2012年07月

2012年07月31日

こんばんは!哲舟です。
皆さん、オリンピックもいいですが、三国志もぜひ観てくださいね(笑)。

いよいよ、残り10話・・・。
丹精こめて綴りますので、よろしくお願いします。

さて、魏の若き皇帝・曹叡(そうえい)から、
初めて正式に軍権を与えられた司馬懿(しばい)は、
都の洛陽に近い、宛城(えんじょう)に駐屯し、兵を集めていました。
ここで軍を整えた後、都で曹叡に謁見するためです。

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そこへ、友人の申儀(しんぎ)が訪ねて来ます。

●魏が負けて滅びるのを傍観し、自分が帝位について覇業を成す。
●曹叡に忠誠をつくして蜀と戦い、魏のために手柄を立てること。

申儀は、司馬懿が今とるべき道を上のように
2つ示しますが、迷わず後者を選びます。

「私は大業を成就して名をあげたい。
 夢の中でも孔明と勝負しておるほどよ」

司馬懿は、友に対して正直に言います。
彼がこれほど、正直にものをいうのは初めてのことかもしれませんが、
はたして、それは魏のためを思ってのことか、
自分の野望のためなのか。ここではハッキリわかりません。

さて、申儀はまた、新城の孟達(もうたつ)が蜀に寝返り、
洛陽で謀反を起こそうとしている計画を、司馬懿にもたらします。

司馬懿は、即座に新城へ向かい、使者をとらえると
孟達を城外に誘い出し、その首を素早くとってしまいました。

蜀の諸葛亮(孔明)にとって、
この孟達の計画が露見したのは、なんとも痛い出来事でした。

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司馬懿は、曹叡に謁見すると、
孟達の首を手土産として献上したのです。

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もし、孟達が謀反していたら自分の命が危なかった・・・
曹叡は司馬懿の忠誠心と大手柄を褒めたたえ、宝剣を与えたうえで
洛陽と長安の軍の指揮権を、司馬懿にすべて委ねることにします。

都の洛陽、そして蜀軍の進軍ルートである雍州との境に位置する長安。
その軍のすべてをゆだねられた司馬懿は、まさに魏の司令官となったのです。

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司馬懿は、諸将を集めて軍議を催しました。
そこには、歴戦の将・張郃(ちょうこう)、関羽を荊州で破った徐晃(じょこう)
といったベテラン、若手の郭淮(かくわい)、孫礼などの将軍が集っています。

司馬懿は言いました。
「私が諸葛亮ならば秦嶺を越え、子午谷を抜けて長安を奇襲する」と。

奇しくも、魏延(ぎえん)が孔明に献策したルートです。
これを通れば、魏軍も相当に苦戦を強いられたと徐晃も予測しますが、
しかし、慎重な孔明はその手を使わず、
着実に一歩一歩進む戦法で来るはずだと司馬懿は読みます。

その場合、最初に奪うべき要地は、「街亭」(がいてい)だと司馬懿は予測。
街亭は漢中の喉元であり、これを奪えば蜀軍の兵糧や武器の補給路を
断つことが容易になるとみた司馬懿。
張郃(ちょうこう)を先鋒に任じ、街亭へと急がせました。

いっぽう、蜀の陣営には、孟達が捕えられて処刑され、
司馬懿が全軍の指揮権を握ったとの報がもたらされていました。
孔明をはじめ、諸将は落胆を隠せません。

孔明は、司馬懿が街亭を狙ってきていると読み、
防衛のために軍を出そうと諸将に呼びかけます。
すると、諸将に先んじて、馬謖(ばしょく)が名乗り出ました。

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「街亭を守れなければ首を差し出します」

不退転の決意を示す馬謖ですが、孔明は躊躇します。
司馬懿は曹操に劣らぬ才があり、張郃も天下の名将。
実戦経験の浅い彼では勝てないだろうと踏んだのです。

しかし、蜀漢への篤い忠義心を示す馬謖。
趙雲のとりなしにより、孔明は王平(おうへい)を副将につけて、
街亭へと向かわせることを決定しました。

馬謖、王平が退室した後も、なぜか不安の色を隠せない孔明は、
高翔(こうしょう)と魏延を、万一のときのための救援に赴かせます。

なおも不安がる孔明の様子を見て、趙雲も不思議に思って尋ねます。
「20数年一緒に戦っていますが、かような姿は初めてです」

孔明は、趙雲に本心を話します。
これまで、自分とは対照的に、それまでずっと日陰にいた司馬懿を
得体のしれない人物と見て、大いに恐れているのだと・・・。


その孔明の不安は、早くも的中します。

街亭へ到着した馬謖は「平地の五叉路に陣を敷け」との孔明の指示を無視し、
小さな山の上に陣を張ろうとします。

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孔明の命令を守ろうとしない馬謖。副将の王平が諌めますが
自信満々の彼は、まったく聞く耳を持ちません。

軍を駐屯させるには、飲み水や飯を炊くための水を
常に川から補給しなければならないのですが、
この山は、川から遠い小さな山でした。

そんな小山の上に陣を敷いた場合、大軍に包囲されてしまえば
兵糧や水の補給も望めず、孤立無援の死地となります。

馬鹿でも分かりそうな愚行を犯そうとする馬謖に対し、
王平は喰い下がりますが・・・

馬謖は長年学んだ兵法を持ち出し、
兵糧を失った兵は死に物狂いになって戦うこと、
兵は高いところにいるほうが有利であり、
山の上から攻め下れば竹を割るような勢いで敵を突破できること。

しかも、自分は丞相に意見を求められたこともある。
その自分の命令は絶対であるなどと、王平に向けて怒鳴るのです。

古来、『孫子の兵法』にも「兵は詭道(きどう)なり」と書かれているように、
戦いとは詭道、つまりは「騙し合い」であって、
敵の裏をかき、あえて死地に陣を張って勝利に結びつける例もありますから、
馬謖の言い分も、見方を変えれば尤もなのですが・・・。

しかし、王平は「丞相の命令には逆らません」と言い切り、
やむなく自分だけで5000の小勢でもって
山の下に布陣し、敵に備えることにしました。

蜀軍がすでに街亭に到着していることを、
息子の司馬昭(しばしょう)から知らされた司馬懿は、
孔明の鋭い読みと才能に改めて感じ入り、街亭を諦めようとしますが・・・

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「蜀軍は小山の上に布陣しています」と、司馬昭は喜んで報告。
それを聞いた司馬懿は耳を疑い、みずから偵察に出ることにします。

司馬懿は街亭をその眼で確認すると、山上に布陣する蜀の指揮官が
名ばかりの無能な者であると見破りました。

好機とみて、ただちに街亭を包囲にかかります。
さすがは司馬懿。行動を起こすとなると迅速なこと、この上ありません。
しかし、攻めずに包囲し、水源を断つに留めました。

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魏軍の数は、馬謖の2万を大きく上回る15万。
それでも余裕しゃくしゃくの馬謖は、
包囲されるに任せ、魏軍の疲弊を待つことにするのですが・・・。

案の定、数日すると、馬謖軍の将兵は
脱水症状に苦しめられることになりました。
水を汲みに行こうにも、麓は完全に包囲され、ままなりません。

その様子を見た司馬懿の軍は、一気に攻め上りました。

馬謖は攻撃を命じますが、
高いところにいる兵が有利といっても、
それは兵が同数程度で、満足に動ける場合のみ。

飢えと渇きに苦しんだ将兵はろくな抵抗もできずに大敗。
街亭は、早々と魏軍に奪われてしまいました。

そのころ、街亭の王平から届けられた布陣図を見た孔明は、
馬謖の敗北を即座に悟り、愕然として立ち上がります。

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事態は深刻です。
かつて「夷陵の戦い」で陸遜に大敗した時のように。

蜀軍は街亭を失ったことで、これまでに攻め取った城や領地を
すべて放棄して退却しなければならなくなったのです。

街亭はそれだけ重要な拠点でした。
こうなった以上、全軍を漢中まで撤退させ、
少しでも味方を安全に退却をさせなければなりません。

「先帝・・・わたしの眼は節穴でした」
孔明は天を仰ぎ、「馬謖を重用するな」と言い残した劉備に詫びたのです・・・。

劉備の言葉を忘れたわけではないでしょうが、
自分が手塩にかけて育ててきた人材である馬謖の願いを
聞いてしまったことが、痛恨のミスにつながりました。
孔明、一世一代ともいえる失策です。

孔明は、西城に置かれた大量の兵糧を持ち去るため、
みずから城へ入ります。

そこへ迫り来る魏の大軍。
西城は極めて小さな城で、兵も1000未満。
とうてい防げないばかりか、逃げ切ることもできません。

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孔明は一計を案じ、城門を開放し、兵に民の身なりで門を掃き清めさせて、
司馬懿の軍を待ち受けることにしました・・・。これぞ、タイトルの 「空城の計」。

この作戦、はたして吉と出るか凶と出るか?
明日をお楽しみに。


◆ドラマ三国志 Three Kingdoms 人気投票 実施します!
いよいよドラマも残り10話となりました。そこで、
視聴者および ブログ読者の方々による、人気投票を実施したいと思います。
くわしくは、
こちらをご覧いただき、どしどし投票してください。

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第86話~第90話 

◆みなさま多数の投票、有難うございました。
自分の投稿が載っていない!という方、大変申し訳ございません。
投稿が集中したため、エラーで正しく送信されなかった場合があります。

すでに投票は終了しましたが、引き続き投稿はできるようになっておりますので、
その場合は、再送信していただければ掲載いたします。
(ただし、これまで同様、拍手欄からのコメントは掲載されておりません)

sangoku002
いよいよ、このドラマも最終回が近づいていますが、ここで視聴者および
ブログ読者の方々による、人気投票を実施したいと思います。

1.本作の登場人物の中で、好きな人物、良かった人物、
 興味をもった人物など・・・気になる人の名前を1人から6人まで

 
下記コメント欄から投票してください。(俳優名ではなく役名でお願いします)
 
 その際、選んだ理由も簡単でいいのでご記入いただけると嬉しいです。
 対象は武将や軍師、文官など男性はもちろん女性も含みます。
 (思いつかない場合は、6人に達していなくても結構です)

2.本作全95話の中で、とくに印象に残った、
 面白かった話のタイトルを1つ~6つまで、
 合わせて下記コメント欄から投票してください。
 (思い浮かばない場合は1つだけ、または無回答でも結構です)

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※投票はおひとり様につき人物は6人まで、タイトルは6話まで有効といたします。 
 つまり「今日は1人(または1話)だけにしておこうかな?」と思われたら、
 1人(1話)ずつ、日を改めて別々に投票していただいても結構です。
 (もちろん、それぞれ6つに達していなくてもOKです)
※ただし、それぞれ6つ以上の投票は日を改めていただいても無効とし、
 また、同じ人物・同じ話に2回以上投票されても無効といたします。
※必ずお名前(ハンドルネーム)をお書きください。
 (無記名、名無し、通りすがりなどの投票は無効とします)
※人気投票は、この投票ページのコメント投稿欄または拍手欄からお願いします。
 内容、結果は最終回終了後まで公開されません

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三国志TK人気投票! 

2012年07月30日

皆さん、こんばんは!ストーリーテラーの哲舟です。
今週も頑張って綴ります、よろしくお願いします。

地図と年表のページを、独立して設けましたので、
ぜひ、お役立ていただければと思います。

さて、「出師の表」を上奏し、
不退転の覚悟で魏侵攻(北伐)を開始した諸葛亮(孔明)。

その報告を受けた魏の皇帝・曹叡(そうえい)は、
さっそく軍議を開き、対策を練ります。

まだ20歳を過ぎたばかりの若い曹叡は、
老臣・王朗(おうろう)の反対を無視して、
夏侯楙(かこうぼう)を大都督に任命し、蜀軍を防がせます。

夏侯楙は漢中の戦いで、蜀軍に殺された夏侯淵(かこうえん)の子。
命令を受け、父の無念を晴らそうと、勇んで出陣してゆきます。

いっぽう、進軍中の孔明は、
途中で軍を止め、地図で中原へ向かうルートを確認します。

孔明は、軍勢を二手に分け、先鋒の趙雲らをおとりとして進軍させ、
敵がそこへ引きつけられている間に、
自分の率いる本隊が祁山(きざん)、隴西(ろうせい)を攻め取り、
じっくり足場を固めながら進軍するよう指示しました。

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すると、魏延(ぎえん)が5千の兵を預かりたいと願い出てきます。
自分はそれとは別のルート、険しい山脈を越えて、
さらに子午谷(しごこく)を通って長安を奇襲し、
攻め取ってみせると豪語するのです。

孔明がめざすルートでは時間がかかり過ぎるため、
道なき道を行き、魏軍の裏をかこうとする作戦です。
しかし、慎重な性格の孔明はその策を退けます。

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万一、敵に見つかれば全滅は免れません。
失敗の許されない戦い。万全の布陣で行軍したいがため、
魏延の博打に近い作戦は受け入れがたいものだったのです。
策を退けられた魏延は、深い溜息をつきます・・・。

順調に進軍を続ける孔明は、夏侯楙が来ると聞いても
まったく恐れを抱きませんが、ただひとり、
司馬懿(しばい)の動向を気にしていました。

その司馬懿が雍涼(ようりょう)に赴任したと聞き、孔明はやや顔色を変えます。
曹叡の意図は見えませんが、司馬懿が軍権を握っているとすれば厄介。
そのため、魏の陣営に「離間の計」を仕掛けることを思いつき、手を打ちました。

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いっぽう、雍涼に赴任した司馬懿は、自らの判断で
孔明の攻撃に備え、ひそかに兵を増強していました。
さすがは司馬懿。孔明がおとりを使ってくるであろうと見越し、準備していたのです。

しかし、孔明の仕組んだ偽の布告状が出回り、
洛陽の曹叡のもとに、司馬懿が野心を抱いているとの情報がもたらされました。

曹叡は、司馬懿がわずかな兵で謀反をたくらむはずがないといいますが、
司馬懿を快く思わない曹休(そうきゅう)は、
彼が兵力を無断で増強していると吹き込み、疑いをもたせます。

曹叡はみずから雍涼に出向いて、直接司馬懿に問いただすことにしました。
すると、曹休のいうとおり、司馬懿が独断で兵を増やしていると発覚します。

曹叡は、結局司馬懿を疑い、官職をすべて剥奪したうえ、
雍涼の地も召し上げ、故郷の河内(かだい)郡へと追いやってしまいました。
孔明の策略は、見事に成功したのです。

司馬懿のいない魏軍を、孔明は面白いように翻弄し、各地で撃破。
先鋒の趙雲が、夏侯楙を難なく打ち破って生け捕りにすると、
さらに、南安、安定などを攻略し、
天水(てんすい)郡の武将、姜維(きょうい)を降伏させました。

その報に怖れおののいた曹休は雍涼を捨てて、逃走する有様。
蜀軍は連戦連勝、まさに快進撃を続けます。

敗戦につぐ敗戦の知らせを受け、
長安の手前にまで迫られたと聞いた曹叡は大激怒。

曹叡は、大将軍の曹真に迎撃を命じますが、曹真は尻込みして出陣を躊躇します。
そこへ、この年76才になる、司徒の王朗(おうろう)が
老骨に鞭打ち、軍師としての従軍を申し出ると、しぶしぶ出陣します。

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かくして、曹真の軍は祁山で蜀軍と対峙します。
王朗は、得意の弁舌で孔明の気勢を削いでやろうと、
自信たっぷりに、単騎で馬を進めていきました。

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それに応じ、孔明も四輪車に乗って前に出て、王朗と対面。
王朗は、孔明に対して「魏が天下を治めるのは天命によるもの。
それに対して喧嘩を売るとは何事だ」と一喝し、降伏するよう諭します。

しかし、孔明はいささかもたじろがず、もとは漢の臣下でありながら
今は魏のもとで官位をむさぼる王朗を手厳しく批判したうえ、
「白髪頭の匹夫(ひっぷ)、老いぼれは早く立ち去れ」と、
とどめの一言を付け加えます。

85-06
王朗は何も言い返せないどころか、孔明の鋭利な舌鋒によって
屈辱にまみれ、怒りのあまり血を噴き出して馬から落ちてしまいました。

陣中に連れ戻された王朗ですが、
そのまま目を覚ますことなく、死んでしまったようです。
孔明の舌鋒もそうですが、行軍の無理が祟ったのでしょう。

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舌先だけで人を殺した孔明を、曹真は大いに恐れます。
そのため、積極的に打って出ず、王朗の死を餌に蜀軍をおびき寄せて
打ち破ろうとするのですが・・・。
しかし、その作戦を読んだ孔明は、
曹真が伏兵を置いた場所を見破り、難なく撃破してしまったのです。

またしても敗退を重ねる魏軍。弱り切った曹叡は、
重臣の鍾繇(しょうよう)に、今後の出方を相談しました。
鍾繇は、「やはり孔明に対抗できるのは、司馬懿しかいない」と進言。
曹叡は以前、司馬懿を疑って左遷したことを恥じ、彼を呼び戻すことにしました。

いっぽう戦勝を喜ぶ、蜀の陣営。
孔明も、「このままいけば、あと半年で中原を攻略できる」と珍しく喜びます。

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そこへ、李豊(りほう)が、父の李厳(りげん)の書状を届けにきました。
それは李厳が苦心した結果、魏将の孟達(もうたつ)が蜀軍に寝返り、
謀反を起こすと約束してきたことを伝えるものでした。

孟達が魏の内側から洛陽を攻めれば挟み撃ちにでき、
労せずして洛陽を攻め落とせる・・・孔明は李厳の手柄を褒めたたえます。

蜀軍にとって、すべてがうまく運んでいます。
孔明は上機嫌で、孟達へ届けさせる書状を自らしたためるのでした。

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そのころ、司馬懿は自邸に籠り、静かに日々を過ごしていました。
魏軍連敗の知らせは、当然司馬懿のもとにも届いていますが、
司馬懿は何食わぬ顔で琴を弾きながら、ただ時を待っていました。

そこへ、彼が内心待ちに待った、曹叡からの詔が届けられます。
曹叡は書状の中で、司馬懿に対して深く謝罪するとともに、
大都督に任じ、軍権を与えるのでした。

魏軍の敗北に次ぐ敗北の結果、「現場復帰」を遂げた司馬懿。
司馬懿は、この劣勢をどのようにして覆しにかかるのでしょうか・・・。


【このひとに注目!】
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◆姜維(きょうい)  
字/伯約(はくやく) 202~264年
涼州・天水郡の太守、馬遵(ばじゅん)の配下。蜀軍の攻撃に備えていたが、蜀との内通を疑われて行き場をなくし、やむなく蜀に投降する。残念ながら本作では描かれなかったが、原作では投降する前に孔明の策を見破り、それを逆手にとって蜀軍を苦しめたり、趙雲と互角以上に打ち合ったりする武勇を見せている。以後は、孔明の忠実な部下として、北伐軍の主力の一人として活躍する。涼州の地理に通じ、智勇ともに優れる彼の加入は、蜀軍にとって大きな助けとなるのだ。
 

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第81話~第85話 
ドラマを見ているだけでは、なかなか分からない中国の地理と時代の流れ。
ここに地図と年表を掲載しておきますので、ご参考にしていただければ幸いです。

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184年・・・黄巾の乱。劉備・関羽・張飛が桃園の誓いを結ぶ。

189年・・・曹操が董卓暗殺に失敗。(1話

190年・・・曹操、袁紹が連合軍を結成し、18鎮諸侯を集め董卓と戦う。(3話
      虎牢関の戦い。董卓が洛陽を焼きはらい長安に都を移す。(5話

192年・・・孫堅が劉表との戦いで戦死。(7話
      呂布が董卓を殺害する。(10話
      李傕・郭汜が長安を攻略、支配する。

193年・・・曹操の父が陶謙の部下に殺され、曹操が徐州へ侵攻。(11話

194年・・・陶謙が死去し、劉備が徐州牧となる。

196年・・・曹操が洛陽で献帝を保護し、許へ都を移す。(13話
      劉備と袁術の戦いを、呂布が戟を射て仲裁する。(15話

197年・・・孫策が袁術に玉璽を送り、兵を借りて独立。(15話

198年・・・下邳(かひ)城に籠城する呂布が部下の裏切りで曹操に捕われる。(18話

199年・・・曹操が許田の巻狩りで献帝の弓を奪う。(19話
      袁紹が公孫瓚を攻め滅ぼす。劉備が袁術を討伐し、袁術死去(21話)。
      劉備、そのまま徐州にとどまり、曹操から独立する。

200年・・・曹操が自分の暗殺を企てた吉平、董承らを処刑する。(22話
      劉備が曹操に攻められ、逃走する。関羽が曹操に投降。(23話
      関羽が「白馬・延津の戦い」で顔良・文醜を斬る(24話
      「官渡の戦い」で曹操が袁紹を破る。(27話~29話)
      孫策が暗殺される。(34話

201年・・・劉備が袁紹のもとを去り、劉表のもとへ身を寄せる。(30話

202年・・・袁紹が病死する。

207年・・・曹操が袁紹の子らを討伐し、河北を統一。(30話
      徐庶が劉備の軍師として仕えるも、すぐに曹操のもとへ去る。(32話
      劉備が三顧の礼で諸葛亮を迎える。(33話

208年・・・荊州刺史の劉表が死去。
      曹操が荊州攻略に乗り出し、劉琮を降伏させる。(35話
      劉備が江夏へ敗走。(長坂坡の戦い)
      趙雲、阿斗を救い、張飛が曹操の追撃を止める(36話
      諸葛亮が江東へ乗り込み、孫・劉同盟を結ぶ。(38話
      孫権・劉備の連合軍が曹操を撃退する。(赤壁の戦い)42話
      関羽が敗走する曹操を華容道で見逃す。
      周瑜が南郡を攻略中、劉備が荊州四郡を奪う。(46話~50話)
      合肥の戦いで孫権が曹操に敗退する。

209年・・・劉備が孫権の妹(小妹)と結婚するため江東を訪れ滞在する。(52話~56話)
      
210年・・・周瑜が志なかばで死去する。(57話
      曹操が銅雀台を築き、部下や息子たちを競わせる。(59話
      西涼の馬騰が曹操暗殺を企てるが失敗、殺害される。(61話
      馬超・韓遂が挙兵し、曹操と戦う。(潼関の戦い)62話

211年・・・曹操が馬超を破る。(潼関・渭水の戦い)63話
      劉備が劉璋の求めにより益州へ進軍する。(64話
      孫権の策により、小妹が呉へ帰る。(65話

214年・・・劉璋が劉備を攻撃し、敵対する。龐統が戦死。(66話
      馬超を下した劉備が成都を陥落させ、益州を得る(67話

215年・・・曹操が張魯を討伐し、漢中を得る
      劉備が孫権に荊州の一部を返還。(68話

216年・・・曹操、魏王となる。(68話

219年・・・漢中・定軍山の戦い。曹操の部下、夏侯淵が戦死。
      劉備が漢中を平定し、漢中王となる。(70話
      関羽が樊城を攻め、援軍の于禁、龐徳を破る。(71話
      関羽が留守の隙に呂蒙が荊州城を奪う。
      関羽が徐晃と呂蒙に挟撃され、麦城に敗走、戦死する。(72話

220年・・・曹操が病死し、曹丕が魏王を継ぐ。(73話
      曹丕が献帝から譲位され、帝位に就き魏を建国。(76話

221年・・・劉備が帝位につき、蜀漢を建国する。
      張飛が部下に殺害される。(77話
      劉備が呉討伐軍を起こす。(78話
      孫権が魏に臣従し、呉王となる。(79話

222年・・・黄忠が戦死するも、蜀軍が勝利を重ねる。
      陸遜が大都督となり、呉の全軍の指揮をとる。(80話
      劉備、陸遜の火攻めに遭い大敗。白帝城へ逃げ込む。
      (夷陵の戦い)82話

223年・・・劉備が死去し、劉禅が蜀漢の2代皇帝となる。
      司馬懿の献策により、魏軍が蜀へ侵攻。(83話

225年・・・諸葛亮、南征して孟獲を破り、降伏させる。

226年・・・曹丕が死去し、曹叡が魏の2代皇帝となる。(84話

227年・・・諸葛亮が「出師の表」を劉禅に上奏する。(84話

228年・・・諸葛亮、第1北伐を開始。街亭の戦い。



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地図と年表 

2012年07月27日

こんばんは!哲舟です。

今日の第84話から、いよいよ最終章・第7部「危急存亡」。
蜀の諸葛亮(孔明)と魏の司馬懿(しばい)の対決に、スポットが当てられます。

残り少なくなりましたが、今日を含めて残り12話。
8月中旬のフィナーレまで、もう少しありますが、
どうか最後までお付き合いください!

084-23
さて、孔明の命令で呉に派遣された蜀使・馬謖(ばしょく)は、
孫権に謁見し、呉と蜀との再度の和睦を願い出ます。

「夷陵の戦い」で、劉備と同盟したはずの孫権ですが、
魏から蜀侵攻の援軍要請があったために、
とりあえず、魏には承諾の回答をしていました。
曖昧な回答でお茶を濁す、孫呉お得意の作戦です。

そのため、まずは蜀使・馬謖に対しては強気に出て、
彼の人物と才知を試そうとします。煮えたぎる油で満たした
巨大な鼎(かなえ。肉などを煮るための青銅器)を置き、
即座に馬謖をその中に放り込むよう命じます。

しかし、馬謖が少しも慌てずに高笑いしたのを聞いて、
孫権も話を聞く気になり、言葉を交わそうという気になりました。
第一関門クリアといったところでしょう。

084-31
馬謖は、「魏・呉・蜀の三国は、あの鼎(かなえ)の脚も同様。
いずれが欠けても、天下は倒れます」といい、
とくに、呉と蜀は人間の両足であると例え、同盟の必要性を説きます。

孫権が答えを渋っていると、馬謖は自ら鼎に飛び込もうと歩きだします。
が、その度胸に感じ入った孫権は、馬謖を引きとめました。

084-30
大いに心を動かされた孫権は、魏の使者を鼎に放り込むことで、
蜀と同盟を結ぶことを約束したのです。
さすがに、使者が放り込まれるところはカットされ、撮影されなかったようですね・・・。

ちなみに、正史ならびに原作では、
このときに蜀から派遣されたのは、鄧芝(とうし)という人物なのですが、
本作では鄧芝は登場せず、馬謖にその役回りが与えられました。
「どうして?!」と思われる方もいらっしゃると思いますが、
これまでにも、いくつかあった本作のオリジナル要素のひとつとして、
ご納得いただくほかはありません(笑)。

かくして、呉の協力が得られなかった魏軍は、
指揮官の曹真や曹休らが凡将であったことに加え、
連携の拙さにより、馬超や趙雲らがひきいる蜀軍の前に大敗。
蜀討伐は失敗に終わります。

084-18
蜀討伐に失敗した魏帝・曹丕(そうひ)は、
「今回の敗戦は呉の裏切りのせいである」といって、
再度軍勢を編成し、今度は呉の討伐を目指し、
水軍35万をもって荊州への出陣を命じます。

指揮官には、前回同様に
一族の曹真(そうしん)、曹休(そうきゅう)が任命されました。

司馬懿は、呉と蜀が同盟し、協力関係にある以上、
勝利は見込めないとして出兵を諌め、富国強兵を勧めますが、
曹丕は激怒し「余計な口を挟むな」といい、司馬懿を下がらせました。

荊州へ出陣した曹丕ですが、
呉と蜀の連合軍の前に敗れ、命からがら洛陽へ逃げ帰ります。
ドラマではさらりと流されましたが、この「濡須口(じゅすこう)の戦い」は
「赤壁の戦い」同様の魏の惨敗だったようです。

084-26
手ひどくやられた曹丕は、持病が悪化し、病の床に伏します。
司馬懿が見舞いに来ると、曹丕は激しく咳き込んで血を吐いていました。

曹丕は幼少期から持病を抱えており、
父の曹操にも司馬懿にもそれを隠して生きていたことを告白。

出陣を急いだのも、自分が生きているうちに、
呉や蜀を討伐したいとの一心からだったのです。
しかし、それは失敗に終わり、もはやその身も終わりが近づいています。

司馬懿は、魏のために軍を率いたいと改めて願い出ます。
曹丕はようやくそれを聞き入れ、華歆(かきん)を呼び寄せて、
司馬懿を驃騎大将軍(ひょうき・だいしょうぐん)に任じました。

084-27
曹丕は、司馬懿に対し、息子の曹叡(そうえい)の補佐を頼み、
何度も念をおし、司馬懿が頷くと、安心したように倒れ込み、
そのまま息を引き取ってしまいました・・・。

西暦226年、魏の初代皇帝・曹丕は、40年という短い生涯を閉じます。
父、曹操の死からわずか6年。あまりに呆気ない死でした。

あっけなさ過ぎて、私も本当に拍子抜けしました。
これまで、曹丕をじっくり描いてきたのですから、
もう少し、余韻があっても良さそうなものでしたが・・・。

曹丕は父のような軍事的才能には恵まれず、
目立った軍功も武勇もありません。
原作では、「夷陵の戦い」の行方を言い当てるなどの才を見せましたが、
本作ではそのような描写もなく、比較的凡庸な人物に描かれました。

しかし、その在位中は魏の国内で目立った争乱もなく、
孔明の侵攻を一度も許さなかったことなどを考えると、
君主として、ある程度ふさわしい統治をおこなっていたと評価できます。

・・・その夜、司馬懿は茫然自失としていました。
幼い時から面倒をみて、その後継者争いにも力を貸し、
彼なりに忠節をつくして支えてきた主が、こんなにも早く逝ったのです。

084-33
「40にして亡くなられるとは・・・私は50を過ぎてやっと軍権を得たというに・・・
 口惜しくてたまらん」

さすがの司馬懿も、このところ予想外のことが続き、ショックを隠せない様子。
それを聞いた静姝(せいしゅ)も、よほどの衝撃だったとみえて
運んできた羹(あつもの)を取り落としてしまいました。

084-35
この驚き方は尋常ではありません。
司馬懿は、今回「そなたの主が死んだ」といいました。
静姝の「正体」、つまり曹丕から派遣されていた密偵であったことは、
とうに見抜いていたようです。彼は今後、静姝をどう扱うのでしょうか。

084-36
亡くなった曹丕の後を継いだのは、長男の曹叡(そうえい)という人物です。
今回が初登場なので馴染みが薄いと思いますが・・・覚えてあげてください。

帝位についたばかりの彼のそばには、
さっそく一族の曹真、曹休が呼ばれ、今後の対策を協議します。

曹真(そうしん)は曹操の甥にあたり、
曹休(そうきゅう)は曹操とは血のつながりはありませんが、
2人とも曹丕と同様に大事に扱われてきた人物です。

本作ではこれまで出番はありませんでしたが、史実上では2人とも
若いころから曹操軍の中核として働いてきた功臣であり、名将です。

084-28
しかし、本作における曹真、曹休は典型的な佞臣で、
軍事的才能にも思慮にも乏しい無能な人物として描かれています。

曹真たちは、言葉巧みに司馬懿の野心をあげつらい、
彼を都から遠ざけてしまうよう勧めます。

曹叡はそれを聞き入れ、司馬懿を揚州・涼州の大都督に任じ、
辺境の城へと送ってしまいました。

左遷された司馬懿は、なぜか非常にうれしそうな顔をして、任地へと赴きます。
揚州・涼州は魏の守りの要であり、左遷されるまでもなく、
それを願っていたというのです・・・。

一方、成都の孔明はひとり、部屋にこもって、
長い文章をしたためていました。これが世に名高い「出師(すいし)の表」です。
出師(すいし)とは、出陣つまり軍隊を送り出すことを指します。

曹丕が死んだことで、その動揺を突くには今をおいて他にないということで、
魏討伐(北伐)を敢行するにあたっての決意を表明するためです。

劉備の死後、孔明は「夷陵の戦い」で失われた兵馬と、
疲弊した国力の回復に力を注いでいました。

その間、「南蛮」と呼ばれる南の異民族を討伐し、
これを降伏させて従えて後顧の憂いを取り除きました。
劉備が死んでからすでに4年の歳月が経ち、ようやく準備が整ったのです。

そこで、いよいよ蜀漢としての悲願である中原奪回をはかろうと
行動を起こすのですが、しかし、道のりは困難です。

荊州を失ったことで、蜀軍は中原進出への楽なルートを失っています。
このため、輸送の困難な北方の山脈越えをして、
まずは長安を攻め落とし、それから魏の都・洛陽をめざす必要がありました。

084-13
孔明は、劉禅に「出師の表」を上奏し、出兵の許可を求めました。
李厳(りげん)がこれに反対しますが、孔明の意思は並々ならぬものがあります。

李厳の言葉も正論で、蜀は三国の中で最も弱小です。
魏と蜀を比べた場合、その国力差は倍以上の開きがあります。
しかし、孔明が言うように座したままでは漢室の中興などかなうわけもありません。

守りに徹していれば、蜀という国の体裁を何十年かは保てるでしょうが、
劉備から後事を直接託された孔明としては、
北伐の兵を起こすことこそが、彼の恩義に報いる唯一の手段なのです。

084-03
孔明は、諸将に次々と軍令を与えていきますが、
趙雲にだけは、命じないままでした。
当然、用いられないことで趙雲は反発します。

先ごろ、馬超も病で亡くなり、
先帝・劉備が任命した五虎大将軍は、趙雲のみとなってしまいました。
歴戦の名将・趙雲も、50歳をとうに過ぎています。

孔明は、唯一の生き残りである趙雲に無理をさせたくないために
出陣を命じなかったのですが、魏との決戦に出陣できないのなら、
趙雲は頭を砕いて自害するとまで言ったため、
仕方なく彼を先鋒に任命しました。
ただ、こうなることは、孔明も分かっていたようにも見えます。

こうして、孔明の5度にわたる魏との死力を尽くした戦いの緒戦、
「第1次北伐」が開始されたのです。
 

【出師の表(すいしのひょう)について】
084-01
孔明が魏打倒にあたって認めた書面は、『正史』にも記録されて伝わっている。この表は2回にわたって出され、最初の北伐の前、西暦227年に、劉禅に出した文書が『前・ 出師表』。229年に出されたものが『後・出師表』という。死を覚悟して戦いに臨むにあたっての決意表明、遺言状ともいえるもので、若き皇帝・劉禅を教え諭す内容となっている。中国では、「これを読んで泣かない者は人ではない」名文とされてきた。その内容を要約し、簡単ではあるが掲載する。
 「いま、天下は魏・呉・蜀に三分しています。わが蜀は疲弊し、大変な危機が迫っていますが、人材のがんばりで持ちこたえています。陛下はそれをよく理解し、人を大切にして刑罰はひいきのないように、公平に行ってください。優秀な人を遠ざけ、つまらない人を用いてはなりません。 私は、かつて田畑を耕す田舎者でしたが、先帝(劉備)は三度も私の家を訪れて拾ってくださいました。感激して先帝のために奔走し、あれから21年。南は定まり、兵も充実しました。今こそ中原に出て、逆賊たる魏を破り、漢王朝を復興させることが、先帝へのご恩返しであり務めです。どうか私に任を与えてください。失敗したら私を罰し、先帝の霊に報告してください。今、まさに遠く離れるにあたり涙がこぼれ、何をいいたいのかも分からなくなってしまいました・・・」

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第81話~第85話 

2012年07月26日

こんばんは!哲舟です。
今宵も、ハンカチのご用意はよろしいですか・・・?

084-22
諸葛亮(孔明)は、呉の使者であり兄でもある諸葛瑾(しょかつきん)と、
今後も、孫・劉同盟(呉蜀同盟)を崩すことのないよう心を合わせました。
ただ、荊州は結局、呉の領土のままであることには変わりありません。

083-10
そして、いよいよ最期を悟った劉備は孔明を再び枕元に呼びます。
孔明を以前のように「先生」と呼び、これまでの労に対する
感謝の念を述べ、改めて今回の出陣を悔やみ、詫びます。

ここで、珍しく回想シーン(第33回)が挿入されました。
あのとき孔明が語った「天下三分の計」は、
ほんの数年前まで彼の思惑通りに運び、間違いなく実現しかけました。
しかし、荊州失墜と夷陵(いりょう)での大敗により、水泡に帰したのです。

劉備は、息子・阿斗(劉禅)の助けを借りて
身を起こすと、孔明にこう言います。

「そなたの才は曹丕に勝り、孫権の100倍ある。
 もし、そなたがこの子の補佐役が望みなら補佐してほしい。
 しかし、大業をなす器にあらずと見極めし時は、
 そなたがとって代わり、帝位を継いで蜀をおさめるのだ」

孔明は驚き、「分不相応なことは考えません」といって、
忠節を貫くことを誓います。

劉備の本心は息子よりも孔明に跡を託したいのですが、
孔明の性格上、君臣の関係を逆転させることなど
出来ないと知っています。それを分かっていても頼みたかったのでしょう。

083-23
劉備は、劉禅に対し、今後は孔明を父と仰ぐようにといい頭を下げさせます。
劉禅は素直な性格だけが長所。
孔明を父と仰ぎ、蜀を存続させていくよう誓いました。

劉備には、このとき劉禅のほかにもう2人、
劉永、劉理という息子がいました。(本作には登場せず)
しかし、長男は劉禅ですし、2人の弟は年齢は不明ですが、
まだ10歳になるかならないか。やはり後継者は劉禅しかいなかったようです。

083-13
いよいよ死期を悟った劉備は、孔明に諸官を呼びに行かせ、
ひとり残った劉禅に、歴史書『史記』の一節である「高祖本紀」を
諳んじさせますが、劉禅はやはり最後までいえません。
(高祖とは400年前に「漢」を建国した劉備親子の先祖とされる劉邦のこと)

「まだ、覚えておらんのか・・・」
劉備は手をあげて劉禅の頬を打とうとし、劉禅は打たれようとしますが、
その手は力なく頬を撫でるのみで、するりと落ちていきます。

そして、劉備の手は二度と持ち上がることはなく、
諸官たちが慌てて入ってきたときには、
すでに言葉を発することはなくなっていました。

083-01
西暦223年、劉備逝去。享年63歳。

関羽・張飛の仇討ちをすることも叶わず、
漢帝国中興の悲願を果たすこともできずに死んだ劉備。
その無念を思うと心が裂けそうなほどです。

最期は蜀にとって致命傷ともいえる損害を出し、
大業を果たせぬまま去った彼ですが、
しかし、私はこの三国志という物語の真の主役は、劉備だと思っています。

最初から、ある程度の財力や基盤のあった曹操や孫権と違い、
ほとんどゼロの状態から身を立て、何度負けても逃げ延びて、
不屈の精神で再起し、ついには皇帝となった劉備。
彼がいなければ、三国時代の扉が開かれることはなかったでしょう。

彼は不思議な仁徳を備えており、
行く先には常に彼を匿ったり、協力を惜しまぬ人が現れました。
あるときは数十万の民衆が劉備を慕ってその後を追ったこともありました。

0019
「三国志演義」を原作とする作品では、これといった取り得もなく、
徳だけに優れた聖人君子的な人物として描かれることの多い劉備ですが、
それらは彼の本当の姿とはいえないかもしれません。

三国志には色々な作品があり、その人物の描かれ方は実に様々です。
剣の腕が達者で、頑固で決して意志を曲げす、時に恐るべき勘の鋭さと
ずる賢さをも発揮し、危機を切り抜け続けた本作の劉備は、
彼本来の魅力を、よく表すことができていたように思えます。


・・・その死の知らせが、建業(けんぎょう)の孫権のもとへ届きました。
孫権は、墓の前で弔いの笛を吹いています。

その墓は、最近亡くなった妹、小妹(しょうめい)のものでした。
小妹は劉備が大敗した後、病にかかり呆気なく世を去ったといいます。
小妹の死と1日違いであったという劉備の訃報を受け、驚きを隠せない孫権。

083-04
乾いた笑いの後、深い悲しみに襲われる彼でしたが、
すぐに君主の顔に戻り、ひとまずの脅威が去ったことを安堵しました。
劉備には深く恨まれていることを自覚していたからです。

しかし、その顔は「曹・劉・孫」の三者で、自分だけが残ったことを
喜ぶばかりではなく、同時代を生きた英雄が2人とも去ったことを思い、
特別な感慨にひたっているようにも感じられました。

一方、魏の都・洛陽にも、「劉備死去」の知らせが届いていました。
曹丕(そうひ)、司馬懿(しばい)にとって、
劉備は巨大で厄介な存在でしたから、朗報以外の何ものでもありません。
喜びの表情を隠そうにも隠せない2人。

083-15
司馬懿邸に自らやってきた曹丕を、
静姝(せいしゅ)がまず出迎え、司馬懿と司馬昭親子が迎えます。

曹丕はその隙を突き、蜀打倒のため挙兵を考えていることを告げると、
司馬懿もまた、そのために戦略を考えていると応えます。

083-16
司馬懿は、まず劉備の死後に
実権を握るはずの孔明を警戒するように諭しました。

その一方で、南蛮王の孟獲(もうかく)や、
鮮卑(せんぴ)の軻比能(かひのう)など、蜀の背後にいる
異民族たちと手を組み、蜀を挟みうちする策を披露します。

漢中は孟達を動かし、益州は孫権を動かすことで攻撃し、
智勇を備えた将軍に10万を与え、陽平関を攻めるという、
5つの大軍を発して蜀を打ち破れば良いというのです。

083-17
司馬懿は、その軍の主力を任せてほしいと願いますが、
曹丕は、やはり司馬懿に実権を与えることを怖れ、拒みました。
代わりに、その役目を親族の曹真(そうしん)に依頼します。

さて、蜀の都・成都では、劉備の跡をついで新たに皇帝となった劉禅が、
魏とそれに呼応した大軍が、蜀へ侵攻しているとの知らせを受け、
大いにうろたえていました。

しかし、孔明は朝議には出ず、丞相府で防衛の策を練っていたのです。
孔明は、すでに迫り来る4つの軍に対し、すべてに策を講じて
守りを固めさせる手筈を整えていました。

084-29
それにすっかり感心し、喜ぶ劉禅。
彼は父の遺言通り、孔明にすべての軍権を任せようと心を決めるのでした。

魏が用意した4つの軍勢に対しての策は講じましたが、
残る1つの気がかりは、呉の侵攻です。

劉備が亡くなる前に、呉と再度の同盟を結んだとはいえ、
魏から良い条件を持ちかけられれば、孫権が心変わりして、
いつ、蜀へ攻め寄せてくるか分かりません。

孔明は、呉の意志を確認し、改めて同盟を強化させんがため、
腹心の部下・馬謖(ばしょく)を呉へ派遣します。

劉備が臨終のさい「馬謖は重用するな」と忠告したことを
御記憶の方も多いかと思いますが、
孔明はそれを覚えているのかいないのか・・・。

呉王・孫権のもとには、魏からも出兵を乞う使者が派遣され、
待機しているところでした。

さて、馬謖は孔明の要求に応え、
呉との同盟を結びなおすことができるのでしょうか・・・?

(年表はこちらに移動させました)

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第81話~第85話 

2012年07月25日

こんばんは!哲舟です。

夷陵の戦場において、「劉備が山林へ陣を移した」との
報告に接した諸葛亮(孔明)は、即座に味方の敗北を予見しました。

082-07
こうなった以上、損害を少しでも減らすしか方法はありません。
そこで、荊州と益州の境にある魚腹浦(ぎょふくほ)という場所に
馬謖(ばしょく)を派遣し、八卦の陣をしいて待つよう命じます。

呉軍の追撃を食い止め、味方の退路を確保する時間稼ぎをするためです。
また、趙雲(ちょううん)には、敗退してくるであろう
味方の軍を救援して白帝城へ入るよう、前線へ赴かせました。

連日勝利の報告が入っているにも関わらず
「蜀が敗北する」という孔明の言葉に、趙雲は耳を疑いますが、
「智者も千慮に一失あり」との一言に覚悟を決め、
騎兵1万を率いて荊州へ向かいました。

そのころ、夜を迎えた夷陵(いりょう)の戦場では、
勝利を目前にした呉軍が、火攻めの機会をうかがっています。

082-02+1
大都督・陸遜(りくそん)の合図が伝わると、
攻撃隊長の韓当(かんとう)が号令をくだし、
ついに蜀の陣営に火が放たれました。

火矢が飛び交い、油の入った壺が次々と投げ込まれ・・・、
蜀軍の陣地はたちまち業火に包まれます。

082-04
延々、数百里にわたって陣を連ね、
密集した軍勢の周りは、木々が生い茂る山林。
その燃え広がり方の速さは尋常ではありません。

ただでさえ、長期戦に倦んでいた蜀軍の将兵。
夜に入り、身体を休めていた将も兵も、突然の業火に驚き、
逃げようにも逃げ場なく、その人馬はなす術もなく焼かれていきます・・・。

082-03+1
関興(かんこう)の呼ぶ声に、
劉備が目を覚まして帳幕を出たとき、そこはすでに火の海でした。

劉備の眼に移ったのは、焼け落ちる自軍の陣営と、
逃げまどい、次々に討たれる味方の兵の姿でした。
それは、かつて赤壁で曹操が目にした悪夢と同じような
凄惨な光景だったに違いありません。

082-10
勝ちに奢り、油断した挙句に招いた、まぎれもない敗北。
75万の大軍が炎に呑まれ、この1年で積み重ねてきた勝利が
灰燼に帰していくさまを、劉備はただ茫然と見守ります・・・。

「劉備を生け捕れ!」との敵軍の声に激した劉備は、
みずから剣を握り、反撃を命じますが、
投げつけた剣は、呉軍の一兵士を倒したに過ぎません。
もはや万事休す。味方の将兵に抱えられ、退却するほかなくなりました。

西暦222年夏、「夷陵の戦い」は呉軍の大逆転勝利、蜀軍の惨敗で幕をおろします。

蜀の陣営を壊滅させ、追撃に移った陸遜ひきいる呉軍は、
魚腹浦(ぎょふくほ)へとやってきます。

082-14
兵法に通じる陸遜は、孔明が一時しのぎに仕掛けた八卦の陣を見破り、
難なく通過したようですが、「臥龍(がりょう・孔明のこと)に比すれば、
私など足元にも及ばぬ」といい、警戒を緩めずに進みます。

そこに、孔明が馬謖に渡した碁器が届けられます。
中にはセミとカマキリの死骸が入っていました。

82PDVD_076
それを聞いた陸遜は、中身を確かめようともせず意味を察して、
「もっともだ」と悟り、追撃をやめて撤退に移ります。

「蟷螂(とうろう)蝉をうかがい、黄雀(こうじゃく)後ろにあり」
すなわち、カマキリ(呉)が獲物のセミ(蜀)を捕まえようと窺っていると、
スズメ(魏)が後ろに忍び寄っているかもしれないぞ・・・という、孔明の謎かけです。
知恵者同士ならではの高度な駆け引きというしかないでしょう。

案の定、兵を退いたところに魏が20万の兵を
荊州に差し向けたという情報が入ってきました。
陸遜と対応策を練るため、孫権も前線に出向いてきています。

孫権も魏が侵攻してくることはとうに計算しており、
各戦線に軍勢を派遣し、魏の本隊を率いる曹仁(そうじん)に対しては、
陸遜の旗を掲げさせるだけで撤退させるよう手を打っていました。

82PDVD_149
しかし、今回は撃退できても、最強の魏に対抗するのは
独力では難しく、孫・劉連盟を復活させるしかない・・・。
孫権はそう悟り、またも諸葛瑾(しょかつきん)を劉備のもとへ派遣します。

手土産として、今回の勝利で得た蜀軍の兵馬や食糧を
すべて蜀へと返還するよう申しつけました。

082-16
一方、益州と荊州の境にある白帝城(はくていじょう)に入った劉備は、
敗戦の痛手から立ち直れず、床に伏していました。

疲れ果てた体は、いつしか病にかかり、起き上がる気力もないようで、
蜀の都・成都にも帰ることができずにいます。
将兵も壊滅状態で、すぐには立て直すことができません。

趙雲、馬良(ばりょう)の心配をよそに、
彼はここ数日、食事さえしようとせず、絶望の淵にいます。

82PDVD_107
「朕は、心身ともに疲れ果てた。もう長くない・・・」
弱音を吐く劉備を、趙雲は涙を流して励まします。

それから数日後、
孔明と、息子の劉禅(りゅうぜん)が、成都から呼ばれてやってきました。

劉備は、孔明を枕元に呼び寄せ、
今回の荊州遠征が、孔明の言葉に従わずに招いた
失策であったことを詫び、無念の言葉を口にします。
自分がもっと早く忠告できていれば、陸遜に勝てたはずです、
と、恐縮しながら孔明は答えます。

そこへ、呉の使者・諸葛瑾が到着。
迎えた劉備に対し、諸葛瑾は、捕虜となった蜀の兵や軍馬を
返上するといい、ふたたび同盟の話を持ちかけました。

082-05
その言葉を聞くやいなや、立ち上がった劉備は
口から血を噴き出し、倒れてしまいます。
敗北に打ちひしがれる劉備に対し、呉の行為は侮辱以外の何ものでもありません。

しかし、孔明の言うように、数多くの兵を失った
いま、蜀がとるべき道はひとつ。呉との同盟しかないのです。
長い目で見れば、失われた捕虜や軍馬の一部が
返上されたことは幸運でもあり、孔明はひとまず諸葛瑾に頭を下げます。

目を覚ました劉備は、そばで見守る劉禅に対し、
自分が死んだ後にどうやって国を運営していくか、

その方針を尋ねますが、劉禅は幼子そのままに駄々をこねるばかり。

彼には自分の考えなど一切なく、
「ただ劉備の子でいたい」という一念しかないのです・・・。

082-03
劉備は、次いで李厳(りげん)を呼び寄せます。
李厳は蜀に入ってから劉備が得た、益州では最も有能な人物ですが、
劉備の心残りは、李厳と孔明が不仲であることでした。

それを李厳への戒めとして伝え、皆で孔明を助けて大業をなすことを願い、
後事を託します。李厳はその言葉を胸に深く刻み、叩頭し、
孔明と力を合わせることを誓うのでした・・・。

 
【このひとに注目!】
082-12
◆陸遜(りくそん) 字/伯言(はくげん) 183~245年
ドラマにおいては、「若さ」を演出するためか27歳に設定されている陸遜だが、史実では183年生まれのため、夷陵の戦いが終わった222年の時点で40歳だった。
「夷陵の戦い」で、当初は呉の諸将に侮られ、なかなか攻撃をしないために臆病者と揶揄されたものの、勝利の後に信頼されるようになったことは、正史でも同様である。侮られた理由は「若さ」ではなく、目立った戦功がなかったこと、陸遜が孫権の代になってから呉に仕えていたのに対し、諸将の多くは孫堅・孫策の代から仕えて戦功をあげてきたことなどが理由といえる。
陸遜は、諸将の勝手な振る舞いを孫権にはいっさい報告しなかったが、後でそれを知った孫権は彼をそれまで以上に高く評価する。以後、孫権は蜀(諸葛亮)との外交交渉を行うときは、常に陸遜を通じて行うようになったという。しかし、晩年は孫権の後継者問題に巻き込まれ、対立した文官に讒言されて信頼を失い、非業の最期をとげる。後年、孫権はそれをひどく後悔し、息子の陸抗に深く謝罪した。
 



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第81話~第85話 

2012年07月24日

こんばんは! 哲舟です。

猇亭山(おうていざん)に、陣を進めた劉備は、
馬謖(ばしょく)が届けた諸葛亮(孔明)の書状に目を通していました。

孔明は、「陸遜(りくそん)は兵法に通じる油断ならぬ相手。
10年かけて鋳造した剣のごとし」と記し、劉備に忠告したのですが・・・
劉備は勝ちに驕り、陸遜を侮っていて、まともに聞こうとしません。

しかし、最終防衛線を守る呉軍は、これまと違って一歩も退かず、
日に日に激しい抵抗を見せるようになっています。

一方、関興(かんこう)や張苞(ちょうほう)は、
連日、呉の軍営を攻めていますが、敵の抵抗は激しく
なかなか落とすことができず、張苞は負傷する始末でした。

この2人は、関羽・張飛の息子たちですが、張苞のほうが年が上のようで
関興が張苞のことを「義兄」(あに)と呼んでいます。(史実では年齢不詳)

080-15
彼らのふがいなさを厳しく叱責する劉備ですが、張苞が満身創痍と知ると、
やむなく一時撤退し、2日休ませてから再び攻撃せよと命じます。

一方、呉の陣営では、蜀軍が撤退したことを知り、
韓当(かんとう)や周泰(しゅうたい)が追撃を進言しますが、
大都督の陸遜(りくそん)はそれを退け、なおも「堅く守れ」と命じるのみです。

部下たちは、この徹底した消極的な戦法に不満をもらしますが、
陸遜は「まもなく30万の精鋭が天より降り立つ」と不敵な笑みを浮かべ、
またもや、彼らを煙に巻くばかりでした・・・。

数日後、蜀軍が砦の近くで宴会を張り、酒を飲んで散々に罵り始めます。
砦に籠って出てこない呉軍を挑発し、おびき出す作戦です。
それにまんまとハマった傳駿(ふしゅん)は、
砦を出て蜀軍に攻撃をしかけました。

しかし、案の定、外には蜀軍の伏兵が大勢潜んでいて、
危機に陥った傳駿は退却にかかりますが、
空になった砦を、その隙に蜀軍に奪われていました。
傳駿の身勝手な行動で、呉軍はたちまち4つの砦を失ったのです。

引き立てられてきた彼を、陸遜は処刑しようとします。
韓当ら、諸将は傳駿が孫権の妻の弟、つまり義理の弟であるため、
命だけは救うよう懇願しますが、陸遜は構わず首をはねさせました。

081-08
その後、陸遜の陣営をねぎらいに孫権がやってきます。
孫権は陸遜以下、自軍の将兵に褒美を与えましたが、
陸遜は傳駿を斬ったことを詫び、受け取りを固辞。

しかし、孫権はそれを咎めぬどころか、
陸遜が軍令を遵守して、厳粛なる処置をしたことを大いに褒めます。

081-06
「陸遜が傳駿の首を斬らねば、私の首が劉備に斬られていただろう」

そして、代わりの褒美として、これまで「陸遜を罷免せよ」と記して
送られてきた書簡を持ってこさせ、その場ですべて燃やしてしまいました。

081-07
それを見た陸遜は感激し、孫権に改めて勝利を誓います。
「お礼に”炎”をお捧げします。天地が裂けんばかりの勝利の炎を!」
彼は力強く、そう言いました。

一方の蜀軍の間では、慣れぬ風土に長く滞在しているため、
疫病がはびこり、また時節も夏にさしかかり、飲み水が枯渇してきていました。

ドラマでは時間経過が分かりませんが、
劉備が荊州に攻め入ってから、すでに1年近くが経過しています。

当初こそ、蜀軍は劉備の燃える闘志そのままに士気も旺盛でしたし、
逆に呉軍の士気が低かったため、圧倒的有利に戦いを進めていましたが、
それは、いつまでも続くものではありません。
相次ぐ戦いに蜀軍は疲弊しきっており、酷暑と疫病に見舞われ
かつての勢いは完全にそがれてしまいました。

馬良は、一度兵を秭帰(しき)へと退くよう進言しますが、
劉備は「今退けば士気が下がり、勝機を逸する」といい、聞きません。
その代わりに、暑さをしのぐため「山林の茂みに軍を移す」といいます。

山林に陣を移せば、確かに酷暑はしのげますが・・・
危惧した馬良は、敵味方の陣営を記し、孔明に届けさせます。

結果的に、この劉備の決断は、蜀軍にとっての命取りとなってしまいます。
関羽のときもそうでしたが、馬良という人は的確な助言をしているにも
かかわらず、それを聞いてもらえず可哀想になりますよね。

一方の陸遜は、蜀軍が全軍を
山林の中に移したとを知って「今こそ好機」と見ました。

陸遜が、いままで部下たちに恨まれてでも
耐えに耐えて待っていた「30万の大軍」とは、
蜀軍を苦しめる、酷暑と疫病と風土のことでした。
つまり、夏の到来と蜀軍の士気の緩みを待っていたのです。

諸将を集め、軍議を開いた陸遜は宣言します。

080-11
「かつて周瑜殿は赤壁の大火で曹操軍を全滅させた。
 我らの今日の炎は、劉備と70万の精鋭を跡形もなく焼き尽くすのだ」


一方、馬良(ばりょう)から布陣図を受け取った孔明は、
劉備の大敗を予見し、大いに嘆きます。

081-02
「我が蜀は終わりだ・・・」
草木の生い茂る場所に陣を張っては、火攻めを防ぎようがない。
しかも70万の大軍がひしめきあっていては、逃げ場もなく、
その兵馬は火鉢となって味方に燃え広がるだろう、と孔明は言います。

孔明が荊州に行けば良かったのに・・・。視聴者のほとんどはそう思うでしょうね。
ただ、主君の命令なくして、持ち場を離れることもできませんし、
ドラマでは暇そうに見えますが、孔明は色々と事務仕事などもあって多忙なんです。
詳しくは長くなるので書きませんが、それができない事情もあったとご理解ください。

孔明は、馬良を急いで帰し、陣を移すよう劉備に伝えに行かせ、
万一のときは、白帝城(はくていじょう)へ逃げるように助言しますが・・・、
絶望のあまり、その場にへたり込んでしまいました。

ちなみに史実では、
孔明は「法正(ほうせい)が生きていれば主君を止められたのに・・・」と嘆いています。
本作では描かれていませんが、法正は2年前に病死しています。
軍事に長けた彼の助言は劉備もよく聞いたようで、その死は大いなる痛手でした。

081-03
そのころ、魏の都・洛陽では、曹丕(そうひ)が発作に苦しんでいました。
幼い頃からの持病であり、決して口外しないよう近習に言い含めますが、
司馬懿は、それを立ち聞きしてしまいます。

曹丕に目通りした司馬懿は、
猇亭(おうてい)での蜀と呉の戦いの様子を曹丕に知らせます。

「劉備は、まもなく負けます」と司馬懿。
かつて、司馬懿は劉備の勝利を予想していましたが、
それが誤りであったことを認めます。

さすがの司馬懿もまた、陸遜の才能を軽く見ていた、というより、
曹丕も含め、世の中の誰もが劉備の勝利を予測したはずの戦いであり、
いわゆる「番狂わせ」であるといえます。

司馬懿は、戦いの直後に傷ついた呉軍を討つために
20万の兵を預かりたいと申し出ますが、曹丕はそれを許しません。

081-04
曹丕は、「そなたは朕のそばで策を練ってくれ」と言っていますが、
内心では司馬懿を警戒し、軍権を与えないようにしたいのです。
曹丕は、代わりに曹仁(そうじん)、曹休、曹真ら親族に兵を与え、
南へ向かわせると決めました。

自邸へ戻った司馬懿は、曹丕と、その一族が自分を警戒していることに
改めて気付き、その悩みを息子の司馬昭(しばしょう)にこぼします。

そこへ、静姝(せいしゅ)が、羹(あつもの・スープのこと)を運んできました。
静姝はすぐに出て行こうとしますが、彼女を可愛がる司馬懿は
「座っておれ。遠慮せずとも良い」と、その場にとどめます。

さて、絶体絶命の危機に陥った劉備の運命、
そして「夷陵の戦い」の決着は、いかに・・・?
明日もお見逃しなきよう!

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第81話~第85話 

2012年07月23日

こんばんは!ストーリーテラーの哲舟です。
いよいよ80話目。悲しい話が続きますが、今週も元気よく綴って参ります。

矢傷を負いながらも、捨て身の突撃を敢行した黄忠に
おびき寄せられた呉軍は、一転して窮地に立たされました。

大将の韓当(かんとう)、周泰(しゅうたい)は、討死を覚悟しますが、
そこへ呉の長老格の将・程普(ていふ)が助太刀に来て、
群がり寄る蜀兵を蹴散らし、彼らの窮地を救います。

しかし、程普は蜀軍に味方した異民族の将・沙摩柯(しゃまか)が
放った矢に貫かれ、落馬。戦死してしまいます。
蜀軍に完全包囲された呉軍は、
総数10万のうち7万の兵を失う大敗を喫し、かろうじて撤退しました。

080-12
一方、勝利した蜀軍ですが、代償も高くつきました。
黄忠(こうちゅう)が矢傷の悪化によって、死の床に伏したのです・・・。
さすがに老いた身での無理な行動が祟りました。

黄忠を見舞う劉備は、「お主を背負って荊州に入ろう」と励ましますが、
彼の息は、どんどん荒くなっていきます。

080-01+1
「あの世で雲長(関羽)に会ったら、言ってやりましょう。
 陛下は、わしを五虎大将軍に任じてくださったのだ。
 そなたは面白くなかろう、どうだ参ったか、と!!」
黄忠は絶叫、高笑いをしたあと、そのまま動かなくなり、帰らぬ人となりました。

080-13
黄忠の死を悼み、涙をぬぐい、新たに復讐を誓う劉備は
呉の援軍を撃退した今こそ、早く夷陵(いりょう)を落とせ、と諸将に命じます。

一方、大敗した孫権は、監禁していた陸遜(りくそん)を呼び出します。
孫権も荊州との境に位置する前線拠点、柴桑(さいそう)に出向いて来ていました。

孫権の言葉によれば、この戦いで程普のほかに甘寧(かんねい)、
馬忠(ばちゅう)、潘璋(はんしょう)らが戦死したとのことです。

夷陵は荊州における呉の重要拠点。
これを落とされれば、荊州は蜀の手に渡ったも同然となります。

080-06
孫権は、夷陵の防衛に陸遜を起用することを決め、
彼を大都督に任命し、全軍の指揮権を預けます。
呂蒙(りょもう)の死で、空位となっていた呉の4代目・大都督には、
陸遜が就任することになりました。

080-17
孫権は陸遜同席のもとで軍議を催し、大敗した韓当と周泰の処刑を命じますが、
黄忠を討った功績や諸葛瑾、張昭、陸遜らのとりなしで一命は助け、
名誉挽回の機会を与えます。

新・大都督の陸遜は、第一の布石として、
荊州各所の要地に数多くの軍営を築きました。

一方の劉備は、その軍営を視察しますが、
新たに指揮官となった陸遜が、まだ27歳であり、
今まで大した功績もないと知って「嘴の黄色い奴か」と侮ります。

しかし、馬良(ばりょう)が軽視しないよう忠告すると、
関興(かんこう)に軍営を攻めさせ、陸遜の才を試してみようといいます。

蜀軍が目の前に迫ってきましたが、前線で陣営を守る
韓当、周泰らは「戦うな」という陸遜の命令を守り、動けずにいました。
蜀軍の攻撃が始まると、今度は「後退せよ」との命令が下ります。
いぶかしむ両将でしたが、大都督の命なのでやむなく従います。

一方、蜀軍を率いる関興は10日で25もの呉の軍営を破り、
2000の兵を討ち取る手柄を立てました。
呉軍はもろくも後退を続け、劉備は勢いに乗って前進を命じます。

行く手に、また新たな軍営が築かれたと知った劉備は、
それらを次々と落としていきます。

敗退を重ねても、ろくに抗戦もせずに撤退を続ける呉軍の将は、
やがて陸遜の策に不信感を抱くようになってきました。
苛々が募り、陸遜を批判する者まで出る始末。

080-03+1
中でも傳駿(ふしゅん) という将軍は、軍議に遅参したこと詫びもせず、
反発したため、陸遜は棒叩き80回の刑に処しました。

陸遜はこの期に及んでも、「軍営を死守し、蜀軍が攻めてきたら後退せよ」
そう命令を出しますが、周泰ら、ベテランの将兵たちも
もはや黙って従っておれず、作戦の説明を求めます。

陸遜は、蜀軍を攻めさせるだけ攻めさせ、疲弊を待つと言います。
「さすれば、やがて30万の精鋭が天から降り立つであろう」
その謎めいた言葉に、諸将は困惑するばかりでした。

戦況は、益州・成都の諸葛亮(孔明)のもとにも届いていました。
連戦連勝の報を喜んで伝える馬謖(ばしょく)ですが、孔明は
「孫権は、戦は不得手だが人を見る目がある。陸遜もおそらくは・・・」と
不安を抱き始めます。

呉の都・建業(けんぎょう)では、文官たちが連戦連敗に危機感を抱き、
「陸遜を罷免せよ」と口々に言い始めていました。しかし、
「陸遜は目下3連敗しているが、たとえ10連敗しても罷免せぬ!」
孫権はそういって、文官たちを一喝します。

080-03
しかし張昭が、「せめてご主君が前線で指揮をおとり下さい」と勧めるので、
孫権はやむなく、荊州へと向かいます。

このままでは諸将の不満が募り、
士気を保つことが難しくなると感じた陸遜は、陣営に諸将を集合させました。
いわゆる、決起集会といったところでしょうか。

いっさいの攻撃を許可していないこと、連敗が続いていることに
諸将が危機感を募らせていることは、陸遜も十分承知しています。
しかし、今は耐えるときであると陸遜は見ているのです。

080-10
陸遜もまた、味方の将が自分に対して抱く不満、不穏な空気に耐えています。
そして、ここで今後の展望をようやく諸将に告げました。

猇亭山(おうていざん)に築いた50の陣屋が呉の最終防衛線であること。
それを突破されれば、荊州は確実に陥落するため、
以後は絶対に後退せず、厳しく守り抜いて、必ず劉備に勝つことを・・・。
いわゆる背水の陣(水はありませんが・・・)を敷いたのです。
呉の諸将は、剣を握って血を酒に混ぜ、それを飲み干して勝利を誓いました。

それを潮に、呉軍の抵抗は急に強まり、蜀軍は苦戦に陥りはじめます。
知らせを聞いた劉備は、呉の力戦は最後の抵抗であるから、
さらに攻撃の手を強め、3日以内に砦を攻略させようとします。

馬良は、2ヶ月戦い続けている将兵を1日休息させるよう助言しますが、
劉備は「敵はもっと疲れている」と言ってそれを許さず、前線に出るよう命じました。

開戦当初は、勝ちに驕ることを戒めていた劉備ですが、
ここへ来て思ったように進軍できず、勝ちを急ぐようになってきました。
黄忠という実戦経験豊富な将の死も大きかったように思えます。
この無理な戦法は、戦いの行方にどう影響を及ぼしてゆくのでしょうか・・・?


【登場人物たちの呼び名、あざな について】 
本来、もっと早いうちに説明していればよかったのですが、ここで本作でもよく使われている「あざな」や、中国人の名前に関して解説しておきます。

たとえば、劉備が趙雲を呼ぶときに「趙雲」ではなく「子龍(しりょう)」とか、「馬良」ではなく「季常(きじょう)」などと呼びかけることを疑問に思ったことはありませんか? これらは、実は「字」(あざな)という本名とは別のものなのです。この「字」は、古代中国人が成人したときに自分でつける「あだな」みたいなもので、名前を呼び合うときは本名ではなく、基本的にこちらが使用されました。

ちなみに名前は、劉備の場合は「劉」が姓で、「備」が名前。字は「玄徳」(げんとく)。趙雲は「趙」が姓、「雲」が名です。姓と名(諱)は基本的に一文字ずつの人が多いですが、二文字姓もいまして、諸葛亮の場合は「諸葛」が姓で名は「亮」、字は「孔明」。司馬懿は「司馬」が姓といった具合です。

なぜ、「字」で呼ぶのかといえば、昔から名は「諱」(いみな)とされ、口にするのはとても失礼なこととされていたからです。例外的に親や主君が、子や部下の名を呼ぶことは許されましたが、本作では基本的に「字」が使われています。同じ姓が多いので、字のほうが分かりやすいためでもあるでしょう。よく周瑜が「諸葛亮め!」と言っていたように、本人がその場にいない場合は、ドラマのように本名で呼ぶこともあったと思います。

072-47
逆に、目上の人に対しては「字」で呼びかけることすら、これまた無礼でした。だから役職名で呼ぶのです。曹操は「魏王」「丞相」「曹将軍」と呼ばれていましたが、「曹操様」なんて呼び方をする人はいませんでしたよね? 劉備は「ご主君」とか「陛下」で、最初のころは「玄徳どの」とか「劉皇叔(こうしゅく)」と呼ばれていました(劉は姓なので失礼にあたりません)。最近は孔明が「丞相」と呼ばれていますね。今の日本でも会社の上司を「○○部長」と呼ぶのと同じイメージです。

しかし、現代の中国では、この「字」をつける文化は廃止され、基本的に姓が一文字、名前が二文字に変わっています(例を挙げれば、毛 沢東 など)。また、ある程度親しい人同士はフルネームで呼び合うことも多いそうで、このあたり日本人にとっては違和感がありますね。

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第76話~第80話 

2012年07月20日

こんばんは、哲舟です!

劉備に、孫小妹との再婚・和睦を一蹴された孫権。
諸葛瑾(しょかつきん)は、こうなっては魏(曹丕)に投降し、
臣下の礼をとって援軍を出してもらうしかない、といいます。

呉の主である自分が投降・・・。
孫権は、その言葉に顔色を変えます。しかし、彼はいつでも冷静。
劉備や曹操のように激するところがありません。
「しばし、考えたい」そういって、魯粛(ろしゅく)の墓前に詣でます。

彼にとっての真の師は周瑜ではなく、やはり魯粛だったのだなと思わされます。
どうすれば良いか思案にくれていると、
そこへ、呉の文官の長老的な人物・張昭(ちょうしょう)がやってきました。

079-17
「父と兄の祖業をやすやすと手放して良いものか・・・」
悩む孫権に、張昭は諸葛瑾の言葉を後押しします。
一国の主たるもの、数多の屈辱に耐えることも欠かせぬ所業であると。
張昭のこの言葉に、孫権も覚悟を決めます。

「赤壁の戦い」の時と異なり、事態は急を告げています。

あとはいかに、呉の主としての威厳を損なわずに魏に臣従するかです。
その使者には、趙咨(ちょうし)が選ばれました。
弁舌が巧みで、度胸もすわっている文官です。

079-12
魏の新たな都となった、洛陽(らくよう)にて曹丕(そうひ)に
謁見した趙咨は、孫権がいかに優れた君主であるかを話します。

呉の兵は少ないが、水軍は天下一。
加えて長江が砦となり、難攻不落。

曹丕とて、戦わずに孫権が投降するのであれば、それに越したことはありません。

079-16
趙咨の弁舌と才知に感心した曹丕は、孫権の投降を認めました。
むろん、呉の国すべてが魏の領地になるのではありません。
今回の場合、領地は据え置いた、ごく形式的なものです。
張昭が言ったように、呉が蜀に攻め滅ぼされることを曹丕も望んでいません。

司馬懿(しばい)に、今後の政策を相談する曹丕。

「朕(ちん)は、蜀を攻めず呉も救わず、座して眺め、機を見て動く」

080-04
隙に乗じ、両軍の疲弊を待って漢中あるいは荊州をとる。
「いずれが勝とうと、最後に勝つのは陛下です」
そういって司馬懿は、曹丕の英邁さを褒めます。

曹丕は、孫権に対し、呉王の位と九錫(きゅうせき)を与えただけで
結局、援軍は出しませんでした。
九錫とは皇帝が臣下に与える9種類の恩賞で、
衣服や楽器、弓矢など、戦いには何の役にも立たないものです。

司馬懿は劉備の勝利を予測していますが、
勝負とは、どう運ぶかわかりません。
どちらが勝っても良いように手を打つわけです。

まさに姑息(こそく)といえますが、これこそが乱世における身の処し方です。
これは劉備と曹操が戦っていたときの孫権と同じ戦略。
曹丕の援軍を期待した孫権のもくろみは、あてが外れてしまいました。

そのころ、攻め取った秭帰(しき)城では、劉備が軍議を開いていました。
張苞(ちょうほう)、関興(かんこう)ら、若い武将たちは、
連戦連勝を喜び、「あと20日もあれば建業(呉の都)を攻め落とせる」と息巻いています。

079-11
しかし、劉備はそれを厳しく戒めました。
「孫権は9歳のときに単身敵陣へ乗り込み、父(孫堅)の亡骸を取り返した男だ。
 それにまだ呉の強力な水軍とも戦っていない。些細な勝利に浮かれてはならぬ」

079-25
さすがは歴戦の将でもある劉備。
叱られて、意気消沈する関興(かんこう)。関羽の子も、まだ未熟です。

それに賛同するのは、老将・黄忠(こうちゅう)です。
程普、韓当、甘寧、周泰などの名将が、まだ戦場に姿を見せていないことを
不審に思い、油断してはならぬことを若い将に教え諭します。

そこへ、秭帰(しき)で敗れた孫桓(そんかん)が、
今度は夷陵(いりょう)城に入って守りを固めたとの情報が入ります。

079-21
劉備は、出陣を志願する張苞(ちょうほう)に攻撃を命じますが、
本気では攻めず包囲に留めろと指示。そうして呉の援軍をおびきよせ、
援軍が来たら、もろとも倒すという戦術に出ました。

呉の主力を叩かねば、本当の勝利は得られない。
数々の死闘を潜り抜けてきた経験がものを言っているのでしょう。

一方、曹丕が援軍を出さず漁夫の利を得ようとしていることを知った孫権は
今度は夷陵城が包囲され危機に瀕している報に接し、援軍10万を出そうとします。

しかし、旧臣の程普(ていふ)が、それを制します。
守りの堅い秭帰城を簡単に攻め落としたはずの蜀軍が、
夷陵城を攻め落とせずにいるのは、何かの企みがある・・・。

程普はそういって諌めますが、
孫権は「思いすごしだ」と言い、出陣を命じてしまいました。

韓当(かんとう)、周泰(しゅうたい)らが出陣の準備をしていると、
そこへ陸遜が現れ、「痛ましきかな!」と騒ぎはじめました。

陸遜は、自軍の将兵たちが敗れて死ぬことを憐れんで
出陣を止めさせるために騒いでいるのですが
韓当は不吉なことをいう彼を捕え、孫権のもとへ送ってしまいました。

一方、孫権が援軍をやすやすと出したことを、劉備はいぶかしみます。

079-20
「孫権は策士です」と、馬良(ばりょう)も用心するよう進言。

すると黄忠が、呉軍を谷間に誘い込んで殲滅する策を思いつき、
みずからが囮(おとり)の役を買って出ることを志願。
黄忠は韓当ら、呉の名将たちが出てきたと知り、
警戒する一方、今こそ己の武勇を発揮する場であると奮い立っています。

劉備は、黄忠が70歳を超えていることや、
貴重な五虎将の生き残りである彼を囮に使うことをためらいますが・・・
その熱意と懇願に負けて出陣を許しました。
関羽と張飛が死に、馬超は漢中を守り、趙雲は成都で留守を固めています。

「わしには雲長も翼徳もおらぬ。そなたまで失いたくない。必ず生きて戻れ」
劉備は黄忠の手をとって約束させ、送りだしました。

一方、夷陵をめざして進軍する呉軍。
総大将をつとめるは歴戦の名将・韓当(かんとう)、副将は周泰(しゅうたい)です。

079-02
そこへ、程普(ていふ)が馬車を飛ばし、前線に追いついてきました。
病気の身をおして来た程普をみて、周泰は驚きますが、
「足手まといにはならぬ」と不退転の覚悟をする彼をみて、
みずから御者をつとめて進軍を続けます。

夷陵付近に砦を構え、様子をうかがう韓当ひきいる呉軍。
そこへ、黄忠ひきいる蜀軍がやってきて対峙します。

黄忠はさっそく総攻撃をしかけます。
しかし砦の守りは堅く、たちまち苦戦に陥り、黄忠は撤退を命じます。
その隙に、韓当は砦を出て追撃にかかりました。

079-08
「敵が流した鮮血で、我らの鎧を赤く染めるのだ!」
後方にいた劉備は、知らせを受けて狙い通りだと見て呉軍の殲滅を命じます。

黄忠の撤退は罠で、呉軍を富池口(ふちこう)という谷間へおびき寄せるため。
追ってきた呉軍ですが、隘路をみて伏兵を警戒し、
追撃をやめ、矢を射るだけに留めました。韓当はさすがに名将です。

079-15
呉軍が追って来ないのを見て、作戦が失敗することを恐れ、
黄忠は敵をもう一度誘い出そうと引き返しましたが・・・
呉軍が大量の矢を放ったため、たちまち矢を胸に浴び落馬してしまいます。

「最後まで闘い、馬の背で死ぬ!」
続けざま、何本もの矢を浴びながらも再度馬に乗って突撃する黄忠。

それを見た周泰は、猛将の黄忠を討ち取る絶好の機会を見て突撃します。
すると、山あいに潜んでいた蜀の兵がどっとわきだし、
呉軍めがけて矢や丸太の雨を降らせました。
「しまった!」とみて、韓当は撤退を命じますが・・・。


【呉の宿将たち】
孫権の父、孫堅(そんけん)の代から仕えてきた名将の中でも、
程普(ていふ)、黄蓋(こうがい)、韓当(かんとう)、祖茂(そぼう)は
とくに名将として知られ、四天王的な将軍たちです。

sobou
しかし、祖茂(そぼう・左)は早くに亡くなり・・・

0527-024
赤壁の戦いで「苦肉の策」を実行した功労者、
黄蓋(こうがい)もすでに他界しています。

残るは、援軍の総大将をつとめている韓当と、
馬車で前線に現れた程普の2人だけです。

079-22
韓当は今まであまり目立ちませんでしたが、4人の中では一番最後まで生きます。

080-09
程普は呉の重臣たちの最年長で、
昔、洛陽で孫堅が玉璽(ぎょくじ)を見つけたとき、
すぐにそれと鑑定するなど、知識も豊かな名将です(第6話)。
赤壁の戦いでは、周瑜に次ぐ副都督を務めたのも彼です。

呉の屋台骨を支えてきた功臣らが、国の滅亡の危機を見過ごせるはずがなく、
老いた体に鞭打って、労をいとわず前線に出て蜀軍を迎え撃つのです。

さて、両軍の戦いの行方はいかに?
皆さん、また来週お会いしましょう。

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第76話~第80話