第91話~第95話

2012年08月13日

皆さん、こんばんは!
『三国志 Three Kingdoms』ストーリーテラーの哲舟(てっしゅう)です。

さあ、最終回・・・。いよいよ、このときが来てしまいました。
なんだか、ホントにもう終わってしまうことを実感して、指が重いです。
少し長くなりますが、じっくり、ご一読いただければと思います。

時は、孔明との戦いを終えた司馬懿(しばい)が
洛陽へ戻ってからすでに5年・・・。西暦239年になっていました。

司馬懿は、曹叡(そうえい)からその功績をねぎらわれた後、
太傳(たいふ)に任命され、しばらく休養するよう命じられていました。
つまりは、孔明を撃退したことで用済みとされ、軍権を解かれたのです。

95-22
ある夜、司馬懿は息子の司馬昭(しばしょう)とともに、古い祠へ入っていきます。
その祠はかつての大将軍・何進(かしん)の祀堂(しどう)でした。

司馬懿親子は、そこで何やら物思いにふけります。
本作には登場しませんが、何進(かしん)が
大将軍の座についたのは中平元年(184年)のことでした。

漢室の衰えに乗じての民衆反乱 「黄巾の乱」(こうきんのらん)が起き、
劉備・関羽・張飛が出会って「桃園の誓い」を結んだ年でもあります。

何進は、董卓や曹操が台頭する少し前の、朝廷を牛耳った人物ですが
その後、宦官たちとの勢力争いの末に暗殺されました。

その宦官たちを討伐したのが、まだ都で宮仕えをしていたころの
曹操、袁紹、袁術らで、董卓がその乱に乗じて都に乱入し、権力を握ったのです。

・・・石碑を読んだ司馬昭は、今の三国鼎立にいたる動乱のきっかけは
何進に行き着くといいますが、司馬懿はそれを否定。
元はといえば、漢室が衰退し、皇帝が力を失墜したことに
原因があると意味深につぶやきます。

一時は権勢を欲しいままにした何進ですが、
いまや彼を思い出す人もおらず、祀堂は朽ちて埃が積もる有様・・・。

人生のはかなさを、司馬懿はしみじみ思うのでした。
また、愛妾の静姝(せいしゅ)が何進の孫娘であったことを思い出し、
この祀堂を修繕するよう、息子に命じます。

95-24
自邸に戻ると、愛妾の静姝(せいしゅ)が司馬懿を出迎えます。
陣中にいる司馬懿に衣服を届けさせるため、縫い物をしていたという静姝を
愛おしく感じたのか、司馬懿は「そなたを見ていたい。これからもずっと・・・」

そう言って、彼女を正妻に迎えるのです。
静姝は感激のあまり、涙をこぼして喜ぶのでした。

正史では、司馬懿には張春華という正妻がいたようで、
あるときから柏夫人という側室を置いて可愛がるようになり、
正妻には見向きもしなくなったとの逸話があります。

本作には正妻は登場しませんし、
静姝は、本作のオリジナルキャラクターですが、
その柏夫人が静姝のモデルなのかもしれません。

さて、魏の皇帝・曹叡(そうえい)は、近ごろ体調が思わしくありませんでした。
そのうちに曹叡はいよいよ病が重くなり、死の床につきます。

曹叡の気がかりは、司馬懿がまだ元気なことでした。
かつて曹操が予想したとおり、司馬懿の存在は魏の中で日増しに
大きくなり、誰もが彼に一目を置き、恐れるようになっていたのです。

曹叡は司馬懿の野心を試し、危険とみなせば
曹爽(そうそう)に司馬懿を殺害させようと画策します。

95-27
曹叡は、司馬懿を呼び、曹爽とともに太子の曹芳(そうほう)を
補佐するよう命じますが、司馬懿は別の者に任命するよう勧めます。

しかし、やはり野心を表に出さない司馬懿。
曹叡は彼を殺す理由を見つけられず、始末できませんでした。

ちなみに、このとき司馬懿は「私は齢70近い」と言っていましたが、
実際は、まだこの年60歳過ぎです。
単なる間違いなのか、司馬懿の嘘なのかはわかりません。

曹叡は、司馬懿のもとに送り込んでいる「ある者」を使い、
引き続き監視を怠らぬよう曹爽に遺言すると、
体調はそのまま好転することなく、あっけなく世を去ってしまいました・・・。

曹丕40歳、曹叡36歳、曹操の子も孫も、いずれも早世していますが、
これも、のちの魏滅亡の原因となってしまうのです。

95-06
曹叡の跡をつぎ、3代皇帝となったのは、
曹芳(そうほう)です。まだ8歳の幼い皇帝でした。よって曹爽がその補佐役をつとめます。

余談ながら、『正史』によれば、この年に邪馬台国(やまたいこく)の女王、
卑弥呼(ひみこ)の使者が洛陽を訪れ、曹芳に拝謁しています。
(前年の238年という説もあり、その場合は曹叡と会ったことになります)

皆さんご存知のように邪馬台国とは、当時の日本にあった政権のこと。
われわれ日本人の遠い祖先が、この幼い皇帝と会ったのだと考えると
非常に感慨深く思えてしまうのですが・・・いかがでしょうか?

しかも、この邪馬台国という国は、正史『三国志』の一部、
「魏書」(魏志倭人伝)に書かれたことで、世の中に知られることになったのです。

つまり『三国志』がなければ、当時の日本列島に、
邪馬台国という国があったことも、そこに卑弥呼という
女王がいたことも、永遠の歴史の闇の中に消えていたのです。

それは、当時の日本にはまだ「文字」がなかったため、
記録というものが一切残っていないからなのですが。
改めて『三国志』の偉大さを感じるといいますか、
三国志恐るべし!と感じませんか? みなさん。

さて、その後、隠居生活に入った司馬懿は、
妻に迎えた静姝との仲睦まじいひと時を過ごしていました。

95-34
そんな折、彼女が子を身ごもったと聞き、
60歳を超えてわが子を授かることを、司馬懿は大いに喜びます。

しかし・・・念願のその子がいよいよ生まれようというとき、
静姝は大変な難産に苦しみ、出産すること叶わず亡くなってしまいます。

95-39
心配そうに見守っていた司馬懿ですが、愛妻の突然の死を目の当たりにして、
大変に狼狽し、ばったりその場に倒れ込んでしまいました。
ショックで気を失った司馬懿は中風とみられ、意識が戻りません。

しかし、その知らせを受けても、
もしや仮病ではないか・・・と疑った曹爽(そうそう)は、
側近をつとめる宦官に司馬懿の屋敷を訪させ、様子を探らせます。

宦官が話しかけても反応がなく、虫の息という知らせを聞き、
曹爽は、いよいよ司馬懿の最期だと思って安心します。

曹爽は、父の曹真(そうしん)は司馬懿に殺されたようなものだと思っていますから、
司馬懿を仇敵と見て、両者は激しく対立していたのです。

翌日は清明節(祖先の墓を掃除し参拝する行事)であり、
曹芳に付き添って高平陵(こうへいりょう)へ行く予定だったため、
曹爽は文武諸官のことごとくを召集。

そして翌日、諸官を引き連れて出かけていきます。

同じ頃・・・。司馬懿は諸将を集め、挙兵の準備を整えていました。
やはり、司馬懿の病は壮大なる芝居でした。

ここで司馬昭の兄、司馬師(しばし)が久々に登場。
ドラマでは、あまり存在感のないお兄さんです・・・。

いままでの司馬懿が仮病を使っていたことは、
常にそばに仕える司馬昭は知っていましたが、
司馬師は仮病だと知らなかったため、
元気そうな司馬懿の姿を見て、大いに驚きます。

この日、曹一族がことごとく城を出た隙をついて、
司馬懿は、かねてから準備していたクーデターを決行したのです。

95-19
諸将に門を固めさせ、宮城へと入った司馬懿は、
郭太后(曹芳の母)に拝謁し、曹爽を討つ計画を打ち明けます。

兵が出払っている今、司馬懿に逆らえる者はいません。
多数の兵を引き連れ、武装して入ってきた司馬懿を見て、
太后は、曹爽を殺しても良いが、曹芳を傷つけないことを条件に、
やむなくそれを許可し、勅命を授けます。

司馬懿は配下の兵を引き連れて出陣し、
曹爽の軍に追いつくと、太后から賜った詔を読み上げます。

95-45
自分を討伐しても良いという詔の内容に、曹爽は愕然となり、
その部下たちも口々に司馬懿への投降を勧めます。

曹爽はやむなく剣を捨てますが、兵らに取り押さえられ地面に倒れます。
突っ伏した曹爽の背中を、司馬懿は足で踏みつけました。

95-05
履物を脱いで裸足で踏むことには、意味があるのです。

「足の裏はなぜ白いのか。常に隠れているからだ」

司馬懿は、裸足の曹操がその言葉とともに自分の背中を踏んづけて
馬車に乗ったことを思い出していました。
最大の政敵を始末した司馬懿は、もはや隠れている必要はなくなったのです。

「剣を抜いたのはこの日一度だけだが、十数年磨き続けたのだ」
かくして司馬懿は曹一族への復讐を果たし、野望を実現したのです。

西暦249年、「高平陵の変」。
孔明との「五丈原の戦い」から、はや15年が経っていました。

それからまた時がたち、司馬懿は静姝(せいしゅ)の墓に参拝します。
そこには例の宦官が座っていました。

「今ならすべてを話せよう」

彼は司馬懿に、静姝を送り込んだのは
曹丕(そうひ)みずからの意思であったことを話します。

95-41
しかし、司馬懿は彼女をすぐにスパイと見破っていたといいます。
それにも関わらず、本当に彼女を愛していたとも・・・。

司馬懿は、静姝がそばにいることを逆に利用し、
必要以上に彼女に愛を注ぎ、入れあげることで、
曹一族の自分への警戒心をゆるめさせたのです。

「もし静姝がいなければ、わしはとうに死んでいた」
そのために曹一族に隙が生まれ、政権を奪うことが出来たのだと彼はいいます。

宦官は、なおも不思議に思っていたことを訪ねます。
「静姝を死なせたのはそなたか?」

なかなか答えようとしなかった司馬懿ですが、
隠していても仕方ないと思ったか、正直に「その通りだ」と答えます。

産婆を丸め込み、止血剤と偽って出血を促す薬を飲ませ、
そのために出血多量で彼女は死んでしまったというのです。

最愛の人を失ったショックで倒れた・・・
静姝が死んでしまえば、曹爽は司馬懿の様子を知ることはできません。
曹一族のスパイを逆に利用し、油断させるための手段に使った司馬懿。

本当に愛していたのは、功名と大業・・・。
司馬懿はようやく、誰にもいわなかった本音を吐きます。

しかし、司馬懿はその言葉を吐いたあと、馬車にもたれかかり、落涙します。

95-43
その涙の意味は・・・命を奪わざるを得なかった静姝に対して向けたものか、
それとも、長年そんな生き方をせざるをえず、本当の情愛に恵まれなかった
自分の運命を嘆いたものなのか・・・真実は彼の心の中のみにあるのでしょう。

静姝のほうは、どうだったのでしょう。
少なくとも彼女は最後、司馬懿を本当に愛していたように見えました。
司馬懿は、もしかするとそれを分かっていたのかもしれません。

みなさん、どうでしたか?
司馬懿の生涯を通じての「大芝居」に、気づいておられたでしょうか?

95-10
あの静姝は、曹丕のスパイであったこと。・・・ここまではすぐ分かるとして、
司馬懿は、とっくの昔に静姝の正体に気づいていた。
逆に彼女を利用し、惚れ込んでいるふりをして曹一族を油断させた。
曹叡の死後、曹爽にも通じていたであろう彼女を偽って殺し、
その死にショックを受けたふりをして仮病で寝込み、曹爽の油断を誘った。
・・・これらにすべて気付いていた方は、探偵の素質がありますよ(笑)。

そして、さらに時は流れ、西暦251年。
司馬懿は、孫の司馬炎(しばえん)に学問を教えていました。
もう、この年72歳。髪も髭も真っ白で、彼もすっかり老いています。

95-14
司馬炎は司馬昭の子で、この年15歳。
15歳にしては幼く見えますが、まあよろしいでしょう。
のちに、晋の皇帝になる人物です。

息子の司馬昭が来て、呉の諸葛恪(しょかつかく。諸葛瑾の子)が許昌に攻め寄せ、
司馬昭が、それを食い止めに行ったとの報告を持ってきますが、
司馬懿はもうだいぶ耳が遠くなっていて、なかなか聞き取れません。

さすがに、それはもう演技ではなかったようです。
司馬懿は、抱きかかえた孫が諳んじる故事の一節を聞きながら
眠るように息を引き取りました・・・。

95-12

「庭に楡(にれ)の木ありて、その上に蝉あり。蝉は羽を広げて鳴き、清露を飲まんと欲す
 蟷螂(とうろう)が後ろにあるを知らず、その首を曲げる」

司馬懿が最後に耳にしたこの故事の一節で、
かつて夷陵の戦いの後に、孔明が陸遜にしかけた謎かけ、
「蟷螂(とうろう)蝉をうかがい、黄雀(こうじゃく)後ろにあり」
(82話)を思い出した人もいるでしょう。

すでに、魏の政権を掌握していた司馬師・司馬昭の兄弟はこれ以後、
着々と勢力拡大に乗り出すわけですが・・・

孔明死後の三国志の歴史は、実は50年近くもあります。
それを、わずか1話で消化するにはあまりに時間がなさ過ぎて、
後はナレーションでのみ、簡単な出来事が語られるにとどまります。

司馬懿の死から12年後、孔明の死から数えれば29年後の263年。
大都督の地位を継いだ司馬昭は、蜀を攻め滅ぼします。

成都に迫られた劉禅が降伏し、三国鼎立の形は崩れて魏と呉が残りました。
その2年後、こんどは魏が滅亡します。

司馬昭の跡を継いだ司馬炎(さっき司馬懿の前で歌を諳んじていた子)が、
魏の5代目皇帝・曹奐(そうかん)から帝位を奪い、
晋(しん)という新しい国を建てるのです。

そして司馬炎は、西暦280年に呉を攻め滅ぼしました。
ドラマでは、その後、孫権と呉の出番がすっかり無くなってしまいましたが
もちろん、呉もただじっとしていたわけではなく、
孔明の北伐に際しては、それに呼応して魏へ攻め込んだり、
逆に魏に攻め込まれらながらも撃退したりと、いろいろやっていました。

孫権は司馬懿死去の翌252年に没し、その後は孫亮・孫休と続き、
280年には、4代目・孫皓(そんこう)の代になっていましたが、
孫皓は悪政によって政治を乱し、すでにかつてのような国力はありませんでした。
呉は人心を失い、まともに戦わず晋に降る人も多かったそうです。

こうして、司馬懿の孫・司馬炎が中国統一を果たすのでした。
しかし、それも長くは続かず晋国内で権力争いが勃発し、
子の司馬衷(しばちゅう)の代に30年で崩壊。中国は再び相乱れます。

蝉は蟷螂が後ろにあるを知らず、その首を曲げる・・・
三国時代に勝利者となった司馬一族も、ほどなく敗者となります。

sangoku025

天下の大勢は、分かれて久しければ必ず合し(統一され)、
合して久しければ必ず分かる(分裂する)・・・。

悠久の歴史のなかで、戦乱を繰り返した中華という大陸の定め。
その言葉をもって、ドラマ『三国志 Three Kingdoms』の解説を終えたいと思います。

さきほども書きましたが、孔明の死後が1話しかなかったために、
最後はダイジェストといった感じで、かなり駆け足になってしまいました。
いろいろと事情もあるのでしょうが、いやあ、これなら95話という半端な数ではなく、
100話ぐらい作って欲しかった気もしましたね・・・(笑)。

何はともあれ、みなさん、今日までご愛読ありがとうございました。
だいぶ、長くなってしまいましたので、今宵はここまでにして、
明日8月14日を、当ブログの最終回にしたいと思います。

いつもの時間に更新しますので、ぜひ見にいらしてください。
皆さんお待ちかねの人気投票の結果発表をして、締めくくりたいと思います。

それまで、さようならは言いません(笑)。
では明日、またお会いしましょう!

人気投票は、今夜23時まで受け付けていますので、
まだお済みでない方は、ぜひ一票を投じてみてください。
あなたの投票が、結果に影響を及ぼす可能性は十分にあります。



sangokushi_tv at 17:55コメント(29) 

2012年08月10日

『三国志』。
歴史書なのに「史」とは書かず、「志」と書きます。
中国では、「志」という言葉には「記録」という意味があるそうなので、
「三つの国の歴史書」ということになります。

しかし、これには色々な説があるようですから、もしかすると
日本人が連想する「志」の意味も、あるいは込められているかもしれません。

DSC_8989
三国を興した英雄たちが抱いた大いなる志・・・。
意味としては間違っているかもしれませんが、そう信じてしまいたくなるような
人々のさまざまな「思い」が、『三国志』には詰まっているように感じられてなりません。

こんばんは! ストーリーテラーの哲舟(てっしゅう)です。
いよいよ、最終回を残してのラストウィークも金曜日・・・。
孔明との別れを潮に、このドラマも結末を迎えようとしていますが、
みなさん、どうか涙をこらえて読んでください。

94-13
上方谷に降り注ぐ滝のような雨。
その勢いは、孔明が苦労して灯した勝利の炎を瞬時にして消し去り、
司馬懿(しばい)率いる魏軍の命の綱を、ふたたびつなぐものとなりました。

勇気百倍した魏軍は、谷の入口を固める
廖化(りょうか)の軍を蹴散らし、脱出に成功します。

9ヶ月も雨が降らなかった祁山、今日に限っての雨は、
孔明の命までをも、無情に流し去ろうというのでしょうか。
天は無慈悲。もはや、天命という言葉で片付けるしかありません。

94-14
雨に打たれ、絶望した孔明は勢い良く血を吐き、倒れました。

陣中で床についた孔明は、自分の命がまもなく尽きようとしていることを悟り、
枕元に姜維(きょうい)を呼びます。そして、これまでに編み出した
24篇の兵法書と連弩(れんど)という兵器の製法書を授けるのでした。

94-03
孔明はこれまでの人生を思い、かつて水鏡先生に
「孔明は主君を得たが、時を得ていない」
と評されたことを振り返り、それが自分の運命であったことを知るのです。

あのとき、水鏡先生は独り言のように言っていましたが、
孔明にも伝わっていたようですね・・・。

孔明はまた、楊儀(ようぎ)に、自分の死後は魏に悟られぬよう
撤退するように言い、撤退しやすい五丈原(ごじょうげん)に
陣営を移すよう命じるのでした。命を受けた楊儀ですが、
ひとつ、気がかりは魏延の存在だといいます。

日頃から孔明とはソリが合わない魏延ですが、
趙雲や黄忠なき今、その実力は軍中ピカ一であり、
蜀軍の中でも最強の精鋭5万を従えています。

孔明が健在であるからこそ大人しく従っていますが、
その孔明が死ねば、彼は誰の命令にも従わなくなる恐れがありました。

94-23
孔明は魏延の心のうちを探るべく、
気力を振り絞り、陣中に大量の蝋燭をともして、彼を呼びます。

天に祈り、命を永らえようとする孔明の姿を見て、
魏延もさすがに神妙な態度になったようです。

いや、顔には出しませんが孔明の死が近いことを知り、内心喜んだかもしれません。

94-21
孔明は「自分の死後に軍権を担える人物は誰か」と問い、
魏延が謙遜していると、孔明は「そなたこそがふさわしい」といい、
彼に軍権を任せたいと告げるのです。

魏延はそれを喜び、必ず蜀の大軍をまとめてみせると誓うのでした。
彼は日頃からそれを自負しており、まさにその言葉を待っていたのです。
魏延の様子を見た孔明は、彼に野心があることを確信しました。

ちなみに、原作では孔明はここで延命の祈祷を行い、灯が7日間消えなければ
寿命が延びると信じて堂に籠もったのですが、そこに魏延が入ってきて
誤って火を消してしまう、という描写になっています。

本作では、これが延命のための祈祷であることには触れていません。
孔明を、そのような超常現象を操る存在には描かず、
あくまで人間として描いていることが分かります。

さて、孔明は続いて馬岱(ばたい)を呼びます。
馬岱(ばたい)は、かつての五虎大将軍のひとり、馬超(ばちょう)の弟分。
かの馬超は蜀に降ったあと、目立った功績も立てることがないまま、病で早世しました。

94-06
馬岱は馬騰(ばとう)から続く馬一族の生き残りとして、
ひとり奮戦を続けているのです。

孔明は、その馬岱の武勇と忠義心を見込んで、自分の命はもう長くないこと、
自分が死んだら必ず魏延が謀反を起こすであろうから、
その際に彼を始末するよう頼み込むのでした。
驚く馬岱ですが、改めて孔明と蜀に対して忠誠を誓い、拝命するのでした。


94-24
陣営を五丈原(ごじょうげん)に移し終えた蜀軍。
孔明は、いよいよ死の床につきます。

その命の灯火はますます細まり、まさに尽きようとしていました。
(五丈原の場所は地図でご確認ください)

孔明は、劉禅に対してこれまでの恩を謝しながら、
今後の蜀がとるべき道を静かに語り続け、それを楊儀に遺書として書き写させます。

孔明は最後に、自分の一族は衣食に余りあるため厚遇しないよう言い残します。
ドラマには登場しませんでしたが、彼の妻と幼な子(2人または3人)は、
成都で暮らしています。ほかの将軍たちの家族も同様で、
いわばみな単身赴任です。過酷な北伐の戦場には呼べるはずもないからです。

その言葉が、終わるか終わらないかのうちに、
手にした羽扇を取り落とし、孔明は息を引き取りました。
最後まで、蜀漢の行く末を案じたまま、ついに帰らぬ人となったのです。

94-26
時に西暦234年8月23日、享年54歳。

死因は、詳しくは分かりませんが、一説によれば過労による衰弱死といわれます。
朝は早くから起き、夜は遅く休み、粗食に甘んじた孔明。


27歳からの生涯のすべてを、劉備と劉禅、
そして蜀漢のためにささげ、命を削って働き続けたのです。

正史『三国志』を編纂した陳寿(ちんじゅ)は
「時代に合った政策を行い、公正な政治を行った。
どのように小さい善でも賞せざるはなく、どのように小さい悪でも
罰せざるはなかった。多くの事柄に精通し、建前と事実が一致するか調べ、
嘘偽りは歯牙にもかけなかった。みな諸葛亮を畏れつつも愛した。
賞罰は明らかで公平であった。その政治の才能は管仲(かんちゅう)、
蕭何(しょうか)に匹敵する」と評しています。

またその一方で
「毎年のように軍隊を動かしたのに北伐があまり成功しなかったのは、
臨機応変な軍略が得意ではなかったからだろうか」とも評しています。

陳寿は断言していないので、なんとでも解釈できますが、
つまり、優秀な政治家であったが、将軍・軍人としては
やや物足りなかった、ということかもしれません。

しかし、思うに孔明のほかに誰が蜀という国の全軍を率いて
魏に攻め込むことができたか・・・。

これはよく言われることですが、たとえば司馬懿や陸遜であっても
勝つことは無理だったかもしれませんし、魏の指揮官が司馬懿でなかったら、
成功していたかもしれません。歴史に「もし」は禁物ですが・・・。

93-30
孔明の晩年の行動、すでに滅びてしまった漢を再興するなどという志を
不思議に思ったり、「愚かである」と批判する人もおられるでしょう。

大局的にみれば、その通りです。
戦争とは、何千何万という兵士の命を犠牲にするものですし、
三国志の登場人物に限らず、歴史上の軍人というものは、
みな少なからず、愚かしい行為をしているし、愚かしいところを持っているものです。

後世を生きる我々は、そんな彼らを好きなように批判し、好きなように解釈できますが、
乱世では明日をも知れぬ身、日々とにかく生きることに必死だったに違いありません。

孔明が「なぜ無理な北伐をしたのか?」と考えるのは、
登山家に何千メートルもの過酷な山へ登りに行く理由を尋ねたり、
ボクサーに危険なリングに上がる理由を尋ねたりすることに近いのではないかと思います。

もしかすると、孔明自身は、ドラマのセリフにもあったように畑を耕して
山中に暮らすほうが幸せだと思っていたかもしれませんし、
北伐など興さなければ、もっと長生きして余生を穏やかに過ごせたかもしれません。

しかし、もしそうしていれば、諸葛孔明という名は
2000年後の未来にまで残ったかどうか・・・。
死して名を残す、それにはどういう生き方をすべきなのか、
それは望んで可能になるのかどうか、私はよく考えてしまいます。

さて、孔明の棺の前に、重臣たちが集っています。
姜維(きょうい)が、孔明の遺言にしたがい、
兵を漢中へと引き上げる準備にかかるため、
兵符を楊儀(ようぎ)に渡そうとしていると、魏延がズカズカと入ってきます。

魏延は、孔明の遺志に反し北伐の続行を名言します。
孔明が死んで、魏延は何も恐れるものがなくなった今、
軍権を一手に握ろうというのです。

94-15
孔明の葬儀も済まぬうちに、早くも野望をむき出しにした魏延を、
跡を託された、姜維(きょうい)らは睨みつけ、なじります。

「誰がわしに逆らえるか!」
それに少しもたじろがず、大言壮語する魏延。

94-16
すると、今まで通り魏延に従っていたかに見えた馬岱が
やにわに剣の鞘を払ったとみるや、抜き打ちに一撃を浴びせ、
返す刀で斬り倒してしまいました。

魏延は馬岱の早業に、言葉を発する間もなく倒れました。
反骨の猛将も、完全に油断していたのでしょう。なんとも、あっけない最期でした。

いっぽう、孔明が倒れたことを知らない司馬懿は、
その後、蜀軍が攻撃してこないことをいぶかしみますが、
攻めて来ないのであれば、魏軍も動くことはないとして、
引き続き持久戦を続けるのでした。

93-33
そこへ、蜀軍が五丈原から撤退を開始した、との報告がもたらされます。
このタイミングで蜀軍が退くのは、何か深い理由があるはず・・・

しかし、これまで孔明の策にさんざん痛い目にあわされた司馬懿です。
なおも慎重な姿勢を崩しませんが、
諸将の勧めに応じ、五丈原へ真相を確かめに行きます。

五丈原の陣中は白い旗が掲げられていたため、
「孔明は死んだ」と確信するのは郭淮(かくわい)。

司馬懿は、なおも孔明の策ではないかと疑いますが・・・
結局、そのまま追撃を続行。陳倉道へと達します。

すると、にわかに蜀の伏兵が襲い掛かってきますが、
司馬懿はその数が少ないこと、谷に入り込む前に襲い掛かってきたため、
敵が焦っている様子から、孔明が死んだのだと確信して
追撃を続けようとします・・・

しかし、続いて四輪車に乗った人影を押し出して、
姜維(きょうい)が陣頭に出てきたため、
「やはり孔明の策であった」として、被害が広がるまえに全軍撤退を命じます。
蜀軍は、その隙に漢中へと撤退していきました。

その夜、孔明の訃報が確実なものとわかり、司馬懿のもとにもたらされます。
司馬懿が見たものは、孔明が生前に造らせた木像でした。
大変な恥辱に、司馬懿はのたうちまわって悔しがります。

「死せる孔明、生ける仲達を走らす」

現地の人々には、そのように噂されるほどだったそうです。
司馬懿は、かくも孔明を恐れていた。

後世の者たちはきっと噂をし続ける、100年先までも・・・
そして、司馬懿が言ったことは本当になりました。
100年どころか、2000年近い時を経た今も私たちの間に伝わっています。

93-01
正史によれば、蜀軍が退却したのち、司馬懿は五丈原の陣跡が
整然として実に機能的な構造をしていたことに感心し、
「諸葛亮は天下の奇才だ」と漏らしたといいます。

この北伐における勝負は、持久戦のすえに死んだ孔明が敗れ、司馬懿が勝ちました。
しかし、司馬懿は、真に勝ったとは思わなかったのかもしれません。

決しておごらずに相手の力量を認める司馬懿の姿勢は、
勝利者として大変に立派ではないかと思うのです。
そこに、オリンピックでメダルを獲得しても兜の緒を締め直す、
武道家の振舞いに似たものを感じます。

孔明の棺は、遺言により漢中の定軍山に葬られました。
そこは、かつて黄忠が夏侯淵を討ち、劉備軍が曹操軍を破った地でもあります。
魏・蜀・呉の国境で、行く末を見守ろうとの彼の意志だとされます。

墳墓は山の中に棺を入れるだけにとどめ、
遺体は着用していた衣服のままで、副葬品は一切入れないよう言い残したそうです。

実は曹操もほとんど同じことを言って亡くなっています。
両者は、同じ死生観を持っていたといえましょうか。

死後、彼を祀る者は庶民にいたるまで後をたたなかったとか。
彼の偉業、才能は伝説となり、いつしか万能な軍師像に変化して後世に伝えられます。

その墓は「武侯墓」と呼ばれ、今は公園化され、祀られています。

・・・さて、その後、司馬懿は曹叡(そうえい)の命令で
大都督の任を解かれ、呼び戻されました。急ぎ、洛陽へ向かう司馬懿。

94-08
後任の夏侯覇(かこうは)が早々に着任し、
司馬懿は将兵に別れを告げることなく去ったのですが、
彼を慕って郭淮(かくわい)や孫礼などが追いかけてきて、見送りました。

郭淮たちは、司馬懿との別れを惜しみ、涙で永遠の忠誠を誓うのでした。
司馬懿はそんな彼らに礼をいい、馬車を出発させるのです・・・。

さて、司馬懿を呼び戻した曹叡の真意は・・・?
次回は、いよいよ最終95話。楽しみにお待ち下さい。
みなさん、また月曜にお会いしましょう!


【このひとに注目!】
92-17
◆劉禅(りゅうぜん)
 字/公嗣 207~271年
次回の最終話ではあまり触れられないため、孔明が死んだ後の劉禅と蜀漢の行く末について綴っておきたい。孔明の死の知らせを受けた劉禅は、3日間喪服を着て哀悼の意を表した。孔明の後継者には、内政に優れた蒋琬(しょうえん)が選ばれ、軍は姜維(きょうい)が率い、北伐を続行した。劉禅は当初、臣下たちの助言によく従い、蜀の政治は安定した。

246年、蒋琬や董允(とういん)といった有能な人材が没すると、劉禅はみずから政務を行なうようになったが、宦官(かんがん)の黄皓(こうこう)を重用し、政治の実権を渡してしまったことで国政は大いに乱れた。魏への北伐は姜維が毎年のように繰り返したが、戦果をあげることができず、国力は疲弊する一方だった。

263年、国の内外から疲弊した蜀の隙をついて、魏の司馬昭(司馬懿の子)が大規模な攻勢をかける。防衛にあたった姜維は、成都の劉禅に援軍を要請したが、黄皓の讒言を信じた劉禅は兵を送らなかったため、満足な防衛ができずに蜀軍は各地で敗退。孔明の子、諸葛瞻(せん)が討たれるなど敗報が続き、魏の大軍に迫られた劉禅は、文官らの勧めによって魏に降伏。蜀漢は滅亡した。孔明の死から29年後のことだった。

劉禅は妻子たちとともに洛陽に移され、安楽県公に任命されて静かに余生を過ごし、65歳で没した。ちなみに妻のうち2人は張飛の娘(姉妹)である。洛陽で司馬昭に宴へ招かれたときの逸話があるが、それは昨日解説したとおり。

劉禅は、原作小説『三国志演義』では、「劉備や孔明が苦労して築いた蜀を滅亡に追い込んだ暗君」というイメージが増大されて扱われている。彼の幼名「阿斗」は、中国では「愚か者」の代名詞とされており、劉禅の評判はきわめて悪い。本作ではそこまで描かれなかった点で救いといえるか。

しかし、正史『三国志』では、決して無能とは書かれていない。その代わりに、自分から何かを積極的に行ったという記録もなく、「白い糸は染められるままに変ずる」と形容されている。つまり、孔明などの有能な人に囲まれているうちは良い人間だが、悪い人に囲まれれば途端に駄目な人間になるということ。ただ、三国のうち最弱の蜀を40年(孔明の死後29年)も存続させたことは事実。それを評価するか否かで、見方が分かれる人物といえる。

人気投票、引きつづき実施中です。
 いよいよ月曜締切り! みなさん、本当に多数の投票、ありがとうございます。



sangokushi_tv at 17:55コメント(27)トラックバック(0) 

2012年08月09日

こんばんは、哲舟です!
今日を含めて残り3話。
いよいよもって寂しい気持ちになりますが、元気良く参ります。

さて、木牛・流馬と兵糧を魏に奪われ、蜀軍の兵糧は底を尽きかけていました。
王平(おうへい)の報告では、あと3日分しか残っていないとのこと。

まさに「腹が減っては戦はできぬ」といいますが、
大軍を動かすためには、ただ人を大勢連れて行くだけでは済むはずがなく、
一人ひとりに必要な食糧、武器、防具などのトータルが、
何日でどれだけ消費されるかを考えて効率よく動く必要があり、
そのための莫大な量の運用、補給が欠かせないわけです。

正史では、孔明は兵士たちに現地の陣中で
田畑を耕させて食糧を調達する屯田という政策を実施していたようですが、
それだけでは足りず、やはり本国の成都からの補給が頼りだったようです。

かつて、官渡の戦いでも曹操が兵糧の確保に苦心していましたよね。
戦争というものが、いかに国力を消耗する大変な事業であるか、
この三国志の戦いを見ていても、よく分かります。

孔明は、王平に少数の兵を与えて魏軍の糧道に赴かせ、
兵糧を奪い返す作戦に出ます。王平は孔明に授けられた策にしたがい、
かつて魏軍にいた経験を生かして司馬懿配下の軍隊に化け、
魏軍の兵糧を改めるふりをして、木牛・流馬に細工をし、動かなくさせてしまいました。

92-07
そして魏の輸送隊が立ち往生しているところを奇襲し、
兵糧を載せた木牛・流馬を奪うと、自軍へと持ち帰りました。

木牛・流馬は、舌の下にあるネジを回すと、車輪が動かなくなるという
仕掛けがあったのですが、魏軍はそれに気付いていなかったのです。

先に兵糧と木牛・流馬を奪わせて同じものを造らせ、またそれを奪い返す。
手の込んだ孔明の策で、30万石もの魏の兵糧が、蜀の手に渡ったのです。

93-29
無事どころか、大量の兵糧を奪って戻った王平を、孔明は大喜びで迎えます。
これで蜀軍は、魏軍の持久戦にも対抗できます。

まさに王平の大手柄。
このところ、魏延と同様に彼も孔明に対し疑念を抱いていたようなフシが
ありましたが、この作戦成功によってそれを払拭したようです。

また以前、彼は馬謖(ばしょく)とともに街亭へ出陣し、
諌められなかったために敗北を喫したことがあり、
本人もそれを気にかけていたと思いますが、
こうした活躍の積み重ねが、過去の失策を洗い流します。

しかし、蜀軍には気がかりな点がありました。
それは重圧と激務に耐え切れなくなった孔明の体。
病に蝕まれ、このところ悪化の一途を辿っていたのです。

前回までは比較的元気そうな孔明でしたが・・・急激な病の悪化で、
以後、咳き込む様子がしばしば見られるようになっていきます・・・。

いっぽう、司馬懿は大量の兵糧を奪われたことで
激怒した曹叡(そうえい)に厳しく叱責され、大都督の任は保たれたものの
大将軍の地位を剥奪されてしまいました。

司馬懿は屈辱のあまり詔を取り落としてしまいますが、
「大都督に留まれたのは孔明のおかげでもある」とみずからを励まし、
すぐさま兵糧を奪い返しに出ることにしました。

92-12
蜀の兵糧庫が上方谷(じょうほうこく)にあることを知った司馬懿は、
そこを襲撃にかかります。司馬懿の立てた戦略は、
まず孔明の本陣がある祁山(きざん)を大軍で攻め、
上方谷がその救援のために手薄となったところを、
別働隊で奇襲し、兵糧を奪うというものでした。
その別働隊は司馬懿みずから率いることを決めます。

いっぽう、司馬懿の大軍10万が本営に襲来してきたとの報を受けた蜀軍。
参謀の楊儀(ようぎ)、姜維(きょうい)は、
祁山の本営にいる兵だけでは、魏軍を防ぎきれないとみて、
上方谷を守る魏延(ぎえん)と王平の精鋭部隊を
援軍として呼ぶように進言しますが、孔明はそれを押しとどめました。

その旗が中軍にひるがえり、魏が正面から堂々と攻めてきたことを聞いた孔明は、
司馬懿はそこにはおらず、彼の狙いは上方谷の兵糧庫であると見破ったのです。

そして、かねてより考えていた作戦の実行にかかります。
この作戦は、まさに乾坤一擲。成功すれば蜀を一気に勝利へと導くものでした。

祁山の孔明本営はほどなく、魏の大将、郭淮(かくわい)軍の攻撃にさらされました。
かつてないほどの猛攻に南の砦が落とされ、祁山は窮地に陥りますが、
孔明は「司馬懿は必ず上方谷にいる」といって動こうとしません。
魏延と王平には谷から動かず、もう少し守り続けるよう伝えさせます。

本営がいよいよ破られそうになったころへ、
ギリギリまでタイミングをはかっていた魏延の援軍が突撃して
魏軍の包囲を切り崩すと、魏軍は祁山の包囲を解き、上方谷へと向かいました。

すでに上方谷にいる司馬懿と合流するためです。
孔明は廖化(りょうか)の軍1万に命じ、敵軍がことごとく上方谷に入ったところで
入口を封鎖するよう指示を与え、魏軍を谷の中に封じ込めました。

まもなく作戦は成功の見込み。いよいよ司馬懿の最期とみた孔明は、
みずから上方谷が見渡せる高地へ登り、それを見守ろうと陣を出ます。

93-27
孔明の体はすでに限界が近づいているようで、
杖がなくては歩くこともおぼつきませんが、気力を振るい起こして山に登ります。

93-34
いっぽう司馬懿は、上方谷に入ることをためらっていました。
谷に入れば、身動きがとりづらく不利な状況に陥るためです。

しかし、祁山が膠着状態にあり、蜀軍がそこに集中していると聞いた司馬懿は、
ついに上方谷への突撃を命じ、みずからも駒を進めました。

「入った!墓場に足を踏み入れたか」と、つぶやく孔明。
ここが司馬懿の死に場所、とほくそ笑みます。

王平の軍は早々と逃げ散り、
谷を奪った司馬懿はさっそく兵糧庫を確認し、この上ない戦果を喜びますが・・・
なにやら妙な臭いがすると察し、手に取った米を口に含めます。

その米に、油が染み込んでいることに気付き、吐き出す司馬懿。
そこへ兵が、兵糧庫の中に炭が仕込んであると報告してきます。

蜀の兵糧庫は、孔明が仕掛けた餌だった・・・
司馬懿は、ようやく罠にはまったことに気付きますが、時すでに遅し。
たちまち、山上に潜んでいた蜀軍が四方八方から火矢を撃ち下ろし、
猛烈な火攻めが始まりました。

93-11
あっという間に業火に包まれる上方谷。
司馬懿は退却を命じますが、乗馬が矢に撃たれ落馬してしまいます。

矢に撃たれ、火に焼かれ、巻き込まれて次々に討たれる魏の将兵たち。
逃げようにも、谷の入口は狭く、そこも蜀軍に封鎖されて出られません。

93-05
孔明は参謀の楊儀(ようぎ)とともに山上から炎の海を見守っていました。

それは、蜀漢に勝利をもたらす輝き。
かつての赤壁で曹操軍を焼いた火、夷陵で蜀軍が焼かれた火、
それらにも勝る猛烈な火が、今まさに司馬懿を焼こうとしています。

93-28
「わが君! 大漢が復興されますぞ」
勝利を確信し、中原平定の志が成ることを喜び、
孔明は天にいるであろう劉備に向けて叫び、感涙にむせびます。

大声を出すだけでも、今の孔明には大きな負担。
咳き込んでふらつきますが、この乾坤一擲の策が
生涯最高の戦果をあげようとしていること、その喜びが、
彼に、かろうじて立っているだけの気力を保たせています。

93-13
火中を逃げ惑ったものの、すでに逃げ場なく
まさに八方塞がりとなった司馬懿は、ついに覚悟を決めてへたり込みました。

息子の司馬昭は、最後まで望みを捨てぬよう父に進言しますが、
司馬懿は将兵を集め、武器を捨てて蜀へ投降するよう勧め
大都督である自分はここで自害すると告げます。

その志に感涙し、将兵は彼に殉じることを誓います。
その間にも、矢に射られて倒れる兵が続出していますが、
魏の将兵も覚悟を決めて、歌をうたい始めます。

93-16
「風蕭蕭として易水寒し、壮士ひとたび去ってまた還らず」
かつて、荊軻(けいか)という人物が、始皇帝を暗殺するために
国を離れるとき、見送りの者たちに、二度と帰らぬ覚悟を唄ったもの。

つまり、魏の将兵は「我々は決して投降しないぞ」と誓っているのです。
孔明は、それを聞いて司馬懿と魏の将兵の気概に感じ入ります。

司馬懿は続いて、
「酒に向かえばまさに歌うべし、人生いくばくぞ」

まもなく、尊敬する曹操に会いに行けるとして、
彼が詠んだ歌を発すると、自害するために跪きます。

93-20
・・・司馬懿が、みずからの頸を斬ろうとしたそのとき、
その剣の上に水滴が落ち、それはたちまち大雨となって降り注ぎました。

天地を洗い流すような豪雨は、谷を焦がしていた火を瞬時に消し、
魏軍は恵みの雨に勇気百倍して、谷の入口へと殺到するのでした。
こうなると、入口にいる廖化の部隊はわずかに1万がいるのみで、
魏軍の起死回生の突撃を支えきれず、たちまち突破されてしまいます。

まさに九死に一生を得た司馬懿と魏軍。
かたや、雨に打たれし孔明は呆然として言葉も発することができずにいました・・・。


【このひとに注目!】
93-32
◆司馬昭(しばしょう) 
字/子尚 211年~265年
常に司馬懿のそばにつき従っている息子のひとり。司馬師(しばし)という兄がいるが、本作では司馬師はあまり登場せず、もっぱらこの司馬昭が父を補佐している。
父の司馬懿とともに、孔明の北伐を退けた後は、洛陽に戻る。249年、父・兄とともに挙兵し、対立する曹爽(そうそう)一派を失脚させて政治の実権を握る(高平陵の変)。父の死後、兄の司馬師が跡を継ぐが、兄に跡継ぎがいなかったので、またその死後に家督を継承。
263年、蜀漢討伐の軍を興し、劉禅(りゅうぜん)を降伏に追い込んで滅亡させた。翌年、晋王の爵位を授かるが、次の年に病死する。その志は子の司馬炎(しばえん)が受け継ぐ。司馬炎は、司馬昭の描いたプランにしたがって魏を滅ぼし、晋を建国。280年には呉を攻め滅ぼし、中国統一を果たした。

余談。蜀が滅んだ後、劉禅は洛陽へ移住させられたため、司馬昭は彼を宴席に招いてもてなした。蜀の音楽が奏でられ、蜀の旧臣たちが国を思って落涙するなか、劉禅は笑っていた。司馬昭は「蜀を思い出されることでしょうな」と尋ねたが、劉禅は「ここの暮らしは楽しい。蜀を思い出すことはありませぬ」と答えた。司馬昭は、「この者が皇帝では、孔明が生きていたとしても蜀はどうにもならなかっただろう」と語ったとされる。蜀と劉禅についての詳細は、また明日ご紹介したい。



sangokushi_tv at 17:55コメント(17)トラックバック(0) 

2012年08月08日

こんばんは!哲舟です。

92-16
蜀の都・成都(せいと)では、諸葛亮(孔明)が
いよいよ五度目の北伐に出発するところ。
ドラマでは細かいところが省略されているのですが、これで五度目となっています。

92-15
皇帝の劉禅(りゅうぜん)が、この成都で孔明を見送るのは三度目。
劉禅は孔明が年老いたと肌身で感じ、もう二度と会えないかもしれぬ、
という思いにとらわれ、今まで以上に深い感慨をもって見送るのでした・・・。

そのころ、孔明のいない祁山(きざん)の蜀軍の陣営では、
魏延(ぎえん)が、鄭文(ていぶん)という魏の降将と会っていました。

92-10
魏延は、はじめは鄭文の投降が計略であると疑いますが、
彼が味方の秦郎(しんろう)という将軍を斬ったためにそれを信じます。

魏延は、さっそく鄭文に酒を与えて配下に加えますが、
鄭文から「司馬懿(しばい)の軍5千が北原にいる」と聞かされて
それを攻めようと考えます。

魏延にしたがう部下の馬岱(ばたい)は、孔明の帰還を待つよう進言しますが
酒で気が大きくなっている魏延は、
孔明を待っていては戦機を逃す、といって出陣してしまいます。

その後、祁山に帰着した孔明を、王平(おうへい)が出迎えます。
孔明は、楊儀(ようぎ)という副官を新たな補佐役としてともない前線に復帰しました。

その矢先、孔明は魏延が前日に鄭文の言葉を信じて出陣したことを知り、
それが即座に司馬懿の計略であることを見抜き、救援に向かいます。

はたして鄭文は司馬懿に言い含められた間者(スパイ)であり、
魏延軍2万は、たちまち魏の大軍に取り囲まれてしまいました。

92-03
逃げようとした鄭文を弓で射殺した魏延ですが、
次第に狭い谷間に追い込まれていきます。

魏延を討ち、張郃(ちょうこう)へのはなむけにせんとする司馬懿。
そこへ孔明の派遣した援軍が到来し、危機を脱しました。

92-08
さすがの魏延もみずからの浅はかさが招いた大敗にいつもの威勢なし。
孔明は司馬懿の罠にはまった魏延と馬岱に棒叩きを命じますが
王平、楊儀ら諸将のとりなしで預けおくことにします。

あと一歩で魏延らを打ち損ねた司馬懿は、
徹底した持久戦に持ち込もうと堅く門を閉ざします。
持久戦に持ち込まれては、遠征軍である蜀軍は不利は否めません。

そこで、ひたすら魏軍への挑発を繰り返させ、
なんとかおびき出そうとするのですが・・・。

92-13
司馬懿もさるもの、ちょっとやそっとの挑発では出陣しません。
蜀の軍兵がいくら口汚く罵ろうと動かぬ司馬懿。
さすがに孔明と仲の悪い魏延も、先の失敗で懲りたか大人しく根競べに徹します。

そこで孔明は、司馬懿へ書簡と贈り物を楊儀に持たせて派遣します。
孔明の書簡は、閉じ籠もって戦おうとしない
司馬懿を「婦人のようである」と、からかうものでした。

92-29
箱を開けてみると、鮮やかな女物の衣装が入っていました。

92-02
あまりの侮辱に、孫礼は怒って剣を抜き、楊儀に突きつけますが、
楊儀は顔色ひとつ変えず、平然と立ったままです。

司馬懿は肝のすわった楊儀に感心したのか、
孫礼に剣を収めさせると、なんとその服を楊儀に持たせ羽織ってしまいます。

92-28
「どうだ、似合うか?」と尋ねる司馬懿。
なぜか、本当に似合っているような気がするから不思議・・・。

孔明が服を贈って激怒するも自重する、というのが原作の展開なのですが、
服を着てみるまでの描写はさすがになく、本作のオリジナルです。

「まるで杯と蓋がぴったり合わさったようです」と、からかう楊儀。
司馬懿は楊儀に酒を与えるよう命じますが、
諸将は屈辱に顔色を変え、怒って退室してしまいました。

酒を酌み交わすと、司馬懿は孔明の様子を尋ねます。
楊儀は、孔明は気力に満ち、壮健であることを報告。

食事や睡眠の様子を尋ねると、激務に終われ片時も休まないため、
睡眠は少し足りないようだと楊儀が答えると、
司馬懿は孔明の体を気遣う言葉をかけ、楊儀を帰しました。

楊儀は司馬懿を怒らせようと振舞ったのですが、
さすがの司馬懿はその策に乗らず、まったく怒った様子も見せませんでした。
しかし、その心のうちはどうだったでしょうか・・・?

いずれにしても、司馬懿は孔明の激務ぶりを聞いて、
彼の体に相当な重圧がかかっていることを知りました。

さて、策が不発に終わった孔明ですが、
そのことよりも、またも兵糧が届かないことに苛立ちを隠せません。
孔明が「荊州が我らの手にあったなら」と愚痴をこぼすのも、無理はありません。

蜀と漢中の間には、剣閣道などの険しい山や谷が連なり、
毎回のように兵糧の運搬に苦労していました。
谷底に落ちる犠牲者、無駄になる兵糧も数多く出ています。

92-23
いっぽう、魏の陣営では総帥である司馬懿が
孔明に辱められたことを怒った将軍たちが、口々に出陣を司馬懿に志願します。

しかし、司馬懿は頑なに出陣を許さず、各軍営を堅く死守するよう命じるのです。
孔明が兵糧の補給で苦労していれば、司馬懿は将軍らの戦意をそぐのに苦労する。

戦いは、司馬懿と孔明の「根競べ」の様相を呈してきました。
そこで孔明は、昔みずから設計した「木牛」(もくぎゅう)、「流馬」(りゅうば)という
運搬道具を輸送に使うことを思いつき、製造にあたらせます。

蜀軍が兵糧の運搬に苦労していることを知った司馬懿は、
「蜀軍に粥すら食えなくしてやろう」と、糧道の近くに兵を潜ませ、
兵糧を奪う作戦に出ることにして、司馬昭と孫礼に出撃を命じます。

蜀の輸送隊は拒馬塞という、馬も通行を拒否するような
狭い山道を、新兵器である木牛・流馬に兵糧を満載して通っていました。

兵を伏せ、待ち構えていた魏軍は、
初めて目にする木牛・流馬を見て不思議がりますが、それをいっせいに襲います。

魏軍の襲来に対し、蜀軍の輸送隊は抵抗らしい抵抗もせず、
木牛・流馬と兵糧を置き捨て、慌てて退却していきました。

92-20
木牛・流馬を奪った魏軍は司馬懿にそれを献じます。
兵糧の運搬に適したその道具を見て、司馬懿は素直に感心し、
同じものを魏軍で運用するため、職工に製造を命じるのでした。

かくして、せっかく造った木牛・流馬も兵糧も魏の手に渡ってしまったわけですが、
孔明はどのように対処するのでしょうか・・・? また明日!


◆引き続き、皆さんからのご質問にお答えします。

Q.孔明の南蛮討伐は省略されたのでしょうか?孔明が西南夷の首領・孟獲を7度虜にし、七度放す見応えのある場面が多いのですが、相手に応じて臨機応変に戦略を考えた孔明の奇才ぶりが面白いのに…ちょっと残念ですね。(三国歴女さん)

A.そのようですね。83話で劉備がなくなり、84話から北伐が始まるので、かなり駆け足の展開でした。北伐だけで10話を費やしているので、省略されたのだと思います。私も個人的には南征は観たかったです。

Q.ひとつ疑問なのが関羽は命令無く戦をしたんですよね?(第73話) 劉備や孔明の耳には何の情報も入らず? (リリィさん)

A.そのあたりは、ちょっとハッキリしないんです。原作では一応、劉備の命令で樊城を攻撃したことになっていますし、正史でも劉備の漢中侵攻に連動して北上したことになっています。しかし、本作では関羽が勝手に攻めたことになっていますね。関羽は荊州太守ですから、軍を独断で動かすだけの実力と権限があったことは確かではないでしょうか。

Q.武将たちは鎧の上にマントを羽織っていて、何だかシーザーかアントニウスみたいな感じがするんですが、当時もあんなローマ風な格好をしていたんでしょうか? それともドラマ上の演出なんでしょうか?(のりのりさん)

A.本当のところは分からないです。マントは中世ヨーロッパでファッションとして流行したもので、それ以前は、ファッションというより防寒具として、ずーっと昔から使われていたようです。しかし、東洋の三国時代にあったかどうか分かりません。ドラマの演出と考えたほうが良いと思いますが、絶対なかったとも言い切れないし、マントぐらいはあったかもしれませんよね。こんな答えですみません。

Q.劉備が天下統一を果たした人だと思ってました。お恥ずかしい・・・・ 去年だったか三国志のアニメを見て、その結末にびっくり!!! 劉備・孔明・関羽・張飛・趙雲・龐統・・・・優秀な武将、軍師がいてなぜだめだったのか? (リリィさん)

A.おっしゃる通りで、三国志がまるっきりの創作小説であったなら、劉備や曹操が天下を統一して終わるでしょうね。でも現実はそう上手くいかないもの。三国志は、古代中国に実際に生きていた人々のお話。そこには成功もあれば失敗もある。いや、どちらかといえば失敗のほうが多いかもしれません。そういったリアルな歴史物語だからこそ、そこから我々も色々なことを学べます。だからこそ、不朽の名作といわれるのでしょう。


人気投票、引きつづき実施中です。
 みなさん、本当に多数の投票、ありがとうございます!



sangokushi_tv at 17:55コメント(10)トラックバック(0) 

2012年08月07日

こんばんは!哲舟です。

みなさん、現在実施中の人気投票に多数の投票をありがとうございます。
現在、人物のほうは上位「4人」が激しいデッドヒートを演じております。
誰だと思いますか? ただ、5位以下の争いも熾烈ですし、
まだ下剋上の可能性もあり得ます。

それに対し、ストーリーのほうは、上位3話が突出しているほかは、
あとは、みなさんそれぞれに思い入れがあるためか、横一線です。
みなさんのコメントにも思い入れがこもって素敵で・・・
まだ発表できないのがもどかしい限りです(笑)。

まだまだ実施しておりますので、投票されていない方はぜひ!
むろん、順位などにはとらわれず率直な思いで、気軽に投票してくださいませ。
投票いただいた方は、発表までもうしばらくお待ちくださいね。


さて、祁山の戦場において、陣頭で顔をあわせ
陣形くらべをする司馬懿(しばい)と諸葛亮(孔明)。

91-08
「奇門八卦の陣だ。9つのときから知っておる」
孔明の敷いた陣を即座に見破る司馬懿に対し「ならば破ってみよ」と孔明は挑発。

孔明は、この陣が敗れたなら二度と魏を攻めぬと約束、天に誓うとまでいいます。
司馬懿は半信半疑ながら陣へ戻り、諸将へ指示を与えます。

「八卦の陣」といえば、207年(第32話)に曹操の従弟・曹仁がこれを用い、
徐庶(じょしょ)が、趙雲に攻略法を教えて突破させたことを
懐かしく思い出す人も多いでしょう。

司馬懿は東から入り、北へ向い、生門から出るという、
あのときの徐庶と同様の指示を、将軍らに与え、出陣を命じます。

91-04
魏軍が陣に入ったのを見た孔明は、すばやく陣形を変えるよう指示しました。
このため、戴陵(たいりょう)らの魏将たちは陣の内に封じられ
兵に囲まれて出ることができなくなってしまいます。

91-14
しばらくすると、蜀兵に捕らわれて裸にされ、顔を黒く塗られた3人の将が
司馬懿のもとへ送り返されてきました。

「3年後に出直して来い!」
孔明の伝言に対し、屈辱のあまり体を震わせた司馬懿は、全軍に総攻撃を命じます。
息子の司馬昭が攻撃をいさめますが、めずらしく怒りで我を忘れた司馬懿は、
みずからも馬を躍らせて蜀軍へ攻めかかります。

91-13
当然、見透かしていた孔明はこれを散々に撃ち破り、
司馬懿は一目散に退却していきました。

姜維(きょうい)、王平(おうへい)は、孔明に対して追撃を願いでますが、
孔明は兵糧が尽きたことを理由に、それを退けます。

なぜか、届くはずであった兵糧が来なかったため、
蜀軍は兵糧不足の状態で戦っており、
司馬懿を討ち取る絶好の機会を逃してしまいました。

その理由は、兵糧運搬係の苟安(こうあん)が、
道中酒を飲みながらのんびり行軍していたため。
聞けば、なんと15日も遅れてしまったのです。

孔明の前に引き出された苟安。
本来は兵糧が3日遅れれば斬首に処せられるところでしたが、
苟安が、蜀の大臣・李厳(りげん)の甥であることや、
斬ることで兵糧係をつとめる者がいなくなることを危惧し、
孔明は棒叩き80回の刑に減じます。

斬られるところを棒打ちで済んだのですから、
本来は自分の怠慢を恥じて孔明に感謝すべきところ、
この男、そんなに人間ができていません。

かえって、孔明にうらみの言葉を吐きながら帰途につきます。
しかし、その途中で魏の兵に見つかり、苟安は捕らわれてしまいました。
・・・どこまでも使えない奴。

苟安を捕らえた司馬懿は、この男が兵糧を遅らせたことで
自軍が助かったことや、李厳の甥であることを知ります。

そこで一計を案じた司馬懿は、苟安に密書を持たせて蜀へ帰しました。
その密書は、孔明が司馬懿と独断で和睦し、撤退の約束をしたと書かれたものでした。

成都(蜀の都)に着いた苟安は、さっそく叔父の李厳にそれを届けます。
李厳は孔明が逆心を抱いたという格好の証拠を得たことを心中喜び、
劉禅(りゅうぜん)のもとへまかり出ました。息子の李豊(りほう)が止めるのも聞かず・・・

91-01+1
皇帝・劉禅は密書を読んでたいそう驚きますが、孔明には軍権を預けているし、
司馬懿と和睦し、撤退するのならそれでいいと言います。

しかし、李厳は孔明が国を乗っ取る野心を抱いており、
和睦も独断で結んだことを問題視し、
さも重大事件のように劉禅に吹き込みます。

李厳は野心家で、もともと孔明と仲が良くありません。
それは劉備が臨終のさいにも危惧していたことでしたが・・・
もはや、その遺言を忘れてしまった李厳は、いずれは孔明にとって代わり、
自分が蜀を背負って立つことを、ひそかに夢見ていたのです。

劉禅は、孔明が自分に対して叛意を抱いていることが信じられません。
彼の孔明に対する信頼感は並々ならぬものがありますが、
しかし、李厳は言葉巧みに劉禅を丸め込み、孔明を呼び戻すよう促すのでした・・・。

劉禅の詔を受け取った孔明は、急な呼び戻しを不審に思い、
これが司馬懿の「離間の計」であることを見抜きます。

「将、外にありては君命も受けざるところあり」
姜維(きょうい)は、そう言い、ここで戻っては今までの戦果が
無になるということで引き止めますが、孔明は自分が戻らねば不忠を疑われるため、
大軍を祁山に残し、成都へ戻ることを決めます。

孔明が不在のあいだ、軍を止めねばならず、魏軍に軍備増強の時間を
与えてしまうことになるのですが、それもやむなし・・・。

91-02
李厳は、あわよくば孔明を捕らえようと兵を置いて待っていましたが、
その息子の李豊(りほう)が出迎え、先導したことで無事成都へたどり着きました。

成都の宮殿では、李厳が劉禅への説得を続けています。
そこへ孔明が戻ってくると、劉禅も李厳もバツが悪そうに黙ります。

いわゆる「キレ気味」に、劉禅に対して弁明を始める孔明。
よもや、味方の中から足を引っ張る者が現れるとは・・・
孔明にとって不運極まりないことです。

李厳は密書の存在を口実に、孔明の罷免を願い出ますが、
そのとき李豊が、父・李厳の罪を暴いたうえで孔明の無罪を証明、その忠義心をたたえました。
これで劉禅も、ようやく孔明が無実だったことを確信し、李厳の不忠を激しく責めます。
逆切れして息子を殴打した李厳は退室、みずから牢へ入りました。

李厳の牢を訪ね、酒を振舞う孔明。
さしもの李厳もこれには少し心を改め、本心を話します。
李厳は最初から北伐に反対だったのです。

昔から益州に住む者として国力の限界を
肌で知っているのですが、後から国を乗っ取りに来た連中(孔明ら)が
国政を動かし、限界を超えて北伐を敢行することを快く思っていませんでした。

孔明は先帝・劉備の大願を果たすこと、座して滅亡を待つよりは、
魏を討つための努力を続けることを李厳に諭すのですが、
その心を動かすことはできず、両者の意は平行線のままでした。

しかし、李厳の本心が明らかになった以上、城内に置いてはおけません。
後日、劉禅は李厳の身分を庶民へと降格し、
二度と登用しないことを諸官の前で宣言したのです。

同時に孔明の進言を受け、李厳の名跡を息子の李豊に継がせることを決めます。
劉禅は、劉備が生きている頃は頼りないばかりでしたが、
今は着実に勉学に励み、君主として立派になるために
努力を重ね成長している様子が見てとれます。

庶民に降格され、故郷へと出発していった李厳が
これまで以上に生き生きと嬉しそうな顔をしていたと、李豊から聞かされた孔明は、
「そなたの父がうらやましい。私も南陽(荊州)に帰って山中で余生を送りたい」
思わず、そうこぼします。

91-01+2
何気なく出た言葉と思われますが、
私は、これは孔明の偽らざる本心であったと考えています。
李豊も、孔明が自分に本音を話してくれたことを嬉しく思ったはずです。

本作のこの言葉ひとつとっても、色々な思いを抱くファンがいらっしゃるでしょう。
何気なく聞き流す人もいれば、孔明がそんな言葉を
口にするわけがない、と思う人もいるでしょう。

しかし、私はこの言葉をここでいわせた脚本・演出に拍手を送りたいです。
この台詞のあと、すぐに「言っても詮無いがな」と寂しげな顔で打ち消す彼を見て、
私はなぜか、深い思いにとらわれてならず・・・落涙してしまいました。

むろん、結末が分かっているからかもしれませんが、
三国志という悲哀に満ちた物語の主役のひとり、諸葛孔明という男の人生。
そのすべてが、このシーン、この言葉に凝縮されているように思えたのです。

また年の瀬が近づきましたが、いまだ北伐の大業を果たせぬと嘆く孔明。
彼は劉禅から贈られた新しい屋敷を封鎖させ、
「洛陽を落とすまでここには入らぬ」と誓うのです。

そして、姜維(きょうい)に2日休んだら、
すぐに祁山の陣営へ戻る、と告げるのでした・・・。


◆昨日に引き続き、皆さんからのご質問にお答えします。

Q.81話の陸遜のセリフ「30万の精鋭が 天より降り立つ!」と言われてもねえ! 理解できるように 説明出来なかったのでしょうか?  (yamaneko5646さん)

A.どなたかもコメントしてくださったように「敵を騙すにはまず味方から」。堂々と公言しては、どこに蜀の密偵(スパイ)が潜んでいるかもしれませんし、武将の中には呉が負けると思って蜀に寝返る人もいるかもしれません。だから陸遜はギリギリまで本当のことをいわなかったのです。

Q.第83話「白帝城に孤を託す」で劉備が亡くなるとき、いつ趙雲を呼んで何を言い遺して逝くのかと思いながら見ていましたが、趙雲…何か言って貰ったのでしょうか?(くららさん)

A.劉備が臨終のとき、趙雲にも何か言って欲しかったのに、その場面がなくて残念だったのは私も同感です。そう思って、手元の「三国志演義」(立間祥介 訳)下巻と、「三国志」(吉川英治)七巻を取り出して確認してみましたら、原作の劉備は、ちゃんと息を引き取る直前に趙雲にも声をかけています! さて何と言ったのかは・・・ここに書くのは無粋ですから、是非みなさんの目で確認してみてください。欲をいえば、ドラマでも再現して欲しかったですけどね。

Q.「夷陵の戦い」になって孔明の活躍が減ったような気がしますが…出兵に反対だったのかな?(ヤッターさん)
A.そうです。78話のときにも書きましたが、「夷陵の戦い」に孔明が同行しなかったのは、出兵に反対したからといわれています。だから劉備は孔明を連れて行かずに留守を固めるよう命じたのです。趙雲も同じです。あるいは劉備不在のあいだ、占領したばかりの益州(蜀)を治められるのは、孔明しかいなかったからと見ることもできます。

Q.第83話で孔明と劉禅がお茶を飲みながら戦略会議していた時の、孔明の衣装。袖に点と線の折れ線グラフのような模様が見えますが、あれはひょっとして星座、北斗七星なような気がしますが、どうなのでしょう。 両手を広げて頂いて、柄の全体像を見たいところです。(Zoe さん)

A.第87話のブログに、両手を広げた写真を載せてみましたが、ご覧いただけましたか? 確かにそれっぽいですね。孔明は「三国志演義」において、北伐のときに北斗七星の旗を掲げさせる場面があったり、己の寿命を延ばそうと北斗七星に祈る場面があったり、赤壁の前に風を呼ぶ祈祷をするため「七星壇」を築いています。そういう意味で、北斗七星と孔明は縁があります。この衣装は、それに基づいて製作したのでしょう。大胆なデザインが、孔明の性格とアンバランスですが、それが逆に良い感じに思えます。



sangokushi_tv at 17:55コメント(11)