12月28日,佐世保市を舞台として開催された駄マラニックを走ってきた。
この大会,たぶん「日本で一番遅いフルマラソン(の距離)の大会」である。
この「遅い」には二つの意味がある。今年最後の大会。そしてもうひとつは,駄マラニックは「遅いがエライ」大会だから遅い人でも気後れせずに走れるのだ。
コースはこんな感じ。http://latlonglab.yahoo.co.jp/route/watch?id=967a051db1f84c325509c982b0277441
その大会に,今年はだいたい100名の参加者が集まった。
朝8時に佐世保駅の海側の公園に行くと,もうランナーとおぼしき格好の人たちがちらほら。

やはり一年の締めという感覚なのか,いろんな大会でよく見る人たちが集まり,お互いに話したり,声をかけたりしている。おなじみの「カッパ先生」も来ている。このコースはもともと地元のランニングクラブ「MRCさせぼ」の肝いりのコースなのだけど,そのメンバーもいる。
外国の人もいる。コースはどうするのかという質問に,主催者あみりん氏が,「ホワイトライン」などと説明している。駄マラニックのコースは一般道を使う。何も指示がなければだいたい道なりだ。ただ,曲がり角などには,道を間違えないように,運動会などで使う白線引きであらかじめ道路に矢印を引いてある。
ちなみに「矢印」は英語ではアローである。フォロウ・ザ・ホワイト・アロウ,てな感じだ。
さて,駄マラニックはプライベートなマラニック大会であり,交通整理もないので,参加者はあくまで歩行者として歩道を進むことになる。ただ,今回は100名もの参加者がいるため,通常スタートのほかに,安全のために8時45分スタートの「アーリースタート」,9時15分スタートの「レイトスタート」に分かれてスタートした。駄マラ神を膝におまつりしているぼくは,もちろんアーリースタートだ。
スタートラインもないまま,なんとなくスタートした。参加者はのんびりと,佐世保駅前から大宮町の道を走っていく。


佐世保の町なかにはたくさんのこじんまりした岩山があり,ぼくは小さい頃そんな岩山によくのぼって遊んだ。ちかごろでは岩山も削られて宅地開発が進んできたが,注意して見ればそんな地形がまだあちこちに残っている。
コースは,佐世保駅前を出発して,JR線に沿ってゆき,日宇駅を過ぎたあたりで東へ向かい隠居岳(かくいだけ)方面へ向かう山登りとなる。今回の「佐世保フル」のコースは2つの山登りを含んでいる。その,最初の山登りだ。

日宇駅を過ぎるとコンビニがある。山に入ってしまうとあまり綺麗なトイレがないので,女性の方はコンビニを利用させてもらうとよいかもしれない(もちろん買い物をするのがマナー)。

住宅地を抜けると,ダム湖のわきを通る。ちょうど運動部らしい高校生が挨拶をしてくる。ぼくは運動部ではなかったのだけれど,挨拶を返す。なんだかスポーツマンになった気持ちになり,気分が良い。
道は次第に山登りとなり,ぐいぐい高度を上げていく。振り返ると,遠く佐世保の港が見える。

と,そこに駄マラカーにのったあみりん氏が後ろから走ってくる。駄マラニックは基本,あみりん氏が一人で運営しているので,参加者がスタートしてしまったら,全ての荷物を車に積んで,スタート地点を撤収する。そしてコースを先回りし,エイドを設営して回るのだ。だから,ランナーがあまり早いと,エイド設営やゴール待機が間に合わないこともある。

「お?アイフォンですね」とあみりん氏。ぼくは今回いつもの二つ折れの携帯が壊れてしまったので,アイフォンで写真を撮っている。あみりん氏は先へ行ってしまった。
うしろを振り向くと,坂の下から通常スタートの人たちが走ってくる様子が見える。


隠居岳(かくいだけ)は去年の佐世保フルの記事でも書いたように,古くは烏帽子岳とともに火山だった。烏帽子岳には火口もあった。人が地上に現れる前,太古の噴火活動で溶岩台地が形成されて,それが雨水で侵食されて現在の地形になった。溶岩台地だから,最初は急坂の登りであり,そこをすぎるとなだらかなアップダウンが続く。阿蘇カルデラスーパーマラソンを走ったことがある人なら,なんとなく雰囲気が似ているな,と思うかもしれない。
隠居岳(かくいだけ)は平家の落人が住んでいたという伝説も残っている。そんな雰囲気もある。

最初の登りを過ぎて道はなだらかになると,隠れ里,という雰囲気の景色になる。

ここの林の中に10キロエイドがある。駄マラニックはあみりん氏がひとりで運営しているから,エイドに人を置くことができない。だから,飲料水と軽食の入ったクーラーボックスを設置しておき,参加者は勝手に飲み食いして,あとは蓋をしてきちんと片付けていくことになる。
今回は100人分だからけっこうな量である。


エイド食はカッパ巻き。梅がおいしい。

さて,ここでぼくはカッパ先生と,それから草のつくKさんと一緒になる。そして道は再び上り坂にまる。

カッパ先生も草のつくKさんも,いずれもいろんな大会に参加している本格的なランナーである。それに引き換えぼくは,膝を壊したのをいいわけにして今回はほとんど走りこんでいない。だから,今日はゆけるところまでついていくことにした。
空を見上げると曇り空だが,雨が降るような感じではない。「冬でも暖かいけれど,雨が降ると,フリースはたまらんけんね。」とカッパ先生が話している。水がきらいな珍しい河童。
道の両脇に杉林が続く。土の切れ目を見ていると土が赤い。赤土はもとは玄武岩などの溶岩が変じてできた土である。もともと酸性が強く,やせた土地だ。そこに気の遠くなるような時間をかけて今日の林ができている。
こんなところにも,火山活動のなごりがみられるというわけなのである。
「今年は弓張の登りで歩かんように体力を温存しておかんとね。」とカッパ先生が連れの人と話している。

草のつくKさんは,知人が焼肉店を始めた話なんかをしている。
のんびりした雰囲気だ。
林の中をしばらく上ると,隠居岳のキャンプが右手に見える。さらに上っていくと,道は右折してこんどは下りとなっている。
気持ちよい下りである。カッパ先生と草のつくKさんは,今年70歳を過ぎたランナーの話なんかをしながら軽快に下っている。
「でさ,70歳過ぎてもぜんぜんタイムが落ちんとさ。そのうち1位にならすよ」
「へえ」
ぼくは最近読んだ84歳のランナーという西日本新聞の記事を思い出す。林業をしていた彼がランニングを始めたのはぼくと同じ47歳で,そのあとランニングで通勤するようになり,全盛期は一日30キロを走っていたという。3時間半を切る記録を作ったのが70歳のころ。タイムはだいぶ遅くなったけれど,今でもいろんな大会に参加し続けている,というような記事。ランニングは体には過酷なスポーツだが,無理をして故障しなければ長く続けられるスポーツだ。
遅いがえらい駄マラニックだけれど,参加者はいずれもいろんな大会に参加して,記録を狙ったりもする筋金入りのランニング愛好家たちである。カッパ先生も別大を走ったりしている。だけど,そんな人たちにも愛されているのが,この駄マラニックである。
道は下りのあと,なだらかなアップダウンを繰り返す気持ちのよい道になった。
ただ,ぼくは,ふだんの鍛錬不足が祟って,なんとなく置いていかれる雰囲気になった。


ここはもう烏帽子岳である。烏帽子岳は火口があったので,二段式の地形になっているそうだ。また溶岩台地のなだらかな地形を生かして,キャンプやスポーツ施設が作られている。
置いていかれたぼくは,スポーツ施設を右手に見ながら,いつのまにか一人で走る。

右手には教会がある。クリスマスの飾りが残っている。

後ろから走ってきたランナーに抜かれつつ,しばらくいくと,20キロエイドに到着した。
青少年の天地,という研修施設の前である。ここでカッパ先生や草のつくKさんと再会する。
エイドは民家の庭先を借りている。もちろんあみりん氏は事前に人家の主に話し済みだ。
庭先で去年と同じく犬がほえている。エイド食はコーヒー大福。「コーヒー大福」というシールが貼ってある。

さて,このあとコースは烏帽子岳を下って,山の田水源地を通って佐世保の町へ出て行く。ぼくが小学校のとき,鍛錬遠足で烏帽子岳に上った懐かしいコースである。そんな山道を49歳になって,こんどは走るとは思わなかったな。
走っていくと電波の中継塔や,白い十字架が見える。



山道を下る。木々の間からは景色が見える。山から見わたす景色は最高だ。走りながらぼくは,メキシコのタラウマラ族になったような気分になる。タラウマラ族(ララムリ)は,「地上最強の走る民族」なんて呼ばれたりしているインディアンだ。争いに追われた彼らは「銅渓谷」という山奥に住むようになり,小さい頃から山を登ったり降りたりしているうちに脚が鍛えられ,トウモロコシと水の入った瓢箪を腰につけ,ワラーチというサンダルを履いて平気で100キロを走る,という。
そんなタラウマラになった気持ちで走っているうちに,ぼくの脚にちょっとした違和感が来た。脚がつりそうである。このくらいではつらなかったのになあ,などと最近のサボりを反省する。ただ,この脚が全身の痙攣になってしまうとやっかいだ。ぼくはリュックから芍薬甘草湯を取り出して飲む。顆粒状なので水なしでも飲めるのだ。今年の4月,ぼくは練習も積まずに,桜マラソンで記録を出そうとあせるあまりむりをしてしまい,ゴール後全身が痙攣してスタジアムで動けなくなった。体はだんだん冷えてくる。目の前が暗くなり,ぼくは人を呼んで担架で救護所に運ばれた。
もし今日,そんなことになれば凍死の危険もある。駄マラニックはなにしろあみりん一人で運営しているので,救護班もないし,簡単に助けにもこれない。胸の駄マラニックのゼッケンを開くと地図のほか,あみりん氏とタクシーの電話番号が書いてある。電話は持っているが,これで呼んでもこんな山の中にちゃんとタクシーが来るとは思えない。
駄マラニックは交通機関を使ったり,近道をしても「完走扱い」である。そのかわり,無事に帰ってくるのは自己責任なのである。
柱につかまってしばらく呼吸を整える。芍薬甘草湯が効いて来たのかちょっと脚が落ち着いてきた。そろりそろりと慎重に走り出す。
後ろからTさん(女性)が来られる。Tさんは,フルマラソンを1000回以上走っているという凄い人なのだが,普通の格好をしていればお孫さんのいる普通のお母さんと見分けがつかないだろう。しばらく一緒に進むことにした。
山道を抜けて,広い道路に出る。ここはもう山の田の裏山である。

山の田水源地の公園で一休みして,脚を休めてちょっとトイレ。

ここの公園の横は市営バスの終点になっており,ここまでバスが来る。
降りていくと町に入る。途中で二つに分かれた道を右へそれる。昨年はここで間違えて直進してしまい,弓張岳の上り口がわからなくなったのだ。今年は無事にコースを進む。

コースは国道を渡る。ここを渡るとこんどは弓張岳への登りとなる。

考えたらこの佐世保フル駄マラニックのコースもすごいよなあ,と思う。弓張岳,烏帽子岳いずれも小学校の鍛錬遠足のコースだけれど,どちらかで,一日がかりのコースだ。今日は両方を,しかも走ってゆくのである。これが大人の遊びというやつだ。
タラウマラ族の話にもどると,「Born To Run」という本があって,このクライマックスがタラウマラの若者と白人のレースであり,タラウマラの若者が勝つという話になっている。今,マラソン大会でも,ランニングシューズではなくてサンダルや裸足で走る選手がいるけれど,ベアフットランニングの流行を作ったのがこの本だ。
タラウマラ族のふるさと銅峡谷では,現在,タラウマラ族と一緒に住んでいた白人「カバーヨ・ブランコ」の名前を冠したレース大会が行われている。今年は招待選手が勝ったらしい。
まあしかし,山を登ったり下ったり,忙しいよなあ,とぼくは佐世保フルのコースを走りつつ思う。これこそ,なんちゃってタラウマラ族にはぴったりの大会だ。
と上っていくと,うれしいことに私設エイドがあった。

ボランティアの人が,温かい味噌汁をくれる。鰹節だけの味噌汁だが,とてもおいしく,あたたかい飲み物がありがたい。「指宿のマラソン大会で出てたのを参考にしたんです」とその人。ほかにも,八朔や,キャラメルなどの菓子類,黒ゴマを載せた赤飯もある。かみしめると黒ゴマがはじける感じと香りが,なんともいえない。

おもわず走るのなんてやめてずっとここにいようかと思ったけれど,今年は去年の雪辱戦として完走を目的としているので,お礼を言って走り出す。カーブが続く道を,ずっと登っていくと,道は山腹を通る見晴らしのよい道になる。見渡せば佐世保の市街地が見える。

ぼくは,梅田町に住んで,小学校へ通っていたのでこのあたりは懐かしい場所である。ちょっと山へ入ると石切り場があり,岩石ハンマーで石灰岩を壊すと貝の化石がたくさん取れた。そこも今は家が立ち並んでいる。
ただ,走る元気はそんなに残っておらず,普通に歩いて上っていく。ときどきなだらかな道で少しだけ,走ってみる。道から見える佐世保の眺めが気分がよい。

そんなことをしながら,30キロエイドに到着。エイド食はいなりずし。ここで,はるか先に行ってしまったと思っていたカッパ先生に追いつく。

スタートしたカッパ先生たちを見送りながらぼくはゆっくりといなり寿司をほおばる。

先日の平戸島は膝の痛みを抱えてほとんど歩きだったけれど,今日は膝は痛まない。どうやらあまり急ぎさえしなければ,左膝の駄マラ神さまは暴れないご様子である。そのかわり,トレーニング不足がたたり,少し調子に乗って走ると,すぐに筋肉が攣りそうな感じがある。
30キロエイドを出て,歩いたり走ったりしながらのんびり進む。道の左手には,師走の佐世保の景色が広がっている。

ここからはしばらくそんなに登りはない。
時刻はもう午後1時を回っている。
やがて去年「ワープ」をした矢岳の郵便局のところへ到着する。今日はワープはしない。後ろから男女ペアのランナーが来て,追い越される。同じ趣味があるっていいですね。
で,こちらも小学校の弓張岳遠足のコースだったので記憶にあるけれど,実際に進んでみると,けっこうきついのぼりで,到底走れるかんじがしない。ちょっと試みに走ってみたが,すぐに筋肉が攣りそうになった。

あぶないあぶない。トレーニングしていないのだから無茶をしてはいけない。全ては自己責任なのである。
タラウマラ族と文明化されたランナーの対決を描いた「Born To Run」は,当時流行っていたニューエイジやスピリチュアルのムーブメントの影響が強くて,好き嫌いはあるかもしれないけれど,そこにあるのは,「まだまだ人間には能力が眠っている」という人間の潜在能力に対するポジティブな考え方である。そこに共感する。
新聞記事で読んだけれど,川内優輝選手のお母さんもランナーで,まだ小学生であった優輝少年に対して,毎日10キロを走らせたという話である。考えたらタラウマラ族を地でいくような話だ。歯を食いしばって走る癖のある川内選手の歯はぼろぼろだそうである。とある大会で,川内選手がゴール前にトイレに入って「大」をして,出てきて走ったがそれでもトップだったそうである。うん,いい話だ。
ぼくはトレーニングも積んでいないから無茶はしない。のんびりと進んでいく。12月の寝ぼけたような天気の空がそんなぼくをぼんやりと眺めている。ぼくは運動が嫌いな子であったし,成長してからもそうだった。デスクワーカーのぼくは47歳のあるとき,会社の階段を上っていて息が切れる自分に気がついて愕然となった。それから家の周りを散歩するようになり,ジョギングするようになり,3キロのマラソン大会に出て,10キロ,ハーフマラソンと距離を伸ばして,今はこんな大会に出るようになった。一つはあみりん氏の「駄マラニック」のホームページとであったことが大きい。ぼくはもともと「走るのが楽しいなんて頭がおかしい」と思っていた人間だ。それが「走るのがこんなに楽しそうな人たちがいる」ということを知った。そんなら,いっちょ,走ってみっぺ,と駄マラニックを走って,そのあと初めてのフルマラソン大会に出た。そんなぼくだからもともとスポーツとは全く無縁だしいまだに4時間が切れない。だけど,走る人の中にはこんな奴がいてもいいのではないかと思っている。
坂を上っていると,崖にほられた穴がある。これは戦時中の防空壕のあとだ。

前にも書いたけれど佐世保はもともと成り立ちからしてきな臭い面がある。もともと村だったこの地域が,町を飛ばして一足飛びに「市」に昇格したのは,明治時代に海軍の鎮守府が出来たことがきっかけである。リアス式海岸で奥まった入り江にあるこの場所は,軍の施設をおくのに適していた。そして軍が来たことによって発展してきた。だから,戦争末期にはごたぶんにもれず空襲を受けた。昭和20年6月29日,B29とグラマン戦闘機が来て,佐世保を徹底的な焼け野が原にしていった。弓張岳の頂上には今も高角砲が置かれていた跡があり,ぼくは遠足のときよく遊んだものである。だけど,高角砲もものの役に立たなかった。
佐世保は戦後も米海軍基地が置かれた。佐世保の入り江は,米軍基地と,佐世保重工業のドックと海上自衛隊が仲良く分け合っている。かつては1200トンの焼夷弾の雨を降らせたアメリカだが,今は,佐世保市民と米軍基地は友好的な関係を保っていて,「ニミッツパーク」なんて公園もでき,基地を開放するイベントの日などもある。あみりんの主催する駄マラニックには,去年,前の司令官が遊びに来てくれたこともあった。
そんなことを考えてつづらおれの急な坂道を登っていくと,鵜渡越(うどごえ)の峠に出た。
佐世保の観光名所は九十九島(くじゅうくしま)で,多島海の眺めが楽しめる。島は実際には99ではなく,208ある。佐世保の街中にみられる岩山が海に沈んだと思えばよい。この眺めが楽しめる場所を,大正時代に松尾良吉という実業家が開発しようと思い,鵜渡越まで直登する道を造った。急な山道だったに違いないが,観光で栄えたそうである。
戦後になり,バスが鵜渡越まで来るようになった。ぼくが子供のころ,弓張観光ホテルができ(いま「弓張の丘ホテル」があるところだ),観光名所となった。そのあと一時期観光が下火になったが,今は再び平和な観光都市としてやり直そうとしているところである。
九十九島の眺めが遠くに見えた。
鵜渡越でジュースを買っていたらバイク乗りの人に話しかけられる。「今日はなにかあっているんですか?」
「駄マラニックっていって,100人ぐらいが走っているんですよ。車やバイクの人には迷惑かけてるかもしれません」「いえいえ」などと和やかに話をして,鵜渡越から下る。

急な下り坂である。調子に乗って走ったら,それこそ膝を壊してしまいそうだ。慎重に下る。
ここを直登していた大正期の登山道はどれだけ厳しかったことか。
ヨタヨタと下ると,道は鹿子前(かしまえ)に出た。
ここで実は37キロのエイドがあったのだけれど,ぼくは見つけることができなかった。もと地元民なのに,どうしてミスばかりするのか。
話によれば,エイド食は最終エイドの定番「プチトマト」だったとか。
このあと,鹿子前を通って,道は佐世保重工業の造船ドックを横目に見ながら再び佐世保駅前に向かう。

レンガ造りの建物も残る歴史のある佐世保重工業だけれど,今は伊万里の造船所の子会社となっている。クレーンの中には歴史的に貴重なものもあるそうだ。
そこを歩いたり走ったりしていると,米海軍佐世保基地の前を通る。

神社の鳥居みたいなモニュメントが楽しい。たぶん,基地の人たちも地元のことを考えて共存していけるよう,いろいろ配慮をしているのだろうと思う。兵士たちの年齢は20そこそこだという。日本と違い実際に戦争をしているアメリカでは,いつどこかの戦地へ行き命を落とすかもわからない。
やはり平和がいちばんだ。
駅前に到着したのは午後3時ぐらい。別にタイムを競うような大会ではない(むしろ最後の人が一番偉い)ので,だいたい6時間と15分ぐらいで42キロあまりを走ったり歩いたりしたことになる。
ゴールでは,あみりん氏が待機していて,写真を撮ってくれる。
これを絵葉書にして,あとで家に送ってくれるのだ。思い出サービスである。
ゴール付近では,あみりん氏が知り合いの参加者と話をしていた。笑顔で,「もう来んな,っていわれたけんもう来んバイ」などと冗談を言っている。もともと駄マラニックは,氏が走友たちとあちこちを走っていたり,写真を撮ってホームページに乗せたのが始まりらしい。http://damaranic.com/ホームページをずっと下がっていくと,ちょうど年代記みたいにあみりん氏の歴史のあとがうかがえる。
今回,左膝の駄マラ神は一度も怒り出さなかった。やはり駄マラのペースが合っているからだろうか。
年内の駄マラはこれでおしまいである。来年も,楽しく,のんびりと!

この大会,たぶん「日本で一番遅いフルマラソン(の距離)の大会」である。
この「遅い」には二つの意味がある。今年最後の大会。そしてもうひとつは,駄マラニックは「遅いがエライ」大会だから遅い人でも気後れせずに走れるのだ。
コースはこんな感じ。http://latlonglab.yahoo.co.jp/route/watch?id=967a051db1f84c325509c982b0277441
その大会に,今年はだいたい100名の参加者が集まった。
朝8時に佐世保駅の海側の公園に行くと,もうランナーとおぼしき格好の人たちがちらほら。

やはり一年の締めという感覚なのか,いろんな大会でよく見る人たちが集まり,お互いに話したり,声をかけたりしている。おなじみの「カッパ先生」も来ている。このコースはもともと地元のランニングクラブ「MRCさせぼ」の肝いりのコースなのだけど,そのメンバーもいる。
外国の人もいる。コースはどうするのかという質問に,主催者あみりん氏が,「ホワイトライン」などと説明している。駄マラニックのコースは一般道を使う。何も指示がなければだいたい道なりだ。ただ,曲がり角などには,道を間違えないように,運動会などで使う白線引きであらかじめ道路に矢印を引いてある。
ちなみに「矢印」は英語ではアローである。フォロウ・ザ・ホワイト・アロウ,てな感じだ。
さて,駄マラニックはプライベートなマラニック大会であり,交通整理もないので,参加者はあくまで歩行者として歩道を進むことになる。ただ,今回は100名もの参加者がいるため,通常スタートのほかに,安全のために8時45分スタートの「アーリースタート」,9時15分スタートの「レイトスタート」に分かれてスタートした。駄マラ神を膝におまつりしているぼくは,もちろんアーリースタートだ。
スタートラインもないまま,なんとなくスタートした。参加者はのんびりと,佐世保駅前から大宮町の道を走っていく。


佐世保の町なかにはたくさんのこじんまりした岩山があり,ぼくは小さい頃そんな岩山によくのぼって遊んだ。ちかごろでは岩山も削られて宅地開発が進んできたが,注意して見ればそんな地形がまだあちこちに残っている。
コースは,佐世保駅前を出発して,JR線に沿ってゆき,日宇駅を過ぎたあたりで東へ向かい隠居岳(かくいだけ)方面へ向かう山登りとなる。今回の「佐世保フル」のコースは2つの山登りを含んでいる。その,最初の山登りだ。

日宇駅を過ぎるとコンビニがある。山に入ってしまうとあまり綺麗なトイレがないので,女性の方はコンビニを利用させてもらうとよいかもしれない(もちろん買い物をするのがマナー)。

住宅地を抜けると,ダム湖のわきを通る。ちょうど運動部らしい高校生が挨拶をしてくる。ぼくは運動部ではなかったのだけれど,挨拶を返す。なんだかスポーツマンになった気持ちになり,気分が良い。
道は次第に山登りとなり,ぐいぐい高度を上げていく。振り返ると,遠く佐世保の港が見える。

と,そこに駄マラカーにのったあみりん氏が後ろから走ってくる。駄マラニックは基本,あみりん氏が一人で運営しているので,参加者がスタートしてしまったら,全ての荷物を車に積んで,スタート地点を撤収する。そしてコースを先回りし,エイドを設営して回るのだ。だから,ランナーがあまり早いと,エイド設営やゴール待機が間に合わないこともある。

「お?アイフォンですね」とあみりん氏。ぼくは今回いつもの二つ折れの携帯が壊れてしまったので,アイフォンで写真を撮っている。あみりん氏は先へ行ってしまった。
うしろを振り向くと,坂の下から通常スタートの人たちが走ってくる様子が見える。


隠居岳(かくいだけ)は去年の佐世保フルの記事でも書いたように,古くは烏帽子岳とともに火山だった。烏帽子岳には火口もあった。人が地上に現れる前,太古の噴火活動で溶岩台地が形成されて,それが雨水で侵食されて現在の地形になった。溶岩台地だから,最初は急坂の登りであり,そこをすぎるとなだらかなアップダウンが続く。阿蘇カルデラスーパーマラソンを走ったことがある人なら,なんとなく雰囲気が似ているな,と思うかもしれない。
隠居岳(かくいだけ)は平家の落人が住んでいたという伝説も残っている。そんな雰囲気もある。

最初の登りを過ぎて道はなだらかになると,隠れ里,という雰囲気の景色になる。

ここの林の中に10キロエイドがある。駄マラニックはあみりん氏がひとりで運営しているから,エイドに人を置くことができない。だから,飲料水と軽食の入ったクーラーボックスを設置しておき,参加者は勝手に飲み食いして,あとは蓋をしてきちんと片付けていくことになる。
今回は100人分だからけっこうな量である。


エイド食はカッパ巻き。梅がおいしい。

さて,ここでぼくはカッパ先生と,それから草のつくKさんと一緒になる。そして道は再び上り坂にまる。

カッパ先生も草のつくKさんも,いずれもいろんな大会に参加している本格的なランナーである。それに引き換えぼくは,膝を壊したのをいいわけにして今回はほとんど走りこんでいない。だから,今日はゆけるところまでついていくことにした。
空を見上げると曇り空だが,雨が降るような感じではない。「冬でも暖かいけれど,雨が降ると,フリースはたまらんけんね。」とカッパ先生が話している。水がきらいな珍しい河童。
道の両脇に杉林が続く。土の切れ目を見ていると土が赤い。赤土はもとは玄武岩などの溶岩が変じてできた土である。もともと酸性が強く,やせた土地だ。そこに気の遠くなるような時間をかけて今日の林ができている。
こんなところにも,火山活動のなごりがみられるというわけなのである。
「今年は弓張の登りで歩かんように体力を温存しておかんとね。」とカッパ先生が連れの人と話している。

草のつくKさんは,知人が焼肉店を始めた話なんかをしている。
のんびりした雰囲気だ。
林の中をしばらく上ると,隠居岳のキャンプが右手に見える。さらに上っていくと,道は右折してこんどは下りとなっている。
気持ちよい下りである。カッパ先生と草のつくKさんは,今年70歳を過ぎたランナーの話なんかをしながら軽快に下っている。
「でさ,70歳過ぎてもぜんぜんタイムが落ちんとさ。そのうち1位にならすよ」
「へえ」
ぼくは最近読んだ84歳のランナーという西日本新聞の記事を思い出す。林業をしていた彼がランニングを始めたのはぼくと同じ47歳で,そのあとランニングで通勤するようになり,全盛期は一日30キロを走っていたという。3時間半を切る記録を作ったのが70歳のころ。タイムはだいぶ遅くなったけれど,今でもいろんな大会に参加し続けている,というような記事。ランニングは体には過酷なスポーツだが,無理をして故障しなければ長く続けられるスポーツだ。
遅いがえらい駄マラニックだけれど,参加者はいずれもいろんな大会に参加して,記録を狙ったりもする筋金入りのランニング愛好家たちである。カッパ先生も別大を走ったりしている。だけど,そんな人たちにも愛されているのが,この駄マラニックである。
道は下りのあと,なだらかなアップダウンを繰り返す気持ちのよい道になった。
ただ,ぼくは,ふだんの鍛錬不足が祟って,なんとなく置いていかれる雰囲気になった。


ここはもう烏帽子岳である。烏帽子岳は火口があったので,二段式の地形になっているそうだ。また溶岩台地のなだらかな地形を生かして,キャンプやスポーツ施設が作られている。
置いていかれたぼくは,スポーツ施設を右手に見ながら,いつのまにか一人で走る。

右手には教会がある。クリスマスの飾りが残っている。

後ろから走ってきたランナーに抜かれつつ,しばらくいくと,20キロエイドに到着した。
青少年の天地,という研修施設の前である。ここでカッパ先生や草のつくKさんと再会する。
エイドは民家の庭先を借りている。もちろんあみりん氏は事前に人家の主に話し済みだ。
庭先で去年と同じく犬がほえている。エイド食はコーヒー大福。「コーヒー大福」というシールが貼ってある。

さて,このあとコースは烏帽子岳を下って,山の田水源地を通って佐世保の町へ出て行く。ぼくが小学校のとき,鍛錬遠足で烏帽子岳に上った懐かしいコースである。そんな山道を49歳になって,こんどは走るとは思わなかったな。
走っていくと電波の中継塔や,白い十字架が見える。



山道を下る。木々の間からは景色が見える。山から見わたす景色は最高だ。走りながらぼくは,メキシコのタラウマラ族になったような気分になる。タラウマラ族(ララムリ)は,「地上最強の走る民族」なんて呼ばれたりしているインディアンだ。争いに追われた彼らは「銅渓谷」という山奥に住むようになり,小さい頃から山を登ったり降りたりしているうちに脚が鍛えられ,トウモロコシと水の入った瓢箪を腰につけ,ワラーチというサンダルを履いて平気で100キロを走る,という。
そんなタラウマラになった気持ちで走っているうちに,ぼくの脚にちょっとした違和感が来た。脚がつりそうである。このくらいではつらなかったのになあ,などと最近のサボりを反省する。ただ,この脚が全身の痙攣になってしまうとやっかいだ。ぼくはリュックから芍薬甘草湯を取り出して飲む。顆粒状なので水なしでも飲めるのだ。今年の4月,ぼくは練習も積まずに,桜マラソンで記録を出そうとあせるあまりむりをしてしまい,ゴール後全身が痙攣してスタジアムで動けなくなった。体はだんだん冷えてくる。目の前が暗くなり,ぼくは人を呼んで担架で救護所に運ばれた。
もし今日,そんなことになれば凍死の危険もある。駄マラニックはなにしろあみりん一人で運営しているので,救護班もないし,簡単に助けにもこれない。胸の駄マラニックのゼッケンを開くと地図のほか,あみりん氏とタクシーの電話番号が書いてある。電話は持っているが,これで呼んでもこんな山の中にちゃんとタクシーが来るとは思えない。
駄マラニックは交通機関を使ったり,近道をしても「完走扱い」である。そのかわり,無事に帰ってくるのは自己責任なのである。
柱につかまってしばらく呼吸を整える。芍薬甘草湯が効いて来たのかちょっと脚が落ち着いてきた。そろりそろりと慎重に走り出す。
後ろからTさん(女性)が来られる。Tさんは,フルマラソンを1000回以上走っているという凄い人なのだが,普通の格好をしていればお孫さんのいる普通のお母さんと見分けがつかないだろう。しばらく一緒に進むことにした。
山道を抜けて,広い道路に出る。ここはもう山の田の裏山である。

山の田水源地の公園で一休みして,脚を休めてちょっとトイレ。

ここの公園の横は市営バスの終点になっており,ここまでバスが来る。
降りていくと町に入る。途中で二つに分かれた道を右へそれる。昨年はここで間違えて直進してしまい,弓張岳の上り口がわからなくなったのだ。今年は無事にコースを進む。

コースは国道を渡る。ここを渡るとこんどは弓張岳への登りとなる。

考えたらこの佐世保フル駄マラニックのコースもすごいよなあ,と思う。弓張岳,烏帽子岳いずれも小学校の鍛錬遠足のコースだけれど,どちらかで,一日がかりのコースだ。今日は両方を,しかも走ってゆくのである。これが大人の遊びというやつだ。
タラウマラ族の話にもどると,「Born To Run」という本があって,このクライマックスがタラウマラの若者と白人のレースであり,タラウマラの若者が勝つという話になっている。今,マラソン大会でも,ランニングシューズではなくてサンダルや裸足で走る選手がいるけれど,ベアフットランニングの流行を作ったのがこの本だ。
タラウマラ族のふるさと銅峡谷では,現在,タラウマラ族と一緒に住んでいた白人「カバーヨ・ブランコ」の名前を冠したレース大会が行われている。今年は招待選手が勝ったらしい。
まあしかし,山を登ったり下ったり,忙しいよなあ,とぼくは佐世保フルのコースを走りつつ思う。これこそ,なんちゃってタラウマラ族にはぴったりの大会だ。
と上っていくと,うれしいことに私設エイドがあった。

ボランティアの人が,温かい味噌汁をくれる。鰹節だけの味噌汁だが,とてもおいしく,あたたかい飲み物がありがたい。「指宿のマラソン大会で出てたのを参考にしたんです」とその人。ほかにも,八朔や,キャラメルなどの菓子類,黒ゴマを載せた赤飯もある。かみしめると黒ゴマがはじける感じと香りが,なんともいえない。

おもわず走るのなんてやめてずっとここにいようかと思ったけれど,今年は去年の雪辱戦として完走を目的としているので,お礼を言って走り出す。カーブが続く道を,ずっと登っていくと,道は山腹を通る見晴らしのよい道になる。見渡せば佐世保の市街地が見える。

ぼくは,梅田町に住んで,小学校へ通っていたのでこのあたりは懐かしい場所である。ちょっと山へ入ると石切り場があり,岩石ハンマーで石灰岩を壊すと貝の化石がたくさん取れた。そこも今は家が立ち並んでいる。
ただ,走る元気はそんなに残っておらず,普通に歩いて上っていく。ときどきなだらかな道で少しだけ,走ってみる。道から見える佐世保の眺めが気分がよい。

そんなことをしながら,30キロエイドに到着。エイド食はいなりずし。ここで,はるか先に行ってしまったと思っていたカッパ先生に追いつく。

スタートしたカッパ先生たちを見送りながらぼくはゆっくりといなり寿司をほおばる。

先日の平戸島は膝の痛みを抱えてほとんど歩きだったけれど,今日は膝は痛まない。どうやらあまり急ぎさえしなければ,左膝の駄マラ神さまは暴れないご様子である。そのかわり,トレーニング不足がたたり,少し調子に乗って走ると,すぐに筋肉が攣りそうな感じがある。
30キロエイドを出て,歩いたり走ったりしながらのんびり進む。道の左手には,師走の佐世保の景色が広がっている。

ここからはしばらくそんなに登りはない。
時刻はもう午後1時を回っている。
やがて去年「ワープ」をした矢岳の郵便局のところへ到着する。今日はワープはしない。後ろから男女ペアのランナーが来て,追い越される。同じ趣味があるっていいですね。
で,こちらも小学校の弓張岳遠足のコースだったので記憶にあるけれど,実際に進んでみると,けっこうきついのぼりで,到底走れるかんじがしない。ちょっと試みに走ってみたが,すぐに筋肉が攣りそうになった。

あぶないあぶない。トレーニングしていないのだから無茶をしてはいけない。全ては自己責任なのである。
タラウマラ族と文明化されたランナーの対決を描いた「Born To Run」は,当時流行っていたニューエイジやスピリチュアルのムーブメントの影響が強くて,好き嫌いはあるかもしれないけれど,そこにあるのは,「まだまだ人間には能力が眠っている」という人間の潜在能力に対するポジティブな考え方である。そこに共感する。
新聞記事で読んだけれど,川内優輝選手のお母さんもランナーで,まだ小学生であった優輝少年に対して,毎日10キロを走らせたという話である。考えたらタラウマラ族を地でいくような話だ。歯を食いしばって走る癖のある川内選手の歯はぼろぼろだそうである。とある大会で,川内選手がゴール前にトイレに入って「大」をして,出てきて走ったがそれでもトップだったそうである。うん,いい話だ。
ぼくはトレーニングも積んでいないから無茶はしない。のんびりと進んでいく。12月の寝ぼけたような天気の空がそんなぼくをぼんやりと眺めている。ぼくは運動が嫌いな子であったし,成長してからもそうだった。デスクワーカーのぼくは47歳のあるとき,会社の階段を上っていて息が切れる自分に気がついて愕然となった。それから家の周りを散歩するようになり,ジョギングするようになり,3キロのマラソン大会に出て,10キロ,ハーフマラソンと距離を伸ばして,今はこんな大会に出るようになった。一つはあみりん氏の「駄マラニック」のホームページとであったことが大きい。ぼくはもともと「走るのが楽しいなんて頭がおかしい」と思っていた人間だ。それが「走るのがこんなに楽しそうな人たちがいる」ということを知った。そんなら,いっちょ,走ってみっぺ,と駄マラニックを走って,そのあと初めてのフルマラソン大会に出た。そんなぼくだからもともとスポーツとは全く無縁だしいまだに4時間が切れない。だけど,走る人の中にはこんな奴がいてもいいのではないかと思っている。
坂を上っていると,崖にほられた穴がある。これは戦時中の防空壕のあとだ。

前にも書いたけれど佐世保はもともと成り立ちからしてきな臭い面がある。もともと村だったこの地域が,町を飛ばして一足飛びに「市」に昇格したのは,明治時代に海軍の鎮守府が出来たことがきっかけである。リアス式海岸で奥まった入り江にあるこの場所は,軍の施設をおくのに適していた。そして軍が来たことによって発展してきた。だから,戦争末期にはごたぶんにもれず空襲を受けた。昭和20年6月29日,B29とグラマン戦闘機が来て,佐世保を徹底的な焼け野が原にしていった。弓張岳の頂上には今も高角砲が置かれていた跡があり,ぼくは遠足のときよく遊んだものである。だけど,高角砲もものの役に立たなかった。
佐世保は戦後も米海軍基地が置かれた。佐世保の入り江は,米軍基地と,佐世保重工業のドックと海上自衛隊が仲良く分け合っている。かつては1200トンの焼夷弾の雨を降らせたアメリカだが,今は,佐世保市民と米軍基地は友好的な関係を保っていて,「ニミッツパーク」なんて公園もでき,基地を開放するイベントの日などもある。あみりんの主催する駄マラニックには,去年,前の司令官が遊びに来てくれたこともあった。
そんなことを考えてつづらおれの急な坂道を登っていくと,鵜渡越(うどごえ)の峠に出た。
佐世保の観光名所は九十九島(くじゅうくしま)で,多島海の眺めが楽しめる。島は実際には99ではなく,208ある。佐世保の街中にみられる岩山が海に沈んだと思えばよい。この眺めが楽しめる場所を,大正時代に松尾良吉という実業家が開発しようと思い,鵜渡越まで直登する道を造った。急な山道だったに違いないが,観光で栄えたそうである。
戦後になり,バスが鵜渡越まで来るようになった。ぼくが子供のころ,弓張観光ホテルができ(いま「弓張の丘ホテル」があるところだ),観光名所となった。そのあと一時期観光が下火になったが,今は再び平和な観光都市としてやり直そうとしているところである。
九十九島の眺めが遠くに見えた。
鵜渡越でジュースを買っていたらバイク乗りの人に話しかけられる。「今日はなにかあっているんですか?」
「駄マラニックっていって,100人ぐらいが走っているんですよ。車やバイクの人には迷惑かけてるかもしれません」「いえいえ」などと和やかに話をして,鵜渡越から下る。

急な下り坂である。調子に乗って走ったら,それこそ膝を壊してしまいそうだ。慎重に下る。
ここを直登していた大正期の登山道はどれだけ厳しかったことか。
ヨタヨタと下ると,道は鹿子前(かしまえ)に出た。
ここで実は37キロのエイドがあったのだけれど,ぼくは見つけることができなかった。もと地元民なのに,どうしてミスばかりするのか。
話によれば,エイド食は最終エイドの定番「プチトマト」だったとか。
このあと,鹿子前を通って,道は佐世保重工業の造船ドックを横目に見ながら再び佐世保駅前に向かう。

レンガ造りの建物も残る歴史のある佐世保重工業だけれど,今は伊万里の造船所の子会社となっている。クレーンの中には歴史的に貴重なものもあるそうだ。
そこを歩いたり走ったりしていると,米海軍佐世保基地の前を通る。

神社の鳥居みたいなモニュメントが楽しい。たぶん,基地の人たちも地元のことを考えて共存していけるよう,いろいろ配慮をしているのだろうと思う。兵士たちの年齢は20そこそこだという。日本と違い実際に戦争をしているアメリカでは,いつどこかの戦地へ行き命を落とすかもわからない。
やはり平和がいちばんだ。
駅前に到着したのは午後3時ぐらい。別にタイムを競うような大会ではない(むしろ最後の人が一番偉い)ので,だいたい6時間と15分ぐらいで42キロあまりを走ったり歩いたりしたことになる。
ゴールでは,あみりん氏が待機していて,写真を撮ってくれる。
これを絵葉書にして,あとで家に送ってくれるのだ。思い出サービスである。
ゴール付近では,あみりん氏が知り合いの参加者と話をしていた。笑顔で,「もう来んな,っていわれたけんもう来んバイ」などと冗談を言っている。もともと駄マラニックは,氏が走友たちとあちこちを走っていたり,写真を撮ってホームページに乗せたのが始まりらしい。http://damaranic.com/ホームページをずっと下がっていくと,ちょうど年代記みたいにあみりん氏の歴史のあとがうかがえる。
今回,左膝の駄マラ神は一度も怒り出さなかった。やはり駄マラのペースが合っているからだろうか。
年内の駄マラはこれでおしまいである。来年も,楽しく,のんびりと!

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今年もよろしくお願いします。
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