「この世界」に「生」を授かり存在しているのか.....という疑問。

そこでSTEP2です。「」を授かった我々は、実は「死後の世界」でなんらかの「」を犯した罪人だということです。そして、「いま」その流刑地として「この世界」に送られてきているのです。それは重大な犯罪だったのでしょう。おそらく「こっちの世界」に送られる前に、我々は刑執行人からこう言われたはずです。

「お前はあっちの世界(⇒すなわち「この世界」)へ行って、修行して来い。人間の本来の感情というもの、ヒトの営みというものを体全体で「痛いほど苦しみながら」感じてくるがいい!!!」

......と。すなわち我々は「罪人」であり、ある種の「修行僧」のようなものなのです。すべてはヒトの心を取り戻し、二度と犯罪を犯さないために。

 

.........ここまでOKですか?我々が「死後の世界」の住人だということ。そして罪を犯してこの世界に送られてきているということ。

よっしゃ。では次に行きましょう。

 

そしてSTEP3。我々は「この世界」で様々な体験をします。いろいろな人に出会います。喜びあふれかえるときもあれば、つらくて泣きそうになる時。腹が立って怒る時もあれば、楽しくてしょうがない時もあります。失敗なんて、過ちなんてそりゃいっぱいします。

なぜなら、そのようなヒトのもつ「完璧でない色んな心」を「この世界」で、我々「罪人」達は、生きながらも味わうのが刑なのです。「この世界」でならば、「死後の世界」には直接影響はないので、いくらでも間違いはおこしていいのです。むしろその「過ち」を肌で感じることが、失敗を知ることが、「この世界」での義務なのです。(⇒それは、完璧な「死後の世界」で完璧に生きるために。「この世界」にいる間に失敗を覚えておく必要があるのです。先ほど指摘した、完璧な「死後の世界」はここで正当化されます。)

ちなみにこのとき「この世界」にいる私達に「死後の世界」での記憶はありません。これは、僕らに存分に刑を味わってもらい改心してもらうために、この世界に来る際あえて記憶を抜かれたのかもしれません。

また、「この世界」では、ヒトは苦しみ悩むことから解放されることはありません。将来。人間関係。健康。などなど。

その理由はあくまでも僕らが「罪人」だから。「罪人」は最後まで苦しみもがきながら、「この世界」で罪を償わなければならないのです。

これこそが僕らが悩みながらも生きていく。その苦悩でいっぱいの人生の訳だと思います。償いというもの。

 

いいですか。我々が悩みながらも生きていかなければならない理由。それは「償い」のため。

ここまでOKですか? じゃあいよいよ、「死」というものをどう解釈できるか考えてみましょう。

 

ラストのSTEP4。罪を償いきったヒトは「元の世界」すなわち「死後の世界」に帰還できます。これが俗にいう「」だと解釈されます。

いいヒトほど早く亡くなるっていいませんか?これは多分、この償い人生の中で存分に「償い」に値する行為をしたから早く帰還できたと解釈できそうです。逆に「悪びれっこ世にはばかる」....とか何とかいいますよね。償いの足りないヤツ。つまりふてぶてしいヤツは、なかなか「この世界」から離れることができず、ずっと同じ世界・コミュニティでグズグズしていなければならないのです。

(↑こんなこというと、長生きしているヒトに失礼ですよね。ごめんなさい!決してみながみなそうだとは限りませんから。これはあくまで仮説。仮説。怒らず最後まで読んでください。)

オーラスのSTEP5。ここで「オチ」が待っています。

「死後の世界」に戻ったヒトは、病院か装置かなんかの上で「はっ!」っとわれに返るはずです。

ヒト:「あ......そうか。俺は刑を受けてたのか......だからあんな色んな体験と苦悩な日々を....」

そこで、執行人はきっとこういうはずです。

執行人:「どうだった?向こうの世界は。............ヒトの心........苦しみながらもわかっただろ?..........もう過ちはここでは繰り返すなよ」

......と。これがオチ

そして「死後の世界」に戻ったヒトは、再び完璧を目指して生きてゆくはずです。(また罪を犯したら流刑地である「この世界」へ.........とな)

ちなみに「輪廻」って言葉ありますよね。僕の説からあれを解釈するとすればあれは

「死後の世界に戻ろうとしたものの、思ったより刑の効果がなく、 もう一度刑のやり直しをくらうこと」

だと考えられます。それが輪廻。つまるところ再履修だ。(←テスト時期なのにみなさんごめんなさい。そして仏教徒の皆さんごめんなさい。)

 

 

............どうでしょう?長くなりましたがなんとなく僕の仮説は伝わったでしょうか??

これ自分の完全なオリジナルな説なのですが。意外と大体の現象を解釈できているような気がしませんか?ただ、物理屋の僕の文章なのに全く物理的でないという。。。ことだけを除いて。

この学説(?)を「Human Life For Compensation(HLFC)」と呼ぶことにします。日本語訳でいうとなんだ?

人生償い説。人生補完説.....。うん人生補完説だな。

あ。うわっ。エヴァンゲリオンの「人類補完説」とかぶるじゃないか!!いやだなぁ。

 

今年一発目の論考の最後に。

これまでも。今も。そしてこれからも。悩みは尽きないもの。

「悩みすぎて....もういっそのこと死にたい!」と思うときありませんか?この世から逃げたい!ってね。

これは僕の仮説からは「当然の感情」だと思われます。だって、悩みから解放されるには「償い」を終えて「死後の世界」に行く以外に方法はないからです

でも、日々悩んでる皆さんに一言!

僕らは罪人なんだから、いっぱい失敗して悩んでいいんだ!と。それが当然なんだと。むしろその苦悩の中から自分なりの「償い」を見出して、それを周りのヒトに与えていけばいいのだ!と。

やっぱ僕らしく。最後はポジティブに締めてみました。

今日は長々とご愛読していただきありがとうございます。

プチ4次元人生補完説。今日はこの2単語を覚えていただけたら幸いです。



samurai_feynman at 04:23|PermalinkComments(4)TrackBack(0) 論考 | 論考

2006年11月22日

発明と発見

自然界の理(ことわり)を記述する行為は、果たして「発見」なのか。「発明」なのか。

発明。「発明王」といえば

× 荻野真...................これは「孔雀王」

× 吉田石松......................これは昭和の「岩窟王」

○ エジソン そう。いまなお彼の研究した内容が把握できてないほどの研究論文の数。

エジソンといえば、

「発明に必要なのは99%の努力とたった1%の閃きである」

という言葉を残すほどの努力家だったとか。(ただ1%の閃きがないと努力は意味がないというブラックな意味も含まれているらしいが....)

エジソンは実に多くのものを製作した。蓄音機。電話。

「この世に新しいものを送り出すこと」を発明というのであれば、発見とはなにか。

発見。「発見王」といえば

......いないな。探険家。冒険家はいるが。「発見王」という言葉は耳にしたことがない。

発見王に値するのは.......コロンブス。彼はアメリカ大陸を発見した。.......いやいやインディージョーンズもかなりのやり手だ。しかし、彼は発見などしていないどころか、現地民族と問題ばかり起こすトラブルメイカーだ。

「この世に存在するものを初めて見つけること」を発見というのだろうか。

だが、この定義は曖昧な部分が多い。

アメリカ大陸はおよそ人類というものの原型ができた時には、すでにアメリカ大陸はパンゲアから分裂して氷河期も終わっていた。それならば、コロンブスではなくインディアンの祖先たちが「第一発見者」であろう。

とりあえず、人類が「発見の観測者」であることはアプリオリとしよう。

そして、「発見」の瞬間というのは、個人がいくら「発見した」と思っていても、過去につД`) タスケレ !! 他の人が「発見した」可能性もある。

それを踏まえると、この世で初めて「発見した」という事実を、他者に「公表」し、「認知」されて、初めて「発見」といえるのだろうか。

ならば、自然科学の理を記述することは発見だろうか?

例えば万有引力の法則。

これによって、質量を持つ「モノ」と「モノ」の間に必ず働く引力が記述された。(この宇宙限定だが)

これは発見なのか? ⇒ 確かに、この世に存在する「法則」を初めて「定式化」して記述したし、みなに「普遍の原理」として認知もされている。だから「発見」といえそうな気もする。

しかし、問題が一つある。果たして「法則」はこの世にもともと存在するモノなのかどうかということだ。

上の理屈だと、法則が「もともとこの世にある」ことが前提とされている。これはおかしい。

よく、数字の「1」「2」......がこの世に存在するものなのかどうかと考えると、これらは決してもともと自然界のものではなく、明らかに「言語」という「人間界」の代物である。

それと同様に、「万有引力の法則」というものも、単に「人間界」の「言葉」であたかも自然界を理解したかのようなそんな「発明品」にすぎないとも思われる。

そう、我々が「法則化」する行為は、「発明」であって、できた「法則」は自然界の単なる「模造品」に過ぎないのかもしれない。

 

.........ならば理論科学者たちは日々「発明」をしているのだろうか。それってエンジニアと変わりないじゃないですか!



samurai_feynman at 18:04|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 論考 | 論考

2006年09月19日

1円を拾うエネルギー

何処かの誰かがこう言っていた

1円玉を落としてもそれを拾う必要はない。なぜなら、それを拾うために1円以上のエネルギーを消費するから...........

たしかに、「1円を拾うのに2円かかる」とか言う人いますいます。

真相を確かめるために計算してみると.....

人間の手から地面までの距離をだいたい1mとして、1円玉〜1(g)とすれば

     重力ポテンシャル mgh=0.001(kg)*9.8(m/s^2)*1(m) 〜 0.01(J)

これは、単に1円玉のP.Eだから、実際に「人間が拾う」という屈伸運動をした時には、これの3倍くらいはかかっているとしよう。⇒(すなわち必要なエネルギーは 0.03(J) )

3秒で1円玉を拾うとすると

     単位時間に消費するエネルギー ε(J/s) = 0.01(J) 

⊆,砲海譴髻崔傭福廚亡校擦靴討澆

東京電力の料金表見たら

     1Kw/h 〜22(円) ( 1(w)=1(J) )

これを秒(s)になおすと

     1(J/s) 〜 22/3600・1000 (円) 〜 0.0000061 (円)

さて、すると1円玉を拾うのに必要なエネルギーは

     0.0000061*0.01 = 0.0000000061(円)

とかなって、全然拾うほうがお得!!!ってことだ!!!!(多分途中の誤差のオーダーのずれは100倍もないだろうからそれを加味しても全然安い!)

ってことで

落ちてるお金は拾うべそ。 



samurai_feynman at 10:31|PermalinkComments(3)TrackBack(0) 論考 | 論考