2012年07月30日
第85話 「罵って王朗を殺す」
皆さん、こんばんは!ストーリーテラーの哲舟です。
今週も頑張って綴ります、よろしくお願いします。
地図と年表のページを、独立して設けましたので、
ぜひ、お役立ていただければと思います。
さて、「出師の表」を上奏し、
不退転の覚悟で魏侵攻(北伐)を開始した諸葛亮(孔明)。
その報告を受けた魏の皇帝・曹叡(そうえい)は、
さっそく軍議を開き、対策を練ります。
まだ20歳を過ぎたばかりの若い曹叡は、
老臣・王朗(おうろう)の反対を無視して、
夏侯楙(かこうぼう)を大都督に任命し、蜀軍を防がせます。
夏侯楙は漢中の戦いで、蜀軍に殺された夏侯淵(かこうえん)の子。
命令を受け、父の無念を晴らそうと、勇んで出陣してゆきます。
いっぽう、進軍中の孔明は、
途中で軍を止め、地図で中原へ向かうルートを確認します。
孔明は、軍勢を二手に分け、先鋒の趙雲らをおとりとして進軍させ、
敵がそこへ引きつけられている間に、
自分の率いる本隊が祁山(きざん)、隴西(ろうせい)を攻め取り、
じっくり足場を固めながら進軍するよう指示しました。
すると、魏延(ぎえん)が5千の兵を預かりたいと願い出てきます。
自分はそれとは別のルート、険しい山脈を越えて、
さらに子午谷(しごこく)を通って長安を奇襲し、
攻め取ってみせると豪語するのです。
孔明がめざすルートでは時間がかかり過ぎるため、
道なき道を行き、魏軍の裏をかこうとする作戦です。
しかし、慎重な性格の孔明はその策を退けます。
万一、敵に見つかれば全滅は免れません。
失敗の許されない戦い。万全の布陣で行軍したいがため、
魏延の博打に近い作戦は受け入れがたいものだったのです。
策を退けられた魏延は、深い溜息をつきます・・・。
順調に進軍を続ける孔明は、夏侯楙が来ると聞いても
まったく恐れを抱きませんが、ただひとり、
司馬懿(しばい)の動向を気にしていました。
その司馬懿が雍涼(ようりょう)に赴任したと聞き、孔明はやや顔色を変えます。
曹叡の意図は見えませんが、司馬懿が軍権を握っているとすれば厄介。
そのため、魏の陣営に「離間の計」を仕掛けることを思いつき、手を打ちました。
いっぽう、雍涼に赴任した司馬懿は、自らの判断で
孔明の攻撃に備え、ひそかに兵を増強していました。
さすがは司馬懿。孔明がおとりを使ってくるであろうと見越し、準備していたのです。
しかし、孔明の仕組んだ偽の布告状が出回り、
洛陽の曹叡のもとに、司馬懿が野心を抱いているとの情報がもたらされました。
曹叡は、司馬懿がわずかな兵で謀反をたくらむはずがないといいますが、
司馬懿を快く思わない曹休(そうきゅう)は、
彼が兵力を無断で増強していると吹き込み、疑いをもたせます。
曹叡はみずから雍涼に出向いて、直接司馬懿に問いただすことにしました。
すると、曹休のいうとおり、司馬懿が独断で兵を増やしていると発覚します。
曹叡は、結局司馬懿を疑い、官職をすべて剥奪したうえ、
雍涼の地も召し上げ、故郷の河内(かだい)郡へと追いやってしまいました。
孔明の策略は、見事に成功したのです。
司馬懿のいない魏軍を、孔明は面白いように翻弄し、各地で撃破。
先鋒の趙雲が、夏侯楙を難なく打ち破って生け捕りにすると、
さらに、南安、安定などを攻略し、
天水(てんすい)郡の武将、姜維(きょうい)を降伏させました。
その報に怖れおののいた曹休は雍涼を捨てて、逃走する有様。
蜀軍は連戦連勝、まさに快進撃を続けます。
敗戦につぐ敗戦の知らせを受け、
長安の手前にまで迫られたと聞いた曹叡は大激怒。
曹叡は、大将軍の曹真に迎撃を命じますが、曹真は尻込みして出陣を躊躇します。
そこへ、この年76才になる、司徒の王朗(おうろう)が
老骨に鞭打ち、軍師としての従軍を申し出ると、しぶしぶ出陣します。
かくして、曹真の軍は祁山で蜀軍と対峙します。
王朗は、得意の弁舌で孔明の気勢を削いでやろうと、
自信たっぷりに、単騎で馬を進めていきました。
それに応じ、孔明も四輪車に乗って前に出て、王朗と対面。
王朗は、孔明に対して「魏が天下を治めるのは天命によるもの。
それに対して喧嘩を売るとは何事だ」と一喝し、降伏するよう諭します。
しかし、孔明はいささかもたじろがず、もとは漢の臣下でありながら
今は魏のもとで官位をむさぼる王朗を手厳しく批判したうえ、
「白髪頭の匹夫(ひっぷ)、老いぼれは早く立ち去れ」と、
とどめの一言を付け加えます。
王朗は何も言い返せないどころか、孔明の鋭利な舌鋒によって
屈辱にまみれ、怒りのあまり血を噴き出して馬から落ちてしまいました。
陣中に連れ戻された王朗ですが、
そのまま目を覚ますことなく、死んでしまったようです。
孔明の舌鋒もそうですが、行軍の無理が祟ったのでしょう。
舌先だけで人を殺した孔明を、曹真は大いに恐れます。
そのため、積極的に打って出ず、王朗の死を餌に蜀軍をおびき寄せて
打ち破ろうとするのですが・・・。
しかし、その作戦を読んだ孔明は、
曹真が伏兵を置いた場所を見破り、難なく撃破してしまったのです。
またしても敗退を重ねる魏軍。弱り切った曹叡は、
重臣の鍾繇(しょうよう)に、今後の出方を相談しました。
鍾繇は、「やはり孔明に対抗できるのは、司馬懿しかいない」と進言。
曹叡は以前、司馬懿を疑って左遷したことを恥じ、彼を呼び戻すことにしました。
いっぽう戦勝を喜ぶ、蜀の陣営。
孔明も、「このままいけば、あと半年で中原を攻略できる」と珍しく喜びます。
そこへ、李豊(りほう)が、父の李厳(りげん)の書状を届けにきました。
それは李厳が苦心した結果、魏将の孟達(もうたつ)が蜀軍に寝返り、
謀反を起こすと約束してきたことを伝えるものでした。
孟達が魏の内側から洛陽を攻めれば挟み撃ちにでき、
労せずして洛陽を攻め落とせる・・・孔明は李厳の手柄を褒めたたえます。
蜀軍にとって、すべてがうまく運んでいます。
孔明は上機嫌で、孟達へ届けさせる書状を自らしたためるのでした。
そのころ、司馬懿は自邸に籠り、静かに日々を過ごしていました。
魏軍連敗の知らせは、当然司馬懿のもとにも届いていますが、
司馬懿は何食わぬ顔で琴を弾きながら、ただ時を待っていました。
そこへ、彼が内心待ちに待った、曹叡からの詔が届けられます。
曹叡は書状の中で、司馬懿に対して深く謝罪するとともに、
大都督に任じ、軍権を与えるのでした。
魏軍の敗北に次ぐ敗北の結果、「現場復帰」を遂げた司馬懿。
司馬懿は、この劣勢をどのようにして覆しにかかるのでしょうか・・・。
【このひとに注目!】
◆姜維(きょうい) 字/伯約(はくやく) 202~264年
涼州・天水郡の太守、馬遵(ばじゅん)の配下。蜀軍の攻撃に備えていたが、蜀との内通を疑われて行き場をなくし、やむなく蜀に投降する。残念ながら本作では描かれなかったが、原作では投降する前に孔明の策を見破り、それを逆手にとって蜀軍を苦しめたり、趙雲と互角以上に打ち合ったりする武勇を見せている。以後は、孔明の忠実な部下として、北伐軍の主力の一人として活躍する。涼州の地理に通じ、智勇ともに優れる彼の加入は、蜀軍にとって大きな助けとなるのだ。
今週も頑張って綴ります、よろしくお願いします。
地図と年表のページを、独立して設けましたので、
ぜひ、お役立ていただければと思います。
さて、「出師の表」を上奏し、
不退転の覚悟で魏侵攻(北伐)を開始した諸葛亮(孔明)。
その報告を受けた魏の皇帝・曹叡(そうえい)は、
さっそく軍議を開き、対策を練ります。
まだ20歳を過ぎたばかりの若い曹叡は、
老臣・王朗(おうろう)の反対を無視して、
夏侯楙(かこうぼう)を大都督に任命し、蜀軍を防がせます。
夏侯楙は漢中の戦いで、蜀軍に殺された夏侯淵(かこうえん)の子。
命令を受け、父の無念を晴らそうと、勇んで出陣してゆきます。
いっぽう、進軍中の孔明は、
途中で軍を止め、地図で中原へ向かうルートを確認します。
孔明は、軍勢を二手に分け、先鋒の趙雲らをおとりとして進軍させ、
敵がそこへ引きつけられている間に、
自分の率いる本隊が祁山(きざん)、隴西(ろうせい)を攻め取り、
じっくり足場を固めながら進軍するよう指示しました。
すると、魏延(ぎえん)が5千の兵を預かりたいと願い出てきます。
自分はそれとは別のルート、険しい山脈を越えて、
さらに子午谷(しごこく)を通って長安を奇襲し、
攻め取ってみせると豪語するのです。
孔明がめざすルートでは時間がかかり過ぎるため、
道なき道を行き、魏軍の裏をかこうとする作戦です。
しかし、慎重な性格の孔明はその策を退けます。
万一、敵に見つかれば全滅は免れません。
失敗の許されない戦い。万全の布陣で行軍したいがため、
魏延の博打に近い作戦は受け入れがたいものだったのです。
策を退けられた魏延は、深い溜息をつきます・・・。
順調に進軍を続ける孔明は、夏侯楙が来ると聞いても
まったく恐れを抱きませんが、ただひとり、
司馬懿(しばい)の動向を気にしていました。
その司馬懿が雍涼(ようりょう)に赴任したと聞き、孔明はやや顔色を変えます。
曹叡の意図は見えませんが、司馬懿が軍権を握っているとすれば厄介。
そのため、魏の陣営に「離間の計」を仕掛けることを思いつき、手を打ちました。
いっぽう、雍涼に赴任した司馬懿は、自らの判断で
孔明の攻撃に備え、ひそかに兵を増強していました。
さすがは司馬懿。孔明がおとりを使ってくるであろうと見越し、準備していたのです。
しかし、孔明の仕組んだ偽の布告状が出回り、
洛陽の曹叡のもとに、司馬懿が野心を抱いているとの情報がもたらされました。
曹叡は、司馬懿がわずかな兵で謀反をたくらむはずがないといいますが、
司馬懿を快く思わない曹休(そうきゅう)は、
彼が兵力を無断で増強していると吹き込み、疑いをもたせます。
曹叡はみずから雍涼に出向いて、直接司馬懿に問いただすことにしました。
すると、曹休のいうとおり、司馬懿が独断で兵を増やしていると発覚します。
曹叡は、結局司馬懿を疑い、官職をすべて剥奪したうえ、
雍涼の地も召し上げ、故郷の河内(かだい)郡へと追いやってしまいました。
孔明の策略は、見事に成功したのです。
司馬懿のいない魏軍を、孔明は面白いように翻弄し、各地で撃破。
先鋒の趙雲が、夏侯楙を難なく打ち破って生け捕りにすると、
さらに、南安、安定などを攻略し、
天水(てんすい)郡の武将、姜維(きょうい)を降伏させました。
その報に怖れおののいた曹休は雍涼を捨てて、逃走する有様。
蜀軍は連戦連勝、まさに快進撃を続けます。
敗戦につぐ敗戦の知らせを受け、
長安の手前にまで迫られたと聞いた曹叡は大激怒。
曹叡は、大将軍の曹真に迎撃を命じますが、曹真は尻込みして出陣を躊躇します。
そこへ、この年76才になる、司徒の王朗(おうろう)が
老骨に鞭打ち、軍師としての従軍を申し出ると、しぶしぶ出陣します。
かくして、曹真の軍は祁山で蜀軍と対峙します。
王朗は、得意の弁舌で孔明の気勢を削いでやろうと、
自信たっぷりに、単騎で馬を進めていきました。
それに応じ、孔明も四輪車に乗って前に出て、王朗と対面。
王朗は、孔明に対して「魏が天下を治めるのは天命によるもの。
それに対して喧嘩を売るとは何事だ」と一喝し、降伏するよう諭します。
しかし、孔明はいささかもたじろがず、もとは漢の臣下でありながら
今は魏のもとで官位をむさぼる王朗を手厳しく批判したうえ、
「白髪頭の匹夫(ひっぷ)、老いぼれは早く立ち去れ」と、
とどめの一言を付け加えます。
王朗は何も言い返せないどころか、孔明の鋭利な舌鋒によって
屈辱にまみれ、怒りのあまり血を噴き出して馬から落ちてしまいました。
陣中に連れ戻された王朗ですが、
そのまま目を覚ますことなく、死んでしまったようです。
孔明の舌鋒もそうですが、行軍の無理が祟ったのでしょう。
舌先だけで人を殺した孔明を、曹真は大いに恐れます。
そのため、積極的に打って出ず、王朗の死を餌に蜀軍をおびき寄せて
打ち破ろうとするのですが・・・。
しかし、その作戦を読んだ孔明は、
曹真が伏兵を置いた場所を見破り、難なく撃破してしまったのです。
またしても敗退を重ねる魏軍。弱り切った曹叡は、
重臣の鍾繇(しょうよう)に、今後の出方を相談しました。
鍾繇は、「やはり孔明に対抗できるのは、司馬懿しかいない」と進言。
曹叡は以前、司馬懿を疑って左遷したことを恥じ、彼を呼び戻すことにしました。
いっぽう戦勝を喜ぶ、蜀の陣営。
孔明も、「このままいけば、あと半年で中原を攻略できる」と珍しく喜びます。
そこへ、李豊(りほう)が、父の李厳(りげん)の書状を届けにきました。
それは李厳が苦心した結果、魏将の孟達(もうたつ)が蜀軍に寝返り、
謀反を起こすと約束してきたことを伝えるものでした。
孟達が魏の内側から洛陽を攻めれば挟み撃ちにでき、
労せずして洛陽を攻め落とせる・・・孔明は李厳の手柄を褒めたたえます。
蜀軍にとって、すべてがうまく運んでいます。
孔明は上機嫌で、孟達へ届けさせる書状を自らしたためるのでした。
そのころ、司馬懿は自邸に籠り、静かに日々を過ごしていました。
魏軍連敗の知らせは、当然司馬懿のもとにも届いていますが、
司馬懿は何食わぬ顔で琴を弾きながら、ただ時を待っていました。
そこへ、彼が内心待ちに待った、曹叡からの詔が届けられます。
曹叡は書状の中で、司馬懿に対して深く謝罪するとともに、
大都督に任じ、軍権を与えるのでした。
魏軍の敗北に次ぐ敗北の結果、「現場復帰」を遂げた司馬懿。
司馬懿は、この劣勢をどのようにして覆しにかかるのでしょうか・・・。
【このひとに注目!】
◆姜維(きょうい) 字/伯約(はくやく) 202~264年
涼州・天水郡の太守、馬遵(ばじゅん)の配下。蜀軍の攻撃に備えていたが、蜀との内通を疑われて行き場をなくし、やむなく蜀に投降する。残念ながら本作では描かれなかったが、原作では投降する前に孔明の策を見破り、それを逆手にとって蜀軍を苦しめたり、趙雲と互角以上に打ち合ったりする武勇を見せている。以後は、孔明の忠実な部下として、北伐軍の主力の一人として活躍する。涼州の地理に通じ、智勇ともに優れる彼の加入は、蜀軍にとって大きな助けとなるのだ。
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コメント一覧
2. Posted by davi-dave 2012年07月31日 06:49
哲舟さんこんにちは。
今回の王朗とのお話は、三国志内でも大好きなエピソードの一つです。
ところで、王朗役の役者さんですが、小堺さんによく似ていますね。見ていて笑っていいのかどうか迷ったくらいです。
また、腹に一物を持つ魏延さんですが、昔から私は彼はどちらかと言えば忠臣であったのではと思っています。曹操さんもそうですが、描き方一つでその人のイメージは大きく左右するのは仕方がないことでしょうが、それがフィクションの面白いところかもしれませんね。
今回の王朗とのお話は、三国志内でも大好きなエピソードの一つです。
ところで、王朗役の役者さんですが、小堺さんによく似ていますね。見ていて笑っていいのかどうか迷ったくらいです。
また、腹に一物を持つ魏延さんですが、昔から私は彼はどちらかと言えば忠臣であったのではと思っています。曹操さんもそうですが、描き方一つでその人のイメージは大きく左右するのは仕方がないことでしょうが、それがフィクションの面白いところかもしれませんね。
3. Posted by yamaneko5646 2012年08月01日 21:07
こんばんは=!
「離間の計」、懐かしいです!
かって、曹操がこの計略が成功したときの 豪快な笑い!
「三国志」の 発展期でしたか、痛快でした。
今回は 少し重たい気分!
「離間の計」、懐かしいです!
かって、曹操がこの計略が成功したときの 豪快な笑い!
「三国志」の 発展期でしたか、痛快でした。
今回は 少し重たい気分!
4. Posted by ずぅ 2012年08月09日 21:03
司馬懿も才能があるがゆえに
苦労も多かったんだしようね・・・
王朗を殺した、「匹夫」という言葉は
中国では最大の侮蔑の言葉なんでしょうね~
ひっぷひっぷ
苦労も多かったんだしようね・・・
王朗を殺した、「匹夫」という言葉は
中国では最大の侮蔑の言葉なんでしょうね~
ひっぷひっぷ