第56話~第60話
2012年06月22日
日本列島が台風に見舞われた今週、日が経つのがあっという間に感じます。
さて、司馬懿(しばい)は曹丕の師父になりたいと
曹操に頼みますが、曹操は「曹植を教えよ」といい反対します。
それを拒否した司馬懿は、曹操の怒りを買って城を出されてしまいました。
曹操はやはり司馬懿の才能を警戒しており、
一時、野に放って彼の出方を見るようです。
参謀のひとり、荀彧(じゅんいく)は、司馬懿が劉備や孫権に仕えるのでは・・・
と心配しますが、劉備には孔明と龐統が、孫権には魯粛がいる、
司馬懿の性格からいって、わざわざ彼らと争うことはないと曹操は見ます。

実際、司馬懿は城を出た後、遠くへは行かずに
自邸に引きこもり、釣りに興じる日々を過ごします。
曹丕は、毎日のようにそこを訪ね、司馬懿に都の情勢を告げ、
助言をもらうようになりました。
曹操は屋敷に戻り、荀彧と今後の出方を相談します。
このところ、曹操には新たな悩みが持ち上がってきました。
西涼の馬騰(ばとう)、韓遂(かんすい)の存在です。
西涼という地名から分かるように、都からずっと西のほうにある土地で、
そこを治める2人は、曹操にとってかなり厄介な存在でした。
率いる兵力は10万にも及び、彼らがもしも孫権や劉備と結託し、
攻めてくれば挟み撃ちされることになるため、曹操にとっては一大事です。
馬騰は、第3話にも登場した、十八鎮諸侯の生き残り。
いまや、その諸侯も曹操、劉備、馬騰の3者のみとなってしまいました。
第44話でも、馬騰は曹操を暗殺しようと刺客を放っていましたね。
その馬騰は、中秋の祝いに、献帝には多大な貢物を贈って寄越しましたが、
曹操には、酥(そ)という菓子を一箱贈ってきたきり。
「わしを馬鹿にしておるのだ」と、曹操は悪態をつきます。

ちなみに・・・、酥(そ)は、日本語では蘇とも書く乳製品(チーズ)の一種ですが、
本作では菓子として扱われているため、
中国語で酥(スー)と読ぶ、クッキーのような中華菓子のことでしょう。
中華街などに行けば「杏仁酥」という名前で売っています。
小麦粉に、牛や馬など家畜の乳を煮詰めて混ぜたものですが、
乳汁が豊富にとれたであろう、西涼の名物だったのかもしれません。
味は、今みたいな甘さは出せなかったと思いますが
荀彧や使用人たちが目の色を変えて食べていたように、
当時の中原では、なかなか手に入らない貴重なものだったとは思います。
さて、荀彧は、まず馬騰に朝廷から詔を出して将軍の職を与え、
孫権討伐を命じて戦わせ、
どちらも傷つかせてから、両者とも倒すという計略を講じます。
これぞ「狼を使って犬を討つの計」。
曹操は荀彧の策に、さらに上乗せし、
馬騰と馬超親子が都に立ち寄ったところを捕えて
西涼全軍を手中にしようと計画します。

いっぽう、詔を受け取った馬騰は、曹操の計を見抜きました。
さすがに、しぶとく生き残るだけあって、なかなかの知恵者です
馬騰はこれを利用し、韓遂と仲違いしたふりをして
わずかな兵を連れて都に行って曹操に降り、
隙を見て曹操を暗殺して許都を奪おうと目論みます。
馬騰自身が都へ赴くのは危険であるとして、
彼の息子、馬超(ばちょう)は、「自分が行く」と申し出ますが、
馬騰は「自分が行かねば曹操は騙せない」と言って聞き入れず、
馬超の従弟・馬岱(ばたい)と、馬鉄(ばてつ)のみを伴って出発します。
馬騰から危機を知らせる偽の書簡を受け取った曹操。
それを見て、さすがに「クサい」と感じ、
まずは韓遂に官職を授ける一方、馬騰に会って様子を見ることにしました。

投降したふりをして許都をめざす馬騰を、曹丕が出迎えます。
酒宴に招待された馬騰は、「西涼を取りたいが兵がいない」と曹操に泣きつきます。
曹操は、彼に3万の兵を授けることを約束します。
騙されたふりをする曹操・・・。曹操も、まだ計画を完全には見破っておらず、
手探りで事を進めていく、お互いの駆け引きがとてもスリリングです。
上手く運んでいると見た馬騰は、
かねてから交流のあった黄奎(こうけい)という官僚を呼び、
曹操暗殺計画を打ち明け、挙兵の際は内通するよう依頼。
内外から攻め、曹操を倒す手筈を整えますが・・・
そのころ黄奎の義弟、苗沢(びょうたく)は、
義兄の妾・李春香と密通していました。
馬騰、黄奎の計画に、さて、これがどう影響してきますか・・・?
【このひとに注目!】

◆楊修(ようしゅう)
曹操の参謀のひとりとして、前回から登場。曹操が何も言わず、裏門に「活」という字を書いて立ち去ると、その文字から「門が広いので気に入らない」と意図を見抜き、門を取り壊させる。曹操が馬騰から贈られた菓子箱の上に「一合酥」と書いたところ、楊修は「一合」を分解すると「一人一口」になると読み解き、使用人たちに食べさせるなど、天才的な頭の冴えを見せる。人々の注目の的となるが、曹丕からその話を聞いた司馬懿は、「楊修の聡明さと、才能をひけらかす性格は命取りになる」と見る・・・。
2012年06月21日
劉備は、耒陽県(らいようけん)の賢人・龐統(ほうとう)を自ら訪ねます。
龐統は相変わらずダラダラとして、なかなか姿を見せませんでしたが、
劉備は「三顧の礼」のときと同様、龐統が来るまで待ち、
自ら彼の好みの酒を買ってきて振舞おうとします。

酒が少ないので立ち去るという龐統をあえて引き留めず、
劉備は愛馬「的驢」を贈って見送ります。
そうした行為に誠意を感じ、劉備の人徳に惚れた龐統は
前言を撤回して馬首を返し、ついに仕官することを決意しました。
劉備たちが荊州へ帰ると、諸葛亮(孔明)も荊州四郡の視察から戻り、龐統と対面。
実は隆中時代の旧友同士だった孔明と龐統。
龐統は、今まで「劉広」と偽名を名乗っていましたが、
ここでついに本名を明かします。
これで、伏竜の孔明、鳳雛(ほうすう)の龐統が、
2人とも劉備に仕えることになったわけです。
劉備軍は、いよいよ荊州から西蜀へ入るための準備を進めることになります。
さてさて、ここで舞台は北へ移ります。そのころ中原では・・・
曹操が、許都の北、かつて袁紹が治めていた鄴(ぎょう)に、
絢爛豪華な楼館「銅雀台」を建築、これが完成し、祝の宴が開かれるところでした。

曹操ファンの皆さん、お待たせしました(笑)。
46話以来、出番のなかった曹操陣営、久々の登場です。
その宴の席で、曹操は文官には賦(詩文)比べ、
武将には騎射比べを課し、その腕を競わせる大会を催します。
これには曹操の息子である、曹丕、曹彰、曹植の3人も参加しますが、
大勢の人々の目が集まるなかで行われる大会は、
自然、能力の優劣が出ますし、後継者争いの形勢にも影響してきます。
嫡男である曹丕は、なんとしても負けられないという意気込みで臨みますが、
詩文の才能では弟の曹植(そうしょく)にはるかに及ばないと分かっていますから
事前に司馬懿(しばい)や陳羣(ちんぐん)に題目を尋ねるなど、
万全の準備をして臨むことになります。
宴の当日、銅雀台に上った曹操は、その壮観さに満足します。
側近の程昱(ていいく)、許楮(きょちょ)らも久々の登場。
しかし、荀彧(じゅんいく)など、何人かの重臣の姿がありません。
実は曹操がこの宴を催したのは、自分の家臣たちが
どのような反応を見せるか観察するのが真の目的でした。
しかし、表向きにはそんな素振りは見せません。
美酒で乾杯をした後、騎射による武術大会が始まりました。

腕に覚えのある諸将が次々と矢を放つなか、曹彰は2本の矢を同時に放ち、
2本とも的に命中させ、曹操が用意した賞品「紅錦の羽織」を手にします。
次は詩文大会です。題目は「銅雀台」。
諸官が筆を進めるなか、最初に描き上げたのはやはり曹植でした。

曹植は酒を飲みながら悠々と筆を動かしていました。
そうそう、第4話のコメント欄で質問をいただいていました。
この銅製の酒器は「爵」(しゃく)というもので、
公式的な宴や祭礼に用いられたようです。
このドラマでも、普段の宴には木製や陶製の湯呑みなどが使われ、
ちゃんと使い分けている様子がわかります。
曹丕は諸官の大半が書き終えた後になってようやく提出します。
その結果、曹植は水の流れのように曹操をたたえる見事な詩を披露し、
諸人に感心されますが、長男の曹丕は献帝をたたえる
平凡な詩を披露し、不評を買ってしまいます。
曹操は曹植の詩に感心し、平原侯の官職を与えました。
その席で曹操は、天下統一の大計を語りますが、
自分が皇帝に取って代わるのか、あくまで漢の臣として振舞うのか、
どちらともとれる微妙な内容の演説でした。
宴が終わった後、曹植は酒を飲み、自分の功績におぼれます。
そのもとには諸官が、平原侯就任への祝いの言葉を述べにきます。
一方、曹丕のもとに来たのは司馬懿(しばい)、ただ一人でした。
不興を買ったことを悔やむ曹丕に対し、司馬懿はこう言います。
「弟君は一篇の賦で高い位を得ましたが、同時に天下を失いました」

荀彧(じゅんいく)ら、多くの大臣が欠席していた理由は、
献帝以上に権力を持ちすぎる曹操を支持せず、
漢室(献帝)への忠誠を誓う姿勢を示していたものです。
今日出席した者、とくに文官の多くは、曹操に諂う者ばかりであるといいます。
曹丕も、そうした空気を察してか、2つの賦をあらかじめ用意しており、
場の流れにしたがって漢室を称える賦を出したのですが、
司馬懿は、その内容は銅雀台に出席した者以外から
支持されるといい、彼の深謀を称えました。
さらに、彼の顔をじっとのぞき込み、「潜龍」(せんりゅう)と評しました。
不気味なまでの司馬懿の洞察力と雰囲気に、曹丕も圧倒されます。
賦はまずくとも、曹丕が計算して物事にあたることや、
時勢を読む目を持っていること、まだ本来の実力を見せていないことを、
司馬懿はちゃんと見抜いていました。自分に似て、才能を隠すのが巧みであると。
曹丕こそ曹操の後継者にふさわしいと、いよいよ確信した司馬懿は、
彼の師父になりたいと、曹操に願い出ます・・・。
【三国志の史跡シリーズ1】(河北省邯鄲市)
今回は、私がこの春に訪ねた三国志関連の遺跡を紹介したいと思います。
まずは今回登場した、銅雀台(どうじゃくだい)跡から。

銅雀台は、かつて袁紹の領地の首都だった鄴(ぎょう)城のそばに築かれました。
現在は「鄴城遺址」と名付けられ、そこに小高い丘が残っています。
実は「銅雀台」は、3つありまして、曹操は、
210年に鄴城の北側に銅雀台を、
213年に南側に金鳳台(当初は金虎台)を、
214年に銅雀台のさらに北側に冰井台(ひょうせいだい)を建造しました。
3つの台を建てたため、現在は「三台遺跡」と呼ばれます。
現在、観光地として残っているのは金鳳台のみ。
上の写真も金鳳台跡で、銅雀台跡より少し南にあります。
丘の上には小さな記念館があるだけで、それほど広くありませんが、
登ってみると、このドラマの映像とタブって当時の偉観が偲ばれました。

小さいながら公園化され、
入口には直径3mはある立派な曹操の石像が立っています。
河北省邯鄲市の安陽という駅からタクシーに乗り、30分ほどで到着しました。
2012年06月20日
こんばんは! 哲舟です。
今日から、第5部「奸雄終命」に入ります。
「赤壁の戦い」で孫・劉連合を勝利に導いた周瑜という大黒柱が倒れ、
物語は新たな局面を迎えます。
しかし、まだまだ、すんなり「三国」鼎立には行きません。
それは劉備や曹操の前に、新たな敵が立ちはだかるからなのですが・・・
ともあれ、今夜のストーリーを追っていきましょう。
周瑜は臨終の際、大都督の後任に魯粛を任命するように言い残しました。
そんな大任を引き受けることに戸惑う魯粛でしたが、
孫権に説得され、大都督の兵符を受け取ります。
魯粛は、周瑜の葬儀に参列し、涙ながらに弔辞を述べます。
「もし、引き換えにそなたの命を取り戻せるなら私は何百回死んでも構わない」
死んだ15年来の親友に、魯粛は尊敬の念をこめて泣き叫びます。
周りでは呂蒙、黄蓋、周泰ら、呉の重臣や将兵も泣き濡れています。
すると・・・突然、諸葛亮(孔明)が葬儀の場に現れました。
まるで、周瑜の死を待っていたかのような素早い行動です。
周瑜を死に追いやったのは孔明だと思っている呉の諸将。
剣を抜いて彼を斬ろうとしますが、魯粛がこれを制します。
孔明もまた、周瑜に対する、ありったけの思いを霊前で叫びます。
この面の皮の厚さ・・・。魯粛や呂蒙は素直に感心したようです。
しらじらしい・・・そう、わかってはいても、
あまりの迫真の演技に、呉の諸将も剣を取り落として、もらい泣きします。
孔明の涙は、確かに演技ではありますが、
自分と同時代を生きて覇権を競ったライバルに対しての
哀悼の意を表したことは本当で、半分は本気だったのではないでしょうか。
冷静さを取り戻した魯粛が孔明を慰めていると、
酒に酔っ払った男が、周瑜を侮辱する言葉を吐き、諸将の反感を買います。
その場を鎮めるため、魯粛は彼を追い出させますが、
孔明と魯粛には、彼が何者であるか分かっていました。
その名は龐統(ほうとう)。
以前、水鏡先生が劉備に述べた、
「伏竜、鳳雛のいずれかを得れば大業も成せる」と
言った言葉がありましたが、そのうちの伏竜は孔明、
鳳雛(ほうすう、鳳凰のヒナ)とは、この龐統のことでした。
天下の奇才が、ここで初登場となりました。
魯粛も孔明も、この人を長らく探していたのです。
・・・それにしても、周瑜の葬儀シーンはアッという間でしたね。
妻の小喬は、いったいどこへ行ってしまったのでしょうか・・・?
あとで呉国太のセリフに「残された妻子が・・・」とありましたが、
それが小喬なのか別の夫人なのか、分かりかねます。
乱世、人の死にいつまでも嘆き悲しんでいる暇はないとはいえ、
もう少し余韻に浸っても良かったように思えますし、
丁寧に描いて欲しかったなと思いました。
さて、町の酒場で、孔明は龐統を見つけ、一緒に酒を酌み交わします。
孔明は、龐統を味方に引き入れようと荊州へ誘いますが、
龐統は劉備に興味がなさそうです。
「劉備がどれだけ偉いというんだ。金も兵馬もないではないか」
ただ、ひたすらに孔明に酒を勧めます。
孔明と並び称された大賢人にもかかわらず、性格は正反対で、
こういう相当の変わり者なので、今まで誰も彼を召抱えることがなかったのです。
孔明の説得は失敗に終わり、今度は魯粛が龐統に接触。
魯粛はさっそく、孫権のもとへ彼を引っ張って行きます。
しかし、そこに居合わせた呉国太は、
龐統が霊前でさんざんに周瑜を罵ったことを知り、
「そんな者を召抱えてはなりません!」と猛反対。
孫権は母の顔色をうかがい、龐統との面会を先延ばしにしてしまいます。
そういえば、呉国太の年齢に対する御質問がありましたね。
生没年は不明なので、夫の孫堅と仮に同い年だとすると210年の時点で55歳。
それより10歳ぐらい下と考えると45歳。確かに年齢より老けて見えますが、
母親らしいキャラを出すための演出ではないかと思います。
・・・さて、龐統は、「周瑜を罵ったのは孫権の度量を試すためだった」として、
孫権が自分と会おうともしないことに見切りをつけ、呉を去ってしまいました。
龐統は、劉備の人物と様子を見るため、荊州へ渡ります。
このとき、劉備は人材を公募し、論文試験などを課していました。
高札を見た龐統は、「龍広」という偽名を使って
さっそく応募し、見事な論文を書いて
劉備を感心させますが、劉備は彼の外見が醜いために、
耒陽(らいよう)という、小さな町の県令に任じ、赴任させます。
それから百日が経ち、その「龍広」が
酒ばかり飲んで公務を投げ出していることを知った劉備は、
張飛と孫乾に、彼の様子を見に行かせることになりました。
珍しく官服を着込んだ張飛が県庁へ赴きます。
張飛と孫乾。付き合いが長いこともあって、仲が良さそうです。
なかなか良いコンビだと思いませんか?
そういえば、孫乾は関羽の千里行にも、劉備の婿入りにも同行していた人。
まさに名脇役といえましょう。
2人は耒陽に着くも、龐統はまだ登庁していませんでした。
憤った張飛が太鼓を叩くと、ようやく登庁してきます。
張飛に怠けっぷりをなじられた彼は、これまで溜まっていた
百日分の公文書を持ってこさせ、酒を飲みながら次々と片付けていき・・・
なんと半日ですべて終わらせてしまいました。
その仕事っぷりの正確さと手際の良さに、張飛も孫乾も目を見張ります。
張飛は彼を連れて帰ろうとしますが、龐統は荊州を去ると言って聞きません。
張飛からその報告を聞いた劉備は、自分の不明を恥じ、
妻の孫小妹との宴の約束も、息子の阿斗の病気の報告をも振り切り、
龐統の待つ耒陽(らいよう)へと急いでやってきますが・・・。
2012年06月19日
今夜の第57話をもって、4章「荊州争奪」の幕が下ります。
周瑜という英雄のひとりが死を迎え、物語は新たな展開を見せるのですが、
まずは、今夜のストーリーを追って行きましょう。
荊州を訪れた魯粛は、周瑜と程普が太守となったので、
南都、江夏を明け渡すよう、劉備と諸葛亮(孔明)に迫ります。
しかし、予想通り孔明は、南都も江夏も重要な拠点であって、
手放すことはできないと突っぱねました。
そこで魯粛は本題に入ります。
半年前に、劉備軍が他の土地を奪れば
荊州を孫権に譲ると約束したことを持ち出し、早く挙兵するよう催促。
しかし、劉備も孔明も、曹操の領地は兵力が強大で、
西蜀には親族の劉璋(りゅうしょう)が治める土地だから攻められぬといいます。
「荊州は返さないよ」
「南郡も江夏も渡さないよ」
「西蜀を取るには5年かかるよ」
この劉備陣営の理不尽な態度。魯粛も強い態度で臨みます。
魯粛は、ついに切り札を出し、孫権軍(孫呉)が代わりに
西蜀を攻略することで、荊州と交換しようという周瑜発案の取引を持ちかけます。
孔明も、それを呑まざるを得ませんでした。
劉備は、西蜀を周瑜に先に奪られてしまうことを心配しますが・・・
ただ、孔明はその後に送られてきた周瑜の書状を
つぶさに読み、その計略を見抜きました。
すなわち、西蜀攻略は見せかけで、その真の狙いは荊州であると。
孔明は養っていた8万の兵を総動員、孫呉軍を迎撃する体勢を整えます・・・。

一方、柴桑(さいそう)を出陣しようとする周瑜。
周瑜の病は重く、すでに自分では馬に乗れないほどに衰弱していました。
呂蒙の肩を借りて乗馬した周瑜は、死力を振り絞って兵を鼓舞します。
ここにいたり、今まで意見を違えていた魯粛も、周瑜の計画遂行のため
尽力することを既に決めています。孫呉がひとつにまとまった瞬間でしょう。

そして、襄陽の城を前にした周瑜の軍勢は、総攻撃に移りました。
が、劉備軍は孔明の布陣によって、万全の備えで待ちかまえており、
城を中心にして、関羽、張飛、趙雲の軍が三方から襲来。
周瑜、身命を賭して臨んだ戦いでしたが、
5万の兵のうちの3割を失う大敗を喫してしまいます。
夜、陣営に横たわる周瑜のもとに、孔明からの書状が届きます。
内容は、周瑜の策を見抜いていたことや、
それに対する批判と皮肉に満ちたものでした。
側近の呂蒙は、残った3万の兵で再度攻撃をしかけるよう提言しますが、
周瑜は勝ち目は薄いとみて、後のことを考え、
兵を温存して江東へ引き返すことを命じます。
帰路、最後の力を振り絞って馬車を出た周瑜は、荊州城を眺めました。
曹仁を追い払い、一度は手にする寸前まで行きながら、
劉備軍に先を越されてしまった、自らの失策を改めて責めます・・・。

「呉の旗が荊州城に翻ることを、私が目にすることはあるまいな」
孔明の才に、自分が及ばなかったことを嘆き、虚しく笑いました。
その後、なんとか江東へ辿りつき、床に伏した周瑜。
そこへ孫権が見舞いに訪れます。
もはや身を起こすこともできなくなった周瑜。
先君、孫策との約束を果たせなかったこと、
孫権に対して、今まで礼を失する言動をしてきたことを詫びます。
周瑜は、自分が軍中で尊大に振舞ってきたことを自覚していました。
そのために、孫権自身の力が周りに侮られることも・・・。
しかし、それは孫呉の重鎮たちを抑える目的もあったのです。
江東という土地は、もともと豪族の力が強く、孫権が跡を継いだばかりの頃は
彼を軽んじる部下たちも少なくなく、苦労が絶えませんでした。
そういう空気を変えたのが、先代からの一番の功労者・周瑜でした。
江東は、豊かな土地といえども辺境・・・。
曹操、孫権は希代の大物であり、いわば虎のような存在。
彼らと共に生きねばならないことを孫権に強く自覚するよう、周瑜は助言します。
「もし、そなたに何かあれば、誰が大都督を引き継げよう・・・?」
孫権は周瑜の意を十分に汲んだうえで尋ねます。
「ひとり、おります。私より道理を知り、私より才があり、
私より徳が高い・・・江東の柱になり得る者が」
「誰だ?」
「・・・魯子敬。魯粛を大都督にお任じください」
その言葉を聞き、孫権も魯粛に跡を継がせることをすぐに承諾しました。
そうして話をする間にも、周瑜の命の灯火は、
ますます細くなっていき、いよいよ別れの時が迫ってきました。

「口惜しい・・・。天はこの周瑜を生みながら、なぜ諸葛亮も生んだのか!」
そう声を絞り出したきり、周瑜は二度と口を開くことはなくなりました。
ときに西暦210年。
享年36歳。「江東の美周郎」は、波乱に満ちた短い生涯を終えたのです。
茫然とたたずんでいた孫権は、意を決したようにそのまま魯粛の屋敷を訪ね、
出迎えた彼に、周瑜の死を伝えます。

手にしていた書簡を取り落とし、膝から崩れ落ちて嘆く魯粛。
「まさか、然様な・・・。当代の名将がこんなに早く亡くなるとは・・・」
天の非道を嘆く魯粛。
周瑜と親友でもあった魯粛は、その友の死に、悲しみを隠せません。
魯粛を助け起こした孫権は、周瑜の遺言を伝えます。
「魯粛を大都督にお任じください・・・」
その言葉を聞いた魯粛は、驚きの表情を浮かべるのでした・・・。
【このひとに注目!】

◆呂蒙(りょもう) 178~220年
本作においては、周瑜の愛弟子として常に側におり、孫権とともに周瑜の最期を看取った。史実でも孫策の代から仕え、これ以後、孫呉の屋台骨を支える将軍として大活躍する。
正史のエピソードより。若い頃は武勇一辺倒の人物で、教養は全くといってよいほど無かった。そのために孫権から勉学に励むよう諭されると、以後は猛勉強に励み、儒学者にも勝るほどの学識を身につけたという。あるとき、魯粛が呂蒙の軍営を訪ねたとき、以前とは比べ物にならないほど学と教養を身に付けていたので驚き、「呉下の阿蒙にあらず」(もう、呉にいくらでもいる、昔のような蒙ちゃんではないな)と評した。
それに対して呂蒙は「士別れて三日、すなわち更に刮目して相待すべし」(男子たるもの、三日も会わなければ、新たなものをみるように対面すべきです)と言ったという。
2012年06月18日
また土日の2日間、ご無沙汰でした。
さて、孫権の妹・孫小妹(そんしょうめい)との婚礼を済ませ、
彼女をともなって江東を脱出しようとした劉備一行に、
周瑜が派遣した追手が迫ります。

追手は、徐盛、丁奉の2将軍が率いてきました。
彼らは劉備一行を捕えて連れ戻すためにきたのですが、
小妹の一喝で、2将は何もすることができず、一行を通します。
さすがに主君の妹に手出しはできません。
無事に逃げ延びたと思いきや、今度は周瑜の本軍が追ってきます。
さすがにもう打つ手がなく、劉備も覚悟を決めて
江東へ引き返そうとしますが・・・
そこへ、諸葛亮(孔明)から派遣された、
黄忠と魏延の軍勢が現れ、迫る周瑜軍に矢を浴びせ掛けました。
劉備に逃げられ、野望潰えた周瑜・・・。
それ以上は手出しできず、劉備たちが逃げ去るのを
黙って見送るしかありませんでした。

さらに、船上から劉備軍に散々に罵りの言葉を浴びせられます。
「周朗の妙計、天下を安んず。妻を失い、また兵をくじく!」
周瑜を怒らせ、逆上させて命を削ろうとする孔明の策。
それにハマった周瑜は怒りのあまり傷口が破れ、2度にわたって吐血。
気を失ってしまいました。
こうして、劉備は、まんまと荊州への帰還を果たすのです。

・・・しかし、この場面の展開、ちょっと分かりにくかったですね。
周瑜の軍は、映像ではきちんと武装もしていたように見えますが、
黄忠、魏延の兵は、周瑜軍よりもよほどの大軍だったのでしょうか?
そうでなくては、周瑜が追撃を諦める意味がわかりません。
たしかに孫権軍は今、まとまりを欠いています。
周瑜がすぐに動かせたのは、わずかな兵だけだったと
見た方が自然かもしれません。
原作では、ここでは孔明が自ら兵を連れて助けに現れ、
関羽や黄忠の軍勢を伏兵において、やはり周瑜の軍を撃破するのですが、
本作(ドラマ)においては、ちょっと呆気なさすぎる描写でしたね。
ただでさえ、孔明の引き立て役にされている不憫な周瑜が、
ますます不憫に思えてなりませんです。
・・・さて、そのころ襄陽 (荊州城)では、
関羽と張飛が、孔明に詰め寄っていました。
まだ劉備が脱出した知らせは届いていません。

「兵を出して主君を救いに行く!」と言い張る両者を、
孔明はこれまで幾度となく諌めてきましたが、それも限界がきているようです。
前半でも孔明が話していたように、このとき劉備軍には
意見の対立から来る派閥が生じていました。
ちょうど、孫権軍でも周瑜と魯粛が意見を異にするのと同様。
どの組織も、一枚岩というわけには、なかなかいきません。
孔明は荊州に長く住んでいたこともあって、
荊州獲得後に召抱えた人材を重用していました。
黄忠、魏延、馬謖、馬良などです。
彼らは軍の中では自分より後輩で、扱いやすいということもあるでしょう。
それに対し、関羽、張飛、関平、周倉、簡雍など
古くから劉備に仕え、北方から来た人材はなかなか孔明の言うことを聞きませんし、
孔明のほうも扱いにくいがために、重用しなかったフシがあります。
そうした不満が、ここでついに爆発し、
あわや劉備軍崩壊の危機を迎えてしまったのです。
劉備が不在というだけでこの有様。彼の存在の大きさが分かります。
関羽、張飛が古参の兵1万を引き連れて出兵しようとしたとき、
劉備の帰還を知らせる報告が入りました。
そうと知るや、喜び勇んで迎えに出る関羽、張飛。
しかし、孔明は涙を流し、その場にへたり込んでしまいます・・・。

再会を喜び合う三兄弟。
兄弟が離れ離れになったのは、呂布軍に蹴散らされたとき(第17話)、
曹操に夜襲をかけるも読まれて敗れたとき(第22話)に続いて、
これで3度目となりますが、兄弟たちはその度に苦難を乗り越え、
こうして再会を果たしてきました。しかし、今回は前回までとは事情が違います。
「なぜ孔明がおらぬ?」と不思議がる劉備。
3人は、あわてて城内へ駆け込みますが、孔明の姿はそこにありませんでした。
すぐに事態を察し、2人を叱責する劉備。
関羽、張飛はすぐさま後を追いかけ、孔明を連れ戻しに行きます。
「軍師殿、我々が間違っていた」と跪き、頭を下げる2人。
しかし、孔明は「この心はすでに死んだも同然」といって船で立ち去ろうとしました。

許してくれないと見た2人は、なんと孔明を神輿のように担いで、
屋敷へ連れ帰ってしまいます。
「そなたたちとはもはや無縁なのだ!」
叫ぶ孔明を屋敷に戻した関羽・張飛ですが、孔明は口もきいてくれず、
門の前で許しを乞うため衛兵のように立ち尽くすばかりでした。
劉備は孔明のもとへ行き、2人を許してくれるよう頼みます。
しかし、孔明は、すでにそんなことは気にしていませんでした。
劉備軍が今後の大事をなすためには、
関羽・張飛の気性を改める必要があると劉備に訴えます。
2人の性格については、正史『三国志』にも、ちゃんと記述があります。
関羽は武勇ばかりでなく学があって知恵者でもあり、
一度は曹操に降りながらも終生劉備に仕えているように
非常に忠義に篤い人物ですが、「人を見下す」という欠点がありました。
部下の将軍や兵士には優しいのですが、
身分の高い人を敬わず、非常に傲慢な一面があったのです。
張飛は関羽とは逆に、自分よりも偉い人は尊敬し、礼を尽くしますが、
部下の将兵に厳しく、しょっちゅう体罰を行うという粗暴な面がありました。
先日も書いたように、2人の武勇は敵国にまで知れ渡り、
恐れられるほどでしたが、性格ばかりは如何ともしがたかった模様です。
とくに孔明は、根は素直な張飛よりも関羽の傲慢さを問題視。
劉備も2人の性格は知り抜いているのですが・・・。

そのころ、江東では孫権、周瑜、魯粛、呂蒙が今後の対策を練っていました。
一時、任を解かれていた魯粛も、すでに許しを得て元のポストに戻ったようです。
孫権と周瑜は、劉備が今後も荊州を譲る気がないであろうと見て、
許都の曹操のもとにいる献帝に対し、
劉備を徐州牧に任じるよう要請する手段を考えつきます。
孫・劉同盟健在となれば、曹操への牽制にもなるためです。
曹操はそれを認め、劉備を徐州牧に任じるだけでなく、
周瑜を南郡太守に、程普を江夏太守に任じる勅書を朝廷から出させました。
孫権軍の周瑜と程普を、劉備が治める土地の太守に任じることで、
劉・孫同盟に亀裂を生じさせようとの企み。さすがに曹操は狡猾です。
そのうえで周瑜は、次の一手を打ちます。
荊州を返す気がない劉備に西蜀を早く奪るよう促し、
すぐに出兵ができないのならば、孫呉の兵が力を貸すと申し出るのです。
しかし、それは見せかけの方策で、西蜀を奪りに行くと見せかけて、
進路を変えて荊州を攻め、一気に劉備を討つという策を講じます。
周瑜の依頼を受けた魯粛は、もう何度目となるでしょうか、
またも荊州を訪れ、劉備と孔明と面会します。
魯粛は、朝廷から南郡太守に任じられた周瑜、江夏太守に任じられた程普の
両名が任地へ赴くため、その土地から立ち退いてほしいと切り出します・・・。
さて、孔明と劉備はどう対抗するのでしょうか?
【このひとに注目!】

◆周瑜(しゅうゆ)
三国志「正史」のエピソードを紹介。孫権の兄、孫策とは幼なじみで、同い年の両者は「断金」(金属をも断つ)と評されるほどの篤い親交を結んでいた。孫策の死後、その弟の孫権を補佐。孫権は周瑜を兄として尊敬し、周瑜もまた率先して孫権を敬ったため、周囲の人もそれに習うようになった。かねてより、曹操と中華を二分して天下を争う壮大な計画を抱いていた。
見事な風采をしており、「美周郎」と評された。性格は寛大で、人心を掴むことが得意だった。また、音楽にも精通しており、宴会の席でどんなに酔っていても曲の間違いに気づいたため、「曲に誤りあれば周郎が振り向く」と噂されたという。小説・三国志演義や、それをもとに制作された本作では、孔明に翻弄されてばかりの彼だが、それは史実を離れ、脚色されて貶められた部分である。「正史」には孔明と直接対立したり、才能に嫉妬するような描写はない。