あけましておめでとうございます。今日から2011年です。

年賀状に、ブログのことを書いたので、数人の友人たちがブログを訪問してくれてるようで感謝です。実は私もブログの使い方が分からず、インターネットで無料ブログの作り方というのを見て、さっと作っただけです。とりあえず、昨年の「ひらひら」とプロジェクトJの報告をここに入れることにしました。

文章の一番下にcommentsという文字がありますので、そこにあなたの感想とか近況など書いてください。

ボケ防止になるかも。

あちこち大雪のニュースですが、こちらはいい天気。せっかくなので着物を着て、お出かけのつもりでしたが、バス停まで行ってガスストーブを消してないのに気が付き、「しんどい」と夫も言うもので、引き返してきたところです。

では、10月例会の報告です。
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本日のテーマは〈有島武郎〉だった。



担当の赤松さんから彼の経歴紹介。

 

1878年[明治11年]生まれ。父は、薩摩藩出身の大蔵官僚。弟に有島生馬や里見弴がいる。

学習院では、皇太子(後の大正天皇)のご学友に選ばれています。学習院を卒業すると、それまでの海軍志望をやめ、農学者になろうと札幌農学校に進学。母方の親戚でもある新渡戸稲造方に寄宿。そこで、クリスチャンになる。

 

1903年、25歳で渡米。1904年、日露戦争。ハーバード大学に学び、社会主義に傾倒。ホイットマンやイプセンを知る。1907年、アメリカの帰りにロンドンに立ち寄り、クロポトキンから幸徳秋水への手紙を預かる。1910年、武者小路実篤・志賀直哉らと「白樺」に参加。

 

1916年、37歳の時、3人の子供を残して妻が結核で死亡、同じ年に父も死亡したため、生活の大きな転機を迎え、本格的に文学者としての道を歩み出す。

〈カインの末裔〉〈クララの出家〉〈迷路〉「小さき者へ」〈一房の葡萄」〈惜しみなく愛は奪う〉など。代表作である「或る女」を発表したのは1919年である。

 

ロシア革命を知った有島武郎は、「有産階級の知識人」として苦悩し、44歳の時、北海道狩太村(今のニセコ町)にあった有島農場を小作人に解放。45歳の時、婦人公論記者で人妻であった波多野秋子と軽井沢の別荘で心中。

 

みんなで「宣言一つ」を読む。「・・第4階級の人々は・…生活の改造が実行のほかないことを知り始め、うごきはじめた。・・〉

 

学者や思想家が先導する時代は終わったのだ、そしてロシア革命の現実をみると・・第4階級から発しない思想によって成就された改造運動は、当初の目的以外のところに行って停止するほかないだろう・・

 

「或る女」の葉子は、作者自身である。自我の確立した女性が、周りの無理解と男女関係のゆがみと時代の制約のために、十分に自分の生を全うできなかった。参加者は、「若いころは葉子はすばらしい女性だと思ったが、今読むと何と嫌な人だろう」

 

プロレタリア文学が登場する前夜の、時代に誠実に生きようとして悩み苦しんだ知識人。

北海道のニセコには、彼の住んだ家が、記念館として公開されている。

 

「俳優の森雅之は彼の息子よ」と言っても知らない世代の赤松さんと、こういうことでもないと読まない昔の文学全集などひもといて、みんなでワイワイ語る楽しさを味わったと言う例会でした。

 

家に帰ってインターネットをチェック。宮本百合子は彼の告別式に列し、「・・・焼香も終って、じっと白花につつまれた故人の写真を見たら、思わず涙にむせび、声を押えることが出来なかった。彼の温容が心を打ったこと、並、人生の切なさ、恐ろしさ、平凡の底に湛えた切迫さ、真剣さを、一時に感じ、涙となった」を見つけた。彼女は「或る女」の葉子の愛と自立についても、いろいろと書いていた。

 

 

次回は賀川豊彦で、1111日です。

 

なお、来年はズバリ〈日本近現代史を読む〉(宮地正人監修・新日本出版社)を、そしてひらひら・10年目の再来年は(ジェンダー視点から戦後史を読む〉(米田佐代子編・大月書店)を1年かけて読んではどうかと考えています。皆さんのご意見お寄せ下さい。