第66話~第70話

2012年07月09日

こんばんは!ストーリーテラーの哲舟です。

『三国志 Three Kingdoms』、いよいよ今日で70話を迎えました。
物語の方も、佳境といいますか大詰めに入って参ります。

このドラマのはじまりは、西暦190年ごろからでしたが、
それから30年近くが経ち、今回で西暦219年を迎えたところです。

これまでの展開では、中国北部を統一した曹操が赤壁に敗れ、
それに勝った孫権が東南、劉備が西南に勢力を伸ばし・・・
諸葛亮(孔明)の思い描いた通り、天下は三分されました。

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曹操は魏を興し、孫権は呉に君臨し、劉備は蜀を得たわけですが、
まだ一応、曹操のもとに献帝が健在であり、「漢」という国は存在しています。

魏・呉・蜀の三国が、正式な「国」として鼎立するのはもう少し先ですが・・・
事実上、この三つの勢力が、覇権を争うことになります。
(画像は公式サイトのキャラクター紹介より)

ただ、曹操や劉備をはじめ、初期からの登場人物も、段々歳をとってきました。
先週は龐統(ほうとう)、魯粛(ろしゅく)、荀彧(じゅんいく)が亡くなったように
この先は、今まで活躍してきた人物たちが一人、また一人と倒れていきます。

三国志に限らず、歴史を描くには人々の「死」を避けて通ることはできません。
登場人物たちがいかに奮戦しようと、それは確実に近づいています。
これから続々と描かれる人物たちの「死にざま」、そして、
そこから垣間見える「生きざま」に、注目していただきたいと思います。

では、今回の話を追っていきましょう。

蜀と魏を結ぶ重要な土地、漢中の前線拠点・定軍山が、
劉備軍の猛攻にさらされています。

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定軍山を守るのは、曹操軍の旗揚げ以来の功臣・夏侯淵(かこうえん)です。
第25話で関羽と打ち合った夏侯惇の弟分でもあります。

夏侯淵は、曹操が馬超を討伐してから西涼の平定を任され、
つづいて韓遂(かんすい)を討伐し、異民族の侵攻を防いでいました。

曹操が、張魯を打ち破って漢中を平定した後、
夏侯淵はその守備を任され、征西将軍としてこの地に踏みとどまり、
4年もの長きにわたって守り続けていたのですが・・・
劉備が総力を挙げて攻めて来たため、支え続けることが難しくなり、
苦戦に陥ってしまったのです。

蜀を得たとはいえ、まだまだ国力の低い劉備にとって、
漢中は是が非でも押さえたい土地ですから、
全力をあげて攻め取りに出たのです。

攻撃する蜀軍の先鋒は、五虎大将軍のひとり黄忠。
黄忠の猛攻に、さしもの夏侯淵もいよいよ討死さえ覚悟する事態に。

夏侯淵は、指を噛み破り、血で記した書状で曹操に助けを求めます。
曹操は、使者には「すぐに救援する」と告げたものの援軍を出しませんでした。

司馬懿も言っていましたが、事態はすでに手遅れであり、
今から援軍を出しても戦局の好転は望めず、かえって死傷者を増やすだけです。
見捨てられた夏侯淵は、奮戦むなしく黄忠に討たれてしまいました。

夏侯淵は、曹操の従兄弟でもあり、
曹操の妻の妹を娶った義兄弟でもありますが・・・
曹操は、断腸の思いで夏侯淵を見殺しにしたのです。

劉備は、夏侯淵の首をとり、定軍山を奪った黄忠の功績をたたえ、
曹操と雌雄を決しようと、進軍を開始します。

劉備は連戦連勝、曹操は連敗続きと、かつての立場が逆転しています。
曹操は焦りと苛立ちを隠せません。

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ひとり、陣中で考え込む曹操・・・。
夕食の最中、近臣がその夜の触れ(合言葉)を尋ねに来ました。
ちょうど鶏のアバラの部分を箸に挟んでいた曹操は
なにげなく、「鶏肋」(けいろく)と口にします。

近臣は、その意味がさっぱり分からぬまま触れて回りますが・・・
それを耳にした楊修は、
鶏肋(鶏のアバラ)は、食べる部分は少ないが捨てがたい
(裏を返せば、良いダシが出るため捨てるには惜しいが、食べるに身は無い)
そう解釈し、撤退の準備を進めるよう指示を与えます。

騒ぎを聞いた曹操は怒りをあらわにし、楊修を処刑するよう命じました。
曹操は意図してその言葉を口にしたわけではないのに
勝手な解釈で士気を乱したというものです。

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ここで、第60話を思い出していただきたいのですが、
楊修は、ことごとく曹操の考えを読み、それを人々に吹聴するばかりか、
門を取り壊させたり、酥(そ)を勝手に与えてしまうということがありました。

曹操は、表向きでは感心していましたが、内心快く思っていませんでした。
この機会に格好の理由を得て、彼を始末してしまったとも考えられます。
「出る杭は打たれる」という教訓を、楊修は我々に残してくれたといえましょう。

翌日、五界山で対峙した曹操軍と劉備軍・・・。
両軍の大将が陣頭に出て、久々に顔を合わせます。
2人が顔を合わせるのは、第20話以来、およそ20年ぶりでしょうか。

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当時、劉備は曹操のもとに保護されていた不遇の身でしたが、
今は数十万の大軍を統べる将。完全に対等な立場となりました。
これまで、常に兵力が少なく、曹操に負け続けていた劉備は、
初めて、同じ条件で曹操と勝負する機会を得たことになります。

いま曹操65歳、劉備59歳。お互い、髪にも白いものが目立っています。
それぞれの正義を主張し合い、両者は突撃を命じました。

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戦いは一進一退、長期戦となりますが・・・
諸葛亮(孔明)の指示を受けた趙雲が、曹操の本陣に奇襲をしかけたため、
面食らった曹操は、激しい頭痛を発して昏倒。

司馬懿は、各将軍に指示を与えて退却にかかります。
見事に曹操の裏をかいた劉備が大勝をおさめました。

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「わしは第二の袁紹になるのか・・・」
病を発して引きあげる曹操は、弱音を吐きます。
しかし、司馬懿はそれを否定し、
改めて孫権に荊州を攻めさせる作戦を勧めるのです・・・。

一方、漢中から完全に曹操軍を追い払い、勝利を得た劉備軍は、
勝利に湧きかえります。劉備は全軍の将兵をねぎらう宴を催しました。

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その宴の席で、法正は劉備に「漢中王」を名乗るよう勧めます。
ここ漢中の地は、400年前に劉邦が天下統一の足がかりとした場所です。
「漢中王」と名乗った劉邦が、大業を成した後に国名を「漢」と定めたのも、
この場所から起ったことを示すものでした。

すなわち、この「漢」から漢民族(中国人)という言葉が生まれ、
彼らが用いた文字は、「漢字」と呼ばれるようになったのです。
劉邦が開いた「漢」は、いったん滅亡したために「前漢」と呼ばれ、
のち劉秀によって再興され、「後漢」として生まれ変わり、
現在は劉協(献帝)が、皇帝となっているわけです。

さて、劉備は、やはり献帝の詔もなしに王位に就くことを拒みますが・・・
孔明ほか、大勢の臣下の勧めにより、漢中王となりました。
劉備は非公式とはいえ、曹操と並ぶ王位に就き、肩を並べるに至ったのです。

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ますます喜びに湧く劉備陣営でしたが・・・
「危険は喜びのさなかに忍び来る。私はそれを憂いている」
ひとり、孔明は浮かない顔で、愛弟子の馬謖にそうつぶやくのでした。

そのころ、荊州の関羽も、劉備の漢中平定の知らせを聞いて大いに喜び、
自分も手柄を立てようと、北にある樊城(はんじょう)を攻め取ろうとします。

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それを聞いた軍師の馬良(ばりょう)は、自重を促しますが、
関羽は、張飛や趙雲が漢中で功績を挙げ続けていることを意識してか
功を急ぎ、聴く耳を持ちません。

関羽は、配下の麋芳(びぼう)、傅士仁(ふしじん)の2将を先鋒に任じますが、
その夜、2人は出陣祝いの席で火事騒ぎを起こしてしまいます・・・。

なんとも頼りない人材を起用したことに、関羽の目を疑いたくなります・・・
関羽は2人を引き出させ、激しく叱責し、処刑を命じますが、
馬良のとりなしで一命は助け、降格を命じた後、
南郡と公安の守備を命じて下がらせました。

いずれも荊州の中では重要な南の拠点なので、
馬良はこれに対しても不安を口にします。
しかし、関羽は「呉の備え程度なら、あの2人で十分」として、
息子の関平と廖化を代わりの先鋒に命じ、出陣させます・・・。

関羽軍は快進撃を続け、たちまちのうちに樊城を包囲しました。

樊城は、曹仁が10万の兵で堅く守備していますが、
相手は音に聞こえし天下の豪将・関羽です。
知らせを受けた曹操は、援軍を派遣して樊城を救援させようとします。

しかし、関羽の武を恐れて誰も名乗りをあげないため、
曹操は于禁(うきん)を総大将に任命しますが、
関羽を恐れ、気乗りのしない于禁は、
「先鋒の将を1名付けて欲しい」と曹操に懇願するのでした。

そこへ名乗りをあげたのは、龐徳(ほうとく)という将軍でした。
彼は、かつて馬超の配下として活躍していましたが、
曹操に敗れた馬超が漢中の張魯のもとへ逃げたときに
一緒に従いましたが、その後に袂を分かち、曹操に仕えていました。

ドラマでは描かれていませんが、原作では張魯の将として出陣したときに、
曹操軍の許褚(きょちょ)や夏侯淵と互角に戦ったこともある武勇の持ち主です。

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しかし、于禁は彼が元・馬超の配下なので、
現在劉備軍にいる馬超に内通するのではないかと疑い、
曹操もためらいを見せますが、
頭を地面に何度も打ち付け、血を滲ませるほどの気概を見せたため、
曹操も意を決し、彼を樊城救援の先鋒に正式に任命したのです・・・。


※読者・視聴者のみなさんへ。いつも温かいコメントありがとうございます!
また、多数の「拍手」にも励まされています。
「拍手」の欄から頂戴するメッセージは受信専用でして、
公開や返信に対応することができませんが、ありがたく読ませて頂いています。

※皆さんにお願いしたいのですが、コメントやメッセージを投稿される際は
必ずお名前(ハンドルネーム)を書いていただきたく思います。
(中には「名無し」や「通りすがり」という方も多いためです)
袖振り合うも多生の縁。「名無し」では、あまりに寂しすぎると思いませんか?

※また、疑問に思ったことは、ヤッターさんやコバカズさんのように、
まずは検索サイトや小説などで、どんどん調べてみると良いと思います。
このドラマにはオリジナル要素も多いので、初心者の方には
原作との違いを知ることが難しいかもしれませんが、
三国志の情報は、意外と世の中にたくさん転がっていますので、
新たな発見があるかもしれませんよ!

あと1ヶ月あまり、全力で綴って参ります。御質問にも、時間のあるときに
出来る限り答えていきたいと思いますので、よろしくお願いします!

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2012年07月06日

こんばんは!哲舟です。
またまた金曜が来てしまいましたね。もう、本当に1週間あっという間です。

さて、曹操が魏王に就任した朝議の解散後、
許都の白馬門で、ひと悶着が起きます。

曹操の子、曹植が漢王朝の掟を破って門を通ろうとするのを
荀彧(じゅんいく)が押しとどめたのです。
それでも強引に門を通ろうとする曹植ですが、そこへ曹操がやってきます。

曹操は曹植を殴打し、騒ぎを起こしたことは叱りますが、
決まりを破ったことに対しては叱責せず門番の処刑を命じ、荀彧を呆れさせます。

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これまで通り「丞相」と呼びかける荀彧に対し、「わしは魏王」だと曹操。
しかし、荀彧は彼を王とは認めていません。

曹操は、自分を厳しくたしなめる荀彧の手を握ってなだめますが、
荀彧はもはや、曹操を悲しげな眼で見つめるのみでした。
荀彧と親しい護衛の許褚(きょちょ)も、黙って見ているしかありません・・・。

「こんな門がなければ決まりごとも無くなる」
曹操はそういって門を取り壊すよう命じ、白馬門を悠々と通っていきました。
荀彧は心痛のあまり、ついにその場に倒れ伏してしまいました。

屋敷に戻った曹操は、その後、荀彧が3日も何も食べずに
病に伏していることを知り、程昱(ていいく)を見舞いに行かせます。

069-13
そのさい、曹操は見舞いの品として果物が入った箱を
程昱に持参するよう命じましたが・・・

実際に持ってきた程昱は、この箱が死の宣告を
意味するものであることが分かっていました。
そう、果物が入っている箱にしては、妙に軽いということを・・・。

ひとりになった荀彧は、曹操がまだ自分に見舞いの品を届けさせる
気遣いを見せたことに、少々感激したようで、さっそく箱を開けますが・・・
その中は空で、紙切れ一枚も見つけられませんでした。

「お前には、何もくれてやるものはない」
つまり、もう自分は曹操にとって用済みであるのだ。

069-03
荀彧はすべてを悟ると、乾いた笑い声を上げ、
最後の力を振り絞って剣を取り、自害して果てます・・・。

荀彧の死を知った曹操は、自ら屋敷を訪ね、その霊に語りかけました。
「文若(ぶんじゃく)よ、安らかに眠れ。今わしはかつてを懐かしく思い出しておる」

30年間、自分を支え続けてくれた参謀に対し、哀悼の意を表します。
陶謙を攻めたとき彼が兗州(えんしゅう)の留守をまもり、危機を乗り越えたこと、
官渡の戦いで劣勢に弱気になった曹操を励まし、勝利に導いてくれたこと・・・
「そなたがいなければ、今のわしはない。かけがえのない兄弟だ」と。

曹操が言うように、惜しいことに両者は志が異なりました。
友を死に追いやるしかなくなった皮肉な運命を曹操は悲しみますが、
荀彧が自分から離れたことが間違いであったことを証明するため、
必ずや大業を果たすことを、改めて決意するのです。

ところで史実では、荀彧の死は212年、曹操の魏王就任は216年ですので、
曹操は荀彧が死んだ後に、魏王に就任しています。
ただ、曹操が権力を持ちすぎることに、荀彧が反発していたことや、
曹操から空の器を贈られ、毒を飲んで死んだ記述は一応、史書にも見られます。

また、このすぐ後に起きる
耿紀(こうき)の乱は218年、漢中の戦いが219年のことです。
このドラマでは、210年代の時間経過が明確ではありませんが、
あまり時系列に捉われず、テンポを重視して描いているようです。

劉備軍では龐統(ほうとう)が戦死、孫権軍では大都督・魯粛が逝き、
そして曹操軍では創業からの功労者・荀彧が死を迎えました。
それぞれの勢力を支えた3人の大物の死によって、
物語はまた新たな局面へと入っていきます・・・。

069-12
同じく、荀彧の死を知った耿紀(こうき)ら、反曹操派が反乱を起こしますが、
曹丕たちの必死の防備によって失敗に終わり、
彼らは捕えられて処刑されました。
本来は文人である曹丕が剣を振るう場面は、なかなか貴重かもしれません。

翌日、司馬懿が息を切らして曹丕のもとへ駆けてきます。
司馬懿は珍しく、本当に焦っているようです。

069-06
曹丕は、曹操を守り抜いたことを誇らしげに司馬懿に話しますが、
司馬懿はそれを喜ばず、逆に曹丕の体を殴りつけて叱責します。

助けに行った者の中にこそ裏切り者がいると曹操は疑うはずであり、
必ず危機に陥るというのです。

実際、曹操は助けに来なかった曹植を評価して河北の警備にやり、
曹操は、それ以外の文官をすべて呼び出します。

そして、今回の乱で賊を討とうとした者は赤旗のもとへ、
門を閉ざし、出なかった者は白旗のもとへ集まるよう命じました。

069-17
司馬懿、楊修らは曹操の意を悟って白旗のもとへ集まります。
曹操は彼らに金を与えて下がらせると、
逆に赤旗のもとへ集まった者たちを罵り、処刑させました。

曹操は、曹丕を連れて帰ると、予想に反して
剣も不得手なのに命を顧みず自分を守ってくれたことを感謝し、
「そなたを世継ぎとする」との意を伝えました。

曹操は、この騒ぎのふるまいでようやく、曹丕を世継ぎと認めたうえ、
司馬懿を呼んで、改めて彼の補佐を命じたのです。
どうやら珍しく、司馬懿の読みが外れたようです。

そこへ、漢中の曹洪から急の知らせが届きます。
劉備軍の黄忠に漢中が襲われ、危機に陥っているとの報告でした。

司馬懿の知恵を借り、対策を練る曹操。
曹操は漢中を救いに行こうとしますが、今獲るべきは荊州であり、
孫権と共同でこれを攻め取るようにと司馬懿は進言します。

曹操はそれを聞き入れ、漢中に30万、
荊州の曹仁には10万を率いて南下するよう指示を与えると、
自ら出陣するために準備を始めました。司馬懿にも供を命じます。

一方、劉備軍の中でも漢中を攻め取ろうとする機運が活発になり、
まず漢中を全軍を率いて曹操軍と戦うことになります。

ひとり、諸葛亮(孔明)は、孫権の動きを警戒して反対しますが、
劉備は張飛や魏延の意見を聞き入れて漢中攻略を命じます。
このところ、劉備は孔明の進言を軽んじるようになってきたようです。
これが、はたして今後の戦局に影響してくるのでしょうか?

069-10
そのころ、呉の柴桑では孫権が
参謀の陸遜(りくそん)と相談事をしていました。
魯粛亡きあと、陸遜は呂蒙とともに呉の屋台骨を担っていく人物です。

孫権のもとには、曹操からは劉備を攻めてほしい、
劉備からは曹操を攻めてほしいとの書状が届いていました。
赤壁でもそうでしたが、第3勢力である呉(孫権)が
どちらにつくかで、戦局は大きく変わります。

孫権は、魯粛の遺言通り、
両軍の動きを見極めたうえで慎重に動くことを決め、
両者に兵糧を要求するという巧みな策を思いつきます。

さらに、現状では曹操にも劉備にも領土・兵力・兵の質、
いずれも劣ると悟った孫権は、しばらく兵馬を鍛え、
来るべき戦いに備えることを決めて、
陸遜を全軍の副都督に任命し、訓練にあたるよう命じました。

さて、漢中の定軍山では曹操軍と劉備軍が、すでに激しく激突しています。
夏侯淵(かこうえん)が守る定軍山が、
黄忠の猛攻によって陥落寸前となっているようですが・・・。


◆曹操の軍師たち
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荀彧の最期を偲んで、第16話の若かりし記念ショット?を載せておきますね。
これは198年、呂布との戦いの最中でした。

今さらながら・・・荀彧(右)よりも、程昱(中央)のほうが20歳近くも年上です。
荀彧は163年生まれで、212年に50歳で亡くなりました。

程昱は141年生まれで、220年(80歳)まで生きます。
今回の話では70歳を超えているはずですが、この写真とあまり変わっていません。
ドラマでは、どう見ても荀彧のほうがお爺さん、というより、
荀彧が急に老けたように見えましたね・・・(笑)。

このときは、左の郭嘉(かくか)も元気でしたが、官渡の戦いの後あたりから、
いつの間にか姿が見えなくなっていました・・・。
郭嘉は170年生まれ、3人の中では一番年下ですが
赤壁の戦いの前年、207年に38歳で病死しています。
曹操が大変に嘆き悲しんだという、彼の死が描かれなかったのは残念です。

それでは、皆さん。また来週、お会いしましょう!

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2012年07月05日

こんばんは!哲舟です。
昨日は放送休止で残念ではありましたが、
GyaOの無料動画を観てくださった方も
結構いらしたようで、ありがとうございます。

その動画のエンディング・テーマですが、
第18話で呂布が処刑されるシーンでも使われていましたね。
三国志という栄枯盛衰の物語の悲哀を実によく表した名曲だと思います。

さて、益州の都・成都(せいと)に、
呉からの使者・諸葛瑾(しょかつきん)がやってきました。

諸葛瑾は、諸葛亮(孔明)の実の兄。
孫権の策略によって親族38人が捕えられ、幽閉されてしまったと訴えます。

「荊州を返さなければ、諸葛の一族を皆殺しにする」と、
孫権は人質を盾に、劉備に対し強硬に迫る手段に出たのです。

諸葛瑾の親族であれば、孔明にとっても身内。
孔明は劉備に頼みこみ、荊州を渡すよう懇願するのでした。

孫権の卑劣な策に窮した劉備は、
蜀を取ったばかりの今、すべて返してしまっては
基盤がなくなってしまうため、まずは荊州の中から
三つの郡を返上する約束をしました。

068-11
劉備は、荊州太守である関羽に、三郡を呉へ返すようにとの
命令書を送りますが、関羽はなんと自分の判断で
それを反故にしてしまいました。

劉備の命令をも無視し、返還に応じない関羽。
諸葛瑾は、何を言っても無駄だと悟り、帰るしかありませんでした。
呉はそれを無視して、三郡に役人を派遣しましたが、
すべて関羽に追い払われてしまう始末・・・。

068-12
そこで、呉の副都督・呂蒙が直談判に乗り込んでいきます。
迎えた関羽は、「そなたが呉下の阿蒙か」と、傲慢な態度で臨みます。

これには呂蒙の供をしてきた賈華(かか)も、
あまりの無礼さに、関羽につかみかかりそうな勢いに。

「呉下の阿蒙」については、第57話で解説したとおりで、
無学だった、かつての呂蒙が呼ばれた、あだなのようなもの。
関羽もそれを知っていて、馬鹿にしたような態度をとったと見えます。

「副都督のそなたでは相手にならん、大都督の魯粛とならば会っても良い」

「俺とお前では格が違う」ということなのでしょう。
しかし、魯粛は病床にあるために荊州まで来ることができないと聞くと、
重い腰を上げ、陸口まで交渉に出向くことは承知しました。

068-15
関羽は、呉の将兵が武装して大勢で待ち構えるなか、
大胆にも息子の関平、周倉ほか数名だけをともなって陸口に現れます。

関羽を迎えた魯粛ですが、病の重さは深刻で、しきりに咳込みます。
魯粛はそれでも、関羽が漢寿亭侯に就任したことを祝い、
諸将に乾杯を捧げさせたあと、本題に入ります。

劉備の軍令に逆らい、荊州返還を反故にする関羽に対し、
赤壁の戦いで犠牲を払ったのは呉で、その勝利も呉あってのこと、
以前から劉備との約束もあることなど、改めて道理を説いて聞かせます。

対する関羽は、荊州はもともとは呉の土地でもなんでもなく、
漢の献帝の土地だった。それを曹操に奪われていたため、
自分たち劉備軍が攻め取ったにすぎない、と反論しました。
関羽も、元々は頭の良い人ですからこの程度の議論は得意です。

話は容易に決着しそうにありません。ことに、
呉の将兵はいまにも、関羽に飛びかからんばかりの殺気を漂わせています。
さすがの関羽でも、この包囲の中を切り抜けるのは難しいかもしれません。

068-03
しかし、もし、ここで関羽を殺してしまえば・・・
劉備・孫権連盟の崩壊、ひいては呉の危機になると直感した魯粛は、
乾杯するために関羽に近づいて無理に酒をあおると、
「私を盾にお逃げなさるが良い」と囁きます。

関羽はその言葉にしたがい、魯粛の手をつかんで出口へ。
呉の将兵が「逃がすものか」と、その行く手に立ちはだかりますが、
関羽は青龍刀を構え、魯粛をつかんでいるため手が出せません。

068-22
歩きながら、さすがの関羽も魯粛の病身をおしての堂々たる振舞いに
感じ入り、「江東には英雄がおられる」と、魯粛の人物を認め、
去り際に荊州三郡を譲渡することを宣言しました。

しかし、魯粛は無理がたたり、関羽が去った直後に倒れてしまいます。
死の床についた魯粛は、呂蒙に対してしばらくは劉備軍との戦を
自重し、時を待つように念を押したうえで、彼に跡を託します。

068-07
呂蒙は、かつては周瑜の弟子。魯粛と反目したこともありますが、
今は魯粛を「生涯の師」と仰ぎ心服して、周瑜のときと同じように
病床の側から離れず、常につき従っています。

魯粛はさらに、孫権へ遺言を残そうと身を起こしますが、
すでに息も絶え絶えで、筆を持つことさえもままなりません。

何かを書こうとする前に突っ伏し、そのまま息絶えます・・・。
享年46歳。周瑜に続く江東の2代目大都督・魯粛が、
荊州の一部を劉備から取り戻すという大仕事を土産に、
見事な往生を遂げました。


ここで、場面は変わって曹操の領地である許都へ移ります。
献帝(劉協)の呼び出しに応じ、
曹操を含めた文武百官が宮城へ入るところです。

068-09
曹操はこの直前、漢中へ攻め込み、
張魯を降伏させてその土地を奪っています。
漢中は、蜀と中原との境目にある要地であり、
曹操と劉備は領地を接してにらみ合ったことになります。

献帝・劉協の健康を祝して拝謁する諸官たち。
宮中では靴を脱ぎ、剣を持たずに入るのが習いですが、
曹操は特別に履物を脱がず、剣を帯びたまま入ることを許されていました。

曹操は、献帝よりも先に着座し、平伏することもしません。
以前からそうですが、どちらが皇帝なのか分からないほどです。

068-18
劉協もすでに30代半ばを過ぎ、立派なヒゲを生やしています。

この機会に「ヒゲ」について、ちょっとお話しておきましょう。
「趙雲が結婚後にヒゲを生やしたのは何故ですか?」という質問もありましたので。

この時代の男性はみな、ヒゲを生やすのが習いでした。
ヒゲのない人は、女性や子供、それに
宦官(かんがん。宮中の世話をするため去勢された役人)だけであり、
成人した男性は、ヒゲがなければ一人前と見なされなかったようです。

昔、洛陽で乱が起きて宦官が皆殺しになったとき、
ヒゲが薄かったばかりに、宦官と間違われて
斬られそうになった人たちもいたのだとか。

当時の様子を描いた画の人物には、確かに必ずヒゲがあります。
立派な人物には、必ず立派なヒゲがあるといってもいいぐらい。

中国文化の影響を受けた、日本の武家社会も同様で、
実際、豊臣秀吉はヒゲが薄かったために付けヒゲまでしたといいます。
日本の大河ドラマなどでも、登場人物が歳をとるとヒゲを生やすようになりますね。

このドラマで、呂布、孫権、周瑜、趙雲などに最初、
ヒゲがなかったのは、「若さ」を表現するためだったと思われます。
でも、ある程度歳をとると、みんな生やすようになっていますね。

それは「歳をとった」ということを、表しているのだと思います。
趙雲も「結婚したから」というよりは、
歳をかさねて武将としてより出世したから、と見て良いでしょう。

ただ、急にヒゲを生やした姿で登場するので、最初はちょっと違和感はありますし、
正直、あまりヒゲが似合っていない役者もいますが・・・(笑)
当時はヒゲあってこそ一人前の男子の姿であることを、理解しておきましょう。


さて、この日は、曹操の「魏王」への就任を皇帝に打診するための朝議でした。
曹操の魏王就任は、その取り巻きたちが彼の権力をさらに押し上げるために
実行に移したもので、本人もそれを望んでいたことです。

程昱(ていいく)をはじめとする百官たちは、
献帝に曹操を「魏王」に封じるように進言します。

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ただ一人、荀彧(じゅんいく)だけが猛反対しますが、
曹操たち重臣の操り人形にすぎない献帝は、
諸官に推されるがまま、曹操を魏王に任命しました。

068-19
ちなみに「魏」とは、かつて春秋時代に存在した国の名前で、
曹操の時代には、後漢の皇帝が治める帝国内のひとつの地方の呼称でした。
同じく、孫権のいる呉、劉備のいる蜀も、漢のなかの一地方的な意味合いです。

つまり、「漢のなかに魏という王国」を建てるという形で、
その王の地位に就いたのです・・・。

ここで、「王」という称号の意味や、
なぜ荀彧がこれほど強く反対したのかについても、簡単に解説しましょう。

「王」とは、古代中国においてはもともと、天下すべてを治める者のことを表しました。
しかし、戦乱によって各地に王が生まれることになり、権威が低下します。
それを統一したのが、秦の始皇帝です。

始皇帝という名の通り、彼は王以上の権力をもつ「皇帝」という位をつくり、
みずからがその座におさまります。それ以後、王は皇帝から任命される、
それよりも下位の称号となったのですが・・・

しかし、腐っても「王」です。その王が昔のように無闇に生まれないよう、
「皇族以外には王の位を与えない」というルールがありました。
ですので、ここで曹操が王位に就いたということが
いかに異例であったかが分かると思います。

まあ、曹操は以前(第22話)、献帝に娘を嫁がせ強引に献帝の義父となっていますが、
かねてから王の地位を狙っていたからと解釈できます。

王に就いたからには、その上はもう「皇帝」しかありません。
曹操の魏王就任は、帝位簒奪への前段階であったとみることができます。

荀彧は、あくまで漢という国を補佐するために曹操を盛り立てきたまでで、
漢の皇帝の忠臣として働いてきたと自負しており、
漢をないがしろにする曹操の行いが許せないのです・・・。


◆タイトルの「単刀会」と魯粛の最期について
068-05
原作小説「三国志演義」では、関羽がひとりで、刀だけを携えて会見の場に姿を現したことから。しかし、正史「三国志」では、魯粛のほうから関羽に一対一で対面することを申し入れ、関羽もそれに応じ、お互いの軍を百里後退させたうえで、剣だけを身に付けて会談に臨んだ。実際には何名かずつ供を連れていたが、魯粛は反対する者を怒鳴りつけて引き下がらせ、交渉のすえに関羽に荊州の2郡の返還を同意させた。
ドラマでは、魯粛はこの後にすぐ死んだように描かれているが、これだとまだ43歳ということになる。実際の死は3年後の217年。死の報に孫権は哭礼し、葬儀に直々に参加したと記されている。

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2012年07月03日

みなさん、こんばんは!哲舟です。

葭萌関にて、一騎打ちを続ける馬超と張飛。
かがり火を使っての応酬も展開されるなど、
2人の戦いは夜になっても続き、いつ果てるとも知れません。

067-05
このままでは、どちらかが死ぬか深手を負う・・・
張飛と互角に戦う馬超の武勇に感心しつつも、
心配そうに見守る劉備のもとに、諸葛亮(孔明)がやってきて、
「馬超をわが軍に投降させてみせます」と言います。

馬超を味方にできれば千人力。
劉備は孔明に一切を委ねることにします。

孔明は、馬超の主君である張魯(ちょうろ)の幕僚、
楊松(ようしょう)のもとに使者を送り、
彼に馬超に対する不信を抱かせ、張魯に報告させることに成功します。

使者は、劉備軍の古参のひとりである簡雍(かんよう)でした。

03
「馬超は、劉備と通じて蜀を奪り、漢中にも攻めてくる・・・」
張魯は、楊松に吹き込まれて、すっかり馬超を警戒し、
急いで自陣へ戻るように書状をしたため、
葭萌関にいる馬超のもとへ届けさせます。

いきなり命じられた難題を、馬超が聞き入れられるわけもありません。
張魯の命令に従わず、戦いを続行します。

張魯はますます馬超を疑い、無理難題を押し付けてきます。
ひと月以内に劉備を倒さねば、兵糧の輸送を止めると・・・。

馬超はそれにしたがって帰陣しようとしますが、
張魯は馬超が謀反をたくらんでいると怖れ、
関所を閉ざしてしまいました。

戻ることも退くこともできなくなった馬超・・・。
そこへ、策略の張本人である諸葛亮(孔明)が、
使者として、シラッと乗り込んできます。

孔明は、「あなたを説得にきた」と単刀直入に切り出します。
まあ、馬超が窮地に陥ったのも全てはこの人の策略のせいなんですが(笑)。

067-01
孔明を見て、即座に剣を抜こうとする馬超ですが、
孔明は落ち着きはらい、彼の窮状をつぶさに指摘して言葉を失わせます。

そして、ついに馬超を劉備に帰順させることに成功。
その間、わずか3分という早業でした(笑)。
孔明の舌先にかかっては、西涼の荒武者など子供みたいなものでありました。

原作では、馬超を説得しに来るのは、
李恢(りかい)という文官なのですが、本作では孔明みずからの仕事でした。
(李恢は、横山光輝の漫画「三国志」では、この場面で馬超に言った
 『なにが、むむむ…だ!』、 吉川英治の小説「三国志」では、
 『何が、ううむだ』の名言で知られる人です)

劉備に投降した馬超は、そのまま葭萌関を抜けて成都へ進軍。
劉璋は、てっきり彼が劉備を撃破して救援に来たのだと思い、
出迎えようとしますが、馬超の脅し文句を聞いて震えあがります。

067-02
馬超の武勇は、蜀の国にも轟きわたり、非常に恐れられていたのです。
その馬超が劉備に降伏した今、これ以上の抗戦は無意味だと悟り、
蜀軍の将兵は一気に戦意を喪失していきます。

067-08
相次ぐ味方の降伏、開城に、劉璋も抵抗する気をなくし、へたり込んでしまいます。
そして、とうとう劉備に降伏し、蜀の国を譲ることを決意しました・・・。

067-03
西暦214年、劉備は2年間の激戦を終え、益州・蜀を手に入れました。
成都に入城した劉備は、最後まで抵抗した黄権を説得、
龐統の遺書を見せ、味方に引き入れることに成功します。

これから広大な益州という土地を治めるには、何よりも人材が大切。
黄権のような能臣は一人でも多いほうがよく、また必要となるわけです。

ドラマには登場していませんが、原作では黄権のほかにも、
厳顔、呉懿、呉覧、董和、許靖、張翼、鄧芝、董允といった人材を加えています。
龐統を直接、射殺した張任(ちょうじん)は降伏せず、
頑強に仕官を拒んだため、斬首に処せられています。

蜀へ入った劉備は、龐統をはじめ多すぎる犠牲を思い、
悲しみに暮れ、素直に喜びを顔に出せません。
孔明は漢室再興という大業をふたたび劉備に説き、心を一つにしました。

蜀の主となった劉備は、孔明や法正が提案した法の簡略化案を退け、
秩序ある国を目指し、厳しい法や刑罰を制定し、民を厳しく律します。

067-09
孔明は、これまでと違う劉備の立派な態度に心打たれ、
自らも心を引き締めて励むことを誓うのです。

荊州の関羽のもとにも、益州からさまざまな褒賞が贈られていました。
義兄の劉備が、蜀を得たことを素直に喜ぶ関羽。

劉備はまた、諸葛亮の進言により、これまで多大な功績をあげ、
武勇の誉れ高い5人の武将に「五虎(ごこ)大将軍」の称号を授けました。
その5人とは、関羽を筆頭に、張飛、趙雲、黄忠、馬超。

067-11
関羽はそれを聞いて、先の3人は納得できるが、
帰順したばかりの馬超が同格なことに納得がいかず、
「腕比べに参りたい」という書状を劉備に届けさせます。

往復の日数も手間暇も馬鹿にならないでしょうに、
関羽のプライドの高さときたら、半端ではありません(笑)。

その意を汲んだ孔明は、書状を送って関羽をなだめます。
ドラマには内容まで出てきませんでしたが、
「馬超は、張飛に匹敵するが、ヒゲ殿(関羽)には及びません」
孔明はそう書いて、関羽の機嫌を直したといいます。

確かに、関羽の言うことはもっともで、
馬超は劉備に投降してから日が浅く、功績が少ないように感じるし
強いていえば魏延のほうが功績がありそうです。(魏延でも関羽は怒るやも)

しかし、馬超の投降が蜀を降伏させる大きな要因になったことや、
張飛と互角に戦うほどの武勇の持ち主となれば、その資格は十分といえましょう。
考えてみれば関羽と馬超は生涯、一度も会わないままでした。
関羽が不満をもらしたのも、馬超と面識がなかったことが大きいでしょう。

五虎大将軍の出典は小説「三国志演義」であり、創作ではありますが、
正史「三国志」においても、この五人はほぼ同列に扱われており、
とくに蜀へ入ったあとで、関羽、張飛、馬超、黄忠の4人は、
それぞれ前将軍、右将軍、左将軍、後将軍に任じられています。

意外なことに趙雲が含まれていませんが、
彼はそれまで大きな功績が少なかったため、他の4人より昇進が遅く、
晩年になってようやく同格になったといいます。
演義の大活躍のイメージが強いので、意外な気もしますが、
他の4人は記録に残っていない功績がたくさんあったようです。

さて、江東の孫権は、劉備が蜀を得たこと苛立ちを隠せません。
当然、荊州もいまだ劉備の手にあり、いつ戻るかも分からないのです。

孫権は一計を思いつき、諸葛瑾の家族を捕えるよう命じます。
こうなっては手段を選んではいられないといったところ。
さて、この先の孫・劉同盟と荊州問題のゆくえは・・・。


※先週もお知らせしましたように、明日7月4日(水)の
『三国志 Three Kingdoms』の放送は休止となります。
(詳しくはこちら

・・・お休みだなんて納得いかない!明日も三国志TKが見たい!
そんなアナタに、素晴らしい情報をお知らせしましょう。

GyaOという動画配信サイトでは、三国志TKの一部の回が、
無料で配信されています。この機会にこれまでに見逃していたり、
もう一度見たいという回を、ご覧になってはいかがでしょうか?

「なあんだ、今まで観た話ばっかりだよ!」という方にも、
是非お勧めしたい、もうひとつの素晴らしい理由があります。

それは、この動画サイトの映像には、製品版・レンタル版と同じように
オープニングとエンディングのテーマが、フルに入っています。

そう。実はですね、BS放送では放送時間の都合により、
オープニングテーマは一部分しか流れておらず、
エンディングも、本来の曲とは違うものが流れているのですよ。
カットされている部分も非常に良いので、ぜひ聴いていただきたいです。

また、曲の部分には字幕も表示されるので、なんと歌っているのか、
どんな意味だったのかを知るにも絶好の機会といえますので、
BS版と聞き比べてみるのも面白いと思います。(GyaO

それでは、みなさん。また明後日、お会いしましょう!

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2012年07月02日

こんばんは! ストーリーテラーの哲舟です。

益州・涪城(ふうじょう)で、酩酊する劉備は
軍師・龐統(ほうとう)に、本音をぶちまけます。

蜀は欲しいが、攻め取るための大義がない。
仁義を重んじたいが大業も成したい。この2つは両立しえない・・・。
劉備は、「己が恨めしい!」と、
どうにもならない気持を龐統にぶつけ、激昂します。

劉備の言葉に改めて感じ入った龐統は、何かを決意したようで、
「このわしが、それを両立してみせます」と言い、
正義を失わせることなく、蜀を得る方策を練り始めます。

龐統は、自分が汚れ役を買って出ることを決めるのですが、
まずは劉璋軍を内部分裂させることから着手します・・・。

一方、劉備は10万石の兵糧を劉璋に求めました。
しかし、劉璋もようやく劉備が油断ならぬ人物だということに
気付いてきたため、彼を蜀に長居させてはならぬと思い始めます。

劉備が、駐屯している地の住民の心を得て、篤く信頼されていることも、
劉璋にとっては十分に危惧に値することでした。
自分の君主としての座が脅かされることを憂う劉璋は、
3万石だけ兵糧を送って、お茶を濁す作戦に出ました。

01+1
そのころ、張松の兄・張粛の屋敷には、
張松が劉備軍と内通しているという手紙が届けられました。
この手紙は龐統が偽造したものですが、長粛はそれを信じ込み、
弟の罪を劉璋に密告。

激怒した劉璋は、張松を斬るよう命じます。
張松は哀れ、打ち首とされてしまいました・・・。

劉璋はその首を劉備に送ったうえ、
張任(ちょうじん)将軍を、劉備のいる涪城へ、
12万の大軍を差し向けました。完全なる宣戦布告です。

こうなっては、かろうじて保っていた劉備・劉璋の同盟関係も断絶です。
龐統は、たった1枚の偽手紙で、両者が戦わざるをえない状況を作り上げ
劉備の重い腰をついに上げさせるに至ったのです。
龐統の持ち味といいますか、寝技師ともいえる本領が発揮されました。

劉備も出陣し、先に龐統が「中策」として進言したように、
まずは雒城(らくじょう)を奪り、そこを足場にして
成都を攻め取るルートを選びます。

雒城へ向かう道すがら、前軍を買って出る龐統。
しかし、劉備は天候とその道の悪さに不吉なものを感じ、
自ら前軍になるといいますが、龐統はそれに反対し、
「やはり自分が」、と魏延をともなって先に進軍します。

龐統は出発前、馬から落ちたために劉備の愛馬・的驢を借り受けてから
進軍を開始しますが・・・
この馬は、かつて劉備を救ったこともある一方で、
徐庶が「乗る者に祟りをなす」と評したことがある馬。
やがて「落鳳坡」(らくほうは)という場所にさしかかります。

なんだか、すべてが図ったように不吉であるような状況ですが・・・
龐統は、いつにない張り切り具合で先へ先へと馬を飛ばします。
まるで、自分の運命を知っているかのように。

「落鳳坡とは、まさに天がわしに与えた死に場所だ!」

言い終わるや否や、どっと伏兵が湧き出してきました。
案の定、落鳳坡には敵軍が万全の態勢で待ち構えており、
雨あられのように矢を射かけてたのです。

13
龐統はなすすべもなく、全身に矢を浴びて敢え無く落馬し、息絶えました。
後方にいた劉備は退き返してきた魏延から、龐統の「遺書」を受け取ります。

龐統の遺志。
それは、自分が犠牲になることで劉備に大義名分を与えて
蜀を攻め取らせることにありました。

正史『龐統伝』の逸話を紹介します。益州で勝利に浮かれる劉備に対し
「他人の国を侵略してそれを喜んでおられるとは仁者の戦ではありません」と、
たしなめたことがありました。しかし、益州を取ることを勧めたのは
龐統であったため、劉備は怒って龐統を退席させましたが、
すぐに自分の非に気がつき戻るようにいいました。

劉備は、席に戻った龐統に、
「先程の議論では私と君のどちらが間違っていたか」と聞いた。
龐統は「君臣共に間違っておりました」と答えたので
二人は大いに笑い合ったといいます・・・。

孔明とは違うタイプの軍師でしたが、その実力は確かであっただけに、
劉備軍にとって彼の死は痛手では足りないぐらいの損傷です。

14
龐統の死を嘆き、その意を汲んだ劉備は
全軍に攻撃を命じ、雒城に攻めかかりました。

しかし、蜀軍も大軍を擁しており、張任は名将。守りも堅固です。
劉備軍は3万、劉璋軍は12万という数の不利もあります。
怒りにまかせて攻めるだけでは城を奪ることはできません。
劉備は危機に陥り、諸葛亮(孔明)に、援軍を求める書状を書きます。

そのころ荊州では、孔明が劉備軍の安否を心配していました。
そこへ、蜀から関平が駆け戻ってきて、孔明に危機の知らせと
援軍を求める書状を届けました。

孔明の不安は的中し、龐統は戦死、劉備は蜀の地で孤立。
荊州を関羽に任せ、自らが大軍を率いて劉備を救援に行くことを決めます。

この戦い、ドラマではあまりよく分かりませんが、
すでに1年以上もの長期戦となっています。

31
出陣に先立ち、関羽に荊州太守の印綬を授ける孔明。
曹操とも孫権とも戦う意志を見せる関羽に、孔明は懸念の表情を隠せません。

「北は曹操を撃ち、東は孫権と和す」ことを念入りに説き、約束させたうえで
張飛、趙雲と3万の兵を率い、蜀へと進軍しました。

その報告を受けた劉璋は怖れおののき、文官たちと協議のうえ、
張魯(ちょうろ)に援軍を求めることにしました。

02
張魯は、その条件として蜀の土地の一部を
得られることを喜んで、援軍を派遣します。
この援軍を率いることになったのが、先に曹操との戦いに敗れて
張魯のもとへ身を寄せていた馬超(ばちょう)です。

馬超は3万の精鋭を連れ、葭萌関を守る劉備軍に戦いを挑むことになりました。

24
馬超軍を迎え撃つは、猛将・張飛。
まずは馬超の従弟、馬岱(ばたい)が張飛に挑戦しますが、
まったく相手にならず、2合と斬り結ばぬうちに馬から落ちてしまいます。

 「貴様など相手になるか!馬超に、燕人(えんひと)張飛が来たと伝えろ」
かつて、長坂橋で曹操軍を震え上がらせた大音声で呼ばわりました。

その後、本隊を従えてやってきた馬超に、張飛が挑みかかります。
両雄は激しく刃を交え、力と技の限りを尽くして火花を散らします。

17
先に曹操軍の許褚(きょちょ)とも激しい一騎打ちを演じた馬超は、
張飛とも一進一退の素晴らしい勝負を展開。
お互いに馬から落ちてもそのまま攻め続け、武器と武器を交わします。

戦いがあまりに長いので、日も暮れかけてきたため、
劉備は退き鐘を鳴らし、張飛を城へ戻そうとしますが、
張飛も馬超も一切退く気はなく、まだまだ戦いを続けるといいます。

勝負は延長戦のナイターへと、もつれ込んでいきます・・・。
張飛対馬超の勝負の行方はいかに?
野球中継が終了するように、明日へと続きます(笑)。

さて、ここで現在の3つの軍の戦力・人員分析をしてみましょう。
ドラマを見ているだけでは分かりにくいし、
おそらく頭が混乱している方も多いと思いますので・・・。

<劉備軍>
第1陣/黄忠・魏延・龐統(戦死)・劉封・簡雍・孫乾
第2陣/諸葛亮・張飛・趙雲・馬謖
荊州守備軍/関羽・関平・周倉・馬良・廖化

<劉璋軍>
親・劉璋派/張任・黄権・王累(死亡)・李厳・張粛
反・劉璋派/法正・張松(死亡)

<張魯軍>
楊松・馬超・馬岱



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