2012年04月13日
第10話 「董卓の死」
こんばんは!
『三国志 TK』ストーリー・テラーの哲舟です。
董卓と呂布の仲を裂くことに成功し、上機嫌で屋敷へ戻ってきた王允。
そこに、旧友である陳宮が待っていました。
陳宮は、曹操と袂を分かって以来、放浪して仕える主君を探しているといいます。
才知に長けた陳宮は、王允の「連環の計」を見抜いており、
それを知ったうえで、董卓排除のための「トドメの一計」を授けにやってきたのです。
陳宮は、呂布を使って董卓を殺害すべしと王允に進言。
そこへ、折良く貂蝉との密会を董卓に見つかって
慌てふためく呂布が駆け込んできます。
王允と陳宮は、呂布の義憤をあおって、董卓を倒すようけしかけます。
「義父殺し」の汚名を恐れる呂布に、天子からの勅書を出させるから・・・と
王允がたたみかけ、呂布はついに承諾します。
その後、董卓は李儒をはじめ、王允たち諸官の勧めを受け、
献帝から帝位を簒奪し、新たに皇帝となることを決めます。
即位の当日、董卓が宮廷へ出向くと、王允が出てきて勅命を読み上げます。
「国賊董卓は朝廷を冒涜し天下を乱した。
忠勇の志士よ、逆賊董卓を殺すのだ!」
予想だにしない王允の裏切りに、うろたえる董卓。
董卓、王允を気に入ってましたからね。よほどのショックなのでしょう。
その声に応じ、赤兎馬を駆って呂布が登場!
董卓は自分を助けに来たものと思い、ホッとしたのも束の間、
呂布の方天画戟が一閃し、董卓の胴を刺し貫きました。
董卓はあっけなく倒れ、兵士は一斉に呂布へ投降。
王允は歓喜の雄たけびをあげ、諸官は献帝の前で改めて漢王朝への忠誠を誓います。
ときに西暦192年のことでした。
董卓なき後、王允は献帝の勅命で太師となり、政権を掌握。
呂布は晴れて貂蝉と夫婦の契りを交わすのでした。
従来の作品では、使命を果たした貂蝉は、ここで自害したり
表舞台から消えたりするのが定石でしたが、本作では、その後もまだまだ出番があります。
しかし、また新たに乱がおこります。
王允は、辺境へ逃げていた董卓派の武将であった
李傕(りかく)と郭汜(かくし)の排除を計画します。
李傕(りかく)らは、王允に投降を願い出ていました。
陳宮はこれを受け入れるよう進言しますが、
王允は、董卓に命じられるまま悪行をしてきた彼らへの恨みもあって、それを許しません。
それにしても、権力者となった王允はすっかり「抜けがら」になってしまったようです。
董卓を打倒して燃え尽きてしまったのか、
それとも、もともと軍事的才能は持ち合わせていないのか。
陳宮のアドバイスも耳に入らないようです。
案の定、窮した李傕(りかく)と郭汜(かくし)は反乱を起こし、12万の大軍で長安を包囲。
頼みの呂布は、城外で戦の準備に出ており、城内にはわずかな兵しかいません。
王允は城壁から身を投げ、あえなく死に、都は涼州兵にたちまち占拠されます。
陳宮からの報告でそれを知った呂布は、手持ちの2万の兵で長安を奪い返そうとしますが
「多勢に無勢で勝ち目がない」と陳宮に諭され、ともに東へ落ち延びることを決めます。
その頃。
徐州では、陶謙が曹操の父・曹嵩の通過を知り、手厚くもてなしていました。
しかし、護衛にあたった陶謙の配下・張ガイが、曹嵩の財宝を狙って彼を殺害します。
この報を受けた曹操は、大いに嘆き哀しみます。
曹操が第6話以来、久しぶりの登場。
故郷の兗州(えんしゅう)へ帰った曹操は、兵力を蓄えて
じわじわと領地を拡大し、時勢をうかがっていたところです。
曹仁も久々の登場。そしてラストシーンで参謀の荀彧(じゅんいく)が初登場しました。
さて、曹操を怒らせてしまった陶謙の運命は・・・?
ではみなさん。また、2日間のお別れです。週明けにお会いいたしましょう!
【このシーンに注目!】
董卓の、あまりにあっさりとした死に際。ドラマでは描かれていないが、でっぷり肥った董卓の死骸は街にさらされ、そのヘソに灯心がつけられ、火をともすとロウソクのように数日間、燃えっぱなしだったとか。暴虐を誇った魔王も、ただの死骸になると哀れなもの。董卓の一族は、弟や90歳になる母親などもことごとく皆殺しにされた。妾がたくさんいたから、もしかすると名もない子もたくさんいて、同じように犠牲になったかもしれない。
【このひとたちに注目!】
郭汜(かくし)/左 李傕(りかく)/右
「董卓の残党」と呼ばれ、たいていは雑魚扱いされることも多い2将だが、実際は「涼州の荒武者」ともいうべき実力者たち。董卓配下では呂布に次ぎ、華雄より上位の2番手・3番手の地位にあった。『正史』においても、呂布はこの2将が率いる大軍と戦ったが防ぎ切れず、長安を逃げ出している。
そのとき、郭汜(かくし)は呂布に一騎打ちを挑まれ、応じたという記録もある(正史の注釈に引用された「英雄記」)。結果は、呂布が郭汜めがけて矛を突き刺し、郭汜は部下に助けられて退却した。演義以外の史料によれば、呂布の一騎打ちはこの一度のみだ。敗れたとはいえ、呂布と一騎打ちをしてみせた郭汜も相当に強かったのだろう。長安を制圧したこの2人だが、統治能力はなく、それ以後城内の政治はますます混乱する。さらに、2人は仲違いし、争いながら互いに自滅することになる。
『三国志 TK』ストーリー・テラーの哲舟です。
董卓と呂布の仲を裂くことに成功し、上機嫌で屋敷へ戻ってきた王允。
そこに、旧友である陳宮が待っていました。
陳宮は、曹操と袂を分かって以来、放浪して仕える主君を探しているといいます。
才知に長けた陳宮は、王允の「連環の計」を見抜いており、
それを知ったうえで、董卓排除のための「トドメの一計」を授けにやってきたのです。
陳宮は、呂布を使って董卓を殺害すべしと王允に進言。
そこへ、折良く貂蝉との密会を董卓に見つかって
慌てふためく呂布が駆け込んできます。
王允と陳宮は、呂布の義憤をあおって、董卓を倒すようけしかけます。
「義父殺し」の汚名を恐れる呂布に、天子からの勅書を出させるから・・・と
王允がたたみかけ、呂布はついに承諾します。
その後、董卓は李儒をはじめ、王允たち諸官の勧めを受け、
献帝から帝位を簒奪し、新たに皇帝となることを決めます。
即位の当日、董卓が宮廷へ出向くと、王允が出てきて勅命を読み上げます。
「国賊董卓は朝廷を冒涜し天下を乱した。
忠勇の志士よ、逆賊董卓を殺すのだ!」
予想だにしない王允の裏切りに、うろたえる董卓。
董卓、王允を気に入ってましたからね。よほどのショックなのでしょう。
その声に応じ、赤兎馬を駆って呂布が登場!
董卓は自分を助けに来たものと思い、ホッとしたのも束の間、
呂布の方天画戟が一閃し、董卓の胴を刺し貫きました。
董卓はあっけなく倒れ、兵士は一斉に呂布へ投降。
王允は歓喜の雄たけびをあげ、諸官は献帝の前で改めて漢王朝への忠誠を誓います。
ときに西暦192年のことでした。
董卓なき後、王允は献帝の勅命で太師となり、政権を掌握。
呂布は晴れて貂蝉と夫婦の契りを交わすのでした。
従来の作品では、使命を果たした貂蝉は、ここで自害したり
表舞台から消えたりするのが定石でしたが、本作では、その後もまだまだ出番があります。
しかし、また新たに乱がおこります。
王允は、辺境へ逃げていた董卓派の武将であった
李傕(りかく)と郭汜(かくし)の排除を計画します。
李傕(りかく)らは、王允に投降を願い出ていました。
陳宮はこれを受け入れるよう進言しますが、
王允は、董卓に命じられるまま悪行をしてきた彼らへの恨みもあって、それを許しません。
それにしても、権力者となった王允はすっかり「抜けがら」になってしまったようです。
董卓を打倒して燃え尽きてしまったのか、
それとも、もともと軍事的才能は持ち合わせていないのか。
陳宮のアドバイスも耳に入らないようです。
案の定、窮した李傕(りかく)と郭汜(かくし)は反乱を起こし、12万の大軍で長安を包囲。
頼みの呂布は、城外で戦の準備に出ており、城内にはわずかな兵しかいません。
王允は城壁から身を投げ、あえなく死に、都は涼州兵にたちまち占拠されます。
陳宮からの報告でそれを知った呂布は、手持ちの2万の兵で長安を奪い返そうとしますが
「多勢に無勢で勝ち目がない」と陳宮に諭され、ともに東へ落ち延びることを決めます。
その頃。
徐州では、陶謙が曹操の父・曹嵩の通過を知り、手厚くもてなしていました。
しかし、護衛にあたった陶謙の配下・張ガイが、曹嵩の財宝を狙って彼を殺害します。
この報を受けた曹操は、大いに嘆き哀しみます。
曹操が第6話以来、久しぶりの登場。
故郷の兗州(えんしゅう)へ帰った曹操は、兵力を蓄えて
じわじわと領地を拡大し、時勢をうかがっていたところです。
曹仁も久々の登場。そしてラストシーンで参謀の荀彧(じゅんいく)が初登場しました。
さて、曹操を怒らせてしまった陶謙の運命は・・・?
ではみなさん。また、2日間のお別れです。週明けにお会いいたしましょう!
【このシーンに注目!】
董卓の、あまりにあっさりとした死に際。ドラマでは描かれていないが、でっぷり肥った董卓の死骸は街にさらされ、そのヘソに灯心がつけられ、火をともすとロウソクのように数日間、燃えっぱなしだったとか。暴虐を誇った魔王も、ただの死骸になると哀れなもの。董卓の一族は、弟や90歳になる母親などもことごとく皆殺しにされた。妾がたくさんいたから、もしかすると名もない子もたくさんいて、同じように犠牲になったかもしれない。
【このひとたちに注目!】
郭汜(かくし)/左 李傕(りかく)/右
「董卓の残党」と呼ばれ、たいていは雑魚扱いされることも多い2将だが、実際は「涼州の荒武者」ともいうべき実力者たち。董卓配下では呂布に次ぎ、華雄より上位の2番手・3番手の地位にあった。『正史』においても、呂布はこの2将が率いる大軍と戦ったが防ぎ切れず、長安を逃げ出している。
そのとき、郭汜(かくし)は呂布に一騎打ちを挑まれ、応じたという記録もある(正史の注釈に引用された「英雄記」)。結果は、呂布が郭汜めがけて矛を突き刺し、郭汜は部下に助けられて退却した。演義以外の史料によれば、呂布の一騎打ちはこの一度のみだ。敗れたとはいえ、呂布と一騎打ちをしてみせた郭汜も相当に強かったのだろう。長安を制圧したこの2人だが、統治能力はなく、それ以後城内の政治はますます混乱する。さらに、2人は仲違いし、争いながら互いに自滅することになる。