その場に立つ

浦和興産株式会社・社長ブログ

新潟県な栃尾には3本の川が流れていますが、この豊かな清流が良質な米を生み、山間部には棚田も多く残っています。

また、養蚕、機織り(はたおり)、染色などの織物が盛んに行われ、江戸時代には『栃尾紬』

明治から昭和にかけては繊維産業として発展しました。


しかし繊維産業も海外との競争が激化して衰退していきます。


栃尾の町を歩くと、個人商店(だったと思われる)が数多く並び、立派な建物(おそらく銀行)も散見出来、昭和の時代に町が栄えた名残りを見ることが出来ます。

IMG_5170

町の商店街には、

『雁木(がんぎ)』と呼ばれる雪避けの屋根が連なっています。

雪国の商店街では雪避けの為のアーケードが良く見られますが(十日町市の駅通りなどは有名ですね)

IMG_5171

栃尾に来て、木造で作られたアーケード街を初めて見ましたが、鉄製のものと異なり、木の風情と温かみを感じました。

きっと雪の降る冬の季節に来てみると雪国らしい町並みがさらにいいでしょうね。


早朝にもかかわらず開けているお店がちらほらとあります。

そのどれもがお豆腐屋さん。

それもそのはず、

栃尾名物は『あぶらげ』

普通はあぶらあげと呼ばれ親しまれているおなじみのアレですが、

栃尾の方言では『あぶらげ』と呼ばれ、全国的には『栃尾の油揚げ』、『栃尾あげ』、『ジャンボ揚げ』などとも呼ばれているそうです。


店の前で『あぶらげ』を買い求める客が数人並んでいるお豆腐屋さんがありました。

『佐野豆腐店』

IMG_5176

店の軒先や駐車場で、

揚げたて熱々の『あぶらげ』を食べている人もいます。


そもそも、揚げたての油揚げをお豆腐屋さんの店頭で食べるという発想も習慣もなかったので恐る恐る、


「揚げたてのをください」

とオーダーをしました。


待つこと10分くらいでしょうか、揚げたての『あぶらげ』がやって来ました。


「デカい!」

今まで知る油揚げより遥かに大きいサイズと質感です。

熱々の『あぶらげ』にお醤油を垂らして口に入れます。

IMG_5177

「うまい!」

揚げたての衣はパリッとしていて歯応えがあり、中身のお豆腐(のようですがもう少ししっかりとした造りです)には、大豆の旨みを感じます。


さらにピリッと塩味の効いたお醤油が揚げたての衣と、ふわっとした中身にも絶妙に組み合わさっています。


「油揚げってこんなに美味しいものだったとは!

知らなかった!」


あまりにも美味しいので、もう1枚オーダーして、揚がるのを待つ間にお土産用の『あぶらげ』を買い求めます。


ちなみに佐野豆腐店さんは家族でお店を切り盛りしているようです。

お父さん、お母さん、若い息子さんと思われる3人が手際よく仕事を進めています。


「けれど、家に持ち帰っても、今この味は再現出来ないよなぁ」


と思いお父さんに尋ねると、お父さんは息子さんに声をかけ、

息子さんが教えてくれたのは、


「まず、電子レンジで軽くチンしてから、オープントースターでトーストするようにしてください。そうすると揚げたてのように美味しく食べられますよ」


秘伝?を佐野豆腐店さんから直々に聞き、店頭に小瓶に入ったお醤油があったので、どこの醤油か見ると長岡の醸造所で造られたものだったので、

「これが決め手」と思い買い求めます。


買い求めた『あぶらげ』をキャンピングカーの冷蔵庫に大切にしまい、家に帰ってからのお楽しみにします。


と思ったのですが、

家に帰る途中、我慢出来なくなって(笑)

キャンピングカーの中で(電子レンジもオーブントースターもあるしネギやショウガを刻んだものを冷蔵庫に入れてあった)

パリッと仕上げ、長岡産のお醤油を垂らして頂きました。

IMG_5196 2

「うまい!

油揚げがこんなに美味しいものとは知らなかったよ」


また新しい発見が出来たことをとても嬉しく思いました。

箕輪(みのわ)城は現在の高崎市箕郷(みさと)町にあり、今から500年ほど前に戦国時代の武将長野業正(ながのなりまさ)によって築城され、武田信玄の侵攻を幾度となく防ぎ、
“難攻不落の城“として知られています。
IMG_4088

現在の城跡は徳川家康家臣の井伊直政(いいなおまさ)が箕輪城主となった1590年から高崎城へ移る1598年までの在城中の姿が遺構として残り、国指定史跡に指定され、日本百名城の一つにも選ばれた、幾多の戦いを繰り広げて来た名城です。
 
IMG_3939

IMG_3937

「業正(なりまさ)がいる限り、上野(こうづけ)の国(今の群馬県)を攻め取ることは出来ぬ」
と武田信玄を悩ませたそうです。

信玄の侵略を防いだ戦いは6回とも9回とも云われていますが、箕輪城跡のあちらこちらに鉄壁ともいえる防御の仕掛けが見られます。

最大の見どころは、
“全国屈指の巨大空堀(からぼり)“です。
IMG_3940
特に本丸を取り囲む空堀は、
幅30〜40メートル‼︎、
深さ約10メートル(実際には現在の地表から7メートル以上深く、20メートル近い深さだそうです‼︎)
IMG_3933

 
IMG_3935

永禄4年(1561年)11年、長野業正は病の為に没し、17歳であった三男の業盛(なりもり)が家督を継ぎます。
業盛は父に劣らず武勇に優れていたそうです。
IMG_3915
父の死後、武田勢の攻撃を一度は撃退するも、永禄9年(1566年)、武田信玄が2万の大群を率いて侵攻。
業盛は懸命に抗戦しますが、ついに、本丸の北側にある“御前曲輪(ごぜんくるわ)“で、父業正の位牌を拝みながら、一族郎党と共に自害します。
 
IMG_3919
「春風に梅も桜も散り果てて名のみぞ残る箕輪の山里」
享年23歳、業盛辞世の句です。


IMG_3962
私の母である住江は、戦後“箕輪小学校“の先生をしていました。
 
IMG_3965
この箕輪小学校は開校150周年を迎えた歴史ある学校ですが、この箕輪小学校の裏手(北側)に箕輪城があります。
(校庭の奥に森のように見えるのが箕輪城です)
おそらく、先生であった母は子ども達を連れて、この箕輪城には何度も通ったと思います。
 
IMG_3971
私は小学校の裏手から通じる“観音さま口“からのルートも歩いてみました。

さらに進むと、
“木俣曲輪(きまたくるわ)に出て、視界が一気に広がりました。
IMG_4086


手前にはかつての城下町が並び、箕輪小学校も良く見えます。
そして、その先には、高崎や安中の市街、そして埼玉、東京へと関東平野が展開しています。
IMG_4087
この雄大な景色を若き日の母が見ていたと思うと感慨深いものがあります。

関東平野を扇に例えると、まるで要(かなめ)のようでもあり、戦国時代、いかに重要な拠点であったのか、ということを実感します。

舞鶴(まいづる)という優美な名の町は日本海に面した若狭湾の奥のさらに入江になったところにあります。
この日、冬の日本海は波も高く荒れていましたが、舞鶴の港はとても静かなものでした。

明治になると、日本海側唯一の軍港として整備され、海軍の重要な基地となります。現在も海上自衛隊の基地として活かされています。

港を見下ろす丘に『引揚記念公園』が作られ、その一角に『舞鶴引揚記念館』があります。

IMG_9407

エントランスからタイムトンネルをくぐると、そこでは引き揚げに伴う数々の苦難の歴史を知ることが出来ます。

『引き揚げ』という言葉や歴史が風化してゆく時代かもしれませんが、若いカップルや家族連れの方々がこの『引揚記念館』に足を運ぶ姿を見ると、明日の平和への希望となってゆくような気持ちとなりました。

IMG_3134



舞鶴という港町は、横須賀、呉、佐世保というかつて海軍があった町と同様の雰囲気を感じます。
しかし、横須賀や佐世保の町から受けるインターナショナルな感はなく、日本的な静かな佇まいを思います。


IMG_9409

この町には、
旧日本帝国海軍が建造した赤レンガ倉庫群12棟が今でも残り、これらは国の重要文化財及び近代化産業遺産の一つに数えられています。


IMG_3142

現在この赤レンガ倉庫群は、
『舞鶴赤レンガパーク』として広く一般に公開活用されています。映画のロケ地としてもお馴染みですね。
やはり倉庫という建物はいいですね。
好きです(笑)

InFrame_1718068099722

mai





↑このページのトップヘ