その場に立つ

浦和興産株式会社・社長ブログ

2013年12月


2013年も、あと僅か・・・

年の瀬で頭をよぎることは、年を重ねるごとに、私のまわりでも、亡くなってゆく方が増えてゆく・・・

それは、親戚のおじさんだったり、大学の恩師であったり、友人であったり、仕事を通してお世話になった方だったり、いわゆる、この世でご縁のあった方々が人生を終えて、現世では、もう会うことが叶わなくなる・・・これはとても寂しいことです。

さらに、子供の頃から親しんだ大横綱だったり、役者さんや歌手、映画監督に学者さん、さらには政治家だったり、名立たる実業家の方々と、今年も多くのかけがえのない人たちが逝ってしまいました。


そのなかに、作家の戸井十月(とい・じゅうがつ)さんがいます。
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彼もまた今年7月28日に亡くなりました。享年64歳でした。

戸井十月は「チェ・ゲバラ」に関する著作や「植木等伝」「小野田寛郎の終わらない戦い」などのフィクション、さらには「越境者」などの小説でも良く知られています。

しかし、それだけではなく、オートバイに跨がり、北米大陸一周旅行やオーストラリア大陸横断、アフリカ大陸縦断行、南米大陸一周行、そして60歳でユーラシア大陸3万キロを120日間かけて走破。さらには、メキシコで毎年開催されているオフロードレース「バハ1000」に日本人として最多出場している・・・ただの物書きではない、まさに走り行動する旅行作家、筋金入りの男のなかの男・・・そう、私にとっての戸井十月は憧れのヒーロです。
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ちなみに、彼は自身の原作「爆裂都市 BURST CITY」に出演したり、高橋伴明監督の「狼」では主演もしています。さらに「風の国」(主演・三浦友和)では脚本と監督を務めている・・・多芸多才な人です。



3年前の2010年、NHK BS「プレミアム8」で『戸井十月 ユーラシア横断3万キロの旅』として全4回で放映されました。
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戸井十月がユーラシア大陸を横断したのは、2009年7月から11月にかけて・・・このとき、彼は還暦を迎えた60歳でした。

ポルトガルのロカ岬を出発し、スペインのバレンシアからフランスのコート・ダジュールを抜け、イタリアのリビエラへ地中海の海岸線を走る。

そして、イタリアを横断してアドリア海へ、さらにヴェネツィアからスロヴェニアへ、

「これから先は、言葉も文字も未知の領域である・・・」バイクに跨がりながら戸井十月が喋る。それって、自分もおんなじ!・・・自分にも未知の世界だ!(バルカン半島から先は・・・)

この時から、この番組を通して、戸井十月の未知へのユーラシア大陸バイク旅と道端の風景やそこに生きる人々に見入ってしまいました。

毎週、この番組を心待ちにしたものです。
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1997年から2009年までの12年をかけて5大陸を走破した戸井十月。2011年の4月に肺がんが見つかります。

この時のがんの状態は「ステージIIIb」5年生存率は40%

その彼が、聖路加病院で抗がん剤治療を4か月。
肺への放射線照射を33回行ない、その年の11月、メキシコのオフロードレース「バハ1000」に出場します。

肺がんの宣告を受け、抗がん剤治療を行い、7か月後には、非常に過酷なレースとして知られている「バハ1000」原野のレースに挑む・・・しかもこの時、彼は63歳です。

このレースの様子はNHK BS「旅のチカラ 再び原野へ 戸井十月メキシコの砂漠を走る」で放映されました(2012年2月)
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右から2番目が戸井十月です。スタート前の試走で転倒し左腕を骨折しています。

しかし、一体何が、彼を困難な道へと駆り立てるのでしょうか?

そんな秘密に迫りたくて『道、果てるまで』(戸井十月著 新潮社)を読んでみました。
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いやあ面白い!!一気に読んでしまいました。

ユーラシア大陸横断3万キロ 120日間の日々をベースに、これまでの4大陸10万キロの様子や記憶を戸井十月が綴ったものですが、さすがに旅する行動作家の面目躍如ぶりがたっぷり詰まっていて、とにかく面白い。

BSで放映された『戸井十月 ユーラシア横断3万キロの旅』も夢中になって見ましたが、『道、果てるまで』は、さらに深く私の心に入り込んできました。

この本の中に戸井十月のお父さんのことが良く出てきます。
「シベリアで父と出会う」の章がありますが、彼に大きく影響を与えた父 亡き戸井昌造と一緒に旅行をしている様子がよく判ります。つまり、彼は常に父親と時空を超えて一緒に生きているところに、とても好感がもてます。

イランを旅する際のガイド役を引き受けてくれた「不真面目なイラン人」メヘディ。
中国のガイドを務めた宗さんと趙さん・・・あたりまえのことだが、国家の政治体制がどうであろうと、国の状態がどんなであろうと、その国の道端で暮らす生身の人間たちは素晴らしい、と言うことを教えてくれる。

そして、天山山脈を越える時。
この長い旅の中でも、最も困難な箇所です。
峠越えの道は標高3000メートルを越え、ついにアイスバーンへ。
空気も薄い中を重量約250キロのバイクを一歩一歩転ばぬように押してゆく・・・

戸井十月は、この困難な中でふと、91歳の日本画家 堀文子さんの言葉を思い出す。

「このまま前に進んでいいかどうか自信が持てなかったり迷ったりした時は、自分の一番大切なものが入っているカバンを、とりあえず前に投げなさい。カバンを取り戻すためには歩いてそこまで行くしかないから、否が応でも前に進むでしょ。そうやって進んでいけばいいのよ。
 私はそうやって生きてきました。あなただって、そうやって生きてきたんでしょ。これからも、そうやって前に進んだらどうかしら。どうせ誰が何を言ったって、自分の道を行くのに決まっているんだから」

この言葉の生き方が、がんになった戸井十月をレースに駆り立てたのに違いない・・・

彼にとっての、決定的な体験は1984年 35歳で初めて「バハ1000」に出場し、コースを見失いバイクはガス欠。無人の原野に一人置かれた時の恐怖と絶望感。

長い夜を過ごし、翌日は日の出から日没まで、およそ50キロの砂漠を歩いて生還した。

つまり、このバハの原野での絶望からの生還を、自身のがんとの戦いに重ねたのだと思う。

彼にとって、「バハ1000」オフロードレースへの出場こそ、もう一度生きる道だったのだろうと思う。

それにしても、戸井十月はいいなあと思う。非常な困難に直面したときに浮かんでくるのが、女性の言葉。

意外かも知れないが、タフな男というのは案外、女性の一言に心を動かされるものなのだよね(笑)
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実は私も今年、還暦を迎えました。
いつにも増して、心身ともにいろいろなことがあり、結構打ちのめされたりして、これからどう生きるのか?なんて考えることも多い年でした。

でも、私も一番大切なものが入ったカバンを、少しだけ前に放り投げて、それを一歩一歩取りに行こうと思っています。

まあ、そうやって生きてきたんだから。

まだやるぞ。



最後に『道、果てるまで』のエピローグから戸井十月の言葉を引用します。

『もっと現実の世界を直接見たい。生身の人間たちと直接出会いたい・・・。未知の世界を知れば知るほど、もっと知らない世界があることを知らされる。だから、旅をすればするほど旅への想いは募っていく。旅とは、そういうものだ。
 お手軽に、要領よく世界の現実を知る方法など一体あるのだろうか?
 異なる歴史と文化の中で生きる人間たちと、手っ取り早く、スマートに出会って理解し合う方法などあるのだろうか? 
 テレビのコメンテイターに何秒かでまとめられてしまうほど、世界と人間は単純で薄っぺらなのだろうか?
 悪戦苦闘の挙げ句にささやかな、しかし確かな現実と希望とに出会う体験、それが旅だと私は思う。それを信じて、私は私の旅を続けるつもりだ。
 五大陸をバイクで行く旅は終わったが、もちろん私の旅が終わったわけではない。旅とは、私にとって生きることと同意義であり、生きることそのものだ。生きていながら旅をやめるなどということはあり得ない。

 堀文子さんは、よくこう言う。
 「私たちは、死ぬまで生きているのよ」

 だとしたら、死ぬまで旅を続けよう。父が、そうしたように。たとえそれが壮大な無駄であったとしても、犬も笑うような徒労であったとしても。

 チェ・ゲバラが、南米大陸を回って北米に向かうという、人生で始めての大旅行に向かう時、日記にこう書いた。
 「こうして僕らの大旅行計画は始まった。大雑把な旅程は立てたが旅の途中では何が起るかわからないので、結局、後は野となれ山となれということになった。
 その時の僕らは、その旅が意味するもののすべてを理解していたわけではなかった。僕らに見えていたのは土埃と、オートバイに跨がって北へ北へと走り続ける自分たちの姿だけだった」

 その時23歳のゲバラが日記に託した心情が、そのまま62歳の私の気持ちを代弁してくれている。歳の割には幼いかも知れないが、私はそのことにむしろ誇りを持っている。

 五つの大陸を旅した先にも道はあるかって?

 もちろん、あるさ。』

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ターナー1

1775年4月、ジョゼフ・マロード・ウイリアム・ターナーはロンドン中心地のコヴェント・ガーデンで生まれた。時はイギリスで産業革命を迎えた18世紀末。

父親のウイリアムは腕のいい理髪師で店は繁盛していた。

父は、まだ子供だったジョゼフの描いた絵を洗濯ばさみで挟み、理髪店の窓に誇らしげに吊り下げてあったという。周囲の人々は、ターナー家の息子の画才に気がついていた。

ターナーが12歳くらいになると、父親は絵の好きな常連客に、息子は将来画家になるだろうと話をするようになった。
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ターナー少年12,3歳頃の作品「南西より望むオックスフォード」


ところが、当のターナーは、将来は建築家になろうとしていたらしい。

やがて、舞台背景画家の「トマス・モールトン」(ターナーは後に「私の真の師匠」と呼んでいる)と建築家トマス・ハードヴィックは、そろって14歳の少年の目を建築から遠ざけ、ロイヤル・アカデミー(英国王立美術院)へ向けさせた。

売り物として掛けてあったターナーの絵を何枚か見ていた理髪店の顧客の口添えもあり、14歳のターナーはロイヤル・アカデミーの美術学校へ見習生として入学する。




上野公園内にある東京都美術館へ『ターナー展』へ行って来ました。

『ターナー』と言えば英国では最も人気のある画家と聞きます。

そのターナーが遺言により、2万点以上の作品を国に寄贈し、そのほとんどの作品がロンドンの「テート美術館」のターナー専用の展示棟「クロア・ギャラリー」に収蔵されています。

今回は、そのテート美術館のターナー作品コレクションから、約30点の油彩画と約110点の水彩画やスケッチが海を渡ってきました。
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「月光、ミルバンクより眺めた習作」1797年 ターナー22歳の油彩画です。ロンドンに生まれ育ったターナーにとってテムズ川はいつも目にしている風景。入場してすぐにありました。美しい絵です。

この絵もそうですが、偉大な先人たちの画風を踏襲し伝統的なスタイルを大事にしているようです。

彼は、生涯を通じて風景・・・英国の牧歌的な風景や海洋画(ターナーは海と海に生きる人々を描きつづけた)、ヨーロッパ大陸を回って描いた風景や自然の崇高な厳しさを描いています。
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「湖畔の家、木立と羊の群れ」1805年

ターナー海洋
「嵐の近づく海景」1803−04年

やがて、彼の画風も変化を始めていきます。

もともと、水彩画から出発しているターナーは、大気や光を水彩画の色で描こうとします。
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「にわか雨」1820ー30年頃

ターナー城
「城」1820−1830年頃

そして、油彩でも研究は続く
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「三つの海景」1827年頃
この絵は一枚のカンバスに3種の絵が描かれている。いづれも海と空の色の重なりを描こうとしているようですね。(一番上の絵は海と空が逆になっているのが判りますか?)


ターナー日の出
「日の出」1835-40年頃の水彩画です。

海に陽がのぼる夜明け、大気と海の色が刻一刻と変化をしてゆく・・・ターナーは水彩を用いて、今、目の前に目撃した光景を素早く描いたのではないでしょうか?

描いた対象は形態ではなく、光と色の変化と美しさ。

そう、ターナーは後年の「印象派」の先駆けになったように思えます。

今、ちょっと調べてみたのですが、フランス印象派の巨匠『モネ』はこの頃1840年に生誕です!

というのも、このターナー「日の出」とモネのあの有名な「日の出」は、私にとっては、とても近いものを感じさせます。これを見た時に思わず「ドキッ!」としました。

ちなみに、モネの「日の出」は1872年の作品で、1874年の展覧会で「印象派」の名が与えられます。 


ターナーの凄いところは、伝統的な技法で詩や文学、歴史を取り入れた風景画を描く一方、産業革命で生まれた蒸気船や蒸気機関車をまた風景の一部として取り入れています。それもまた、新しい画法で描こうとしているように思えてきます。

ターナー晩年の傑作「雨、蒸気、速度ーグレート・ウエスタン鉄道」1844年と「吹雪 港の入口の沖合の浅瀬で信号を発し測錘で水深を測りながら進む蒸気船。エアリアル号がハリッジを出発した夜、作者はこの嵐のなかにいた」1842年(長いタイトルですね)は、今回の展覧会には来ておらず、残念ながらお預けですが・・・特別に!!
ターナー吹雪
「吹雪 港の入口の沖合の浅瀬で信号を発し、測錘で水深を測りながら進む蒸気船。エアリアル号がハリッジを出発した夜、作者はこの嵐のなかにいた」1842年油彩画

長い題名ですが、このタイトルを読むと、この絵の絵が描かれている状況が見えてきます。

荒れ狂う海、三角波が凄まじい勢いです。必死に進む蒸気船エアリアル号からは蒸気機関の煙が狂おしく登っています。照明弾でしょうか?救援信号が上がっているようにも見えます。

この時、ターナーは60歳を過ぎていましたが、船のマストに身を括り付けて観察したそうです!!

それにしてもこの絵、静止画には思えない・・・動きを感じませんか? もう一度、良く見てください。

私は、この作品は絵というより映画のワンシーンのように思えます。

『ジョゼフ・ターナー』
まだ、印象派すら現れていない時代に伝統的な絵画から出発して、後の印象派や抽象画にも通ずる表現を生み出し、さらに動画的な描き方まで行き着く研究と努力。そして先進性・・・私は凄い人だと真に思います。

この展覧会で、私の一番のお気に入りを・・・
ターナー8
「平和・水葬」1842年 ロイヤル・アカデミー出展品 油彩

この作品も展示会場で見たときに、とても強い衝撃を受けました。この絵で蒸気船の船体とマスト、そして立ち上る煙が漆黒で描かれ、見る者に強い印象を与えます。

そして最後に、ターナー愛用の金属製の絵具箱を
ターナー絵の具
1840年代にチューブ入りの絵具が発明されるが、新しいものに惹かれるターナーらしく、クローム・イエローのチューブが見えます。

ターナー いいです。











 

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