第71話~第75話
2012年07月16日
今週も頑張ってまいります。
いよいよ、今宵で漢王朝が幕を閉じます。
曹操の跡を継ぎ、魏王としての足場を固めていく曹丕。
司馬懿は、まず孫権に「呉王」の位を与え、
劉備の漢中王、曹丕の魏王に並ばせてやることを提案します。
天子なくして、勝手なことはできないという曹丕に対し・・・、
司馬懿は、今こそ帝位に就くよう勧めます。
その理由は、曹操には才能・威光があり、
皇帝にならずとも、世の中の人を従える実力がありましたが、
曹丕には、まだ威光も実績もまだ不足しているため、
帝位に就くことで魏という王国の家臣たちをひとつにまとめ、
名実とも天下人になるべきだというのです。
実は、皇帝の地位は曹丕自身がいちばん望んでおり、
司馬懿はその背中を押したに過ぎません。
曹丕に、帝位就任のための根回しを命じられた司馬懿でしたが、
司馬家の名声が傷つかないよう、華歆(かきん)に
その役目を負わせることにします。

司馬懿の依頼を受けた華歆は、さっそく朝議の席で
献帝に対し、退位して曹丕に帝位を譲るよう上奏します。
突然の上奏を耳にした献帝は愕然として立ちあがり、
「みな、同じ思いか」と問いかけますが、臣下たちは華歆に同調します。
もはや、誰ひとりとして献帝を擁護しようとはしません。
嘆き悲しむ献帝は漢帝国400年の重み、祖先の大業を語り聞かせます。
わかりにくいので、以下、現代語訳でこのやりとりを説明しましょう。

献帝「おまえら。漢が滅びてもホントにいいと思ってるのか?」
華歆「そうだよ。分かんない人だな。これからは新しい世の中になるの。んだから、
あんたみたいな無能な輩は辞めて、曹丕さんに帝位をゆずりなさい」
献帝「言っとくけどね、僕の先祖は偉いんだよ。
むかし、悪い奴らをいーっぱい、やっつけて天下を平定したんだから。
おまえら、今まで誰が飯くわせてやってたと思ってるんだ。
それに、ぼくが辞めたら、天国でご先祖様に会わせる顔がないじゃないか」
華歆「はん。知ったことか。
この図讖(としん。予言書のこと)を持って、さっさとあの世へ行けばいいだろ」
文官一同「陛下、この予言書は天の意志ですよ。したがってください」
献帝「なんだこれは。こんなものに従えるかよ」
老臣「もう400年も続いたんだから、やめましょうよ。このへんでいいんじゃない?」
献帝「いやいやいや。(涙目で)これは、ものすごく重大な問題だよ。
ちょっと、ご先祖さまのところに行って相談してくるよ」
・・・献帝は、郊外にある宗廟(歴代皇帝の霊をまつったところ)に行き、
臣下たちの無礼を訴え、漢室の命運が尽きようとしていることを嘆きます。

そこへ、妻・曹皇后が入ってきて、献帝を慰めます。
曹皇后は曹操の娘・曹節といい、曹操が皇室の外戚になるため、
半ば無理やり献帝に嫁がせたのですが(第22話参照)、
今では互いの境遇を憐れみ、慈しむ仲の良い夫婦となっているようです。
献帝は、「曹」と名の付く人物を見るのも嫌になっているため、
皇后を突き飛ばしてしまいますが、その瞬間我に返り、助け起こします。

そこへ、曹洪と曹休が入ってきます。
献帝を連れ戻しにきた2人は、剣を差し出して脅すなど、
もはや皇帝でも何でもない扱いです。
連れ戻された献帝は、なおも抵抗しますが、
先と同じように、華歆や曹洪らが、命まで奪おうという構えで彼を追い詰めます。
献帝は、ついに曹丕に対して禅譲(位を譲ること)を決めるのです・・・。
献帝は、すっかり疲れはて、
玉璽(ぎょくじ。代々受け継がれてきた皇帝用の印鑑)を持って来させます。
それを持ってきたのは、祖弼(そひつ)という忠臣で、
「皇帝の玉璽は天子のもの。賊には渡しません」と叫び、
正義を主張しますが、曹洪が進み出て、一刀で彼を斬ってしまいました。
曹洪はそのまま献帝の喉元に剣を突き付け、脅すという手段に出ます。

そのころ、後宮では曹皇后が、曹丕と口論となり、
持っていた短刀で曹丕を刺そうとしますが、
曹丕は服の下に鎧を着ていたために無事でした。
献帝は玉璽を差し出し、禅譲の詔を出しましたが、
曹丕は、その文面が気に入らないと言って、
もう一度発布し直すよう求めました。
形式的には、「辞退」したということになります。
「この文面は悲哀に満ち、まるで私が剣を突き付けて
禅譲を迫っているようではないか」
曹丕の言葉に、「だって、そうじゃないか」と返したあなた、正解です。
献帝は、詔を突き返しにきた華歆に、
「では、今度はそなたが書いてくれぬか」と頼みますが、
「はなはだ、恐れ多い」と返します。
「お前がいうか・・・」という目で睨む献帝。
結局、献帝みずからが筆をとることになりました。
本来は口述筆記という形で、臣下に書かせるもので、
皇帝が自分で書状を記すなど、あり得ぬことですが・・・。
かくして、朝議の席で献帝がそれを読み上げ、
正式に、魏王への禅譲の式が行われることになりました。
しかし、曹丕はこれを辞退して退去していきました。
二度目の辞退です。
「魏王はまたも受けようとしないではないか。もう手だてがない」
嘆く献帝に対し、華歆が言いました。
すなわち、「禅譲は三辞三譲」という故事です。
古来から、形式として、禅譲は世間体を慮って、三度目にして
ようやく受けるのが礼儀だというのです。三辞とありますが、実際には二辞ですね。
曹丕はそれを実践しているわけですが、
献帝は、あまりの屈辱にもう魂が抜けたような顔になってしまいました。
後宮に戻った献帝は、憤りのあまり自害を図ろうとしますが、
すでに生きる屍と化している自分の身を悟り、思いとどまりました。
そこへ司馬懿が訪ねてきて、献帝の前で跪きます。
「君臣の道を、まだ覚えているものがいるとはな・・・」
しかし、司馬懿はすぐに姿勢を崩します。その真意は・・・?
【このひとに注目!】

◆華歆(かきん) 157年~231年
司馬懿の頼みを受けてのこととはいえ、献帝に対して無礼な態度をとりつづけ、執拗に禅譲を強要する魏の文官。原作小説『三国志演義』でも同様の役割で、、曹操が献帝の前の皇后である伏皇后を廃そうとしたとき、華歆が兵を率いて宮中に入り、隠れていた伏皇后を引きずり出すという暴挙を行うなど、冷酷なる悪人として描かれている。
しかし、『正史』では上記のような悪行は見当たらず、純潔で徳性を備えた者として評価されている。官吏が休日に繁華街で遊んでいても、華歆は門を閉ざし家から出なかった。議論では、決して相手を傷つけるような言動は取らず、清貧に甘んじ、俸禄や恩賞は一族の者に分け与え、家には貯えがなかったという。『正史』と『演義』で描写にギャップがある人物は何人かいるが、その典型例。『正史』では、あまりに非の打ちどころがないため、かえって演義のほうが実像を伝えているのかも・・・と疑いたくなるほどだ。
2012年07月13日
皆さん、こんばんは!哲舟です。
関羽、曹操の死をもって第5部「奸雄終命」が終わり、
今日から、第6部「天下三分」に入って行きます。
その2人を贔屓していた方は、興味がやや薄れてしまうかもしれませんが
三国志は、これからが本番といっても過言ではありません。
この先もどうかお見捨てなく、お付き合いくださると嬉しいです(笑)。
さて、曹操の葬儀が行われている裏では、
次の王位をめぐっての後継者争いが繰り広げられていました。
曹操は曹丕を後継者にすると言ってなくなりましたが、
そのとき、枕もとにいたのは曹丕だけで、
兄弟である曹彰、曹植は遠くに赴任しているため遺言を直接聞いていません。
危惧しているところへ、曹丕が一番恐れている曹彰が、
大軍を率いて許都へ乗り込んできました。
慌てる曹丕に、司馬懿は
自分が曹彰を説き伏せるといってその軍営に出向きます。
自分こそが後継者である、曹丕が勝手な真似をすれば、
許都を落す、と息巻く曹彰に対し、司馬懿は得意の舌鋒で対抗。
「誰が王位を得るかは天意であり、争うものではありません。
今、内乱が起これば先王(曹操)の労苦は無に帰します」
舌先で曹彰を説得した司馬懿、
みごと、軍権を曹丕に譲らせることに成功します。
海千山千の司馬懿の前では、
青二才の猛将曹彰など相手にもなりませんでした。
曹丕は、今回はもちろんですが、司馬懿のこれまでの功績に感謝し、
望みどおりの官職を授けようとしますが、
司馬懿は「賢者は実を求め、愚者は名を争う」といって、
大尉、相国といった高い位に就くのを嫌い、いずれも固辞します。
弱った曹丕は、ひとりの美女を呼び寄せました。
司馬懿をして、「かの貂蝉(ちょうせん)も及ばぬ美しさ」と
目を見張るような美貌の持ち主。この美女は静姝(せいしゅ)といいます。
かつて、大将軍として朝廷に君臨した何進(かしん)の孫娘だそうです。
彼女を、曹丕は実の父同然ともいえる司馬懿に預けたいと言うのですが、
司馬懿は「これほどの美女は魏王のもとに置いておくほうが」と断ります。
曹丕は「いずれ父に献上するつもりでした。ぜひ先生のそばに」と勧めたため
司馬懿はそれを受け入れ、静姝を連れ帰って愛妾としました。
それからというもの、司馬懿は静姝を常にそばに置いて寵愛します。
人前で感情を表すことの少ない司馬懿が、
縫い物をする静姝の顔にじーっと見入って、息子と軍事の話をするときも
その後姿に見とれてしまうほどの寵愛ぶりを示します。
ちなみに、この静姝は、正史にはもちろん、
原作小説「三国志演義」にも登場しない本作オリジナルの人物です。
この先も登場するので、顔をよく覚えていて欲しいと思います。
もっとも、これだけの美女、一度見たら忘れないでしょうが・・・(笑)。
さて、もうひとり、曹丕が恐れる相手は曹植です。
父以上の詩文の才能に恵まれ、名声も高い曹植・・・。
彼は曹丕の呼び出しにも応じないため、
「反逆罪」を口実に殺してしまおうと考えます。
臨葘侯府(りんしこうふ)で、毎日、詩作と酒に溺れている曹植を、
許都へ連行するため、許褚(きょちょ)が赴きます。
曹植も、許褚が来た目的を察しており「殺してみよ」と怒鳴りつけます。
魏王の弟である曹植に、さすがの許褚も手を下せません。
「私が死んでも、詩は永久にかぐわしい。
人生など一日長く生きようと、一日早く死のうと変わりない」
曹植は、引き留める近習にそういって、許都へ向かいます。
卞氏(べんし)が、ここで初登場します。
彼女は曹操の正妻で、曹丕・曹植・曹彰・曹熊の実母です。
もっと早くに登場しても良かった気がしますが・・・。
卞氏は、曹丕が曹植を殺そうとしている意図を見抜き、叱りつけると、
曹植を殺さないよう嘆願。曹丕も、孫権同様母に頭が上がらず、
「それは誤解です」と否定。母の前ではひたすら孝行息子を演じます。
母が去ったあと、「誰がしゃべったのだ」と、裏の顔を見せる曹丕。
曹丕は、もちろん曹植を殺すつもりでしたが、
母の必死の嘆願を聞き入れないわけにもいかず、
条件次第で曹植を生かしてやろうと考えます。
宮城に入ってきた曹植を迎えた曹丕は、ある課題を出します。
それは、「七歩あるく間に詩をつくれ」という無理難題でした。
というのも、曹植自身が以前から「七歩の間に詩が作れる」と
豪語していたからなのですが・・・。
曹丕は詩の題を、「兄弟」に決めました。
ただし、その詩の中に兄弟の二文字を入れないことを条件にします。
しかし、曹植は、少しも慌てず「御意」と答え、歩みを始めました。
華歆が、その歩数を声に出して数えるので、場に緊張が走ります・・・。
曹植は、6歩目を歩き終わったところで立ち止まって吟じ始めました。
「豆を煮るに、豆がらを燃やさば、豆は釜の中にありて泣く。
もとは同じ根より生ぜしに、あい煮ること、なんぞはなはだ急なる」
豆を煮るために豆がらを燃やせば、
豆は釜の中で泣いているような音を立てる。
もともと一つの根から生じたものなのに、
なぜこのように酷くいたぶるのですか・・・
兄の曹丕と自分の今の身の上を、見事に七歩で表してみせた名詩、
途中から曹丕も落涙し、群臣は心から感じ入って耳を傾けます。
後世、詩聖のひとりに数えられる曹植の才能は確かなものでした。
大いに心を動かされた曹丕は立ちあがって弟の才能を称え、
その命を助け、降格処分に留めるのでした・・・。
◆本日は、公開コメント欄からいただいた皆さんからのご質問にお答えしたいと思います。すべての質問はカバーできていないかも知れず、手短で恐縮ですがご了承ください。(拍手欄からいただいたご質問は、非公開のため回答できません。申し訳ありませんが、ご質問のある方はコメント欄からお願い致します)
Q.第63話で賄賂を要求した門番さん、劉賢役など様々な場面で出てくる役者さんですよね?本当に何役もこなしていて、今では顔を見つける度に思わずクスリと笑っちゃいます。機会がありましたら、この一人数十役のエピソードを教えて下さい。宜しくお願いします。(ももりんさん)
A.このドラマ、結構役者の「つかい回し」をしているようです。中国では長編ドラマで時々、役者が変わることがあるのは知っていますが、今回のように一人で何役も演じるケースは私も知りませんでした。こういう使い方、日本のドラマなどでは見られませんよね。まあ、おそらく人件費削減のためでしょう。それ以上の詳しいことは、残念ながら分からないです。すみません・・・(笑)。
Q.68話「単刀会」で気になる場面がありました。許都で曹操、文武百官が宮城へ入るシーンで、「皇帝のめいにより丞相は剣を帯び履物のまま入朝す。くわえて名乗ること無用。」という人物が「孫乾」にしか見えないのですが。ここに孫乾が居るとも思えないし、そっくりなだけ?と混乱しています。(関々羽さん)
A.上の答えと同じく「役者の使い回し」ですね・・・。ちなみにこの人、第18話で呂布を処刑するときに号令する兵士の役もやっていました。孫乾は結構重要な役回りですし、特徴ある顔立ちの彼に何役も演じさせるのは、ちょっと理解に苦しみますよね・・・(笑)。
Q.第68話で呂蒙が魯粛の足を洗おうとしたけれど、なぜ拒否されたのでしょうか?(ヤッターさん)
A.足を洗うなど身の回りの世話をするのは、身分の低い使用人の役目なので、魯粛は副都督の呂蒙にそんな真似をさせたくなかったのだと思います。
Q.ドラマにでてくる広壮な殿舎・城塞などは、セットの様には見えません。紫禁城の一角や遺跡などを使って撮影しているのでしょうか。あるいは日本でもよくやっているように寺院などを利用しているのでしょうか。(僭称二代目人生幸朗さん)
A.中国には、日本の映画村のような時代劇のセットが組まれた広大な施設があり、そこで撮影が行われたようです。もちろん、本作のために大改造を加えて。また、宮殿に置かれた屏風や地図などは専門の画家が手作業で書いたものであるなど、小道具には徹底的にこだわったとか。戦場で戦う兵士は、延べ15万人を数えたそうです。彼らは現役の人民解放軍のため、民間人よりも安いギャラで使うことが出来たそうですが。総製作費25億円にも納得です。
Q.成都に玄徳さんと入城した孔明先生はいつもの綸巾をかぶっておらず冠をつけておられます。 そして・・・何故、三つ編み? 身分、職業等で髪形や冠にきまりごとがあるのでしょうか? それとも単にドラマ的なヴィジュアル重視、なのかしら? (ぴかさん)
A.おっしゃる通り、お色直し的な意図でそうなったのでしょう。上の問いの続きになりますが、主役級の役者の衣装は20着以上も用意されたそうなので、その一環だと思われます。あとは、まあ冠のほうが偉く見える効果もありますよね。
Q.よく話の中で出てくる「正史」と「演義」ってなんのことでしょう?もう呆れられてしまうような質問ですが、いつか教えていただけると助かります。(三国志初心者さん)
A. 4月にいただいていた質問ですが、回答が遅くなってすみません。これを説明するのには、とても数行では難しいので、しばらく避けておりました(笑)。簡単に解説しますと・・・。
<正史・三国志>後漢~三国時代の歴史書のこと。
中国の歴史家・陳寿(ちんじゅ)が、西暦280年代(3世紀!)に執筆・編纂した。「魏書」「蜀書」「呉書」の3篇に分かれ、それぞれの人物伝がつづられている。魏を正当な王朝としながらも、蜀・呉の人物伝も平等に書かれ、三国時代から間もない時代に書かれているため、良質な歴史書といわれる。
日本語訳で発売されているものでは、ちくま文庫の全8巻(正史 三国志)が読みやすい。ただ、小説ではなく、あくまで一人ひとりの伝記に過ぎないので注意。最近は、この正史をもとにした小説や漫画も多くなっている。
<演義>後漢~三国時代の歴史をもとにした、時代小説「三国志演義」のこと。
物語形式になっているので読みやすい。一般的に「三国志」といえば、こちらを指す。中国の明代(16世紀)に書かれ、日本にも江戸時代に輸入された。日本でもっとも有名な吉川英治の小説「三国志」や、横山光輝の漫画「三国志」なども「三国志演義」が原作となっている。このドラマの原作も同じ。
全体的な流れは正史に沿っているが、後漢末・三国時代を舞台とする民間伝承や、講談で広まった話をもとにしているため、フィクションが多い(諸葛亮の神がかった活躍、猛将同士の一騎打ちのほとんどがそう)。フィクション6割、史実4割といったところ。劉備と蜀漢を善玉、曹操と魏を悪役としているのも特徴といえる。
※もっと詳しく知りたい方は、検索して調べてみてください。
では、皆さま。また来週月曜(祝日ですが放映・更新します)お会いしましょう!
2012年07月12日
昨日、そして今日と、なかなかに重苦しい展開に、
綴っているほうも「しんどい」感じですが、皆さんいかがでしょうか?
なにしろ、今日は「曹操薨去(こうきょ)」ですからね・・・。
タイトルを見るだけで色々思うことがあり、
また、この先も様々な人物の死を
伝えていかなければならない辛さを感じてなりません。
さて、関羽が戦死した次の年(西暦220年)の正月、
呉の都・建業では、陸遜(りくそん)が孫権に謁見します。

しかし、先に大都督・呂蒙(りょもう)の屍を、目の当たりにした陸遜は、
孫権の顔をまともに見ることができません。
「聞かせてくれ。誰が呂蒙の跡を継ぎ、呉の大都督を担えるか」

孫権は、陸遜に問います。
むろん、それは陸遜を大都督に任じたいがためですが、
当の陸遜は「争いが収まった今、大都督は不必要です」といい、
自分が任じられている副都督の座を返し、郷里に帰りたいと望みます。
呂蒙は孫権の命令に従わず、独断で関羽の首をはねたために
祝宴の席で毒殺されたのです。
それは、「自分に逆らう者はこうなる」という、
孫権の行なった「見せしめ」でもあったのですが、
事情をさとった陸遜は、いつか自分も同じ道を辿るかもしれないと思い、
職を辞して野に下りたいと申し出たのです・・・。
孫権も、この場ではそれを許しました。
このあたりから、彼の狡猾・冷酷な一面が強く表に出てきます。



周瑜、魯粛、呂蒙・・・と引き継がれてきた呉の大都督の座は、
陸遜が辞退したことで、ひとまず空位ということになりました。
ちなみに、この「大都督」とは、これまでのところ呉にのみ見られるもので、
君主に代わって戦いの指揮を執る、軍の総司令官といった役職です。
魏や蜀では、丞相や大将軍といった地位に匹敵するといえるでしょう。
しかし、激務のせいか、みな早世しています・・・。呂蒙も42歳でした。

呂蒙の死について、もう少し語っておきましょう。
彼は「正史」でも関羽を討った直後に病気で亡くなるわけですが、
原作小説「三国志演義」では、関羽に呪い殺されたという、オカルト的な描写がなされており、
三国志ファンの中には「呂蒙の死は関羽の呪い」と信じている人もいるぐらいです。
まあ、そんな死に方よりは、本作の演出のほうが納得はできますよね・・・。
さて、そのころ蜀の都・成都では・・・
書きものをしている劉備のもとを、関羽が訪れました。
「弟よ。何かあったのか?」
関羽は荊州にいるはずですから、
ここ数年、会っていない義弟の姿を見て、嬉しそうな顔をする劉備。
しかし、関羽は問いに答えず謎めいた言葉を発するのみです。
「雲長、何を言う。どうしたのだ。どこへ行く!」
劉備が叫びますが、関羽は、すっと立ち去り二度と姿を現しませんでした。
狐につままれたように、呆然とする劉備。
そこへ、諸葛亮(孔明)が入ってきます。
孔明は、いつになく落ち込んでいる様子で・・・
力なく、荊州が陥落したことを劉備に伝えます。

蜀に入って以来、孔明が一番心配していたことが現実になってしまいました。
荊州が落ちたということは、関羽が敗れたということですが、
使者から直に荊州陥落、関羽戦死の知らせを聞いても、
劉備は信じようとしません。
「あり得ぬ。雲長は戦死などせぬ。わが弟は天下無敵ぞ!」
劉備はそう叫んで取り乱し、ショックの余り倒れ伏してしまいました・・・。
また、所かわって魏の都、許都・・・。
曹操はこのところ持病の頭痛が重く、押し黙ることが多くなっていました。
そこへ程昱(ていいく)が、呉からの贈り物を持ってやってきます。
孫権は、曹操の誕生日を祝い、何やら送ってきたというのですが・・・
曹操が箱を開けさせると、そこに入っていたのは関羽の首、でした。

狡猾な孫権は、あくまで曹操の命令によって荊州を攻め取り、
関羽を殺したことにして、劉備の怒りを曹操に向けさせるよう仕向けたのですが
曹操は即座に、その意図を見抜きます。
さすがの曹操も、関羽の首を見たくはないようでした。
関羽が死んだのは前年の暮れ。
冬場とはいえ、輸送される間に、すでに何日も経っているはずです。
ドラマでは奇麗な形を保っていましたが・・・。
曹操は、洛陽の南門の外に首を埋葬するよう命じました。
すぐさま、そこに関羽の墓が建ち、詣でて彼を弔います。

荀彧(じゅんいく)のときと同じように、
曹操は関羽の死を悼み、昔を懐かしみます。
かつて、曹操がいくら心を尽くしても、
ついに自分の配下にできなかった関羽・・・。
魏の将軍たちも、曹仁、張遼、許褚(きょちょ)をはじめ、
当時を知る者は多く、みな関羽の墓前に来てその死を悼んでいます。
みな髪に白いものが目立ち、時の流れを感じさせます。

第23~25話あたりの経緯を知っていると、
涙なくしては見られない場面です・・・。
「雲長、来世でまた会おう・・・休むが良い」
関羽との別れをそう締めくくった曹操ですが、
そこで激しい頭痛に襲われ、倒れてしまいました。
そのまま床に伏した曹操。
侍医の勧めにより、名医・華佗(かだ)が呼ばれてきます。
前々回、関羽のひじの毒を取り除いたあの名医です。
曹操の容体を診察すると、脳に病根があり、それを取り除けば治るといいます。

取り除くには、頭を切り開くしかないという華佗に対し、
曹操は、「わしを殺そうとするつもりであろう」と疑い、
華佗を捕え、投獄させてしまいました・・・。
もともと警戒心の強い曹操ですが、もはや正常な判断力も失っていたのでしょう。
華佗が曹操に処刑されたのは、史実上では208年のことでした。
いずれにしても、曹操のために彼の優れた医術は永遠に失われ、
後世に伝わることなく潰えました。
麻酔薬や、正月に飲むお屠蘇(とそ)も、元は華佗が作った薬だったそうで、
「五禽戯」(ごきんぎ)という、太極拳に似た健康体操を生み出したともいいます。
華佗を殺したことは、曹操の犯した重大な汚点のひとつといえるでしょう。
自身も、華佗を殺したことを晩年になって悔やんだそうです。
続いて群臣たちは、曹操が生きている間に帝位につくことを望みますが・・・
曹操はそれを承知しません。
「わしは皇帝になりたいと思ったことはない」
曹操はそのようにいいますが・・・あと数年でも長生きしていれば、
もしかしたら帝位に就いたかもしれません。しかし、寿命が先に来てしまいました。
曹操は結果的に、魏王のままで過ごしたことになります。
「名は王位に至り、爵位も極めた。それで十分だ・・・」
いよいよ最期が近いと見た曹操は、曹丕と許褚を枕元に呼びます。
曹丕がやって来ると、曹沖の死(第45話)を今さら持ち出し、彼に問いただします。
曹操は、あのとき毒鼠などいなかったこと、曹丕が棺の番をしていても
三日三晩眠らなかったため、ずっと疑っていたことを打ち明けます。
曹操は、死ぬ前に真実を知りたいと思ったのでしょう。
許褚を呼んだのも、曹丕を脅すためで、
彼が真実を話しても本当に殺す気はなかったはずです。

しかし、曹丕は無実を訴えます。
涙ながらに、曹操の足もとにすがりついてまで・・・。
結局、曹丕は自白せず、「大したものだ」と曹操はいいます。
曹操は曹丕が犯人だと確信しているのですが、結局最後まで
彼の口から真実が語られることはなかったのです。
結局、本当に曹丕は曹沖を殺したのでしょうか・・・?
もしかしたら、曹沖は本当に事故で死んだ、
あるいは曹丕以外の何者かに殺された可能性もあります。
しかし、その答えは本作の中では直接描かれていません。
毒鼠(毒蛇)に咬まれたという死因は本作のフィクションですが、
「正史」を見ても、答えはありません。
死因については病気としか書いていないからです。
三国志の登場人物の死はある意味、謎だらけなのです・・・。
曹操は許褚を下がらせ、曹丕を枕もとへ呼び寄せました。
曹操は、「司馬懿を重用せよ」と言い残します。
司馬懿の助けなくしては、諸葛亮と渡り合えぬと。
同時に、司馬懿への警戒を怠るな、とも・・・。

近臣を呼び寄せ、曹操は居並ぶ諸官に最後の言葉を伝えます。
そして、跡継ぎの曹丕を支えるように懇願するのでした。
まだ、身体を起こしていおり、言葉もハッキリしていますが・・・
いよいよ最期が近づいており、許褚などは泣きそうな顔をしています。
言い終えると、曹操は涙を流し皆との別れを惜しみます。

「死など恐れぬ。死は涼しい夏の夜のごとく、誰もが気持ちよく眠れる・・・
世の中の者はわしを見誤っており、この先も見誤るやもしれぬが、
わしは、わしであり続ける。見誤られることなど、露ほども恐れぬ」
曹操はいい終えると、曹丕に酒を持ってこさせ、
それに指先を浸して弾いたあと、そのまま事切れました。
乱世の奸雄(かんゆう)と呼ばれ、希代の軍略家であり政治家、
そして発明家であり詩人としても名を馳せた傑物が、世を去りました。
享年66歳・・・。
ガオ・シーシー監督のインタビューによれば、
曹操が最期につぶやいた台詞は、曹操役のチェン・ジェンビンさんと
議論を重ねた末に生まれたものだそうです。
撮影現場では、この2人は何度か火花を散らしたこともあったそうで、
中国人のプライドの高さと同時に、監督・役者としての作品への執念が伺えます。
さて、盛大なる葬儀が執り行われ、号泣する重臣たち。
そこへ献帝・劉協も、みずから弔問に訪れます。

出迎えようとする曹丕を、司馬懿が「その必要はありません」とたしなめます。
次いで、司馬懿は曹丕が「魏王」の座を継いだことを告げますが、
献帝は勅書を出してもいないのに、それをこの場で認めてしまいました。
そして重臣のひとり、華歆(かきん)は
亡くなった先王(曹操)に、叩頭の礼をとるよう献帝に要求します。
叩頭の礼とは、額を地面に打ち付けて跪くことであり、
本来は臣下が皇帝に対して行う礼なのですが・・・。

皇帝が自ら臣下の葬儀に出向くだけでも異例なのに、
叩頭の礼をとれとは、無礼にも程があるといい、献帝も激怒しますが、
群臣たちは、すでに漢の臣下ではなく、魏の臣下であるという態度で
献帝を見下し、強硬な姿勢を崩しません。
その空気に耐えきれず、献帝は膝をつき、
ついに叩頭の礼をとってしまいました・・・。
これはもう、屈辱以外の何ものでもありません。
漢王朝(後漢)、そして献帝の命運も、すでに風前の灯であることが、
改めて公の場で浮き彫りとなります・・・。
◆関羽の墓について


ドラマの中で、曹操が関羽の首と、香木で造った胴体を埋葬して墓を造らせていたが、その塚(墓)は、今も実在する。その場所は、洛陽市街から南へ車で約30分(河南省洛陽市関林鎮)のところにある「関林廟」というところで、現在は観光名所となっている。
本殿(写真右)には、関羽・周倉・関平・廖化・王甫が祀られ、脇に五虎将を祀った「五虎殿」もある。その奥に首塚と思われる小高い丘(写真左)がそびえる。日本も含め中国各地にある関帝廟の総本山であり、三国志ファンであれば一生に一度は訪れたい場所といえる。ちなみに、関羽の胴体を埋葬した場所も、荊州に「関陵」(現在の湖北省宜昌市)として保存されており、関林廟にならぶ関帝廟の総本山として知られる。
◆曹操の墓について


関羽の後を追うように亡くなった曹操。その墓は、今まで長らく発見されておらず歴史の闇に消えていたが、2009年12月に、河南省安陽市(安豊郷西高穴村)でそれらしき墓が発見され、アジアの考古学会で一躍話題になった。墓は、埋葬からそれほど時間が経過していない時代から盗掘の跡が認められたが、発見後の調査で曹操本人のものとみられる頭がい骨の一部や、曹操を示す「魏武王」と刻まれた石板が見つかった。そのため「曹操高陵」として一般公開へ向け、調査・整備が進められていた。
しかし、「曹操の墓ではない」とする真偽を問う声も出たことで、現在は調査・整備ともストップしている模様である。発掘当初に観光名所化めざして造られた立派な看板も立っているが、まだ一般公開はされていない。事前に申し込みをしていなければ原則として見学は許されず、エントランスから先の囲いには入ることができない。今後の詳細な調査および一般公開が待たれる。
2012年07月11日
関羽の猛攻にさらされている樊城(はんじょう)は、
曹仁が10万の兵で堅く守っていましたが、
すでに兵糧も尽き、もはや兵の士気も限界に近づいています。
先に、于禁と龐徳(ほうとく)率いる援軍10万が、
関羽の水攻めによって壊滅させられたため、また窮地に立たされました。
このまま行けば、樊城陥落は時間の問題です。

曹操は、徐晃(じょこう)を援軍の第2陣として派遣していましたが、
樊城から離れた宛(えん)に駐屯して待機するよう命令されていたので、
徐晃は城兵の危急の知らせにも、動くに動けない状態でした。
そこへ、曹操がやってきて総攻撃を命じます。
曹操は、呉の呂蒙が荊州を攻めるのを待ち、
攻撃するタイミングをじっと見計らっていたのです。

曹操は、ドラマでは落ち着き払い、あまり焦った様子はありませんが・・・
史実では、関羽の猛攻はもっとすさまじいものでした。
樊城だけでなく襄陽も包囲し、荊州や中原の有力者も
関羽の勢いに恐れをなし、投降する者、内応する者が相次ぎました。
「関羽おそるべし」と見た曹操は、
遷都まで考えたほどに狼狽したといいます。
攻撃を待ちわびていた徐晃は、魏軍12万の精鋭部隊を預かり、
勇躍し、樊城救援に向かいました。
徐晃は樊城を包囲する関羽の陣営のうち、東西の砦を攻めにかかります。
さすがに関羽の軍兵はよく訓練されており、手ごわく、
なかなか落とすことができません。

曹操とともに戦況を見守る司馬懿は、あまりの激戦に、
「まもなく、山野のあちこちに血の河ができましょう」とつぶやきます。
しかし、曹操は味方の兵たちの鬨の声を聞き、
その士気が旺盛であることをみて、勝利を確信します。
徐晃の援軍に勇気づけられ、樊城内からは曹仁の兵が出撃し、
関羽の軍を挟み撃ちする格好となりました。
一方、関羽軍は半年以上もの長い戦いに疲弊しており、
魏の新たな援軍の猛攻を受け、徐々に劣勢に立たされてきました。
曹操軍の猛攻に、まず東の砦が陥落します。
ここで、関羽のもとに「荊州が陥落した」との情報が届きました。
しかし関羽は、それは曹操の流言と見て本気にせず、
関平に東の砦を奪還するよう命じます。
そのころ、その荊州城は呉の呂蒙の猛攻を受けていました。
呂蒙は兵を商人に化けさせ、見張り台を守る兵士に接近して殺害し、
関羽の置いた狼煙台を無効化したうえで、攻撃をしかけたのです。
ほとんどの兵が出陣してしまった荊州城は防備が薄く、
呂蒙軍の猛攻の前に、もはやなす術なく、陥落してしまいます。

荊州を落とした呂蒙は、簡素な祭壇を設け、
周瑜でしょうか、魯粛でしょうか・・・あるいは2人の?
大都督の霊に祈りを捧げました。
そこへ、孫権の命を受けた陸遜(りくそん)が
「関羽を斬るな」と忠告しにやってきますが、
呂蒙はそれに耳を貸さず北上し、関羽を追撃にかかります。
そのころ、関羽の陣営に、周倉と関平が
息を切らしてやってきて、荊州陥落の報を改めて告げます。
初めは信じなかった関羽ですが、その情報が確かだと知るや愕然となります。
川沿いの狼煙台がつぶされ、麋芳、傅士仁も呉に投降したと聞き、
関羽は憤りのあまり、ひじの傷口が開いてしまい、苦悶の表情を浮かべます。

そこへ、徐晃が関羽の本陣を急襲します。
関羽は自ら徒歩立ちで応戦に出てきたので、さすがに徐晃も恐れをなしますが、
刃を交えてみると、関羽は片手しか使えず、その一撃には力がありません。
徐晃は今こそ関羽を討ち取る好機とみて、続けざま攻撃。

関羽危うしと見えたそのとき、関平、周倉が躍り出て、
徐晃をいったん退かせ、関羽をかばい退却にかかります。
原作では、ひじを負傷していても80合ほど徐晃と打ち合った関羽ですが、
ドラマでは何とも力なく、徐晃に斬られそうになるという描写は、
ちょっと悲しく映りました。まあ、そのほうがリアルな描写かもしれませんが・・・。
追撃にかかる徐晃と曹彰。
関羽を斬ると息巻く曹彰ですが、曹操から「関羽は殺すな」と軍令が届き、
それを守ろうとする徐晃と曹彰の間で口論が起きます。
曹操は自ら曹彰を叱りつけに来ました。
関羽を殺せば、劉備が全軍で仇討ちに来ることを恐れ、
その役目は呉軍に負わせよ、というのです。
そのため、曹彰は関羽を捕えず、遠巻きに追うだけにとどめます。
陣営を失い、荊州にも引き返せなくなった関羽は、
わずかな兵とともに逃走を続けていました。
一夜明け、関羽の髪やヒゲはすっかり白くなっています。
あまりに突然でびっくりしましたよね?
せめて前回から白くなっていても良かったように思いますが・・・。

馬良とはぐれてしまった関羽、いまさらながら彼の忠言を無視して
荊州を空けてしまったことを後悔しますが、覆水盆に返らず・・・です。
近くを守る劉邦と孟達までもが寝返ったことを知り、関羽は再び傷口が開いて昏倒。
そこで一行は、近くにある小城、麦城(ばくじょう)へと落ち延びました。
しかし、そこにも呂蒙の追手が迫ったため、
関羽は突破しようと攻撃を命じます。
なんとか突破しますが、すでに味方の兵は12騎にまで減っていました。
一方の呂蒙は執拗に追跡し、手を緩めず関羽を追い詰めます。
その後を陸遜が追いますが、呂蒙はそれを振り切って先を急ぎます。
麦城から襄陽へ逃げる途中、関羽一行はついに呂蒙軍に追いつかれました。
関平、周倉が必死に抵抗し、呂蒙軍をたじろがせますが、わずか十数名では
多勢に無勢。兵たちに続き、彼らも敵兵の槍を受け、ついに倒れました。

関羽は味方が戦っている間、一歩も動かずにいましたが、
彼らが全滅したため、呂蒙の兵に包囲されます。
青龍偃月刀に手をかけているため、誰も彼に近づこうとしません。
傷つき、老いていても関羽の武勇は、それだけ恐れられているのです。

関羽が立ちあがると、兵たちは一斉に後ずさりします。
剣を抜いた関羽は、その剣で自らの首すじを切り、ばったりと倒れました。
関羽は、これ以上戦って呉の将兵を無駄死にさせたくなかったのでしょう。
あるいは、名もなき雑兵の手にかかることを嫌ったのかもしれません。
希代の豪傑、天下に勇名轟いた関羽が、ここに落命しました。
その見事な死に様に、馬を下り、頭を垂れる呂蒙・・・。
やがて意を決すると、倒れている関羽の首を打ちます。
そこへ陸遜が追い付いてきますが、時すでに遅し、でした。

呂蒙にとって、関羽は荊州という目標そのものでした。
周瑜、魯粛がついに取り戻せなかった荊州を、自らの手で取り戻し、
関羽の首級をあげることで悲願を果たし、呂蒙は歓喜に震えたのです。
呂蒙は、孫権の呼び出しに応じ、呉の新たな都・建業(けんぎょう)に帰還します。
みずから出迎え、その労をねぎらい、功績を称える孫権。
呂蒙は、さっそく関羽の首を孫権に見せ、手柄を誇りますが、
孫権は喜びの色をあまり出さず、「その首を曹操に届けよ」と命じ、
呂蒙を城内の祝宴の席に招きます・・・。
孫権のいうように、関羽を討てたのは呉の独力ではなく、
魏との挟撃作戦のおかげに他なりません。
しかも、関羽の首を手元に置いておいては、
劉備の怒りを呉が一身に受けることになってしまう・・・。
そのために、孫権は曹操に関羽の首を送るよう命じたのです。
何日か経ち、呂蒙が病気にかかったという報告を受けた陸遜が、
建業にやってきました。そこで陸遜が見たのは、呂蒙の屍でした・・・。
呂蒙は酒宴の最中に突然倒れて苦しみ、死んだ。
張昭は、陸遜にそう知らせたのですが・・・
陸遜はその意味をすぐに察したのです。
陸遜は、孫権に対してどのように接するのでしょうか。
そして関羽の死を知った劉備は・・・?
【このひとに注目!】

◆徐晃(じょこう) ?~227年
曹操が、洛陽で献帝を保護した頃から仕えている古参の将軍。原作では「官渡」の前哨戦、白馬の戦いにおいて、顔良と一騎打ちをするが猛攻に押されて逃げ帰った。しかし、その後は曹操軍の主力のひとりとして数々の戦いで功績をあげる。
正史においても、魏軍では、張郃(ちょうこう)と並ぶ戦上手の名将である。徐晃が関羽を破ったとき、曹操は「わしは30年以上も兵を用い、古の戦上手な将を数多く知っているが、このように敵に突撃した者はいなかった。樊城における状況は、燕が斉の莒と即墨を包囲したとき以上に困難なものであった。徐晃の功績は孫武(そんぶ)、司馬穰苴(しばじょうしょ)にも勝るであろう」と、褒め称えている。
2012年07月10日
曹操が派遣した于禁(うきん)、龐徳(ほうとく)が、
関羽に攻められている樊城救援に向かっているなか・・・
呉の孫権陣営では、張昭、諸葛瑾、呂蒙、陸遜ら
4人の首脳が、孫権を囲んで軍議をしていました。
荊州・益州・漢中を奪って勢いに乗る劉備と、
この先どう対抗すればよいか、孫権は皆に問います。
すると陸遜(りくそん)が、関羽に縁組を申し入れるよう進言しました。

関羽の娘を、孫権の息子にもらうよう交渉し、
関羽が応じれば改めて荊州返還を催促し、
断れば、呉を軽んじているとみて攻撃の口実とする・・・
孫権はその策を受容れ、さっそく荊州へ使者を遣わします。
そのころ、関羽は樊城の近くに軍営を置いていました。
樊城を守る曹仁も、さすがに名将。
守りが堅く、関羽もなかなか攻め落とせません。
やがて、魏の援軍が来たとの報が入りますが、
関羽はその大将が于禁だと聞いて嘲笑します。
「わしも軽く見られたものだ」といったところでしょうか。
そこへ呉の使者である諸葛瑾(しょかつきん)がやって来ます。
諸葛瑾はさっそく、関羽へ縁組の話を持ちかけますが・・・
関羽は大笑し、まともに取り合うこともしません。
「虎の子を狗(いぬ)の子になどやれるか!」と言って、
諸葛瑾を追い返してしまいました。自分が虎、孫権は狗扱いです。
国と国との交渉事に、あまりに尊大な態度・・・

「断るにしても、返答を濁すべきでした」
軍師の馬良は、ハラハラしてたしなめますが、
関羽はまったく聞く耳を持ちません。
馬良も、諸葛瑾と会うときに同席すれば良かったのに・・・
(馬良の眉の端が「白眉」のあだ名通り白くなっているところに注目)
関羽は、攻撃に本腰を入れようと、荊州から精鋭をすべて呼び寄せ、
2日以内に樊城を攻略せよ、と命令を下します。
「呉で兵法を知る者は周瑜と魯粛のみ。
あの2人亡きあとは呉は鼠どもの集まりに過ぎぬ」
荊州の守りを心配する馬良に対し、関羽はこう言い、
狼煙台を20里置きに配置することにして、
備えることにしましたが・・・そんなもので大丈夫なのでしょうか。
歳をとると柔軟性を失い、頑固になる人が多いですが・・・
関羽はその典型的な例といえましょう。
若いころから頑固でしたが、ここまで来ると、
頑固とか意固地を通り越したレベルです。
諸葛亮が一番憂いているのは、荊州を関羽が守っていることです。
その予感は、残念ながら的中する雲行きになってきました。
さて、諸葛瑾から関羽の返答を聞いた孫権は、激怒というよりもう呆れ果て、
陸遜の進言通り、「がら空き」となった荊州への出兵を命じます。

樊城付近では、曹操の援軍の先鋒・龐徳(ほうとく)が到着し、関羽と対峙。
龐徳は棺まで持参し、関羽か自分が死ぬまで闘うという決意です。
望み通り、関羽が陣頭に出て、両者の一騎打ちとなりました。
龐徳は、許褚(きょちょ)とも互角に戦った猛将ですが、
さすがに当代の豪傑関羽相手では分が悪く、圧倒されて落馬しますが、
倒れながらも、すかさず関羽めがけて矢を放ちます。
関羽は青龍偃月刀で防ぎますが、矢は弾かれて左ひじに命中してしまいました。

傷を負った関羽は撤退し、応急手当てをした後、
自ら魏の陣営を見るため、周囲の地形の偵察をし、そこで一計を案じました。
低地に陣を置いている敵軍を見、関羽が思いついた策は、水攻めでした。
さっそく堰を造り、水を貯めてから決壊させると、
于禁・龐徳の軍勢は、たちまち水に呑まれていきます。

こうなっては10万の大軍も全滅し、于禁は捕えられて関羽に降伏します。
「命だけはお助けください」と言う于禁を、関羽は昔のよしみで
一命は助け、荊州へ連行させました。
続いて、龐徳が縛って連れて来られます。
ドラマでは描かれませんでしたが、原作では水泳の達者な
周倉が水中で彼を捕え、捕縛しました。

龐徳は断固として降伏を拒み、関羽を罵ったために首を討たれます。
この龐徳、役者に精彩を欠きましたね。
欲をいえばもう少し貫禄のある役者に演じて欲しかったように思えます。
関羽は、勝利の勢いに乗じて樊城を落とそうとしますが、
馬良は半年も戦い続けで兵が疲弊していることを理由に休息を提案。
関羽はこれも退けます。少しぐらい馬良の意見を聞いてほしいのですが・・・。
孫権が攻めてくる危険性を指摘され、激昂する関羽。
すると、ひじの傷が痛み、とうとう倒れてしまいます。なんという間の悪さ。
龐徳の放った矢には猛毒が塗ってあり、それが腕を侵食しているのです。
そこで、ちょうどこの付近にいるという医師の華佗(かだ)が呼ばれてきました。
華佗は、当代随一の名医と評判の人物です。

華佗の診断では、毒が骨の髄まで達しており、それを取り除くには、
腕の肉を切り開き、毒が染み込んでいる骨を削り、
縫い合わせるしかないといいます。
当然、麻酔なんか無し。もう聞いているだけで気が遠くなりそうな荒手術ですが、
関羽は「さっさとやってくれ」と、左ひじを差し出したまま、馬良と碁を続けます。
本来なら、患者が痛みで動かないよう柱に縛りつけ、
患部を見ないよう顔を布で覆うのですが、
関羽は「無用」といって、そのままの態勢で手術を受けます。

関羽に促され、傷口にざっくりとメスを入れる華佗・・・。
関羽は、かすかに眉を動かしただけでピクリともしません。

骨を削り取る音に、そばにいる馬良や関平のほうが顔をしかめ、
体を震わせるほどでした。関羽は一度、激痛に碁石を取落しただけで、
悠然と碁を打ち続けています。
傷口の縫合が終わり、包帯を巻くと「なんだ、もう終わったのか」と関羽。
華佗も「長年、医者をしていますが、将軍のような方は初めてです」と感心しきり。
関羽がこの手術に平然と耐え抜いたことは
「正史」にも記されており、まさに超人といえます。
ただ、関羽を治療したのは「医者」としか書かれておらず、
華佗ではなかったようです。
当時、この華佗は初めて東洋で麻酔を使った手術をしたと
記録にあるため、もしも華佗であれば麻酔を使ったかもしれません。

しかし、「百日養生しなさい」という華佗の勧めも関羽の耳には入りません。
「ひじの傷は治せますが、将軍の驕り昂る性格は治せません」との
言葉を馬良に残し、華佗は立ち去りました。
そのころ、呂蒙は荊州との境・陸口に来て、城の備えを偵察していました。
関羽はいくつもの狼煙台を築き、1万5千の備えを残していることを知り、
容易に攻め込めないとみて、策を講じます。
呂蒙は仮病を使い、陸遜を派遣するよう孫権に使いを出します。
孫権はそれを聞き入れ、陸遜を大都督に任じて荊州へ派遣しました。
陸遜は、まだ他国に名を知られていない無名の人物でした。
それを知った関羽は、陸遜を侮り、荊州に残るほとんどの兵を
北上させ、樊城攻撃軍に加えてしまいます・・・。
陸遜は出陣前に、呂蒙に伝えるように進言しました。
「荊州は攻め取るべきだが、関羽を斬ってはならない
斬れば劉備の恨みは荊州をいくつ返しても消えない・・・」。
それを聞いた呂蒙はどう出るでしょうか。
そして、呉軍に背後を突かれた関羽、これをどう切り抜けるのでしょうか?
◆この人たちに注目!


周倉(左)と、関平(右)。周倉は関羽の護衛として、関平は養子ながら、関羽に忠実に従う息子として片時もそばから離れず、奮戦を続ける。実は周倉は「正史」には登場しない架空の人物。関平は「正史」では実の息子。この2人は、関羽が死後に神格化されたのに伴い、関帝廟にはその侍従としてともに祀られている。

◆関帝廟(かんていびょう)について
中国で最も有名な三国志の人物といえば、孔明でも曹操でもなく、関羽雲長その人である。有名というより、中国人にとっては非常に身近な「神」なので、彼らは「関羽」とは呼ばず「関公」または「関帝」と呼ぶことが多い。武神としてはもちろん、その忠義心から「商業の神」として有名である。
中国人のいるところ関帝廟あり、中国各地にはそれこそあちこちに、何千ヶ所も関帝廟がある。日本にも、横浜中華街をはじめ、神戸・大阪・京都・函館・長崎など10ヶ所以上も在日の中国人が建立した関帝廟が点在する(写真は、中国・洛陽関林にある関帝廟)。このように、ほぼ例外なく中央に関羽、左隣に青龍刀を持った周倉が、右隣に漢寿亭侯の印綬を持った関平が立っている。