最初に断っておきますけれど,この大会,ぼくは完走してません。ということで,「未完走記」となりました。
(もっとも,「駄マラニック」では完走扱いではあるけれど。)

博多唐津街道駄マラニック106キロに参加してきた。駄マラにはいろいろと参加してきたぼくだけど,この大会は初参加だ。夜の1時に博多をスタートして,唐津まで往復する大会でした。唐津は大好きなので,ここは当然参加でしょう。

というわけで,スタートの5月25日午前1時に,承天禅寺に集まる33人の変なひとたち。

人間のみならず,カッパさんも参加するグローバルな大会。
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博多の夜の1時は,まだ宵のくち。屋台があちこち。思わず第0番目エイドとして寄りたくなる。
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博多からずーっと古の唐津街道を走っている。といっても,さすがに博多は都会で,街道の面影はまったくない。道は広い幹線道路になっている。広い歩道を街灯がこうこうと照らし出し,ヘッドランプをつけてきたのが拍子抜け,という感じだ。
物好きな走る人たちにときどき声をかけてくれる人がいたり,一緒に走ろうとしている人もいる。
「ご一緒しますか?唐津まで!」
ひえーっと驚いて,その男の人は,連れの女の人に「唐津だって!唐津!」と言う。そして笑いあう。

ぼくらは引き続いて走り続けている。
右手に暗い海が広がって見え,ちょっと海沿いを走ったあたり,10キロちょっとで第1エイド。エイド食はプチトマト。
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そのあと,また道は街中を走る。地方都市という感じだ。だんだん都会をはずれてきて,歩道が消え,路側帯を走るようになる。
夜間走にはやっぱり照明器具が必要!って感じになってくる。

それでも自販機はふんだんにあるし,コンビニエンスストアもある。便利。

ぼくはカッパ先生と一緒に走っている。師の背中を拝んでいる,という感じ。
カッパ先生は実はベテランのウルトラランナーなので,このペースは少々ゆっくりなのだ。

23キロぐらいの地点のエイド。エイド食はコーヒー大福。噛むと,コーヒーにクリームまでじわっと出てくる。秀逸!
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さて,このあとどれくらい走っただろうか。といっても夜の町なので,基本的にはよくわからんのである。写真も写らないので撮っていないので,これを読んでいる人にもよくわからないと思う。

道路に座っている若いアンちゃんたちが,唐津だって,と聞いて「車で送りましょうか?」と言ってくれる。
駄マラニックだからそれでもいいのだけれど,ここはやはり走っていきたい。そのほうが,受けそうだ。
深夜不意に現れた河童1名をふくむ走る集団にびっくりする女の人。
「何?あれ!ガマガエル?」
背中にはちゃんとカタカナで「カッパ」と書いてあるのだが。

カッパ先生のカッパスーツはフリース地だ。ぼくもフリースは持っているが,汗を吸って重くなるし,いかにも暑そうだ。
「夏用の河童って,ないんですか?」とたずねるぼく。

途中で夜がしらじらと明けてくる。そして麦畑などが広がっている田舎の朝の光の中を走る。
工場などが点々と並んでいる。
筑前深江を過ぎると,第3エイドつまり33キロエイドだ。エイド食は,水の桃大福である。
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これ,実はあみりんさんの奥様がお手伝いしているとか。かみ締めるとひんやりとした中に,桃の実が入っていて,じゅわっとジュースがしみでてくる。

さて,暑くてきつそうなカッパさんは,水をもとめて,しばし自動販売機に走る。
このマラニックのよいところは,幹線道路沿いなので,自動販売機やコンビニを使った補給が容易なこと。しかし,それもあくまで前半であり,それ以後は,自販機すらろくにない田舎道に入っていく。。

道はずっとJR線沿いの道路を走っていたが,福吉の駅を過ぎたあたりで,幹線道路を離れ,踏切を渡り,田んぼの中の坂道を登っていく。季節は,甘夏の収穫の季節である。道路わきに,「甘夏100円」と書いてあり,袋に5,6個の大きな甘夏が置いてある。思わず買おうとする人がいる。皆のどが渇いている様子。
が,誰もリュックを持たず軽装で走っているので断念。

けっこう急な上り坂をくねくねと登り,ゴルフクラブの看板のあたりで下ったりしながら,道は山の中を走る。いかにも「旧唐津街道」という感じの山道だ。ぼくはニヤリとする。それでこそ,「駄マラニック」。いつもの駄マラだ

道はいくつかの集落を抜けてゆく。カッパさんの連れの人たちは元気である。しかし,この日ぼくは妙に疲れていて,なんだか力が入らなかった。おまけに30キロを過ぎたころから違和感のあった右臀部と太ももの後ろ側が本格的に痛み出して走れない。ずっと置いていかれるぼく。まあ,いいか。楽しんで走ろう。

カッパ先生は,それでもぼくと一緒のペースで走ってくれる。恩師とはありがたいものである。

山道をカッパ先生といっしょに通過して,坂を下りると,急に視界が開ける。唐津の海だ。
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左側には虹の松原がずっと広がる。松に,白い砂浜。それがすーっと伸びた先に,瀟洒なホテルの建物が見え,そこから橋で結ばれた小山の森から唐津城の天守閣が小さく突き出しているのが見える。半島はそこからまだまだずっと右手へ続いており,建物や塔が立っている。そして,その右側の海の沖合いには島が点々と浮かんでいる。
唐津だ。

海へ出てその後すぐ道路わきには第4エイドがある。エイド食は,チョコレート大福。チョコレートの割には和菓子っぽく,あっさりと仕上がっている。あみりん氏によれば,今回のエイド食は「大福シリーズ」で統一したとのこと。それはいいのだが,暑くて汗をかくので,さすがに塩分も欲しいところである。
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チョコレート大福を食べていると,あみりん氏がおニューの駄マラカーでにこやかに走り去った。駄マラニックは主催者あみりんしかスタッフがいないので,スタート後,全員の荷物を積み込んで,スタート地点を撤収し,コースを先回りしながら,白線を引き,エイドを設営する。そして,午前6時から午前10時までは唐津城にエイドをつくり,皆の荷物を受け取れるようにする。そのあと,再びエイドを撤収してスタート地点に戻り,午後1時から午後7時まで待ちうけをする,という大忙しのスケジュールなのだ。
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唐津はもともと,このブログではおなじみの「松浦党」が住んでいたところである。
古くは古代,中国の文献にみる末蘆国(まつろこく)として,この海や山の郷に人が住み始めた。海の幸や山の幸にめぐまれたこの土地は,採集漁労を営む人々にとって,住みやすい土地だったのだろう。
そのうち,嵯峨源氏の末裔である源久が,この九州に降りてきて,地名にちなんで「松浦氏」を名乗り,これを頭領にいただく人たちが,「松浦党」を名乗ることになったのだ。そして,東松浦郡を本拠とする上松浦党は,その後も長いことこの地を支配し続けることになる。
それが終焉したのは秀吉が九州に進出してくるころだった。朝鮮出兵にあたって秀吉にその戦いぶりを非難された松浦党の直系である波多親(ちかし)は,筑波に改易されることになったのだ。平戸の下松浦党は無事に明治維新まで存続するけれども,東松浦郡の上松浦党の中心として勢力を誇った波多氏は,ここで滅びることになる。もともと,朝鮮に近いこの地を秀吉は狙っていたという説も,ある。豊かな海の幸や山の幸をもたらしてくれる父祖の地を離れることになった波多氏の無念の思いはいかばかりであっただろうか。「岸岳末孫の祟り」と地元の人が言い伝えるゆえんである。

さて,その波多氏に代わっては,秀吉の子飼いの武将である寺沢氏が来た。同じく秀吉の子飼いの武将でも,島原を支配した松倉氏と違って,寺沢広高はそれほど評判は悪くない(天草ではキリシタン弾圧に加わったのだが)。関が原では目ざとく東軍に付き,領地を安堵される。寺沢氏は唐津城を築き,松浦川(当時は波多川と呼んだ)の土木工事を行った。しかし,寺沢氏の後を継いだ息子の代で寺沢氏も終わってしまう。その後,唐津はめまぐるしく支配者が入れ替わりつつ,明治維新を迎えることになるのだった。

それにしても,絶好のコンディションである。空はちょっと曇り気味で,ランには本当に好都合。海もきれいだ。
はるか遠くに,虹の松原も開けている。PA0_0023


前を行く人たちは海の風に吹かれつつ,気持ちよさそうに走っている。調子が悪いのはぼくだけである。尻の痛みがひどくなってきたので,ぼくはカッパ先生たちと離れて,ひとり,虹の松原に入る。虹の松原,とはいうものの,もともとは「2里の松原」と呼んだらしい。味もそっけもない名称だ。実際4.7キロほどあるらしく,ただただ長い。ぼくはそこを,とぼとぼと歩く。PA0_0015


それほど長い虹の松原も,やがて終わりを告げる。松の木の切れ間から,唐津シーサイドホテルの建物が見える。

唐津シーサイドホテル,といえば,ジャック・マイヨールに触れないわけにはいかない。マイヨールは素もぐりの世界記録を作った人である。彼は戦前の1937年ころ,唐津に滞在したのだった。マイヨール10歳。彼は唐津の北の七ツ釜で,海の魅力を知ったという。その後世界を転々とし,エンゾ・マイオルカと競って素もぐりの世界記録を作ることになる。これを映画にしたのが,リュック・ベッソンの映画「グラン・ブルー」である。ヒットしたので,見たことがある人も多いだろう。

深海。太陽光のうち赤い光は水の分子に吸収され,青い光が残る。70メートルももぐれば,地上の0.1パーセントの光しかなく,そこは青い世界(グラン・ブルー)である。地中海のとある透明度の高い海で,ジャックはエンゾと素もぐりを競い続けた。何も見えない深海。何が楽しいのだろう,と思うけれど,それはマラソンにはまる人を世間の人が見たって,そう思うかもしれないな,とぼくは思う。長距離は車でゆけばいいのに,と考える人にマラソンやマラニックの魅力はわかるまい。

唐津シーサイドホテルは,そんなジャック・マイヨールが日本に滞在した折には常宿としていたホテルである。彼は幼き日の七ツ釜の記憶を思い出していたのだろうか。
晩年の彼は,唐津の海が美しくなくなったと嘆いていたという。

きらきらと光る海はそれでも,ぼくには十分きれいに見えた。

唐津城に向かう橋をわたり,右に曲がれば唐津城エイドである。エイド食はいなり寿司。
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さて,ぼくの足はもう限界だ。でもまだまだがんばりますか。何が楽しいかわからない素もぐり競争をつづけたマイヨールとエンゾにあやかって(笑)。

ぼくは,「行けるところまで行きます」とあみりん氏に断って折り返しスタートした。

でも,帰りの虹の松原は,ほとんど歩いていた。その長かったこと長かったこと。
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天気が良くて,夏のような暑さ。勘違いした蝉の声が降りそそいでくる。
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しかし,終わりはやがてくる。4.7キロの虹の松原も終わる。
そのあたりで,後ろから走ってきたランナーに追い越される。

天気は最高だし,眺めも最高だ。最高でないのはぼくの調子だけ。追い越していくランナーの笑顔がまぶしい。みんな,楽しい思い出を作ってくれたらいいな。

さて,チョコレート大福のエイドまでほうほうの体でたどりつく。風にはためく「駄マラニック」の幟。ぼくはひとりぼっちで,チョコレート大福をいただく。誰もみていないから,おかわりしちゃおう(笑)。
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さて,ここからは再び山道に入る。上り坂は,今のぼくの状態からしてきつい。右足を前に出すと,臀部からふとももにかけて痛みが走る。無理しちまったかな,と僕は思う。
しばらくは,林の中の道を歩く。上り坂で足が出ないので,道端に落ちていた竹を,杖代わりにして前に進む。
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雑木林には,世話する人がなくなった蜜柑の木がある。実が道路に落ちている。これ,もらっていいのかな?
(いやいやまずいでしょう)
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とぼとぼ歩いていたら,雑木林の中で話している女性とおじさん。女性のほうは,ぼくのつけているゼッケンを見て言う。
「あら,唐津街道を歩いとらすと?ここが唐津街道よ。ごくろうさま!」
おじさんが続ける。
「でも,さっきん人は,走っとらしたばい。」

結構結構。ぼくの足にはもう,走る力は残っていないのだ。こんな風な痛みを覚えたのは初めてである。

その後,しばらく杖を突きながら,歩いた。
さて,ぼくの足はもう限界だ。60キロオーバーの駅「鹿家(しかか)」でワープすることにした。駄マラニックは途中でリタイアしても,ゴール写真を入れた「完走状」を送ってくれるのだ。しかし,ほんとうにリタイアしやすいコース。というのがほとんどコースが筑肥線沿いなので,だいたい駅がみつかるのである。ここでリタイアしても,「しかかない」でしょう。
鹿家の駅から筑肥線に乗る。
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そんなわけで,ちょっとだけ不本意な「博多唐津街道駄マラニック106キロ」が終わった。
今,おでこのすりむき傷を見ながら,あの日曜日を思い出しているところだ。
というのも,鹿家からの鉄道の中でがんばって立っていたぼくは(シートに掛けると汗で汚れるかな,と思ったのと,足が攣ると立ち上がれなくなると思ったのだ),いつの間にかブラックアウトして倒れてしまい,電車の中の人から「大丈夫ですか!車掌さんを呼びましょうか?」と言われて,大丈夫だと答えたところ,「でも,おでこから血が出てますよ。」と言われて,はじめておでこをすりむいたのに気がついたのだった。いや,疲れって怖いね。

福岡市営地下鉄「祇園」駅から歩いて3分。ぼくはにこやかに迎えてくれたあみりん夫妻に,「ワープしましたー」って正直に白状して,あみりん夫妻としばらくお話したのだった。

さて,需要があるのかないのかよくわからないこの参加記もそろそろ終わり。
言いたいことは,駄マラニックは楽しい,ってこと。
それから,ジャック・マイヨールはなんだかマラソンランナーと似てるね,ってこと。
映画「グラン・ブルー」は,どこまでも続く深海の青の中を潜っていくジャックの姿で,終わる。
実在のジャック・マイヨールは2001年12月22日,自らの命を絶った。晩年は重い鬱病に苦しんでいた,といわれる。
ジャックは今でも,きっとイルカと泳ぎ続けているのだろう。それはあるいは思い出の中にある唐津の海だろうか。今,唐津の海にはイルカは来ない。


さて,6月7日は,阿蘇カルデラスーパーマラソン(50キロ)を走る予定。こんどはきちんと完走しまっせ。
体力の下り坂を駆け抜けろ!