いきいきシニア元気塾

自分らしく生きて生を全うしよう。その願いの実践を紹介する

2013年09月

「君に“ありがとう”」 ~明日の日本に明るい希望が~

 暦の上では初夏。風はまだ柔らかだったが日差しの強い日の昼下がり、早坂登(通称:早さん)
は電信柱の作るわずかな日陰に寄って立っていた。その手には杖があった。

 早さんはいま80歳。小学2年生の時に太平洋戦争が始まった。やがて戦線は中国や南方方面
に広がって北上し、沖縄がアメリカ軍に占領された。広島や長崎に原子爆弾が落とされた。都市や
町は敵の空襲に見舞われた。戦争が終わってみると、辺りは焼け野原でした。人々は気を取り直し
て一生懸命に働いて世界でも指折りの国づくりをした。

 そのころ、企業戦士と もてはやされ昼も夜も頑張り通した人たちは、今はすっかり年老いてしま
った。元気な人もいるけれど、病気になって動けなくなった人もいる。老人ホームで寝たきりの人も
おれば、足腰が弱って車いすの生活をしている人もいる。亡くなった人もいる。

 早さんは膝を痛めている。変形性膝関節炎という老人にはよくある故障だ。そのために100m
も通しで歩くと痛みを覚えるので休みやすみでなければ歩けない。いま、自宅から600mばかり先
にある郵便局に手紙を投函しての帰りで、電信柱に寄りかかって休んでいるところだ。
 早さんが立っている所は、言わば十字路になっている。十字路と言っても、大きな道路が交差して
いるのではなく、一方の路地から道路を隔てた反対側の路地に入るための通路に過ぎない。

 早さんは路地を右後ろにして、道路に向かって立っていた。すると、学校からの帰りらしい小学生
が路地から出てきて早さんの右後方に立ち止まった。早さんは、彼(小学生)が道路を往き来してい
る車の途切れるのを待っているのだと思った。しかし、往来の車がいなくなっても彼は動く様子がな
い。「ちと変」と思いながら早さんはやおら動き出した。すると小学生は手を差し伸べて「どうですか」
と声をかけてきた。早さんは、不自由な自分をおもんばかってガイドを申し出たのだと分かったので、
「大丈夫よ」というと、「そうですか」と小学生は言って早さんから離れ、反対側の路地の向かった。
その背中に早さんが「ありがとう」と礼を言うと彼は「いいえ」と少し振り向いて小さい声で答えて遠ざ
かって行った。

 早さんの気持ちは爽やかだった。そして嬉しかった。こんな優しい心遣いの子がいる。そんな子たち
の育つ学校がある。日本の未来は明るい。胸がいっぱいになって空を見上げた。

 早さんは彼(小学生)の顔を知らない。忘れたのではない、見てないのだ。たぶん彼も早さんの顔を
知らないだろう、お互い後ろ姿しか見てないのだから。背丈は早さんの肩辺りでしたから小学4年生
あたりだったろうか。顔も表情も分からないけれど、その優しい心遣いは早さんの脳裏を離れることは
ない。「君よ、ありがとう」
                            (この記事は、物語風になっていますが、実際にあった話です)

ボケ防止・介護予防は実践にあり パートⅡ 元気塾の発足まで

=「ケア」から「予防活動」へ=

 1.在宅支援の限界      2.下條村へのバスツアー   3.ぼけません」私の老後
 4.浜松方式と下條村     5.脳刺激訓練実習       6.おもてなし、そしてお別れ
 7.下地さんやりませんか   8.ボケ防止に取り組もう    9.また 下條村へ行く
10.「あなたが おやりなさい」 11.活動の体制づくりへ    12.


1.在宅支援の限界
 97年当時は、まだ介護保険はありませんから家事援助や移送サービスには、
民間の活動グループが多く関わっていますた。
 東村山市内にも「カルティアおばさん」と「ワーカーズぽけっと」の2大家事援助
グループがあり、わが「ささえあいの会」も先発グループのシェアを犯さないように
に気を使いながら、有償の家事援助と移送サービスを始めました。家事援助は女
性軍がこなし、男性は移送サービスを引き受けました。移送サービスは、各自の
車で行いました。とても需要が多く順調でしたが、新聞やテレビなどで高齢者の運転
事故が多発しているなどと盛んに報道されると、みんな考え込みようになりました。
 その矢先、スタッフの一人が、買い物に行くために車に乗り込み、発信して道路を
逆走するという事故が起きました。脳梗塞が原因でした。もし、それが顧客搬送中で
したら・・・。
 みんな移送サービスに携わるのを怖くなって、足がすくんでしまいました。こうして
移送サービスは取りやめとなりました。
 実は、ミニデイサービスも取り組んでいましたが、社会福祉協議会がデイサービスを
本格的に始めると、そちらの方に利用者は行ってしまいました。

2.下條村へのバスツアー 
 山のあなたの空遠く ボケない村のあるという・・・
 97年11月に社会福祉協議会主催の『ぼけません 私の老後』というツアーがあり
ました。誘われるままに参加しましたが、このことが元気塾への流れの契機となりまし
た。次は、97年12月号の「ささえあい」紙に載せた見学報告です。
          ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 社会福祉協議会(以下、社協)の呼びかけで、11月30日から一泊2日の日程で
『ぼけません 私の老後』バスツアーに行ってきました。目指すは「浜松方式」を取り入れて
ボケ防止に取り組み、常識を覆して次々とボケ老人が回復しているという噂の長野県
下條村です。
 朝8時30分30数名が乗り組んで、社協を出発したバスは八王子ICから高速中央道
~談合坂SA~八ヶ岳PA~諏訪IC~飯田ICと小休憩を挟みながらひた走ります。
 途中のバスで,かつてNHKテレビで放映された番組の録画(ビデオ)で、これkら行く
下條村におけるボケ防止訓練の実際について予習をさせられました。その中で、年寄り
たちが懸命に努力しているのには感心しましたが溜息も出ました。童謡を歌ったりお遊
戯をしたりしているからです。それをやらされたら こそばゆくて、楽しいよりもうら哀しく
なるのではないかと思いました。
 下條村では男性の参加圧倒的に少ないとのことですが肯けます。昨日まで畑や野らで
日に焼けてはたらいていた男たちに、童謡を歌えと言っても違和感を覚えるのではないか
と思ったのです。

3.「ボケません 私の老後」
  ところで、 今回のツアーのキャッチフレーズは、高槻絹子の著書からとったのもです。
高槻は、金子光男・浜松医療センター副院長が唱導した「浜松方式」=ボケの早期発見
と予防、早期治療のためのメソット(方法)を確立した際に、臨床心理士として参加していま
すので、その経験と成果をこうち書房から出したのが『ぼけません 私の老後』でした。
 初版が95年1月で、96年5月には早くも7刷が出るくらいの評判の本でした。私も社協の
Nさんに薦められらこともあって買ったのですが、本棚に挟んで良く読みませんでした。今回
下條村見学に行くに当たって予習をしておこうと、本棚を探したら3冊も出てきました。え?
どうして? 買ったのを忘れて、また買いをしていたのです。ボケの兆候か。下條村行きは正
解だった。

4.浜松方式と下條村
 浜松方式とは”「かなひろいテスト」「MMS」という二段階で行われる痴呆判定法のことで
あり、さらにその測定結果をもとに、ボケから正常へとみちびくトレーニングまでの全体まで
をさしてそう呼ばれています。”と高槻は定義しています。
 金子光男は「ボケる生き方、ボケない生き方」(PHP文庫)で、かなひろいテストは主に能
前頭前野の機能を、MMSは主として大脳後半部の機能を調べるのだと書いています。

 1泊2日で大枚2万9千円でしたが、30日に泊まった飯田城址温泉三宜亭温泉本館の
従業員はとても丁寧で、それに食事もおいしかったので満足しました。
 夕食後に下條村役場の保健衛生係・串田良彦氏から、下條村におけるボケ防止事業の
経緯について説明を受けました。実習に先立つ学科の授業です。
 下條村の人口は3,982人 高齢化率26,4%(97年11月現在)
 43年ごろから痴呆老人の俳諧、死亡が相次ぐようになった。
 90年10月 健康づくり協力員、国保運協、保健師らが浜松医療センターを見学
 91年 9月 ボケ予防のための「脳刺激訓練教室」を飯田市と共同で開催
        34人が参加。正常者14人を除いて、あとの20人の病状はさまざまであっ
        たが、3年後にはほとんどの方が病状改善、または正常化した。
 95年 5月教室を村単独の開催として現在に至る。  95年には64人が受講した。
 96年  41人が受講。卒強者が中心になって村内4か所で自主活動を行っている。

 効果:早期痴呆群の改善と言う実績を目の当たりにして人々の認識が改まり、正常
     者も参加するようになり、村ぐるみの活動に発展している。
 課題:男性の参加が得られにくい。家族の理解と対応も問題が多い。  

5.「脳刺激訓練」を実習
 下條村は天竜川右岸の岳隆地を占め、村の東は天竜川が渓谷をなして南下している
ので、東村山のような平たん地ではなく、谷と谷との間を尾根が遮って起伏して厳しい
地形をしています。
 バスは時にカーブを取り、坂を上下しながら10時30分に「脳刺激訓練室」に到着しま
した。活動の本元は村役場隣の「老人福祉センター」です。ここは、訓練室で正常になっ
た、いわゆる卒業生たちが手分けして活動している4教室の1つだとの事でした。谷を従
えるように建つ80坪ばかりの平屋はまだ新しく、玄関をくぐると左手におおよそ40畳の
板間。これぞ、「浜松方式」を実証して全国へ向けて発信している道場なのだと思うと、
いささか緊張気味です。
 やがて9人のスター(脳刺激訓練によってボケから恢復した卒業生)が脳刺激訓練の
実技をリードしてくださいました。こちらを担当している卒業生は18人ですが、実は明日
も別の見学グループが来る予定なので、半数の方は明日のために今日はお休みしてい
るとのことでした。下條村には、北海道から九州まで全国各地からバスを仕立てて見学
者が後を絶たないそうで、われわれ東村山勢もそのオジャマムシの1団なおだと申し訳
なく思いました。
 トレーニングの内容は、準備体操に始まり「どんぐりころころ」「伊那の貫太郎」など4曲
を合唱。続いてマスゲームをして終るまで40分。本番は2時間とのことでした。

6.おもてなし、そしてお別れ
 トレーニング終了後、村のみなさんで懇親会をセットしてくださいました。卒業生の方々が
手料理をそれぞれお持ちになり、村役場の職員や保健師さんもご列席されました。そして
ご当地の民謡を歌ってくださいましたので、我が方も東村山音頭うを踊りました。

 研修も宴も終わって、12時30分に我々は帰りのバスに乗り込みました。その時バスの
ガイドさんが言いました。「ところで皆さん、お別れのときに見送ってくれる人の手の振り方
の意味をご存知ですか?大きく振るのは”もう来なくていいよ”、小刻みに振るのは”また
来てね”というサインですよ。さあ、今日はどちらでしょうね」
 バスが動き出しました。集まっている村の皆さんは総出で見送ってくださいました。そして
その手は千切れんばかりに小刻みに揺れていました。あ! 私たちがバスの窓から一心に
手を振って応えたのは言うまでもありません。

7.「下地さんのところでやりませんか」
 それぞれの感動を乗せてバスは帰路につきました。しばらくして、前の方に陣取っていた
社協の長淵さんが、私の座席の隣の補助席を倒して座り、そして言いました、「下地さんの
所でやりませんか」と。すなわち「ささえあいの会」でボケ防止の脳刺激訓練に取り組めな
いか、というのです。
 素晴らしい事業だとは感じ入っていますが、自分自身の活動としては考えも及びません。
「いやいや、とても・・・」と答えました。村の行政当局が乗りだし、脳外科医や保健師を中心
とする専門スタッフが取り仕切るプロジェクトの真似など出来るわけがありません。そんな
状況の差があることを百も承知のはずなのに、どうして私にそんなことを言うのだろう。ただ
単に、東村山にもボケ防止活動があるといいなあ、という願望だけからなのだろうか、それ
ともその気になれば可能だと考えてのことだろうか。引っかかったままの彼の一言でした。

やはり認知症予防は誰かがしなければ 
ささえあいの会」では、ディサービスが開店休業となっていました。移送サービスもだんだん
怖くなってきました。もし、事故でも起きたらどうするか。年はとるし。自動車事故は高齢者に
多いといいます。もうこれ以上続けることはできません。それに、認知症になっている人々と
関わっていますと言い知れない空虚な思いにさせられるのでした。この人たちが、もし認知症
にならなかったら輝いた老後が送れただろうにとの思いが何時も残りましたから。
 やはり認知症予防は必要なのだ、そしてそれは誰かがしなければならないことなのだと、
しきり考えるのでした。

8.ボケ防止に取り組もう
 随分悩みましたが、ケア活動の限界などを考えてボケ防止に取り組む決心を固めました。
それには先ず、同志を集めなければなりません。「ささえあの会」事業を拡大するという形
で始められればいいのですが、一つの組織が出来上がってしまいますと、その内部の者が
発想を切り替えて、殻を破って展開することは難しいことです。それに、一般の人々も既存の
組織へのイメージができていますから、新しいことを始めても先入観が妨げてなかなか受け
入れてもらえません。
 ボケ防止という、近隣に例を見ない活動に取り組むには、それだけの意識と視野を持った
人が真ん中にいてもらう必要があります。そこで「ボケ防止を考える会」を発足させるために、
広く賛同者を募ることにしました。先ず、社会福祉センターの福本課長の紹介で地域保健指
導の草分けである町田八重さん。続いて葛西千恵子さん、仙頭澄夫さん、本戸すみ子さん
方に賛同を頂きました。亡くなられましたが林テツさん、阿部秀雄さんもいました。
 市役所健康課の菅野津代子・平田明美の両保健師、社会福祉協議会の立川茂さんも会議
に加わりました。
  こうして98年8月1日に「ボケ防止を考える会」が発足しました。会合は、ほぼ毎月開かれ、
99年11月1日までに12回を数えました。ボケ防止の必要性については、次の点で意見は
一致しました。
 ①認知症で本人は惨めになる。羞恥心や自尊心までは失しなってないのだから。
 ②回りの者の肉体的、精神的、経済的負担が大変。かけがえのない親が認知症になり、
  その言動が失笑にさらされる・・・・こうして「人」が壊れていく姿に家族は涙しますが、介護
  が長期に及ぶと愛情が憎悪に変り、虐待を加えるまでに追い詰められる。母親の介護の
  ために職も辞して10年間尽くしてきた孝行息子が、その母親を殴り殺した事件などは痛ま
  しい限りである。(読売99.11.13夕)
 ③介護保険で良質のサービスを提供するには資金が要る。これから益々高齢化が加速し
  虚弱者も増える。その手当に要する財源は地域住民の負担に掛る。金のかからない状況
  を作るためにも認知症・ねたきり防止が必要である。

9.また下條村へいく
 認識は深まり、思いは募り、決意も固まりました。あとは実際に動くだけですが、そのノウハウ
を誰も持っていません、前例もモデルもないのですから。実は準備委員の中で下條村見学に
行って来たのは下地だけでした。そこで具体的なイメージを共有するためには、みんなで下條村
に行くしかない、と衆議一決。百聞は一見に如かず」と言うではないか。早速参加者を募り、25
名の応募者を得て、バスを借り切って99年12月末に東村山勢の第二次下條村詣でと相成った
次第です。
 次は仙頭澄夫さんが寄せたそのときの報告です。

                下條村見学記                     仙頭澄夫
99(平成11)年12月8日~9日、長野県の最南端下伊那郡下條村を視察見学する機会に
恵まれた。その見学記の大要を報告する。
(1)下條村の概要
 飯田市の南で中央道飯田から30分の位置にある山村で、面積37,66K㎡の約70%は山林
である。人口4,013人、1,118世帯、65歳以上は198人で全体の27%に当たる。要介護95
人(中度痴呆13人)である。(99年4月1日現在) 

(2)下條村で学んだもの
 ①宿舎で塩澤(村会議員・元村の保健師)さんの講話メモ
  *過去20年間に亘る村の歴史や村人の一人ひとりについて熟知している方であった。
  *80年に始まった「痴呆のない地域づくり」献身的な努力を傾けた様子が伺えた。
  *90年から10年間浜松医療センターの指導で、痴呆の早期発見、予防対策に村を挙げて
    取り組んだ。
  *具体的には、脳刺激訓練を通して「寝たきり」や痴呆にならないように努力した。
  *その過程で、早期痴呆の疑いのある男性はプライドが高くなかなか協力・参加が得られな
   かったが、根気よくお誘いした。
  ②第2日目の研修メモ
    省略

(3)まとめ
  *印象に残ったことは、参加者の一人ひとりが「ボケ防止のためにどうするか」の自覚を持
   っていきいきといろんなことに取り組んでいることであった。 
  *それをホローする行政やボランティアの方たちが一体となって努力し苦心している姿の感
   銘をうけた。
    二日間を通じ、大変有益な研修・見学であった。

10.「あなたが おやりなさい」
  下條村詣でが終わってもなかなか実践に踏み切れません。その主な理由は、指導し、且つ、
 受け止めてくれる専門医がいないということです。浜松方式では、先ず、「かなひろいテスト」を
 実施しますが、それは認知症の有無を判定するためで、すなわち診断です。従って、素人の我々
 が誤った結論を出したりした場合、いや、正しく実施したとして、もし認知症だと判明した場合、専
 門医のいないところでどうやって対応するか。困ってしまいました。
  何とか協力してくれる医師を探さなければなりません。近くの開業医のところへ行って訴えても
 「原因さえも定まっていないボケの予防など取り組みようがないではないか」と、取り合ってくれま
 せん。医師会長にも直接お願いしてみました。とても丁寧に聞いてくださいましたが、医師会には
 認知症専門の医師はいないので対応できない。それに、ボケ防止の会が法人格でも取っておれ
 ば協力できるのだが…、と言うことでした。それはもっともな話で、正体不明の集団の思いつきに
 付き合っておれないのはごく当たり前の話です。身の程を知って退散しました。
  そんな時、”灯台もと暗し”で一番頼りになるところを見落としていました。私自身が勤務していた
 病院の前院長です。現在は定年退職していますが、元は外国でも名の通った免疫学の権威でした。
 さっそく相談に行きました。すると先生は、自分は脳神経専門ではないし、そうでなくても現在体調が
 勝れないので手伝えないとのことでした。そして、「あなたがやればいいじゃないか」と言われる。
 「私がですか」不意を突かれた思いで反射的に聞き返しますと、「そうだよ。自分でやればいい」と先
生はまじめにおっしゃる。私は「はあ・・・出来ますかね」と小声で言ううと、「大丈夫だよ、おやりなさい」
と先生。私は心臓の鼓動が多くなっていくのを感じました。次の瞬間、“よし!じゃ自分でやるか”。そう
決心しました。しかし、どうやって・・・。

11.活動体制を整える
 1)活動主体
 「元気長寿を目指す会」
 2)名称
  会合の度に議論を重ねるのですが名案が出て来ません。私も寝ても覚めてもそのことばかり
 考えていました。「元気一番」とか「元気印」など思い浮かべるのですが、幼稚園募集のキャッチ
 フレーズか、お菓子のコマーシャルなどで見たようなものばかりです。
  ある朝目が覚めて起きがけに、ふと閃いたのが「元気塾」。これだ!嬉しくなって合う人ごとに
 持ちかけるのですが誰も感激を共にしてくれません。いつも親身に相談に乗ってくれる福祉セン
 ターの福本さんなら感心してくれるだろうと思っていたのに「なんだ、子供じみている」との酷評で
した。でも私はこの名称が気に入ったので、押し通すことにしました。「元気塾」の名称は他にない
 と思っていましたから。後日、特許でも取ろうかと冗談言いながらインターネットで検索したところ
 全国で2万余か所で使用されていることが分かりました。情報の大切さを痛感しました。
  元気塾の全国大会を開くと面白いと思うにですが・・・。
 3)目的
  ボケ防止、寝たきり予防を進める。しかしそれは手段であって目的ではない。人生の最終コー
 スである老年期を、自立していきいきと自分らしく生き、みんなと共に暮らす。そのためのトレー
 ニングと出合いの場とします。
 4)活動内容
  (1)脳刺激訓練
   頻度を月1~2回とする。下條村では月2回脳刺激訓練を実施しているが、東村山では高齢
  者の動線に合わせて複数個所作るので、利用者は進んで何回でも参加できる。人は好き好み
  や相性みたいなものがあるので、参加するのに選択肢が沢山あれば便利である。
  (2)健康増強のトレーニング
   足腰を強くするために軽体操のほか、ゲーム、踊りなどを実施する。  
  (3)くらし いきいき
   日常の暮らしの中で、各人が楽しんで取り組めるメニュー。例えば、趣味を生かして他の人を
   教えるとか、手芸、文芸をたのしむ。また、語り合って交流を深める。
  (4)ぼつぼつ学ぶ
   健康、暮し、癒やしなど、生活していく上で必要な知識、情報などの学習を進める。
  (5)効き目をみる:効果測定    
   元気塾でトレーニングしてどれくらいの効果があったかを検証する。アンケートなどを援用する。
 5)開設場所
  (1)地域
    小さな生活圏ごとに拠点を置き、コミュニティーの形成を図る。高齢者は動線が短いから
   遠くに行くのは困難であるので、必要とする人の近くで開設することで参加の機会の公平を
   期する。
 (2)地域の医療機関
   医療機関に特に思いを入れるのは、二つの効果が念頭にある。
  ①男子を引き込めないか、つまり男子の社会参加へのきっかけが作れないか、ということ。
   病院に来る者は当然ながら、自分の健康に思いが集中しているのであるから、「ぼける」とい
   うことには敏感であるはず。そこで働きかければきっと・・・。高齢者の社会参加促進はアプロ
   ーチの如何によるのかもしれないのだから。
  ②医療機関の地域化を促進出来できないか、ということがもう一つです。『21世紀を目指した
   今後の医療体制』について厚生省は「地域医療の充実が重要であることを踏まえ、地域にお
   いて住民の立場に立って適切なサービスの提供を行うため、各医療機関が他の保健・医療
   ・福祉サービスの供給主体との連携の下に、健康増進、疾病予防から治療、リハビリテーショ
   ン、さらに福祉サービスに至るまでの幅広いサービスを提供して・・・」行くようにすることを高ら
   かに歌い気ていますが(『日本の医療』厚生省健康政策局編集:中央法規)なんら実現の兆し
   はありません。ぜひ、私たちの手でその流れの端緒を築きたいものです。
12)元気塾発進!
  下條村見学で具体的イメージの共有もなり、企画書も承認されながら、なかなか実施への第一
 歩が踏み出せません。いざ、となると必ず慎重論がでて熱意をさまします。もう少し周知を図って
 からとか、始めたら後に引けないからとから、など。そして、こういう場合は慎重論は常に正論な
 のです。98年8月に始めた準備会からやがて2年になろうとしているというのに。  

  飛び出すことにしました。不都合が出れば戻ればいいではないか。チラ紙を作り、手分けして
 郵便受けに入れて歩きました。地域に明るい阿部さんは自転車で回りました。老人会長の仙頭
 さん老人会の関係者に配りました。
  そして、2000年6月3日13時30分、満を持して、しかし恐る恐る第1号「元気塾」が諏訪町で
 スタートしました。

 諏訪元気塾は、毎月第1土曜日ときまりました。ちなみに、会員内訳は、20代が3人、50代が6人、
60代21人、70代19人、80代13人で、計52人でした。

 
 













      






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