第81話~第85話
2012年07月30日
今週も頑張って綴ります、よろしくお願いします。
地図と年表のページを、独立して設けましたので、
ぜひ、お役立ていただければと思います。
さて、「出師の表」を上奏し、
不退転の覚悟で魏侵攻(北伐)を開始した諸葛亮(孔明)。
その報告を受けた魏の皇帝・曹叡(そうえい)は、
さっそく軍議を開き、対策を練ります。
まだ20歳を過ぎたばかりの若い曹叡は、
老臣・王朗(おうろう)の反対を無視して、
夏侯楙(かこうぼう)を大都督に任命し、蜀軍を防がせます。
夏侯楙は漢中の戦いで、蜀軍に殺された夏侯淵(かこうえん)の子。
命令を受け、父の無念を晴らそうと、勇んで出陣してゆきます。
いっぽう、進軍中の孔明は、
途中で軍を止め、地図で中原へ向かうルートを確認します。
孔明は、軍勢を二手に分け、先鋒の趙雲らをおとりとして進軍させ、
敵がそこへ引きつけられている間に、
自分の率いる本隊が祁山(きざん)、隴西(ろうせい)を攻め取り、
じっくり足場を固めながら進軍するよう指示しました。

すると、魏延(ぎえん)が5千の兵を預かりたいと願い出てきます。
自分はそれとは別のルート、険しい山脈を越えて、
さらに子午谷(しごこく)を通って長安を奇襲し、
攻め取ってみせると豪語するのです。
孔明がめざすルートでは時間がかかり過ぎるため、
道なき道を行き、魏軍の裏をかこうとする作戦です。
しかし、慎重な性格の孔明はその策を退けます。

万一、敵に見つかれば全滅は免れません。
失敗の許されない戦い。万全の布陣で行軍したいがため、
魏延の博打に近い作戦は受け入れがたいものだったのです。
策を退けられた魏延は、深い溜息をつきます・・・。
順調に進軍を続ける孔明は、夏侯楙が来ると聞いても
まったく恐れを抱きませんが、ただひとり、
司馬懿(しばい)の動向を気にしていました。
その司馬懿が雍涼(ようりょう)に赴任したと聞き、孔明はやや顔色を変えます。
曹叡の意図は見えませんが、司馬懿が軍権を握っているとすれば厄介。
そのため、魏の陣営に「離間の計」を仕掛けることを思いつき、手を打ちました。

いっぽう、雍涼に赴任した司馬懿は、自らの判断で
孔明の攻撃に備え、ひそかに兵を増強していました。
さすがは司馬懿。孔明がおとりを使ってくるであろうと見越し、準備していたのです。
しかし、孔明の仕組んだ偽の布告状が出回り、
洛陽の曹叡のもとに、司馬懿が野心を抱いているとの情報がもたらされました。
曹叡は、司馬懿がわずかな兵で謀反をたくらむはずがないといいますが、
司馬懿を快く思わない曹休(そうきゅう)は、
彼が兵力を無断で増強していると吹き込み、疑いをもたせます。
曹叡はみずから雍涼に出向いて、直接司馬懿に問いただすことにしました。
すると、曹休のいうとおり、司馬懿が独断で兵を増やしていると発覚します。
曹叡は、結局司馬懿を疑い、官職をすべて剥奪したうえ、
雍涼の地も召し上げ、故郷の河内(かだい)郡へと追いやってしまいました。
孔明の策略は、見事に成功したのです。
司馬懿のいない魏軍を、孔明は面白いように翻弄し、各地で撃破。
先鋒の趙雲が、夏侯楙を難なく打ち破って生け捕りにすると、
さらに、南安、安定などを攻略し、
天水(てんすい)郡の武将、姜維(きょうい)を降伏させました。
その報に怖れおののいた曹休は雍涼を捨てて、逃走する有様。
蜀軍は連戦連勝、まさに快進撃を続けます。
敗戦につぐ敗戦の知らせを受け、
長安の手前にまで迫られたと聞いた曹叡は大激怒。
曹叡は、大将軍の曹真に迎撃を命じますが、曹真は尻込みして出陣を躊躇します。
そこへ、この年76才になる、司徒の王朗(おうろう)が
老骨に鞭打ち、軍師としての従軍を申し出ると、しぶしぶ出陣します。

かくして、曹真の軍は祁山で蜀軍と対峙します。
王朗は、得意の弁舌で孔明の気勢を削いでやろうと、
自信たっぷりに、単騎で馬を進めていきました。

それに応じ、孔明も四輪車に乗って前に出て、王朗と対面。
王朗は、孔明に対して「魏が天下を治めるのは天命によるもの。
それに対して喧嘩を売るとは何事だ」と一喝し、降伏するよう諭します。
しかし、孔明はいささかもたじろがず、もとは漢の臣下でありながら
今は魏のもとで官位をむさぼる王朗を手厳しく批判したうえ、
「白髪頭の匹夫(ひっぷ)、老いぼれは早く立ち去れ」と、
とどめの一言を付け加えます。

王朗は何も言い返せないどころか、孔明の鋭利な舌鋒によって
屈辱にまみれ、怒りのあまり血を噴き出して馬から落ちてしまいました。
陣中に連れ戻された王朗ですが、
そのまま目を覚ますことなく、死んでしまったようです。
孔明の舌鋒もそうですが、行軍の無理が祟ったのでしょう。

舌先だけで人を殺した孔明を、曹真は大いに恐れます。
そのため、積極的に打って出ず、王朗の死を餌に蜀軍をおびき寄せて
打ち破ろうとするのですが・・・。
しかし、その作戦を読んだ孔明は、
曹真が伏兵を置いた場所を見破り、難なく撃破してしまったのです。
またしても敗退を重ねる魏軍。弱り切った曹叡は、
重臣の鍾繇(しょうよう)に、今後の出方を相談しました。
鍾繇は、「やはり孔明に対抗できるのは、司馬懿しかいない」と進言。
曹叡は以前、司馬懿を疑って左遷したことを恥じ、彼を呼び戻すことにしました。
いっぽう戦勝を喜ぶ、蜀の陣営。
孔明も、「このままいけば、あと半年で中原を攻略できる」と珍しく喜びます。

そこへ、李豊(りほう)が、父の李厳(りげん)の書状を届けにきました。
それは李厳が苦心した結果、魏将の孟達(もうたつ)が蜀軍に寝返り、
謀反を起こすと約束してきたことを伝えるものでした。
孟達が魏の内側から洛陽を攻めれば挟み撃ちにでき、
労せずして洛陽を攻め落とせる・・・孔明は李厳の手柄を褒めたたえます。
蜀軍にとって、すべてがうまく運んでいます。
孔明は上機嫌で、孟達へ届けさせる書状を自らしたためるのでした。

そのころ、司馬懿は自邸に籠り、静かに日々を過ごしていました。
魏軍連敗の知らせは、当然司馬懿のもとにも届いていますが、
司馬懿は何食わぬ顔で琴を弾きながら、ただ時を待っていました。
そこへ、彼が内心待ちに待った、曹叡からの詔が届けられます。
曹叡は書状の中で、司馬懿に対して深く謝罪するとともに、
大都督に任じ、軍権を与えるのでした。
魏軍の敗北に次ぐ敗北の結果、「現場復帰」を遂げた司馬懿。
司馬懿は、この劣勢をどのようにして覆しにかかるのでしょうか・・・。
【このひとに注目!】

◆姜維(きょうい) 字/伯約(はくやく) 202~264年
涼州・天水郡の太守、馬遵(ばじゅん)の配下。蜀軍の攻撃に備えていたが、蜀との内通を疑われて行き場をなくし、やむなく蜀に投降する。残念ながら本作では描かれなかったが、原作では投降する前に孔明の策を見破り、それを逆手にとって蜀軍を苦しめたり、趙雲と互角以上に打ち合ったりする武勇を見せている。以後は、孔明の忠実な部下として、北伐軍の主力の一人として活躍する。涼州の地理に通じ、智勇ともに優れる彼の加入は、蜀軍にとって大きな助けとなるのだ。
2012年07月27日
今日の第84話から、いよいよ最終章・第7部「危急存亡」。
蜀の諸葛亮(孔明)と魏の司馬懿(しばい)の対決に、スポットが当てられます。
残り少なくなりましたが、今日を含めて残り12話。
8月中旬のフィナーレまで、もう少しありますが、
どうか最後までお付き合いください!

さて、孔明の命令で呉に派遣された蜀使・馬謖(ばしょく)は、
孫権に謁見し、呉と蜀との再度の和睦を願い出ます。
「夷陵の戦い」で、劉備と同盟したはずの孫権ですが、
魏から蜀侵攻の援軍要請があったために、
とりあえず、魏には承諾の回答をしていました。
曖昧な回答でお茶を濁す、孫呉お得意の作戦です。
そのため、まずは蜀使・馬謖に対しては強気に出て、
彼の人物と才知を試そうとします。煮えたぎる油で満たした
巨大な鼎(かなえ。肉などを煮るための青銅器)を置き、
即座に馬謖をその中に放り込むよう命じます。
しかし、馬謖が少しも慌てずに高笑いしたのを聞いて、
孫権も話を聞く気になり、言葉を交わそうという気になりました。
第一関門クリアといったところでしょう。

馬謖は、「魏・呉・蜀の三国は、あの鼎(かなえ)の脚も同様。
いずれが欠けても、天下は倒れます」といい、
とくに、呉と蜀は人間の両足であると例え、同盟の必要性を説きます。
孫権が答えを渋っていると、馬謖は自ら鼎に飛び込もうと歩きだします。
が、その度胸に感じ入った孫権は、馬謖を引きとめました。

大いに心を動かされた孫権は、魏の使者を鼎に放り込むことで、
蜀と同盟を結ぶことを約束したのです。
さすがに、使者が放り込まれるところはカットされ、撮影されなかったようですね・・・。
ちなみに、正史ならびに原作では、
このときに蜀から派遣されたのは、鄧芝(とうし)という人物なのですが、
本作では鄧芝は登場せず、馬謖にその役回りが与えられました。
「どうして?!」と思われる方もいらっしゃると思いますが、
これまでにも、いくつかあった本作のオリジナル要素のひとつとして、
ご納得いただくほかはありません(笑)。
かくして、呉の協力が得られなかった魏軍は、
指揮官の曹真や曹休らが凡将であったことに加え、
連携の拙さにより、馬超や趙雲らがひきいる蜀軍の前に大敗。
蜀討伐は失敗に終わります。

蜀討伐に失敗した魏帝・曹丕(そうひ)は、
「今回の敗戦は呉の裏切りのせいである」といって、
再度軍勢を編成し、今度は呉の討伐を目指し、
水軍35万をもって荊州への出陣を命じます。
指揮官には、前回同様に
一族の曹真(そうしん)、曹休(そうきゅう)が任命されました。
司馬懿は、呉と蜀が同盟し、協力関係にある以上、
勝利は見込めないとして出兵を諌め、富国強兵を勧めますが、
曹丕は激怒し「余計な口を挟むな」といい、司馬懿を下がらせました。
荊州へ出陣した曹丕ですが、
呉と蜀の連合軍の前に敗れ、命からがら洛陽へ逃げ帰ります。
ドラマではさらりと流されましたが、この「濡須口(じゅすこう)の戦い」は
「赤壁の戦い」同様の魏の惨敗だったようです。

手ひどくやられた曹丕は、持病が悪化し、病の床に伏します。
司馬懿が見舞いに来ると、曹丕は激しく咳き込んで血を吐いていました。
曹丕は幼少期から持病を抱えており、
父の曹操にも司馬懿にもそれを隠して生きていたことを告白。
出陣を急いだのも、自分が生きているうちに、
呉や蜀を討伐したいとの一心からだったのです。
しかし、それは失敗に終わり、もはやその身も終わりが近づいています。
司馬懿は、魏のために軍を率いたいと改めて願い出ます。
曹丕はようやくそれを聞き入れ、華歆(かきん)を呼び寄せて、
司馬懿を驃騎大将軍(ひょうき・だいしょうぐん)に任じました。

曹丕は、司馬懿に対し、息子の曹叡(そうえい)の補佐を頼み、
何度も念をおし、司馬懿が頷くと、安心したように倒れ込み、
そのまま息を引き取ってしまいました・・・。
西暦226年、魏の初代皇帝・曹丕は、40年という短い生涯を閉じます。
父、曹操の死からわずか6年。あまりに呆気ない死でした。
あっけなさ過ぎて、私も本当に拍子抜けしました。
これまで、曹丕をじっくり描いてきたのですから、
もう少し、余韻があっても良さそうなものでしたが・・・。
曹丕は父のような軍事的才能には恵まれず、
目立った軍功も武勇もありません。
原作では、「夷陵の戦い」の行方を言い当てるなどの才を見せましたが、
本作ではそのような描写もなく、比較的凡庸な人物に描かれました。
しかし、その在位中は魏の国内で目立った争乱もなく、
孔明の侵攻を一度も許さなかったことなどを考えると、
君主として、ある程度ふさわしい統治をおこなっていたと評価できます。
・・・その夜、司馬懿は茫然自失としていました。
幼い時から面倒をみて、その後継者争いにも力を貸し、
彼なりに忠節をつくして支えてきた主が、こんなにも早く逝ったのです。

「40にして亡くなられるとは・・・私は50を過ぎてやっと軍権を得たというに・・・
口惜しくてたまらん」
さすがの司馬懿も、このところ予想外のことが続き、ショックを隠せない様子。
それを聞いた静姝(せいしゅ)も、よほどの衝撃だったとみえて
運んできた羹(あつもの)を取り落としてしまいました。

この驚き方は尋常ではありません。
司馬懿は、今回「そなたの主が死んだ」といいました。
静姝の「正体」、つまり曹丕から派遣されていた密偵であったことは、
とうに見抜いていたようです。彼は今後、静姝をどう扱うのでしょうか。

亡くなった曹丕の後を継いだのは、長男の曹叡(そうえい)という人物です。
今回が初登場なので馴染みが薄いと思いますが・・・覚えてあげてください。
帝位についたばかりの彼のそばには、
さっそく一族の曹真、曹休が呼ばれ、今後の対策を協議します。
曹真(そうしん)は曹操の甥にあたり、
曹休(そうきゅう)は曹操とは血のつながりはありませんが、
2人とも曹丕と同様に大事に扱われてきた人物です。
本作ではこれまで出番はありませんでしたが、史実上では2人とも
若いころから曹操軍の中核として働いてきた功臣であり、名将です。

しかし、本作における曹真、曹休は典型的な佞臣で、
軍事的才能にも思慮にも乏しい無能な人物として描かれています。
曹真たちは、言葉巧みに司馬懿の野心をあげつらい、
彼を都から遠ざけてしまうよう勧めます。
曹叡はそれを聞き入れ、司馬懿を揚州・涼州の大都督に任じ、
辺境の城へと送ってしまいました。
左遷された司馬懿は、なぜか非常にうれしそうな顔をして、任地へと赴きます。
揚州・涼州は魏の守りの要であり、左遷されるまでもなく、
それを願っていたというのです・・・。
一方、成都の孔明はひとり、部屋にこもって、
長い文章をしたためていました。これが世に名高い「出師(すいし)の表」です。
出師(すいし)とは、出陣つまり軍隊を送り出すことを指します。
曹丕が死んだことで、その動揺を突くには今をおいて他にないということで、
魏討伐(北伐)を敢行するにあたっての決意を表明するためです。
劉備の死後、孔明は「夷陵の戦い」で失われた兵馬と、
疲弊した国力の回復に力を注いでいました。
その間、「南蛮」と呼ばれる南の異民族を討伐し、
これを降伏させて従えて後顧の憂いを取り除きました。
劉備が死んでからすでに4年の歳月が経ち、ようやく準備が整ったのです。
そこで、いよいよ蜀漢としての悲願である中原奪回をはかろうと
行動を起こすのですが、しかし、道のりは困難です。
荊州を失ったことで、蜀軍は中原進出への楽なルートを失っています。
このため、輸送の困難な北方の山脈越えをして、
まずは長安を攻め落とし、それから魏の都・洛陽をめざす必要がありました。

孔明は、劉禅に「出師の表」を上奏し、出兵の許可を求めました。
李厳(りげん)がこれに反対しますが、孔明の意思は並々ならぬものがあります。
李厳の言葉も正論で、蜀は三国の中で最も弱小です。
魏と蜀を比べた場合、その国力差は倍以上の開きがあります。
しかし、孔明が言うように座したままでは漢室の中興などかなうわけもありません。
守りに徹していれば、蜀という国の体裁を何十年かは保てるでしょうが、
劉備から後事を直接託された孔明としては、
北伐の兵を起こすことこそが、彼の恩義に報いる唯一の手段なのです。

孔明は、諸将に次々と軍令を与えていきますが、
趙雲にだけは、命じないままでした。
当然、用いられないことで趙雲は反発します。
先ごろ、馬超も病で亡くなり、
先帝・劉備が任命した五虎大将軍は、趙雲のみとなってしまいました。
歴戦の名将・趙雲も、50歳をとうに過ぎています。
孔明は、唯一の生き残りである趙雲に無理をさせたくないために
出陣を命じなかったのですが、魏との決戦に出陣できないのなら、
趙雲は頭を砕いて自害するとまで言ったため、
仕方なく彼を先鋒に任命しました。
ただ、こうなることは、孔明も分かっていたようにも見えます。
こうして、孔明の5度にわたる魏との死力を尽くした戦いの緒戦、
「第1次北伐」が開始されたのです。
【出師の表(すいしのひょう)について】

孔明が魏打倒にあたって認めた書面は、『正史』にも記録されて伝わっている。この表は2回にわたって出され、最初の北伐の前、西暦227年に、劉禅に出した文書が『前・ 出師表』。229年に出されたものが『後・出師表』という。死を覚悟して戦いに臨むにあたっての決意表明、遺言状ともいえるもので、若き皇帝・劉禅を教え諭す内容となっている。中国では、「これを読んで泣かない者は人ではない」名文とされてきた。その内容を要約し、簡単ではあるが掲載する。
「いま、天下は魏・呉・蜀に三分しています。わが蜀は疲弊し、大変な危機が迫っていますが、人材のがんばりで持ちこたえています。陛下はそれをよく理解し、人を大切にして刑罰はひいきのないように、公平に行ってください。優秀な人を遠ざけ、つまらない人を用いてはなりません。 私は、かつて田畑を耕す田舎者でしたが、先帝(劉備)は三度も私の家を訪れて拾ってくださいました。感激して先帝のために奔走し、あれから21年。南は定まり、兵も充実しました。今こそ中原に出て、逆賊たる魏を破り、漢王朝を復興させることが、先帝へのご恩返しであり務めです。どうか私に任を与えてください。失敗したら私を罰し、先帝の霊に報告してください。今、まさに遠く離れるにあたり涙がこぼれ、何をいいたいのかも分からなくなってしまいました・・・」
2012年07月26日
今宵も、ハンカチのご用意はよろしいですか・・・?

諸葛亮(孔明)は、呉の使者であり兄でもある諸葛瑾(しょかつきん)と、
今後も、孫・劉同盟(呉蜀同盟)を崩すことのないよう心を合わせました。
ただ、荊州は結局、呉の領土のままであることには変わりありません。

そして、いよいよ最期を悟った劉備は孔明を再び枕元に呼びます。
孔明を以前のように「先生」と呼び、これまでの労に対する
感謝の念を述べ、改めて今回の出陣を悔やみ、詫びます。
ここで、珍しく回想シーン(第33回)が挿入されました。
あのとき孔明が語った「天下三分の計」は、
ほんの数年前まで彼の思惑通りに運び、間違いなく実現しかけました。
しかし、荊州失墜と夷陵(いりょう)での大敗により、水泡に帰したのです。
劉備は、息子・阿斗(劉禅)の助けを借りて
身を起こすと、孔明にこう言います。
「そなたの才は曹丕に勝り、孫権の100倍ある。
もし、そなたがこの子の補佐役が望みなら補佐してほしい。
しかし、大業をなす器にあらずと見極めし時は、
そなたがとって代わり、帝位を継いで蜀をおさめるのだ」
孔明は驚き、「分不相応なことは考えません」といって、
忠節を貫くことを誓います。
劉備の本心は息子よりも孔明に跡を託したいのですが、
孔明の性格上、君臣の関係を逆転させることなど
出来ないと知っています。それを分かっていても頼みたかったのでしょう。

劉備は、劉禅に対し、今後は孔明を父と仰ぐようにといい頭を下げさせます。
劉禅は素直な性格だけが長所。
孔明を父と仰ぎ、蜀を存続させていくよう誓いました。
劉備には、このとき劉禅のほかにもう2人、
劉永、劉理という息子がいました。(本作には登場せず)
しかし、長男は劉禅ですし、2人の弟は年齢は不明ですが、
まだ10歳になるかならないか。やはり後継者は劉禅しかいなかったようです。

いよいよ死期を悟った劉備は、孔明に諸官を呼びに行かせ、
ひとり残った劉禅に、歴史書『史記』の一節である「高祖本紀」を
諳んじさせますが、劉禅はやはり最後までいえません。
(高祖とは400年前に「漢」を建国した劉備親子の先祖とされる劉邦のこと)
「まだ、覚えておらんのか・・・」
劉備は手をあげて劉禅の頬を打とうとし、劉禅は打たれようとしますが、
その手は力なく頬を撫でるのみで、するりと落ちていきます。
そして、劉備の手は二度と持ち上がることはなく、
諸官たちが慌てて入ってきたときには、
すでに言葉を発することはなくなっていました。

西暦223年、劉備逝去。享年63歳。
関羽・張飛の仇討ちをすることも叶わず、
漢帝国中興の悲願を果たすこともできずに死んだ劉備。
その無念を思うと心が裂けそうなほどです。
最期は蜀にとって致命傷ともいえる損害を出し、
大業を果たせぬまま去った彼ですが、
しかし、私はこの三国志という物語の真の主役は、劉備だと思っています。
最初から、ある程度の財力や基盤のあった曹操や孫権と違い、
ほとんどゼロの状態から身を立て、何度負けても逃げ延びて、
不屈の精神で再起し、ついには皇帝となった劉備。
彼がいなければ、三国時代の扉が開かれることはなかったでしょう。
彼は不思議な仁徳を備えており、
行く先には常に彼を匿ったり、協力を惜しまぬ人が現れました。
あるときは数十万の民衆が劉備を慕ってその後を追ったこともありました。

「三国志演義」を原作とする作品では、これといった取り得もなく、
徳だけに優れた聖人君子的な人物として描かれることの多い劉備ですが、
それらは彼の本当の姿とはいえないかもしれません。
三国志には色々な作品があり、その人物の描かれ方は実に様々です。
剣の腕が達者で、頑固で決して意志を曲げす、時に恐るべき勘の鋭さと
ずる賢さをも発揮し、危機を切り抜け続けた本作の劉備は、
彼本来の魅力を、よく表すことができていたように思えます。
・・・その死の知らせが、建業(けんぎょう)の孫権のもとへ届きました。
孫権は、墓の前で弔いの笛を吹いています。
その墓は、最近亡くなった妹、小妹(しょうめい)のものでした。
小妹は劉備が大敗した後、病にかかり呆気なく世を去ったといいます。
小妹の死と1日違いであったという劉備の訃報を受け、驚きを隠せない孫権。

乾いた笑いの後、深い悲しみに襲われる彼でしたが、
すぐに君主の顔に戻り、ひとまずの脅威が去ったことを安堵しました。
劉備には深く恨まれていることを自覚していたからです。
しかし、その顔は「曹・劉・孫」の三者で、自分だけが残ったことを
喜ぶばかりではなく、同時代を生きた英雄が2人とも去ったことを思い、
特別な感慨にひたっているようにも感じられました。
一方、魏の都・洛陽にも、「劉備死去」の知らせが届いていました。
曹丕(そうひ)、司馬懿(しばい)にとって、
劉備は巨大で厄介な存在でしたから、朗報以外の何ものでもありません。
喜びの表情を隠そうにも隠せない2人。

司馬懿邸に自らやってきた曹丕を、
静姝(せいしゅ)がまず出迎え、司馬懿と司馬昭親子が迎えます。
曹丕はその隙を突き、蜀打倒のため挙兵を考えていることを告げると、
司馬懿もまた、そのために戦略を考えていると応えます。

司馬懿は、まず劉備の死後に
実権を握るはずの孔明を警戒するように諭しました。
その一方で、南蛮王の孟獲(もうかく)や、
鮮卑(せんぴ)の軻比能(かひのう)など、蜀の背後にいる
異民族たちと手を組み、蜀を挟みうちする策を披露します。
漢中は孟達を動かし、益州は孫権を動かすことで攻撃し、
智勇を備えた将軍に10万を与え、陽平関を攻めるという、
5つの大軍を発して蜀を打ち破れば良いというのです。

司馬懿は、その軍の主力を任せてほしいと願いますが、
曹丕は、やはり司馬懿に実権を与えることを怖れ、拒みました。
代わりに、その役目を親族の曹真(そうしん)に依頼します。
さて、蜀の都・成都では、劉備の跡をついで新たに皇帝となった劉禅が、
魏とそれに呼応した大軍が、蜀へ侵攻しているとの知らせを受け、
大いにうろたえていました。
しかし、孔明は朝議には出ず、丞相府で防衛の策を練っていたのです。
孔明は、すでに迫り来る4つの軍に対し、すべてに策を講じて
守りを固めさせる手筈を整えていました。

それにすっかり感心し、喜ぶ劉禅。
彼は父の遺言通り、孔明にすべての軍権を任せようと心を決めるのでした。
魏が用意した4つの軍勢に対しての策は講じましたが、
残る1つの気がかりは、呉の侵攻です。
劉備が亡くなる前に、呉と再度の同盟を結んだとはいえ、
魏から良い条件を持ちかけられれば、孫権が心変わりして、
いつ、蜀へ攻め寄せてくるか分かりません。
孔明は、呉の意志を確認し、改めて同盟を強化させんがため、
腹心の部下・馬謖(ばしょく)を呉へ派遣します。
劉備が臨終のさい「馬謖は重用するな」と忠告したことを
御記憶の方も多いかと思いますが、
孔明はそれを覚えているのかいないのか・・・。
呉王・孫権のもとには、魏からも出兵を乞う使者が派遣され、
待機しているところでした。
さて、馬謖は孔明の要求に応え、
呉との同盟を結びなおすことができるのでしょうか・・・?
(年表はこちらに移動させました)
2012年07月25日
こんばんは!哲舟です。
夷陵の戦場において、「劉備が山林へ陣を移した」との
報告に接した諸葛亮(孔明)は、即座に味方の敗北を予見しました。
こうなった以上、損害を少しでも減らすしか方法はありません。
そこで、荊州と益州の境にある魚腹浦(ぎょふくほ)という場所に
馬謖(ばしょく)を派遣し、八卦の陣をしいて待つよう命じます。
呉軍の追撃を食い止め、味方の退路を確保する時間稼ぎをするためです。
また、趙雲(ちょううん)には、敗退してくるであろう
味方の軍を救援して白帝城へ入るよう、前線へ赴かせました。
連日勝利の報告が入っているにも関わらず
「蜀が敗北する」という孔明の言葉に、趙雲は耳を疑いますが、
「智者も千慮に一失あり」との一言に覚悟を決め、
騎兵1万を率いて荊州へ向かいました。
そのころ、夜を迎えた夷陵(いりょう)の戦場では、
勝利を目前にした呉軍が、火攻めの機会をうかがっています。
大都督・陸遜(りくそん)の合図が伝わると、
攻撃隊長の韓当(かんとう)が号令をくだし、
ついに蜀の陣営に火が放たれました。
火矢が飛び交い、油の入った壺が次々と投げ込まれ・・・、
蜀軍の陣地はたちまち業火に包まれます。
延々、数百里にわたって陣を連ね、
密集した軍勢の周りは、木々が生い茂る山林。
その燃え広がり方の速さは尋常ではありません。
ただでさえ、長期戦に倦んでいた蜀軍の将兵。
夜に入り、身体を休めていた将も兵も、突然の業火に驚き、
逃げようにも逃げ場なく、その人馬はなす術もなく焼かれていきます・・・。
関興(かんこう)の呼ぶ声に、
劉備が目を覚まして帳幕を出たとき、そこはすでに火の海でした。
劉備の眼に移ったのは、焼け落ちる自軍の陣営と、
逃げまどい、次々に討たれる味方の兵の姿でした。
それは、かつて赤壁で曹操が目にした悪夢と同じような
凄惨な光景だったに違いありません。
勝ちに奢り、油断した挙句に招いた、まぎれもない敗北。
75万の大軍が炎に呑まれ、この1年で積み重ねてきた勝利が
灰燼に帰していくさまを、劉備はただ茫然と見守ります・・・。
「劉備を生け捕れ!」との敵軍の声に激した劉備は、
みずから剣を握り、反撃を命じますが、
投げつけた剣は、呉軍の一兵士を倒したに過ぎません。
もはや万事休す。味方の将兵に抱えられ、退却するほかなくなりました。
西暦222年夏、「夷陵の戦い」は呉軍の大逆転勝利、蜀軍の惨敗で幕をおろします。
蜀の陣営を壊滅させ、追撃に移った陸遜ひきいる呉軍は、
魚腹浦(ぎょふくほ)へとやってきます。
兵法に通じる陸遜は、孔明が一時しのぎに仕掛けた八卦の陣を見破り、
難なく通過したようですが、「臥龍(がりょう・孔明のこと)に比すれば、
私など足元にも及ばぬ」といい、警戒を緩めずに進みます。
そこに、孔明が馬謖に渡した碁器が届けられます。
中にはセミとカマキリの死骸が入っていました。
それを聞いた陸遜は、中身を確かめようともせず意味を察して、
「もっともだ」と悟り、追撃をやめて撤退に移ります。
「蟷螂(とうろう)蝉をうかがい、黄雀(こうじゃく)後ろにあり」
すなわち、カマキリ(呉)が獲物のセミ(蜀)を捕まえようと窺っていると、
スズメ(魏)が後ろに忍び寄っているかもしれないぞ・・・という、孔明の謎かけです。
知恵者同士ならではの高度な駆け引きというしかないでしょう。
案の定、兵を退いたところに魏が20万の兵を
荊州に差し向けたという情報が入ってきました。
陸遜と対応策を練るため、孫権も前線に出向いてきています。
孫権も魏が侵攻してくることはとうに計算しており、
各戦線に軍勢を派遣し、魏の本隊を率いる曹仁(そうじん)に対しては、
陸遜の旗を掲げさせるだけで撤退させるよう手を打っていました。
しかし、今回は撃退できても、最強の魏に対抗するのは
独力では難しく、孫・劉連盟を復活させるしかない・・・。
孫権はそう悟り、またも諸葛瑾(しょかつきん)を劉備のもとへ派遣します。
手土産として、今回の勝利で得た蜀軍の兵馬や食糧を
すべて蜀へと返還するよう申しつけました。
一方、益州と荊州の境にある白帝城(はくていじょう)に入った劉備は、
敗戦の痛手から立ち直れず、床に伏していました。
疲れ果てた体は、いつしか病にかかり、起き上がる気力もないようで、
蜀の都・成都にも帰ることができずにいます。
将兵も壊滅状態で、すぐには立て直すことができません。
趙雲、馬良(ばりょう)の心配をよそに、
彼はここ数日、食事さえしようとせず、絶望の淵にいます。
「朕は、心身ともに疲れ果てた。もう長くない・・・」
弱音を吐く劉備を、趙雲は涙を流して励まします。
それから数日後、
孔明と、息子の劉禅(りゅうぜん)が、成都から呼ばれてやってきました。
劉備は、孔明を枕元に呼び寄せ、
今回の荊州遠征が、孔明の言葉に従わずに招いた
失策であったことを詫び、無念の言葉を口にします。
自分がもっと早く忠告できていれば、陸遜に勝てたはずです、
と、恐縮しながら孔明は答えます。
そこへ、呉の使者・諸葛瑾が到着。
迎えた劉備に対し、諸葛瑾は、捕虜となった蜀の兵や軍馬を
返上するといい、ふたたび同盟の話を持ちかけました。
その言葉を聞くやいなや、立ち上がった劉備は
口から血を噴き出し、倒れてしまいます。
敗北に打ちひしがれる劉備に対し、呉の行為は侮辱以外の何ものでもありません。
しかし、孔明の言うように、数多くの兵を失った
いま、蜀がとるべき道はひとつ。呉との同盟しかないのです。
長い目で見れば、失われた捕虜や軍馬の一部が
返上されたことは幸運でもあり、孔明はひとまず諸葛瑾に頭を下げます。
目を覚ました劉備は、そばで見守る劉禅に対し、
自分が死んだ後にどうやって国を運営していくか、
その方針を尋ねますが、劉禅は幼子そのままに駄々をこねるばかり。
彼には自分の考えなど一切なく、
「ただ劉備の子でいたい」という一念しかないのです・・・。
劉備は、次いで李厳(りげん)を呼び寄せます。
李厳は蜀に入ってから劉備が得た、益州では最も有能な人物ですが、
劉備の心残りは、李厳と孔明が不仲であることでした。
それを李厳への戒めとして伝え、皆で孔明を助けて大業をなすことを願い、
後事を託します。李厳はその言葉を胸に深く刻み、叩頭し、
孔明と力を合わせることを誓うのでした・・・。
【このひとに注目!】
◆陸遜(りくそん) 字/伯言(はくげん) 183~245年
ドラマにおいては、「若さ」を演出するためか27歳に設定されている陸遜だが、史実では183年生まれのため、夷陵の戦いが終わった222年の時点で40歳だった。
「夷陵の戦い」で、当初は呉の諸将に侮られ、なかなか攻撃をしないために臆病者と揶揄されたものの、勝利の後に信頼されるようになったことは、正史でも同様である。侮られた理由は「若さ」ではなく、目立った戦功がなかったこと、陸遜が孫権の代になってから呉に仕えていたのに対し、諸将の多くは孫堅・孫策の代から仕えて戦功をあげてきたことなどが理由といえる。
陸遜は、諸将の勝手な振る舞いを孫権にはいっさい報告しなかったが、後でそれを知った孫権は彼をそれまで以上に高く評価する。以後、孫権は蜀(諸葛亮)との外交交渉を行うときは、常に陸遜を通じて行うようになったという。しかし、晩年は孫権の後継者問題に巻き込まれ、対立した文官に讒言されて信頼を失い、非業の最期をとげる。後年、孫権はそれをひどく後悔し、息子の陸抗に深く謝罪した。
2012年07月24日
猇亭山(おうていざん)に、陣を進めた劉備は、
馬謖(ばしょく)が届けた諸葛亮(孔明)の書状に目を通していました。
孔明は、「陸遜(りくそん)は兵法に通じる油断ならぬ相手。
10年かけて鋳造した剣のごとし」と記し、劉備に忠告したのですが・・・
劉備は勝ちに驕り、陸遜を侮っていて、まともに聞こうとしません。
しかし、最終防衛線を守る呉軍は、これまと違って一歩も退かず、
日に日に激しい抵抗を見せるようになっています。
一方、関興(かんこう)や張苞(ちょうほう)は、
連日、呉の軍営を攻めていますが、敵の抵抗は激しく
なかなか落とすことができず、張苞は負傷する始末でした。
この2人は、関羽・張飛の息子たちですが、張苞のほうが年が上のようで
関興が張苞のことを「義兄」(あに)と呼んでいます。(史実では年齢不詳)

彼らのふがいなさを厳しく叱責する劉備ですが、張苞が満身創痍と知ると、
やむなく一時撤退し、2日休ませてから再び攻撃せよと命じます。
一方、呉の陣営では、蜀軍が撤退したことを知り、
韓当(かんとう)や周泰(しゅうたい)が追撃を進言しますが、
大都督の陸遜(りくそん)はそれを退け、なおも「堅く守れ」と命じるのみです。
部下たちは、この徹底した消極的な戦法に不満をもらしますが、
陸遜は「まもなく30万の精鋭が天より降り立つ」と不敵な笑みを浮かべ、
またもや、彼らを煙に巻くばかりでした・・・。
数日後、蜀軍が砦の近くで宴会を張り、酒を飲んで散々に罵り始めます。
砦に籠って出てこない呉軍を挑発し、おびき出す作戦です。
それにまんまとハマった傳駿(ふしゅん)は、
砦を出て蜀軍に攻撃をしかけました。
しかし、案の定、外には蜀軍の伏兵が大勢潜んでいて、
危機に陥った傳駿は退却にかかりますが、
空になった砦を、その隙に蜀軍に奪われていました。
傳駿の身勝手な行動で、呉軍はたちまち4つの砦を失ったのです。
引き立てられてきた彼を、陸遜は処刑しようとします。
韓当ら、諸将は傳駿が孫権の妻の弟、つまり義理の弟であるため、
命だけは救うよう懇願しますが、陸遜は構わず首をはねさせました。

その後、陸遜の陣営をねぎらいに孫権がやってきます。
孫権は陸遜以下、自軍の将兵に褒美を与えましたが、
陸遜は傳駿を斬ったことを詫び、受け取りを固辞。
しかし、孫権はそれを咎めぬどころか、
陸遜が軍令を遵守して、厳粛なる処置をしたことを大いに褒めます。

「陸遜が傳駿の首を斬らねば、私の首が劉備に斬られていただろう」
そして、代わりの褒美として、これまで「陸遜を罷免せよ」と記して
送られてきた書簡を持ってこさせ、その場ですべて燃やしてしまいました。

それを見た陸遜は感激し、孫権に改めて勝利を誓います。
「お礼に”炎”をお捧げします。天地が裂けんばかりの勝利の炎を!」
彼は力強く、そう言いました。
一方の蜀軍の間では、慣れぬ風土に長く滞在しているため、
疫病がはびこり、また時節も夏にさしかかり、飲み水が枯渇してきていました。
ドラマでは時間経過が分かりませんが、
劉備が荊州に攻め入ってから、すでに1年近くが経過しています。
当初こそ、蜀軍は劉備の燃える闘志そのままに士気も旺盛でしたし、
逆に呉軍の士気が低かったため、圧倒的有利に戦いを進めていましたが、
それは、いつまでも続くものではありません。
相次ぐ戦いに蜀軍は疲弊しきっており、酷暑と疫病に見舞われ
かつての勢いは完全にそがれてしまいました。
馬良は、一度兵を秭帰(しき)へと退くよう進言しますが、
劉備は「今退けば士気が下がり、勝機を逸する」といい、聞きません。
その代わりに、暑さをしのぐため「山林の茂みに軍を移す」といいます。
山林に陣を移せば、確かに酷暑はしのげますが・・・
危惧した馬良は、敵味方の陣営を記し、孔明に届けさせます。
結果的に、この劉備の決断は、蜀軍にとっての命取りとなってしまいます。
関羽のときもそうでしたが、馬良という人は的確な助言をしているにも
かかわらず、それを聞いてもらえず可哀想になりますよね。
一方の陸遜は、蜀軍が全軍を
山林の中に移したとを知って「今こそ好機」と見ました。
陸遜が、いままで部下たちに恨まれてでも
耐えに耐えて待っていた「30万の大軍」とは、
蜀軍を苦しめる、酷暑と疫病と風土のことでした。
つまり、夏の到来と蜀軍の士気の緩みを待っていたのです。
諸将を集め、軍議を開いた陸遜は宣言します。

「かつて周瑜殿は赤壁の大火で曹操軍を全滅させた。
我らの今日の炎は、劉備と70万の精鋭を跡形もなく焼き尽くすのだ」
一方、馬良(ばりょう)から布陣図を受け取った孔明は、
劉備の大敗を予見し、大いに嘆きます。

「我が蜀は終わりだ・・・」
草木の生い茂る場所に陣を張っては、火攻めを防ぎようがない。
しかも70万の大軍がひしめきあっていては、逃げ場もなく、
その兵馬は火鉢となって味方に燃え広がるだろう、と孔明は言います。
孔明が荊州に行けば良かったのに・・・。視聴者のほとんどはそう思うでしょうね。
ただ、主君の命令なくして、持ち場を離れることもできませんし、
ドラマでは暇そうに見えますが、孔明は色々と事務仕事などもあって多忙なんです。
詳しくは長くなるので書きませんが、それができない事情もあったとご理解ください。
孔明は、馬良を急いで帰し、陣を移すよう劉備に伝えに行かせ、
万一のときは、白帝城(はくていじょう)へ逃げるように助言しますが・・・、
絶望のあまり、その場にへたり込んでしまいました。
ちなみに史実では、
孔明は「法正(ほうせい)が生きていれば主君を止められたのに・・・」と嘆いています。
本作では描かれていませんが、法正は2年前に病死しています。
軍事に長けた彼の助言は劉備もよく聞いたようで、その死は大いなる痛手でした。

そのころ、魏の都・洛陽では、曹丕(そうひ)が発作に苦しんでいました。
幼い頃からの持病であり、決して口外しないよう近習に言い含めますが、
司馬懿は、それを立ち聞きしてしまいます。
曹丕に目通りした司馬懿は、
猇亭(おうてい)での蜀と呉の戦いの様子を曹丕に知らせます。
「劉備は、まもなく負けます」と司馬懿。
かつて、司馬懿は劉備の勝利を予想していましたが、
それが誤りであったことを認めます。
さすがの司馬懿もまた、陸遜の才能を軽く見ていた、というより、
曹丕も含め、世の中の誰もが劉備の勝利を予測したはずの戦いであり、
いわゆる「番狂わせ」であるといえます。
司馬懿は、戦いの直後に傷ついた呉軍を討つために
20万の兵を預かりたいと申し出ますが、曹丕はそれを許しません。

曹丕は、「そなたは朕のそばで策を練ってくれ」と言っていますが、
内心では司馬懿を警戒し、軍権を与えないようにしたいのです。
曹丕は、代わりに曹仁(そうじん)、曹休、曹真ら親族に兵を与え、
南へ向かわせると決めました。
自邸へ戻った司馬懿は、曹丕と、その一族が自分を警戒していることに
改めて気付き、その悩みを息子の司馬昭(しばしょう)にこぼします。
そこへ、静姝(せいしゅ)が、羹(あつもの・スープのこと)を運んできました。
静姝はすぐに出て行こうとしますが、彼女を可愛がる司馬懿は
「座っておれ。遠慮せずとも良い」と、その場にとどめます。
さて、絶体絶命の危機に陥った劉備の運命、
そして「夷陵の戦い」の決着は、いかに・・・?
明日もお見逃しなきよう!