第31話~第35話

2012年05月18日

こんばんは! 哲舟です。

曹操は河北を統一、孫策が亡くなり、劉備陣営には諸葛亮(孔明)が加わって、
三国志の物語は、一気に盛り上がってまいりましたね。

やはり孔明が登場してから、アクセス数が一気に増えて、
私も嬉しい悲鳴といいますか、喜びに打ち震えておる次第です。

最近日本で行われた、とある三国志人物・人気投票では、
やはりダントツで孔明が1位だったとか。ちなみに2位は曹操。ほかは順不動にしますが、
劉備、関羽、馬超、趙雲、周瑜、魯粛、張遼、荀彧あたりが上位に入ったようです。
皆さんも、このドラマをきっかけに贔屓の人物をたくさん見つけて頂きたいと思います。

さて、孔明を得て新野に戻った劉備は、念願の軍師を得ることができて大喜び。
日々2人で酒を酌み交わし、どこへ行くときも連れ歩いて教えを乞うていました。

その様子は、まさに水を得た魚。
「水魚の交わり」という故事成語になっています。


035-006
関羽や張飛は、劉備が孔明にべったりしているのが面白くありません。
張飛などは、孔明が歩いているのを見ると「水が行くぞ」とからかったといいます。

そこへ、曹操の命令を受けた
夏侯惇(かこうとん)の大軍が、新野めがけ押し寄せてきます。
劉備はさっそく、孔明に兵符を与え、軍の指揮権をゆだねました。

孔明は矢継ぎ早に軍令を発していきます。
劉備自らも孔明の命令に進んで従いますが、
命令をしぶしぶ受けた、関羽や張飛は不満顔。

「軍師殿。われらが出陣した後、そなたは何をなさる」と関羽は詰め寄る始末です。
軍師は城の中で策をめぐらせるものと、
劉備がたしなめたため、仕方なく両将は出陣していきます。

こうして、博望坡の戦い(はくぼうはのたたかい)が幕をあけました。
ドラマでは、孔明が劉琦(りゅうき)に呼ばれ、身内同士の争いの悩みを
聞いているうちに、戦いは終わってしまいます。

夏侯惇、久しぶりに見られると思ったのですが、残念ながら出てきませんでした(笑)。
戦闘がカットされてしまい、ちょっと寂しいので、
この戦いで孔明が立てた戦略を記しておきましょう。

まず、孔明は趙雲率いる500の兵を先発させ、わざと負けさせます。
負けて逃げる趙雲軍は囮(おとり)です。草が生い茂り、
燃えやすいように細工をしておいた博望坡に、夏侯惇軍を誘い込みます。

そこへ、潜んでいた関平の伏兵500がいっせいに火を放ち、
夏侯惇軍は混乱に陥り、立ち往生。火に巻かれて戦意を失います。
すかさず関羽・張飛率いる合計2000がその退路をふさぎ、
散々に夏侯惇軍を蹴散らしたのです。

035-007
夏侯惇は取り逃がしましたが、この大勝利に関羽も張飛も
すっかり上機嫌になり、孔明の実力を認めて祝宴を張ります。
以後、両将は孔明に心服するようになったのです。

しかし、夏侯惇軍はあくまで曹操の先鋒に過ぎず、
曹操が本腰を入れて自ら攻めてくれば、新野の小城では防ぎ切れません。

孔明は、劉表が亡くなった後に
荊州の本拠地・襄陽をもらい受けるよう進言しますが、劉備は仁義を重んじ、
「それはできない。息子の劉琦殿が継ぐべきだ」といいます。

臨終の席で、劉表本人も劉備に北荊州9郡を治めてくれるよう乞いますが、
やはり、劉備は「劉琦殿が・・・」と、固辞しつづけます。

一方、劉表死後、政権を狙う蔡瑁・蔡氏の姉弟は、
劉琮に跡を継がせたいので、劉琦に跡を継がせまいと城内に入れずに妨害。
どうすることもできない劉琦は、孔明の勧めもあって江夏(こうか)へと落ち延びます。

そうこうするうち、曹操が50万の大軍を率いて、いよいよ荊州へ攻めてきました。
劉表は息を引き取り、劉備は新野へ戻ったことで、荊州は主不在となります。

樊城を落とした曹操は、新野まで80里のところに迫りました。
劉表から荊州を譲られたのに、もらい受けない劉備を
孔明も歯がゆく思いますが、それこそが劉備という男。

そこで孔明は、一時しのぎとして、親・劉備派の劉琦がいる江夏へと
軍を移すことを提言します。江夏には、8万の兵と兵糧の蓄えがあります。

新野を立ち去るにあたり、孔明は押し寄せる曹操軍を水攻めにし、
出鼻をくじいて、時間を稼いだうえで退却する策を講じました。

しかし、城内には18万の民がいます。
孔明は彼らに金や兵糧を与え、別の地に移住させようとしますが、
民はみな劉備を慕い、「ついていきたい」と口々に言っているといいます。

江夏までは280里もの長旅。
民衆が一緒では行軍速度が鈍り、曹操軍に追いつかれてしまう・・・。
そう孔明はいさめますが、劉備は聞きません。

「たとえ、民が私を見捨てようと、私は民を見捨てぬ。忠告は無用だ」

孔明は、改めて劉備という男の本質に触れ、感銘を受けます。
こうなってはもう、従うしかありません。
劉備軍は大勢の民衆とともに撤退を開始します。

035-003
そのころ、劉表が亡くなって悲嘆に暮れる襄陽城では、
蔡瑁が劉琮(りゅうそう)に、曹操への降伏を勧めていました。

蔡瑁はすでに曹操へ降伏の打診の使者を送っており、
蔡姉弟の言うがままである劉琮は、否応なくそれを認めます。

そして、いよいよ荊州へ曹操軍が到着。
荊州には50万の兵がいましたが、こうして一戦も交えることなく開城し、
曹操は無傷で荊州9郡と兵を手に入れたのです。

曹操は蔡瑁の願いを聞き、ひとまずは劉琮を荊州刺史に任じると、
不敵な笑みを浮かべて城へと入っていきます・・・。


【このひとに注目!】
035-002
◆劉琮(りゅうそう) 生没年不詳
劉表の次男で、劉琦の異母弟。実の母である蔡氏と、叔父の蔡瑁が劉琦を排除し、彼を後継者に擁立しようとしていたことで、兄との仲は良くなかったという。父の劉表も病弱な劉琦より、劉琮を後継者と考えていたようである。劉表の死後、劉琦や劉備が江夏へ去ったため跡を継ぐが、家臣たちの勧めですぐさま曹操に降伏した。


では、皆さん。
名残惜しいですが、また来週お会いしましょう。



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2012年05月17日

みなさん、こんばんは! 哲舟です。

いつも温かいコメントをいただき、有難うございます。
「あのシーンやこのシーン良かったんだけど、書かないの?」
といった声もいただいて、申し訳なく思っています。

最近では、袁紹と会談した曹操がピエロのように走って帰ったシーンとか、
徐庶を見送ったときに劉備が「あの木が邪魔だから切っておけ」と言うシーンなどに
触れていなかったですね。すみません・・・。

本当は、すべてのシーンについて書き、余さず触れたいところではありますが、
いかんせん時間に追われている身でして、網羅しきれない点も多々ございます。

書き切れない部分は、皆さんで思い思いに楽しんでいただきたいと願う次第ですが、
その上でご指摘やお叱りのコメントでも、お寄せいただければ、
皆さんがどこに注目されたか良く理解できますし、また無上の喜びです。
あしからず、どうかご容赦ください・・・!

さて、劉備の「三顧の礼」を受けた諸葛亮(孔明)が、
大業をなすための方策を、こんこんと説いています。

荊州・西蜀を得たあと、南と西の異民族を手なずけ、
東の孫呉と手を組んで、北の曹賊(曹操)を攻略する。
20年かけて天下を安じるという方策です。

孔明は来るべき時のため、西蜀の地図までも入手していました。
恐るべき行動力、情報収集力といえましょう。

035-001
孔明の才能や見識に感じ入るばかりの劉備は、
「どうか力をお貸しください」と、膝を屈して孔明に頭を下げます。

諸葛亮もそれに応じ、仕官を決意し、ついに出蘆しました。
従来の作品ですと、一度は劉備の申し出をつっぱね、ためらいを見せる孔明ですが、
本作では意外にあっさりと仕官を承知したように思えました。

このとき劉備47歳、孔明28歳。
およそ年齢差は20歳で、親子ほども歳が離れています。

劉備から見れば、孔明は「若造」ともいえる年齢で、
関羽や張飛が立腹するのは、もっともかと思います。

しかし、劉備はそんな若造にも優秀とみるや頭を下げて誠意をみせる。
この情熱と謙虚な姿勢に、孔明も心を打たれたのでしょう。

こうして、劉備の「三顧の礼」は功を奏したわけです。
この出来事は、目上の人が格下の人のもとに三度も出向いてお願いをする、
故事成語
として現在にまで伝わっています。

日本では、木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)が、竹中半兵衛のもとに
やはり三度足を運んで部下に迎えたという伝承がありますが、
それも劉備と孔明の三顧の礼をもとにして作られた話といえるでしょう。


・・・さて、ここで時は7年前に戻り、場所は江東(揚州)へと移ります。
中原では曹操と袁紹の「官渡の戦い」が行われていたときです。

江東の孫策が、わずかな供を連れて兎狩りをしていました。
しかし、獲物を追っていたさいに部下たちと離れ、
1人になったところを数名の刺客たちに襲われてしまいます。

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孫策は顔面に矢を受けながらも、次々と刺客を倒していきますが、
残った一人に背中を槍で突かれ、致命傷を負ってしまいました・・・。

兄が重傷を負って担ぎ込まれたと知った孫権は、その枕もとへ急行します。
あの子供だった孫権が、立派になっての再登場です。

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傷の深さから、孫策は自分の命がもう長くないことを悟り、
弟の孫権に跡を託そうと兵符を持ってこさせて、こう言います。

「孫権よ。軍材において、お前は私に及ばないが、
 才ある者を用いて領地を守ることにおいては、私はお前に及ばない」


父・孫堅が死んでから、まだ8年・・・。
孫権は、今度は兄・孫策の死に立ち会わなければならなくなりました。
まだ18歳の孫権は、「自分には荷が重すぎる」といいますが、
兄と母の強い願いを受け、自らを納得させて兵符を受けました。

新たな主君となった孫権に拝謁する諸将たち。
しかし、孫堅の代からの功臣、年配者が多く、
孫権は彼らをまとめきれるかどうか自信がもてません。

また、張昭を筆頭とする文官、程普を筆頭とする将軍(武官)たちの間には、
以前から微妙な対立感情があり、それがこの機に露呈します。

程普は「前線にいる周瑜殿を呼び、大権を授けるべきです」と孫権に進言。
彼ら武官の本音は、孫権よりも、孫策と親しく、それに次ぐ将才とカリスマ性を持つ
周瑜(しゅうゆ)に従いたいと思っているのです。

自らも呉の重鎮であると自負する張昭は、それを快く思わない様子でしたが、
すでに孫権の母から使者が遣わされたと知り、引かざるを得ませんでした。

弟に後事を託し、安心した孫策は妻の大喬を呼び寄せ、
無念さをにじませて、ついに息をひきとりました・・・。
江東の小覇王、孫策。享年26歳、あまりにも早い死でした。

実は、孫策には孫紹(そんしょう)という、この年に生まれたばかりの幼い息子がおり、
家臣たちの一部は孫紹が跡を継ぐべきと主張し、大喬にそれを願い出てきました。
孫紹はまだ幼く、政治を仕切れないため成人するまで、母の大喬が
その任を負うべきだというのです。

途方に暮れる大喬に、重臣の張昭がお家騒動の危機を訴えます。
幼い子が継げば、家臣たちの間で勢力争いが起き、
漢室と同様の道をたどるは明白であると。

034-001
大喬はそれを聞き、身を引いて江東を去る決意を固めました。
大喬は幼子をつれて、舟で長江へ出ていきます・・・。
このあと、大喬がどうなったかは誰にも分かりません。

孫策逝去の知らせを受け、周瑜が急遽、江東の呉郡へ戻ってきました。
このとき周瑜は前線にいて、兵馬の訓練をしていたのです。

義兄であり、同い年の親友である孫策の死。周瑜は霊前で泣き崩れます。
2人は幼なじみで、その友情は「断金の交わり」とまでいわれました。
断金とは金属をも断つ熱い友情といった意味で、
その悲しみ、察するに余りあります。

そのとき傍らにいた孫権が、周瑜に「兄の跡を継いでくれ」と頼みます。
孫権は自分よりも名声も実績もある周瑜に江東を任せ、
自分は長史として周瑜に仕えるというのです。

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しかし、周瑜は固辞して呉国太(ごこくたい)のもとへ行きます。
呉国太は孫策・孫権の母で、孫堅の妻です。
夫も長男も亡くし、悲しみの渦の中にいる呉国太は、
我が子同様に思っている周瑜に、孫権の悩みを話します。

呉国太は、孫権に跡を継がせるようにとの孫策の遺言を伝えたうえ、
孫権が最も敬愛し、最も恐れているのは周瑜であるとも伝え、
孫権を助けてやってほしいと訴えました。
それを聞いた周瑜は、孫権を補佐し、家臣として孫呉に命を捧げることを決意します。

その後、将軍たちをともなって孫権に忠誠を誓います。
この同じ場に文官たちの姿が見えないことが気がかりですが・・・。
今回はようやく、孫呉がクローズアップされた回となりました。


【このひとに注目!】
◆孫策(そんさく) 175~200年
034-014
今回、刺客に襲われた傷がもとで無念の死をとげてしまった孫策。第15回で袁術のもとから独立した後は、2回ほどチラッと登場しただけで、これまで何をしていたか、よく掴めなかった視聴者もおられるかもしれない。ドラマの展開上、どうしても曹操や劉備が中心となるし、孫呉勢力は出番が少なくなりがちなので、簡単に解説しておきたい。
袁術から独立した孫策は、父の旧臣らと1000人の兵をつれ、故郷の呉郡へ戻って勢力を拡大。揚州刺史であった劉繇(りゅうよう)、呉郡太守であった許貢(きょこう)、会稽郡の王朗や厳白虎、廬江の劉勲らを打ち破り、わずか6年で江東一帯を制覇。あまりにも戦いに強いので「小覇王」と呼ばれた(覇王とは項羽のこと)。さらには中原進出をめざそうと、曹操軍が袁紹軍と戦っている(官渡の戦い)隙を狙い、許都攻略を計画していた。しかし、その矢先に暗殺されてしまったのだ。
孫策を襲撃したのは、孫策にかつて処刑された許貢の部下たちである。一説によれば、彼らをけしかけたのは、今は曹操の部下として徐州を守る陳登ともいわれる。あの呂布を罠にはめて滅亡に追い込んだ陳登は、孫策と曹操の領地の境にいて、これをよく守り通していた。無敵の孫策が唯一、苦戦した相手といってよい。



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2012年05月16日

皆さん、こんばんは! 哲舟です。

さあ、いよいよ第3部「赤壁大戦」の幕が上がります。
今回は、これまた三国志の名場面「三顧の礼」(さんこのれい)。

諸葛亮が登場し、三国志前半のクライマックスともいえる
「赤壁の戦い」へと向かっていくわけです。

劉備は、去っていった徐庶の勧めを受けて、
関羽と張飛を連れて隆中の臥龍岡(がりょうこう)に住む諸葛亮に会いにいきます。

見事な結果を残した徐庶に対しては実力を認めたようですが、
関羽、張飛は基本的に「儒者」と呼ばれる人々が嫌いなようで、
しきりに文句をいいながらも、しぶしぶ着いてきます。

033-15
せっかく、はるばる辿り着いた諸葛亮の庵。しかし、彼は留守でした。
諸葛亮は劉備が訪ねてくると知りながら、旅に出てしまったとか。
関羽、張飛は当然ご立腹ですが、劉備は「また来る」といって帰ります。

それにしても、諸葛亮の庵はずいぶんと美しく、立派です。
これまでに描かれてきた庵はもっと素朴なものが多かったのですが、
本作は今までと違ったイメージを出すため、特別に造られたのでしょうね。

日が経ち、その年も暮れようかという12月、劉備はふたたび隆中を訪ねます。
使者から「諸葛亮が旅から戻った」ことを聞き、大雪をものともせず出発。

032-01
関羽は「大雪だから後日にしては?」といい、
張飛は「孔明に会うのは嫌だが、狩りになら付き合うぞ」などと
勝手なことをいって劉備を困らせました。
それでも結局ついてくるのが、2人の可愛いところではありますが・・・。

二度目の訪問となりましたが、家にいたのは諸葛亮の弟・諸葛均でした。
孔明はまだ旅から帰ってきていないとかで、またも空振りに終わってしまいます。
劉備は仕方なく、書置きを残して帰ることにしました。

033-08
帰り際、舅の黄承彦(こうしょうげん)に会います。
諸葛亮の妻の父がやってきたのですが、ほんの挨拶程度。
諸葛亮には、黄夫人(作品によっては月英とも)という妻がいるので、
本作にも登場するのかな、と思ったのですが出番はありませんでした。

新野に戻った劉備は、兵糧の輸送を止められるなど
蔡瑁の嫌がらせに遭い、いよいよ荊州に居づらくなってきます。
このうえは一刻も早く、諸葛亮を得て新しい拠点を探すしかありません。

春になり、亀を使った占いをして
大吉が出たことに喜んだ劉備は、三たび隆中へと赴こうとします。

関羽は、「本当に才がある者なら向こうから訪ねてくるはず」と苦言を呈しますが、
劉備は誠意を示すために、やはり2人をともなって会いにいきます。
張飛も、やっぱり相変わらずブツブツいいながら着いてきました。

道中、弟の諸葛均に会い、諸葛亮が昨日帰ってきたことを知ると、
劉備は心を躍らせて臥龍岡をたずねました。
しかし、諸葛亮はまだ寝ているとのこと。
劉備は、彼が起きるまでそこで待つといいます。

033-03
仕方なく外で待つだけの関羽、張飛は当然イライラがつのっています。
なかなか目を覚まさない諸葛亮に、張飛はついに血管が切れかかってきました。

「俺が火をつけて起こしてやる!」と言い放ったので、
さすがにまずいと思った関羽が止めて事なきを得た・・・と思いきや、
張飛は小便をしに行くと見せかけ、家の裏に回って本当に火をつけてしまいました。

033-04
諸葛亮の寝ている窓の外に、めらめらと火がつき、煙がもうもうとたちこめますが、
孔明さん、それでも目を覚ましません。もしもし、燃えてますよ!?
・・・火が消えかけてからようやく身を起こして、ゴホゴホと咽ておりました。

色々ありましたが、三度目にして、ついに対面が叶った劉備と孔明。
張飛が、「豚のように寝やがって!」と悪態をついて詰め寄ります。

「あばら屋を燃やしていただき、すっきりしました」
孔明は皮肉だかなんだか分からないことをいい、
張飛は「えっ? 孔明は話がうまいな!」と、なぜか喜んでいます。
この意外な展開に、観ている視聴者のほうもびっくりです。

張飛がおとなしくなり、ようやく本題に入ることができた劉備。
さっそく、諸葛亮に漢帝国再興の策をたずねます。

033-05
志はあるが策がないことを訴える劉備に、
諸葛亮は、中国の情勢を流暢に説明したうえで、
「天下三分の計」(てんか・さんぶんのけい)を説きました。

曹操は天子(献帝)を擁し、100万の兵を従えている。これとは争うべきではない。
江東の孫一族も長年つづき、将は優秀、兵は勇猛。
これと争うも難しく、上策ではない。

残るは、いま劉備が居候している荊州と、その西にある西蜀(益州)。
荊州は劉表、西蜀は劉璋が治める土地です。

劉備のとるべき道は、ただひとつ。
まず荊州を得て、それを足がかりに、さらに西蜀も得て、
曹・孫両家と肩を並べるしかないと諸葛亮はいいます。

しかし・・・劉備は荊州は欲しいが、奪うのはしのびないと悩みます。
以前の、徐州のときと同じ状況ですね。
さて、2人の話はどのように展開していくのでしょうか・・・?
また明日をお楽しみに。

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2012年05月15日

こんばんは! 哲舟です。

いよいよ今日で、第2部「中原逐鹿」が幕をとじ、
明日からは第3部「赤壁大戦」が始まります。
ますます面白くなる『三国志 Three Kingdoms』、ご期待ください!

さて、徐庶を連れ帰った劉備が作戦会議を練っているころ、
曹操もまた、荊州攻略のための軍議を開いていました。

先鋒として、曹操は曹仁を大将に、李典を副将に任じて出陣させ、
樊城(はんじょう)で待つように指示を与えます。

曹仁は樊城につくと、劉備軍を見くびり、翌日から攻撃をしかけるように命令。
李典は、それを諫めますが、短気な曹仁は耳を貸さず攻撃にかかります。

曹仁は、得意の陣形をしいて劉備軍を威圧。
まずは軍勢の威容を見せて劉備を降伏させようと考えます。

命令を与えず、攻撃のタイミングを計るばかりで
のんきに茶を飲んでいる徐庶を見て、
関羽・張飛は徐庶の実力を疑い始めます。

しかし、徐庶が曹仁の陣形を「八門金鎖の陣」(はちもんきんさ)と見破り、
理路整然と説明するさまを見て、考えを改めたようです。
徐庶は趙雲に八門金鎖の陣の破り方を教え、出陣させます。

500の兵で陣形に突入する趙雲の軍勢。
敵は5万です。かなり守りは固いので、一見無謀とも思えますが・・・。

032-05
趙雲は奮戦し、突破していきます。
徐庶は、楽に突破できるように言ってましたが、
趙雲だから突破できたのではないでしょうか?(笑)

ともあれ、突破に成功した趙雲。
そこへ劉備・関羽・張飛の援軍が突っ込んできて、
曹仁軍は壊乱状態となり、退却していきました。

032-02
樊城へ戻った曹仁は、趙雲に負わされた傷の手当てをします。
それにしても、曹仁の筋肉がすごい。一流の格闘家のようです。
まさに猛将の肉体。当時の猛将って、やはりこれぐらい鍛えていたのでしょう。

曹仁はめげずに夜襲をしかけてきますが、
徐庶は慌てずに対策を練り、張飛や関羽に的確な指示を与え、
伏兵をしかけて追い返した挙句、もぬけの空となった樊城を奪ってしまいます。

まことに、軍師とは偉大な存在です。
曹操軍に連敗続きだった劉備軍が、生き生きと動いて大勝利をおさめました。

樊城を奪取した関羽は「そなたでは相手にならぬ。曹操を呼んでこい!」と挑発。
曹仁は打つ手なく、退却していきました。

祝いとして、樊城のそばに生えていたキノコ、霊芝(れいし)が関羽から届けられました。
挙兵以来、初めてといって良い完全勝利に、劉備は嬉しさのあまり感涙に咽びます。

一方、命令を無視して大敗した曹仁は、自らを縄で縛って曹操の前に。
李典も曹仁を止め切れなかったことで、責任を感じて一緒に出頭します。

八門金鎖の陣を破られた曹操は疑問を抱きますが、
李典は、劉備に徐庶という軍師がついていたことを報告します。
いつの間に知ったのでしょうか?

荀彧は徐庶を知っていました。
「実力は私の数倍、いや数十倍かも」と、謙遜かもしれませんが、そう告げます。
それを聞いた曹操は厄介に思い、対策を講じました。

徐庶の母が曹操の捕虜になり、
母が助けを求める内容の偽手紙で、徐庶を呼びよせたのです。

徐庶は大変な母思い。
また、曹操のために絶対に献策はしないという誓いを立て、
劉備の下を去ることになってしまいました。

せっかく得たばかりの優れた軍師を手放さねばならなくなった劉備。
その心中は、察して余りあります・・・。

032-07
涙ながらに劉備のもとを去る徐庶。
別れ際に、「臥龍」の正体を劉備に告げて去って行きました。

臥龍とは、そう。諸葛亮孔明のことです。
徐庶を失った劉備は、諸葛亮を必ずや軍師に迎えたいと思うようになりました。

許都へたどり着いた徐庶は、さっそく曹操に面会すると、
母が手厚くもてなされていると聞いて、会いにいきます。

しかし、徐庶の母は、彼が曹操に騙されて来たことを知り、
彼がその策を見抜けなかったことを叱責します。

母思いの徐庶は、「見抜いていたが来ないわけにはいかなかった」と言いますが、
自分が生きていては徐庶を苦しめるだけだと思い、自害してしまいます・・・。
第32話は、悲劇的な結末で幕を閉じました。


【このひとに注目!】
032-04
◆李典(りてん) 
生没年不詳
第3話以来、久しぶりに登場した曹操配下の将。慎重な性格を買われて、曹仁の副将につけられたが、曹仁を止めることができずに敗北を喫してしまった。武将としてはさほど目立った活躍はないが、学問を好み、儒学の素養もあったという文武両道の人物。また、諸将と功績を争うこともなく謙虚な性格だったが、 36歳の若さで病死した。

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2012年05月14日

皆さん、こんばんは! ストーリー・テラーの哲舟です。
今週も1週間、よろしくお願いします。

後継者争いに揺れる荊州。
劉備暗殺をくわだてる蔡瑁(さいぼう)は、ついにそれを決行、
兵を出して、劉備の宿舎を襲います。

劉備は、劉琦(りゅうき)に叩き起こされて危機を知り、
間一髪、宿舎を脱して新野へと逃れていきます。

騒ぎを聞いてやってきた劉表は蔡瑁の企てを知ると、怒って兵を退かせます。
劉備を取り逃した蔡瑁は、首尾を姉の蔡氏に報告へ向いました。

031-04
実は劉備暗殺の企みは、すべてこの蔡氏から出ているようです。
病を発した劉表が回復しないよう、手を回すことまで考えています。
蔡瑁も、この姉の操り人形にすぎません・・・。

よく「女は恐ろしい」といわれますが、
中国の歴史書や小説には、とてつもない悪女が出てきます。
漢の高祖劉邦の皇后、呂后。清の咸豊帝の妃、西太后。水滸伝の潘金蓮など・・・。

三国志の蔡氏も、彼女たちには劣るかもしれませんが、
かなりの悪女だなあと思います。
泣き落しは駆使するし、夫に毒は盛ろうとするし、そして何より美しい・・・
自分は直接は手を下しませんが、陰謀をめぐらせることにかけては天才的といえます。

数日後、劉備は劉表の代理で襄陽の廟会に赴くことになりました。
張飛らは劉備を止めますが、劉備は義理を重んじ、あえて危険を冒して出席します。

その途中、1人の儒者から劉備の馬(的驢・てきろ)は、
「あなたに災いをもたらす」と指摘されます。
儒者は馬を仇に送って災いを避けるよう勧めますが、
劉備は「己のために人を犠牲にするなど・・・」と取り合いません。

そして案の定、廟会の最中、蔡瑁の派遣した軍勢が劉備に迫ります。
劉琦から報告を受けた劉備は、宴の途中で脱走を図り、
裏門から出て、馬を飛ばして逃げます。

031-09
それに気づいた追手が迫るなか、劉備は檀渓という
川の畔へ追い詰められてしまいました。
一か八か、劉備は川に愛馬を躍らせます。
しかし、川の中で立ち往生し、あわや弓に射られようかという瞬間、
的驢は、跳躍して対岸に飛び移り、ついに危難を逃れました。

031-07
劉備を取り逃がして歯がみする蔡瑁。
そこへ、劉備の護衛をつとめる趙雲が追い付いてきて問いつめますが、
蔡瑁はうまく言い逃れ、仕方なく趙雲は劉備の行方を捜します。

劉備は、1軒の草庵に辿り着き、そこで水鏡先生こと司馬徽(しばき)に出会います。
水鏡先生のすすめで、劉備は酒を馳走になることにしました。

水鏡は、このままではいずれ荊州は曹操に攻め落とされるといい、
劉備に決起を促します。

しかし、劉備は兵も武将も不足しており、動こうにも動けない現状を訴えます。
水鏡は、大業をなすには文武の両翼がなければならないといいました。

劉備には、関羽、張飛、趙雲という武の片翼はあるが、
孫乾、簡雍、麋芳らには天下を治めるほどの才はなく、文の片翼にはなれない。
そう指摘します。水鏡先生、とても劉備軍の内情に通じていらっしゃる。
新聞もテレビもない時代に、よくここまでご存じだなぁというぐらいに・・・。

いや、そんなことはともかく。
水鏡は、「臥龍・鳳雛のどちらかを得れば大業を成せる」
劉備に教えました。臥龍(がりょう)とは眠れる龍、
鳳雛(ほうすう)とは鳳凰のヒナのことを言います。

「その者とは・・・?」と尋ねる劉備に、水鏡は今は教えられない、
時が来るのを待ちなさいと諭しました。
ここまで言っておいて教えないなんて・・・。人が悪い。焦らしますよね。

その夜、水鏡の草庵に客人が訪ねてきます。
その客人とは、昼間、街で会った儒者。名前は徐庶(じょしょ)といいます。

徐庶と話すうち、その深い見識にすっかり感心した劉備は、
軍師になってくれるよう、膝を屈してスカウトにかかります。
しかし、徐庶は「軍師は大任すぎます」と重ねて辞退します。

劉備はなんとしても徐庶を得たいと頭を下げ続けます。
水鏡の勧めもあって、徐庶はついに劉備に仕官することを決意しました。

そこへ、ようやく劉備の所在を知った趙雲がやってきて、
徐庶とともに劉備は無事、新野へ帰ることができました。

劉備は徐庶をさっそく軍議に参加させます。
徐庶は、曹操が来年の春を待って攻めてくること、
新野が最初の標的になることを予想し、一同に告げます。
それを受け、劉備軍は来るべき戦いへ向けての準備に入るのです・・・。


【このひとに注目!】
031-03
◆司馬徽(しばき)
 ?~208年
人物鑑定家。荊州に隠棲していたが、劉表には仕えなかった。ドラマでは発しないが、「好々」(よしよし)という言葉が口癖で、何を言われてもそう答えていた。友人が自分の子供の死を伝えに来た時にも「よしよし」と答え、妻がそれを咎めても笑って「お前の言うことも、よしよし」と答えるほどだった。
曹操が荊州を占領すると曹操に召し出されたが、司馬徽はその年に死去する。 このドラマも含め、老人や仙人のような風貌で登場することが多いが、原作(三国志演義)では実年齢は龐統(ほうとう)の5歳上だったといわれ、それが正しければこのとき35歳。劉備より一回りも若いことになる。

sangokushi_tv at 17:55コメント(1)トラックバック(0)