第61話~第65話
2012年06月29日
さて、今日の話に行く前に、ひとつお知らせです。
来週は、放送スケジュールの変更により1日だけ休みがあります。
ブログの最後に詳細をお知らせしますので、お見逃しなきよう!
さて、益州へ向かった劉備を、主の劉璋(りゅうしょう)が
自ら出迎えに来ました。涪城(ふうじょう)で対面した両者は、
さっそく酒宴を開き、親交を深めます。

劉備には、劉璋の使者ながら、すでに劉備に心服している
文官の法正(ほうせい)が同行していました。
その法正と、龐統(ほうとう)は、
この機に劉璋を捕えて人質にするか殺すかすれば、
そのまま成都に攻め入って益州全土を手に出来る、と劉備に勧めます。
しかし、劉備はそんな2人に不快感を示して、叱り飛ばしました。
確かに法正、龐統の勧めに従い、この機に乗じれば、
最小限の被害で益州を奪うことができたかもしれません。
逆に、この機会を逃せば、益州を得るには多くの兵や時間が必要となり、
また犠牲も払うことになります。

どちらが正しいのかはわかりませんが、やはり劉備は仁義を重んじます。
良くも悪くも、劉備は徐州の頃から変わっていません。
龐統はひそかに行動に出ることにし、
宴の席で剣舞を披露するよう、魏延に言い含めます。
そのまま、「どさくさに紛れて劉璋を刺してしまえ」というのです。
指示通り、頃合いを見て剣舞を行う魏延ですが、その剣先は殺気に満ちています。
危険を察した劉璋の護衛・張任(ちょうじん)が、
「お相手を仕る」といって邪魔に入ります。
すると、両陣営の武将たちが次々と出てきて、剣をぶつけ合う事態に。
殺伐となった空気を不快に感じた劉備は、
「鴻門の会にはあらず」と、ただちにそれを止めさせます。
ここで劉備の言った「鴻門(こうもん)の会」とは、これより約400年前、
紀元前200年ごろの項羽と劉邦の時代の故事を言っているのですが、
長くなるので説明は割愛します。ご興味のある方は調べてみてください。
その後、葭萌関(かぼうかん)に、
張魯と馬超の軍勢が攻め寄せてきたとの報が入り、
張任の勧めで、劉璋はこれをさっそく劉備に防いでもらうことにします。
依頼通り、まっすぐ葭萌関に向かった劉備軍。
その様子を聞いた劉璋は、
劉備にますます信頼を寄せるようになるのですが・・・。
さて、ここで舞台は江東へ移ります。
その頃、柴桑(さいそう)では、孫権とその配下たちが軍議を開いていました。
劉備が益州に向かった今、荊州は兵力が手薄となり
まさに攻め込む絶好の機会と、程普(ていふ)が進言したのです。
しかし、呂蒙(りょもう)は、これに異を唱えます。
荊州には孫権の妹・小妹(しょうめい)がいるため、
孫権・劉備は親族の間柄。これを攻めることは仁義に反することになりますし、
母の呉国太がお許しにならぬといいます。
ただ孫権は、劉備が益州を得た場合でも、
荊州はおそらく孫権のもとへは戻ってこず、
脅威はますます増大すると考え、危機感を募らせています。

軍議の席には、大都督・魯粛(ろしゅく)の姿が見えませんでした。
魯粛はこのところ病がちで、健康を崩していたのです。
孫権は、今後の相談も兼ねて自ら魯粛を見舞いました。
魯粛は改めての忠誠と、最後のひと働きを誓います。

翌日、公の場に出た魯粛は、孫権から預かった書状を手に
呂蒙を副都督に任命し、呉の水軍を率いるよう命じます。
孫権陣営は、そのうえで別の手を打ち、
荊州を攻めるための障害である小妹を江東に戻らせる策を実行します。
ほどなく、荊州にいる小妹に「母の呉国太が重篤」という知らせが届きました。
書状を受け取った小妹は、母の危機に不安を募らせ、
江東に戻ろうと、息子(養子)の阿斗を連れて出ていきました。
これまで諸葛亮(孔明)に書状を握りつぶされていた小妹は、
部下の周善(しゅうぜん)の勧め通り、黙って江東へ向かおうとしたのです。
それを知った孔明は、趙雲(ちょううん)に追跡を命じます。
追いついた趙雲は、護衛をつとめる江東の兵を倒し、小妹の馬車をとめました。
小妹は、馬車に迫る趙雲を叱りつけて帰そうとしますが、
さすがは趙雲、小妹の一喝にもひるみません。

大事な劉備の跡取り息子を、江東へ連れて行かれてしまってはたまりません。
それに、面倒をみているとはいえ、阿斗は小妹の子ではなく、
劉備の前の奥方・甘夫人の子ですし、
趙雲は長坂坡でこの子を命がけで救ったこともありますから、
彼にとっても、掌中の珠に似た思い入れのある子供なのです。

小妹には武装した侍女たちが護衛をしていますが、
彼女たちが束になろうと当然趙雲には敵わず、
青釭の剣で、全員手にしていた武器の刃を斬られてしまいました。
小妹がひるんだ隙を見て趙雲は阿斗を取り返します。

小妹の護衛をつとめる周善(江東の将)は、
同じく追いついてきた張飛に斬られ、窮した小妹は自害しようとします。
自害されてしまってはまずい、と、
張飛・趙雲は、阿斗を取り返しただけでも良しとして戻ります。
こうして、小妹は江東へ帰ってしまいました。
最近、小妹は劉備の寵愛を受けていませんでした。
こうした伏線もあって、彼女はあっさり帰ってしまったのかもしれません。
さて、そのころ益州では・・・。
劉備が涪城(ふうじょう)に戻ってきていました。
劉備の出陣を知った張魯は戦いに及ぶことなく退却したため、
血を流すことなく、一定の戦果をあげたことになります。
しかし、龐統の知らせによれば、
劉璋から送られてくる兵糧が段々減ってきているとのことです。
おそらく劉璋は、劉備を長く蜀に留まらせないために
そうしているのだろうと龐統は読みます。
劉備は、それならば事を荒立てる前に荊州へ帰ろうといいますが・・・
そこへ、「小妹が江東へ去った」という知らせがもたらされました。
「私は戦に生きる男だが、妻は夢に生きる女だった」
劉備は若い妻との束の間のひとときを懐かしく思い出し、珍しく大酔します。
劉備には、分かっていました。もはや小妹が戻らないであろうことも・・・。
しかし、これで孫権との血縁関係も消滅し、江東の存在も驚異となります。
事態は深刻。この後の行動如何で戦局は大きく変わるでしょう。
そこで龐統は劉備に「上中下」、三つの策を献じました。
上・黄忠と魏延に2万の兵を率いさせ成都(益州の都)に夜襲をかける
中・荊州へ凱旋すると見せかけ、雒城(らくじょう)を足場にして成都をとる
下・白帝城へ退き、荊州へ引き揚げる
いずれもリスクを伴うため、もう少し考えてから答えを出したいと言う劉備。
しかし、龐統は事態は急であるとして、答えを促します。
劉備は、ここで初めて
「蜀をとりたいと思う気持ちは誰にも負けん」との、本音を明かすのですが、
彼の胸のうちは、いかに・・・。
<放送スケジュールの変更について>
7月4日(水)、ビーチバレーの試合生中継のため
『三国志 Three Kingdoms』の放映は休止となり、
予定していた第68話の放映が翌日にずれます。
つきましては、来週の放送予定は以下となります。何卒ご了承ください。
・7月2日(月)第66話「落鳳坡」
・7月3日(火)第67話「劉備、益州を領す」
・7月4日(水)放送休止
・7月5日(木)第68話「単刀会」
・7月6日(金)第69話「曹丕、乱を平らぐ」
それでは、みなさん。また来週!
2012年06月28日
皆さん、こんばんは! 哲舟です。うっかり、忘れてしまっておりましたが、
昨日6月27日、
三国志Three Kingdoms ブルーレイ版
vol.7 漢朝落日 & vol.8 天下三分 & vol.9
危急存亡の3本が一挙発売となりました!
Cinemartなどでお求めになれますので、ぜひご覧ください。
さてさて、荊州に立ち寄り、劉備たちから熱烈な歓待を受けた
益州の謀臣・張松(ちょうしょう)は、気持ち良く酔っ払い気持ち良く目覚めました。
目覚めれば、またすぐに宴です。こうして、もう数日も宴が続いているとか。
連日、そんなに飲んでばかりで大丈夫なのかという気もします。
少なくとも私は、身体がもちそうにありません(笑)。
「妻子とはいつでも会えるが、そなたは千里の道を来て
年に幾たび会えるか分かりません。さ、飲みましょうぞ」
劉備はこう言って、妻・小妹(しょうめい)の呼び出しにも応じず、
張松と酒を酌み交わし続けます。
以前、龐統(ほうとう)に会いに行ったときも、
劉備は妻との約束を反故にしてまで、彼との面会を優先しました。
こうしたことが、次回の話の展開につながってくるわけですが・・・。
なんといっても一国の主ですから、劉備が身内の用事よりも
公事を優先するのは当然です。
小妹は、夫の立場をわかっていないとしか思えず、
些細なことで夫の足を引っ張る駄目妻であると、私も思います。
また個人的な感想めいたことになってしまいますが、
劉備に嫁いでからの孫小妹の出番、不自然なまでに少ないですよね。
赤壁の陣中で、蒋幹を歓待した小喬(周瑜の妻)とは
ずいぶんと扱いが違うような気がします。
俳優側の時間の事情もあるのかもしれませんが、
キャスティングした以上、こうやって名前だけ出すのではなく、
しっかりと出番を与えてあげて欲しかったように感じました。
ちらっとでも映してくれれば、また印象は違うものになったでしょう。
・・・ともかく、こうした連日の接待や、
劉備の人徳に感じ入った張松は、西蜀(益州)の窮状を訴えはじめます。
張松は、劉備こそが西蜀を治めるにたる新たな君主だと確信。
彼はそのために、地元を離れて遠い中原や荊州まで来たわけです。
かねてから用意していた地図を献上したいと申し出ますが、
それは、つまり劉璋(りゅうしょう)の領土を騙し取ることを意味するわけで、
劉備は固辞し、地図を受け取ろうとするどころか見ようともしません。
諸葛亮(孔明)や龐統は、劉備に益州を譲ってもらうように勧めますが、
それでも劉備は聞く耳をもたず、退席してしまいます。
困り切った張松は、龐統の助言を受けて益州へ帰ります。
そして劉璋に会うと、曹操の無礼な態度や野望をはじめ、
劉備の誠意ある態度を報告。そのうえで、
劉備を西蜀に迎え入れて、張魯に対抗しようと劉璋を説得します。
しかし、西蜀には忠臣もいました。
李厳(りげん・右)、黄権(こうけん・左)の2人です。
この2人は「劉備を迎え入れては、西蜀は劉備に奪われてしまう」と、
張松の狙いを見抜き、反対します。
しかし張松は、李厳や黄権こそ
張魯と誼を通じていると反撃し、劉璋に危機を訴えます。
張松の言葉に心動かされた劉璋は法正(ほうせい)を使者として派遣し、
劉備のところに派遣することにします。
法正は前回登場した、張松と心を同じくする文官。
物資・兵糧は、益州のほうですべて用意して
劉備を迎え入れる用意があるとまでいいます。
法正を迎え入れた劉備は、益州に入って張魯を追い払い、
戦火から救うことには同意しますが、
そのまま土地を奪うことに対しては、やはり難色を示します。
その夜、煮え切らない劉備の態度に苛立って酒を飲む
関羽と張飛のもとへ行き、ともに酌み交わす龐統。
劉備とて、益州は喉から手が出るほど欲しいはずです。
彼がもっとも恐れるのは、益州の忠臣や民らの反発です。
だまし討ちのような形で奪っては、やり方が曹操と同じであって、
天下の謗りはまぬがれません。
龐統は、劉備の胸の内をこう明かし、2人を納得させます。
猛将として天下に鳴らす関羽・張飛・趙雲は荊州に残って欲しいといい、
まだ無名の黄忠や魏延が益州まで劉備の供をする方針を話します。
この2人、天才肌の軍師・孔明とは気が合いませんが、
酒好きで歯に衣着せぬ物言いをするタイプの軍師・龐統とは、
気が合うようで、心服している様子がうかがえます。
かくして、劉備は龐統、黄忠、魏延らの将とともに
3万の兵を連れて出発しました。
「我が意は定まった」
劉璋は、李厳や黄権の反対を退けると、
張松の勧めを受け、みずから劉備を出迎えに行くことを決めます。
黄権はその袖にすがりつき、噛んでまで諌めようとしますが、
劉璋はそれを振り切ったために、前歯が折れてしまいました。
城門まで来ると、忠臣のひとり、王累(おうるい)がその上から劉璋を諫めますが、
聞き入れられぬと知るや、自害して飛び降りてしまいました。
忠臣たちが劉璋をここまでして止めるのは、もちろん劉備を恐れているからです。
劉備はなんといっても、曹操や孫権と肩を並べる油断ならぬ人物。
もし、蜀に入れてしまえば国が奪われることは明白だし、
下手をすれば、劉璋は迎えに出た先で暗殺されるかもしれません。
彼らは忠臣として、涙ぐましい努力で主君を諌めようとしているのです。
しかし、やはり劉璋は聞き入れず、
劉備を迎え入れるため涪城(ふうじょう)へと赴いていきます。
劉備軍を警戒する黄権は、劉璋を護衛する将軍の張任(ちょうじん)に、
兵3千では心もとないため、3万を率いて行くように指示します・・・。
【このひとに注目!】
◆王累(おうるい)
城門の上で出迎えを諌める忠臣。出番はこれ限りだが、忠臣の鑑ともいえる行動から、三国志ファンの間での人気は高い。正史・演義・本作ではその死に方が、若干異なっている。
・本作…城門の上に立って首を掻き切った後、そのまま落ちて諫死。
・三国志演義(原作小説)…城門に逆さ吊りとなって劉璋を諫めるが、聞き入れられなかったため、嘆きの言葉を叫んで自ら縄を切り、落下死。(一番派手な死に方)
・三国志正史…城門に自分の身体を逆さ吊りにして諌めるも聞き入れられなかった。(死んだかどうかまでは書かれていないが、『華陽国志』という史料にはその後降りて門前で首を掻き切って自決したとある)
2012年06月27日
曹操の「離間の計」にかかり、韓遂が敵に内通していると疑った馬超は、
その配下の将に槍を向け、仲間割れを起こしてしまいます。

曹操軍の矢に狙われて落馬した馬超を、韓遂が助け起こしに来ますが、
馬超はそれでも疑いを解かず、韓遂の腕を斬り落としてしまいました。

大将同士の仲間割れで、大混乱に陥る西涼軍。
20万の大軍も、このように指揮系統が乱れては烏合の衆です。
その隙に出陣した曹操軍にさんざんに蹴散らされ、
進退きわまった馬超は5万の兵とともに退却し、
南方の漢中にいる張魯(ちょうろ)の土地へと逃れていきました。
211年、渭水の戦いはこうして曹操軍の勝利で幕を閉じ、
曹操は西涼にまで、その侵略の手をのばすに至ります。
さて、ここで場面はうって変わって平和な音楽とともに、
西蜀(益州)の成都へと移ります。
現在の四川省にあたる、中国の南西部にある地方です。
馬超たちを「第4の勢力」とするなら、
ここ益州のあるじ、劉璋も「第5の勢力」といえるほど
広大な土地や兵を持っているのですが・・・

しかし、彼は連日、美人画を描くなど遊興にふけるばかりで覇気に欠けていました。
状況は緊迫しています。
ここは、諸葛亮(孔明)が劉備に獲らせようと狙っている土地であり、
曹操に敗れた馬超を味方につけた張魯もまた、曹操に対抗するため、
益州を手に入れようと考えているといいます。
そうした状況下、にわかに周辺が慌ただしくなってきているこのときにも、
絵画に没頭する劉璋は、まるで状況が呑みこめていません。
せっかくの要害の地も、これでは曹操や張魯に、
いつ攻め取られるか分かったものではない・・・。

しかし、どこの土地にも賢人はいるもので、
ここでは、張松(ちょうしょう)と、法正(ほうせい)という2人の家臣が、
益州の前途を憂い、劉璋の代わりにこの地を治めるにふさわしい
主君を外部から呼び寄せようと画策するのです。
志を同じくする2人ですが、その迎え入れようとする人選は違いました。
法正は劉備を、張松は曹操を迎え入れようと主張します。
その結果、いまだ進退の危うい劉備よりも、
すでに中国の北半分を制圧している曹操を頼るほうが得策ということで、
張松は、曹操に会うため許都をめざして出発します。
さて、許都へ到着した張松ですが、
曹操は彼に会おうともせず、数日の間、放置を決め込みます。
曹操は、朝貢を怠っていた劉璋を諸侯の一人とさえ認めていないようです。
都から遠い西の果て。そこから来た田舎者と見たのでしょう。
6日間も待たされ、しかも門番に賄賂まで渡して
ようやく曹操への目通りがかなった張松ですが、
曹操は肩肘をついて迎え、わざと名前を呼び間違えるなど横柄な態度をとります。

それでも、あくまで一国の特使としてふるまう張松。
自身の負け戦ばかりを挙げる彼に対し、曹操は激怒して張松を斬ろうとします。
曹操も当然、張松に対してわざと無礼な態度をとったのですが、
それは、劉璋が曹操に張魯を討たせようという魂胆と見たからだと
説明されていました。珍しく、曹操の判断ミスだったといえるでしょう。
張松を丁重に迎えておけば、あるいは益州と手を組んで、
張魯を討つことができ、そのまま益州を奪うことができたかもしれません。
人を見る目は確かなはずの曹操が、こんなに露骨な態度を取ったのは
ちょっと不自然なようにも感じられますが・・・
でも実は、詳細は不明ながら、
張松が曹操に冷たくあしらわれたために腹を立て、
劉備を頼ることになった記録は、『正史』にもありまして、
事実だったようです。
どんな人間にも相性というものがあり、
曹操は、張松とはそれが合わなかったのかもしれません。
ドラマでは、このとき曹操のそばに居たのは何故か程昱と楊修だけでしたが、
もし、荀彧や司馬懿が居れば、どんな助言をしたのか気になります。
完全な見込み違いだったと後悔して帰途につく張松は、
いつしか荊州の近くまで来ていました。

そこでは、なぜか龐統(ほうとう)、関羽、張飛が待っていました。
張松の動きを察知していた劉備陣営は、
彼を迎えて荊州へ連れ帰ることに成功したのです。
なんともタイミングの良すぎる出迎えという気もしますが・・・(笑)。
曹操とはうって変わり、劉備たちの丁重な出迎えに、張松は感激。
曹操を英雄と見た自分の目が間違っていたことを認め、
劉備たちと酒を酌み交わすうち、その人物に惹かれていきます。
すべて孔明の計算通り・・・といった幕引きでした。
※いつも多数のコメントや拍手ありがとうございます。
過去の記事にまでさかのぼってコメント・感想を
いただける方もいらして、本当に励まされています。
※杏仁酥(あんにんすう)が何処に売っているか、とお問合せをいただきました。
本来ならお教えしたいところなのですが、こういう公式のブログでは
具体的にお答えするのが難しいです(笑)。
しかし、杏仁酥はそれほど特別な物ではなく、今は一般的な中華菓子ですから、
中華街の大きな飲食店のお土産コーナーやお菓子の店に行けば、
たいてい月餅や肉まんなどと一緒に、普通に売っています。
もし分からなければ、店員さんに聞いてみてくださいね。
2012年06月26日
西暦211年、中原より、やや西で行われた渭水(いすい)の戦い。
父を殺され、怒りに燃える馬超が曹操に戦いを挑みました。

馬超(ばちょう)、字は孟起(もうき)。
「錦馬超」と、うたわれるほど武勇の誉れ高い猛将で、
その名前は遠い西蜀の国や異民族の土地にも轟き、恐れられていました。
曹操の陣中からは、于禁(うきん)が飛びだし、馬超と槍を合わせます。
于禁は「赤壁の戦い」で水軍都督を務めた将軍で、なかなかの使い手ですが、
馬超の猛攻に耐え切れず、馬を傷つけられて落馬してしまいました。
于禁が敗れると、今度は張郃(ちょうこう)が、馬超に挑みました。
もともとは袁紹に仕えていた将で、ドラマでは描かれませんでしたが、
張遼と互角に戦ったことがある猛将。今回が初登場となります。

息詰まる好勝負を演じていましたが、わずかに馬超の武勇が勝り、
張郃はバランスを崩して落馬し、起き上がれなくなりました。
二将を撃破し、勢いを得た馬超軍は奇声をあげて総攻撃に移ります。
菓子を口にするなど余裕を見せていた曹操ですが、
味方は馬超軍の激しい攻撃を支え切れなくなり、慌てて撤退に移ります。
駕籠を捨て、自らも馬に乗って退却する羽目になった曹操。
目立ってしまうために赤い羽織を捨て、長いヒゲを切り落とし、
短くなったヒゲを布で覆い隠し、忍者のような覆面姿になって逃亡を続けます。

それでも、追いすがってきた馬超に危うく討たれそうになりますが、
護衛の許褚(きょちょ)が防戦し、なんとか逃げ延びることができました。
馬超率いる西涼軍の将兵は力が強く、馬の扱いに長けているため、
勢いに乗せると手がつけられません。
その強さを身をもって知った曹操は、自陣に戻って対策を練ります。
弓で攻めたり、鈎鎌鎗(こうれんそう)という
鎌のついた槍を使って馬の足を絡ませたりする方法を
諸将が提案しますが、いずれも有効な策とはいえません。
そこで、徐晃が河の向こうに回って敵の背後をつく戦法を提案、曹操も採用します。
その間にも、韓遂の軍が馬超軍に合流するなど、
西涼軍はますます兵力が増強されていきます。
曹操は、わざわざ討伐に行かずとも、この戦いで
西涼軍を討ち滅ぼす好機が来たと言って諸将を励まし、進軍を再開。
曹操は渭水をわたり、陣城を築こうと木材を運ばせますが、
西涼軍はそうはさせじと奇襲をかけ、木材を焼き払いました。
なおも陣を築こうとするも、この地域特有の乾燥した土壌では、
すぐに壁が崩れてしまい、思うようにいきません。
窮した曹操。参謀の程昱(ていいく)も、退くよりほかに打つ手なしと言います。
そのとき、程昱が発した「水も凍るような寒さ」という言葉から、
曹操は一計を案じ、壁に水をかけて凍らせた「氷の城」を築くことを思いつきます。
翌日、曹操の陣営には立派な城門ができていました。
西涼軍はそれを崩そうと大量の矢を射かけますが、
カチカチに固まった氷の壁は、ビクともしません。
陣城を築き、優位に立った曹操軍。
今日こそは曹操を討ち取ろうと勇んで来た馬超ですが、
これではうかつに攻められません。曹操に、出てくるように罵る馬超。
曹操は、護衛の許褚(きょちょ)を送り出し、馬超と勝負させます。

ついに真打ち登場といいますか、曹操軍随一の猛将が出てきました。
馬超、少しもひるまず許褚に突進し、武器と武器をぶつかり合わせます。
当代屈指の猛将同士の対決は、時が経つごとに白熱し、
陣営の前に置いてある逆茂木をも切り倒し、その断片が城壁にぶつかるほど。
150合を経過したところで、曹操は
「わしは疲れたが、奴らは少しも疲れておらんな」と感心します。
なおも打ち合う2人ですが、先に馬がへばってしまったため、
馬を乗り換えて再戦することに。

許楮は、「身軽なほうが良い」ということで鎧を脱いで肌着になると、
ふたたび武器を取り、新たな馬に乗り換えて駆け出します。
馬超も、叔父の韓遂の馬を借りて再び戦場へ。
再戦においても、少しの疲れさえ見せずに打ち合う両者。
兵たちはただ、固唾を呑んで見守るばかりです。
そのうちに、許楮が馬から落ちますが、
馬超も馬を飛び降りて、徒歩での打ち合いになりました。
互いの武器を脇に挟み、力比べとなりますが、まったくの互角。

地に倒れながらも、互いの武器を離さない両者・・・。
いつ果てるとも知れない対決は、思わぬ形で終息します。
派遣しておいた別動隊の徐晃軍が、西涼軍の背後に
到着したのを認めた曹操は、城門を開いて出撃し、西涼軍を挟み撃ちしました。
さすが西涼軍も挟み撃ちされては分が悪く、劣勢に陥ります。
乱戦となり、さすがに馬超・許褚も武器を収めて自軍に戻ったようです。
2倍の兵力を擁しながら敗れた西涼軍。
馬超、韓遂、馬岱、龐徳(ほうとく)が、今後の方策を練ります。
このままでは不利と見た韓遂(かんすい)は、態勢を立て直すために撤退し、
一時和睦を結ぶことを提案。馬超もしぶしぶ納得し、同意します。

韓遂は、馬超の父・馬騰の盟友であり、義兄弟です。
総大将は馬超ですが、軍の決定権は韓遂が握っていました。
馬超は慎重な姿勢で臨む韓遂とは、意見が合わないこともあったようですが、
自分の叔父でもあることから、その決定には従うほかありません。
曹操はそこに付け込むことにし、韓遂と直接顔を合わせ、
和睦の交渉をしたいと持ちかけます。
城の前で顔を合わせる韓遂と曹操。
3日後に撤退する口約束を交わし、すぐ帰ろうとする韓遂を曹操は呼びとめます。
曹操は、わざと「文約殿」と韓遂の字(あざな)を呼んで、
なにやら親しげに言葉をかけ、馬騰の昔話などをします。
それに乗ってしまった韓遂も、二言三言なにか答えたと見えます。
その様子を見ていた馬超と馬岱は、
「もしや、韓遂殿は曹操と内通を・・・?」と疑念を抱き、
陣営に戻った韓遂に、疑いのまなざしを向けるのでした。
さらに、曹操は陣に戻ると、用意した書状の文面に墨を塗って、
そのまま西涼軍の陣営にいる韓遂に届けさせました。
黒く塗りつぶされた書状を見た馬超は、その書状は
韓遂が「見られては困る部分」を塗りつぶしたものと信じてしまいます。
韓遂は、疑いを晴らすために曹操を呼び出してその隙に殺すことを提案し、
城門前に出ていきますが、曹操は出てこず、
代わりに夏侯淵(かこうえん)を出して、「すべては打ち合わせ通りに」と言わせ、
馬超にますます疑念を抱かせます。
謀略戦では、西涼の荒武者など曹操にとっては子供のようなもの。
これぞ曹操の「離間の計」。完全に韓遂を疑った馬超は、
諫めに来たその部下たちに武器をふるってしまいます。
西涼軍は空中分解し、ついに仲間割れを起こすに至ったのです。
さて、進退きわまった韓遂、そして馬超の運命やいかに・・・?
2012年06月25日
先週は、酥(すう)のことを書いたものだから、
むしょうに杏仁酥(あんにんすう)が食べたくなって、
さっそく横浜中華街へ買いに走ってしまいました(笑)。
ついでに月餅も・・・。中華菓子って、ウマいですよね。
さて、許都では馬騰(ばとう)と、黄奎(こうけい)が密議を交わし、
曹操を討ち取るための計画を進めていました。
しかし、黄奎の義弟で城門の守衛を務める苗沢(びょうたく)は、
黄奎の妾と密通していたため、黄奎を邪魔に感じており、
その計画を知るやいなや、曹操軍にそれを密告してしまいます。
荀彧(じゅんいく)の報告で馬騰軍の襲来を知った曹操は、
息子の曹彰(そうしょう)をはじめ、許楮(きょちょ)、徐晃(じょこう)に
兵を率いて待ち伏せるよう命じました。
夜がふけ、三更(午前零時~2時の間)になり、
たいまつの火を合図に、曹操のいる丞相府に近づく馬騰軍5千。
城門が開き、待っていましたとばかりに攻め込みますが、
許褚や徐晃の伏兵が湧き出し、馬騰軍は包囲されてしまいます。
しかし、精強で鳴らす西涼軍。果敢に反撃し、戦いは一進一退となります。
そんななか、馬騰が包囲を破って丞相府へ迫ったとの報告が入り、
すぐに避難するよう進言を受けますが、曹操はその場を動きません。

そうして待つうちに、丞相府を守る曹彰が、馬鉄を討ち取り、
ついに馬騰を捕えて戻ってきました。
曹彰、さすがは猛獣と格闘できるほどの怪力と武勇を誇るといわれ、
「黄鬚」(こうしゅ)の異名をとった猛将です。

馬騰は、曹操の前に引きずり出されて斬られ、黄奎は尋問のすえに自害しました。
黄奎は死ぬ間際に、結託していた者たちの名前を白状しますが、
その中の一人に、曹丕(そうひ)の名が混じっていたから、さあ大変。
曹丕は、許楮に命じて曹丕を自分の前に連れてくるよう命じましたが、
曹丕は城を出て司馬懿(しばい)のもとへ行っていたため、
余計に疑いをかけられる結果に・・・。
かねてから黄奎と親交のあった曹丕ですが、
曹操の詰問に対し、知らぬ存ぜぬを通し、ひたすら潔白を主張。
さらに、真の黒幕は曹植である、と罪を弟にかぶせる真似をします。
曹丕が、自分の可愛がっている曹植に罪を着せたことに
剣をふりまわして激しい怒りを示す曹操。

「いっそ、殺してください」
曹操に剣を突き付けられても、覚悟を決めた曹丕は、しらを切り通します。
司馬懿の助言に従い、じっと耐える曹丕。
囲碁の勝負が終わっても、なお罪を認めません。
曹操は、手の中にある碁石の数を数え、奇数なら無実、偶数なら有罪と言って、
数を数え始めたので、曹丕は身体を震えさせながら結果を待ちました。
曹操の持っていた碁石は6個。つまり偶数で有罪ということになりましたが、
曹操は碁盤の上にある石をつまんで、奇数にして曹丕を無実とすると、
ようやく曹操も彼を無実と認め、釈放しました。
首謀者の中に、黄奎が曹丕の名前を記したのは
彼が死に際に思いついた計略です。
曹操が曹丕を疑って殺せば、黄奎の思うつぼだったのですが、
さすがに曹操も曹丕も、それに気づいていました。
その後に司馬懿が曹丕に明かしますが、
曹操が厳しい尋問を続けたのは、曹丕の胆力を試し、鍛えるためでもありました。
曹丕は、少なくともこの場は「合格」したことになります。
覇者の息子ともなると、こういう厳しい試練を幾度も乗り越えなければ
とうてい、その跡継ぎとは認められないのかもしれません。
曹操の息子として生まれ、育つということがどんなに大変であったか、
想像を絶するような厳しい世界だったであろうことを思い知らされます。

さて、曹操に義兄の計画を密告した苗沢でしたが、その末路は悲惨です。
曹操からその卑劣さをなじられ、哀れ、打ち首となってしまいました。
ある意味、自分の命を救った者ですが、苗沢を無能と見たのでしょう。
裏切り者でも有能と見れば優遇しますが、無能な者に曹操は容赦しません。
そこへ、馬超と韓遂の西涼軍20万が長安を陥落させ、
許都へ進軍中との報告が入ります。
曹操暗殺計画が失敗に終わり、
馬騰を殺された恨みを晴らすため、その息子の馬超(ばちょう)が、
いよいよ全軍を引き連れ、本格的な進軍を開始したのです。
長安を奪った馬超軍は、さらに曹操の従弟・曹洪と徐晃が守る
潼関(どうかん)を攻め落とし、許都へと進軍を続けます。
曹操も、馬超を迎え撃つために出陣します。
渭水(いすい)の近くまで来ると、潼関を落とされて負けて逃げてきた
曹洪と徐晃が、曹操のもとへと駆け込んできました。

潼関守備の任を与えられ、打って出る事を禁じられていた曹洪(左)でしたが、
馬超軍の兵士に罵倒され、怒りのあまり打って出て、大敗を喫したのです。
曹洪の処刑を命じた曹操ですが、諸将のとりなしで一命は助け、降格処分に。
曹操は手綱を引き締め直して進軍を続け、渭水へと至ります。
そこでは馬超軍が待ち構えており、いよいよ両軍が対峙。
渭水の戦いが始まろうとしていました・・・。
【このひとに注目!】

◆馬騰(ばとう)
曹操の董卓討伐の号令に応じた諸侯の1人だったが、その後は故郷の西涼で軍を養っていた。後漢の朝廷への忠誠を示し、劉備・董承らの曹操暗殺計画にも参加するが失敗。今度は黄奎と共に曹操討伐を計るが、またも失敗に終わって処刑される。脱出した馬岱から父の死を知らされた馬超は、敵討ちの兵をあげることになる。
馬騰の父、馬平は天水郡の副長官、母は羌族の娘だったので、馬騰は羌族とのハーフということになる。身長6尺を越える大男だが、性格は温厚で頭も良かったため、多くの人に尊敬されていた。