第36話~第40話
2012年05月25日
こんばんは! ストーリー・テラーの哲舟です。
嗚呼早くも、今週も金曜日が来てしまいましたね・・・(笑)。
さて、曹操の密偵である蒋幹(しょうかん)を、
自分の寝所へ招き入れた後、すっかり眠りこけてしまった都督、周瑜(しゅうゆ)。
その隙に、周瑜の床几に置いてある書簡を盗み見る蒋幹・・・。
ここは、なんだか蒋幹の気持になって、
一緒にビクビクしてしまうのは、何故でしょうか(笑)。
そのうち、なにかとんでもない内容のものを発見したらしく、その1通を懐に入れます。
周瑜の様子を見ると、「この数日のうちに曹操の首をムニャムニャ・・・」と
相変わらず寝言を繰り返しています。
そこへ部下の呂蒙(りょもう)が起こしに来ますが、
まだ酒の酔いが醒めず、気だるい様子。
寝たふりをして、周瑜と呂蒙の会話に聞き入る蒋幹。
周瑜もまた、二度寝に入りましたが、密偵として忍び込んでいる蒋幹は
眠れるはずもなく、ひそかに周瑜の陣幕を抜けだして帰ろうとします。
去り際に、朝のお散歩中(?)の小喬に見つかってしまいますが、
なんとか言い逃れ、蒋幹は赤壁の周瑜陣を脱出。
そのとき、岸辺には計略の成功を確信し、
去りゆく蒋幹の舟を見送る、周瑜の姿がありました。
対岸の烏林(うりん)にある、曹操の陣営へ戻った蒋幹。
周瑜の説得は不首尾に終わりましたが、
代わりに、重要な密書を手に入れたといって、曹操に献じます。
そう、周瑜の机に置いてあった例の書簡です。
ちなみに当時、まだ紙は発明されて間もなく、大変貴重なものでしたから、
手紙は絹の布または、木簡や竹簡と呼ばれる、薄く切った木や竹のヘラを、
紐で編んだものに書いており、これを「書簡」と呼んでいました。
得意げに、内容を読み上げる蒋幹。
一読した曹操は、声色を変えて蔡瑁と張允(ちょういん)を呼びつけます。
書簡に書かれていた内容は、蔡瑁と張允が曹操を裏切り、
周瑜に寝返ることを約束するというものでした。
「これは陰謀、濡れ衣です!」と釈明する両将ですが、
曹操は聞く耳をもたず、ただちに刑場へ引き出し、首を打たせてしまいました・・・。
あの劉備を悩ませた蔡瑁、あわれな最期です。
曹操はその瞬間、「しまった・・・周瑜に謀られた」と悟ります。
そう。周瑜はあらかじめ偽の書簡を作って机の上に置いておき、
蒋幹に持ち帰らせたというわけです。
曹操は珍しく我を忘れ、よく確認もせずに処刑を命じてしまったことを悔いますが、
時すでに遅く、両将は首と胴が離れてしまっています・・・。
しかし、それを部下に気取られまいといっさい顔には出さず、
于禁(うきん)と、毛玠(もうかい)の2将を呼び、新たな水軍都督に任じます。
多少の水軍指揮の心得がある于禁(右の人物)は、さっそく策を献じます。
兵の船酔いを防ぐため、船と船を鉄の鎖で結び、
あたかも、ひとつの陸地のようにすることを提案しました。
原作をご存知の方は、「アレッ?」と思われるかもしれません。
この、船同士を鉄の鎖でつなぐ策は、原作「三国志演義」では、
龐統(ほうとう)が曹操の陣営に来て献策するものだからです。
本作では、まだ龐統(ほうとう)は登場せず、
一足早く、于禁が思いつき、曹操がそれを実行するという流れになっていますね。
実は、この「鎖」が戦争の勝敗の行方を左右することになるので、
覚えておいていただきたいと思います。
その頃、周瑜の陣営には・・・。
計略が成功し、蔡瑁と張允が処刑されたという知らせが入ります。
魯粛は、厄介な蔡瑁らを始末できたことを喜び、周瑜の計略を「神業」と絶賛。
たしかに恐るべし、周瑜の知謀。
この時点で、計略を知っていたのは魯粛と小喬、
あらかじめ計略に参加していた呂蒙ぐらいでしょう。
しかし、もうひとり居ました。孔明です。
孔明が、すべてを察していたことを
魯粛から聞かされるや、周瑜はにわかに顔色を変えます。
プライドの高い周瑜は、自分の策をすべて孔明が看破していることが許せないのです。
孔明の言葉は、すべて魯粛を通じて伝わっていますから、
「魯粛がいちいち周瑜にバラさなければいいのに・・・」と思われる方も
いるかもしれませんが、魯粛とてつらい立場。
いかに穏便に事を進めるためといっても、
上官である周瑜に嘘をつくわけにはいきません。
孔明も孔明で、黙っていればいいのですが、
魯粛にだけは心を許しているため、なんでも喋りたくなってしまうようです。
周瑜と孔明・・・。
「希代の英才2人に挟まれて、私はどうしたらいいのだ」
板ばさみとなった魯粛は、憎しみ合う両雄の狭間で苦悩するのです。
周瑜はある日、軍議の席に孔明を招き、また無理難題を押し付けます。
水上戦で一番必要となる武器である
「矢」を10万本、10日のうちに用意してほしい、と頼んだのです。
あまりに無茶な要求に対し、魯粛をはじめ、居並ぶ諸将は息を呑みます。
さすがの孔明も、10万本を10日で用意するなど、
誰もが不可能だと思うのですが、孔明は言ってのけます。
「10日後では戦機を逸します。3日のうちに用意します」と。
またもや驚く諸将。
「無理に決まっている」と、周瑜は誓約書に署名させ、ほくそ笑みます。
孔明が失敗すれば、軍令にかこつけて処罰できるからです。
実は周瑜、ここに至っては孔明を殺す気はなく、
恥をかかせたいだけだと、後で小喬にもらします。
確かに孔明を殺してしまえば、劉備との同盟はご破算となり、
孫呉が危機に陥る可能性もあるからでしょう。
宿舎に戻った孔明。そこへ心配した魯粛が訪ねてきます。
孔明は、周瑜にいろいろとしゃべってしまった魯粛を、遠まわしに批難。
弱りきる魯粛に対し、それを許す交換条件として、
20艘の舟にそれぞれ30人の兵、藁人形をそれぞれ千体ずつ、
急ぎ用意するように頼みました。
さて、孔明はいかにして矢を用意するのか・・・。
3日目の夜、空を霧が覆うなか、孔明はわずかな兵と藁人形を積んだ舟を漕ぎ出し、
長江の北・烏林へ向かいました。これがタイトルの「草船」のことですね。
魯粛も一緒です。ともに茶を飲みながら、曹操の水塞をめざします。
一応申し述べますが、当時、お茶はかなりの高級品。
庶民にはなかなか手の届かないものでありまして、
「喫茶」という習慣は、この後漢から始まったとされ、
なかなか贅沢なものだったのですね。
だからこそ、孔明たちも割と嬉しそうな顔をして茶を飲んでいるのかもしれません。
孔明は水塞に近づくと錨を下ろさせ、兵に陣太鼓を叩かせ、
喚声を上げさせて奇襲を装いました。
これでは曹操軍が応戦してくる!と、慌てる魯粛を孔明はなだめて座らせます。
はたして孔明の読みどおり、曹操は霧で視界が悪いため、
自陣からひたすら矢を射かけて敵を追い払うよう于禁に命じました。
用心深い曹操が相手だからこそ、有効な戦術かもしれません。
大量に降り注ぐ矢は、満載した藁人形に
次々と刺さっていき、たちまち船の片側半分を覆ってしまいました。
兵の報告を受けた孔明は、今度は反対側にも矢が刺さるように船を反転させます。
ここまで、ずっと不審を抱いていた魯粛ですが、やっと事態を飲み込みました。
「草船で矢を借りる」の計略、ピタッと決まりました。
夜明けに陣へ戻り、船に刺さっていた矢を数えさせると12万本にも達していました。
霧が出ることを事前に調査し、見事に矢を集めてみせた孔明に、魯粛は改めて感服。
さすがに周瑜も、この神業に感嘆するほかはありません。
魯粛は、周瑜があまりに孔明を追い詰めたため、
彼は危険を冒して矢を集めたのです、とたしなめます。
周瑜は反省し、孔明の宿舎へ出向いて、素直に礼を言いに行くことにしました。
ようやく、笑顔で茶を飲む2人・・・。その席で、周瑜は孔明に戦法の相談をします。
水上戦、将兵の質、士気の面で優位に立ったとはいえ、
曹操軍は80万、孫・劉連合軍はわずか5万。
これに勝つには、どんな戦法が一番有効か。
2人は、ともにある戦法を思いついたのですが、
互いに手の平にそれを書いて見せ合うことにします。
素直に言わないところが、またこの2人は心憎い関係・・・(笑)。
そして、2人が出した答えは、ともに「火」の一字。
「火攻め」という意味です。これには2人とも声を上げて笑い合います。
2人が、陣中で初めて心を通わせた瞬間といえましょう。
まさか・・・これも孔明の計算?と勘ぐってしまいそうになりますが、
いや、ここは素直に受け止めておきたいです。
まあ、この2人が本当に心から協力しあえば、
最強タッグになれるかもしれないんですが。
そこへ、曹操の陣営から、蔡中と蔡和という2人の男が
周瑜を訪ねてきたとの報告が入りました。
2人は、曹操に処刑された蔡瑁の弟です。
周瑜は待ちかねていたかのように、彼らを迎え入れに行きます。
【このひとに注目!】
◆蒋幹(しょうかん) 生没年不詳
周瑜の旧友。現在は曹操に仕えており、その許しを得て周瑜の陣中へ密偵として乗り込むが、逆に周瑜に騙され、貴重な人材であった蔡瑁らの処刑を招いてしまった。後にそれを知った曹丕に斬られた模様。
『正史』の記録によれば、揚州九江郡(現在の江西省九江市)の出身。優れた振る舞いと弁舌によって曹操に招聘され、仕官した。演義同様、曹操に周瑜を引き抜くよう命じられたが、やはり不首尾に終わった。周瑜は蒋幹の真の目的を知りつつも厚くもてなしたうえで、孫権への忠誠心を語った。蒋幹はその心に打たれ、何もいわずに立ち去ったという。
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2012年05月24日
こんばんは、哲舟です!
さて、いよいよ孫権軍と劉備軍の同盟が成り、
力を合わせて曹操軍に立ち向かうことが決まりました。
全軍の総司令官である大都督に就任した周瑜(しゅうゆ)は、
自邸へ戻って妻の小喬(しょうきょう)と語らいます。
ほとんど休む間もなく、すぐに戦陣へ赴かねばならないという周瑜に、
小喬は、自分も供をさせてほしいと懇願します。
周瑜は最初は許しませんが、「どんな苦労も厭わぬ覚悟です」と
食い下がる愛妻に、戦陣への同行を許可しました。
この演出は本作のオリジナルなのですが、
正直、これはどうなんだろう・・・?と思ってしまいました。
大都督である自分が妻を同行させるのなら、
将兵にも同様に、家族を同行させる許可を出さないと示しがつきません。
ただまあ、戦場にも花は必要ということで・・・ここは黙って見守りましょう。
同じころ、諸葛亮(孔明)の宿舎に、
兄の諸葛瑾(しょかつきん)が訪ねてきました。
諸葛瑾は以前から孫権に仕えており、今では重臣の立場にいます。
劉備と孫権はいわば敵同士なので、同盟を組む前までは、
公の場で会うわけにもいかなかったのですが、ここでようやく再会が叶ったのです。
諸葛瑾は周瑜の依頼を受け、孔明を孫呉の味方に引き入れようと説得に来たのですが、
孔明はそのことをすぐに察し、逆に兄を劉備のもとへ勧誘しようと持ちかけます。
見事にカウンターを喰らい、一本とられた形の諸葛瑾、
これには苦笑し、ただ酒を飲んで帰るしかなくなりました。
諸葛瑾は、自分よりも弟の才能のほうが優れていることをよく分かっています。
ハナから説得できると思ってはいなかったでしょうが、
大都督の命令ですから、やってみないわけにはいきません。
孔明も当然、兄が孫権のもとを離れて劉備のもとへ
来るはずがないことぐらい、よく分かっています。
さすが兄弟同士、長く会わずとも心が通い合っているようです。
その後、柴桑を出発し、前線の赤壁へと移動した周瑜軍。
周瑜はさっそく孔明を呼んで、曹操軍の兵糧庫を夜襲するよう依頼します。
わざと孔明に無理難題を押し付け、失敗させて命を奪おうとの狙いですが、
孔明は敢えてそれを受け、夜襲の準備を始めます。
そこへ、心配した魯粛が駆けつけて様子を見にきました。
どうやって夜襲を成功させるか尋ねる魯粛に、孔明は
「この孔明にできない戦はない」と、大風呂敷を広げます。
そのうえで「周瑜殿は水上戦しかできず、地上の戦は不得手でしょう」と煽ります。
魯粛の報告を聞いた周瑜は怒りのあまり、
自分で夜襲をしかけて地上戦も得意なことを証明してみせる、と息巻くのです。
あわてた魯粛は再び孔明を訪ね、真意を聞きます。
孔明は、やはりそうなることを見越していました。
曹操は必ずや、兵糧庫の備えを万全にしているはずで、
「夜襲しても絶対に勝てない」と孔明はいいます。
それを魯粛に伝えさせることで、無謀な夜襲は回避されました。
しかし、周瑜は孔明の卓見にますます恐れを抱き、危機感を強めます。
そうこうするうち、曹操軍の先鋒が、長江の北岸にある
三江口(さんこうこう)に到着したとの報告が入ります。
周瑜はさっそく船を出し、みずから偵察に行くことを決定。
自分で曹操軍の船の速度や、陣営の規模を見極めるためです。
周瑜は曹操の軍営を見るや、荊州の水軍を束ねていた蔡瑁と張允が
曹操に降って水軍を指揮していることを見抜きます。
敵の軍船が接近していることを知り、曹操の水軍要塞から船が出撃してきます。
周瑜はあわてず、弓隊に準備させて一斉に矢を放たせ、
敵軍を撹乱し、さっさと退却してしまいました。
さすが、水上戦の天才とうたわれる周瑜です。
孔明に嫉妬し、殺そうとたくらむシーンが印象深いので、
どうしても小さな人物に見えてしまうでしょうが、
孫呉の総司令官に任命されるだけのことはあるのです。
一方、出鼻をくじかれた格好となった曹操軍。
曹操は引き続き、水軍都督の蔡瑁と張允に引き続き訓練を命じます。
曹操は荊州に入ってから、いろいろ頭を悩ませていました。無理もありません。
孔明や周瑜が言ったとおり、曹操軍は北方出身の将兵ばかり、
騎兵が多いので陸戦には強いのですが、
長江を縦横無尽に駈けるような水軍の扱いに長けた者がいないからです。
南方の地理に明るい者も少なく、戦いになると不利は否めません。
しかも孫権と劉備が手を組んだと知り、曹操の悩みはさらに深くなりました。
そこへ、部下の蒋幹(しょうかん)という者が曹操に進言します。
蒋幹は周瑜の旧友だそうで、「必ず周瑜を投降させてみせます」と自信たっぷり。
かくして、彼は曹操の許しをえて単身、周瑜の陣営にやってきました。
周瑜は、すぐに蒋幹の狙いを察しますが、
まずは大歓迎するふりをして陣中に招き入れました。
まあ、このタイミングで敵陣から来たのですからバレバレではありますよね・・・(笑)。
周瑜はすぐに諸将を呼んで酒宴を開き、小喬ら女性たちに接待させました。
小喬は、周瑜から宝剣を預かると、自分が舞う間に酒を3杯飲むよう
諸将に軍令を出し、剣舞を披露します。小喬、実に見事な舞い。
ここで、小喬役の趙柯(チャオ・クー)という女優さんを少し紹介しておくと、
1983年生まれの26歳。かつて新体操の中国代表チームに所属していたことも
あるらしい元アスリートだとかで、このように身のこなしが軽いのでしょう。
小喬の美貌と見事な舞いを見て、蒋幹は気分よく杯を重ねます。
続いて2巡目。周瑜、蒋幹はじめ、諸将はどんどん酔っ払っていきました。
宴が終わり、周瑜は蒋幹を連れてわが陣営のうちを案内して歩きます。
ふらふらと足取りもおぼつかない周瑜は、
「夜を徹して飲もう」と、自分の陣幕へと蒋幹を引っ張り込みました。
夜が更け、周瑜が寝静まったころを見計らい、
蒋幹は寝台を抜け出し・・・周瑜の机にある書簡を盗み見ます。
周瑜の寝言にビクつきながらも、書簡を次々と開ける蒋幹。
すると、その中には恐るべきことが書かれていたのです・・・。
【このひとに注目!】
◆諸葛瑾(しょかつきん) 174~241年
諸葛亮(孔明)の7歳年上の実兄。父は諸葛珪。弟に諸葛亮のほか、諸葛均(第33話に登場)がいる。孫策がなくなり、孫権が跡をついだころ(西暦200年)に召し出され、重用される。西暦208年、劉備の使者として弟の孔明が訪問したとき、「兄であるそなたから説得して仕えさせられないか」と孫権に頼まれたが、「私が主君を裏切らないように、弟もまた劉備を裏切らないでしょう」と言ったという。(ドラマでは周瑜が頼んだことになっている)
後に使者として荊州の劉備のもとを訪れたが、このときも公私の立場を区別し、公式の場で顔を合わせることはあっても、私的な場で会うことはなかった。才能は孔明に及ばないが、決して凡庸な人物ではなく、晩年は呉の大将軍に出世する。顔が面長で驢馬に似ていたため、酒宴の席で孫権にからかわれたというエピソードもある。
※5/27 「三国志TK公式朗読CD」発売記念イベントのお知らせ
2012年05月23日
皆さん、いつも温かいコメント、ありがとうございます。
いただいた中から、いくつか「孔明の着物の着方がおかしいのでは?」という
疑問を頂戴したので、今日は、ちょっとそれについて触れておきましょう。

諸葛亮(孔明)が、このドラマの中で着物をこのように
「左前」に着ていることに気付く方が、けっこういらっしゃるようです。
「左前」とは、体に着物の左側をくっつけて着る着方のこと。
最初に登場した隆中の時や、それ以降も時々やっています。
和服を着たことのある方はご存知だと思いますが、
着物は男女とも「右前」(着物の右側を体にくっつけて着る)が普通です。
本作の登場人物も(孔明以外は)写真でお分かりのように、みんな右前に着てます。
では、なぜ孔明は左前で着るのか?
・・・結論からいえば、「そういう服を着ているから」です(笑)。
上の写真をよく見ていただくと分かりますが、孔明のこの白衣って、
襟だけを右から左へかぶせ、差し込むように作られているようですね。
その下の生地を見ると、合わせ目はちゃんと右前になっています。
見た目だけ「左前風」になっているだけで、実際は右前に着ていることになります。
こういう仕掛けはこの白衣を着ているときだけで、他の服を着るときも右前です。
これは、実際に聞いてみないとわかりませんが、
おそらくは監督や衣装担当者が、孔明の個性を出すために、
意図的に用意したのではないでしょうか?
ちなみに、三国志の人物たちが着ている服は
「漢服」と呼ばれるもので、日本の和服(着物)の原型になったものです。
漢という国から生まれたためで、漢民族という呼び方や漢字もここから誕生しました。
もっと古い時代の中国では、高貴な身分の人は着物を左前で着ていたそうですが、
いつからか右前で統一されたようで、
日本も、その影響を受けて右前で着るようになりました。
8世紀、奈良時代の始めに朝廷から「そうしなさい」という法令まで出されたほどです。
では、なぜ右前で着るようになったのか・・・?

諸説あります。野蛮人が狩りで弓を使いやすくするために左前に着ていたので、
その彼らの風習を嫌ったからであるとか、
武人が剣を体の左側に差すため(この写真の劉備のように)、
左前だと襟に引っかかって使いにくいからとか、単に右利きの人が多いからとか、
色々な説があるようで、はっきりしません。
ただ、ワイシャツなどの洋服だけは男女で違いますよね。
男性は右前、女性は左前に着るようにボタンがついています。
いうまでもなく、今広まっている洋服はヨーロッパから来た服で、
漢服や和服に比べれば、その歴史は全然たいしたことがないのですが、
今では日本人も中国人も、みんな洋服を着るようになってしまいましたね。
なぜ、洋服だけが男女別なのか。これも説明すると長くなるので、
ご興味のある方は、各々調べてみていただきたいと思います。
・・・孔明の服の着方から、ずいぶんと話がそれてしまいました(笑)。
さて、昨日までの話は、その孔明が、
江東の柴桑(さいそう・現在の江西省九江県)に乗り込み、孫権に謁見するまででしたね。
しかし、孫権は自分を見下すような孔明の態度に怒り、座を立ってしまいました。
とりなそうとした魯粛に、「無礼だ、すぐに追い返せ」といいます。

しかし、それは早計、と魯粛は諭しました。すると、
孫権は曹操を討つ策も尋ねないで席を立った自分を恥じ、
今度は酒席を張って改めて孔明をもてなすことにしました。
すぐに過ちに気付けるあたり、孫権も並の人物ではありません。
座に通された孔明は、曹操軍の現状を滔々と述べます。
曹操の軍兵は、ほとんどが北方出身で南方の風土に合わず、
病に冒され、長きにわたる強行軍に疲弊、
最近加わった兵は投降兵で士気も鈍い・・・。
しかも、江東を攻めるには水軍が必要ながら、曹操軍には優れた水軍がない。
つまり、100万といっても実質的な戦力はわずか1割程度の10万に過ぎず、
孫・劉が連合して力を合わせれば、打ち破るのはたやすいと。
これに力を得た孫権は、開戦に向けてほぼ意を固めますが、
その夜、老臣の張昭がそれを諫めに来ます。
「孔明の口車に乗せられてはなりません。曹操が憎むは主君ではなく劉備、
劉備は我々を利用して窮地を脱しようとしているに過ぎない・・・」
たしかに道理ですし、一理あります。
老臣の忠言を無下にもできず、孫権はなおも悩むことになります。
しかし、孫権が悩んでいるのは実は開戦か、降伏か、ではありません。
むしろそれで分裂しかかっている家臣団をいかにまとめていくかなのです。
この点に心を砕いているわけです。
そうするうち、孫呉第一の将・周瑜が、孫権の求めに応じて、
赴任先の鄱陽湖(はようこ)から、戻って来ました。

孫権の母・呉国太が言っていたように、孫呉が開戦か降伏するかは、
この人物が実質的な決定権を持っているといっても過言ではないのです。
周瑜の一言が、孫権に最後の決断を下させる。
それほどの影響力を持った人物を、ほかの家臣たちが放っておくはずもありません。
その夜、自邸に到着した周瑜は、一息入れる暇もなく、大勢の客人を迎えます。
最初に訪ねてきたのは、張昭、顧雍(こよう)、薛綜(せっそう) 歩騭(ほしつ)の4人。
彼ら穏健派の重鎮たちは、孫権に対して降伏を勧めるよう周瑜に懇願します。
周瑜は「江東を思う気持ちは私も同じ」と賛同し、丁重に挨拶し彼らを家に帰しました。
次に訪ねてきたのは、程普、黄蓋、韓当、周泰の4人。
彼ら強硬派の功臣たちは、降伏するなら死ぬ方がマシと言い、
孫権に対して徹底抗戦を勧めるように懇願しに来たのです。
周瑜はこれにも賛同し、「私も降伏などあり得んと思っていた」と言って彼らを帰します。
その次は諸葛瑾、呂範、陸績ら。
彼らは中立派ともいえる立場で、「降るは易し、戦うは難し」と述べます。
定まった考えを持ちませんが、どちらかといえば穏健派です。
お次は呂蒙、甘寧、徐盛、丁奉の4人。
彼らも勇猛な将軍たちですから、やはり抗戦を主張します。
周瑜は「心得た。明日、主君にお会いして決める」と返答して帰しました。
実は周瑜の心はすでに決まっているのですが、
この場でそれを表明するわけにはいきません。
ただ、いずれの将士も目先のことしか見えていない現状を心中、嘆くのでした。
そこへ、待ちわびていた魯粛、諸葛亮(こうめい)が訪ねてきました。
勇躍、周瑜は真の客が来た!と喜んで奥へ通します。
魯粛は、周瑜に考えを訪ねます。
周瑜は2人に対し、意外にも曹操には勝ち目がない。
孫権に降伏を勧めると言い出しました。
周瑜は自分と同じ志を持つと思っていただけに驚き、怒る魯粛。
孔明も、周瑜の言葉を聞き、「魯粛殿は時勢に疎い」といって
降伏することに賛同したうえ、曹操を撤退させるための策を献じるといいます。
周瑜が訪ねると、孔明は
「貢物として、2人の美女を差し出せば曹操は引き揚げます。
その2人とは大喬・小喬の姉妹です」と言い放ちました。
大喬・小喬は「江東の二喬」と呼ばれる絶世の美女。
曹操は以前から「二喬を得たい」と宣言しているそうで、
彼らを差し出せば、曹操は兵を引くというのです。

これに周瑜は大激怒。大喬は義兄孫策の妻、小喬は自分の妻であるからです。
さらに、孔明は曹操が人妻好きであることに触れ、
張済の妻・鄒氏、袁術の妾・呉氏、呂布の妾・貂蝉などを
曹操が狙ったことを挙げて、周瑜の怒りに火を注ぎました。
これで、周瑜の心は開戦に固まった、ということになります。
ただ、孔明が魯粛に明かしたところによれば、
周瑜の心は初めから開戦と決まっていたのですが、
策を弄して孔明と魯粛の心を試そうと、わざと降伏するなどと言ったのだとか。
孔明は、周瑜が本心を打ち明けないことを不快に感じ、
二喬が孫策・周瑜の妻であることも知りながら、あえて周瑜を怒らせたわけです。
翌日、軍議の席が設けられて、
文武諸官が居並ぶなか、いよいよ周瑜が出馬し、
昨晩とはうってかわって堂々と宣言します。
「江東は父兄の代より大業を成すのみ。数万の兵で曹軍を破ってみせる」と。
これを聞いた孫権も、いよいよ開戦の意を固めました。
「天下は我らに託された」と言って、机の角を剣で斬り、
今後、降伏を口にすればこの机のようになるということを示します。
もうちょっと格好良く、ここは机を真っ二つにでもして欲しかったですが。
孫権とて、まだ血気盛んな27歳。
一戦も交えずに降伏するのは、父兄以来の孫呉の誇りにかけて耐え難く、
本音は戦いたい一心だったに違いありません。
家臣団の分裂を心配して決断できずにいたのですが、
それを後押ししたのが、周瑜であり、魯粛の進言であったといえます。
孫権は周瑜を大都督に、程普を副都督に、魯粛を参軍に任じ、
5万の兵の指揮権をゆだねました。
その一方、張昭を武器や兵糧の運搬などを司る長官に任じ、後方支援を命じます。
張昭は、自分が降服を勧めたことを恥じ、辞退しようとしますが、
孫権は降伏論をとなえた文官たちも、
それはみな忠義心から出た言葉であるとして、その補佐を命じます。
孫権は、自分が生まれる前から江東の政務を司ってきた張昭を
決して蔑ろにせず、重責を担わせることで全軍の士気を高めました。
面目を失いつつあった張昭も、これには感涙にむせび、力を尽くすことを誓います。
ここも、本作中で屈指の名シーンといえるでしょう。
原作「三国志演義」では、張昭の良いところはほとんど表に出てこないのですが
本作では彼の長所、孫権の彼に対する敬いの気持ちがしっかりと
描かれ、孫権の名君ぶりも遺憾なく発揮されていて、
とても見事なつくりだと、私は感心しました。
ところで、皆さんは「レッドクリフ」(2008年~2009の映画)をご覧になったでしょうか?
あの映画は、ちょうどいまの本作で描かれつつある「赤壁の戦い」を題材としたものです。
登場人物もほぼ同じですし、長坂の戦いや孔明の舌戦なども登場します。
ただ、演じる役者も人物の描き方もかなり異なるので、
未見の方はぜひ一度ご覧になり、本作と見比べていただきたいと思います。
「レッドクリフ」は、あくまでアクション映画であり、時間的な制約もあるので、
原作とは異なる部分、無理やりまとめてしまっている部分は、
本作に比べても非常に多いです。
すでにご覧になった方も、また今見ると、新たな発見があるかもしれません。
さて、この結果に、魯粛は珍しく喜びをあらわにします。
孫権が成長を遂げ、自分の言葉で江東の文武諸官の心をひとつにし、
一丸となって曹操に挑むよう見事な振る舞いを見せたことが嬉しくてならないようです。
周瑜とともに喜び合う魯粛。しかし、周瑜はあまり喜んでおりません。
孫・劉同盟はなったものの、漁夫の利を得んとする孔明の思惑を見抜いたからです。
周瑜は孔明の才能を危険視し、
このまま生かしておけば必ず後の災いとなると思い始めます。
魯粛は周瑜に、孔明を殺せば腕を斬り落とすも同じとして必死に諫めます。
それを聞きいれた周瑜は、それならば孔明を孫呉に寝返らせたいと考え、
魯粛にその任を負わせようとするのですが・・・。
【このひとに注目!】

◆虞翻(ぐほん) 生没年不詳
前回、孔明に舌戦を挑むも論破されてしまった人物のひとり。今回は、なぜか出番がなかったので敢えて紹介しておきたい。
もとは会稽郡の太守、王朗の家臣だったが、後に孫策に召し出された。学問にすぐれ、矛の扱いも巧みな文武両道の人物だったが、協調性を欠き、率直な物言いをするため孫権にはあまり好かれなかったという。
後に孫権が呉王になったとき、祝いの宴会が開かれた。孫権は自ら酒を勧めて回っていたが、虞翻は酔い潰れたふりをして呑もうとせず、孫権が通り過ぎてから平然と起きあがったために孫権は怒り、斬り殺そうとした。しかし側近に止められて虞翻は助命された、孫権は反省し、「酒に酔ったときに自分が出した殺害命令は無効」という触れを出す。しかし、その後も孫権を軽んじる振舞いをしたため、交州(現在のベトナム北部)に左遷された。
2012年05月22日
みなさん、こんばんは! 哲舟です。
なんとか江夏へ逃れた劉備軍ですが、憂いが消えたわけではありません。
水軍の準備を整えた曹操は、必ずや追撃してくるに違いないからです。
荊州北部を得た曹操が全軍で攻めてくれば、
江夏でも防げるかどうか分かりません。
孔明は、この先とるべき道としては、
江東の孫権と曹操とを争わせ、漁夫の利を得ることだといいます。
共倒れしてくれればそれで良し、とにかく、
大勢力同士が争っている間に荊州南部を手に入れて、
西蜀へ入り「天下三分」実現の足がかりを作るべきであるということです。
そう話しているところへ、江東の孫権から使者が訪れます。
使者は、江東でも周瑜・張昭に次ぐ大人物と噂される魯粛(ろしゅく)でした。
魯粛は、劉琦(りゅうき)の父・劉表を弔う使者という名目でやってきたのですが、
それは口実で、実際は荊州と劉備の動向を探りに来たのです。
劉琦は、かつて劉表の部下たちが孫権の父・孫堅を殺した負い目から、
父の弔問などありえないと不審がりますが・・・
はたして、魯粛は正直に様子を探りに来たことを劉備たちに打ち明けます。
回りくどい話をしても、どうせ孔明に見抜かれるだけだし、
理屈は抜きで、単刀直入に本題に入る。
これだけでも、魯粛という人物の賢明さと度量が分かります。
孔明は、あえて曹操軍の兵力は70~80万と実情を明かしたうえで、
曹操の次の狙いは江東である、と魯粛に告げます。
それを聞いた魯粛は、劉備軍と手を組んで
ともに曹操に立ち向かうしか道はない・・・と覚悟を決め、
孔明を連れ帰って主君・孫権に会わせ、同盟を結ばせようと考えます。
孫権がリスクをおかして同盟を結んでくれるかどうかは、
孔明の交渉次第ということになりますが・・・
劉備は狙い通りに話が進んだことを喜び、孔明を江東へ派遣することを決めます。
魯粛は孔明を連れ、江東の柴桑(さいそう)へと出発していきました。
一方、曹操は襄陽にとどまり、兵を休ませていました。
ここで準備を整え、水軍を調練し、
春を待って江東へ攻め入ることを決め、諸将にそう告げます。
そのうえで、ひとまずは孫権に降伏を暗にうながす書簡を書き、
長江へ大量に流すよう命じました。
曹操は、敢えてこの檄文を書簡として送るのではなく、
河に流して江東へ送りこみ、多くの人の目に触れるようにして、
まず民や家臣から動揺させる細工をしかけたわけです。
曹操はここで自軍の兵を実際よりも多い、100万と号しています。
城を攻める前にまず心を攻め、寝返りを促すという曹操流の戦略です。
官渡の戦いでも、勝負の行方を左右したのは許攸の寝返りでした。
さて、一緒に江東へ向かった2人。
魯粛は、江東には曹操を恐れて弱腰の人物が多いので、
孫権の前では曹操軍の実情を明かさぬように助言します。
孫呉の拠点、柴桑(さいそう)へ戻った魯粛は、
さっそく孫権に荊州の情勢を報告に行きます。
そのころ、文官たちが孫権の前に集まり、密議をこらしていました。
とくに、保守派の文官・張昭は孫権に対し、曹操との和睦を再三すすめます。
張昭は、曹操軍は精鋭100万を数え、戦上手であることや
荊州の将兵がこぞって降伏したことなどを挙げ、到底勝ち目はないというのです。
もし戦えば、長江は血で赤く染まり、江東の民を苦しめることになる・・・
和睦・帰順こそ最善。文官たちはこぞってそう言います。
しかし、後で孔明も言うとおり和睦も帰順も、実質は降伏と同じことです。
孫権は皆を下がらせ、魯粛だけを残して意見を求めます。
魯粛は、我々家臣は降伏しても身分は変わらないが、
主君(孫権)だけは降ってはならない、献帝や劉琮の二の舞、
許都で飼い殺しにされるだけだと言います。
孫権は降伏ばかり勧めてくる諸官にうんざりしていたはず。
それと異なる魯粛の言葉に大きく心を動かされたようですが、
このときは、まだまだ迷いがありました。
あくる日、孔明が魯粛の案内で孫呉の議堂へ通されます。
孫呉の力を借りにきた孔明の思惑を、孫呉の文官たちも分かっていますから、
まずは軽く牽制し、言い負かしてしまおうと次々と舌戦を挑んできました。
文官中ナンバー1の実力者・張昭。
今回、頑なに孫権に降伏を勧める「悪役」として登場しますが・・・。
先に亡くなった孫策が、孫権に、内政のことは張昭に相談せよと命じ、
また張昭には、「もし弟に能力がないなら、あなた自身が政を行なってほしい」と
頼んだというほどの名政治家です。
しかし、彼も孔明にかかっては素人同然、簡単に論破されてしまいます。
続いて、虞翻(ぐほん)、顧雍(こよう)、歩隲(ほしつ)といった諸官を、
次々と論破していきます。孔明の弁舌が冴えわたります。
「燕雀いずくんぞ、鴻鵠の志を知らんや」
孔明は、自分を鴻鵠(こうこく-大きな鳥)にたとえ、
孫呉の文官たちを燕雀(えんじゃく-ツバメやスズメなどの小鳥)にたとえるなどして、
ついには諸官を漢室に対する不忠者と罵倒し、黙らせました。
孫権との同盟を実現させるためにも、まずは彼らを黙らせておかなければなりません。
そこへ、将軍の黄蓋(こうがい)が現れ、孔明を孫権のもとへ通しました。
孫権に会い、曹操軍の実情を尋ねられた孔明は、
いきなり曹操軍の兵力は100万以上、140万は下らず、
配下の将軍たちは粒ぞろいで優秀な将は300人あまり、と告げます。
孫権は言うにおよばず、あまりの兵力の多さに驚く諸官たち。
魯粛も、実情を隠すように含めておいたのに
逆のことをする孔明に対し、驚きを隠せません。
孫権に対策を求められた孔明は、
「自分で決めるべきです。勝てると思うなら一戦を交えるべきで
不可能であれば、頭を垂れるべきです」と答えます。
孔明は下手に出て同盟締結を頼んでくるはず・・・そう予想していた孫権は、
あっけらかんとした孔明の態度に、面食らったに違いありません。
孫権は「劉備殿はなぜ降伏しない?」と問えば、
「わが主君は漢室の末裔。たとえ命が奪われようと
断じて降伏などしません。孫将軍とは違います」とまで言い放ちました。
これに、孫権はすっかり気分を害し、自室へ引っこんでしまいました。
文官たちは、孔明が演じた「失態」を喜び、失笑して退去していきます。
さて、孔明や魯粛はこの後、どう出るのでしょうか・・・。
【コラム】
劉備はなぜ、江東へ助けを求めたのか?
劉備が孫権のいる江東へ助けを求めたのは何故だったのだろうか。
まず当然、新たな拠点の江夏が、江東に近かったからということ。それから、曹操が次に狙っていたのが江東であったと思われる点。江夏は孫権の江東と、曹操のいる荊州との間に位置するところであった。
ただ、当時の情勢を考えると、劉備軍の逃げ道は一応他にもいくつか考えられた。ひとつは今回、冒頭で孔明も言っていたように交州の蒼梧(そうご)という土地。荊州よりずっと南方で、現在のベトナムとの国境付近。もうひとつは西の蜀。蜀は後に劉備が手に入れることになる地だが、このとき劉璋(りゅうしょう)という人物が治めていた。しかし、いずれも道のりは遠く険しいため、退却には不向きだったと思われる。
一方の江東も「長江の東」と書く通りで、はるか東だが、いざとなればそのまま長江を船で下って逃げることができる。諸葛亮を迎え入れたときに描いたプラン「孫権と結んで曹操に対抗し、荊州を足がかりに蜀を手に入れる」。その実現の第一歩として、まずは江東へ孔明を派遣するしかなかったのである。
2012年05月21日
さあ、今週も1週間のはじまり。よろしくお願いします。
今朝、首都圏はじめ、日本各地で金環日食を見られた方も多いのでは?
私も近所の公園に行って、しっかり観てきました。
そのとき心に浮かんだのは、横山光輝「三国志」の曹操の台詞です。
「天も地も目には見えぬが、刻々と動いておる。
この俺もあの群がる星の中のひとつよ。この偉大な天と地の間に生まれ、
男たるもの、生きがいのある命をつかまないでどうする」
まさに、この地球も宇宙に散らばるたくさんの星のひとつに
過ぎないんだなあということを、実感させられる瞬間でした。
さて、ドラマのほうはその曹操が久々の登場、
そして趙雲の大活躍など、名場面のオンパレードでしたね!
ではさっそく、ストーリーのほうへ参りましょう。
荊州の主、劉表が死んだことで、その遺臣たちは早々と曹操に降伏。
曹操は大軍を引き連れ、労せずして荊州北部の中心地である襄陽 へ入城します。
曹操は、まず真っ先に降伏してきた蔡瑁(さいぼう)に禄を与え、
水軍の総指揮官である大都督に任命します。
降将をいきなり大抜擢したことに、
荀彧(じゅんいく)が苦言を呈しますが、曹操はこう言い切ります。
「奴の忠義心など関係ない。我々が江東を取るためだ」
裏切るかどうかは後回し。使えるものは何でも使う・・・。
曹操の合理的な政略が小気味よく発揮されます。
これよりも少し後のことになりますが、曹操は「求賢令」(きゅうけんれい)
というものを出して広く人材を集めました。
当時の中国では儒教の影響が強く、
家柄の良さとか人柄の良さが重視されて要職に就く傾向にありましたが、
曹操は、そんなものにはまったく興味を示さず、
「唯才是挙」(ただ、才能のみを重んじる)といった内容を布告したようです。
いわば、実力主義といったところですね。
ともかく降伏した蔡瑁は、曹操のために懸命に働こうと思ったようです。
一方、劉表の跡を継いだ劉琮が曹操の前に来ましたが、
33万の兵を擁しながらも簡単に降伏したことを曹操に詮議され、言葉に詰まります。
曹操は、「荊州にいては蔡瑁に命を狙われるだけだ」と言って、
劉琮を、さっさと体よく許都へと追いやってしまいました。
そこへ、曹仁・張遼・徐晃が肩を落として戻ってきました。
劉備軍の諸葛亮(孔明)の策にまんまとはまり、
5万の兵を失い、なんとか敵の包囲を破って逃げてきたようです。
敗戦に怒りをあらわにする曹操ですが、
劉備が20万近い民衆を連れて江夏(こうか)へ逃げたという情報を得ます。
江夏へ行かせては厄介だが、民が一緒では行軍もおぼつくまい・・・とみた曹操は
即断即決、すかさず劉備軍を追跡するために出陣します。

一方、新野から江夏への撤退を開始した劉備軍は、
民とともに逃げているため、遅々として進まぬ行軍に頭を悩ませていました。
江夏までは280里もあるのに、1日で進めるのはわずか10里あまり・・・
このままでは2日で曹操軍に追いつかれてしまいます。
孔明は「民を捨てれば全速力で進めます」と進言しますが、
劉備は聞き入れません。
劉備にとって、自分の領民たちは家族も同然。
7年もかわいがってきた民たちを、劉備は見捨てることができないのです。
ここでは民なんて見捨てて逃げてしまえばいいのに・・・と、思う人も多いでしょう。
しかし、ここで民を見捨てないのが劉備という男なんです。
偉業の礎は土地ではなく、民。
民を捨てて生き永らえるのは、劉備の身上として許せないのです。
この信念があればこそ、劉備はここまで生き延びて来られたのかもしれません。
だからこそ、20万近い民衆が劉備ひとりに着いてこようとするわけです。
こんな人物、他に誰もいません。
この人徳こそが、劉備という人物の最大の武器といえますし、
敵である曹操や孫権にとって最大の脅威となるわけです。
そこで、孔明は一計を案じ、関羽に赤兎馬を飛ばして江夏へ行かせ、
劉琦へ援軍を求めるように依頼しました。
さて、そのころ、最後尾に近いところには、すでに曹操軍の先鋒が・・・。
人々は混乱してにげまどいます。
趙雲が、はぐれてしまった劉備の夫人たちを懸命に探していました。

劉備には、甘夫人と麋夫人という2人の妻がいましたね。
以前、関羽が曹操のもとを脱出したときも2人の馬車を
連れていたことを覚えておられるかと思います。
甘夫人は間一髪、救出した趙雲。
しかし、もう一人の麋夫人の姿が見えません。
ただ一人、捜索を続ける趙雲に敵兵たちが群がり寄ります・・・。
趙雲が敵軍のほうへ走り去っていった姿を見た兵が誤解し、
劉備のもとに「趙雲が敵に寝返った」という誤報を、麋芳がもたらしますが、
劉備は「子龍が裏切るはずはない!」と一喝します。
そうですね。趙雲が裏切るなんて、そんなわけはありません。
趙雲は敵兵の迫り来るなか、ようやく麋夫人の姿を見つけていました。

麋夫人は、甘夫人の子である赤子の阿斗(後の劉禅)を抱きかかえていました。
趙雲は2人を救うため、馬に乗るように言いますが、
夫人は、自分が馬に乗っては趙雲の乗る馬がなくなってしまうため、
「この子をつれて将軍だけでもお逃げください!」といって聞きません。
そこへ大勢の敵兵が迫ってきます。
趙雲は応戦し、次々と敵兵を倒して行きますが・・・
「自分が居ては足手まといになるだけ」と悟った夫人は、
阿斗をその場に置き、井戸へ身を投げてしまいました。

敵兵を片付け、趙雲が井戸を覗き込んだときには
すでに夫人は井戸の底、この世の人ではなくなっていたようです。
趙雲は、やむなく井戸を埋め、阿斗を胸に縛り付けると単騎で脱出をはかります。
世に名高い、趙雲の長坂坡一騎駈けが始まります。
しかし、すでに目の前には曹操の大軍が迫っていました。
その数、先鋒だけで5千は下りません。
絶体絶命という状況の中、趙雲は敵陣へと斬り込んでいきます・・・。
しかし、ここからが趙雲という武人の真骨頂。
何百、何千の敵兵の中、無人の野を行くがごとく駈け続けます。

その奮戦ぶりを見た曹操は、にわかにこの男に興味を覚えます。
曹洪が「何ものだ!名を名乗れ」というと、
趙雲は「われは常山の趙子龍(ちょうしりょう)」と応じました。
このとき、曹操はまだ趙雲の存在を知らなかったのですね。
曹操は、関羽のとき同様、なんとしても部下に加えたいと考え、
「必ず生け捕れ」と、矢を放たぬよう命じます。
殺すのも難しいのに、生け捕りはもっと難しいはずですが・・・。
曹操軍は包囲を強めていき、
ついに趙雲は馬から落ちてしまいますが、なおも奮戦を続行。
趙雲を殺せないため、兵が手加減していると見た曹操、
張遼の訴えを聞き、「・・・ならば殺せ」と命じます。
徐晃、曹仁、張遼・・・敵将も次々と全力でかかってきます。
とうとう敵兵の槍に跳ね上げられ、串刺しになるかと思われたとき、
趙雲の愛馬が敵兵をなぎ倒し、主の危機を救いました。

ついに包囲を突破して、長坂橋へさしかかると、そこには張飛がいました。
張飛は最初は趙雲が寝返ったと思い、疑っていたのですが、
その奮戦ぶりを見て考えを改め、「あとは俺にまかせろ」と彼を先に行かせました。
橋の向こうでは、劉備主従が待っていました。孫乾、麋芳らもいます。
趙雲を疑った麋芳に、「謝れ!」と思ったのは私だけでしょうか?
さて、傷だらけになった趙雲、息つく間もなく劉備に阿斗を差し出します。
趙雲が命がけで守ってきた赤ん坊、
劉備は喜んで受け取った・・・と思いきや、なんと地面に投げつけてしまいました。
作品によっては、劉備は阿斗を投げつけなかったり、
投げる代わりに家臣に押しやったりするものがあるのですが
本作では手加減なしに投げつけていました。
なんとむごい・・・と思うのは早計。
劉備は、「赤子のために優れた将を失うところだった」といって趙雲の手を堅く握ります。
「肝脳、地にまみるとも、必ずやご恩に報います」
趙雲は感涙にむせび、いっそう劉備に忠誠を尽くすことを誓うのです。
天秤にかけてはいけないかもしれませんが・・・
現代の日本では、壮年の男性の命より、赤ちゃんの命の方が
どちらかといえば、尊いものとして扱われるかもしれませんね。
だから、眉をしかめる人もいるかもしれませんが・・・。
ここは戦乱の中国。そもそも、価値観がまったく異なるわけです。
ちなみに、今回の長坂の戦いですが、撮影に1ヶ月を要したといいます。
趙雲の役者、聶遠(ニエ・ユエン)もそうですうが、兵士たちにも拍手したいですね。
そのころ、張飛が陣取る長坂橋には、曹操軍が押し寄せていました。
「我こそは燕人(えんひと)、張飛である!俺と勝負してみろ!!」
張飛はたった一騎で橋の上に立ち、大音声で啖呵を切ります。
ちなみに、燕人とは、張飛の出身地が古くは燕という国だったことからです。
その声にとまどう曹操軍の諸将たち。
その大声に、1人の敵将が驚いて落馬するほどです。

張飛の恐ろしさはもちろん、なにか不気味なものを感じたのでしょう。
それに、橋の上に一騎で立っていては、一度に大勢でかかることは困難なのは確か。
そこへ曹操がやってきて、橋の後方に土煙がたっているのをみて、
伏兵が配置してあることを危惧し、一時撤退を命じました。
これは、兵たちに土煙をたてさせ、伏兵がいるとみせかける、
張飛にしてはうまい戦略だったのですが、
曹操が撤退するや、張飛は橋を壊して劉備たちの後を追いました。
しかし、劉備と孔明は焦ります。張飛が橋を落としてしまったことを知ると、
曹操は川を埋めて必ず追ってくると思い、先を急ぐのです。
せっかく格好いいところを見せた張飛ですが、
橋を落としたのが失敗だったというわけで、活躍が台無しに・・・。
しかし、行く手には長江が横たわり、ついに行き止まりに当たってしまいました。
もはや逃げ場がないと悟った劉備一行は、せめて潔く戦って死のうと決意します。
劉備軍が馬首を返そうとしたとき・・・船団が上流からやってきました。
関羽が援軍を頼みに行った劉琦の援軍が、やっと到着したのです。
曹操軍が到着したとき、劉備軍はすでに船の上でした。
曹操は、劉備をあと一歩のところで取り逃したことを悔しがります。
ただし、もちろんこれは劉備の「勝利」ではありません。まぎれもない敗北です。
結局、劉備に着いて来た民たちは曹操軍に追いつかれてしまい、
あるいは曹操軍に捕われ、あるいは離散してしまったわけです。
劉備もまた敗戦に打ちひしがれ、江夏へと撤退していきます・・・。
【このひとに注目!】

◆夏侯恩(かこうおん)
夏侯惇や夏侯淵との関係は不明。趙雲が斬りつけた槍を真っ二つにするほどの切れ味を持つ宝剣の持ち主。この宝剣は「青釭の剣」(せいこうのけん)という曹操の宝物だが、曹操は寵愛していたこの夏侯恩に預けていたという。しかし、相手が悪く、青釭の剣は趙雲に難なく奪われてしまった。青釭の剣も、それにふさわしい猛将の鞘におさまったことになる。ちょっと無粋な話を書くと・・・夏侯恩は正史「三国志」には登場せず、原作(三国志演義)のみに登場する架空の人物とされる。青釭の剣の存在もフィクションである。