第76話~第80話
2012年07月23日
いよいよ80話目。悲しい話が続きますが、今週も元気よく綴って参ります。
矢傷を負いながらも、捨て身の突撃を敢行した黄忠に
おびき寄せられた呉軍は、一転して窮地に立たされました。
大将の韓当(かんとう)、周泰(しゅうたい)は、討死を覚悟しますが、
そこへ呉の長老格の将・程普(ていふ)が助太刀に来て、
群がり寄る蜀兵を蹴散らし、彼らの窮地を救います。
しかし、程普は蜀軍に味方した異民族の将・沙摩柯(しゃまか)が
放った矢に貫かれ、落馬。戦死してしまいます。
蜀軍に完全包囲された呉軍は、
総数10万のうち7万の兵を失う大敗を喫し、かろうじて撤退しました。

一方、勝利した蜀軍ですが、代償も高くつきました。
黄忠(こうちゅう)が矢傷の悪化によって、死の床に伏したのです・・・。
さすがに老いた身での無理な行動が祟りました。
黄忠を見舞う劉備は、「お主を背負って荊州に入ろう」と励ましますが、
彼の息は、どんどん荒くなっていきます。

「あの世で雲長(関羽)に会ったら、言ってやりましょう。
陛下は、わしを五虎大将軍に任じてくださったのだ。
そなたは面白くなかろう、どうだ参ったか、と!!」
黄忠は絶叫、高笑いをしたあと、そのまま動かなくなり、帰らぬ人となりました。

黄忠の死を悼み、涙をぬぐい、新たに復讐を誓う劉備は
呉の援軍を撃退した今こそ、早く夷陵(いりょう)を落とせ、と諸将に命じます。
一方、大敗した孫権は、監禁していた陸遜(りくそん)を呼び出します。
孫権も荊州との境に位置する前線拠点、柴桑(さいそう)に出向いて来ていました。
孫権の言葉によれば、この戦いで程普のほかに甘寧(かんねい)、
馬忠(ばちゅう)、潘璋(はんしょう)らが戦死したとのことです。
夷陵は荊州における呉の重要拠点。
これを落とされれば、荊州は蜀の手に渡ったも同然となります。

孫権は、夷陵の防衛に陸遜を起用することを決め、
彼を大都督に任命し、全軍の指揮権を預けます。
呂蒙(りょもう)の死で、空位となっていた呉の4代目・大都督には、
陸遜が就任することになりました。

孫権は陸遜同席のもとで軍議を催し、大敗した韓当と周泰の処刑を命じますが、
黄忠を討った功績や諸葛瑾、張昭、陸遜らのとりなしで一命は助け、
名誉挽回の機会を与えます。
新・大都督の陸遜は、第一の布石として、
荊州各所の要地に数多くの軍営を築きました。
一方の劉備は、その軍営を視察しますが、
新たに指揮官となった陸遜が、まだ27歳であり、
今まで大した功績もないと知って「嘴の黄色い奴か」と侮ります。
しかし、馬良(ばりょう)が軽視しないよう忠告すると、
関興(かんこう)に軍営を攻めさせ、陸遜の才を試してみようといいます。
蜀軍が目の前に迫ってきましたが、前線で陣営を守る
韓当、周泰らは「戦うな」という陸遜の命令を守り、動けずにいました。
蜀軍の攻撃が始まると、今度は「後退せよ」との命令が下ります。
いぶかしむ両将でしたが、大都督の命なのでやむなく従います。
一方、蜀軍を率いる関興は10日で25もの呉の軍営を破り、
2000の兵を討ち取る手柄を立てました。
呉軍はもろくも後退を続け、劉備は勢いに乗って前進を命じます。
行く手に、また新たな軍営が築かれたと知った劉備は、
それらを次々と落としていきます。
敗退を重ねても、ろくに抗戦もせずに撤退を続ける呉軍の将は、
やがて陸遜の策に不信感を抱くようになってきました。
苛々が募り、陸遜を批判する者まで出る始末。

中でも傳駿(ふしゅん) という将軍は、軍議に遅参したこと詫びもせず、
反発したため、陸遜は棒叩き80回の刑に処しました。
陸遜はこの期に及んでも、「軍営を死守し、蜀軍が攻めてきたら後退せよ」
そう命令を出しますが、周泰ら、ベテランの将兵たちも
もはや黙って従っておれず、作戦の説明を求めます。
陸遜は、蜀軍を攻めさせるだけ攻めさせ、疲弊を待つと言います。
「さすれば、やがて30万の精鋭が天から降り立つであろう」
その謎めいた言葉に、諸将は困惑するばかりでした。
戦況は、益州・成都の諸葛亮(孔明)のもとにも届いていました。
連戦連勝の報を喜んで伝える馬謖(ばしょく)ですが、孔明は
「孫権は、戦は不得手だが人を見る目がある。陸遜もおそらくは・・・」と
不安を抱き始めます。
呉の都・建業(けんぎょう)では、文官たちが連戦連敗に危機感を抱き、
「陸遜を罷免せよ」と口々に言い始めていました。しかし、
「陸遜は目下3連敗しているが、たとえ10連敗しても罷免せぬ!」
孫権はそういって、文官たちを一喝します。

しかし張昭が、「せめてご主君が前線で指揮をおとり下さい」と勧めるので、
孫権はやむなく、荊州へと向かいます。
このままでは諸将の不満が募り、
士気を保つことが難しくなると感じた陸遜は、陣営に諸将を集合させました。
いわゆる、決起集会といったところでしょうか。
いっさいの攻撃を許可していないこと、連敗が続いていることに
諸将が危機感を募らせていることは、陸遜も十分承知しています。
しかし、今は耐えるときであると陸遜は見ているのです。

陸遜もまた、味方の将が自分に対して抱く不満、不穏な空気に耐えています。
そして、ここで今後の展望をようやく諸将に告げました。
猇亭山(おうていざん)に築いた50の陣屋が呉の最終防衛線であること。
それを突破されれば、荊州は確実に陥落するため、
以後は絶対に後退せず、厳しく守り抜いて、必ず劉備に勝つことを・・・。
いわゆる背水の陣(水はありませんが・・・)を敷いたのです。
呉の諸将は、剣を握って血を酒に混ぜ、それを飲み干して勝利を誓いました。
それを潮に、呉軍の抵抗は急に強まり、蜀軍は苦戦に陥りはじめます。
知らせを聞いた劉備は、呉の力戦は最後の抵抗であるから、
さらに攻撃の手を強め、3日以内に砦を攻略させようとします。
馬良は、2ヶ月戦い続けている将兵を1日休息させるよう助言しますが、
劉備は「敵はもっと疲れている」と言ってそれを許さず、前線に出るよう命じました。
開戦当初は、勝ちに驕ることを戒めていた劉備ですが、
ここへ来て思ったように進軍できず、勝ちを急ぐようになってきました。
黄忠という実戦経験豊富な将の死も大きかったように思えます。
この無理な戦法は、戦いの行方にどう影響を及ぼしてゆくのでしょうか・・・?
【登場人物たちの呼び名、あざな について】
本来、もっと早いうちに説明していればよかったのですが、ここで本作でもよく使われている「あざな」や、中国人の名前に関して解説しておきます。
たとえば、劉備が趙雲を呼ぶときに「趙雲」ではなく「子龍(しりょう)」とか、「馬良」ではなく「季常(きじょう)」などと呼びかけることを疑問に思ったことはありませんか? これらは、実は「字」(あざな)という本名とは別のものなのです。この「字」は、古代中国人が成人したときに自分でつける「あだな」みたいなもので、名前を呼び合うときは本名ではなく、基本的にこちらが使用されました。
ちなみに名前は、劉備の場合は「劉」が姓で、「備」が名前。字は「玄徳」(げんとく)。趙雲は「趙」が姓、「雲」が名です。姓と名(諱)は基本的に一文字ずつの人が多いですが、二文字姓もいまして、諸葛亮の場合は「諸葛」が姓で名は「亮」、字は「孔明」。司馬懿は「司馬」が姓といった具合です。
なぜ、「字」で呼ぶのかといえば、昔から名は「諱」(いみな)とされ、口にするのはとても失礼なこととされていたからです。例外的に親や主君が、子や部下の名を呼ぶことは許されましたが、本作では基本的に「字」が使われています。同じ姓が多いので、字のほうが分かりやすいためでもあるでしょう。よく周瑜が「諸葛亮め!」と言っていたように、本人がその場にいない場合は、ドラマのように本名で呼ぶこともあったと思います。

逆に、目上の人に対しては「字」で呼びかけることすら、これまた無礼でした。だから役職名で呼ぶのです。曹操は「魏王」「丞相」「曹将軍」と呼ばれていましたが、「曹操様」なんて呼び方をする人はいませんでしたよね? 劉備は「ご主君」とか「陛下」で、最初のころは「玄徳どの」とか「劉皇叔(こうしゅく)」と呼ばれていました(劉は姓なので失礼にあたりません)。最近は孔明が「丞相」と呼ばれていますね。今の日本でも会社の上司を「○○部長」と呼ぶのと同じイメージです。
しかし、現代の中国では、この「字」をつける文化は廃止され、基本的に姓が一文字、名前が二文字に変わっています(例を挙げれば、毛 沢東 など)。また、ある程度親しい人同士はフルネームで呼び合うことも多いそうで、このあたり日本人にとっては違和感がありますね。
2012年07月20日
劉備に、孫小妹との再婚・和睦を一蹴された孫権。
諸葛瑾(しょかつきん)は、こうなっては魏(曹丕)に投降し、
臣下の礼をとって援軍を出してもらうしかない、といいます。
呉の主である自分が投降・・・。
孫権は、その言葉に顔色を変えます。しかし、彼はいつでも冷静。
劉備や曹操のように激するところがありません。
「しばし、考えたい」そういって、魯粛(ろしゅく)の墓前に詣でます。
彼にとっての真の師は周瑜ではなく、やはり魯粛だったのだなと思わされます。
どうすれば良いか思案にくれていると、
そこへ、呉の文官の長老的な人物・張昭(ちょうしょう)がやってきました。

「父と兄の祖業をやすやすと手放して良いものか・・・」
悩む孫権に、張昭は諸葛瑾の言葉を後押しします。
一国の主たるもの、数多の屈辱に耐えることも欠かせぬ所業であると。
張昭のこの言葉に、孫権も覚悟を決めます。
「赤壁の戦い」の時と異なり、事態は急を告げています。
あとはいかに、呉の主としての威厳を損なわずに魏に臣従するかです。
その使者には、趙咨(ちょうし)が選ばれました。
弁舌が巧みで、度胸もすわっている文官です。

魏の新たな都となった、洛陽(らくよう)にて曹丕(そうひ)に
謁見した趙咨は、孫権がいかに優れた君主であるかを話します。
呉の兵は少ないが、水軍は天下一。
加えて長江が砦となり、難攻不落。
曹丕とて、戦わずに孫権が投降するのであれば、それに越したことはありません。

趙咨の弁舌と才知に感心した曹丕は、孫権の投降を認めました。
むろん、呉の国すべてが魏の領地になるのではありません。
今回の場合、領地は据え置いた、ごく形式的なものです。
張昭が言ったように、呉が蜀に攻め滅ぼされることを曹丕も望んでいません。
司馬懿(しばい)に、今後の政策を相談する曹丕。
「朕(ちん)は、蜀を攻めず呉も救わず、座して眺め、機を見て動く」

隙に乗じ、両軍の疲弊を待って漢中あるいは荊州をとる。
「いずれが勝とうと、最後に勝つのは陛下です」
そういって司馬懿は、曹丕の英邁さを褒めます。
曹丕は、孫権に対し、呉王の位と九錫(きゅうせき)を与えただけで
結局、援軍は出しませんでした。
九錫とは皇帝が臣下に与える9種類の恩賞で、
衣服や楽器、弓矢など、戦いには何の役にも立たないものです。
司馬懿は劉備の勝利を予測していますが、
勝負とは、どう運ぶかわかりません。
どちらが勝っても良いように手を打つわけです。
まさに姑息(こそく)といえますが、これこそが乱世における身の処し方です。
これは劉備と曹操が戦っていたときの孫権と同じ戦略。
曹丕の援軍を期待した孫権のもくろみは、あてが外れてしまいました。
そのころ、攻め取った秭帰(しき)城では、劉備が軍議を開いていました。
張苞(ちょうほう)、関興(かんこう)ら、若い武将たちは、
連戦連勝を喜び、「あと20日もあれば建業(呉の都)を攻め落とせる」と息巻いています。

しかし、劉備はそれを厳しく戒めました。
「孫権は9歳のときに単身敵陣へ乗り込み、父(孫堅)の亡骸を取り返した男だ。
それにまだ呉の強力な水軍とも戦っていない。些細な勝利に浮かれてはならぬ」

さすがは歴戦の将でもある劉備。
叱られて、意気消沈する関興(かんこう)。関羽の子も、まだ未熟です。
それに賛同するのは、老将・黄忠(こうちゅう)です。
程普、韓当、甘寧、周泰などの名将が、まだ戦場に姿を見せていないことを
不審に思い、油断してはならぬことを若い将に教え諭します。
そこへ、秭帰(しき)で敗れた孫桓(そんかん)が、
今度は夷陵(いりょう)城に入って守りを固めたとの情報が入ります。

劉備は、出陣を志願する張苞(ちょうほう)に攻撃を命じますが、
本気では攻めず包囲に留めろと指示。そうして呉の援軍をおびきよせ、
援軍が来たら、もろとも倒すという戦術に出ました。
呉の主力を叩かねば、本当の勝利は得られない。
数々の死闘を潜り抜けてきた経験がものを言っているのでしょう。
一方、曹丕が援軍を出さず漁夫の利を得ようとしていることを知った孫権は
今度は夷陵城が包囲され危機に瀕している報に接し、援軍10万を出そうとします。
しかし、旧臣の程普(ていふ)が、それを制します。
守りの堅い秭帰城を簡単に攻め落としたはずの蜀軍が、
夷陵城を攻め落とせずにいるのは、何かの企みがある・・・。
程普はそういって諌めますが、
孫権は「思いすごしだ」と言い、出陣を命じてしまいました。
韓当(かんとう)、周泰(しゅうたい)らが出陣の準備をしていると、
そこへ陸遜が現れ、「痛ましきかな!」と騒ぎはじめました。
陸遜は、自軍の将兵たちが敗れて死ぬことを憐れんで
出陣を止めさせるために騒いでいるのですが
韓当は不吉なことをいう彼を捕え、孫権のもとへ送ってしまいました。
一方、孫権が援軍をやすやすと出したことを、劉備はいぶかしみます。

「孫権は策士です」と、馬良(ばりょう)も用心するよう進言。
すると黄忠が、呉軍を谷間に誘い込んで殲滅する策を思いつき、
みずからが囮(おとり)の役を買って出ることを志願。
黄忠は韓当ら、呉の名将たちが出てきたと知り、
警戒する一方、今こそ己の武勇を発揮する場であると奮い立っています。
劉備は、黄忠が70歳を超えていることや、
貴重な五虎将の生き残りである彼を囮に使うことをためらいますが・・・
その熱意と懇願に負けて出陣を許しました。
関羽と張飛が死に、馬超は漢中を守り、趙雲は成都で留守を固めています。
「わしには雲長も翼徳もおらぬ。そなたまで失いたくない。必ず生きて戻れ」
劉備は黄忠の手をとって約束させ、送りだしました。
一方、夷陵をめざして進軍する呉軍。
総大将をつとめるは歴戦の名将・韓当(かんとう)、副将は周泰(しゅうたい)です。

そこへ、程普(ていふ)が馬車を飛ばし、前線に追いついてきました。
病気の身をおして来た程普をみて、周泰は驚きますが、
「足手まといにはならぬ」と不退転の覚悟をする彼をみて、
みずから御者をつとめて進軍を続けます。
夷陵付近に砦を構え、様子をうかがう韓当ひきいる呉軍。
そこへ、黄忠ひきいる蜀軍がやってきて対峙します。
黄忠はさっそく総攻撃をしかけます。
しかし砦の守りは堅く、たちまち苦戦に陥り、黄忠は撤退を命じます。
その隙に、韓当は砦を出て追撃にかかりました。

「敵が流した鮮血で、我らの鎧を赤く染めるのだ!」
後方にいた劉備は、知らせを受けて狙い通りだと見て呉軍の殲滅を命じます。
黄忠の撤退は罠で、呉軍を富池口(ふちこう)という谷間へおびき寄せるため。
追ってきた呉軍ですが、隘路をみて伏兵を警戒し、
追撃をやめ、矢を射るだけに留めました。韓当はさすがに名将です。

呉軍が追って来ないのを見て、作戦が失敗することを恐れ、
黄忠は敵をもう一度誘い出そうと引き返しましたが・・・
呉軍が大量の矢を放ったため、たちまち矢を胸に浴び落馬してしまいます。
「最後まで闘い、馬の背で死ぬ!」
続けざま、何本もの矢を浴びながらも再度馬に乗って突撃する黄忠。
それを見た周泰は、猛将の黄忠を討ち取る絶好の機会を見て突撃します。
すると、山あいに潜んでいた蜀の兵がどっとわきだし、
呉軍めがけて矢や丸太の雨を降らせました。
「しまった!」とみて、韓当は撤退を命じますが・・・。
【呉の宿将たち】
孫権の父、孫堅(そんけん)の代から仕えてきた名将の中でも、
程普(ていふ)、黄蓋(こうがい)、韓当(かんとう)、祖茂(そぼう)は
とくに名将として知られ、四天王的な将軍たちです。

しかし、祖茂(そぼう・左)は早くに亡くなり・・・

赤壁の戦いで「苦肉の策」を実行した功労者、
黄蓋(こうがい)もすでに他界しています。
残るは、援軍の総大将をつとめている韓当と、
馬車で前線に現れた程普の2人だけです。

韓当は今まであまり目立ちませんでしたが、4人の中では一番最後まで生きます。

程普は呉の重臣たちの最年長で、
昔、洛陽で孫堅が玉璽(ぎょくじ)を見つけたとき、
すぐにそれと鑑定するなど、知識も豊かな名将です(第6話)。
赤壁の戦いでは、周瑜に次ぐ副都督を務めたのも彼です。
呉の屋台骨を支えてきた功臣らが、国の滅亡の危機を見過ごせるはずがなく、
老いた体に鞭打って、労をいとわず前線に出て蜀軍を迎え撃つのです。
さて、両軍の戦いの行方はいかに?
皆さん、また来週お会いしましょう。
2012年07月19日
こんばんは!哲舟です。
関羽に続き、張飛をも失った劉備は、その霊前で呉を伐つことを誓います。
「寄るな。助けなどなくとも、朕(ちん)は、倒れなどせぬ!」
足元がふらつき、近習が助けようとしますが、そう言って制する劉備。
劉備は皇帝になったため、皇帝専用の一人称である「朕」を使っています。
今までは献帝だけが使っていましたよね。
ともに呂布に立ち向かった虎牢関、曹操軍を震え上がらせた長坂橋、
生死をともにすると誓い合った故郷の桃園・・・
張飛が活躍した数々の思い出が、劉備の頭をよぎっているようです。
ひどく慟哭する様をみて、貰い泣きする臣下たち。
劉備は、秦宓(しんふく)という文官に呉討伐の檄文を書かせようとしますが、
秦宓は必死で出兵を諫めたため、怒った劉備は彼を投獄してしまいます。
趙雲や孔明らも反対しますが、もはや劉備の憤りを止めることができません。
劉備は生来、「超」がつくほど頑固な男。比較的柔軟性のある曹操、孫権とは逆です。
「こうだ」と決めたら、他の何を犠牲にしてでも押し通そうとするところがあります。
長坂の戦いでは妻子を置いて逃げ、趙雲をねぎらうために阿斗を放り出し、
ホウ統を迎えるために孫小妹の呼びかけを無視するなど、
とりわけ身内に対して厳しい対応をとることが多かったように思えます。
ただ、家臣に対して今回のような仕打ちをしたことは
ほとんどなかったはずで、珍しいケースといえます。
かつての袁紹(えんしょう)や、劉璋(りゅうしょう)の陰がよぎりますが・・・
この性格は彼の短所であり、長所でもあるといえましょう。
しかし、この絶対に曲がらない意志の強さがあればこそ、
一介の素浪人に近い身分から皇帝にまで
上り詰めることが出来たのも事実です。
蜀の中でも、呉討伐に賛成する勢力、反対する勢力とで
意見が分かれていたのですが・・・劉備は反対派を押し切り、
いよいよ呉討伐の兵をあげます。
討伐に従うは、死んだ関羽・張飛の息子、
関興(かんこう)、張苞(ちょうほう)をはじめ、
五虎将の生き残りである老将・黄忠、馬良(ばりょう)などでした。
馬良は、以前関羽の軍師を務めていた人物なので、覚えている方は多いでしょう。
関羽が麦城に追い詰められたときにはぐれて行方不明になっていましたが
その後、無事に逃げ延びて成都へ戻ってきたようです。
この馬良にしても黄忠にしても荊州の出身者ですから、
今回の出陣にあたり、心中期するものがあるでしょう。
一方、出兵に反対した諸葛亮や趙雲は蜀に残り、留守を固めます。
劉備本人が「文武の要」と言った2人を置いていくことに、
一抹の不安を抱かずにはいられません・・・。
もはや、諸葛亮(孔明)の言うことも劉備の耳には入りません。
孔明の憂鬱な表情は、漢中のときから晴れないままのようです・・・。
孔明は馬良に、戦場についたら地形と布陣図を届けるよう頼み、
万一のときに対応できるよう手配しました。
そんな孔明の心配をよそに、
「関羽・張飛の仇を討ち、荊州を再び我らの手に!」
との意気込みで進軍する蜀軍の士気は旺盛でした。
その兵力は、水陸あわせ、呉を大きく上回る70万にものぼります。
「赤壁の戦い」の曹操軍は80万と公称していましたが、それに迫る兵力です。
対する呉の兵力は詳しくは分かりません。
・・・そもそも、古代中国の戦争の兵力は、ほとんどが喧伝され広まったものが
記録されているだけで、どの程度実像を伝えているのか分かりません。
敵に脅威を与えるため、実数の10倍を公称する場合もあったというほどなので、
あまり鵜呑みにせず、参考程度だと思ってください。
かくして後世、「夷陵(いりょう)の戦い」と呼ばれる蜀と呉の大戦が始まりました。
孫権は、抗戦は避けられぬと見て、
荊州の入口にあたる秭帰(しき)城を守らせようと兵を出します。
孫権は迎撃軍を編成するため守将を募ります。
古参の将、程普が名乗りを挙げますが、
孫権はここは若い者に任せたいといいます。
しかし、蜀軍の勢いを恐れ、誰も名乗りを挙げません。
赤壁のときのように、得意の水上戦に持ち込めれば、
呉軍にも勝機がありますが、今回は陸と河と両方が戦場です。
大半の者は、陸戦では漢中で魏にも勝利した
百戦錬磨の蜀軍に分があるとみています。
「かつて、周瑜や魯粛は5万の兵で曹操軍83万を破ったのだぞ」
孫権がため息をつくと、孫桓(そんかん)という者が名乗りをあげます。
孫権とは直接血はつながっていませんが、孫一族のひとりで
勇猛さを知られる人物です。
孫権は5万の兵を秭帰城に派遣し防戦にあたらせます。
彼のとった作戦は、1ヶ月持ちこたえよ、というもの。
1ヶ月持ちこたえれば、さしもの蜀軍も疲弊し、兵糧も続かなくなるはずで、
その機に乗じて反撃に転じるという持久戦でした。
一方で、蜀軍の勢いを恐れた孫権は、張飛を殺した下手人として捕らえていた
張達と范彊(はんきょう)を差し出し、戦意をくじこうとしますが、
劉備は2人を斬るばかりではなく孫権がよこした使者をも斬り、
関羽・張飛の霊に捧げてしまいました。
古来、互いの使者は斬らないのが暗黙のルールでしたが、
劉備はそれを破って並々ならぬ戦意を内外に知らしめたのです。
秭帰城へ攻めかかる蜀軍。
そのすさまじい攻撃に、たちまち呉軍は劣勢に陥り、
孫桓の奮戦もむなしく、わずか三刻(2時間足らず)で攻め落としてしまいます。
その後も蜀軍は、劉備の闘志そのままに快進撃を見せます。まさに連戦連勝。
とくに父の無念を晴らそうとする張苞、関興の活躍はめざましいものがありました。
窮した孫権は、諸葛瑾(しょかつきん)の勧めで
かつて劉備に嫁いだ孫小妹(そん・しょうめい)を再度劉備のもとへやり、
荊州三郡を引き換えに和平を提案しようとします。
それを聞いた小妹が「はい参ります」と、
すんなり承知できるはずもありません。
第65話以来、久しぶりに登場した小妹。
少し、大人っぽくなったようにも見えます。
母の呉国太も、変わりなくご健在のようです。
呉国太は呉の平和を保つため、孫権の策に賛同し、
小妹の輿入れを後押しします。
司馬懿の愛妾・静姝(せいしゅ)、劉協の妻・曹貴人、そして小妹・・・。
ここ数話は、全編通じてあまり出番がない美女たちが連続で登場し、
殺伐とした物語の中に花を添えてくれているようで、
これも監督の気配りだとしたら、素晴らしい限りです。
劉備と別れてから、すでに5年もの歳月が経過しています。
いまだ独り身でいるようですから、寂しい思いをしていたに違いありません。
(史実では、彼女が呉に帰ってからの動向は不明で、
いつ亡くなったのかもわかりません)
小妹は当然、劉備にもう一度嫁ぐことなどできるはずがないと
拒絶しますが・・・。
「おろかな兄を許せ」
そういって、去ろうとする孫権を小妹は呼び止め、
呉一国のためにもう一度身を捧げる決意をします。
和睦交渉の使者は、やはり諸葛瑾です。
しかし、呉の申し入れを劉備が一蹴します。
「時すでに遅し」
戦いは蜀軍有利に進んでおり、和睦の必要などないばかりか、
無理に離縁させておきながら再度の婚姻を持ちかけようなどとは
無礼にも程がある、というのが、劉備の言い分です。
喰い下がる諸葛瑾に対し、
劉備は「そなたが孔明の兄でなければ、斬り捨てているところだ」
と、かつての関羽と同じ言葉を諸葛瑾にぶつけます。
交渉決裂。もはや、昔のような孫・劉連盟は望むべくもないようです・・・。
2012年07月18日
サブタイトル、もう少しオブラートに包んだ感じにできなかったんでしょうか(笑)?
こんばんは、哲舟です。
さて、西暦221年、蜀の都・成都。
地元の名士である李厳(りげん)の助言を受け、
劉備は、ついに蜀の皇帝に即位します。
魏によって廃された劉協の「漢」(後漢)を、「劉」姓である彼が継ぎ
蜀に国を興したことから、「蜀漢」とも称されます。
これで、「魏」の曹丕、「蜀」の劉備が皇帝として天下に並び立ったのです。
ただし当然、互いを正当な皇帝とは認め合っていません。
それぞれの正当性を天下に知らしめるため、
両国はこれまで以上に相争うことになります。
孫権が呉の皇帝に即位するのは、これから8年後の229年なので、
正式な帝国の樹立はまだ先ですが、すでに「呉王」の地位にありますから、
ひとつの国であることは確かです。よって、ここに「三国鼎立」となりました。
「三国志」は、厳密に言えば、今までは壮大なプロローグだったわけです(笑)。
いえ、もちろんそのプロローグあっての三国志なんですが。

今さらで恐縮ですが、当時の中国地図を作ったので掲載しておきます。
(一応、三国の都のほかに「赤壁」など古戦場の場所も示しておきました。
たぶん、これっきりでもう作りません・・・(笑) )
少し前までは、劉備が荊州の中心部(襄陽周辺)を支配していましたが、
いまや呉の領土となっています。北東部は元より魏の領地でした。
これを見ると、劉備が荊州を失ったことがどれだけの損失だったか分かりますね。
上半分の9つの州は魏の領地です。すべて曹操の代に手にしており、
都市部の多くは魏の支配下にあり、
当然、そこに人口の多くが集中していました。
呉の揚州、蜀の益州は、1州あたりの面積は広大ながら
人口はあまり多くなく、未開の場所も多い辺境の地でした。
現状、国力は魏が10とすると、呉が5、蜀が4程度とかなりの差があります。
ほかに注目すべきは、劉備の移動距離。
生まれは幽州(地図右上。現在の北京の近く)ですが、
それから徐州(陶謙・呂布)、豫州(曹操)、冀州(袁紹)、荊州(劉表)と、
さまざまな勢力のもとを渡り歩き、ついに辿りついたのが南西の益州です。
おそらく当時の人で、ここまで色々なところを渡り歩いたのは、
この人とその部下たちぐらいでしょう。

さて、即位の場で、その劉備は「呉の討伐」を大々的に宣言しました。
劉備のもともとの目的は、中原を制して魏を打倒し、
漢室を再興することのはずでしたが・・・。
そう。劉備がこれから目指すのは「関羽の仇討ち」です。
劉備は仁義や情を重んじる人物。義弟を討った呉をそのまま
見過ごしておくことは、彼の身上に反することなのです。
もちろん、強大な魏を倒すのは難しいので、
先に弱いほう(呉)から倒すという単純な理由もあります。
それを聞いて、真っ先に反対しに来たのは
古参のひとり、趙雲子龍(ちょううん しりょう)でした。
趙雲は「兄弟の仇討ちは私怨」といって、諌めますが・・・。
もはや、劉備は準備を万端に進めており、心を決めています。
そこへ諸葛亮(孔明)も、やって来て趙雲に加勢します。
一、蜀漢の敵は曹賊の魏
二、いまや天下の要である荊州は孫権の手に落ち、攻守ともに不利
三、蜀から呉までは2千里(800km)以上もあり、食糧や武器の輸送も至難
四、蜀が呉を攻めれば魏の曹丕に利を与えることになる
孔明は4つの不利をあげて劉備に出兵をやめるよう勧めました。
文武の要である孔明と趙雲に諫められ、劉備はひとまず出兵を諦めます。

そのころ、閬中(ろうちゅう) を守っている張飛は
呉出兵の号令を、今か今かと待ち望んでいました。
張飛も劉備同様、関羽の義兄弟として、その仇討ちに執念を燃やしています。
しかし、出兵が止められたと聞き、
張飛は成都へと自ら乗り込み、劉備に直談判しにやってきました。
重い足音で、すぐに張飛だと気付いた劉備は彼を迎え入れます。
いまや張飛も、ひとかどの将軍。関羽と同様、劉備と会う機会も
そうそう多くないのです。
「1日が1年にも感じられた!兄者は桃園の誓いを忘れたのか」
心中を叫ぶ張飛に、「忘れるものか」と関羽の肖像画を見せてなだめる劉備。

劉備は、国を傾けてまで出兵することの愚かさを説きますが、
張飛は出兵を諌めた孔明を罵るばかり・・・。
劉備は一国の主であり、いまや皇帝。
昔のように軽々しく兵を動かすことなどできませんが、
張飛は五虎大将軍となった今も、色々な意味でそのままなのです・・・。
劉備は、関羽の死は彼の短気が招いた災いであり、
張飛に対しても癇癪を起さずに過ごすよう諭します。
「外は寒い」と、上着をかけてやる劉備。
2人とも、すっかり髪も髭も白くなりましたが、親愛の情は変わりません。
張飛は涙を流し、劉備のもとを立ち去りました。
じっと見送る劉備・・・。それは彼が見た、張飛の最後の姿でした。
次の日、劉備は李厳に意見を問います。
魏と呉を見比べた場合、先に弱者である呉を討つべきだと思うが良いかと。
劉備はなんとしても呉を攻めたいがため、その勝算や口実を探っているのです。

懸念されるのは兵と兵糧の確保。
李厳は、領民に6割の税、3人に1人の徴兵を課せば
兵25万、兵糧150万石をそろえられるといいます。
下手を打てば領民に恨まれ、国を傾ける危険性のある政策ですが
それを聞いた劉備は、孔明の反対を押し切って決行を命じました。
李厳は、有能ではありますが、保身を第一に考える人物でした。
内心では呉討伐に反対の立場でしたが、
劉備が心のうちでどうしても出兵したいと考えていることを見抜くと、
孔明の意に反し、それを後押しする立場をとったのです・・・。
どこの会社でもあることだと思いますが、
蜀にも孔明を支持する派閥、内心快く思っていない派閥があり、
後者の代表格が、この李厳なのです。
こうして、出兵の準備は着々と進められていきました。
さて、陣営に戻った張飛は、酒びたりの日々を過ごしていました。
その一方で将兵には、出兵の準備を余念なくさせていたのですが、
関羽の弔い合戦に備えるため、5日で3万もの白旗と白装束を
準備せよという難題を与えていました。

それらが揃っていないことに気付いた張飛は、
責任者の張達(ちょうたつ)と范彊(はんきょう)を呼びつけます。
5日では到底不可能だと訴える2人に激怒した張飛は、
鞭打ち200回の刑罰を与えました。
関羽と同様、歳をとって意固地になった張飛には、
すでに物事の善悪を考えることもできなくなっています。
鞭で打たれ、息も絶え絶えの張達と范彊に酒を与えようとしますが、
満身創痍の彼らが飲めないと断ると、「白装束をあと3日で揃えろ」と命じます。
「このままでは殺される」と感じた張達たちは、
その夜、ひそかに張飛の寝所に潜入することにします。

張飛は酒に酔い、大いびきをかいて無防備に寝ています。
それも目を開けたままで。恐ろしい顔に怯え、大汗をかく2人ですが、
やがて意を決すると張飛に飛びかかり、刺し殺してしまいました。
・・・張飛にしてはあまりにあっけない死に様を残念に思う人も多いでしょう。
しかし、これは原作も正史も同じ描写で、
本作でもアレンジされることなく忠実に描かれました。
これが創作物の小説やドラマであったなら、
張飛のこんな死に方、作者がさせることはないでしょう。
敵と戦って、華々しく散るぐらいのことはさせるはずです。
しかし、三国志とは歴史であり、実在した人物たちの物語。
「華々しく、格好良く死ぬ」という人は、ほとんどいません。
人生、なかなか思うようにいかない・・・。
このリアリティや深みが、1800年の時を超えて
語り継がれ、読み継がれてきた所以なのかもしれません。
使者の呉班(ごはん)を迎える劉備。
劉備は、虫の知らせか、すでに目覚めていましたが、
張飛が殺されたとの知らせを聞き、その場に倒れてしまいます。
一方、張達と范彊の2人は、そのまま呉へ走り、
張飛の首を手土産に、孫権へ投降しました。
喜ぶかと思われた孫権でしたが、張飛の首を見ると
即座に態度を変え、張達たちを「厄病神」と罵り、
捕えて牢にぶち込んでしまいます。
ただでさえ関羽を討ったことで劉備の恨みを買っているのに、
張飛の首をもって自分のもとへ来たからには、
劉備の怒りの矛先が呉へ向かってくることは明白だからです。
事実、劉備は張飛の葬儀の席で、その仇を討つことを誓うのでした・・・。
【このひとに注目!】

◆張飛(ちょうひ)
原作小説「三国志演義」では、身長八尺(184cm)、豹のようなゴツゴツした頭、グリグリの目玉、エラが張った顎に虎髭を生やし、その声は雷のよう。酒好きで、一丈八尺の蛇矛(だぼう)を愛用する豪傑。失敗も多いが、憎めないキャラクターとして描かれている。日本では関羽や趙雲に比べ人気面でかなり劣るが、中国では最も人気のある人物のひとりで、京劇などで張飛が登場すると大いに盛り上がる。
「正史」には、上記の容貌や酒好きという記述はないが、その活躍ぶりや最期の様子は「演義」とほぼ同様である。「桃園の誓い」は演義の創作ながら、関羽を兄のように敬愛し、劉備からは兄弟の様な親愛の情を受けたという。
長坂坡の戦い(208年)では、曹操を恐れ劉備が妻子を棄てて逃げ出したが、殿軍(しんがり)を務めた張飛は、20騎の部下とともに長坂橋で待ち受け、「我こそは張益徳。死にたいものはかかってこい」と大声でよばわり、曹操軍を一時撤退させた。215年の漢中の戦いでは曹操軍の名将・張郃(ちょうこう)を破るなど、将軍としても成長を見せる。その武勇は敵国にも知れ渡り、魏の程昱(ていいく)は「1人で1万の兵に匹敵する」、劉曄は「武勇は全軍で群を抜く存在である」、呉の周瑜は「関羽、張飛を配下にすれば大業も成せる」と評している。
ただし、部下に対しては厳しい態度で接することが多かった。そのため劉備はたびたび彼を戒めていたが、案の定、部下の裏切りによって殺された。
2012年07月17日
夜、ひそかに献帝の部屋に現れた司馬懿は、
自分が帝位禅譲の詔(みことのり)を書くことを申し出ます。

狡猾な司馬懿は、人前では決して目立った行動をせず、
すべて華歆(かきん)らに汚れ仕事をさせておいて、
こうして裏では、しっかりと自分の仕事をするわけです。
献帝は、もはや何の抵抗もなくそれを受け入れました。
そして、華歆の指揮によって築造された「受禅台」にて、
いよいよ儀式が始まります。
詔を読み上げ、階段を上ってくる曹丕に対し、
献帝は皇帝の証、伝国の玉璽(ぎょくじ)を渡し、譲位を行いました。

曹丕が上座につき、献帝は下座へ。
その瞬間、「劉協」(りゅうきょう)という人物に戻ります。
一家臣となった劉協は、即座に臣下の礼をとります。
皇帝や王なんて、役職がなければ
ただの人なんだなあ・・・と、思わせる瞬間です。
たったこれだけのことをするのに、今まで何日かかったのでしょうか。
もちろん、それだけの重要な儀式なのですが。
禅譲(ぜんじょう)と呼ばれていますが、実質的には、
タイトルにある通り、強制的な帝位「簒奪」(さんだつ)です・・・。
ともあれ、ここに献帝・劉協は廃され、曹丕は帝位に就きました。
西暦220年、後漢王朝はここに滅亡し、新たな国「魏」が正式に興ったのです。

曹丕は、都を許都から洛陽へ移すことを明言し、
父・曹操に「武帝」の称号を贈り、劉協を山陽公に封じました。

退位した劉協と妻の曹貴人は、さっそく舟で任地へと赴きます。
それを見送りに来た司馬懿は、去ってゆく舟を、
息子・司馬昭とともに、いつまでも見送るのでした・・・。
劉協は、舟の中で、いままでの己の人生を振り返ります。
まだ9歳のとき、董卓に強いられるまま皇帝の位につき、
それ以来、董卓、郭汜、曹操の言いなりに動く人形となったこと。
そして、ここに至って曹丕に強いられるがまま帝位を下りたこと・・・。

重圧から解放され、どこか開き直った顔にも見えますが、
その言葉は自虐的な響きに満ちていました。
すると、舟が突如として沈みだします。
曹貴人は、司馬懿か曹丕が細工をしたに違いないと言いますが・・・
実は、劉協は自分が舟に穴を開けさせたのだと打ち明けました。
先祖以来の山河を、賊(曹一族)の手に渡してしまったことを恥じ、
劉協は舟とともに黄河の底へ沈み、自害しようというのです。
来世での再会を誓い、2人は抱き合い、運命を共にします・・・。
さて、益州の成都では、劉備が床に伏していました。
関羽と荊州を失い、悲嘆に暮れる劉備はすっかり生気を亡くしていました。
義弟の性格を分かっていながら、荊州を任せたことを悔やむ劉備。

劉備の怒りは、関羽の最期のとき、
彼を見殺しにした自分の養子の劉封、孟達の2人に向きます。
2人ともドラマには直接登場していないのですが・・・。
この2人の裏切りが、関羽が死に追い込まれる一因になったことも事実です。
荊州、益州、そして漢中を手にしていた頃の劉備は、まさに絶頂期でした。
諸葛亮(孔明)がいうように、数年のうちに軍備を整え、
中原に兵を進め、魏を滅亡させることができた・・・かもしれません。
しかし、荊州が呉の手にすっかり渡ったことで、孔明の戦略は無に帰しました。
要地の荊州あってこその蜀であり、漢中であったのです。
そこへ、孫乾が息を切らして入ってきます。
孫乾は曹丕が献帝・劉協から皇位を奪い、漢室が滅亡したこと、
劉協の死を知らせに来たのです。
劉備は大いに嘆き悲しみ、もはや生きている価値なし・・・と泣き叫びます。
その後、野外に大きな祭壇を築かせ、亡き献帝に哀悼の意を表しました。

改めて漢への忠誠を叫び、大業を果たすことを誓う劉備。
そのとき孔明が問いかけます。
「漢なきあと、偉業をどう継ぐおつもりですか?」と。

それを合図に、趙雲が帝位への就任を劉備に勧め、
続いて魏延や馬謖らもそれに同調します。
しかし、劉備は「無礼な!」と一喝します。
それでは、帝位を簒奪(さんだつ)し、
天下のそしりを受けている曹丕と同じだというのです。
劉備は「死んでも断る」といい切って屋敷へ戻ってしまい、
孔明ら重臣たちの計画は失敗に終わりました。

病と称し、屋敷に籠った劉備は、息子・劉禅の教育に手を焼いている様子。
赤壁の戦いの後に亡くなった甘夫人(かんふじん)との間にできた子です。
かつて、趙雲が長坂坡で救出した子で、この年14歳になっていました。
(役者の都合上仕方ありませんが、14歳には見えません・・・)
漢詩すら、まともに覚えられない劉禅。
劉備亡き後、後継者はこの人しかいないのですが・・・。
何日かして、孔明が病に倒れたという知らせが入り、
劉備は見舞いに駆けつけます。

「胸が苦しい」と訴える孔明ですが、それはむろん仮病でした。
孔明は、皇帝就任を説得するために劉備を呼んだのです。
漢中王就任のとき、孔明が一人だけそれを勧めなかったのは、
諸将が驕り昂ることを危険視していたためであり、
今、帝位に就くことを勧めるのは、その必要があるからだといいます。
漢室を簒奪した曹丕ですが、天下に皇帝がそのひとりになってしまった今、
のさばらせておいては、それを認めることになる・・・。
正義を主張するためにも、劉備は帝位に就かねばならないのです。
予想通り、帝位就任へと話を持っていく孔明を見て、
劉備は彼が仮病であると見抜きます。
孔明は、「主君も御同様」といい、2人は笑い合いました。
ようやく、劉備に笑顔が戻ったようです。
劉備は、帝位へ就くことを半分承知しますが、
この益州に元から住む李厳や黄権らが納得するかどうか、
それを心配し、みずから真意を探りに彼らの屋敷を訪ねます・・・。
【このひとに注目!】

◆劉協(りゅうきょう)
写真は子供時代のもの。本作では、禅譲の後に自ら死を選ぶという悲惨な結末を迎えているが、史実では山陽公に封じられた後も、そのまま曹丕の支配下で生き永らえている。存命中は、皇帝という身分は失っても皇帝だけが使える「朕」という一人称を使うことが許されるなど、それほど酷いことはされなかったようである。
しかし、劉備のもとには、「献帝が殺された」という誤報が伝えられたことで、彼は漢室の後継者として皇帝を称し、「蜀漢」を建国することになる。劉協は曹丕よりも長生きし、234年に没した。奇遇にも劉協は諸葛亮(孔明)と同年の生まれで、同い年であるだけでなく死んだ年も同じ(234年54歳)。妻の曹節は260年まで生きた(年齢は不明)。