第46話~第50話
2012年06月08日
皆さん、こんばんは! ストーリーテラーの哲舟です。
今週も、もう金曜日。そういえば、いつの間にか全95話のうち、
半分を超えていました。ここまで書き続けて来られたのも、
皆さんのご愛読のおかげです。本当にありがとうございます!
先に手柄を立てた張飛、趙雲(ちょううん)に続けとばかりに、
長沙(ちょうさ)を攻め落とすべく、城下に迫る関羽。
そこでは太守・韓玄(かんげん)と、その武将たちが待ち構えていました。
関羽に最初に挑みかかったのは、楊齢(ようれい)という豪の者ですが、
韓玄がよそ見をしている間に、一刀で関羽に斬り殺されてしまいました。
相変わらずの関羽の豪勇、少しも衰えていません。

続いて「真打ち」ともいえる黄忠(こうちゅう)が、馬を飛ばして関羽に突きかかります。
黄忠は、齢60を超える老将軍です。

関羽は老将とみて侮りますが、意外や意外。
身のこなしは柳の葉のように軽く、力は猛獣のように強く、
年齢をまったく感じさせない戦いぶりで、関羽と互角に打ち合います。
これまで出てきた邢道栄(けいどうえい)や陳応とはレベルが明らかに違います。
中国では、老いてますます盛んな人を指して、
「黄忠のようだ」と言うことがあるようです。
ただ、関羽もこのころすでに50歳近い年齢だったと思われ、
ビックリするほどには、年は離れていません。
両者とも詳しい年齢は不明なのですが、大体ひと回りぐらいの差でしょう。
まあ、2人とも元気で凄いです。
両雄の戦いは、容易に決着がつきそうにありませんでしたが、
長い長い戦いのなか、ついに黄忠の馬が悲鳴をあげ、
武器を重ねた衝撃に耐えきれず、黄忠が落馬します。
一方、関羽の馬は赤兎ですから、まったく疲れを見せていません。
馬から落ち、「貴様の勝ちだ。わしの首をとれ」という黄忠に対し、
関羽は「老人や童は殺めぬ」と言って、立ち去りました。
はっきり言いませんが、年長者である黄忠への尊敬の念があったはずです。
しかし、韓玄は黄忠が得意の弓を使わなかったことや、
落馬しながら命を救われたことに対し、
「関羽に通じているのでは?」と疑いを抱きます。
翌日、ふたたび黄忠は関羽に一騎打ちを挑んできました。
またも両者は激しい打ち合いを演じ、一歩も引きません。
戦いのさなか、黄忠の武器が跳ね上げられてしまいますが、
それを取りに行くと見せかけて、ついに黄忠が弓を取り出します。
弓の腕前は、百発百中の黄忠。
さすがの関羽も、この至近距離から矢を放たれたのでは
かわしきれまい・・・と思われましたが、
黄忠は二度にわたって射る真似だけをして、矢を放ちませんでした。
「さては、昨日の恩に報いたのか」
関羽は自分が黄忠の命を救ったお返しをしていると悟り、攻撃をやめました。
城内へ戻ると、黄忠は韓玄に捕われ、
関羽に内通を疑われて、処刑台に引き立てられます。
しかし、あわや・・・というところで黄忠の命は救われました。
同僚であり、密かに黄忠を慕っていた魏延(ぎえん)という武将が、
兵を引き連れて現れ、寸前で黄忠を助けたのです。

魏延は、御殿に踏み込んで、主の韓玄を斬り殺してしまいました。
「ともに劉備殿に投降しましょう」という魏延でしたが、黄忠は喜ばず、
「私はそんなに卑しいものではない!」と突っぱねて立ち去りました。
黄忠もまた義人。いくら暗愚な主君とて、
それを殺して敵に投降する真似はできないというわけです。
長沙城が陥落してもなお、関羽の説得に耳を貸さず、
屋敷に閉じこもる黄忠を、劉備は直々に訪ねます。

出て行け、と言えば門の外で待つといい、
中に入って茶でも・・・といえば、ここに腰を降ろして語ろうという
不思議な言動をする劉備に、黄忠はにわかに興味を覚えます。
「自分は歳をとりすぎた」という黄忠。
しかし、劉備はその武勇を褒め称え、働き場所を与えたいといいます。
黄忠はすっかり劉備の人物に感じ入り、ついにその期待に応えることに決めました。
そして、韓玄を斬った魏延(ぎえん)も、劉備と孔明の前に出頭してきました。
長沙陥落の第一の功労者・・・なのですが、
孔明は、その不忠ぶりを蔑み、即座に「斬れ!」と命じます。
劉備のとりなしによって、魏延は処刑を免れ、仕官が許可されました。
「いずれ災いとなるやも」と、孔明はなおも浮かぬ顔・・・。
不忠者ながら優れた武勇と軍才の持ち主なのは事実で、殺すには惜しい。
しかし、この2人は終世、相容れぬ仲となります。
これにて、劉備は荊州四郡をすべて攻略し、南荊州を制圧。
ほとんど犠牲を出すこともなく、一気に領土拡大に成功しました。
本作では三郡しか描かれませんでしたが、
すでに武陵(ぶりょう)の金旋も打ち負かしており、四郡すべてを手に入れたのです。
そんな折、劉琦(りゅうき)が病死したとの報告がもたらされました。
すぐさま襄陽にて、葬儀が営まれます。
劉備にとって、甥にあたる劉琦。長坂坡の戦いの後、船で助けにきてくれた劉琦。
彼がいなければ、劉備軍は曹操の大軍に蹂躙されていたかもしれず。
その後も、兵や兵糧、物資の面で劉備を支えた功績ははかり知れません。
嘆き悲しむ劉備たち・・・。
劉琦の死はまた、荊州という土地の命運をも左右することになります。
その死が伝われば、孫権が荊州の所有権を主張して、
周瑜が攻め込んでくるでしょう。道理が通らなくなるぶん、劉備は分が悪くなります。
劉琦の死を隠しては、かえって弱みを見せることになる・・・。
こちらから知らせることで先手を打つことが得策として、
孔明は孫権に使いを送るべきだと進言。劉備はさっそく、使いを出させます。

そのころ、孫権は「合肥(ごうひ)の戦い」の敗戦に打ちひしがれていました。
最初は攻めるふりだけでしたが、その後、本格的に攻撃をしかけるも、
張遼の巧みな戦法に撹乱され、破られました。
加えて太史慈(たいしじ)という、兄・孫策の代から仕える名将を失ったのです。
残念ながら、本作ではこの戦いはカットされ、描かれませんでした。
張遼の大活躍が見たかったですし、
太史慈も、名前だけ(お墓だけ)の登場で、ちょっと寂しい気がします・・・。
この「合肥」は、曹操・孫権の領地の境にあるため以後も幾度となくぶつかり合います。
これより6年先ですが、215年にも孫権は合肥で張遼に敗れ、
自身も敗走する際に追撃され、張遼にあと一歩のところまで迫られ、
危うく命を落としそうになるほどの大敗を喫します。
孫権は、改めて周瑜(しゅうゆ)や孫策の軍才に、
自分がはるかに及ばないことを痛感していました。
そこへ、魯粛が劉琦の死を知らせにやってきました。
これで荊州を我がものにできるかもしれない・・・
孫権はにわかに元気をとり戻し、魯粛と酒を酌み交わします。
【このひとに注目!】

◆魏延(ぎえん) ?~234年
主君の韓玄を斬って劉備に投降したことを、黄忠や孔明に蔑まれる損な役回りの武将。原作では、荊州の劉表に仕えており、劉備が荊州に来たばかりのころにすでに出会っている。劉備を殺そうとする蔡瑁と対立し、反乱を起こそうとするが阻止されて脱出し、長沙太守の韓玄を頼り、その配下となっていた。人格に難はあるが、武勇と軍事的才能に優れ、これからも長く劉備軍の主力の一人として活躍する。
・
・
・
新たな展開を見せ、にわかに慌ただしくなってきた荊州問題。
劉・孫両陣営の首脳たちは、どんな手を打つのでしょうか?
では、また来週お会いしましょう!
今週も、もう金曜日。そういえば、いつの間にか全95話のうち、
半分を超えていました。ここまで書き続けて来られたのも、
皆さんのご愛読のおかげです。本当にありがとうございます!
先に手柄を立てた張飛、趙雲(ちょううん)に続けとばかりに、
長沙(ちょうさ)を攻め落とすべく、城下に迫る関羽。
そこでは太守・韓玄(かんげん)と、その武将たちが待ち構えていました。
関羽に最初に挑みかかったのは、楊齢(ようれい)という豪の者ですが、
韓玄がよそ見をしている間に、一刀で関羽に斬り殺されてしまいました。
相変わらずの関羽の豪勇、少しも衰えていません。

続いて「真打ち」ともいえる黄忠(こうちゅう)が、馬を飛ばして関羽に突きかかります。
黄忠は、齢60を超える老将軍です。

関羽は老将とみて侮りますが、意外や意外。
身のこなしは柳の葉のように軽く、力は猛獣のように強く、
年齢をまったく感じさせない戦いぶりで、関羽と互角に打ち合います。
これまで出てきた邢道栄(けいどうえい)や陳応とはレベルが明らかに違います。
中国では、老いてますます盛んな人を指して、
「黄忠のようだ」と言うことがあるようです。
ただ、関羽もこのころすでに50歳近い年齢だったと思われ、
ビックリするほどには、年は離れていません。
両者とも詳しい年齢は不明なのですが、大体ひと回りぐらいの差でしょう。
まあ、2人とも元気で凄いです。
両雄の戦いは、容易に決着がつきそうにありませんでしたが、
長い長い戦いのなか、ついに黄忠の馬が悲鳴をあげ、
武器を重ねた衝撃に耐えきれず、黄忠が落馬します。
一方、関羽の馬は赤兎ですから、まったく疲れを見せていません。
馬から落ち、「貴様の勝ちだ。わしの首をとれ」という黄忠に対し、
関羽は「老人や童は殺めぬ」と言って、立ち去りました。
はっきり言いませんが、年長者である黄忠への尊敬の念があったはずです。
しかし、韓玄は黄忠が得意の弓を使わなかったことや、
落馬しながら命を救われたことに対し、
「関羽に通じているのでは?」と疑いを抱きます。
翌日、ふたたび黄忠は関羽に一騎打ちを挑んできました。
またも両者は激しい打ち合いを演じ、一歩も引きません。
戦いのさなか、黄忠の武器が跳ね上げられてしまいますが、
それを取りに行くと見せかけて、ついに黄忠が弓を取り出します。
弓の腕前は、百発百中の黄忠。
さすがの関羽も、この至近距離から矢を放たれたのでは
かわしきれまい・・・と思われましたが、
黄忠は二度にわたって射る真似だけをして、矢を放ちませんでした。
「さては、昨日の恩に報いたのか」
関羽は自分が黄忠の命を救ったお返しをしていると悟り、攻撃をやめました。
城内へ戻ると、黄忠は韓玄に捕われ、
関羽に内通を疑われて、処刑台に引き立てられます。
しかし、あわや・・・というところで黄忠の命は救われました。
同僚であり、密かに黄忠を慕っていた魏延(ぎえん)という武将が、
兵を引き連れて現れ、寸前で黄忠を助けたのです。

魏延は、御殿に踏み込んで、主の韓玄を斬り殺してしまいました。
「ともに劉備殿に投降しましょう」という魏延でしたが、黄忠は喜ばず、
「私はそんなに卑しいものではない!」と突っぱねて立ち去りました。
黄忠もまた義人。いくら暗愚な主君とて、
それを殺して敵に投降する真似はできないというわけです。
長沙城が陥落してもなお、関羽の説得に耳を貸さず、
屋敷に閉じこもる黄忠を、劉備は直々に訪ねます。

出て行け、と言えば門の外で待つといい、
中に入って茶でも・・・といえば、ここに腰を降ろして語ろうという
不思議な言動をする劉備に、黄忠はにわかに興味を覚えます。
「自分は歳をとりすぎた」という黄忠。
しかし、劉備はその武勇を褒め称え、働き場所を与えたいといいます。
黄忠はすっかり劉備の人物に感じ入り、ついにその期待に応えることに決めました。
そして、韓玄を斬った魏延(ぎえん)も、劉備と孔明の前に出頭してきました。
長沙陥落の第一の功労者・・・なのですが、
孔明は、その不忠ぶりを蔑み、即座に「斬れ!」と命じます。
劉備のとりなしによって、魏延は処刑を免れ、仕官が許可されました。
「いずれ災いとなるやも」と、孔明はなおも浮かぬ顔・・・。
不忠者ながら優れた武勇と軍才の持ち主なのは事実で、殺すには惜しい。
しかし、この2人は終世、相容れぬ仲となります。
これにて、劉備は荊州四郡をすべて攻略し、南荊州を制圧。
ほとんど犠牲を出すこともなく、一気に領土拡大に成功しました。
本作では三郡しか描かれませんでしたが、
すでに武陵(ぶりょう)の金旋も打ち負かしており、四郡すべてを手に入れたのです。
そんな折、劉琦(りゅうき)が病死したとの報告がもたらされました。
すぐさま襄陽にて、葬儀が営まれます。
劉備にとって、甥にあたる劉琦。長坂坡の戦いの後、船で助けにきてくれた劉琦。
彼がいなければ、劉備軍は曹操の大軍に蹂躙されていたかもしれず。
その後も、兵や兵糧、物資の面で劉備を支えた功績ははかり知れません。
嘆き悲しむ劉備たち・・・。
劉琦の死はまた、荊州という土地の命運をも左右することになります。
その死が伝われば、孫権が荊州の所有権を主張して、
周瑜が攻め込んでくるでしょう。道理が通らなくなるぶん、劉備は分が悪くなります。
劉琦の死を隠しては、かえって弱みを見せることになる・・・。
こちらから知らせることで先手を打つことが得策として、
孔明は孫権に使いを送るべきだと進言。劉備はさっそく、使いを出させます。

そのころ、孫権は「合肥(ごうひ)の戦い」の敗戦に打ちひしがれていました。
最初は攻めるふりだけでしたが、その後、本格的に攻撃をしかけるも、
張遼の巧みな戦法に撹乱され、破られました。
加えて太史慈(たいしじ)という、兄・孫策の代から仕える名将を失ったのです。
残念ながら、本作ではこの戦いはカットされ、描かれませんでした。
張遼の大活躍が見たかったですし、
太史慈も、名前だけ(お墓だけ)の登場で、ちょっと寂しい気がします・・・。
この「合肥」は、曹操・孫権の領地の境にあるため以後も幾度となくぶつかり合います。
これより6年先ですが、215年にも孫権は合肥で張遼に敗れ、
自身も敗走する際に追撃され、張遼にあと一歩のところまで迫られ、
危うく命を落としそうになるほどの大敗を喫します。
孫権は、改めて周瑜(しゅうゆ)や孫策の軍才に、
自分がはるかに及ばないことを痛感していました。
そこへ、魯粛が劉琦の死を知らせにやってきました。
これで荊州を我がものにできるかもしれない・・・
孫権はにわかに元気をとり戻し、魯粛と酒を酌み交わします。
【このひとに注目!】

◆魏延(ぎえん) ?~234年
主君の韓玄を斬って劉備に投降したことを、黄忠や孔明に蔑まれる損な役回りの武将。原作では、荊州の劉表に仕えており、劉備が荊州に来たばかりのころにすでに出会っている。劉備を殺そうとする蔡瑁と対立し、反乱を起こそうとするが阻止されて脱出し、長沙太守の韓玄を頼り、その配下となっていた。人格に難はあるが、武勇と軍事的才能に優れ、これからも長く劉備軍の主力の一人として活躍する。
・
・
・
新たな展開を見せ、にわかに慌ただしくなってきた荊州問題。
劉・孫両陣営の首脳たちは、どんな手を打つのでしょうか?
では、また来週お会いしましょう!
2012年06月07日
こんばんは! 哲舟です。
邢道栄(けいどうえい)は、劉備に内応を約束して解放され、
零陵城へ戻りましたが、案の定それは偽りの約束でした。
劉備は、策にハマッたふりをして攻め込むと、
逆に零陵の兵を城外に誘い出し、あらかじめ配置した伏兵で襲いかかります。
張飛が、零陵太守の息子である劉賢をみごとに捕らえました。
大事な息子を捕えられた劉度は、城門を開いて劉備に降伏。
孔明の読んだ通り、零陵はほぼ無傷で劉備のものとなったのです。
邢道栄の行方はわかりません。おそらく張飛か趙雲に突き殺されたと思われます。

出迎えを受けた劉備は、太守の印綬を受け取らず、
そのまま劉度に持たせ、「引き続き太守を務めてほしい」と頼み込みます。
それに感激した劉度は、劉備を主君と仰ぎ、歓迎の宴を催しました。
これは諸葛亮(孔明)に言い含められたものではなく、
劉備がみずから計算した「手懐け方」であったようです。
荊州四郡のうち、残りは3郡。続いては、桂陽に狙いを定めます。
張飛は「次も俺が行く」といいますが、
くじ引きの結果、趙雲が行くことになりました。

くじ引きはどちらも「はずれ」でしたが、
先に引いた張飛は自分だけがそれを引いたと思い、仕方なく引きさがります。
孔明は気性の荒い張飛よりも、
冷静な趙雲が適任と見て、軍を預けることにしたのです。

桂陽には陳応という武将がおり、さっそく応戦に出てきました。
自慢の3つの武器を持って立ち向かってきましたが、
趙雲の持つ「青釭の剣」に、それらをすべて斬り落とされて敗北。
落馬しますが、趙雲は彼を斬らず、城へ帰します。

陳応はすっかり趙雲に感じ入り、「かなう相手ではありません」と、
太守の趙範に降伏を勧めました。
黙って降伏するのが嫌な趙範は、なかなか首を縦にふりませんが、
配下の武将がこぞって賛成したため、やむなく降伏を決めます。
ここに、鮑竜という参謀がいました。彼は一計を案じ、趙範に耳打ちします。
その後、門を開けた桂陽城へ趙雲が入城してきます。
宴となって酒が入り、さすがの趙雲も酔いつぶれてしまいました。
もしかすると、酒に何か入っていたのかもしれません。
趙範は、未亡人となっていた自分の兄嫁を趙雲に侍らせようと、
その寝所に入らせますが、趙雲は驚いて跳ね起きました。
さすが趙雲、無欲というか真面目です。
この、趙範が趙雲に兄嫁を娶らせようとして、断った話は正史にも伝わっています。
趙雲には、趙統、趙広という息子がいるので、
いつ結婚したのかはわかりませんが、ちゃんと妻がいたのは確かです。
まあ、劉備のように複数の妻(側室)を迎えるのは珍しくない時代なだけに、
趙雲がそれを断ったというのは、彼の無欲な性格を表しているのだといえます。
趙範は、趙雲に兄嫁をとつがせることで、
身内に引き入れ、ともに曹操に恭順しようと画策していたようなのですが、
きっぱり断られたため、捕えてしまおうと一斉に襲わせます。
しかし、趙雲は素手で兵を蹴散らし、陳応の助けも借りて脱出に成功。
いつもながら、惚れ惚れするような趙雲の活躍。
張飛にも、これぐらい見せ場を作ってあげれば・・・と思えるのですが。
それに、趙範は何がしたかったのでしょうか。
趙雲が酔っているうちに捕えれば良かったのに・・・と思えてなりません(笑)。
趙雲を取り逃がした趙範と鮑竜は逃亡しようとしましたが、
陳応の兵に阻まれて万事休す。ついに桂陽城も劉備の手に落ちました。
続いては、関羽の番です。
張飛や趙雲が活躍するなか、自分も手柄を立てたくてウズウズしていた関羽に、
長沙出兵の軍令が下ります。
長沙の韓玄のもとには、黄忠という猛将がいるため、手ごわいとみた孔明が、
6000の兵を預けるというのに、手持ちの500だけでいいと言って聞きません。
「華容道のことをお忘れか?」と聞く孔明に対し、
関羽はその失策を持ち出されたことに腹を立て、
名誉挽回を図るため、すぐに出陣していきました。
「昔から、あいも変わらず負けず嫌いだのう・・・」
劉備はその背中を頼もしげに、そして少し不安そうな顔で見送ります。
そうそう。東京渋谷区の商業施設・ヒカリエの8Fに、
今週月曜から、「川本喜八郎 人形ギャラリー」がオープンしています。
川本喜八郎氏といえば、1980年代にNHKで放映されていた
「人形劇 三国志」の生みの親です。
当時、日本ではまだ三国志の映像作品が珍しかったのですが、
そのパイオニアともいうべき作品でした。
その三国志の人形が19体と、平家物語の人形が14体が、
無料で公開されているので、ご興味ある方はぜひ行かれてみてください。
(詳しくは 川本喜八郎人形ギャラリー で検索してください)
正直、今日はやや盛り上がりに欠ける話でしたが、
明日は、いよいよあの「老いてなお盛んな猛将」が登場します。
それでは、また明日!
邢道栄(けいどうえい)は、劉備に内応を約束して解放され、
零陵城へ戻りましたが、案の定それは偽りの約束でした。
劉備は、策にハマッたふりをして攻め込むと、
逆に零陵の兵を城外に誘い出し、あらかじめ配置した伏兵で襲いかかります。
張飛が、零陵太守の息子である劉賢をみごとに捕らえました。
大事な息子を捕えられた劉度は、城門を開いて劉備に降伏。
孔明の読んだ通り、零陵はほぼ無傷で劉備のものとなったのです。
邢道栄の行方はわかりません。おそらく張飛か趙雲に突き殺されたと思われます。

出迎えを受けた劉備は、太守の印綬を受け取らず、
そのまま劉度に持たせ、「引き続き太守を務めてほしい」と頼み込みます。
それに感激した劉度は、劉備を主君と仰ぎ、歓迎の宴を催しました。
これは諸葛亮(孔明)に言い含められたものではなく、
劉備がみずから計算した「手懐け方」であったようです。
荊州四郡のうち、残りは3郡。続いては、桂陽に狙いを定めます。
張飛は「次も俺が行く」といいますが、
くじ引きの結果、趙雲が行くことになりました。

くじ引きはどちらも「はずれ」でしたが、
先に引いた張飛は自分だけがそれを引いたと思い、仕方なく引きさがります。
孔明は気性の荒い張飛よりも、
冷静な趙雲が適任と見て、軍を預けることにしたのです。

桂陽には陳応という武将がおり、さっそく応戦に出てきました。
自慢の3つの武器を持って立ち向かってきましたが、
趙雲の持つ「青釭の剣」に、それらをすべて斬り落とされて敗北。
落馬しますが、趙雲は彼を斬らず、城へ帰します。

陳応はすっかり趙雲に感じ入り、「かなう相手ではありません」と、
太守の趙範に降伏を勧めました。
黙って降伏するのが嫌な趙範は、なかなか首を縦にふりませんが、
配下の武将がこぞって賛成したため、やむなく降伏を決めます。
ここに、鮑竜という参謀がいました。彼は一計を案じ、趙範に耳打ちします。
その後、門を開けた桂陽城へ趙雲が入城してきます。
宴となって酒が入り、さすがの趙雲も酔いつぶれてしまいました。
もしかすると、酒に何か入っていたのかもしれません。
趙範は、未亡人となっていた自分の兄嫁を趙雲に侍らせようと、
その寝所に入らせますが、趙雲は驚いて跳ね起きました。
さすが趙雲、無欲というか真面目です。
この、趙範が趙雲に兄嫁を娶らせようとして、断った話は正史にも伝わっています。
趙雲には、趙統、趙広という息子がいるので、
いつ結婚したのかはわかりませんが、ちゃんと妻がいたのは確かです。
まあ、劉備のように複数の妻(側室)を迎えるのは珍しくない時代なだけに、
趙雲がそれを断ったというのは、彼の無欲な性格を表しているのだといえます。
趙範は、趙雲に兄嫁をとつがせることで、
身内に引き入れ、ともに曹操に恭順しようと画策していたようなのですが、
きっぱり断られたため、捕えてしまおうと一斉に襲わせます。
しかし、趙雲は素手で兵を蹴散らし、陳応の助けも借りて脱出に成功。
いつもながら、惚れ惚れするような趙雲の活躍。
張飛にも、これぐらい見せ場を作ってあげれば・・・と思えるのですが。
それに、趙範は何がしたかったのでしょうか。
趙雲が酔っているうちに捕えれば良かったのに・・・と思えてなりません(笑)。
趙雲を取り逃がした趙範と鮑竜は逃亡しようとしましたが、
陳応の兵に阻まれて万事休す。ついに桂陽城も劉備の手に落ちました。
続いては、関羽の番です。
張飛や趙雲が活躍するなか、自分も手柄を立てたくてウズウズしていた関羽に、
長沙出兵の軍令が下ります。
長沙の韓玄のもとには、黄忠という猛将がいるため、手ごわいとみた孔明が、
6000の兵を預けるというのに、手持ちの500だけでいいと言って聞きません。
「華容道のことをお忘れか?」と聞く孔明に対し、
関羽はその失策を持ち出されたことに腹を立て、
名誉挽回を図るため、すぐに出陣していきました。
「昔から、あいも変わらず負けず嫌いだのう・・・」
劉備はその背中を頼もしげに、そして少し不安そうな顔で見送ります。
そうそう。東京渋谷区の商業施設・ヒカリエの8Fに、
今週月曜から、「川本喜八郎 人形ギャラリー」がオープンしています。
川本喜八郎氏といえば、1980年代にNHKで放映されていた
「人形劇 三国志」の生みの親です。
当時、日本ではまだ三国志の映像作品が珍しかったのですが、
そのパイオニアともいうべき作品でした。
その三国志の人形が19体と、平家物語の人形が14体が、
無料で公開されているので、ご興味ある方はぜひ行かれてみてください。
(詳しくは 川本喜八郎人形ギャラリー で検索してください)
正直、今日はやや盛り上がりに欠ける話でしたが、
明日は、いよいよあの「老いてなお盛んな猛将」が登場します。
それでは、また明日!
2012年06月06日
こんばんは! 哲舟です。
荊州の南郡を劉備に奪られ、手負いの体で
心身を衰弱させながらも、なお戦いを続けようとする周瑜。
今の周瑜は、ただ意地になって踏みとどまっているばかりで、
かつてのような軍略の冴えはありません。
このままでは周瑜の命が危ういばかりか、
劉備との戦いもいたずらに長引き、曹操に付け入る隙を与えてしまいます。
そこで、周瑜を穏便に前線から引き揚げさせる方策を、
魯粛が考え、孫権に進言しました。
魯粛が提案したのは「合肥(ごうひ)を攻めよ」ということでした。
合肥(ごうひ)は、「がっぴ」とも呼ばれ、周瑜が攻めている南郡から
かなり北東のほうに位置する都市です。
そこは曹操の領地ですが、ちょうど孫権の領地との境にあって、
現在は、名将・張遼(ちょうりょう)が堅く守りを固めています。
孫権がそこを攻め、劣勢を装うことで周瑜に援軍に来させれば良いというのです。
そうすれば、劉備軍との戦いを休止させることができるだけでなく、
その隙に兵力の少ない荊州に、曹操が攻め込んできて、
劉備を倒してくれるかもしれないと、魯粛は見ています。
魯粛とて、単に劉備や諸葛亮の味方をしているばかりではありません。
孫権軍のために最善の策を、常に模索していることが分かります。

「子敬(しけい)は、公瑾(こうきん)に劣らぬ」
子敬は魯粛の、公瑾は周瑜のあざな。
孫権および、母の呉国太(ごこくたい)は、改めて魯粛の才能に感じ入るのです。
魯粛は、周瑜や孔明に一枚、二枚劣るような印象を受けますが、
それは、彼らの前では、常に一歩ひいて、
彼らを立てているからなのかもしれません。
魯粛は、続いて荊州の劉備のもとへ向かうと、
「荊州をお返しいただきたい」
単刀直入に切り出します。
魯粛は、かつて劉備が草鞋を売り、張飛が肉を売っていたことを
引き合いに出し、兵法も商いの道も同じだと説きます。
つまり、借りた物は返すのが世の習い。
「赤壁の戦い」で勝ったのは、多くの元手を投じた孫権軍のおかげで、
劉備は孫権の兵を借りたに過ぎない。
勝利を得たものが、荊州という利益を得るは当然といいます。
しかし、孔明は反論します。
荊州はもともと劉表が天子(皇帝)から任された土地であり、
いまはその息子、劉琦(りゅうき)のものである。
劉一族である劉備は、それを取り戻すために戦ったに過ぎない。
それを孫権が取り上げてしまっては、賊も同然だと。
また、周瑜は南郡を奪った後は勢いに乗じて劉備を倒そうと
目論んでいたことを見抜いていたと告げます。
そこへ、病床から劉琦が運ばれてきます。
劉琦は病がさらに進行し、もはや話すこともできない有様。
それを見た魯粛は、さすがに荊州を奪るのは今は無理だと判断し、
この場は引き下がることにしました。
しかし、劉琦が亡くなれば、劉備が荊州を治めるのは道理に反するため、
その際は、荊州を返してもらうと告げます。
さもなくば、周瑜に率いられた江東10万の兵が黙ってはいないと。
かつてないほどの迫力を見せる魯粛の物言いに、
さすがの孔明も、やや圧され気味のようです。
劉備は、魯粛の言葉に従うと約束し、その場をおさめました。
とりあえずは、「荊州は劉琦から借りているもの」と劉備は認めたことになり、
魯粛の交渉は成功に終わりました。
そして、周瑜もまた魯粛の進言に従い、荊州から兵を退きました。
当初、周瑜は合肥よりも荊州のほうが重要だとして難色を示しますが・・・
「主君を、ないがしろには出来ますまい」
このひと言が決め手となって周瑜は撤兵を決めましたが、
周瑜は孫権のもとへは行かず、軍権を返上して、柴桑に戻り傷を癒すことにしました。

合肥へ首尾を報告に訪れた魯粛を、孫権は「大手柄だ」と喜んで迎えます。
ますます孫権の信望を得た魯粛は、孫権の天下統一を願う発言をしますが、
「今は時期尚早である」と咎めを受けました。
魯粛は続いて、劉備の行動を警戒するよう進言します。
劉備は必ずや、孫権軍が撤兵した隙を突いて
領地を拡大するに違いないというのです・・・。

はたして、その言葉通り、劉備は新たに召抱えた馬良(ばりょう)の献策に従い、
南方にある荊州四郡(武陵、長沙、桂陽、零陵)を奪取することに決めます。
この馬良は、「白眉」(はくび)と称される秀才で、第42話に登場した馬謖の兄です。
今のところ、白眉と呼ばれるほどには、まだ眉は白くないようです。
荊州四郡は、荊州の南に位置している土地ですが、現在は曹操の領地。
曹操が荊州に侵攻したときに降伏したり、
曹操のもとから派遣されたりした、4人の太守が治めています。
この土地を奪うことで、劉備軍は荊州のほぼ全土を手に入れようとの狙い。
そうすれば、万一南郡を孫権に返さなければならない羽目になっても、
劉備軍には土地が残ることになるわけです。
劉備軍は、まず劉度(りゅうど)の治める零陵(れいりょう)に兵を向けました。
零陵には、邢道栄(けいどうえい)なる猛将がいて、
「劉備軍なにするものぞ」と、迎撃に出てきました。

劉備軍の指揮官は孔明で、張飛、趙雲がそれに付き従います。
孔明が初めて、みずから戦場で采配をふるう機会がやってきました。
巧みな陣形を敷き、邢道栄(けいどうえい)の軍を手玉にとります。
たちまち取り囲まれた道栄に、張飛が突進。
荊州では「万夫不当の荒武者」と噂される道栄ですが・・・
張飛の一撃を受けただけで自慢の大斧を弾き落とされ、
趙雲の追撃によって落馬し、あっという間に捕らわれてしまいました。

それなりに強いのかもしれませんが、張飛と趙雲を相手に、
まともに戦えるのは呂布ぐらいなものでしょう。いくらなんでも相手が悪すぎました。
劉備の前に引き出された道栄は、必死に命乞いをしたため、
憐れんだ孔明が「何か手柄を立てれば命だけは助ける」といって解き放ちます。
道栄は、「劉度・劉賢を捕えて引き渡します」と、
内通の約束をして、零陵城へと引き揚げていきました・・・。
劉備も孔明も、もちろん彼の言うことが出まかせであることは承知しています。
それでも彼を敢えて逃がしたうえで、城を奪うための策を仕掛けるのですが、
さて、孔明の献じる策とは、いかなるものでしょうか?
荊州の南郡を劉備に奪られ、手負いの体で
心身を衰弱させながらも、なお戦いを続けようとする周瑜。
今の周瑜は、ただ意地になって踏みとどまっているばかりで、
かつてのような軍略の冴えはありません。
このままでは周瑜の命が危ういばかりか、
劉備との戦いもいたずらに長引き、曹操に付け入る隙を与えてしまいます。
そこで、周瑜を穏便に前線から引き揚げさせる方策を、
魯粛が考え、孫権に進言しました。
魯粛が提案したのは「合肥(ごうひ)を攻めよ」ということでした。
合肥(ごうひ)は、「がっぴ」とも呼ばれ、周瑜が攻めている南郡から
かなり北東のほうに位置する都市です。
そこは曹操の領地ですが、ちょうど孫権の領地との境にあって、
現在は、名将・張遼(ちょうりょう)が堅く守りを固めています。
孫権がそこを攻め、劣勢を装うことで周瑜に援軍に来させれば良いというのです。
そうすれば、劉備軍との戦いを休止させることができるだけでなく、
その隙に兵力の少ない荊州に、曹操が攻め込んできて、
劉備を倒してくれるかもしれないと、魯粛は見ています。
魯粛とて、単に劉備や諸葛亮の味方をしているばかりではありません。
孫権軍のために最善の策を、常に模索していることが分かります。

「子敬(しけい)は、公瑾(こうきん)に劣らぬ」
子敬は魯粛の、公瑾は周瑜のあざな。
孫権および、母の呉国太(ごこくたい)は、改めて魯粛の才能に感じ入るのです。
魯粛は、周瑜や孔明に一枚、二枚劣るような印象を受けますが、
それは、彼らの前では、常に一歩ひいて、
彼らを立てているからなのかもしれません。
魯粛は、続いて荊州の劉備のもとへ向かうと、
「荊州をお返しいただきたい」
単刀直入に切り出します。
魯粛は、かつて劉備が草鞋を売り、張飛が肉を売っていたことを
引き合いに出し、兵法も商いの道も同じだと説きます。
つまり、借りた物は返すのが世の習い。
「赤壁の戦い」で勝ったのは、多くの元手を投じた孫権軍のおかげで、
劉備は孫権の兵を借りたに過ぎない。
勝利を得たものが、荊州という利益を得るは当然といいます。
しかし、孔明は反論します。
荊州はもともと劉表が天子(皇帝)から任された土地であり、
いまはその息子、劉琦(りゅうき)のものである。
劉一族である劉備は、それを取り戻すために戦ったに過ぎない。
それを孫権が取り上げてしまっては、賊も同然だと。
また、周瑜は南郡を奪った後は勢いに乗じて劉備を倒そうと
目論んでいたことを見抜いていたと告げます。
そこへ、病床から劉琦が運ばれてきます。
劉琦は病がさらに進行し、もはや話すこともできない有様。
それを見た魯粛は、さすがに荊州を奪るのは今は無理だと判断し、
この場は引き下がることにしました。
しかし、劉琦が亡くなれば、劉備が荊州を治めるのは道理に反するため、
その際は、荊州を返してもらうと告げます。
さもなくば、周瑜に率いられた江東10万の兵が黙ってはいないと。
かつてないほどの迫力を見せる魯粛の物言いに、
さすがの孔明も、やや圧され気味のようです。
劉備は、魯粛の言葉に従うと約束し、その場をおさめました。
とりあえずは、「荊州は劉琦から借りているもの」と劉備は認めたことになり、
魯粛の交渉は成功に終わりました。
そして、周瑜もまた魯粛の進言に従い、荊州から兵を退きました。
当初、周瑜は合肥よりも荊州のほうが重要だとして難色を示しますが・・・
「主君を、ないがしろには出来ますまい」
このひと言が決め手となって周瑜は撤兵を決めましたが、
周瑜は孫権のもとへは行かず、軍権を返上して、柴桑に戻り傷を癒すことにしました。

合肥へ首尾を報告に訪れた魯粛を、孫権は「大手柄だ」と喜んで迎えます。
ますます孫権の信望を得た魯粛は、孫権の天下統一を願う発言をしますが、
「今は時期尚早である」と咎めを受けました。
魯粛は続いて、劉備の行動を警戒するよう進言します。
劉備は必ずや、孫権軍が撤兵した隙を突いて
領地を拡大するに違いないというのです・・・。

はたして、その言葉通り、劉備は新たに召抱えた馬良(ばりょう)の献策に従い、
南方にある荊州四郡(武陵、長沙、桂陽、零陵)を奪取することに決めます。
この馬良は、「白眉」(はくび)と称される秀才で、第42話に登場した馬謖の兄です。
今のところ、白眉と呼ばれるほどには、まだ眉は白くないようです。
荊州四郡は、荊州の南に位置している土地ですが、現在は曹操の領地。
曹操が荊州に侵攻したときに降伏したり、
曹操のもとから派遣されたりした、4人の太守が治めています。
この土地を奪うことで、劉備軍は荊州のほぼ全土を手に入れようとの狙い。
そうすれば、万一南郡を孫権に返さなければならない羽目になっても、
劉備軍には土地が残ることになるわけです。
劉備軍は、まず劉度(りゅうど)の治める零陵(れいりょう)に兵を向けました。
零陵には、邢道栄(けいどうえい)なる猛将がいて、
「劉備軍なにするものぞ」と、迎撃に出てきました。

劉備軍の指揮官は孔明で、張飛、趙雲がそれに付き従います。
孔明が初めて、みずから戦場で采配をふるう機会がやってきました。
巧みな陣形を敷き、邢道栄(けいどうえい)の軍を手玉にとります。
たちまち取り囲まれた道栄に、張飛が突進。
荊州では「万夫不当の荒武者」と噂される道栄ですが・・・
張飛の一撃を受けただけで自慢の大斧を弾き落とされ、
趙雲の追撃によって落馬し、あっという間に捕らわれてしまいました。

それなりに強いのかもしれませんが、張飛と趙雲を相手に、
まともに戦えるのは呂布ぐらいなものでしょう。いくらなんでも相手が悪すぎました。
劉備の前に引き出された道栄は、必死に命乞いをしたため、
憐れんだ孔明が「何か手柄を立てれば命だけは助ける」といって解き放ちます。
道栄は、「劉度・劉賢を捕えて引き渡します」と、
内通の約束をして、零陵城へと引き揚げていきました・・・。
劉備も孔明も、もちろん彼の言うことが出まかせであることは承知しています。
それでも彼を敢えて逃がしたうえで、城を奪うための策を仕掛けるのですが、
さて、孔明の献じる策とは、いかなるものでしょうか?
2012年06月05日
こんばんは! 哲舟です。
さて、周瑜の軍勢が南郡城を出て
退却にかかる曹仁軍を襲い、散々に蹴散らします。
曹仁は逃げ去り、周瑜は空っぽになった南郡城への入城を命じます。
城内はしんと静まり返っており、一兵の姿も見えません。
「静かすぎる・・・」と怪しんだ周瑜ですが、時すでに遅し。
これは曹仁がしかけた罠でした。
たちまち曹仁の伏兵が出てきて、周瑜軍に一斉に矢を放ちます。
あわてて撤退にかかる周瑜ですが、胸に矢を受けて落馬。
部下たちが必死に周瑜を馬に乗せ、なんとか脱出に成功しますが、
数千の兵を失う手痛い損害を蒙ってしまいました。

周瑜が受けた矢には猛毒が塗ってあり、100日は養生が必要と医師はいいます。
しかし、周瑜は100日も安静になどしていられません。
なにしろ、孔明に「30日で落としてみせる」と豪語してもいますから・・・。
城外では、曹仁の将兵が自分を口汚くののしっており、
周瑜は、それを見過ごすこともできません。
「これしきの傷がなんだ」
副都督の程普らが止めるのも聞かず、
周瑜は傷ついた体をおして、すぐさま前線に出ていきます・・・。
前線に出た周瑜を、曹仁がさらに嘲り笑います。
「大喬、小喬を差し出せ! お主は馬の世話をして、俺の脚を洗え!」
そういえば・・・小喬は周瑜のもとから本当に去ってしまったようで、登場しません。
今の周瑜には、どことなく孤独感さえ漂います。

嘲笑に憤った周瑜は、血を吐きだして落馬。
駆け寄り、嘆き悲しむ孫呉の将たち。
曹仁は、その様子に周瑜が憤死したと見て、一斉攻撃を命じました。
孫呉の軍は意気消沈してさしたる抵抗も見せず、陣営に引き揚げました。
その夜、周瑜の陣営は水を打ったような静けさに包まれていました。
周瑜の喪に服し、将兵がすっかり戦意を喪失していると見た曹仁は、
一気に揉みつぶしてしまおうと総攻撃をしかけます。

しかし、これは周瑜が骨身を削ってしかけた策略でした。
陣営に入った曹仁軍を、隠れていた周瑜軍が一斉に取り囲みます。
あわてて撤退する曹仁軍を捨て置き、周瑜はただちに南郡城奪取を命じました。
南郡城へ到着した周瑜軍ですが、
城はすでに劉備軍の将・趙雲の軍勢が占拠していました。
孔明に出し抜かれた周瑜は、またも落馬。
今度は演技ではなく、本当に吐血し、倒れてしまいます。
趙雲が堅固に守る南郡城を前に、孫呉の兵は撤退を余儀なくされます。
曹仁、周瑜の戦いの様子は逐一、劉備と孔明のもとに報告されていました。
孔明には、周瑜の戦略が手に取るように分かっていたようで、
周瑜と曹仁が争うなか、空になった南郡城を奪うことを劉備に提案したのです。
劉備は、「人が争っているときに城を奪うなど信義に反する」と言いますが、
孔明の説得に折れ、南郡奪取を決定。
孔明は趙雲に命じて先まわりさせ、これを奪うよう命じました。
劉備は、ついに念願の荊州北部の城を手中にしました。
なかば掠め取るようなやり方で城を奪ったことに、劉備はどことなく浮かぬ顔。
これって、孔明がやったことなので美化されがちですが、
本質的には劉備から徐州を奪った呂布と変わりない・・・ですよね。
劉備はそういうことに気付いて、己の行為を深く恥じ入ったのかもしれません。
しかし、大業を果たすためには奇麗事だけでは、到底無理であって、
荊州という基盤が必要なことは劉備も重々承知しています。
いすに座り、孔明に礼を言う劉備。張飛たちも心からそれを祝います。
そのころ曹操のもとに、曹仁が敗れて南郡ほか、
荊州北部を失ったとの報が届きます。
しかし、曹操は悲しまず曹仁の善戦を称えます。
曹操は、領地を失ったことを、あまり残念には思っていないようです。
赤壁の敗戦で、自分から攻撃しても南方を攻め取るのは難しい、
劉備・孫権が争って互いに傷つくのを待ったほうが得策と判断したようで、
この先も彼らが争って傷つけあうであろうことを予想します。
ただでは負けないあたり、さすがは曹操といえましょう。
柴桑の孫権にも、南郡が劉備に奪われた情報が知らされ、
病床の周瑜からは援軍をうながす書簡が届けられました。
しかし孫権は、劉備から城を奪い返そうとして戦っては共倒れになり、
曹操を喜ばせるだけだと悟ります。
魯粛は、周瑜から兵符をとり上げ、江東に引き揚げさせたうえで
傷を養生させたほうが良いと進言しますが、
孫権は「赤壁の勝利は周瑜の功績。それはできない」と反対します。
プライドの高い周瑜に対し、それはあまりに酷い仕打ちだからです。
しかし、このままでは周瑜は必ず前線にとどまって、
犠牲を強いる戦いを続行するに違いありません。
どうすればそれを防げるのか・・・。
悩む孫権に、魯粛が一計を思いつき、進言します。
さて、それはどのような策でしょうか? また明日をお楽しみに。
【このひとに注目!】

◆牛金(ぎゅうきん) 生没年不詳
曹仁配下の猛将。南郡に攻めよせる周瑜軍に数百人の兵で応戦し、奮戦したが、多勢に無勢のため劣勢となる。後一歩で討たれそうになるところで曹仁が救援に駆けつけ、救出された。今回も周瑜の陣営に夜襲をしかける場面で登場しており、本作においても無事救出されたようだ。
この戦いの後は目立った活躍もなく、詳しい動向は不明だが、後に魏の後将軍に出世。晩年は司馬懿に従って蜀軍との戦いで活躍したようである。
さて、周瑜の軍勢が南郡城を出て
退却にかかる曹仁軍を襲い、散々に蹴散らします。
曹仁は逃げ去り、周瑜は空っぽになった南郡城への入城を命じます。
城内はしんと静まり返っており、一兵の姿も見えません。
「静かすぎる・・・」と怪しんだ周瑜ですが、時すでに遅し。
これは曹仁がしかけた罠でした。
たちまち曹仁の伏兵が出てきて、周瑜軍に一斉に矢を放ちます。
あわてて撤退にかかる周瑜ですが、胸に矢を受けて落馬。
部下たちが必死に周瑜を馬に乗せ、なんとか脱出に成功しますが、
数千の兵を失う手痛い損害を蒙ってしまいました。

周瑜が受けた矢には猛毒が塗ってあり、100日は養生が必要と医師はいいます。
しかし、周瑜は100日も安静になどしていられません。
なにしろ、孔明に「30日で落としてみせる」と豪語してもいますから・・・。
城外では、曹仁の将兵が自分を口汚くののしっており、
周瑜は、それを見過ごすこともできません。
「これしきの傷がなんだ」
副都督の程普らが止めるのも聞かず、
周瑜は傷ついた体をおして、すぐさま前線に出ていきます・・・。
前線に出た周瑜を、曹仁がさらに嘲り笑います。
「大喬、小喬を差し出せ! お主は馬の世話をして、俺の脚を洗え!」
そういえば・・・小喬は周瑜のもとから本当に去ってしまったようで、登場しません。
今の周瑜には、どことなく孤独感さえ漂います。

嘲笑に憤った周瑜は、血を吐きだして落馬。
駆け寄り、嘆き悲しむ孫呉の将たち。
曹仁は、その様子に周瑜が憤死したと見て、一斉攻撃を命じました。
孫呉の軍は意気消沈してさしたる抵抗も見せず、陣営に引き揚げました。
その夜、周瑜の陣営は水を打ったような静けさに包まれていました。
周瑜の喪に服し、将兵がすっかり戦意を喪失していると見た曹仁は、
一気に揉みつぶしてしまおうと総攻撃をしかけます。

しかし、これは周瑜が骨身を削ってしかけた策略でした。
陣営に入った曹仁軍を、隠れていた周瑜軍が一斉に取り囲みます。
あわてて撤退する曹仁軍を捨て置き、周瑜はただちに南郡城奪取を命じました。
南郡城へ到着した周瑜軍ですが、
城はすでに劉備軍の将・趙雲の軍勢が占拠していました。
孔明に出し抜かれた周瑜は、またも落馬。
今度は演技ではなく、本当に吐血し、倒れてしまいます。
趙雲が堅固に守る南郡城を前に、孫呉の兵は撤退を余儀なくされます。
曹仁、周瑜の戦いの様子は逐一、劉備と孔明のもとに報告されていました。
孔明には、周瑜の戦略が手に取るように分かっていたようで、
周瑜と曹仁が争うなか、空になった南郡城を奪うことを劉備に提案したのです。
劉備は、「人が争っているときに城を奪うなど信義に反する」と言いますが、
孔明の説得に折れ、南郡奪取を決定。
孔明は趙雲に命じて先まわりさせ、これを奪うよう命じました。
劉備は、ついに念願の荊州北部の城を手中にしました。
なかば掠め取るようなやり方で城を奪ったことに、劉備はどことなく浮かぬ顔。
これって、孔明がやったことなので美化されがちですが、
本質的には劉備から徐州を奪った呂布と変わりない・・・ですよね。
劉備はそういうことに気付いて、己の行為を深く恥じ入ったのかもしれません。
しかし、大業を果たすためには奇麗事だけでは、到底無理であって、
荊州という基盤が必要なことは劉備も重々承知しています。
いすに座り、孔明に礼を言う劉備。張飛たちも心からそれを祝います。
そのころ曹操のもとに、曹仁が敗れて南郡ほか、
荊州北部を失ったとの報が届きます。
しかし、曹操は悲しまず曹仁の善戦を称えます。
曹操は、領地を失ったことを、あまり残念には思っていないようです。
赤壁の敗戦で、自分から攻撃しても南方を攻め取るのは難しい、
劉備・孫権が争って互いに傷つくのを待ったほうが得策と判断したようで、
この先も彼らが争って傷つけあうであろうことを予想します。
ただでは負けないあたり、さすがは曹操といえましょう。
柴桑の孫権にも、南郡が劉備に奪われた情報が知らされ、
病床の周瑜からは援軍をうながす書簡が届けられました。
しかし孫権は、劉備から城を奪い返そうとして戦っては共倒れになり、
曹操を喜ばせるだけだと悟ります。
魯粛は、周瑜から兵符をとり上げ、江東に引き揚げさせたうえで
傷を養生させたほうが良いと進言しますが、
孫権は「赤壁の勝利は周瑜の功績。それはできない」と反対します。
プライドの高い周瑜に対し、それはあまりに酷い仕打ちだからです。
しかし、このままでは周瑜は必ず前線にとどまって、
犠牲を強いる戦いを続行するに違いありません。
どうすればそれを防げるのか・・・。
悩む孫権に、魯粛が一計を思いつき、進言します。
さて、それはどのような策でしょうか? また明日をお楽しみに。
【このひとに注目!】

◆牛金(ぎゅうきん) 生没年不詳
曹仁配下の猛将。南郡に攻めよせる周瑜軍に数百人の兵で応戦し、奮戦したが、多勢に無勢のため劣勢となる。後一歩で討たれそうになるところで曹仁が救援に駆けつけ、救出された。今回も周瑜の陣営に夜襲をしかける場面で登場しており、本作においても無事救出されたようだ。
この戦いの後は目立った活躍もなく、詳しい動向は不明だが、後に魏の後将軍に出世。晩年は司馬懿に従って蜀軍との戦いで活躍したようである。
2012年06月04日
こんばんは! ストーリーテラーの哲舟です。
今週もよろしくお願いします。
前回までは、赤壁で敗戦した後の曹操陣営の様子が
描かれていましたが、今回からまたしばらく、
孫権、劉備両陣営が登場し、その絡みが描かれます。

赤壁の戦いの翌年にあたる、西暦209年。
周瑜の軍勢は荊州との境目に位置する
巴丘(はきゅう)というところまで進出し、駐屯していました。
孫権もみずからそこを訪れ、様子を見に来ています。
そんな折、劉備軍が荊州の南郡へ
攻め入ろうとしているとの情報がもたらされます。
「荊州を劉備にとられてなるものか」と、孫権陣営。
赤壁の戦いでも、実際に曹操軍と戦って血を流したのは孫権軍。
劉備軍はその後の追撃程度しか行なっていません。もっともな考えです。
しかし、周瑜は意外にも、劉備軍に兵糧を送り届け
手助けをするよう、呂蒙(りょもう)に命じます。
劉備には1万5千の兵しかいません。
対する南郡城は、2万の軍勢で曹仁が
そして夷陵には曹洪が守備しています。
これを落とすには6万の兵が必要で、諸葛亮(孔明)は、
攻めるふりをしているだけだと読んでいました。
周瑜は劉備軍に兵糧を与え、攻めさせて犠牲を払わせようと考えたのです。
この周瑜の作戦は、魯粛だけが分かっていました。
魯粛のアドバイスを得た孫権は、周瑜に軍権を任せ、
孔明に勝つことを信じて、本拠地の柴桑(さいそう)へと戻っていきます。
そのころ、油江口(ゆこうこう)に駐屯する劉備軍では、
着々と城攻めの準備が進んでいました。

張飛は、城攻めに使用するためのハシゴを大量に作っていました。
城内に潜んでいるであろう孫呉の密偵に、南郡城を攻めると信じ込ませるため、
孔明にいわれて、大がかりに作っているのです。
それにしても、この張飛の肉体美も見事ですね。
第32話では曹仁の肉体美が見られましたが、張飛も立派。
男たるもの、これぐらい鍛えておかねば・・・と思うのですが、
わが体を見て思うに、これがなかなか・・・(笑)。
そこへ、呂蒙が兵糧を届けに訪れます。
呂蒙の手を引いて歩く劉備。
男同士、手をつないでいたからといって勘違いしてはいけません。
こうして歓迎の意を表しているのです。

ちなみに、兵糧のお礼に持たせようと言っていた、
南山の水蜜桃(すいみつとう)とは、白桃のことを言うようです。
名前を聞くだけで唾が湧いてきます。
当時、果物は蜜柑(みかん)、瓜(うり)などもよく食べられていたとか。
劉備と孔明は、南郡ではなく、
それより南の小城、零陵(れいりょう)を攻めると呂蒙に打ち明けます。
呂蒙から報告を受けた周瑜は、孔明が自分を騙そうとしていると疑い、
真偽を確かめるため、みずから劉備の陣営を訪ねることにしました。
大都督のお出ましに、劉備も礼を尽くして迎えます。
そういえば、これが劉備と周瑜の初対面。
周瑜の目的は、劉琦(りゅうき)が劉備陣営に居るかどうかを確認することでした。
劉琦は江口に5万の兵を擁しており、彼が居るとなれば、
劉備軍の兵は6万ほどとなり、侮りがたくなるからです。
劉琦は重い病にかかり、病床にいました。
それを目の当たりにした周瑜は、彼に戦いの指揮がとれないことを察しますが、
その兵力が劉備軍へ移っており、侮りがたいことを知りました。
周瑜は、やはり劉備が南郡を攻めると知らされ、
南郡は孫権軍が攻め取るべきであると主張します。
30日以内に攻め落とすと公言し、それ以内に攻め落とせない場合は、
劉備が南郡を取ってもかまわないとさえ、いいます。
孔明は南郡は守りが堅いと、巧みに周瑜の戦意を煽って攻撃の決意を固めさせます。
30日以内に南郡が落ちていなければ、我々が攻めると約束。
孔明の思惑通りに事が運ぶことになりました。
巴丘に戻った周瑜は、まず部下の甘寧(かんねい)を
先鋒として派遣し、曹仁との戦いを開始します。

南郡城に立て籠るのは、曹仁とその部下、牛金(ぎゅうきん)。
もう一人の部下は、名前が出てきませんが
原作から察するに、おそらく陳矯(ちんきょう)です。
甘寧ひきいる5000の兵は、布陣を開始。
これを見た曹仁は、部下の牛金に500の兵を与え、突撃させます。
10倍の兵の中に500とは無謀にも思える戦法ですが、
周瑜の本隊が到着する前に打撃を与えておこうと、あえて攻撃を命じました。
決死の覚悟を決めた牛金以下の将兵は奮戦し、甘寧軍をかき乱します。
甘寧軍の前線が乱れたとみるや、
曹仁は城内の兵1万5千をすべて投入し、城門を開けて総攻撃に移ります。
作戦は見事に成功し、周瑜本隊の到着前に、甘寧軍は散々に打ち破られました。
曹仁は、さすが曹操の従弟。戦術にも長けています。
しかし、前線に到着した周瑜は、
今度は見事に曹仁軍を城外へおびき出し、大打撃を与えます。
痛い目にあった曹仁は一計を案じ、夜、城を捨てて撤退にかかります。
それを見越した周瑜は、曹仁が城外へ出たところで、一斉攻撃を命じました。
さて、曹仁の命運や、いかに・・・?
【このひとに注目!】

◆甘寧(かんねい) 生没年不詳
第41話で初登場した孫権軍の猛将。孫権軍の先鋒をつとめ、曹仁の部下・牛金と刃を交える。本作においても見せ場の少ない孫権軍の武将のなかでは比較的目立っているが、役者が地味な顔立ちのためか、猛将らしさがあまり感じられないのが残念。益州の巴郡出身。
正史においては、若いころは無頼の者たちを集め、その集団の頭領として鳴らした。遊侠を好み、羽飾りを背負い、鈴を身につけて歩いていたため、民衆は鈴の音を聞いただけでそれが甘寧一味だと分かったという。粗暴な性格でよく人を殺すこともあったというが、爽快な一面もあり、勇者たちを手厚く扱う人情家の一面もあった。後に儒須口で孫権が曹操と戦ったとき、張遼の奮戦によって惨敗を喫したが、甘寧の働きで挽回し、軍を立て直すことができた。孫権は、「曹操には張遼がいるが、私には甘寧がいる。ちょうど釣合がとれている」と喜んだという。
今週もよろしくお願いします。
前回までは、赤壁で敗戦した後の曹操陣営の様子が
描かれていましたが、今回からまたしばらく、
孫権、劉備両陣営が登場し、その絡みが描かれます。

赤壁の戦いの翌年にあたる、西暦209年。
周瑜の軍勢は荊州との境目に位置する
巴丘(はきゅう)というところまで進出し、駐屯していました。
孫権もみずからそこを訪れ、様子を見に来ています。
そんな折、劉備軍が荊州の南郡へ
攻め入ろうとしているとの情報がもたらされます。
「荊州を劉備にとられてなるものか」と、孫権陣営。
赤壁の戦いでも、実際に曹操軍と戦って血を流したのは孫権軍。
劉備軍はその後の追撃程度しか行なっていません。もっともな考えです。
しかし、周瑜は意外にも、劉備軍に兵糧を送り届け
手助けをするよう、呂蒙(りょもう)に命じます。
劉備には1万5千の兵しかいません。
対する南郡城は、2万の軍勢で曹仁が
そして夷陵には曹洪が守備しています。
これを落とすには6万の兵が必要で、諸葛亮(孔明)は、
攻めるふりをしているだけだと読んでいました。
周瑜は劉備軍に兵糧を与え、攻めさせて犠牲を払わせようと考えたのです。
この周瑜の作戦は、魯粛だけが分かっていました。
魯粛のアドバイスを得た孫権は、周瑜に軍権を任せ、
孔明に勝つことを信じて、本拠地の柴桑(さいそう)へと戻っていきます。
そのころ、油江口(ゆこうこう)に駐屯する劉備軍では、
着々と城攻めの準備が進んでいました。

張飛は、城攻めに使用するためのハシゴを大量に作っていました。
城内に潜んでいるであろう孫呉の密偵に、南郡城を攻めると信じ込ませるため、
孔明にいわれて、大がかりに作っているのです。
それにしても、この張飛の肉体美も見事ですね。
第32話では曹仁の肉体美が見られましたが、張飛も立派。
男たるもの、これぐらい鍛えておかねば・・・と思うのですが、
わが体を見て思うに、これがなかなか・・・(笑)。
そこへ、呂蒙が兵糧を届けに訪れます。
呂蒙の手を引いて歩く劉備。
男同士、手をつないでいたからといって勘違いしてはいけません。
こうして歓迎の意を表しているのです。

ちなみに、兵糧のお礼に持たせようと言っていた、
南山の水蜜桃(すいみつとう)とは、白桃のことを言うようです。
名前を聞くだけで唾が湧いてきます。
当時、果物は蜜柑(みかん)、瓜(うり)などもよく食べられていたとか。
劉備と孔明は、南郡ではなく、
それより南の小城、零陵(れいりょう)を攻めると呂蒙に打ち明けます。
呂蒙から報告を受けた周瑜は、孔明が自分を騙そうとしていると疑い、
真偽を確かめるため、みずから劉備の陣営を訪ねることにしました。
大都督のお出ましに、劉備も礼を尽くして迎えます。
そういえば、これが劉備と周瑜の初対面。
周瑜の目的は、劉琦(りゅうき)が劉備陣営に居るかどうかを確認することでした。
劉琦は江口に5万の兵を擁しており、彼が居るとなれば、
劉備軍の兵は6万ほどとなり、侮りがたくなるからです。
劉琦は重い病にかかり、病床にいました。
それを目の当たりにした周瑜は、彼に戦いの指揮がとれないことを察しますが、
その兵力が劉備軍へ移っており、侮りがたいことを知りました。
周瑜は、やはり劉備が南郡を攻めると知らされ、
南郡は孫権軍が攻め取るべきであると主張します。
30日以内に攻め落とすと公言し、それ以内に攻め落とせない場合は、
劉備が南郡を取ってもかまわないとさえ、いいます。
孔明は南郡は守りが堅いと、巧みに周瑜の戦意を煽って攻撃の決意を固めさせます。
30日以内に南郡が落ちていなければ、我々が攻めると約束。
孔明の思惑通りに事が運ぶことになりました。
巴丘に戻った周瑜は、まず部下の甘寧(かんねい)を
先鋒として派遣し、曹仁との戦いを開始します。

南郡城に立て籠るのは、曹仁とその部下、牛金(ぎゅうきん)。
もう一人の部下は、名前が出てきませんが
原作から察するに、おそらく陳矯(ちんきょう)です。
甘寧ひきいる5000の兵は、布陣を開始。
これを見た曹仁は、部下の牛金に500の兵を与え、突撃させます。
10倍の兵の中に500とは無謀にも思える戦法ですが、
周瑜の本隊が到着する前に打撃を与えておこうと、あえて攻撃を命じました。
決死の覚悟を決めた牛金以下の将兵は奮戦し、甘寧軍をかき乱します。
甘寧軍の前線が乱れたとみるや、
曹仁は城内の兵1万5千をすべて投入し、城門を開けて総攻撃に移ります。
作戦は見事に成功し、周瑜本隊の到着前に、甘寧軍は散々に打ち破られました。
曹仁は、さすが曹操の従弟。戦術にも長けています。
しかし、前線に到着した周瑜は、
今度は見事に曹仁軍を城外へおびき出し、大打撃を与えます。
痛い目にあった曹仁は一計を案じ、夜、城を捨てて撤退にかかります。
それを見越した周瑜は、曹仁が城外へ出たところで、一斉攻撃を命じました。
さて、曹仁の命運や、いかに・・・?
【このひとに注目!】

◆甘寧(かんねい) 生没年不詳
第41話で初登場した孫権軍の猛将。孫権軍の先鋒をつとめ、曹仁の部下・牛金と刃を交える。本作においても見せ場の少ない孫権軍の武将のなかでは比較的目立っているが、役者が地味な顔立ちのためか、猛将らしさがあまり感じられないのが残念。益州の巴郡出身。
正史においては、若いころは無頼の者たちを集め、その集団の頭領として鳴らした。遊侠を好み、羽飾りを背負い、鈴を身につけて歩いていたため、民衆は鈴の音を聞いただけでそれが甘寧一味だと分かったという。粗暴な性格でよく人を殺すこともあったというが、爽快な一面もあり、勇者たちを手厚く扱う人情家の一面もあった。後に儒須口で孫権が曹操と戦ったとき、張遼の奮戦によって惨敗を喫したが、甘寧の働きで挽回し、軍を立て直すことができた。孫権は、「曹操には張遼がいるが、私には甘寧がいる。ちょうど釣合がとれている」と喜んだという。