第86話~第90話
2012年08月06日
皆さん、こんばんは! ストーリーテラーの哲舟です。
今日は第90話。来週月曜の最終話を除けば、
いよいよラストウィークとなってしまいます。
残り少ない日々、気を引き締めて綴ってまいります!
さて、第2次北伐において、陳倉(ちんそう)城を落とし、
剣閣道で張郃(ちょうこう)を討ち取り、勝利を手中にした諸葛亮(孔明)。
しかし、孔明はここで病にかかり、さらに悪天候を理由にして
漢中(かんちゅう)への全軍撤退を命じます。
陳倉城をはじめ、落とした城のすべてを捨ててゆくよう指示したのです。
「いつ、追撃命令が来るのだろう」と待っていた将軍の魏延(ぎえん)らは、
せっかくの勝利を無にするような命をくだす孔明に対し、あからさまに反発しますが、
軍令に逆らうわけにもいかないために従い、撤退を開始。
いっぽうの魏軍は、蜀軍が次々と撤退していくと知り、対策を練ります。
先ごろ、大都督に復帰したばかりの曹真(そうしん)は、
蜀軍の撤退は孔明の罠ではないかと疑いますが、
息子の曹爽(そうそう)が、まず陳倉(ちんそう)まで様子を探りに行くよう進言。
それを聞き入れた曹真は、全軍に陳倉への進軍を命令。
すると蜀軍はまさに撤退するところで、魏軍は大軍をもってこれを追撃します。
孔明の撤退が本当だと知り、魏軍は勝利の喜びに湧き、
次々に城を取り戻しにかかるのでした。
曹真は有頂天になって陳倉城の奪取を喜び、みずから駐屯します。
副都督の司馬懿(しばい)は恥をしのび、曹爽の活躍を皇帝・曹叡に対して
上奏する仕事をみずから引き受けます。そんな屈辱的な仕事に対し、
息子の司馬昭は不満を口にしますが、司馬懿はなぜか不適な笑みを浮かべるのです。
初めは気付かなかった司馬昭も、考えた末に孔明の撤退の意図を見抜きます。
いっぽう、なんとか漢中まで撤退し終えた蜀軍。
曹爽の巧みな指揮に追撃を受けた王平(おうへい)は、
5000の兵を失うなど苦戦したすえに逃げ帰っていました。
逃げるばかりで不満顔の魏延や王平に、孔明は時を待つよう言い含め、なだめます。
その後、魏が奪い返したばかりの祁山(きざん)一帯は、長雨に見舞われていました。
降り続く雨に陣中はひどく濡れ、武具は錆び、兵糧にはカビが生え、
曹真が本営を置く陳倉城の兵士たちの間にも不満の声が起きます。
息子の曹爽が、雍涼への撤退を勧めますが、
曹真は聞き入れず、防備を強化して駐屯を続けるよう命じるのですが・・・
なぜか蜀軍が攻めてこないと楽観視した曹真、舞妓たちに舞わせ酒におぼれます。
いったい、この女性たちはどこから呼んできたのでしょうか・・・(笑)?
そこへ、じっと機会をうかがっていた孔明の指示を受け、
魏延ら率いる蜀軍が出陣し、ついに陳倉へ猛攻撃をしかけてきました。
むろん孔明の病というのは、仮病でした。
あわてて応戦を命じ、城壁の上から矢を放たせる曹真ですが、
長雨にさらされた弓の弦は腐って使い物にならず、
鎧もボロボロでろくな抵抗もできません。
部屋にこもり、腰が抜けて動けない曹真は、曹爽らの助けをかりて馬に乗り、
やっとの思いで陳倉城を捨てて撤退しますが、その途中で馬から落ち、
したたかに腰を打って動けなくなります。
どうやら腰の骨が折れたようで、「この場で私を殺せ」と、
息子に命じますが、曹爽には父を討つことができません。
進退窮まっていると、そこへ司馬懿が援軍を率いて現れます。
蜀軍の追撃を追い払った司馬懿は、動けない曹真の横に座り込み、
その背中を、ばしんと叩きます。屈辱と痛みに顔をしかめる曹真。
司馬懿は、曹真が腰を痛めていることを察し、もう一度強く背中を叩きました。
すると曹真は激しく吐血し、そのまま気を失ってしまいます。
血を噴くのは、このドラマにおけるいわゆる「死の合図」です。
実際はこのように、みんながみんな血を吐くことなどあり得ないのですが・・・(笑)
もはや、すっかりお約束になりました。
それにしても無表情にとどめをさす司馬懿が恐ろしい。
曹真はそのまま絶命してしまったようで、
息子の曹爽がその棺を守り、都・洛陽へと帰っていきました。
曹真が死んだことで、邪魔者のいなくなった司馬懿は
大将軍に命じられ、大都督に復帰、再び魏全軍の指揮官へ返り咲いたのです。
読者の方も指摘しておられましたが、本当に浮き沈みの激しい司馬懿。
沈んでも沈んでも、必ず浮かび上がってくるという不気味さがあります。
231年、祁山にて、魏・蜀の両軍は対峙。司馬懿と孔明は陣頭で顔をあわせました。
両者は初めて会うはずですが、なぜか旧知の仲のように言葉を交わします。
ちなみに、このとき孔明51歳、司馬懿は53歳。
2人とも、表情や声色は穏やかですが、言葉は相手への皮肉と罵倒に満ちています。
孔明は以前、王朗を口先だけで殺したほど。
この2人とは、間違っても口喧嘩したくはないですね・・・。
そういえば以前にも、曹操と袁紹、劉備と曹操などが
こうして陣頭で言葉を交わしたことがありました。
念のために書いておきますが、実際は、こうして両軍の大将が
戦場で2人きりになって言葉を交わすことなどあり得ません。
前線で戦う将軍同士は別ですが、写真もない時代、
お互い、相手の大将の顔は見たことがないはずで、
ほとんどの場合は、顔の知らない者同士が戦っていたわけです。
まあ、それではつまらないために、ドラマではこういう演出をするのです。
さて2人は、陣形くらべで勝負することにします。
先に動いたのは司馬懿。その布陣は「混元一気の陣」。
内心、司馬懿の指揮に感心しながらも、孔明は楽に見破り、
「そんなものはわが軍の一兵卒までもが知っている」といいます。
司馬懿に促され、今度は孔明が自軍に指示を与えます。
さて、孔明がとった布陣は、はたしていかなるものでしょうか?
・・・残念ながら、ここで時間が来てしまいました。また明日もお楽しみに!
◆更新も残り少なくなりましたので、皆様からいただいたご質問などに、3夜続けてお答えします。例によって、フォローしきれないものもあると思いますが、ご了承ください。
Q.あれ?放送じゃ司馬親子の担ぎシーン無かったですよね。見るからにいいシーンなのに・・・(不徳さん)
Q.司馬懿親子が棺を担ぐシーンはなぜなかったのか残念。我々が観ているVTRとブログ管理者が観るVTRは違うもののようですね。(先生さん)
A.第89話で、張郃(ちょうこう)の棺を担ぐシーンですね。はい、そうですね。どうやらBS放送版ではカットされてしまったようです。これだけに限らずテレビ放映版は放送時間の都合やCMを入れる関係で、本編およびオープニング・エンディングの何分かをカットしたものが放送されています。
私もBS放送版を用意してもらい、なるべくそれを見ながら執筆しているのですが、時間の都合で事前の用意や確認が間に合わない場合があるのです。そういうときは製品版(市販DVDもしくはレンタル版)を参照しています。今後も、同じようにカットされた部分を紹介してしまうかもしれませんが、なにぶん平日毎日放送ということで、どうかご理解いただければ幸いです。ご指摘のシーン、ブログから削除しようかとも思いましたが、良いシーンなので敢えて残すことにしました。気になる方には大変申し訳ありません。
Q.あれ?劉禅が228年に17歳って…? 207年生まれなので、228年には21歳では? これでは趙雲が208年に長坂で阿斗を救出した時に、まだ生まれてない事になってしまう。(悶朗さん)
A.第88話で劉禅が自分で言っていましたね。おっしゃるとおりで、21歳が正しいです。ドラマのアレンジかと思いましたが、長坂坡のときにちゃんと生まれていますものね。制作側の計算ミス・・・というには、歴史ドラマにしてはお粗末ですね。私も残念に思います。
Q.曹丕と曹節とのやりとりの中で、曹丕は曹節を字幕では「妹よ」と書いていますが、会話では「姐姐(ジェイジェ)」と発しています。これってお姉さんの事ですよね? 同じく曹節は曹丕を「兄上」と字幕では書いてありましたが、発音は「弟弟(ディーディ)」と言っています。これは弟の事ですよね? 実際は、どちらが上なのでしょう? (keikoさん)
A.史実では、曹丕が兄で曹節は妹なので字幕が正しいです。ただ、本作のオリジナル(中国語)版では逆に設定されたようですね。しかし、日本で発売されたとき日本語字幕を監修された渡邉義浩さん(三国志学会事務局長)が、字幕を史実に基づいた形にしたのだと思われます。中国語が分かる方は「オヤ?」となるでしょうね。そうそう、杏仁酥は見つかりましたか(笑)?
Q.武田信玄も空城の計を実際用い、成功したと、聞いたことがあります。(Zoeさん)
Q.「空城の計」という兵法があったのでしょうか?あったとすれば見破れるでしょうし、孔明のオリジナルなのでしょうねえ! (yamaneko5646さん)
A.第86話「空城の計」で孔明が行った空城の計。これは原作小説でも名シーンですが、正史『三国志』にはなく、残念ながら創作です。しかし、第87話の人物紹介のところでも解説したように『正史』では趙雲がこの計を用いて魏軍を撤退させています。それが、演義では孔明がやったことにされてしまっているんですね(笑)。
また、Zoeさんのいうように日本の戦国武将でもこれを使った人がいます。ただ、それは武田信玄ではなく、徳川家康なんです。家康は「三方ヶ原の戦い」で武田信玄に敗れ、浜松城に逃げ込みました。追撃してきた武田軍(信玄の家臣)は、そのときに城門が開け放ったままだったので、伏兵がいると疑って撤退したそうです。ちなみに「三国志演義」が日本に広まるのは江戸時代からなのですが、もしかすると、家康はそれ以前に「三国志」あるいは「孫子の兵法」を読んでいたのかもしれません。武田信玄も「孫子の兵法」を愛読していたようです。
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2012年08月03日
ふだんは17:55に更新を設定するところ、20:55に設定してしまった操作ミス、およびその後の更新確認が遅れたことが原因です。更新を楽しみにしていただいていた方々にご迷惑、ご心配をおかけしたことをお詫びします。2012.8.4追記
こんばんは、哲舟です!
蜀軍に負けてばかりで、
不甲斐ない魏の大都督・曹真(そうしん)に代わり、
曹叡は司馬懿(しばい)を呼び戻して
再び軍権を与え、前線へと派遣しました。
曹真は雍涼(ようりょう)へと引っこんで静養し、
司馬懿が大都督の座におさまったのです。
副都督の郭淮(かくわい)が、司馬懿を出迎えます。
敗戦続きで士気が乱れている魏軍には逃亡兵が続出中とか。
司馬懿は、今後逃亡者が出た場合には
その上官を斬るという厳しい布告を発し、軍律をただします。
司馬懿は、ただ厳しくあたるだけでなく、
将兵に肉と酒を与えたり、手柄を立てた者には褒美を与えたりする一方、
見せしめとして棒打ちの刑を与えた郭淮には、
兵士に手加減をするように言い含め、その傷を気遣うのでした。
さすがは司馬懿。きめ細やかな手腕で将兵の心をつかみ、
たちまち軍の士気を高めていきます。
いっぽう、蜀の諸葛亮(孔明)は比較的守りの薄い、
武都(ぶと)と陰平(いんぺい)を目的地に定め、包囲を開始しました。
それに対し、司馬懿は孫礼(そんれい)を援軍として赴かせます。
この援軍は、孔明がしかけた魏延(ぎえん)の伏兵にかかって
全滅しそうになりますが、それを郭淮が救援します。
司馬懿は、孔明の伏兵があることを知っていて、まず孫礼を派遣、
さらに郭淮を送りこみ、二重の援軍を送りこんで、
孫礼の窮地を救わせたのです。
やすやすと孔明の計にはかからぬ司馬懿。
さすがに曹真とは違います。
そこで、孔明は次の一計を案じ、みずから武都へと進軍し、
役人や民の慰労と称し、前線に出ます。
孔明が前線に来たと聞いた司馬懿。
その大胆さに感服しつつ、司馬懿は蜀軍の軍営を襲って、
兵糧を焼き払うよう命じます。
魏軍随一の歴戦の名将・張郃(ちょうこう)が
みずから志願し、その役目を果たすことになりました。
勇んで攻め入る張郃ですが、
もぬけの殻だと思われた蜀の軍営から伏兵がどっと沸きます。
たちまち包囲される張郃軍ですが、さすがに歴戦のつわもの。
包囲を突破し、その場は撤退に成功します。
しかし、孔明は周到に伏兵をめぐらせていました。
第2陣を率いるは、張飛の息子・張苞(ちょうほう)。
張苞は、張郃に一騎打ちを挑み、斬りかかりました。
若い張苞の挑戦を、老将・張郃は少しもひるまずに受け、
一進一退の攻防を展開。激しい火花が散ります。
勝負は互角に思えましたが、衰えを知らぬ張郃の武勇は、
張苞のそれを上回り、彼を馬から叩き落しました。
張苞は関興に救われ、退却していきます。
しかし、その間に、蜀軍の包囲はますます厳重になり、
さしもの張郃も逃げ場がなくなり、次第に狭い谷間へ追い込まれます。
孔明は、非常にも張郃にとどめを刺すため、
姜維(きょうい)を剣閣道に待ち伏せさせました。
張郃が来ると、姜維は投降を呼びかけますが、
張郃はむろん、応じるはずがありません。
いっせいに放たれた矢に全身を貫かれ、張郃は絶命しました。
曹操以来、長年魏に仕えた名将の見事な最期でした。
かくして、張郃軍2万は壊滅。
張郃の遺体を自ら担いで哀悼の意を表する
司馬懿、司馬昭(しばしょう)親子。
司馬懿はまんまと孔明の罠にかかったことを知って悔やみ、
張郃の死を悼むのでした。
そのころ、曹真は陣中で療養していました。
療養というのは名ばかりで、仮病を使ってただ寝ているだけです。
そこへ司馬懿の敗報が伝わり、曹真とその子・曹爽(そうそう)は大喜び。
この親子は魏軍がどうなろうと、司馬懿が負けるほうが嬉しいようです。
曹爽は曹叡(そうえい)に、曹真を大都督に復帰させるよう頼み込みます。
曹叡はそれを許し、司馬懿とともに全軍の指揮をとるよう命じました。
司馬懿を信頼している曹叡も身内の頼みには弱いようです。
魏軍も決して一枚岩ではなく、むしろ足の引っ張り合いをしているのに
まだ持ちこたえているあたり、国力の強大さを感じます。
これ以後、曹真は大都督、司馬懿は副都督となります。
現場に復帰した曹真は、さっそく諸将に対して進軍を命じるのでした・・・。
さて、それに対する司馬懿の思惑やいかに。
そして、孔明の出方はどうなりますやら。
それでは皆さん、また来週お目にかかりたく存じます!
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2012年08月02日
馬謖の軍令違反などによって、第1次北伐は失敗したものの、
その後、軍の整備を行い、準備を完了した諸葛亮(孔明)は、
次は陳倉(ちんそう)城を攻めるべく、第2次北伐を開始しようとします。
孔明は、改めて出陣の意志を表明すべく、
劉禅への上奏文「後・出師表」をしたためていました。
しかし、その矢先・・・。
姜維(きょうい)が悲痛な面持ちで部屋に入ってきて、告げます。
「趙雲死去」の報でした。
聞くや否や、筆をとり落とす孔明。
常に冷静な彼が、声にならない叫びをあげ、我を忘れて取り乱します。
趙雲は自邸で病にかかり、ただ、「北伐」と三度叫んで遺言もなく逝ったとか。
その場に倒れ込む孔明。あふれ出る悲しみをこらえ切れず、号泣します。
趙雲は孔明にとって、一番の忠実な部下であり、
また、ともに先帝劉備に仕え、その志を生で知っていた戦友同士でもあります。
孔明にとって、彼は部下と言うより兄に近い感情があったでしょう。
その嘆きの深さ、無念さを思うとやりきれません。
人材不足の蜀軍にとっても無二の存在であった
彼の死の損失ははかり知れません。
孔明は涙をこらえ、「後・出師の表」の続きを綴ります。
「前・出師の表」と異なり、こちらは『正史』の本文にはなく、
裴松之が引用した史料にあるだけなので、実在を疑われることもあるのですが、
本作では採用されているため、その意訳を、再び紹介しておきましょう。
「私は、先帝から魏の討伐を託されました。敵の力はあまりに強く、蜀の力は弱く、放っておけば蜀は魏に滅ぼされるでしょう。しかし、だまって滅亡を待つよりは、先手を取って魏を討つべきです。識者は無謀だといいますが、魏軍は東西で戦をしているために疲弊し、今が進撃の好機です。かつて曹操は、常に危険を省みず戦っていました。私のような小人物は、なおさら身を危険にさらさなければなりません。
最近、趙雲をはじめ優秀な将兵を数多く失いました。四方から集めた精鋭も数年後には大部分が失われるでしょう。いま戦わず、じっとしているのは愚策です。先帝は呉と結んで蜀を獲得し、夏侯淵の首をとりました。のちに呉が同盟を破り、関羽は敗北を喫し、先帝は挫折しました。物事とはこうしたもので、何事も予測しがたいのです。北伐の成否は予測できせんが、私は戦います。死ぬまで力を尽くす覚悟です」
劉禅は引き留めようとするのですが、孔明の決意は固く翻りそうもありません。
許しを得た孔明は、こうして再び北伐を開始したのです。
さて、いっぽうの曹叡(そうえい)は、なんら功績もあげずに
ぬくぬくと過ごしている大都督の曹真(そうしん)を叱責。
無理矢理、蜀との最前線である雍涼(ようりょう)へと派遣し、蜀を迎撃させます。
司馬懿が失脚したのも、もとはといえば曹真の讒言です。
病と称した司馬懿は前線に赴くのを拒んだ以上、
曹叡としては、曹真に責任をとってもらうしかないと考えたのです。
こうして、西暦228年、「陳倉の戦い」(孔明の第二次北伐)が始まりました。
果敢に陳倉に攻めかかる蜀軍ですが、
司馬懿が防衛の指揮官として推挙した郝昭(かくしょう)は、さすがに名将。
その鉄壁の守りをなかなか攻め落とせず、戦死者は増えるばかりです。
さすがの孔明も攻めあぐねているところへ・・・
敵の大将曹真が、陳倉の近くまで援軍として出向いてきたとの報が入ります。
孔明は、曹真が来援したことで、
計略が仕掛けやすくなったことを喜び、姜維(きょうい)に命じて実行させます。
曹真は、まんまと計にかかりました。
姜維は偽りの投降の密書をしたため、魏の陣営に届けたのですが、
曹真はこれを喜び、すっかり信じ、姜維を迎え入れようと進軍するのです。
曹真は、姜維が指定した地まで進軍し、
約束通り、孔明の陣営に攻めかかります。
合図と同時に、姜維が内側から挙兵する手筈になっていたのですが、
姜維は、曹真軍を万全の態勢で待ち構えてり、たちまち包囲してしまいます。
曹真軍を取り囲んだ姜維の総攻撃が始まりました。
曹真の将兵は次々と討たれ、自身も魏延(ぎえん)に斬りかかられて落馬し、
この場で討たれるよりは・・・と自害を覚悟しますが、
息子の曹爽(そうそう)と王双(おうそう)が援軍に来ます。
王双が魏延を食い止める間、曹真は命からがら退却していきます。
孔明は、この一戦で曹真を討ちとろうとしたのですが、
追撃があまく、取り逃がしてしまったことを残念がります。
また、兵糧も残り少なくなってきたことで、追撃をせずに撤兵するよう命じました。
撤退は、曹真をおびき出すための孔明の策だったのですが、
行軍中の魏延は酒をあおり、追撃をかけない孔明の慎重な戦法を批判します。
孔明に呼び出され、咎めを受けても、魏延は反省の色も見せませんでしたが、
曹真軍を待ちうけるために伏兵として待つよう命じられ、しぶしぶ出兵しました。
孔明の読み通り、蜀軍が撤退したことを知ると、
曹真は反撃のチャンスとばかり、大軍をもって追撃にかかりますが
曹真軍は孔明の罠にはまり、伏兵にかかって大敗を喫します。
その後、陳倉城も蜀軍の攻撃にさらされ、
郝昭(かくしょう)は兵の半分を王双に与えてしまったため、防ぎ切れず陥落。
郝昭は責任をとって自害してしまいました。
曹真が頼みとする猛将・王双も戦死します。
またもや敗れ、陣営に戻った曹真は、絶望するばかりでしたが・・・。
部下の郭淮(かくわい)の進言により、
息子の曹爽を洛陽へ戻らせ、弁明に行かせたのです。
傷だらけの曹爽を見て、曹叡もさすがにそれ以上責める気になれず、
ついに司馬懿を呼び戻すよう、命令を下すのでした・・・。
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2012年08月01日
雍州の小さな城、西城。
城門を開け放ち、望楼の上で悠然と琴を奏でる諸葛亮(孔明)。
その情景を目前にした司馬懿(しばい)の大軍は、
動くことができずにいました。
司馬懿は琴の音に耳を澄ましたまま、命令を下しません。
孔明はただ、弦を弾き続けています。
やがて司馬懿の子、司馬昭(しばしょう)は、
ハッタリだと思い、攻撃を父に勧めますが、司馬懿は許さず撤退を考えます。
司馬懿は、城内とその周りの山中に伏兵がいると疑い、
速やかに撤退を命じました。
魏軍が見えなくなると、孔明は手を止め、
「天はわが軍を救いたもうた」と安堵します。
用心深く、慎重な性格の孔明が大胆な策を用いたので、
疑い深い司馬懿はそれを深読みし、兵を退いた。
敵の性格を利用した、乾坤一擲の策でしたが、
ひとまず蜀軍は命拾いし、撤退に成功するのです。
このあたり、城兵たちがもう少し安堵したり、
孔明に命を救われたことに感謝したりするシーンが
あっても良かったように思いました。
陣へ戻った司馬懿は、西城には老兵がわずかに
1000ほどいたに過ぎなかったと知らされ、
孔明との知恵比べに敗れたことで落胆の色を隠せませんでした。
蜀軍の将兵は孔明の知略や、魏延(ぎえん)の活躍によって
漢中へと撤退を終えていました。
ひとり、趙雲(ちょううん)だけが戻らないと知り、
安否が心配されましたが、趙雲は副将の鄧芝(とうし)を伴って
無事の帰還を果たしました。
すみません。わたくし以前、鄧芝は本作に登場しないと書きましたが・・・
ここに出てきましたね(笑)。まあ、使者として活躍するシーンはなく、
ホンのチョイ役に過ぎませんが。
趙雲は老いてなお、しんがりを務め、敵将3人を討ち取って
味方を無事に撤退させるという活躍を見せたのです。
孔明は、褒美を与えようとしますが、趙雲は
「功なき者に報奨など無用です」とそれを辞退します。
孔明は、趙雲の帰還を大いに喜び、温かい言葉をかけましたが
それにも劣らぬ活躍をした魏延には、
簡単にねぎらいの言葉をかけただけでした。
そんな様子を、魏延本人も察して面白くなさそうに見ています。
このように、人材を贔屓するところがあったことは
孔明の欠点といえば欠点ではありますね。
本作では、孔明の長所ばかりでなく短所もこうして描いています。
まあ、魏延は己の功績や武勇を鼻にかける性格であり、
どちらかといえば張飛や関羽などに似たアクの強さがあります。
その時点で、孔明とはソリが合わないのは目に見えていますが・・・。
五虎将のうち4人が亡くなり、人材の乏しい蜀軍にあって、
魏延の軍事的才能と武勇は欠かせないために
孔明も一応、重用はしているのです。
そこへ、街亭で大敗した
馬謖(ばしょく)と王平(おうへい)の二将も帰還してきます。
王平は、馬謖の軍令違反で敗れたにも関わらず、
みずからを罰して欲しいと願い出ます。
敗戦の責任のすべてが馬謖にあると知った孔明は、
王平を罰することはせず、続いて引き据えられてきた、
馬謖をきつく叱りつけます。
馬謖は、みずから処罰を願い出ます。
副将の王平は、軍法を違えた罪で処刑すべきだと進言しますが、
趙雲や魏延らは馬謖の長年の功や得難い才能に免じて、
一命は助けるように願い出ました。
諸将に感謝しながらも、死罪を願い出る馬謖。
孔明は、昔から愛弟子として目をかけ、息子のように扱ってきました。
その彼の命は、いまや孔明の一存に委ねられています。
孔明は命令を下します。
午の刻に刑を執行せよ、と・・・。
刑場へ引き出されていく馬謖に、魏延が酒をふるまいます。
馬謖はそれをひと息に飲みほし、蜀軍が大業を
成就せんことを祈り、跪きます。
魏延の号令のもと、刀が振り下ろされ、
馬謖の首は落ちました。
孔明は全軍の規律を正し、示しをつけるため、
文字通り愛弟子を泣きながら斬らせたのです。
「泣いて馬謖を斬る」
このエピソードはもちろん「正史」にも記録があり、
馬謖は軍令違反はしたものの、有能で才ある者として描かれています。
この言葉、現代ではあまり使われなくなりましたが、
ひと昔前の日本では、会社などで、なにか不祥事などを起こして、
やむをえず処分された人物などがいた場合に、時おり使われたようです。
もし、あなたならば馬謖を斬るでしょうか?
それとも、人材を惜しんで一命を助けるでしょうか?
さて、馬謖を処罰しても、街亭というこの上ない要地を
失ったことには変わりありません。
敗北の責任は、全軍の責任者である自分にありとして、
孔明は、自らの進退を劉禅に問い、罷免を申し出ます。
孔明を罷免してしまえば、他に誰が全軍の指揮をとり、魏と戦うのか。
それに面食らった劉禅は李厳(りげん)と相談のうえ、
右将軍への降格に留め、軍権はそのままで北伐は続行するよう命じました。
いっぽう、司馬懿は曹叡(そうえい)に勝利をたたえられていました。
しかし、孔明を逃したことを咎められたうえに野心を疑われ、
軍権をはく奪されてしまいます。
おそらく、曹真(そうしん)たちの仕業だと思いますが、
曹叡のもとには、弾劾状が山ほど届けられていました。
曹叡自身は司馬懿に褒美を与え、重用したいのですが、
諸官らの司馬懿に対する反発は根強く、かばい切れなかったのです。
司馬懿は、命だけはとりとめたことを感謝し、
曹叡から与えられた洛陽の屋敷に住むことになります。
おそらく、曹叡も臣下たちのあまりの讒言に疑心暗鬼になり、
司馬懿を目の届く範囲に置いて、監視したかったのでしょう。
司馬懿邸の周りは、近衛兵が取り囲んでいました。
これは軟禁であるとして、息子の司馬昭は悔しがりますが・・・
憤慨して曹叡の悪口を叫ぶ息子を、司馬懿は殴打します。
助け起こしにきた静姝(せいしゅ)を、司馬昭は突き飛ばしてしまいます。
司馬懿は、息子ではなく、愛妾の静姝のほうを大事そうに抱き締めるのでした。
しかし翌年、大司馬の曹休が、呉の陸遜との合戦(石亭の戦い)に大敗し、
亡くなったことで、司馬懿の運命が再び好転します。
司馬懿は曹叡の呼び出しを受けて参内しますが、
1年ですっかり体がなまってしまったようで、階段を上るのさえ一苦労。
曹叡は、呉との戦いで多くの水軍を失ったことを気に病み、
司馬懿に今後の対策を相談するために呼んだのです。
蜀の侵攻を防ぐため、陳倉(ちんそう)を守備するよう進言する司馬懿。
曹叡はそれを実行するため、司馬懿を派遣しようとしますが、
司馬懿は病のために出陣を断ります。
代わりに、郝昭(かくしょう)という有能な将軍を推挙しました。
そのころ、蜀では孔明が再び北伐の機会をうかがっていました。
曹休ひきいる魏軍が、陸遜に大敗した情報が届き、
その隙に乗じ、第二次北伐の準備を進めていたのです。
敗戦から1年が経ち、兵馬・兵糧とも再び充実してきました。
さて、次なる孔明の作戦は・・・?
【このひとに注目!】
◆趙雲(ちょううん) 字/子龍 ?~229年
蜀の先帝・劉備が任命した、五虎大将軍唯一の生き残りも、今回が最後の出番となってしまう。
「正史」では、原作小説に比べて活躍の場面は少ない。しかし、智勇に優れていたのは確かなようで、身長は8尺(約184cm)、姿や顔つきが際立って立派だったという記述がある。また「長坂坡の戦い」(208年)では劉備が曹操の大軍に追われて逃走したとき、阿斗(劉禅)を抱え甘夫人を保護したのも事実。「定軍山の戦い」では、危機に陥った黄忠を救出し、見事な撤退戦を演じた。このとき「空城の計」で魏軍を撤退させており、これが演義における孔明の「空城の計」のもとになったともいう。劉備から「子龍は一身これ胆(度胸の塊)なり」と賞賛された。
近年、趙雲が主演の映画が香港で制作され、2009年に日本公開された。アンディ・ラウ演じる趙雲もなかなかに魅力がある。DVD化されているので、ご興味のある方は、「三国志 アンディ・ラウ」で検索を。
2012年07月31日
皆さん、オリンピックもいいですが、三国志もぜひ観てくださいね(笑)。
いよいよ、残り10話・・・。
丹精こめて綴りますので、よろしくお願いします。
さて、魏の若き皇帝・曹叡(そうえい)から、
初めて正式に軍権を与えられた司馬懿(しばい)は、
都の洛陽に近い、宛城(えんじょう)に駐屯し、兵を集めていました。
ここで軍を整えた後、都で曹叡に謁見するためです。
そこへ、友人の申儀(しんぎ)が訪ねて来ます。
●魏が負けて滅びるのを傍観し、自分が帝位について覇業を成す。
●曹叡に忠誠をつくして蜀と戦い、魏のために手柄を立てること。
申儀は、司馬懿が今とるべき道を上のように
2つ示しますが、迷わず後者を選びます。
「私は大業を成就して名をあげたい。
夢の中でも孔明と勝負しておるほどよ」
司馬懿は、友に対して正直に言います。
彼がこれほど、正直にものをいうのは初めてのことかもしれませんが、
はたして、それは魏のためを思ってのことか、
自分の野望のためなのか。ここではハッキリわかりません。
さて、申儀はまた、新城の孟達(もうたつ)が蜀に寝返り、
洛陽で謀反を起こそうとしている計画を、司馬懿にもたらします。
司馬懿は、即座に新城へ向かい、使者をとらえると
孟達を城外に誘い出し、その首を素早くとってしまいました。
蜀の諸葛亮(孔明)にとって、
この孟達の計画が露見したのは、なんとも痛い出来事でした。
司馬懿は、曹叡に謁見すると、
孟達の首を手土産として献上したのです。
もし、孟達が謀反していたら自分の命が危なかった・・・
曹叡は司馬懿の忠誠心と大手柄を褒めたたえ、宝剣を与えたうえで
洛陽と長安の軍の指揮権を、司馬懿にすべて委ねることにします。
都の洛陽、そして蜀軍の進軍ルートである雍州との境に位置する長安。
その軍のすべてをゆだねられた司馬懿は、まさに魏の司令官となったのです。
司馬懿は、諸将を集めて軍議を催しました。
そこには、歴戦の将・張郃(ちょうこう)、関羽を荊州で破った徐晃(じょこう)
といったベテラン、若手の郭淮(かくわい)、孫礼などの将軍が集っています。
司馬懿は言いました。
「私が諸葛亮ならば秦嶺を越え、子午谷を抜けて長安を奇襲する」と。
奇しくも、魏延(ぎえん)が孔明に献策したルートです。
これを通れば、魏軍も相当に苦戦を強いられたと徐晃も予測しますが、
しかし、慎重な孔明はその手を使わず、
着実に一歩一歩進む戦法で来るはずだと司馬懿は読みます。
その場合、最初に奪うべき要地は、「街亭」(がいてい)だと司馬懿は予測。
街亭は漢中の喉元であり、これを奪えば蜀軍の兵糧や武器の補給路を
断つことが容易になるとみた司馬懿。
張郃(ちょうこう)を先鋒に任じ、街亭へと急がせました。
いっぽう、蜀の陣営には、孟達が捕えられて処刑され、
司馬懿が全軍の指揮権を握ったとの報がもたらされていました。
孔明をはじめ、諸将は落胆を隠せません。
孔明は、司馬懿が街亭を狙ってきていると読み、
防衛のために軍を出そうと諸将に呼びかけます。
すると、諸将に先んじて、馬謖(ばしょく)が名乗り出ました。
「街亭を守れなければ首を差し出します」
不退転の決意を示す馬謖ですが、孔明は躊躇します。
司馬懿は曹操に劣らぬ才があり、張郃も天下の名将。
実戦経験の浅い彼では勝てないだろうと踏んだのです。
しかし、蜀漢への篤い忠義心を示す馬謖。
趙雲のとりなしにより、孔明は王平(おうへい)を副将につけて、
街亭へと向かわせることを決定しました。
馬謖、王平が退室した後も、なぜか不安の色を隠せない孔明は、
高翔(こうしょう)と魏延を、万一のときのための救援に赴かせます。
なおも不安がる孔明の様子を見て、趙雲も不思議に思って尋ねます。
「20数年一緒に戦っていますが、かような姿は初めてです」
孔明は、趙雲に本心を話します。
これまで、自分とは対照的に、それまでずっと日陰にいた司馬懿を
得体のしれない人物と見て、大いに恐れているのだと・・・。
その孔明の不安は、早くも的中します。
街亭へ到着した馬謖は「平地の五叉路に陣を敷け」との孔明の指示を無視し、
小さな山の上に陣を張ろうとします。
孔明の命令を守ろうとしない馬謖。副将の王平が諌めますが
自信満々の彼は、まったく聞く耳を持ちません。
軍を駐屯させるには、飲み水や飯を炊くための水を
常に川から補給しなければならないのですが、
この山は、川から遠い小さな山でした。
そんな小山の上に陣を敷いた場合、大軍に包囲されてしまえば
兵糧や水の補給も望めず、孤立無援の死地となります。
馬鹿でも分かりそうな愚行を犯そうとする馬謖に対し、
王平は喰い下がりますが・・・
馬謖は長年学んだ兵法を持ち出し、
兵糧を失った兵は死に物狂いになって戦うこと、
兵は高いところにいるほうが有利であり、
山の上から攻め下れば竹を割るような勢いで敵を突破できること。
しかも、自分は丞相に意見を求められたこともある。
その自分の命令は絶対であるなどと、王平に向けて怒鳴るのです。
古来、『孫子の兵法』にも「兵は詭道(きどう)なり」と書かれているように、
戦いとは詭道、つまりは「騙し合い」であって、
敵の裏をかき、あえて死地に陣を張って勝利に結びつける例もありますから、
馬謖の言い分も、見方を変えれば尤もなのですが・・・。
しかし、王平は「丞相の命令には逆らません」と言い切り、
やむなく自分だけで5000の小勢でもって
山の下に布陣し、敵に備えることにしました。
蜀軍がすでに街亭に到着していることを、
息子の司馬昭(しばしょう)から知らされた司馬懿は、
孔明の鋭い読みと才能に改めて感じ入り、街亭を諦めようとしますが・・・
「蜀軍は小山の上に布陣しています」と、司馬昭は喜んで報告。
それを聞いた司馬懿は耳を疑い、みずから偵察に出ることにします。
司馬懿は街亭をその眼で確認すると、山上に布陣する蜀の指揮官が
名ばかりの無能な者であると見破りました。
好機とみて、ただちに街亭を包囲にかかります。
さすがは司馬懿。行動を起こすとなると迅速なこと、この上ありません。
しかし、攻めずに包囲し、水源を断つに留めました。
魏軍の数は、馬謖の2万を大きく上回る15万。
それでも余裕しゃくしゃくの馬謖は、
包囲されるに任せ、魏軍の疲弊を待つことにするのですが・・・。
案の定、数日すると、馬謖軍の将兵は
脱水症状に苦しめられることになりました。
水を汲みに行こうにも、麓は完全に包囲され、ままなりません。
その様子を見た司馬懿の軍は、一気に攻め上りました。
馬謖は攻撃を命じますが、
高いところにいる兵が有利といっても、
それは兵が同数程度で、満足に動ける場合のみ。
飢えと渇きに苦しんだ将兵はろくな抵抗もできずに大敗。
街亭は、早々と魏軍に奪われてしまいました。
そのころ、街亭の王平から届けられた布陣図を見た孔明は、
馬謖の敗北を即座に悟り、愕然として立ち上がります。
事態は深刻です。
かつて「夷陵の戦い」で陸遜に大敗した時のように。
蜀軍は街亭を失ったことで、これまでに攻め取った城や領地を
すべて放棄して退却しなければならなくなったのです。
街亭はそれだけ重要な拠点でした。
こうなった以上、全軍を漢中まで撤退させ、
少しでも味方を安全に退却をさせなければなりません。
「先帝・・・わたしの眼は節穴でした」
孔明は天を仰ぎ、「馬謖を重用するな」と言い残した劉備に詫びたのです・・・。
劉備の言葉を忘れたわけではないでしょうが、
自分が手塩にかけて育ててきた人材である馬謖の願いを
聞いてしまったことが、痛恨のミスにつながりました。
孔明、一世一代ともいえる失策です。
孔明は、西城に置かれた大量の兵糧を持ち去るため、
みずから城へ入ります。
そこへ迫り来る魏の大軍。
西城は極めて小さな城で、兵も1000未満。
とうてい防げないばかりか、逃げ切ることもできません。
孔明は一計を案じ、城門を開放し、兵に民の身なりで門を掃き清めさせて、
司馬懿の軍を待ち受けることにしました・・・。これぞ、タイトルの 「空城の計」。
この作戦、はたして吉と出るか凶と出るか?
明日をお楽しみに。
◆ドラマ三国志 Three Kingdoms 人気投票 実施します!
いよいよドラマも残り10話となりました。そこで、
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