第26話~第30話
2012年05月11日
今週も1週間の締めくくり、金曜が来てしまいましたね。
今日は、ちょっとだけ宣伝がございます。
三国志Three Kingdoms ブルーレイ版が、現在vol.4まで発売されています。
2012年4月 4日リリース vol.1 董卓専横 & vol.2 徐州争奪
2012年4月25日リリース vol.3 覇者曹操 & vol.4 赤壁大戦
2012年5月25日リリース vol.5 智争荊州 & vol.6 周瑜絶命
全9巻 / 3枚組 / 各¥5,460(税込)
OPSB-S103~111
vol.5~9も、5月下旬から順次、リリース予定です。
より高画質で迫力ある鮮明な映像で、本作を楽しんでみてはいかがでしょうか?
先に発売されているDVD-BOXと合わせ、よろしくお願いします。
詳しくは、公式サイトTOPページの、やや右にある「商品情報」から、ご覧ください!
さて、劉表に身を寄せ、新野への駐屯を勧められた劉備は、
さっそく新野へと赴任していきました。
そこで、見送りに来た劉琦(りゅうき)は、己の苦しい身の上を吐露します。
劉表は長男の自分ではなく、次男の劉琮(りゅうそう)ばかりを可愛がり、
しかも軍の実権は、重臣の蔡瑁(さいぼう)が握り、自分は首を狙われている、と。
劉琦は自分が劉表の後継者として重んじられるよう、
劉備に協力してほしいと訴えます。命がかかっていますから、切実です。
そのころ、蔡瑁は劉備をどうにかして取り除くため、
姉の蔡氏と計画を練ります。
この蔡氏という女性は、劉表の後妻で、劉琮(劉琦の弟)の母親です。
蔡瑁姉弟は、前妻の子・劉琦を始末し、
劉琮を跡継ぎにすえて荊州を牛耳り、好き勝手に振舞いたいのですが、
劉備が来たことで邪魔になると考え、彼の排除を考えるのです・・・。
さて、河北では「官渡の戦い」で大勝利をおさめた曹操が、
袁紹の居城であった冀州城(きしゅうじょう)へ、さっそうと入城していました。
袁紹が倒れたシーンから、すでに7年がたち、西暦207年になっています。
袁紹は202年に病死し、その後は袁紹の息子たち3人が、
その後も各地で抵抗を見せ、戦いは5年続きましたが、
すべて曹操軍に撃破され、ついに滅亡してしまいました。
曹操は、冀州をはじめ袁紹の旧領4州を手に入れ、河北を統一。
冀州の民は、新たな支配者・曹操を迎え入れます。
曹操はここで、袁紹の旧臣たちの処分を決めるのですが、寛大に振舞います。
官渡の戦いを前に、曹操を貶める檄文を書いた陳琳(ちんりん)を許し、
戦いのさなか、袁紹に内通した者が多く居た証拠である文書が発見されても、
それを見もせずに焼き払うよう命じました。
曹操は、自分を裏切ろうとした者を処罰せず、逆に理解を示したのです。
すでに袁紹が死んだ今、裏切り者を暴いたところで何の益もありません。
曹操には、彼らを不問に付すことで、
自分に恩義を感じるよう、仕向けるのです。
そして、官渡の戦いの功労者、許攸は酒に酔いつぶれ、
曹操を侮辱するような悪口雑言を吐きまくったため、
怒った許褚(きょちょ)に斬られてしまいます。
それを知って怒る曹操。許攸は、旧友でもあったことから、
「許褚を斬れ!」と命じます。あわてて取りなす諸将。
さらに荀彧がとりなしたことで、許楮は死罪は免れ、歩兵に降格。
加えて、3ヶ月の禁酒を命じられます。
一命をとりとめ、曹操の前から退出した許褚は、
「3ヶ月の禁酒にだけは耐えられない」と荀彧に愚痴をこぼしますが、
荀彧は「馬鹿者!」と一喝して、曹操の怒りが演技であったことを教え諭します。
曹操は許褚が許攸を斬ったことを内心では喜んでいて、
あえて許褚を厳しく罰したのは、成長をうながす期待のあらわれだというのです。
許褚は感激し、荀彧に何度も礼をして去って行きました。
この両者のやりとりは本作のオリジナルエピソードですが、
お互いの性格がしっかり出ていて、実によく描けていると感じました。
私は個人的に、本作でベスト10に入るほどの名シーンだと思います。
さて、荊州では劉備が劉表と親交を深めていました。
先に述べたように、荊州へ来てから、もう7年も経過しています。
劉備は、何もできない身の上を嘆いています。
これは、「脾肉の嘆」(ひにくのたん)というエピソードです。
脾肉(ひにく)とは、ももの肉のことで、ろくに馬にも乗らず=戦場へ出ずに
平和に過ごすうち、肥え太ってしまった己の身を嘆くことを示します。
その間、曹操はますます勢力を広げているという情報が入ってきますから、
むなしく時を過ごしている自分が歯がゆくて仕方ない劉備。
関羽や張飛も、退屈で仕方ない日々を過ごしているはずです。
劉備はここで「私は齢50になろうとしていますが・・・」と話していますが、
とてもそうは見えないぐらい若いですよね(笑)。
ただ実際、劉備は161年生まれなので、このときはもう47歳です。
そんな劉備の心を知らぬ劉表は、後継者問題の悩みを劉備に吐きます。
劉表本人は、長男の劉琦を立てたいと思っているのですが、
蔡瑁・蔡氏らの一族がそれを承知しないというのです。
劉備はそれとなく、劉表に蔡一族を廃することを提案しますが、
話を立ち聞きしていた蔡氏は、劉琦・劉備に荊州を乗っ取られることを危惧し、
劉表に、それを涙ながらに訴えます。
この7年のあいだ、荊州は
次男の劉琮を立てる蔡瑁・蔡氏の一派と、
長男の劉琦を立てる劉備一派とに、完全に分裂していました。
蔡氏一派にしてみれば、劉備さえ来なければ、
労せずして荊州を手に入れられたのですから、
彼を殺す以外に道はないと思うのは当然かもしれません。
後継者争いによって、
お家騒動が起きた例は、日本の歴史でも数知れません。どの国でも同じですね。
両派とも、腹の中は真っ黒け・・・。さて、この先どうなるのでしょうか?
【このひとに注目!】
◆簡雍(かんよう) 生没年不詳
今回、初めて登場した劉備の腹心(右)。劉備と同郷の出身で、若い頃から旧知の仲だった。関羽や張飛よりも劉備との付き合いは長く、旗揚げの頃から従軍していたと思われるが、今回が初登場。正史によると、傲慢・無頓着な性格。長椅子を占領し、寝そべったまま談笑するなど、劉備の前でもだらしない振舞いをやめなかったが、劉備は彼を重用し続けた。
劉備が蜀を得てからのエピソード(正史)。不作で作物がとれなかったため、劉備は酒造りの道具を所持しているだけで逮捕させるほど、厳しい禁酒令を出したことがあった。ある日、簡雍と劉備が市街を歩いていると、簡雍は道行く男女を指さして、「あの二人はみだらな行為をしようとしています。なぜ捕らえないのですか?」といった。劉備が「どうして、そんなことが分かる?」と聞けば、簡雍は「あの者たちは淫行の道具を持っていますから」と答えた。劉備は大笑いし、酒造りの道具の持ち主をゆるしたという。
2012年05月10日
さて、袁紹軍の軍師であり、旧知の仲である許攸が
自分の陣営を訪ねてきたことを知り、
曹操は、履物をはくのも忘れ、裸足で許攸を出迎えます。
曹操がこれを計算でやったのか、素でやったのかは分かりませんが、
彼の性格からいって、おそらく前者ではないでしょうか?
袁紹を見限ってきた許攸は、曹操に袁紹の無能さを訴えます。
「無能な主君に仕えるのは難儀であろうな」と同情する曹操。
許攸は、投降する以上は腹を割って話したいと思い、曹操に質問します。
「軍の兵糧はいかほどですか?」
曹操は50日分と答えますが、「ありえない」と許攸。
「それは表向きで、あと1月分」と曹操が言うも、許攸は笑い飛ばします。
兵糧が不足していることは、軍の機密中の機密事項。
曹操は、なかなか真相を明かしたがらないのですが、
許攸は実情を知っているので、引きさがりません。
「そなたには敵わんな。決してもらすなよ。実は10日分しかない」と
なお、もったいぶる曹操。許攸はそんなに無かろう、と問いつめます。
曹操は、それでも「5日分」と嘘をつきますが、
許攸は「4度も嘘をついた。あと1日分もないだろうに」と切り込みました。
真相を知っていると分かり、観念してついに真実を話した曹操。
兵糧が半日分しかないのであれば、もはや奇襲しか勝機はありません。
許攸は、袁紹の兵糧庫が烏巣(うそう)にあることを教え、夜襲を進言します。
曹操は即断即決し、わずか5千の兵で実行することを決めます。
このあたりの決断力が、袁紹と根本的に違います。
許攸は兵糧庫が焼かれたことを知った袁紹が、
曹操の本陣へ奇襲をかけることを予見し、伏兵を置くよう進言しますが、
それを受けたうえで、曹操はさらに裏をかくため、
空になった袁紹の本陣を奪うことを思いつくのです。

さて、兵糧庫・烏巣は、淳于瓊(じゅんうけい)という将が守備していましたが、
予期しない曹操軍の夜襲を受け、大混乱に陥ります。
曹操軍は火攻めをしかけて兵糧庫を焼き、
運び出せる分の兵糧は奪い取り、見事奇襲に成功します。
「烏巣(うそう)が燃えています」というウソみたいな情報に袁紹軍は大慌て。
息子たちは近くにいるはずの曹操軍を追撃し、曹操を討つべきと進言しますが、
袁紹は曹操の裏をかこうと、曹操本陣を襲うように指示。

袁紹は、はたして曹操の読み通りに動き、まんまと罠にはまります。
案の定、本陣には伏兵がしかけられていました。
混乱に陥る軍勢をまとめ、袁紹は本陣へ引き返そうとしますが、
すでに曹操に本陣を落とされたと知り、進退きわまってしまいました。
あまりのショックに吐血し、落馬する袁紹。
敗北感に打ちのめされ、本拠地の冀州へ戻ろうとするところを、
裏切った許攸の伏兵に襲われ、さらに兵の数を減らします。
原作においては、許攸だけでなく、
張郃(ちょうこう)と高覧(こうらん)の2将も曹操に投降し、
勝敗の行方を左右することになっていますが、ここでは裏切る様子はありません。
伏兵に次ぐ伏兵に遭い、40万もいたはずの袁紹軍は全滅に近い大敗。
もはや100騎足らずとなってしまいました。
改めて、戦争とは数の勝負ではないことを思い知らされます。

落ち延びた先で自害しようとする袁紹。
息子たちに制止されますが、またもや大量に血を吐いて倒れ、ついに昏倒。
この2年後に病死することになります・・・。
その報告を聞いた劉備は「信じがたい話だ」といいます。
たしかに、70万の大軍が壊滅したなんて、にわかには信じられません。
ドラマでは描かれていませんが、大半は不利を悟って投降したに違いないでしょう。
劉備軍は、まだこのとき古城に留まって様子をうかがっていましたが、
わずか数千の兵では到底、曹操に太刀打ちできません。
官渡の戦いが曹操の勝利に終わったことを受け、荊州へ逃げることを決めます。
とはいえ、劉表が許してくれるかどうかはわかりません。
そこで、孫乾が使者に立って劉表に会いに行きます。
劉表の部下、蔡瑁は「劉備は厄病神です」といって
彼を迎え入れれば、曹操に狙われるだけだと述べて反対。
厄病神・・・たしかに、言われてみれば納得のような。
蔡瑁は、使者・孫乾の首を斬って曹操に献上すれば、
荊州の平和は守られるといいます。
しかし、劉表の長男・劉琦(りゅうき)が
「劉家は同じ皇族。大義を重んじるべき」と進言。
さらに、「私ごときの首で荊州の平和が保てるなら喜んで差し出しましょう」と
笑い飛ばした孫乾の覚悟と度胸に感じ入り、劉備軍を迎えることを決めました。
荊州に入った劉備はさっそく、劉表に曹操打倒の兵を
挙げてもらうよう頼みに行きますが、しかし、劉表は「時期尚早」と否定。
天下を望むほどの覇気がない劉表は、
曹操と戦っても決着はつかないとして、劉備の進言を退けます。
劉表は、領内の北にある新野(しんや)の城を
与えるから、そこに駐屯して曹操に備えてほしいと劉備に頼みました。
劉備は、内心は歯がゆく思いつつもそれに従います。
かくして、行き場を失っていた劉備は、次なる根城を
荊州北部の新野に置くこととなりました・・・。
【このひとに注目!】

◆劉琦(りゅうき) ?~209年
劉表の長男。かねてから劉備に好感を抱いていたようで、劉備を荊州へ受け入れることに真っ先に賛同した。荊州では数少ない親・劉備派として好意的に描かれる。しかし、弟の劉琮(りゅうそう)を支援する蔡瑁(さいぼう)たちとの後継者争いに巻き込まれ、身の危険を感じ、劉備を頼みにするようになる。
2012年05月09日
今回は、「官渡の戦い」の戦闘シーンから幕が上がりました。
曹操が袁紹に和睦を持ちかけ、時間稼ぎをしているあいだに、
張遼、許褚が袁紹軍の背後へ回り込み、奇襲をかけたのです。
これにより、袁紹軍は曹操軍の10倍もの兵力を持っていたにも関わらず、
壊滅状態へと追い込まれます。
7万人で70万人を包囲し、撤退に追い込むとなると、
1人が10人の敵を追い散らす計算になるわけで・・・
はたして、そんなに上手くいくのかは気になるところですが、
戦いにおいて、いかに勢いが大事かということがわかります。

戦車や馬が吹っ飛び、兵士が兵器の下敷きになって潰れ・・・
血しぶきが上がる、生々しい描写も多いです。
日本の大河ドラマでは、今はここまでの戦闘シーンは
なかなか撮影されません。映画「レッドクリフ」に劣らぬ迫力ある映像です。
本陣が危機におちいった袁紹軍は撤退に移ります。
曹操の号令のもと、追撃する曹操軍。大将・袁紹の身も危うくなります。
退却する袁紹軍の前に、一隊の軍馬が立ちはだかりました。
見れば、荊州へ去ったものと思っていた劉備軍でした。
劉備は体勢を立て直して曹操と再戦すべきと勧めますが、
袁紹は聞く耳をもたず、退却していきました・・・。
さて、本営に逃げ延びた袁紹は、
牢獄につなげておいた田豊を呼び戻そうとしますが、
彼が敗戦をからかっていると聞いて、田豊殺害を命じてしまいました。
息子の袁譚が被害状況を報告に来ました。
緒戦で敗れた袁紹ですが、被害は70万のうち4割。
あと40万の軍勢が残っていて、まだまだ曹操軍よりも優位な状況です。
まあ、4割といっても一戦で30万人を失ったわけですから、
信じがたいほどの大敗ともいえますが・・・。
古来からの戦争においては、2割の死傷者でさえ大損害といわれます。
とにかく、袁紹はめげずに戦闘を続行します。
一方の曹操軍・・・。
戦死者は1万にも満たない大勝利となりましたが、
曹操は喜ぶでもなく、頭を悩ませていました。
緒戦で袁紹を討ち取れなかったことで持久戦となり、
一戦で決めようと思っていた曹操としては当てが外れたわけです。
曹操軍には兵糧が底を尽きようとしており、
持久戦となれば、依然として不利な状況が続くことに変わりありません。
珍しく弱気になった曹操は、撤退も視野に入れつつ、
許都の荀彧に助言を求めます。
荀彧は「決して撤退してはなりません」と進軍、再戦を勧めてきました。
曹操は励まされ、戦争続行を決めます。
そのころ、袁紹の陣営では、軍師の許攸(きょゆう)が進退きわまっていました。
許攸は曹操の伝令をとらえ、兵糧が不足している情報をキャッチし、
奇襲をかけるように進言したのですが・・・。
しかし、もう一人の軍師・郭図(かくと)がそれを否定。
それは曹操の罠だといい、袁紹の不信をあおります。
ここで袁紹が動いていれば、曹操は敗北していたかもしれません。
しかし、袁紹は郭図の讒言を信じて動きませんでした。

袁紹の軍師2人、許攸も郭図も、そして死んだ田豊も非常に優秀な軍師ですが、
残念なことに、団結して勝利を得ようとする志を持っていないのです。
終始、足の引っ張り合いを繰り返し、せっかくの有益な助言も、
互いの讒言によってつぶされ、袁紹は疑心暗鬼に陥り、判断ミスを繰り返します。
そこへ、死んだ田豊の遺言が届きました。
田豊の遺言は、許攸が昔から曹操と旧知の仲であることを告発するものでした。
これが決定打となり、許攸は袁紹の怒りを買って陣営を追い出されてしまいました。
許攸はついに袁紹に見切りをつけ、曹操への寝返りを決めるのです。
これによって、戦局は大きく動いていきます・・・。
【このひとに注目!】

◆田豊(でんぽう) ?~200年
袁紹の軍師。開戦当初から消極論に終始し、敗北を見越して和睦を進言していた。しかし、開戦派の許攸と対立し、「白馬の戦い」の折から投獄され、ついに今回袁紹から死刑に処され、自害した。原作では、曹操が劉備と戦って本国を留守にしているとき、その背後を襲撃するよう進言するが聞き入れられなかった。「正史」では、剛直な性格で歯に衣着せぬ厳しい発言をしたため、次第に袁紹に疎まれるようになったと書かれている。
2012年05月08日
皆さん、こんばんは! 哲舟です。
袁紹は、ついに70万の大軍を率いて、
曹操と雌雄を決すべく、全軍を集めて出陣の儀式を行います。
それを聞いた田豊(でんぽう)は、獄中で書簡をしたため、出陣をいさめます。
田豊って、覚えていますか?
先の「白馬の戦い」でも、やはり出陣をいさめて袁紹の怒りを買い、
牢獄に入れられてしまった、袁紹の軍師のひとりです。
彼は70万の自軍の兵は弱兵で、曹操の精鋭には負けると踏んでいるのです。
兵の士気が大いに高まる中、水をさされた袁紹は激怒して
彼を斬ろうとしますが、許攸になだめられ、
曹操を破った後に死罪に処することにして、出陣。
大軍を従えた袁紹は、自信満々で軍を進めます。
一方の曹操も、軍議を開いていました。
70万という途方もない敵を相手に、曹操の将兵もかつてない緊張感を漂わせます。
数だけでいえば、圧倒的不利は否めません。
先の「白馬の戦い」で出陣をいさめた孔融らは、ここでも和睦を勧めますが、
すかさず、荀彧(じゅんいく)が進み出て、徹底抗戦を進言。
曹仁、曹洪、許楮(きょちょ)らの将軍たちも一斉にこれに賛同します。
曹操の出した結論は、もちろん抗戦です。
「袁紹を倒すには、精兵7万がいれば十分!」と豪語します。
驚く将兵たちを前に、曹操は続けます。
「兵は数ではない、数より質、将は勇より知である!」
「強さと知謀で競うなら、袁紹が3人いても、この曹操には勝てん!」
と、その根拠を述べて全軍に出兵を命じました。
ちなみに、荀彧の後ろには、郭嘉もいましたが、
郭嘉が、ここで何もしゃべらずに出番を終えてしまったのが残念です。
原作通り、「主君の十勝、袁紹の十敗」をここで彼に言わせてほしかった。
第21話で、荀彧の台詞にされてしまったので、ちょっと可哀想な気がします。
曹操軍も、7万の兵を連れて官渡をめざして進軍していきます。
許都の留守居役は息子の曹丕と、荀彧の8000です。
ここで、両軍の陣営を整理してみましょう。ドラマ準拠です。
◆曹操軍 7万
【大将】曹操 【都督】曹仁 【軍師】程昱
【中軍】夏侯惇・夏侯淵 【先鋒】曹洪・楽進
【鉄騎隊】許楮・張遼 【弩弓隊】徐晃・于禁
(本国留守番 曹丕・荀彧・郭嘉)
◆袁紹軍 70万
【大将】袁紹 【軍師】許攸・郭図
【将軍】張郃・高覧・淳于瓊・袁譚・袁煕・袁尚
(本国留守番 田豊)
※袁紹軍の詳しい陣容は不明。まだ登場していない武将も含めています。
両軍が砂埃をあげて対峙する場面は、非常に格好いいですね。
しかし、曹操はあえて最初は正面から攻撃をしかけず、
なんと戦場に茶席をもうけ、袁紹を招いて会談に持ち込みます。
なにしろ、70万と7万。まともにぶつかっては勝ち目はありません。
袁紹の優柔不断な性格を知り尽くしている曹操、まずは時間稼ぎを思いつくのです。
最初はヘラヘラと笑い、袁紹に媚びへつらい、
昔話をした挙句に和睦を申し入れ、袁紹の心を迷わせます。
なおも献帝を譲ろうとしたり、女官を使って袁紹の兵の士気を萎えさせたあと、
袁紹軍の将兵の目を、西陽でくらませるという奇策につなげます。
曹操は袁紹軍と対峙したとき、
自軍が逆光を浴びていて不利なことに気付き、その立場を逆転したのです。
「わしが袁紹なら、曹孟徳とは和睦せん!
必ずわしが勝つからだ!」
時間稼ぎに成功した曹操は、太陽が十分に傾いたのを確認すると、
一転強気になって袁紹に罵声を浴びせ、走って自軍に引き揚げていきました。
袁紹軍が、罠だと気付いたときにはすでに遅し。
曹操は自ら太鼓を叩いて、総攻撃を命じました。
この茶席の場面は原作にはなく、本作のオリジナルです。
しかし、ここに第21話で荀彧が挙げた「主君の十勝、袁紹の十敗」のすべてが
凝縮されているといえましょう。録画されている方はぜひ、じっくり観てください。
それにしても、この回は袁紹の愚かさが際立っていて、残念すぎます。
仮にも70万の兵を従えている大将なんですから・・・
もう少し英邁さを出しても良かったように思います。
袁紹の軍師たちも、曹操の策にまったく気付く気配がなかったのは、
ちょっと情けないように思いました。
さて、両軍の兵が激しく激突・・・というよりは曹操軍の一方的な攻勢ですが。
それにしても迫力ある戦い。戦車(兵士を乗せて運ぶ馬車)が宙に舞うほどの猛攻です。
その間に、許楮と張遼の率いる鉄騎隊が、背後に回って奇襲をかけます。
曹操軍はこの緒戦において、10倍の袁紹軍を一気に突き崩し、
敗走させるという会心の勝利を得るのです・・・。
【このひとに注目!】
◆袁紹(えんしょう) ?~202年
曹操と袁紹は若いころ、ともに洛陽で役人を務めていた。いわば同僚だった。袁紹の年齢は不明だが、曹操より少し上。本作品では、そうした若いころの様子は描かれていないが、一緒に花嫁泥棒を企むなど、2人で悪い遊びも相当やったようだ。
たくらみがばれて追手が迫ったとき、逃げる途中で袁紹が草むらに足を取られてしまった。曹操がわざと「泥棒はここにいるぞ!」と大声をあげたため、驚いた袁紹は慌てて足を引き抜き、無事逃亡できたという。そういった背景を反映させているのだろう。2人の性格は当時と全然変わっておらず、茶を飲むシーンでも終始曹操がペースを握っている。
2012年05月07日
皆さん、こんばんは! ストーリー・テラーの哲舟です。
連休も終わり、今日から世間は平常運転といったところで、
げんなりされている社会人、学生の皆様もいらっしゃるかもしれませんが、
ドラマ『三国志 Three Kingdoms』、ますます盛り上がっております!
さて、ようやく曹操の領地を脱した関羽一行。
そこへ、一隊の盗賊らしき集団が立ちはだかりました。
頭目は「張角」の名を騙って、盗みを働いていたようですが、
そこへいきなり現れた男が、一瞬にして頭目を斬ってしまいました。
男の名は周倉(しゅうそう)。終世、関羽の右腕として生死をともにする人物です。
ちなみに、頭目が騙っていた張角というのは、
かつての黄巾党の首領のことで、これより何年も前に病死しています。
その残党たちの中には、このように盗賊と化して、
悪事を働いていた者も多かったそうで、「黄巾賊」と呼ばれていました。
関羽は、周倉が昔から自分に憧れていたことを知り、
奥方たちと相談のうえ、部下にすることを決定します。
一応、奥方に許可を得てはいましたが、配下にする気満々でした(笑)。
意気投合するのが早すぎるように思えますが、まあこれが大陸式といいますか。
関羽にとって、腕の立つ部下の出現は有難いことだったと見えます。
ここまでの道中、味方は武芸の腕はサッパリの孫乾だけでしたからね・・・。
先を急ぐ関羽らは、汝南の古城に辿り着きました。
この付近は、かつて袁術の領地だったところ。そこにいたのは、あの張飛です。
久々の再会を喜ぶ関羽ですが・・・
張飛は敵意むき出しで襲いかかってきます。
かねてから、関羽が曹操に投降したという情報を得ていたためです。
関羽は誤解を解くために、追ってきた曹操軍の将・蔡陽を
一刀のもとに斬り、裏切っていないことを証明しました。
単純な張飛。すべては誤解だったと知り、今度は自分が謝ります。
こうして豪傑兄弟2人、ついに再会を喜び合いました。
そのころ、劉備は袁紹のもとにいましたが、
関羽・張飛が2百里先の汝南まで来ていることを知って、
「4日以内に連れてきます!」と、早速迎えに出ることを決めました。
人のいい袁紹は、劉備にコロッと騙されて許してしまいます・・・(笑)。
しかし、軍師の許攸は鋭い。
劉備がもう戻ってこないことを悟って出口で彼を待ちます。
「もう戻る気はないのだろう?」
図星をさされ、さすがの劉備もギクッとしたようです。
「袁紹殿のもとでは、大義は成せない」と主張する劉備。
許攸は劉備の意図を見抜いたうえで、それを肯定します。
なおも曹操打倒の夢を捨てない劉備に共感した許攸は、
はるか南、荊州の劉表のもとへ身を寄せるよう提案します。
じつは、劉備も同じことを考えていました。
袁術が死に、袁紹が頼りにならない今、残る有力者は荊州の劉表ぐらい。
劉表の兵を動かし、袁紹と挟み撃ちすれば曹操を倒すこともできます。
ほかには、江東の孫策、益州の劉璋ぐらいでしょうか。
孫策はまだ安定勢力とはいえず、劉璋の土地は中原から遠すぎます。
劉備は同族であり、曹操と領地を接する劉表しかいない、と見ていたのです。
意見の一致した2人。
劉備は、袁紹の暗愚さを知りぬく許攸の実力を、かねてから見込んでいました。
そこで、「一緒に来ては?」と持ちかけますが、許攸はそれをやんわりと拒否します。
許攸は、自分を信任してくれ、長く仕えている袁紹を裏切れないといいます。
かつて呂布の部下だった陳宮といい、愚かな主君とは知りながらも、
それを見切ることができない彼ら。それもまた、ひとつの生き方でしょう。
ただ、一応フォローしておくと、この時点で劉備は領地も何もない身の上です。
一流企業ともいえる袁紹のもとを離れ、
無職に近い劉備に付いていくのは、博打もいいところ。
劉備には、優れた軍師さえいません。
胸中、許攸を味方に得たいという思いもあったはずです。
しかし、まだその時ではなかった、ということかもしれません。
そのころ、関羽・張飛は、趙雲と再会を果たしていました。
偵察に出た周倉が、面識のない趙雲にぶちのめされるハプニングはありましたが。
関羽・張飛・趙雲は、お互いの姿を見るや再会を喜び合いました。
劉備とはぐれた趙雲は、かつて所属していた公孫瓚(さん)の領地・幽州に戻り、
その残党、3000人を従えて中原に戻ってきていたのです。
再会を喜び、酒を酌み交わす三人のもとへ、
劉備の早馬として麋芳(びほう)がやってきました。
麋芳の知らせで、劉備が古城へ向かったと知った3人はそこへ急行。
一行は、ついに感動の再会を果たすのです。
抱き合う劉備・関羽・張飛の3人を温かく見守る趙雲と孫乾。
第2話でチラッと描かれた、「桃園の誓い」(とうえんのちかい)再び・・・。
場所こそ違えど、再会した三兄弟は桃の木に囲まれて酒を酌み交わします。
ここで、三兄弟が出会った「桃園の誓い」について、
少し、詳しくご説明しておきましょう。
ちょうど、三国志初心者さんからコメント欄で
「三兄弟は、どんな出会いがあって、
何がきっかけで兄弟の誓いをしたのでしょうか?」との質問を頂いていたので
少し長くなりますが・・・、タイムリーなので書いてみたいと思います。
西暦184年、当時の中原(ちゅうげん。都の洛陽周辺、中国の中心地)は、
「黄巾の乱」の影響で賊徒が暴れ、都では宦官が権勢をふるうなど乱れに乱れていました。
三兄弟が最初に誓いを交わしたとされているのが、その184年。
劉備は、ここでは「10年前」と言っていますが、
今回の話は西暦200年ですから、実際には16年前になります。
幽州涿郡(現在の北京のあたり)に住んでいた劉備(当時24歳)は、
義勇軍を旗揚げし、乱れた世を正したいと考えていたところ、
同郷に住む張飛と出会います。
義勇兵募集の高札の前で意気投合した2人。
さっそく酒を酌み交わしていたとき、河東郡という、
西の方から来た流れ者、関羽がその酒場に入ってきました。
関羽が幽州へ来た理由はわかりませんが、もともと故郷で塩商人をしていた彼は、
暴利をむさぼる同僚を殺し、官吏に追われてきたという説があります。
関羽もまた義勇兵に応募しようと、その景気づけに酒を飲みに来たのですが
3人はそこですっかりお互いの志に感じ入り、張飛の家の裏にあった桃園で、
生死をともにしようと義兄弟の契りをかわしたといいます。
なぜ3人が意気投合したか、そこまでは記録にないので、
「気が合った」ということ以外には説明できませんが・・・(笑)。
皆さんもそうだと思いますが、友達なんてそんなものですよね。
(第2話のカット)「われら三人、生まれし日、生まれた時は違えども・・・
同年、同月、同日に死ぬことを願わん」
と、呼びかけに応じた者たちも集め、酔いつぶれるまで飲んだそうです。
「桃園の誓い」は、このドラマの原作である
小説『三国志演義』の名場面として、昔からよく知られています。
小説のもとになった正史(中国の歴史書)の『三国志』には、
「桃園の誓い」は書かれていないので、
厳密にいえば創作ということになってしまうのですが、ただ正史の記録の中にも、
「劉備は護衛官の関羽・張飛に、兄弟のように恩愛をかけ、
張飛は年長者の関羽を兄のように敬った」というようなことが記されています。
彼らは本当に兄弟のような関係であったことは間違いないようで、
それが「桃園の誓い」の逸話のもとになったと十分に考えられます。
さて・・・こんなところですが、おわかりいただけましたでしょうか?
ご興味のある方は、日本における三国志の入門編ともいえる、
吉川英治の小説「三国志」や、横山光輝の漫画「三国志」などを、
一度ぜひ、お手に取られてみてはいかがでしょうか?
それぞれの作品によって、3人が出会う場面も
微妙に異なる描かれ方がされていて面白いですよ。
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さてさて、続きに行きましょう。
三兄弟といいましたが、この場面では、趙雲も入れて四兄弟です。
どうせなら孫乾、麋芳も席に呼んであげて欲しく思うのですが・・・。
2人は別の席で飲んでいるのでしょうか。まあ細かいことは良しとしましょう(笑)。
そのころ、冀州では袁紹が3人の息子たちを迎えていました。
曹操との決戦にそなえ、袁紹への援軍として、
それぞれの領地から兵を従えて集結してきたのです。
袁紹には袁譚・袁煕・袁尚と、3人の息子がいます。
問題は、この若君たち、3人とも自己主張が強く協調性がありません。
同じ三兄弟でも、桃園の三兄弟とは違い、チームワークに難ありですね。
それぞれに先鋒を務めたいと主張したため、
袁紹は自らが先鋒をつとめるといって、軍議を切り上げました。
いよいよ、袁紹が大軍を動かします・・・。
【このひとに注目!】
◆関平(かんぺい) ?~219
今回、趙雲が身を寄せていた砦の主、関定という人物の息子。以前より同じ姓である関羽に憧れており、父の許しを得て関羽の養子になりたいと申し出る。関羽は息子がまだいないこともあり、これを許す。以後、生涯を通じて周倉とともに関羽につき従い、戦い続ける。
原作やこのドラマにおいては養子だが、史実では関羽の実の息子である。関羽に死ぬまでつき従ったその忠義心は、周倉とともに昔から中国人に尊敬されてきた。関羽が死後に神格化されて祀られた「関帝廟」では、必ず関羽の右側に関平、左側に周倉が侍した形で、そろって祀られている。