さて、ぼくも来年3月で還暦だ。
還暦。
還暦はめでたいと言われる。
しかし、両親がそれぞれ62歳と67歳で亡くなっているぼくにしてみればやはり還暦は怖い。
あと何年生きられるのか。
還暦はめでたいというが所詮「老化」ではないか。
ろうかといえば、思い出すのは、小学校で「廊下を走らない!!」と注意されていた。
廊下は走ってはならない。
しかし皆さん!ランニングの世界は、60、70当たり前である。
廊下、じゃなくって、老化に対しては走るのが一番なのだ。老化は走れ!である。
というわけで、老化を走って対決するために、毎年恒例の「させぼフル」に行ってきた。
佐世保フルジョグトリップは、おなじみのあみりんこと網本氏が主宰するランイベントである。
速さこそ至上とされるランニングの世界に「遅いがエライ」という価値観を持ち込んだコペルニクス的転回の人である。
そして、このイベントは毎年12月の末の、「日本でいちばん(時期が)遅くて(速度が)遅いフル」なのであった。
さて、12月28日の朝5時に兵庫県西宮市を出て、いろいろ評判の悪くなった青春18きっぷ3日用1万円也で深夜11時に佐世保市にたどり着いた僕は、そのまま佐世保市のネットカフェ「快活クラブ」のマットルームにチェックインして泥のように眠った。そして、翌朝起きて、集合場所である佐世保駅前に向かったのでありました。
網本氏はテントの前を忙しく動き回って受付をしている。ジョグトリップは、基本、網本氏一人で開催しているのでいろいろ大変そうだ。
そして、エイドでのドリンクを注ぐためのコップは持参(紙コップ廃止)というエコな大会でもある。持っていない人には無料でくれる。そろそろランナーの人数が増えてきたので見回せば、皆さんシュッとしたランナー体形であり、僕のように、体調不良を言い訳にさぼってばかり、残業ごとに夜食名目で過剰にカロリーを摂取して完成したワガママボティランナーは見当たらない。ちぇっ、と思いながら、「別に健康だったら走る必要ないじゃん」とつぶやくアラ還おじさんでありました。

佐世保ジョグトリップは、駅前をスタートして、佐世保市の東側にある隠居岳(かくいだけ)を登り、最初のオアシス(エイド)に到着(13キロ)、そのあと隠居岳と連なっている烏帽子岳(えぼしだけ)まで登ったり下ったりしながら行き、烏帽子岳の「青少年の天地」という施設の近くで二番目のオアシス(エイド)がある(20キロ)。そこからは、僕のような「下り大好き」の底辺ランナーにとって極楽の下りが続く。そして、いったん隠居岳〜烏帽子岳をふもとまで降りて、それだけならばまあいいが、コースは何を思ったか、再び山登りをすべく、佐世保市の北側にある弓張岳(ゆみはりだけ)に向かうのであった。その上りのふもとあたりに、ボランティアのいるオアシス(有人エイド)がある(28キロ)。そこからの山登りのさいごに、鵜戸越え(うどごえ)という激坂を登りつめたところに、九十九島の素晴らしい眺望が楽しめる第3オアシス(エイド)がある(34キロ)。でそこからは、下り坂が好きな僕といってもほどがあるぞ、という激下り坂を経て、鹿子前に出て、恐竜のようなクレーンの群れや、アメリカっぽいゾーンを眺めながら港に沿って走り、スタート地点に戻ってくるのである。素晴らしい眺めと真面目に走ればたいへん肉体的にハードなコースなのであった。
だいたい、なぜ上り坂を走らなくてはならないのか、重力の法則に逆らって位置エネルギーを蓄えてどうするのかなどと考えているうちに、開会式が進み、ついにスタート時間の8時半。
ランナーの群れは佐世保駅前をスタートした。
僕は最後のほうにスタートし、しかも寒かったから途中でトイレに寄ったりしたせいで、先行するランナーの姿はいつの間にか見えなくなった。
だいたいそんなに急いでどうするのか、などと考えつつしばらく街中を走る。佐世保は、堆積岩の大地が削られてできたでこぼこした街並みである。宅地開発のためにだいぶ削られたが、注意深く観察すると、そういう町の表情ははっきりとわかる。
そんな街を抜けて、川を渡り、道路を走り、最初の山である隠居岳に向かう。
街中には、体育のときに使う白線引きで引いた「矢印」が、要所要所に描いてある。網本氏があらかじめ引いておいたもので、これがなければ基本的には道なりでよい。
間違わなければ、コースは隠居岳に向かう。

あの山が烏帽子岳〜隠居岳(かくいだけ)である。あれに上るのだ。高低差500m強、これはあの阿蘇カルデラスーパーマラソン級なのであった。ついでながら、烏帽子岳と隠居岳も、古い火山である。火口のあとは埋もれてしまっているけど、林の中を走っていると、火山活動の名残である赤土などが見える。
上り坂といえば思い出がある。これは昔、天草マラソンに出たときに、有森裕子さんがゲストランナーで走り、綱引きをしている感じで体を動かして上るという「綱引き走法」を伝授してくださったのだ。有森さんの「つーなーひーき!つーなーひーき!」という声は今でも坂道を走るとき、ぼくの脳内で流れ、自然手つきがつなを引くような感じになる。手を前後に動かしているとなぜか楽に登れるような気がする。手を上下に動かすのは志村けんのヒゲダンス(古い)だけど、前後に動かすのはつなひき走法である。
しかし、今回の上り坂はなかなかの難敵であり、つなひき走法がなかなか通じない。そこで僕が編み出したのが、「ジョグトリップ軍手」などの手袋をはめて、心臓に血を送り込むイメージでリズミカルに「にぎにぎ、にぎにぎ」をして走っていくという「心臓にぎにぎ走法」である。綱引きとにぎにぎを併用すれば、なんとか坂を登れる気がする。そうやって登っていくと、やはり素晴らしい眺めが開ける。


しかし、延々と続く登りに心がくじけて、歩くことになる。いや、ジョグトリップは歩いたっていいのだ。何なら自転車を持ってきて走ってもいいし、タクシーやバスを使ってもよい。それでもズルにはならないというルールだ。でも自分に負けるのは悔しいので、ひたすら下を向いて、自分の影と一緒に走る。
ここで編み出したのが、歩きと走りを交互に繰り返す「ランドセル走法」である。子供のころに記憶のある人もあるかもしれない。学校帰りに友達とじゃんけんをして、負けたほうが相手のランドセルをもって電柱から次の電柱まで運ぶ。そして次の電柱でじゃんけんをして、負けたほうが同様にランドセルを持つ。このルールを応用して、電柱から次の電柱までは走ることにし、電柱に着いたら次の電柱までは歩いてもよい、というのが「ランドセル走法」である(説明なしではどこがランドセルなのかは不明)。歩き続けるよりは、一部でも走りがあるので、自分の心に言い訳がたつのだ。しかし、たまに次の電柱が全くなかったりして、延々と走り続けることになったりする。
そういう各種走法を繰り返しつつ、第1のオアシスに到着した。
オアシスには、網本氏のラン仲間の方が待っていて、エイド食である河童巻きや、お茶やみかんをくださった。

こう寒いと、ランナーとしてもいろいろ近くなる。つまりトイレが必要になる。コンビニに入って買い物をしてトイレを使わせてもらう手もあるが、公衆トイレとしては、隠居岳の上りに入るあたりのダム(水源地)の近くの公園にある。それとこの第1オアシスのウォーカーズパーク(公園)にもある。
もういい加減のぼりに飽きたところであるけれど、第1オアシスを出ると再び上りがある。しかし、終わらない上りはない(名言)。不意に林を抜けると視界が開けて草原になり、行手の道が分かれている。そこを右に曲がるのだ。ここからコースはしばし下りになる。第2オアシスの烏帽子岳のほうに向かうのである。下ったあとはしばし平坦になる。山の裏側なので、右手に、はるかにふもとの景色が開けている。なだらかなアップダウンなのでそれほどきつくないし、練習しているランナーには気持ちよく走れる道である。アミューズメントパークのような場所を右手に見ながら、やがて第2オアシスに到着する。


ここのエイド食は、みたらし団子であった。平戸の有名な和菓子店の製品であり、みたらしのツユがたっぷりと入っている。これを飲み干さないといけないらしい。速くなくてもいいし、公共交通機関を使ったり、コースアウトしてショートカット(これもワープ)してもよいというたいへん自由な大会なのだけど、みたらしのツユは飲み干さなくてはならないという「鉄の掟」があるようであった。
第2オアシスの近くには青少年の天地という公共施設があり、普段はトイレを借りることができるが、年末なので開いていなかった。
第2オアシスを出ると、コースは烏帽子岳の西側を回って、山の田水源地方向へ下ってゆく。左手の林の木立の間からは、遠く佐世保港が見える。

まだまだ下りがずーっと続く。僕のようなワガママボディランナーには特に重力が味方してくれるので基本楽なのだがしかし、そろそろ足がついてこなくなる。
ほぼ降りきったあたりに山の田の水源地があり、その横の公園には公衆トイレがある。
国道を渡り、今度は弓張の上りになる。その始まりにあるのが第3エイド。


寒風にあったかい味噌汁が心に染みる。エイド食は稲荷ずし。駄マラニック時代からの名物エイド食であり、ついつい2個以上食べると腹がいっぱいになり走れなくなる。もっともこのボランティアエイドではやや小ぶりの稲荷ずしが出ていた。それとバラエティに富んだエイドを出していただいて、最後の上りに向けた元気が出てきた。ザラメのついた飴玉が懐かしい。
佐世保の街並みを見ながら登っていく。

実はぼくは佐世保の八幡小学校の出身なので、このあたりは、おなじみの景色だったはずなのだが、50年近く経つと、景色もずいぶん変わった。さらに言えば、この佐世保ジョグトリップのコースになっている烏帽子岳も弓張岳も、小学校の「鍛錬遠足」のコースだったなと思い出す。
弓張岳は戦時中、高射砲が備え付けてあったところで、大変見晴らしがよい。佐世保という市も、漁村であったのを入り組んだ入江の利点に目をつけて明治時代に旧海軍が鎮守府を設けたところから、市政が引かれて発展したところであり、戦後は米軍基地が置かれている。そんなわけなのだけど、今、世界情勢がやや緊張気味であるので、基地のまちとしては、平和を願わずにいられない。
平和が続くことと、あと上り坂が終わることを願いつつ激坂を登り、最終エイドに到着。
エイド食は餡子の入った大福でありました。


一応ゴールが午後5時予定なのだけれど、そろそろ3時を回っている。
ここからは日暮れの近い海が幻想的に見える。ふと、天孫降臨、などという言葉を連想した。

鵜戸越(うどごえ)は、交通の難所であり、今でも下りがとんでもない急坂で、阿蘇カルデラの最後の下りを思い出す。そろそろ疲れた足には厳しい。いくら下り坂が大好きなぼくでも限度というものがある。
しかし、痛みを我慢しつつ下ると、鹿子前に出る。
あとはゴールに向かうだけである。
佐世保は軍港で発展した街だけど、産業としては造船業を柱にしていた。SSK(佐世保船舶工業)の立ち並ぶクレーンと古めかしいレンガ造りの建物は、子ども心にもときめきの対象だった。
それも造船業の構造的な不況と新興国の追い上げのため振るわなくなり、今は伊万里の造船所の傘下に入っており、建物もいくつか解体されている。
けれど巨大なクレーンは、今見てもときめくものがあるなあ。

そう思いつつ、英語の並んだ海軍のゾーンなども抜けて、ゴール地点に戻ったのが午後4時半を回っていた。あみりん氏が、カメラを手に出迎えてくれる。この写真をアップして、各自でダウンロードして記念にするのだ。
ちなみにこの大会は「遅いがエライ」大会なので、一番遅くゴールした人(時間内)に「グレートジョグトリッパー」の称号が与えられる。僕も狙っているのだけど、なかなかうまくゆかない。この時も残念ながら成らず、でありました。
佐世保ジョグトリップを振り返って、今回も時間内に完走できたというのが満足でありました。もちろんタイムとかそういうのは論外だけど、もう、随分前から僕は僕だけをライバルに走ることにしている。還暦を超えても、老化に立ち向かって、ろうかをはしってゆきたいな、と思った次第でした。
皆様よいお年を。
(2024.12.31記。紅白歌合戦を見ながら)
還暦。
還暦はめでたいと言われる。
しかし、両親がそれぞれ62歳と67歳で亡くなっているぼくにしてみればやはり還暦は怖い。
あと何年生きられるのか。
還暦はめでたいというが所詮「老化」ではないか。
ろうかといえば、思い出すのは、小学校で「廊下を走らない!!」と注意されていた。
廊下は走ってはならない。
しかし皆さん!ランニングの世界は、60、70当たり前である。
廊下、じゃなくって、老化に対しては走るのが一番なのだ。老化は走れ!である。
というわけで、老化を走って対決するために、毎年恒例の「させぼフル」に行ってきた。
佐世保フルジョグトリップは、おなじみのあみりんこと網本氏が主宰するランイベントである。
速さこそ至上とされるランニングの世界に「遅いがエライ」という価値観を持ち込んだコペルニクス的転回の人である。
そして、このイベントは毎年12月の末の、「日本でいちばん(時期が)遅くて(速度が)遅いフル」なのであった。
さて、12月28日の朝5時に兵庫県西宮市を出て、いろいろ評判の悪くなった青春18きっぷ3日用1万円也で深夜11時に佐世保市にたどり着いた僕は、そのまま佐世保市のネットカフェ「快活クラブ」のマットルームにチェックインして泥のように眠った。そして、翌朝起きて、集合場所である佐世保駅前に向かったのでありました。
網本氏はテントの前を忙しく動き回って受付をしている。ジョグトリップは、基本、網本氏一人で開催しているのでいろいろ大変そうだ。
そして、エイドでのドリンクを注ぐためのコップは持参(紙コップ廃止)というエコな大会でもある。持っていない人には無料でくれる。そろそろランナーの人数が増えてきたので見回せば、皆さんシュッとしたランナー体形であり、僕のように、体調不良を言い訳にさぼってばかり、残業ごとに夜食名目で過剰にカロリーを摂取して完成したワガママボティランナーは見当たらない。ちぇっ、と思いながら、「別に健康だったら走る必要ないじゃん」とつぶやくアラ還おじさんでありました。

佐世保ジョグトリップは、駅前をスタートして、佐世保市の東側にある隠居岳(かくいだけ)を登り、最初のオアシス(エイド)に到着(13キロ)、そのあと隠居岳と連なっている烏帽子岳(えぼしだけ)まで登ったり下ったりしながら行き、烏帽子岳の「青少年の天地」という施設の近くで二番目のオアシス(エイド)がある(20キロ)。そこからは、僕のような「下り大好き」の底辺ランナーにとって極楽の下りが続く。そして、いったん隠居岳〜烏帽子岳をふもとまで降りて、それだけならばまあいいが、コースは何を思ったか、再び山登りをすべく、佐世保市の北側にある弓張岳(ゆみはりだけ)に向かうのであった。その上りのふもとあたりに、ボランティアのいるオアシス(有人エイド)がある(28キロ)。そこからの山登りのさいごに、鵜戸越え(うどごえ)という激坂を登りつめたところに、九十九島の素晴らしい眺望が楽しめる第3オアシス(エイド)がある(34キロ)。でそこからは、下り坂が好きな僕といってもほどがあるぞ、という激下り坂を経て、鹿子前に出て、恐竜のようなクレーンの群れや、アメリカっぽいゾーンを眺めながら港に沿って走り、スタート地点に戻ってくるのである。素晴らしい眺めと真面目に走ればたいへん肉体的にハードなコースなのであった。
だいたい、なぜ上り坂を走らなくてはならないのか、重力の法則に逆らって位置エネルギーを蓄えてどうするのかなどと考えているうちに、開会式が進み、ついにスタート時間の8時半。
ランナーの群れは佐世保駅前をスタートした。
僕は最後のほうにスタートし、しかも寒かったから途中でトイレに寄ったりしたせいで、先行するランナーの姿はいつの間にか見えなくなった。
だいたいそんなに急いでどうするのか、などと考えつつしばらく街中を走る。佐世保は、堆積岩の大地が削られてできたでこぼこした街並みである。宅地開発のためにだいぶ削られたが、注意深く観察すると、そういう町の表情ははっきりとわかる。
そんな街を抜けて、川を渡り、道路を走り、最初の山である隠居岳に向かう。
街中には、体育のときに使う白線引きで引いた「矢印」が、要所要所に描いてある。網本氏があらかじめ引いておいたもので、これがなければ基本的には道なりでよい。
間違わなければ、コースは隠居岳に向かう。

あの山が烏帽子岳〜隠居岳(かくいだけ)である。あれに上るのだ。高低差500m強、これはあの阿蘇カルデラスーパーマラソン級なのであった。ついでながら、烏帽子岳と隠居岳も、古い火山である。火口のあとは埋もれてしまっているけど、林の中を走っていると、火山活動の名残である赤土などが見える。
上り坂といえば思い出がある。これは昔、天草マラソンに出たときに、有森裕子さんがゲストランナーで走り、綱引きをしている感じで体を動かして上るという「綱引き走法」を伝授してくださったのだ。有森さんの「つーなーひーき!つーなーひーき!」という声は今でも坂道を走るとき、ぼくの脳内で流れ、自然手つきがつなを引くような感じになる。手を前後に動かしているとなぜか楽に登れるような気がする。手を上下に動かすのは志村けんのヒゲダンス(古い)だけど、前後に動かすのはつなひき走法である。
しかし、今回の上り坂はなかなかの難敵であり、つなひき走法がなかなか通じない。そこで僕が編み出したのが、「ジョグトリップ軍手」などの手袋をはめて、心臓に血を送り込むイメージでリズミカルに「にぎにぎ、にぎにぎ」をして走っていくという「心臓にぎにぎ走法」である。綱引きとにぎにぎを併用すれば、なんとか坂を登れる気がする。そうやって登っていくと、やはり素晴らしい眺めが開ける。


しかし、延々と続く登りに心がくじけて、歩くことになる。いや、ジョグトリップは歩いたっていいのだ。何なら自転車を持ってきて走ってもいいし、タクシーやバスを使ってもよい。それでもズルにはならないというルールだ。でも自分に負けるのは悔しいので、ひたすら下を向いて、自分の影と一緒に走る。
ここで編み出したのが、歩きと走りを交互に繰り返す「ランドセル走法」である。子供のころに記憶のある人もあるかもしれない。学校帰りに友達とじゃんけんをして、負けたほうが相手のランドセルをもって電柱から次の電柱まで運ぶ。そして次の電柱でじゃんけんをして、負けたほうが同様にランドセルを持つ。このルールを応用して、電柱から次の電柱までは走ることにし、電柱に着いたら次の電柱までは歩いてもよい、というのが「ランドセル走法」である(説明なしではどこがランドセルなのかは不明)。歩き続けるよりは、一部でも走りがあるので、自分の心に言い訳がたつのだ。しかし、たまに次の電柱が全くなかったりして、延々と走り続けることになったりする。
そういう各種走法を繰り返しつつ、第1のオアシスに到着した。
オアシスには、網本氏のラン仲間の方が待っていて、エイド食である河童巻きや、お茶やみかんをくださった。

こう寒いと、ランナーとしてもいろいろ近くなる。つまりトイレが必要になる。コンビニに入って買い物をしてトイレを使わせてもらう手もあるが、公衆トイレとしては、隠居岳の上りに入るあたりのダム(水源地)の近くの公園にある。それとこの第1オアシスのウォーカーズパーク(公園)にもある。
もういい加減のぼりに飽きたところであるけれど、第1オアシスを出ると再び上りがある。しかし、終わらない上りはない(名言)。不意に林を抜けると視界が開けて草原になり、行手の道が分かれている。そこを右に曲がるのだ。ここからコースはしばし下りになる。第2オアシスの烏帽子岳のほうに向かうのである。下ったあとはしばし平坦になる。山の裏側なので、右手に、はるかにふもとの景色が開けている。なだらかなアップダウンなのでそれほどきつくないし、練習しているランナーには気持ちよく走れる道である。アミューズメントパークのような場所を右手に見ながら、やがて第2オアシスに到着する。


ここのエイド食は、みたらし団子であった。平戸の有名な和菓子店の製品であり、みたらしのツユがたっぷりと入っている。これを飲み干さないといけないらしい。速くなくてもいいし、公共交通機関を使ったり、コースアウトしてショートカット(これもワープ)してもよいというたいへん自由な大会なのだけど、みたらしのツユは飲み干さなくてはならないという「鉄の掟」があるようであった。
第2オアシスの近くには青少年の天地という公共施設があり、普段はトイレを借りることができるが、年末なので開いていなかった。
第2オアシスを出ると、コースは烏帽子岳の西側を回って、山の田水源地方向へ下ってゆく。左手の林の木立の間からは、遠く佐世保港が見える。

まだまだ下りがずーっと続く。僕のようなワガママボディランナーには特に重力が味方してくれるので基本楽なのだがしかし、そろそろ足がついてこなくなる。
ほぼ降りきったあたりに山の田の水源地があり、その横の公園には公衆トイレがある。
国道を渡り、今度は弓張の上りになる。その始まりにあるのが第3エイド。



寒風にあったかい味噌汁が心に染みる。エイド食は稲荷ずし。駄マラニック時代からの名物エイド食であり、ついつい2個以上食べると腹がいっぱいになり走れなくなる。もっともこのボランティアエイドではやや小ぶりの稲荷ずしが出ていた。それとバラエティに富んだエイドを出していただいて、最後の上りに向けた元気が出てきた。ザラメのついた飴玉が懐かしい。
佐世保の街並みを見ながら登っていく。

実はぼくは佐世保の八幡小学校の出身なので、このあたりは、おなじみの景色だったはずなのだが、50年近く経つと、景色もずいぶん変わった。さらに言えば、この佐世保ジョグトリップのコースになっている烏帽子岳も弓張岳も、小学校の「鍛錬遠足」のコースだったなと思い出す。
弓張岳は戦時中、高射砲が備え付けてあったところで、大変見晴らしがよい。佐世保という市も、漁村であったのを入り組んだ入江の利点に目をつけて明治時代に旧海軍が鎮守府を設けたところから、市政が引かれて発展したところであり、戦後は米軍基地が置かれている。そんなわけなのだけど、今、世界情勢がやや緊張気味であるので、基地のまちとしては、平和を願わずにいられない。
平和が続くことと、あと上り坂が終わることを願いつつ激坂を登り、最終エイドに到着。
エイド食は餡子の入った大福でありました。


一応ゴールが午後5時予定なのだけれど、そろそろ3時を回っている。
ここからは日暮れの近い海が幻想的に見える。ふと、天孫降臨、などという言葉を連想した。

鵜戸越(うどごえ)は、交通の難所であり、今でも下りがとんでもない急坂で、阿蘇カルデラの最後の下りを思い出す。そろそろ疲れた足には厳しい。いくら下り坂が大好きなぼくでも限度というものがある。
しかし、痛みを我慢しつつ下ると、鹿子前に出る。
あとはゴールに向かうだけである。
佐世保は軍港で発展した街だけど、産業としては造船業を柱にしていた。SSK(佐世保船舶工業)の立ち並ぶクレーンと古めかしいレンガ造りの建物は、子ども心にもときめきの対象だった。
それも造船業の構造的な不況と新興国の追い上げのため振るわなくなり、今は伊万里の造船所の傘下に入っており、建物もいくつか解体されている。
けれど巨大なクレーンは、今見てもときめくものがあるなあ。

そう思いつつ、英語の並んだ海軍のゾーンなども抜けて、ゴール地点に戻ったのが午後4時半を回っていた。あみりん氏が、カメラを手に出迎えてくれる。この写真をアップして、各自でダウンロードして記念にするのだ。
ちなみにこの大会は「遅いがエライ」大会なので、一番遅くゴールした人(時間内)に「グレートジョグトリッパー」の称号が与えられる。僕も狙っているのだけど、なかなかうまくゆかない。この時も残念ながら成らず、でありました。
佐世保ジョグトリップを振り返って、今回も時間内に完走できたというのが満足でありました。もちろんタイムとかそういうのは論外だけど、もう、随分前から僕は僕だけをライバルに走ることにしている。還暦を超えても、老化に立ち向かって、ろうかをはしってゆきたいな、と思った次第でした。
皆様よいお年を。
(2024.12.31記。紅白歌合戦を見ながら)
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