2013年08月19日
こちらで、「ドラマ曹操」新ブログ開始しました。
よろしくお願いします!(2013.9.2より)
こんばんは!
『三国志 Three Kingdoms』ストーリーテラーの哲舟です。
みなさん、大変ご無沙汰しております!お元気でいらっしゃいますか?
「BSフジ」での放送終了から、1年が経ってしまいましたが、
今春から始まった「チャンネル銀河」での本作放送を
楽しんでおられた方もいらっしゃるかと思います。
さて、今夜改めて更新したのは他でもありません!新しい三国志ドラマのお知らせです。
その名もドラマ「曹操」 2013年9月4日発売。
タイトルの通り、曹操を主役に据えた、全41話の長編ドラマです。
曹操は本作でも非常に魅力的に描かれていましたが、
新作「曹操」では、より多面的に彼の魅力が描かれます。
曹操の幼少期(子役も登場!)から、袁紹との「官渡の戦い」の終幕までを描いたもので、
『三国志 Three Kingdoms』では描かれなかったエピソードや、
未登場だった典韋、曹安民、張邈(ちょうばく)、蔡文姫といった人物も活躍します。
公式サイトでは、予告編も見ることができますので、
まずはご覧になってみてください。
新作「曹操」は、今のところブルーレイでの販売&DVDレンタルのみで、
テレビ放映は決まっていないのですが、発売に合わせて、
わたくし哲舟が、また新たなブログで全話解説を務めさせていただきます。
http://blog.livedoor.jp/sousou_drama/
こちらで、新ブログ開始します。よろしくお願いします!
あ、最後にもうひとつ!
ツイッターの新作「曹操」公式アカウントでは、
主人公である曹操殿が自ら、ほぼ毎日ツイートをされています。
良かったら、ぜひこちらもチェック&フォローしてみてください!
https://twitter.com/sousou_drama
2012年08月14日
こんばんは!
『三国志 TK』ストーリーテラーの哲舟です。
昨日をもちまして、BSフジによる全95話の放送が終了しました。
ひとまずご視聴お疲れ様でした!
みなさまお待ちかねの「人気投票」の結果が出ました。
楽しみにしていらっしゃる方が多いと思うので、
さっそく、「人物篇」から参りましょう。
もったいぶらずに、1位から発表してしまいますね。
さあ、有効票数766票の中で、栄えある頂点に輝いた人は?!
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第1位・・・諸葛亮 94票
これまでいろいろな諸葛亮を見ましたが、今後私の中ではこのドラマの諸葛亮像で固定されます。 万人が想う諸葛亮像を足して足しっぱなしにしたよう。 しかし、キラキラと余裕の笑顔だったのは最初の頃だけ。 いつの頃からか…荊州を争う頃からですかね…眉間にシワがより難しい表情ばかりになりました。 なにより神がかり的な存在としては描かれず、苦悩し、ときに感情を露わにする人間臭さが新鮮でした。 その分、長い北伐の苦闘と苦悩は見ているこちらも眉間にシワが寄り青息吐息でした。(きらつぶさん)
みなさんが投票するだろうから私はあえて投票しなくてもいいかなぁ、などと思っていましたが、ドラマ終盤を見ていたらやっぱりこの人をはずすことはできなくなりました。「万能の人」のイメージには魅かれなくとも「悲運の人」の側面を知るとやはり……。(Kaorindさん)
上方谷のシーンは圧巻でした。結末が分かっていても「よし!勝てるぞ!!」と思ってしまいました。(太刀一筋さん)
哲舟より・・・やっぱり、ダントツ。この人は三国志の中でも別格な感じがします。きらつぶさんが書いておられるように、本作では超人的な活躍ではなく、「人間」孔明の部分がクローズアップされました。個人的には、漢中以降は笑顔があまり見られず物憂げな表情ばかりになってしまったのは、気苦労を表すためとはいえ、ちょっと残念だったように思います。
第2位・・・魯粛 82票
前にレッドクリフで見た時の彼は、孔明と周瑜の間で板挟みにされ慌てふためく人物のようなイメージがありましたが、本作では板挟みでありながらも、自分の意見もしっかりと持ち、それでいて相手の意見も尊重する素晴らしい人物なのだと知りました。 (けい さん)
カリスマ性も無く存在感の薄い風貌で最初は温厚なイメージだったが、いざとなると、どんな敵をも圧倒するほどの威圧感があり、温和と剛直のコントラストにおける演技力はドラマの中でNo1だった。(一三国志ファンさん)
哲舟より・・・驚かれたんじゃないでしょうか? なんと魯粛が第2位です! でもまあ、本作を見続けてきた方なら、納得かもしれませんね。みなさんが、それだけ「しっかり」とドラマを観てくださっていたんだなと思わせる結果だと思います。謙虚だけど、やるべきときはやる。「自分も魯粛みたいな人になりたい」と思わせる名演でした。三国志TK版・助演男優賞を差し上げたいです。
3位・・・趙雲 77票
文句なしでかっこよすぎる!! 元々好きだったけどこの作品の趙雲の凛々しい眼差しに射抜かれて、ますます好きになってしまいました。 まさに白馬騎士!!守ってもらいたいww (ゆつき りょうさん)
特に阿斗を救出したシーンは感涙ものでした。演じられたニエ・ユエンさんが、生真面目な性格の趙雲のイメージにピッタリでした。(kimuchi さん)
哲舟より・・・途中までは1位を突っ走っていたのですが、終盤でやや失速。それでも「武人」としては堂々の1位を獲得。私は個人的に、関羽や張飛のように欠点を持った人物のほうが好きなのですが、だからといって趙雲は嫌いになれません。嫌味な所がまったくないのが強みですよね。あ、みなさん意外に目立つのが「超」雲という入力ミスです。馬超の「ちょう」ではなくて、「趙」雲ですよ!(笑)
4位・・・曹操 73票
本作の曹操様はお茶目で好きです。官渡だったかなぁ、「にゃはははは」と笑いながらパタパタ走ってる姿がかわいい! 吹替えじゃないバージョンを見て、チェンさんの声の若さに驚きました。吹替えを聴き慣れていたので、イメージがガラっと変わりました。前半の青年期壮年期の曹操様には、若々しい声の原語版が合いますね。(えいぶさん)
喜怒哀楽のあり方が愉快で、とにかく可愛いです。 私は頭の良い人が好きなのですが、怒ってぶちまけたお椀の中身をちゃんと拾って食べたりするところも良いなぁと(笑) (りょうこさん)
哲舟より・・・まさかのベスト3落ち! 中盤ぐらいから人気投票をやっていれば、間違いなく孔明とトップを争ったでしょう。しかし、本作の曹操は古今類まれな彼の「多面性」を上手に表していたと思います。食事をするシーンや、いきなり放尿をするシーンなど、妙に俗っぽい描写も面白かったですね。
5位・・・荀彧(じゅんいく) 46票
この荀彧という軍師は硬派な雰囲気の魏において、ズバ抜けた才能を余す事なく発揮しながらもソフトで観る者を癒してくれ非常に大好きなキャラです。自ら命を絶つシーンは泣かされました (ねこのしたさん)
「丞相っ!~であります!!」 明快で流暢な語りの気持ちの良いこと!切れ者の曹操だけでなく 体育会系の許褚の心をも掴む頼もしさ。 どしっとした雰囲気の役者さんでイメージぴったりです。 最期は痛ましい。あの状況で信念を貫ける強さが立派でした。 荀彧の死もまた寂しかったです。 (りんどうさん)
哲舟より・・・己の信念を貫いたがために迎える、その悲劇的な最期が共感を呼ぶようですね。この人のファンが昔に比べ、三国志好きの間で急増しているのですが、最近その理由がわかった気がします。本作の荀彧はファンの期待以上の名演だったのではないでしょうか。
第6位・・・司馬懿 44票
その人物像は本作のオリジナルとのことですが、この人なくしてはこのドラマの面白さは半減。 このニーターホンというキャスティング、凄いです。 この司馬懿こそ、智絶にして臥龍。とことん臥薪嘗胆して最後に勝ちました。(ココさん)
今までのイメージが一転して好きになりました。孔明の木像に驚いて撤退した後の恥辱だと言った転げ回るシーンを始めとして可愛いと思えるシーンがいくつもありました。また部下達に慕われるなど人望があるのも良かったです。上方谷のくだりは司馬懿のかっこよさが際立っていました。司馬懿がかっこいいので孔明の対決も見ごたえがありました。孔明の好敵手でした。 (子敬ではなく敬子 さん)
哲舟より・・・不気味な雰囲気に、最初は嫌悪感(?)を覚えながら「だんだん好きになってきた」というコメントが多かったようです。私もその一人で、一度見たら忘れられないアクの強さに魅了され、出てこない回が物足りなく思えるほどでした(笑)。まさに噛めば噛むほど味が出る、見れば見るほど底の深さが感じられる役者で、唯一無二の司馬懿像を作りあげてくれたと思います。予想したとおり途中まで票が伸びなかったのですが、終盤からの追い上げで堂々の6位。
第7位・・・劉備 36票
魅力的な方です。特別、関羽のように武芸に長けている訳でもない、孔明のように知略に長けている訳でもない。なのに、どこかに惹かれてしまう。関羽、張飛、趙雲、そして孔明などの名だたる人物達が最期のその時まで、慕い続けた理由が分かる気がします。 亀の甲羅で占いするなんて、かわいすぎる。三兄弟で仲良く手をつないで退場するなんてかわいすぎる!!反して、いつもは物腰柔らかなのに、いざ兄弟や趙雲、孔明が危ういとなってくると態度が一変するところも大好きです。 夷陵の戦いでは、趙雲や孔明の進言も聞かずに暴走気味でしたが、それも兄弟を思っての仁徳の深さ故。 その場にいるだけで、こんなにも人々を惹きつけてしまう君主ってそうそういるものじゃないです!! わが君、劉備殿万歳!!(翔さん)
哲舟より・・・どんなに我儘でも頑固でも、不思議とついていきたくなる劉備という人の魅力。初期の頃は無口で無表情で、「次は何をやるんだろう?」という不気味さや物珍しさ、自ら剣をとって闘うところも良かった。これまでに見てきた中で最高の劉備像が見られたように思います。数多の勇将、知将を抑えての7位。
第8位・・・周瑜 30票
本作での周瑜は、横山三国志以上に、孔明を意識しすぎていたように見えました。それだけではなく、呉の中でも悪者みたいに描かれており、何か見ていて周瑜が可愛そうになりました。 ですが、最期の孫権との会話でますます、好きになりました。(北国のクロネコ♂ さん)
哲舟より・・・野心家でありながら、孫呉のために尽くすも主君からは疎まれるという難しい役柄。よく演じられていたと思います。妻の小喬とも別れてしまうことで悲劇性が強調され、その最期は本当に涙を誘いました。あ、一緒に映っている黄蓋には残念ながら1票も入りませんでしたが(笑)、程普とともに孫呉の重鎮たる良い存在だったと思います。
第9位・・・陳宮 28票
呂布を放っておけない陳宮はお母さんのようで微笑ましい(´ω`*)徐州を占拠した時は嬉しそうでしたね。 最強の武勇を持つ呂布と陳宮の知力は良い組み合わせのように思います。公台先生にはもっと活躍してもらいたかった。 「我 人に背くとも、人 我に背かせじ」を聞いた時から、曹操とは決別していたのですね。最後まで意志を貫きました。本当に惜しい人です (やみねさん)
根本的に考えが違う人間を死ぬほど拒絶する気持ちとされる気持ち、両方一度によくわかりました。 (朱美さん)
哲舟より・・・物語序盤の名脇役。曹操を殺すチャンスがありながら殺さず、最後は曹操の必死の嘆願を受け入れることなく死を選ぶ。人生そのものが、世の中への問いかけのように思えます。見事でした。同じ「軍師」という立場で見た場合、許攸(4票)との対比が面白いです。
第10位・・・曹丕 27票
最初は、優しげで頼りなげなお坊ちゃん、かと思いましたが、さにあらず、弟殺し、中国のカイン?(史実は違いますよね?)しかし自分が何をすべきかをわきまえ、人の言う事は素直に聞き、年を重ねる毎に成長し、立派な皇帝になりましたね。特に感動したのが、最期のシーン、病気だった事を隠していた事を告白、つまり一切の甘えを断ち、残された時間が少ないと知りながら、頑張っていたという事がわかり、最後に流した一筋の涙に、思わず惚れてしまいました(えるさん)
酷い奴だ!と思うのに何故か嫌いになれない。寧ろドラマを見ていくうちに株が上がった不思議な存在。英雄や奇才では無いけれど、その人間臭さが良かったのかもしれない。(もくぎゅうさん)
哲舟より・・・原作では人物像がハッキリしないし、ひたすら冷酷なイメージが先行していたこの人ですが、本作では味のある人に仕上がったと思います。まりあさんのおっしゃる通り、最初のころの司馬懿との関係は、本当に、のび太とドラえもん(笑)。
さて、いかがだったでしょうか?
本当は役者名も掲載するつもりだったのですが、時間の都合で割愛します。
特別に「拍手欄」からいただいた方のコメントも含め、
みなさんから頂いたご意見を数点、引用させていただきましたが、
ここに挙げた以外にも、素晴らしい回答がたくさんありましたので、
人気投票のコメント欄を公開にしてありますので、ぜひご覧いただきたいと思います。
引き続き11位~20位をまとめて発表します。
関羽、呂蒙、龐統(ほうとう)、孫権、
魏延、呂布、張飛、陸遜、張遼、貂蝉
あと一息でベスト10に及ばなかった人たち。武将タイプの人物が多く入っていますね。関羽や張飛は、最初は良かったのですが、やはり晩節を汚したことが強調されていたためにこの位置に甘んじてしまったようです。関羽は、「身長の低さ」を残念に思う声がありました。関羽、風格や雰囲気はすごく良かったんですけどね。
16位の呂布は、第1部の主役のひとりとして新たな呂布像を演じてくれましたが、あまり猛将らしくない線の細さや、いかんせん退場が早過ぎたのが災いしたか、思ったほど伸びませんでした。19位の張遼は、後半に全然登場しなかったのが残念ですね。「合肥の戦い」を描いてくれれば・・・残念。貂蝉が紅一点のベスト20入りを果たしているのは見事! それから魏延、呂蒙、陸遜の善戦が光ります。龐統や孫権は、もう少し上に行くかな、と思いましたが出番が少なさが災いしたか及ばず。
以下、複数票を獲得した人たちを、順不動で挙げておきます。
許攸 曹仁 孫策 劉禅 孫小妹 黄忠
姜維 孫乾 許褚 孫堅 董卓 馬良 馬岱
呉国太 献帝 静姝 馬謖 李厳 袁紹
馬超 小喬 徐庶 周倉 関平 郭嘉 李儒
王允 張任 司馬昭 曹植 田豊 劉琦 呂伯奢
徐晃 甘夫人 曹沖 廖化 法正 邢道栄
そして、中にはこのようなユニーク回答も。
「お馬さんたち」 「63話で張松に賄賂を要求する門番」 「曹一族に仕える宦官」 「袁術の軍師(役名不明)」
いやいや、いずれもこだわりを感じて素晴らしい着眼点だと思います。とくに「63話で張松に賄賂を要求する門番」は、色々なところに使いまわされているので、毎回どこに出てくるか探すのが楽しみだという方もいらっしゃいましたね。
・・・以上、人物篇を発表しましたが、みなさんの予想は当たりましたでしょうか?
まあ、好き嫌いや思い入れは人それぞれです。順位は気にしないでくださいね。
私、哲舟が好きな人物に対してのご質問もいただいていたので、
この場をお借りして「私が選ぶ6人」を紹介しておきましょう。
・劉備 ・司馬懿 ・曹仁 ・馬良 ・張飛 ・袁術
以上です。あくまで本作においての好きな人物ですが。
あんまり面白くない回答で、すみません・・・(笑)。
とくに曹仁は、前半の曹操軍では重鎮として光っていたと思います。
32話で見せた、まさに猛将たる筋肉美も見事の一言でした。
馬超と戦ったときの許褚(きょちょ)にも期待したのですが、脱ぎませんでしたね(笑)。
馬良は、関羽にも劉備にも助言を聞いてもらえない可哀想な役回りでしたが、
それでも健気に努力する姿に胸打たれたものです。
曹仁も馬良も、いつの間にかいなくなっていたのは残念でした。
同じく地味な役回りですが、孫乾とか呉の名将・韓当、
初期の頃にいた李儒や王允あたりも好きです。
逆に「もっと見たかった、活躍が物足りなかったな・・・」と感じた人も何人かいました。
魏では、先ほど挙げた張遼のほか、郭嘉、夏侯惇、夏侯淵。
呉は孫策、甘寧、周泰。蜀では姜維、法正、関興。
他勢力では公孫瓚(さん)、高順(呂布配下)、紀霊(袁術配下)あたりでしょうか?
とくに、第25話で関羽と互角に戦った夏侯惇、出番がこの1回限りだったのは惜しい限り。
ではでは、次に「ストーリー篇」に参ります。
こちらもまずは、ベスト10からいきますね。
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第1位・・・36話 長坂坡の戦い 48票
いやあ、強い強い。ダントツの1位でした。人物投票で趙雲に入れた方が、セットで投票したことでこの結果になりました。趙雲の一騎駆けはもちろんですが、張飛の大喝や、劉備が趙雲を迎える場面も見逃せませんね。戦闘シーンは、よくぞ撮影したなあ、と思わされました。
・・・つづいて第2位ですが、なんと3話が同数で並びました!
話数が若い順から紹介していきます。
第2位・・・18話 呂布の死 24票
ドラマ序盤、第一部のラストを飾るのがこの回。乱世の申し子、呂布の最期と貂蝉の愛を描いています。その後の陳宮の処刑シーンにおける曹操とのやりとりも理由に多くあがりました。やはり陳宮に投票された方は、もれなくこの回を選んでおられましたね。
第2位・・・33話 三顧の礼 24票
劉備と孔明の関係を語る上では外せない回ですね。このときに隆中を3度も訪ねた劉備の熱意、それに応えた孔明の決断は、間違いなく時代を動かしました。孔明の庵周辺の、桃源郷のような美しさも印象的でした。
第2位・・・42話 赤壁の戦い 24票
三国志前半のクライマックス。曹操軍が火に包まれて壊滅し、孫・劉連盟の歴史的な勝利が描かれました。戦闘の描写もさることながら、その後に華容道を敗走する曹操と関羽のやりとりを理由に挙げる方が多くみられました。
第5位・・・93話 上方谷の火、消える 19票
あと一歩で司馬懿を倒すところまでいきながら、天運に恵まれなかった孔明。物事は最後まで何が起きるかわからないということを教えてくれた回です。孔明が最後の心血を注いだ見事な策略、みっともなく慌てふためきながらも、最後は潔く死のうとする司馬懿や魏の将兵たちに対する称賛が目立ちました。まさに大詰めにふさわしい手に汗握る展開が描かれた回でした。
第6位・・・27話 官渡の戦い 18票
写真は5位までにしようかと思ったのですが、懐かしくも未使用の写真があって、やっぱり載せてしまいたくなりました(笑)。戦場とは思えぬ曹操の落ち着き払った振舞い、袁紹を見事に騙して道化師のように自陣へ帰る姿はインパクト大でしたね。
以下、15位まではこのようになっています。
第6位・・・40話 草船で矢を借りる 18票
第8位・・・73話 曹操薨去 14票
第8位・・・66話 落鳳坡 14票
第10位・・・94話 星落ち、五丈原に逝く 13票
第11位・・・83話 白帝城に孤を託す 12票
第12位・・・61話 曹丕に罪を問う 11票
第12位・・・56話 再び周瑜を怒らせる 11票
第12位・・・72話 麦城に敗走す 11票
第15位・・・37話 儒者たちとの舌戦 10票
うーん、ごめんなさい。人物篇と同様に、みなさんのコメントも
掲載させていただきたかったのですが、時間の関係で無理でした。
人気投票のコメント欄でご覧いただければ幸いです・・・。
ご参考ではありますが、質問もありましたので、
私個人が傑作に数えるストーリーも6つ、掲載させていただきます。
( )は、投票いただいた数です。
4話「関羽、華雄を斬る」(3) 15話「轅門(えんもん)に戟を射る」(3)
23話「関羽 三事を約す」(3) 30話「曹操、河北を平らぐ」(5)
51話「再び荊州を求める」(7) 56話「再び周瑜を怒らせる」 (11)
ちょっとばかり、前半に偏ってしまっていますが(笑)、
個人的に、思い入れのある人物や場面は前半に多いんですよね・・・。
とくに3~4話あたりで十八鎮諸侯が次々と集うあたりは、わくわくするし、
呂布が存命のころの群雄割拠の状態は賑やかで面白いと感じます。
この投票数からも分かるように、ストーリーは票が割れました。
みなさん、それぞれに好きな回への思い入れを強く感じた次第です。
さて・・・
以上で人気投票の発表を終わります。
今年の4月からドラマ三国志TKの全話放送に合わせて
綴ってきたこのブログですが、本日をもって筆を置くこととなります。
みなさん、楽しんでいただけたでしょうか?
私は、と申しますと、とても楽しく綴ることができました。
ドラマと同時進行という形のブログですから、
なによりも多くの三国志ファン、ドラマファンのみなさんと、
リアルタイムに楽しみを共有できたことは無上の喜びです。
4ヶ月半という期間、長かったようで終わってみるとやっぱり短かったと感じます。
正直、平日毎日更新は予想したよりも大変だったのは確かですが、
愛する三国志のことが毎日書けるわけですから、
大変さより、楽しさ、嬉しさを感じることのほうが多かったですね。
中でも、いちばん嬉しかったのは、今回のBS放送およびこのブログが
きっかけで三国志ファンになった!という方が何人かいらしたことです。
三国志ファンのすそ野を、多少なりとも広げることができたことは、
一生懸命つづってきた甲斐があったというか、物書き冥利に尽きます。
時間がなくて、くじけそうになる時もありましたが、
日々たくさんのコメントや拍手をいただき、大変励みになりました。
執筆のさなか、温かいコメントを読んで涙が出たこともありました。
今夜も、皆さんのコメントを読み返して泣きます(笑)。
以後、私は何か特別な機会がない限り、当ブログ上ではレスポンスができませんが、
いただいたコメントには必ず目を通したいと思っています。
まだ回答が出来ていない質問もあるので、
心苦しいのですが・・・それは私の個人ブログのほうで
いつの日か、勝手にお答えしているかもしれません(笑)。
最後に、みなさんにこれからも三国志を楽しんでいただくために、
三国志にまつわる、とっておきのスポットをご紹介したいと思います。
まず、東京近辺にお住まいの方向けにはなってしまいますが、
渋谷の「ヒカリエ」という商業ビルの8Fにあります「川本喜八郎人形ギャラリー」。
ここには、1985年にNHKで放送された人形劇「三国志」、
1993年に放送された「平家物語」の人形が合計約30体展示してあります。
今にも動き出しそうな三国志の英雄たちを、無料で観られる貴重な場といえましょう。
また、同8Fフロアにある防災センター会議室の大画面モニターで、
8月13日~8月19日まで、「人形劇三国志」の無料上映会が行われているそうですよ。
ドラマとはまた違った感動が味わえると思います。
本作に限った話では、いつぞやご案内した動画サイトGyaoも
定期的にタイトルが変わるため、今後もご注目いただければと思います。
それから、初心者の方へメッセージを。
今まで三国志を知らなかったことを、恥じる必要はありません。
これからどんどん知れば良いんです!
私は今後も三国志に関する活動や仕事を続けていきたいと思っていますので、
みなさんが三国志を好きでいてくださるならば、どこかでお会いできると思います。
・・・やっぱり、さようなら。は言いたくありません(笑)。
名残惜しいですが、どうかそのときまで、お元気で!
多謝!
ご愛読、ありがとうございました。
2012年08月13日
皆さん、こんばんは!
『三国志 Three Kingdoms』ストーリーテラーの哲舟(てっしゅう)です。
さあ、最終回・・・。いよいよ、このときが来てしまいました。
なんだか、ホントにもう終わってしまうことを実感して、指が重いです。
少し長くなりますが、じっくり、ご一読いただければと思います。
時は、孔明との戦いを終えた司馬懿(しばい)が
洛陽へ戻ってからすでに5年・・・。西暦239年になっていました。
司馬懿は、曹叡(そうえい)からその功績をねぎらわれた後、
太傳(たいふ)に任命され、しばらく休養するよう命じられていました。
つまりは、孔明を撃退したことで用済みとされ、軍権を解かれたのです。
ある夜、司馬懿は息子の司馬昭(しばしょう)とともに、古い祠へ入っていきます。
その祠はかつての大将軍・何進(かしん)の祀堂(しどう)でした。
司馬懿親子は、そこで何やら物思いにふけります。
本作には登場しませんが、何進(かしん)が
大将軍の座についたのは中平元年(184年)のことでした。
漢室の衰えに乗じての民衆反乱 「黄巾の乱」(こうきんのらん)が起き、
劉備・関羽・張飛が出会って「桃園の誓い」を結んだ年でもあります。
何進は、董卓や曹操が台頭する少し前の、朝廷を牛耳った人物ですが
その後、宦官たちとの勢力争いの末に暗殺されました。
その宦官たちを討伐したのが、まだ都で宮仕えをしていたころの
曹操、袁紹、袁術らで、董卓がその乱に乗じて都に乱入し、権力を握ったのです。
・・・石碑を読んだ司馬昭は、今の三国鼎立にいたる動乱のきっかけは
何進に行き着くといいますが、司馬懿はそれを否定。
元はといえば、漢室が衰退し、皇帝が力を失墜したことに
原因があると意味深につぶやきます。
一時は権勢を欲しいままにした何進ですが、
いまや彼を思い出す人もおらず、祀堂は朽ちて埃が積もる有様・・・。
人生のはかなさを、司馬懿はしみじみ思うのでした。
また、愛妾の静姝(せいしゅ)が何進の孫娘であったことを思い出し、
この祀堂を修繕するよう、息子に命じます。
自邸に戻ると、愛妾の静姝(せいしゅ)が司馬懿を出迎えます。
陣中にいる司馬懿に衣服を届けさせるため、縫い物をしていたという静姝を
愛おしく感じたのか、司馬懿は「そなたを見ていたい。これからもずっと・・・」
そう言って、彼女を正妻に迎えるのです。
静姝は感激のあまり、涙をこぼして喜ぶのでした。
正史では、司馬懿には張春華という正妻がいたようで、
あるときから柏夫人という側室を置いて可愛がるようになり、
正妻には見向きもしなくなったとの逸話があります。
本作には正妻は登場しませんし、
静姝は、本作のオリジナルキャラクターですが、
その柏夫人が静姝のモデルなのかもしれません。
さて、魏の皇帝・曹叡(そうえい)は、近ごろ体調が思わしくありませんでした。
そのうちに曹叡はいよいよ病が重くなり、死の床につきます。
曹叡の気がかりは、司馬懿がまだ元気なことでした。
かつて曹操が予想したとおり、司馬懿の存在は魏の中で日増しに
大きくなり、誰もが彼に一目を置き、恐れるようになっていたのです。
曹叡は司馬懿の野心を試し、危険とみなせば
曹爽(そうそう)に司馬懿を殺害させようと画策します。
曹叡は、司馬懿を呼び、曹爽とともに太子の曹芳(そうほう)を
補佐するよう命じますが、司馬懿は別の者に任命するよう勧めます。
しかし、やはり野心を表に出さない司馬懿。
曹叡は彼を殺す理由を見つけられず、始末できませんでした。
ちなみに、このとき司馬懿は「私は齢70近い」と言っていましたが、
実際は、まだこの年60歳過ぎです。
単なる間違いなのか、司馬懿の嘘なのかはわかりません。
曹叡は、司馬懿のもとに送り込んでいる「ある者」を使い、
引き続き監視を怠らぬよう曹爽に遺言すると、
体調はそのまま好転することなく、あっけなく世を去ってしまいました・・・。
曹丕40歳、曹叡36歳、曹操の子も孫も、いずれも早世していますが、
これも、のちの魏滅亡の原因となってしまうのです。
曹叡の跡をつぎ、3代皇帝となったのは、
曹芳(そうほう)です。まだ8歳の幼い皇帝でした。よって曹爽がその補佐役をつとめます。
余談ながら、『正史』によれば、この年に邪馬台国(やまたいこく)の女王、
卑弥呼(ひみこ)の使者が洛陽を訪れ、曹芳に拝謁しています。
(前年の238年という説もあり、その場合は曹叡と会ったことになります)
皆さんご存知のように邪馬台国とは、当時の日本にあった政権のこと。
われわれ日本人の遠い祖先が、この幼い皇帝と会ったのだと考えると
非常に感慨深く思えてしまうのですが・・・いかがでしょうか?
しかも、この邪馬台国という国は、正史『三国志』の一部、
「魏書」(魏志倭人伝)に書かれたことで、世の中に知られることになったのです。
つまり『三国志』がなければ、当時の日本列島に、
邪馬台国という国があったことも、そこに卑弥呼という
女王がいたことも、永遠の歴史の闇の中に消えていたのです。
それは、当時の日本にはまだ「文字」がなかったため、
記録というものが一切残っていないからなのですが。
改めて『三国志』の偉大さを感じるといいますか、
三国志恐るべし!と感じませんか? みなさん。
さて、その後、隠居生活に入った司馬懿は、
妻に迎えた静姝との仲睦まじいひと時を過ごしていました。
そんな折、彼女が子を身ごもったと聞き、
60歳を超えてわが子を授かることを、司馬懿は大いに喜びます。
しかし・・・念願のその子がいよいよ生まれようというとき、
静姝は大変な難産に苦しみ、出産すること叶わず亡くなってしまいます。
心配そうに見守っていた司馬懿ですが、愛妻の突然の死を目の当たりにして、
大変に狼狽し、ばったりその場に倒れ込んでしまいました。
ショックで気を失った司馬懿は中風とみられ、意識が戻りません。
しかし、その知らせを受けても、
もしや仮病ではないか・・・と疑った曹爽(そうそう)は、
側近をつとめる宦官に司馬懿の屋敷を訪させ、様子を探らせます。
宦官が話しかけても反応がなく、虫の息という知らせを聞き、
曹爽は、いよいよ司馬懿の最期だと思って安心します。
曹爽は、父の曹真(そうしん)は司馬懿に殺されたようなものだと思っていますから、
司馬懿を仇敵と見て、両者は激しく対立していたのです。
翌日は清明節(祖先の墓を掃除し参拝する行事)であり、
曹芳に付き添って高平陵(こうへいりょう)へ行く予定だったため、
曹爽は文武諸官のことごとくを召集。
そして翌日、諸官を引き連れて出かけていきます。
同じ頃・・・。司馬懿は諸将を集め、挙兵の準備を整えていました。
やはり、司馬懿の病は壮大なる芝居でした。
ここで司馬昭の兄、司馬師(しばし)が久々に登場。
ドラマでは、あまり存在感のないお兄さんです・・・。
いままでの司馬懿が仮病を使っていたことは、
常にそばに仕える司馬昭は知っていましたが、
司馬師は仮病だと知らなかったため、
元気そうな司馬懿の姿を見て、大いに驚きます。
この日、曹一族がことごとく城を出た隙をついて、
司馬懿は、かねてから準備していたクーデターを決行したのです。
諸将に門を固めさせ、宮城へと入った司馬懿は、
郭太后(曹芳の母)に拝謁し、曹爽を討つ計画を打ち明けます。
兵が出払っている今、司馬懿に逆らえる者はいません。
多数の兵を引き連れ、武装して入ってきた司馬懿を見て、
太后は、曹爽を殺しても良いが、曹芳を傷つけないことを条件に、
やむなくそれを許可し、勅命を授けます。
司馬懿は配下の兵を引き連れて出陣し、
曹爽の軍に追いつくと、太后から賜った詔を読み上げます。
自分を討伐しても良いという詔の内容に、曹爽は愕然となり、
その部下たちも口々に司馬懿への投降を勧めます。
曹爽はやむなく剣を捨てますが、兵らに取り押さえられ地面に倒れます。
突っ伏した曹爽の背中を、司馬懿は足で踏みつけました。
履物を脱いで裸足で踏むことには、意味があるのです。
「足の裏はなぜ白いのか。常に隠れているからだ」
司馬懿は、裸足の曹操がその言葉とともに自分の背中を踏んづけて
馬車に乗ったことを思い出していました。
最大の政敵を始末した司馬懿は、もはや隠れている必要はなくなったのです。
「剣を抜いたのはこの日一度だけだが、十数年磨き続けたのだ」
かくして司馬懿は曹一族への復讐を果たし、野望を実現したのです。
西暦249年、「高平陵の変」。
孔明との「五丈原の戦い」から、はや15年が経っていました。
それからまた時がたち、司馬懿は静姝(せいしゅ)の墓に参拝します。
そこには例の宦官が座っていました。
「今ならすべてを話せよう」
彼は司馬懿に、静姝を送り込んだのは
曹丕(そうひ)みずからの意思であったことを話します。
しかし、司馬懿は彼女をすぐにスパイと見破っていたといいます。
それにも関わらず、本当に彼女を愛していたとも・・・。
司馬懿は、静姝がそばにいることを逆に利用し、
必要以上に彼女に愛を注ぎ、入れあげることで、
曹一族の自分への警戒心をゆるめさせたのです。
「もし静姝がいなければ、わしはとうに死んでいた」
そのために曹一族に隙が生まれ、政権を奪うことが出来たのだと彼はいいます。
宦官は、なおも不思議に思っていたことを訪ねます。
「静姝を死なせたのはそなたか?」
なかなか答えようとしなかった司馬懿ですが、
隠していても仕方ないと思ったか、正直に「その通りだ」と答えます。
産婆を丸め込み、止血剤と偽って出血を促す薬を飲ませ、
そのために出血多量で彼女は死んでしまったというのです。
最愛の人を失ったショックで倒れた・・・
静姝が死んでしまえば、曹爽は司馬懿の様子を知ることはできません。
曹一族のスパイを逆に利用し、油断させるための手段に使った司馬懿。
本当に愛していたのは、功名と大業・・・。
司馬懿はようやく、誰にもいわなかった本音を吐きます。
しかし、司馬懿はその言葉を吐いたあと、馬車にもたれかかり、落涙します。
その涙の意味は・・・命を奪わざるを得なかった静姝に対して向けたものか、
それとも、長年そんな生き方をせざるをえず、本当の情愛に恵まれなかった
自分の運命を嘆いたものなのか・・・真実は彼の心の中のみにあるのでしょう。
静姝のほうは、どうだったのでしょう。
少なくとも彼女は最後、司馬懿を本当に愛していたように見えました。
司馬懿は、もしかするとそれを分かっていたのかもしれません。
みなさん、どうでしたか?
司馬懿の生涯を通じての「大芝居」に、気づいておられたでしょうか?
あの静姝は、曹丕のスパイであったこと。・・・ここまではすぐ分かるとして、
司馬懿は、とっくの昔に静姝の正体に気づいていた。
逆に彼女を利用し、惚れ込んでいるふりをして曹一族を油断させた。
曹叡の死後、曹爽にも通じていたであろう彼女を偽って殺し、
その死にショックを受けたふりをして仮病で寝込み、曹爽の油断を誘った。
・・・これらにすべて気付いていた方は、探偵の素質がありますよ(笑)。
そして、さらに時は流れ、西暦251年。
司馬懿は、孫の司馬炎(しばえん)に学問を教えていました。
もう、この年72歳。髪も髭も真っ白で、彼もすっかり老いています。
司馬炎は司馬昭の子で、この年15歳。
15歳にしては幼く見えますが、まあよろしいでしょう。
のちに、晋の皇帝になる人物です。
息子の司馬昭が来て、呉の諸葛恪(しょかつかく。諸葛瑾の子)が許昌に攻め寄せ、
司馬昭が、それを食い止めに行ったとの報告を持ってきますが、
司馬懿はもうだいぶ耳が遠くなっていて、なかなか聞き取れません。
さすがに、それはもう演技ではなかったようです。
司馬懿は、抱きかかえた孫が諳んじる故事の一節を聞きながら
眠るように息を引き取りました・・・。
「庭に楡(にれ)の木ありて、その上に蝉あり。蝉は羽を広げて鳴き、清露を飲まんと欲す
蟷螂(とうろう)が後ろにあるを知らず、その首を曲げる」
司馬懿が最後に耳にしたこの故事の一節で、
かつて夷陵の戦いの後に、孔明が陸遜にしかけた謎かけ、
「蟷螂(とうろう)蝉をうかがい、黄雀(こうじゃく)後ろにあり」
(82話)を思い出した人もいるでしょう。
すでに、魏の政権を掌握していた司馬師・司馬昭の兄弟はこれ以後、
着々と勢力拡大に乗り出すわけですが・・・
孔明死後の三国志の歴史は、実は50年近くもあります。
それを、わずか1話で消化するにはあまりに時間がなさ過ぎて、
後はナレーションでのみ、簡単な出来事が語られるにとどまります。
司馬懿の死から12年後、孔明の死から数えれば29年後の263年。
大都督の地位を継いだ司馬昭は、蜀を攻め滅ぼします。
成都に迫られた劉禅が降伏し、三国鼎立の形は崩れて魏と呉が残りました。
その2年後、こんどは魏が滅亡します。
司馬昭の跡を継いだ司馬炎(さっき司馬懿の前で歌を諳んじていた子)が、
魏の5代目皇帝・曹奐(そうかん)から帝位を奪い、
晋(しん)という新しい国を建てるのです。
そして司馬炎は、西暦280年に呉を攻め滅ぼしました。
ドラマでは、その後、孫権と呉の出番がすっかり無くなってしまいましたが
もちろん、呉もただじっとしていたわけではなく、
孔明の北伐に際しては、それに呼応して魏へ攻め込んだり、
逆に魏に攻め込まれらながらも撃退したりと、いろいろやっていました。
孫権は司馬懿死去の翌252年に没し、その後は孫亮・孫休と続き、
280年には、4代目・孫皓(そんこう)の代になっていましたが、
孫皓は悪政によって政治を乱し、すでにかつてのような国力はありませんでした。
呉は人心を失い、まともに戦わず晋に降る人も多かったそうです。
こうして、司馬懿の孫・司馬炎が中国統一を果たすのでした。
しかし、それも長くは続かず晋国内で権力争いが勃発し、
子の司馬衷(しばちゅう)の代に30年で崩壊。中国は再び相乱れます。
蝉は蟷螂が後ろにあるを知らず、その首を曲げる・・・
三国時代に勝利者となった司馬一族も、ほどなく敗者となります。
天下の大勢は、分かれて久しければ必ず合し(統一され)、
合して久しければ必ず分かる(分裂する)・・・。
悠久の歴史のなかで、戦乱を繰り返した中華という大陸の定め。
その言葉をもって、ドラマ『三国志 Three Kingdoms』の解説を終えたいと思います。
さきほども書きましたが、孔明の死後が1話しかなかったために、
最後はダイジェストといった感じで、かなり駆け足になってしまいました。
いろいろと事情もあるのでしょうが、いやあ、これなら95話という半端な数ではなく、
100話ぐらい作って欲しかった気もしましたね・・・(笑)。
何はともあれ、みなさん、今日までご愛読ありがとうございました。
だいぶ、長くなってしまいましたので、今宵はここまでにして、
明日8月14日を、当ブログの最終回にしたいと思います。
いつもの時間に更新しますので、ぜひ見にいらしてください。
皆さんお待ちかねの人気投票の結果発表をして、締めくくりたいと思います。
それまで、さようならは言いません(笑)。
では明日、またお会いしましょう!
※人気投票は、今夜23時まで受け付けていますので、
まだお済みでない方は、ぜひ一票を投じてみてください。
あなたの投票が、結果に影響を及ぼす可能性は十分にあります。
2012年08月10日
『三国志』。
歴史書なのに「史」とは書かず、「志」と書きます。
中国では、「志」という言葉には「記録」という意味があるそうなので、
「三つの国の歴史書」ということになります。
しかし、これには色々な説があるようですから、もしかすると
日本人が連想する「志」の意味も、あるいは込められているかもしれません。
三国を興した英雄たちが抱いた大いなる志・・・。
意味としては間違っているかもしれませんが、そう信じてしまいたくなるような
人々のさまざまな「思い」が、『三国志』には詰まっているように感じられてなりません。
こんばんは! ストーリーテラーの哲舟(てっしゅう)です。
いよいよ、最終回を残してのラストウィークも金曜日・・・。
孔明との別れを潮に、このドラマも結末を迎えようとしていますが、
みなさん、どうか涙をこらえて読んでください。
上方谷に降り注ぐ滝のような雨。
その勢いは、孔明が苦労して灯した勝利の炎を瞬時にして消し去り、
司馬懿(しばい)率いる魏軍の命の綱を、ふたたびつなぐものとなりました。
勇気百倍した魏軍は、谷の入口を固める
廖化(りょうか)の軍を蹴散らし、脱出に成功します。
9ヶ月も雨が降らなかった祁山、今日に限っての雨は、
孔明の命までをも、無情に流し去ろうというのでしょうか。
天は無慈悲。もはや、天命という言葉で片付けるしかありません。
雨に打たれ、絶望した孔明は勢い良く血を吐き、倒れました。
陣中で床についた孔明は、自分の命がまもなく尽きようとしていることを悟り、
枕元に姜維(きょうい)を呼びます。そして、これまでに編み出した
24篇の兵法書と連弩(れんど)という兵器の製法書を授けるのでした。
孔明はこれまでの人生を思い、かつて水鏡先生に
「孔明は主君を得たが、時を得ていない」
と評されたことを振り返り、それが自分の運命であったことを知るのです。
あのとき、水鏡先生は独り言のように言っていましたが、
孔明にも伝わっていたようですね・・・。
孔明はまた、楊儀(ようぎ)に、自分の死後は魏に悟られぬよう
撤退するように言い、撤退しやすい五丈原(ごじょうげん)に
陣営を移すよう命じるのでした。命を受けた楊儀ですが、
ひとつ、気がかりは魏延の存在だといいます。
日頃から孔明とはソリが合わない魏延ですが、
趙雲や黄忠なき今、その実力は軍中ピカ一であり、
蜀軍の中でも最強の精鋭5万を従えています。
孔明が健在であるからこそ大人しく従っていますが、
その孔明が死ねば、彼は誰の命令にも従わなくなる恐れがありました。
孔明は魏延の心のうちを探るべく、
気力を振り絞り、陣中に大量の蝋燭をともして、彼を呼びます。
天に祈り、命を永らえようとする孔明の姿を見て、
魏延もさすがに神妙な態度になったようです。
いや、顔には出しませんが孔明の死が近いことを知り、内心喜んだかもしれません。
孔明は「自分の死後に軍権を担える人物は誰か」と問い、
魏延が謙遜していると、孔明は「そなたこそがふさわしい」といい、
彼に軍権を任せたいと告げるのです。
魏延はそれを喜び、必ず蜀の大軍をまとめてみせると誓うのでした。
彼は日頃からそれを自負しており、まさにその言葉を待っていたのです。
魏延の様子を見た孔明は、彼に野心があることを確信しました。
ちなみに、原作では孔明はここで延命の祈祷を行い、灯が7日間消えなければ
寿命が延びると信じて堂に籠もったのですが、そこに魏延が入ってきて
誤って火を消してしまう、という描写になっています。
本作では、これが延命のための祈祷であることには触れていません。
孔明を、そのような超常現象を操る存在には描かず、
あくまで人間として描いていることが分かります。
さて、孔明は続いて馬岱(ばたい)を呼びます。
馬岱(ばたい)は、かつての五虎大将軍のひとり、馬超(ばちょう)の弟分。
かの馬超は蜀に降ったあと、目立った功績も立てることがないまま、病で早世しました。
馬岱は馬騰(ばとう)から続く馬一族の生き残りとして、
ひとり奮戦を続けているのです。
孔明は、その馬岱の武勇と忠義心を見込んで、自分の命はもう長くないこと、
自分が死んだら必ず魏延が謀反を起こすであろうから、
その際に彼を始末するよう頼み込むのでした。
驚く馬岱ですが、改めて孔明と蜀に対して忠誠を誓い、拝命するのでした。
陣営を五丈原(ごじょうげん)に移し終えた蜀軍。
孔明は、いよいよ死の床につきます。
その命の灯火はますます細まり、まさに尽きようとしていました。
(五丈原の場所は地図でご確認ください)
孔明は、劉禅に対してこれまでの恩を謝しながら、
今後の蜀がとるべき道を静かに語り続け、それを楊儀に遺書として書き写させます。
孔明は最後に、自分の一族は衣食に余りあるため厚遇しないよう言い残します。
ドラマには登場しませんでしたが、彼の妻と幼な子(2人または3人)は、
成都で暮らしています。ほかの将軍たちの家族も同様で、
いわばみな単身赴任です。過酷な北伐の戦場には呼べるはずもないからです。
その言葉が、終わるか終わらないかのうちに、
手にした羽扇を取り落とし、孔明は息を引き取りました。
最後まで、蜀漢の行く末を案じたまま、ついに帰らぬ人となったのです。
時に西暦234年8月23日、享年54歳。
死因は、詳しくは分かりませんが、一説によれば過労による衰弱死といわれます。
朝は早くから起き、夜は遅く休み、粗食に甘んじた孔明。
27歳からの生涯のすべてを、劉備と劉禅、
そして蜀漢のためにささげ、命を削って働き続けたのです。
正史『三国志』を編纂した陳寿(ちんじゅ)は
「時代に合った政策を行い、公正な政治を行った。
どのように小さい善でも賞せざるはなく、どのように小さい悪でも
罰せざるはなかった。多くの事柄に精通し、建前と事実が一致するか調べ、
嘘偽りは歯牙にもかけなかった。みな諸葛亮を畏れつつも愛した。
賞罰は明らかで公平であった。その政治の才能は管仲(かんちゅう)、
蕭何(しょうか)に匹敵する」と評しています。
またその一方で
「毎年のように軍隊を動かしたのに北伐があまり成功しなかったのは、
臨機応変な軍略が得意ではなかったからだろうか」とも評しています。
陳寿は断言していないので、なんとでも解釈できますが、
つまり、優秀な政治家であったが、将軍・軍人としては
やや物足りなかった、ということかもしれません。
しかし、思うに孔明のほかに誰が蜀という国の全軍を率いて
魏に攻め込むことができたか・・・。
これはよく言われることですが、たとえば司馬懿や陸遜であっても
勝つことは無理だったかもしれませんし、魏の指揮官が司馬懿でなかったら、
成功していたかもしれません。歴史に「もし」は禁物ですが・・・。
孔明の晩年の行動、すでに滅びてしまった漢を再興するなどという志を
不思議に思ったり、「愚かである」と批判する人もおられるでしょう。
大局的にみれば、その通りです。
戦争とは、何千何万という兵士の命を犠牲にするものですし、
三国志の登場人物に限らず、歴史上の軍人というものは、
みな少なからず、愚かしい行為をしているし、愚かしいところを持っているものです。
後世を生きる我々は、そんな彼らを好きなように批判し、好きなように解釈できますが、
乱世では明日をも知れぬ身、日々とにかく生きることに必死だったに違いありません。
孔明が「なぜ無理な北伐をしたのか?」と考えるのは、
登山家に何千メートルもの過酷な山へ登りに行く理由を尋ねたり、
ボクサーに危険なリングに上がる理由を尋ねたりすることに近いのではないかと思います。
もしかすると、孔明自身は、ドラマのセリフにもあったように畑を耕して
山中に暮らすほうが幸せだと思っていたかもしれませんし、
北伐など興さなければ、もっと長生きして余生を穏やかに過ごせたかもしれません。
しかし、もしそうしていれば、諸葛孔明という名は
2000年後の未来にまで残ったかどうか・・・。
死して名を残す、それにはどういう生き方をすべきなのか、
それは望んで可能になるのかどうか、私はよく考えてしまいます。
さて、孔明の棺の前に、重臣たちが集っています。
姜維(きょうい)が、孔明の遺言にしたがい、
兵を漢中へと引き上げる準備にかかるため、
兵符を楊儀(ようぎ)に渡そうとしていると、魏延がズカズカと入ってきます。
魏延は、孔明の遺志に反し北伐の続行を名言します。
孔明が死んで、魏延は何も恐れるものがなくなった今、
軍権を一手に握ろうというのです。
孔明の葬儀も済まぬうちに、早くも野望をむき出しにした魏延を、
跡を託された、姜維(きょうい)らは睨みつけ、なじります。
「誰がわしに逆らえるか!」
それに少しもたじろがず、大言壮語する魏延。
すると、今まで通り魏延に従っていたかに見えた馬岱が
やにわに剣の鞘を払ったとみるや、抜き打ちに一撃を浴びせ、
返す刀で斬り倒してしまいました。
魏延は馬岱の早業に、言葉を発する間もなく倒れました。
反骨の猛将も、完全に油断していたのでしょう。なんとも、あっけない最期でした。
いっぽう、孔明が倒れたことを知らない司馬懿は、
その後、蜀軍が攻撃してこないことをいぶかしみますが、
攻めて来ないのであれば、魏軍も動くことはないとして、
引き続き持久戦を続けるのでした。
そこへ、蜀軍が五丈原から撤退を開始した、との報告がもたらされます。
このタイミングで蜀軍が退くのは、何か深い理由があるはず・・・
しかし、これまで孔明の策にさんざん痛い目にあわされた司馬懿です。
なおも慎重な姿勢を崩しませんが、
諸将の勧めに応じ、五丈原へ真相を確かめに行きます。
五丈原の陣中は白い旗が掲げられていたため、
「孔明は死んだ」と確信するのは郭淮(かくわい)。
司馬懿は、なおも孔明の策ではないかと疑いますが・・・
結局、そのまま追撃を続行。陳倉道へと達します。
すると、にわかに蜀の伏兵が襲い掛かってきますが、
司馬懿はその数が少ないこと、谷に入り込む前に襲い掛かってきたため、
敵が焦っている様子から、孔明が死んだのだと確信して
追撃を続けようとします・・・
しかし、続いて四輪車に乗った人影を押し出して、
姜維(きょうい)が陣頭に出てきたため、
「やはり孔明の策であった」として、被害が広がるまえに全軍撤退を命じます。
蜀軍は、その隙に漢中へと撤退していきました。
その夜、孔明の訃報が確実なものとわかり、司馬懿のもとにもたらされます。
司馬懿が見たものは、孔明が生前に造らせた木像でした。
大変な恥辱に、司馬懿はのたうちまわって悔しがります。
「死せる孔明、生ける仲達を走らす」
現地の人々には、そのように噂されるほどだったそうです。
司馬懿は、かくも孔明を恐れていた。
後世の者たちはきっと噂をし続ける、100年先までも・・・
そして、司馬懿が言ったことは本当になりました。
100年どころか、2000年近い時を経た今も私たちの間に伝わっています。
正史によれば、蜀軍が退却したのち、司馬懿は五丈原の陣跡が
整然として実に機能的な構造をしていたことに感心し、
「諸葛亮は天下の奇才だ」と漏らしたといいます。
この北伐における勝負は、持久戦のすえに死んだ孔明が敗れ、司馬懿が勝ちました。
しかし、司馬懿は、真に勝ったとは思わなかったのかもしれません。
決しておごらずに相手の力量を認める司馬懿の姿勢は、
勝利者として大変に立派ではないかと思うのです。
そこに、オリンピックでメダルを獲得しても兜の緒を締め直す、
武道家の振舞いに似たものを感じます。
孔明の棺は、遺言により漢中の定軍山に葬られました。
そこは、かつて黄忠が夏侯淵を討ち、劉備軍が曹操軍を破った地でもあります。
魏・蜀・呉の国境で、行く末を見守ろうとの彼の意志だとされます。
墳墓は山の中に棺を入れるだけにとどめ、
遺体は着用していた衣服のままで、副葬品は一切入れないよう言い残したそうです。
実は曹操もほとんど同じことを言って亡くなっています。
両者は、同じ死生観を持っていたといえましょうか。
死後、彼を祀る者は庶民にいたるまで後をたたなかったとか。
彼の偉業、才能は伝説となり、いつしか万能な軍師像に変化して後世に伝えられます。
その墓は「武侯墓」と呼ばれ、今は公園化され、祀られています。
・・・さて、その後、司馬懿は曹叡(そうえい)の命令で
大都督の任を解かれ、呼び戻されました。急ぎ、洛陽へ向かう司馬懿。
後任の夏侯覇(かこうは)が早々に着任し、
司馬懿は将兵に別れを告げることなく去ったのですが、
彼を慕って郭淮(かくわい)や孫礼などが追いかけてきて、見送りました。
郭淮たちは、司馬懿との別れを惜しみ、涙で永遠の忠誠を誓うのでした。
司馬懿はそんな彼らに礼をいい、馬車を出発させるのです・・・。
さて、司馬懿を呼び戻した曹叡の真意は・・・?
次回は、いよいよ最終95話。楽しみにお待ち下さい。
みなさん、また月曜にお会いしましょう!
【このひとに注目!】
◆劉禅(りゅうぜん) 字/公嗣 207~271年
次回の最終話ではあまり触れられないため、孔明が死んだ後の劉禅と蜀漢の行く末について綴っておきたい。孔明の死の知らせを受けた劉禅は、3日間喪服を着て哀悼の意を表した。孔明の後継者には、内政に優れた蒋琬(しょうえん)が選ばれ、軍は姜維(きょうい)が率い、北伐を続行した。劉禅は当初、臣下たちの助言によく従い、蜀の政治は安定した。
246年、蒋琬や董允(とういん)といった有能な人材が没すると、劉禅はみずから政務を行なうようになったが、宦官(かんがん)の黄皓(こうこう)を重用し、政治の実権を渡してしまったことで国政は大いに乱れた。魏への北伐は姜維が毎年のように繰り返したが、戦果をあげることができず、国力は疲弊する一方だった。
263年、国の内外から疲弊した蜀の隙をついて、魏の司馬昭(司馬懿の子)が大規模な攻勢をかける。防衛にあたった姜維は、成都の劉禅に援軍を要請したが、黄皓の讒言を信じた劉禅は兵を送らなかったため、満足な防衛ができずに蜀軍は各地で敗退。孔明の子、諸葛瞻(せん)が討たれるなど敗報が続き、魏の大軍に迫られた劉禅は、文官らの勧めによって魏に降伏。蜀漢は滅亡した。孔明の死から29年後のことだった。
劉禅は妻子たちとともに洛陽に移され、安楽県公に任命されて静かに余生を過ごし、65歳で没した。ちなみに妻のうち2人は張飛の娘(姉妹)である。洛陽で司馬昭に宴へ招かれたときの逸話があるが、それは昨日解説したとおり。
劉禅は、原作小説『三国志演義』では、「劉備や孔明が苦労して築いた蜀を滅亡に追い込んだ暗君」というイメージが増大されて扱われている。彼の幼名「阿斗」は、中国では「愚か者」の代名詞とされており、劉禅の評判はきわめて悪い。本作ではそこまで描かれなかった点で救いといえるか。
しかし、正史『三国志』では、決して無能とは書かれていない。その代わりに、自分から何かを積極的に行ったという記録もなく、「白い糸は染められるままに変ずる」と形容されている。つまり、孔明などの有能な人に囲まれているうちは良い人間だが、悪い人に囲まれれば途端に駄目な人間になるということ。ただ、三国のうち最弱の蜀を40年(孔明の死後29年)も存続させたことは事実。それを評価するか否かで、見方が分かれる人物といえる。
※人気投票、引きつづき実施中です。
いよいよ月曜締切り! みなさん、本当に多数の投票、ありがとうございます。
2012年08月09日
こんばんは、哲舟です!
今日を含めて残り3話。
いよいよもって寂しい気持ちになりますが、元気良く参ります。
さて、木牛・流馬と兵糧を魏に奪われ、蜀軍の兵糧は底を尽きかけていました。
王平(おうへい)の報告では、あと3日分しか残っていないとのこと。
まさに「腹が減っては戦はできぬ」といいますが、
大軍を動かすためには、ただ人を大勢連れて行くだけでは済むはずがなく、
一人ひとりに必要な食糧、武器、防具などのトータルが、
何日でどれだけ消費されるかを考えて効率よく動く必要があり、
そのための莫大な量の運用、補給が欠かせないわけです。
正史では、孔明は兵士たちに現地の陣中で
田畑を耕させて食糧を調達する屯田という政策を実施していたようですが、
それだけでは足りず、やはり本国の成都からの補給が頼りだったようです。
かつて、官渡の戦いでも曹操が兵糧の確保に苦心していましたよね。
戦争というものが、いかに国力を消耗する大変な事業であるか、
この三国志の戦いを見ていても、よく分かります。
孔明は、王平に少数の兵を与えて魏軍の糧道に赴かせ、
兵糧を奪い返す作戦に出ます。王平は孔明に授けられた策にしたがい、
かつて魏軍にいた経験を生かして司馬懿配下の軍隊に化け、
魏軍の兵糧を改めるふりをして、木牛・流馬に細工をし、動かなくさせてしまいました。
そして魏の輸送隊が立ち往生しているところを奇襲し、
兵糧を載せた木牛・流馬を奪うと、自軍へと持ち帰りました。
木牛・流馬は、舌の下にあるネジを回すと、車輪が動かなくなるという
仕掛けがあったのですが、魏軍はそれに気付いていなかったのです。
先に兵糧と木牛・流馬を奪わせて同じものを造らせ、またそれを奪い返す。
手の込んだ孔明の策で、30万石もの魏の兵糧が、蜀の手に渡ったのです。
無事どころか、大量の兵糧を奪って戻った王平を、孔明は大喜びで迎えます。
これで蜀軍は、魏軍の持久戦にも対抗できます。
まさに王平の大手柄。
このところ、魏延と同様に彼も孔明に対し疑念を抱いていたようなフシが
ありましたが、この作戦成功によってそれを払拭したようです。
また以前、彼は馬謖(ばしょく)とともに街亭へ出陣し、
諌められなかったために敗北を喫したことがあり、
本人もそれを気にかけていたと思いますが、
こうした活躍の積み重ねが、過去の失策を洗い流します。
しかし、蜀軍には気がかりな点がありました。
それは重圧と激務に耐え切れなくなった孔明の体。
病に蝕まれ、このところ悪化の一途を辿っていたのです。
前回までは比較的元気そうな孔明でしたが・・・急激な病の悪化で、
以後、咳き込む様子がしばしば見られるようになっていきます・・・。
いっぽう、司馬懿は大量の兵糧を奪われたことで
激怒した曹叡(そうえい)に厳しく叱責され、大都督の任は保たれたものの
大将軍の地位を剥奪されてしまいました。
司馬懿は屈辱のあまり詔を取り落としてしまいますが、
「大都督に留まれたのは孔明のおかげでもある」とみずからを励まし、
すぐさま兵糧を奪い返しに出ることにしました。
蜀の兵糧庫が上方谷(じょうほうこく)にあることを知った司馬懿は、
そこを襲撃にかかります。司馬懿の立てた戦略は、
まず孔明の本陣がある祁山(きざん)を大軍で攻め、
上方谷がその救援のために手薄となったところを、
別働隊で奇襲し、兵糧を奪うというものでした。
その別働隊は司馬懿みずから率いることを決めます。
いっぽう、司馬懿の大軍10万が本営に襲来してきたとの報を受けた蜀軍。
参謀の楊儀(ようぎ)、姜維(きょうい)は、
祁山の本営にいる兵だけでは、魏軍を防ぎきれないとみて、
上方谷を守る魏延(ぎえん)と王平の精鋭部隊を
援軍として呼ぶように進言しますが、孔明はそれを押しとどめました。
その旗が中軍にひるがえり、魏が正面から堂々と攻めてきたことを聞いた孔明は、
司馬懿はそこにはおらず、彼の狙いは上方谷の兵糧庫であると見破ったのです。
そして、かねてより考えていた作戦の実行にかかります。
この作戦は、まさに乾坤一擲。成功すれば蜀を一気に勝利へと導くものでした。
祁山の孔明本営はほどなく、魏の大将、郭淮(かくわい)軍の攻撃にさらされました。
かつてないほどの猛攻に南の砦が落とされ、祁山は窮地に陥りますが、
孔明は「司馬懿は必ず上方谷にいる」といって動こうとしません。
魏延と王平には谷から動かず、もう少し守り続けるよう伝えさせます。
本営がいよいよ破られそうになったころへ、
ギリギリまでタイミングをはかっていた魏延の援軍が突撃して
魏軍の包囲を切り崩すと、魏軍は祁山の包囲を解き、上方谷へと向かいました。
すでに上方谷にいる司馬懿と合流するためです。
孔明は廖化(りょうか)の軍1万に命じ、敵軍がことごとく上方谷に入ったところで
入口を封鎖するよう指示を与え、魏軍を谷の中に封じ込めました。
まもなく作戦は成功の見込み。いよいよ司馬懿の最期とみた孔明は、
みずから上方谷が見渡せる高地へ登り、それを見守ろうと陣を出ます。
孔明の体はすでに限界が近づいているようで、
杖がなくては歩くこともおぼつきませんが、気力を振るい起こして山に登ります。
いっぽう司馬懿は、上方谷に入ることをためらっていました。
谷に入れば、身動きがとりづらく不利な状況に陥るためです。
しかし、祁山が膠着状態にあり、蜀軍がそこに集中していると聞いた司馬懿は、
ついに上方谷への突撃を命じ、みずからも駒を進めました。
「入った!墓場に足を踏み入れたか」と、つぶやく孔明。
ここが司馬懿の死に場所、とほくそ笑みます。
王平の軍は早々と逃げ散り、
谷を奪った司馬懿はさっそく兵糧庫を確認し、この上ない戦果を喜びますが・・・
なにやら妙な臭いがすると察し、手に取った米を口に含めます。
その米に、油が染み込んでいることに気付き、吐き出す司馬懿。
そこへ兵が、兵糧庫の中に炭が仕込んであると報告してきます。
蜀の兵糧庫は、孔明が仕掛けた餌だった・・・
司馬懿は、ようやく罠にはまったことに気付きますが、時すでに遅し。
たちまち、山上に潜んでいた蜀軍が四方八方から火矢を撃ち下ろし、
猛烈な火攻めが始まりました。
あっという間に業火に包まれる上方谷。
司馬懿は退却を命じますが、乗馬が矢に撃たれ落馬してしまいます。
矢に撃たれ、火に焼かれ、巻き込まれて次々に討たれる魏の将兵たち。
逃げようにも、谷の入口は狭く、そこも蜀軍に封鎖されて出られません。
孔明は参謀の楊儀(ようぎ)とともに山上から炎の海を見守っていました。
それは、蜀漢に勝利をもたらす輝き。
かつての赤壁で曹操軍を焼いた火、夷陵で蜀軍が焼かれた火、
それらにも勝る猛烈な火が、今まさに司馬懿を焼こうとしています。
「わが君! 大漢が復興されますぞ」
勝利を確信し、中原平定の志が成ることを喜び、
孔明は天にいるであろう劉備に向けて叫び、感涙にむせびます。
大声を出すだけでも、今の孔明には大きな負担。
咳き込んでふらつきますが、この乾坤一擲の策が
生涯最高の戦果をあげようとしていること、その喜びが、
彼に、かろうじて立っているだけの気力を保たせています。
火中を逃げ惑ったものの、すでに逃げ場なく
まさに八方塞がりとなった司馬懿は、ついに覚悟を決めてへたり込みました。
息子の司馬昭は、最後まで望みを捨てぬよう父に進言しますが、
司馬懿は将兵を集め、武器を捨てて蜀へ投降するよう勧め
大都督である自分はここで自害すると告げます。
その志に感涙し、将兵は彼に殉じることを誓います。
その間にも、矢に射られて倒れる兵が続出していますが、
魏の将兵も覚悟を決めて、歌をうたい始めます。
「風蕭蕭として易水寒し、壮士ひとたび去ってまた還らず」
かつて、荊軻(けいか)という人物が、始皇帝を暗殺するために
国を離れるとき、見送りの者たちに、二度と帰らぬ覚悟を唄ったもの。
つまり、魏の将兵は「我々は決して投降しないぞ」と誓っているのです。
孔明は、それを聞いて司馬懿と魏の将兵の気概に感じ入ります。
司馬懿は続いて、
「酒に向かえばまさに歌うべし、人生いくばくぞ」
まもなく、尊敬する曹操に会いに行けるとして、
彼が詠んだ歌を発すると、自害するために跪きます。
・・・司馬懿が、みずからの頸を斬ろうとしたそのとき、
その剣の上に水滴が落ち、それはたちまち大雨となって降り注ぎました。
天地を洗い流すような豪雨は、谷を焦がしていた火を瞬時に消し、
魏軍は恵みの雨に勇気百倍して、谷の入口へと殺到するのでした。
こうなると、入口にいる廖化の部隊はわずかに1万がいるのみで、
魏軍の起死回生の突撃を支えきれず、たちまち突破されてしまいます。
まさに九死に一生を得た司馬懿と魏軍。
かたや、雨に打たれし孔明は呆然として言葉も発することができずにいました・・・。
【このひとに注目!】
◆司馬昭(しばしょう) 字/子尚 211年~265年
常に司馬懿のそばにつき従っている息子のひとり。司馬師(しばし)という兄がいるが、本作では司馬師はあまり登場せず、もっぱらこの司馬昭が父を補佐している。
父の司馬懿とともに、孔明の北伐を退けた後は、洛陽に戻る。249年、父・兄とともに挙兵し、対立する曹爽(そうそう)一派を失脚させて政治の実権を握る(高平陵の変)。父の死後、兄の司馬師が跡を継ぐが、兄に跡継ぎがいなかったので、またその死後に家督を継承。
263年、蜀漢討伐の軍を興し、劉禅(りゅうぜん)を降伏に追い込んで滅亡させた。翌年、晋王の爵位を授かるが、次の年に病死する。その志は子の司馬炎(しばえん)が受け継ぐ。司馬炎は、司馬昭の描いたプランにしたがって魏を滅ぼし、晋を建国。280年には呉を攻め滅ぼし、中国統一を果たした。
余談。蜀が滅んだ後、劉禅は洛陽へ移住させられたため、司馬昭は彼を宴席に招いてもてなした。蜀の音楽が奏でられ、蜀の旧臣たちが国を思って落涙するなか、劉禅は笑っていた。司馬昭は「蜀を思い出されることでしょうな」と尋ねたが、劉禅は「ここの暮らしは楽しい。蜀を思い出すことはありませぬ」と答えた。司馬昭は、「この者が皇帝では、孔明が生きていたとしても蜀はどうにもならなかっただろう」と語ったとされる。蜀と劉禅についての詳細は、また明日ご紹介したい。